三鷹事件

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三鷹事件
Mitaka Incident.JPG
7月16日の現場の様子
場所 日本の旗 日本東京都北多摩郡三鷹町
日付 1949年昭和24年)7月15日
死亡者 6
負傷者 20
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三鷹事件(みたかじけん)は、1949年昭和24年)7月15日日本東京都北多摩郡三鷹町(現:三鷹市)と武蔵野市にまたがる日本国有鉄道中央本線三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件。詳しい事は不明で、同時期に起きた下山事件松川事件と並ぶ国鉄三大ミステリー事件の一つとされる。

事件概要[編集]

現場を三鷹駅ホームから見る人々(1949年7月)

事件の発生とその背景[編集]

連合国軍占領期の1949年(昭和24年)7月15日午後9時23分(当時は夏時間のため現在の午後8時23分)に、国鉄三鷹電車区(現・JR東日本三鷹車両センター)から無人の63系電車4両を含む7両編成が暴走。三鷹駅の下り1番線に進入した後、時速60km程のスピードで車止めに激突し、そのまま車止めを突き破って脱線転覆した。

これにより、脱線転覆しながら突っ込んだ線路脇の商店街などで、男性6名(45歳、21歳、54歳、58歳、19歳、40歳)が車両の下敷となり即死。また負傷者も20名出る大惨事となった。

当時、国共内戦中国共産党の勝利が濃厚となり、日本の国政でも日本共産党が議席を伸ばしており、共産化を警戒するGHQの下で、その後始まるレッドパージの動きを先取りするように、共産党員やその支持者が当時多かった国鉄の、人員整理が進められている最中に起きた事件であった[1]

捜査・裁判[編集]

捜査当局は、共産党系の勢力による組織的な犯行である可能性を想定した。本鉄道事件の動機として、1949年(昭和24年)8月国鉄労働組合(国労)組合によるストライキを計画、共産革命を狙う政治的な共同謀議による犯行容疑により、組合員の日本共産党員10人と非共産党員であった元運転士[注釈 1]の竹内景助を逮捕した。そのうち、共産党員1人についてはアリバイが成立したため、不起訴として釈放されたが、残りの共産党員9人と竹内が起訴され、さらに2人が偽証罪で起訴された[2]

1950年(昭和25年)東京地方裁判所(鈴木忠五裁判長)は、非共産党員の竹内の単独犯行として往来危険電車転覆致死罪(刑法127条、125条1項、126条3項、同条1項)により無期懲役判決を下す一方、共同謀議の存在を「空中楼閣」と否定し他を無罪とした[注釈 2]。一審判決で竹内が死刑ではなく無期懲役とされたのは、解雇されたことへの反発があったこと、計画性がなかったことと人命を奪うという結果を想定していなかったことが情状として挙げられた。後の歴史家が注目した、犯行時間とされた時間帯に同僚と風呂に入っていたというアリバイ証言において、検察側は同僚の証言は竹内が主張する時間より遅かったとしてアリバイを崩す姿勢を見せていたが、弁護側は何故か同僚の証言を関連性なしという理由で証人要求を拒否するなど不可思議な行動を取っている。

一審で6人を死亡させたと認定された竹内への無期懲役判決に対しては、読売新聞毎日新聞産経新聞などのマスコミ被害者や遺族の意見などを紹介して批判した(朝日新聞は竹内への無期懲役判決に肯定的見解を示していた)。これに対し検察は、全員の有罪を求めて控訴上告したが、竹内以外については無罪が確定した。竹内の控訴審で東京高等裁判所(谷中董裁判長)は、1951年(昭和26年)、竹内についてのみ検察側控訴を受け入れ、書面審理だけで一審の無期懲役判決を破棄し、より重い死刑判決を言い渡した。

最高裁へ詰めかける支援者たち

弁護人は、無罪の主張とは別に、被告人の顔も見ぬまま死刑に変更することの非道も訴えて、最高裁判所に上告したが[4]、最高裁では口頭弁論も開かれないまま、1955年(昭和30年)6月22日に死刑判決が確定した。ところが、これが8対7の1票差であったため物議を醸した[1][注釈 3]。以後の最高裁の死刑上告審理では口頭弁論を開くことが慣例となった。

竹内は無実を訴え続け[5][6][7]、死刑判決後[8][9]文藝春秋誌に[10][11]陰謀説を訴えるなど投稿をする[12]東京拘置所内で脳腫瘍に伴う激しい頭痛を訴えていたが、拘置所側は拘禁症状であるとしてこれを無視し、適切な治療等を行われないまま[13]1967年(昭和42年)、脳腫瘍のため45歳で獄死した[14][15]。竹内の死後、国は遺族に国家賠償請求に基づき慰謝料を支払っている[16]。再審請求については異議申立が棄却されたことに対する特別抗告は1968年に棄却される[17]

竹内の供述は無実、単独犯、複数犯など様々な変遷を重ね[1]、最高裁まで7回変更となった。

事件については、当時の当該車両に取り付けられていたMC1A形マスター・コントローラーは、錠を解除しないと操作できず、錠を針金で開錠出来るのか否かという問題、またデッドマン装置(MC1Aマスター・コントローラーは、手を放すと、ハンドルが「ニュートラル」の状態に戻ってしまうデッドマン機構があった)を、片手だけで紙紐によって固定して機能を殺したとされているが、それが可能なのかという問題、速度固定のために使われていた紙紐がコイル巻きになっていたが竹内に結べるのかという問題、事件発生当時に停電中の暗闇の中で事件現場近くを歩く竹内を目撃したとする後輩の証言の信憑性、前述の犯行時間とされた時間帯に元同僚と風呂に入っていた証言などのアリバイ、解雇されたことへの反発とする動機について、竹内自身は「人員整理を受け入れて、退職金を受け取ることを決め、労働運動から降りていた」ことなど、様々な疑問点があり、それらに関連する証拠について検証・整理した書籍が出されている。

2011年(平成23年)11月10日、竹内の長男が、2回目の再審請求を申し立てた[18]が、2019年(令和元年)7月31日に東京高等裁判所(後藤真理子裁判長)は再審開始を認めない決定をした[19]

事故車両[編集]

事故車両のうち、先頭車のモハ63019は証拠物件として東京地方検察庁から保全命令が出された。長年にわたり車籍を保持したまま三鷹電車区に鉄骨のみの車体が保管されていたが、保全命令が解除されたため1963年(昭和38年)12月に除籍(廃車)となり、解体処分された。2両目のモハ63057は廃車となったが、西武鉄道に譲渡され、401系として再生された。他の車両は復旧された。

その他[編集]

  • 1949年(昭和24年)7月15日に三鷹駅で大事件が起きるという噂が警察関係で語られていたとの指摘が存在する。暴走電車によって大破した三鷹駅前の交番には4人の警察官が勤務していたが、事件時は交番を留守にしていたため4人全員が助かっていたことなどが傍証としてあげられている[20]
  • その他、中野電車区で「今夜、三鷹駅で共産党が大事故を起こす」という噂が流れていたとの証言[21]、事故直後に三鷹駅前の広報放送で、「この事故は、共産党員が関係しているとみられます。(以下略)」との放送が流れたという証言[21]、事故発生直後にヤクザ風の男20から30人の一団が、駅前広場に駆け出てきて、現状保存のため手際よく縄を張って、「これは共産党の仕業だ」と吹聴したという証言[22]、アメリカ軍MPのジープが素早くやって来て、事故現場周辺の人々を「ゲッタウエイ」と追い出したという証言[22]など、いくつかの不可解な動き、特に共産党員の犯行であるかのように印象づける操作が見られたとされる。
  • 竹内は、再審請求補充書[23]で「弁護士から、罪を認めても大した刑にならない、必ず近いうちに人民政府が樹立される、ひとりで罪を認めて他の共産党員を助ければ、あなたは英雄になると説得された」と主張している。また、竹内と面会した加賀乙彦は、竹内が「おれは弱い人間なんですね。弱いから人をすぐ信用してしまう。党だって労組だって、大勢でお前を全面的に信用するといわれれば、すっかり嬉しくなって信用してしまった。(略)けっきょく、党によって死刑にされたようなもんです。」と語っていたと述べている[1]

参考文献[編集]

発行順

  • 小松良郎『三鷹事件』三一書房、1967年。
  • 松村高夫『どこまで解明されたか』三鷹事件再審を支援する会。
  • 堀川惠子『教誨師』講談社、2014年、54-67, 183-187。ISBN 4062187418。

関連資料[編集]

著作者順

  • 片島紀男『三鷹事件 1949年夏に何が起きたのか』日本放送出版協会、1999年、ISBN 4140804408[24]。のち新風社〈新風舎文庫〉、2005年。
  • 亀井勝一郎他『竹内景助の助命嘆願について』、1958年。
  • 高見澤昭治『無実の死刑囚 三鷹事件竹内景助』日本評論社、2009年。9784535517202
  • 高見澤昭治、大石進、五十嵐二葉 (2010年)「検証 冤罪はこうしてつくられた(上)『無実の死刑囚--三鷹事件 竹内景助』をめぐって」、『法と民主主義』第446号、55-69頁。
  • 高見澤昭治、大石進、五十嵐二葉 (2010-04)「検証 冤罪はこうしてつくられた(下)『無実の死刑囚--三鷹事件 竹内景助』をめぐって」、『法と民主主義』第447号、66-80頁。
  • 竹内景助『春を待ついのち :まさ子におくる手紙』、平井潔 (編)、青春出版社〈青春新書〉、1956年。
  • 『下山・三鷹事件の眞相』、日本共産党教育宣傳部 (編集)、中央書籍(発売)、1949.8
  • 『「三鷹事件」裁判関係資料集 DVD-ROM版』、不二出版。
  • 梁田政方『三鷹事件の真実にせまる : 1949.7.15』、光陽出版社、2012年。
  • 横谷武男、田代勇「三鷹事件」『法にふれた人』谷川健一鶴見俊輔村上一郎 (責任編集)、第10巻、学芸書林〈ドキュメント日本人〉、1969年1月。

脚註[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 事件直前に国鉄を解雇されていた竹内は食料品の販売で生計を立てていた。
  2. ^ 『法律時報』1950年10月号別冊附録に判決文他がまとめてある。「三鷹事件判決全文」に続き、「理由」(2-130頁)に「第一 被告人竹内景助に関する部分」(2-29頁)、「第二 被告人飯田七三、同清水豊、同外山勝将、同横谷武男、同田代勇、同宮原直行、同伊藤正信、同喜屋武由放、同先崎邦彥に関する部分(29-130頁)を掲載[3]
  3. ^ 判事のうち田中耕太郎齋藤悠輔岩松三郎入江俊郎霜山精一井上登河村又介および本村善太郎の8人が上告棄却(死刑確定)、真野毅栗山茂小谷勝重藤田八郎谷村唯一郎島保および小林俊三の7人が破棄差し戻し(死刑判決の審理やり直し)をそれぞれ主張した。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 堀川惠子『教誨師』講談社、2014年、54-67, 183-187。ISBN 4062187418。
  2. ^ 竹内景助、橫谷武男、田代勇、宮原直行、淸水豐、外山勝將「独占発表 三鷹事件六被告の手記」『世界評論』第5巻第1号、1950年1月、 94-117頁、 doi:10.11501/3556894
  3. ^ 「別冊附録;10月号」『法律時報』第22巻10 (245)、日本評論社、東京、1950年10月1日。
  4. ^ 三鷹被告団一同対策委員会「判決に対して訴える」『部落』第67号、部落問題研究所、京都、1955年8月、 19-20頁、 doi:10.11501/2800417
  5. ^ 竹内景助、佐多稻子「往復書簡 無実の眞実のために日本の動向を支配するもの」『新日本文学』第8巻第2号、新日本文学会、1953年2月、 72-74頁、 doi:10.11501/6078886
  6. ^ 竹内景助「〝わたしは無罪だ〟」『新しい世界』第68号、日本共産党出版局事業部、1953年6月、 82-86 (0043.jp2)、 doi:10.11501/3542949
  7. ^ 竹内景助「人間の真実を守つて」『部落』第67号、部落問題研究所、京都、1955年8月、 16-19 (0010.jp2)、 doi:10.11501/2800417
  8. ^ 竹内景助、緑の会編集部 (編)「これが日本の裁判か」『人生手帖』第5巻第11号、文理書院、東京、1956年11月、 34-39頁、 doi:10.11501/1775583
  9. ^ 佐々木守雄「「私は絶対やっておりません」--三鷹事件の竹内景助氏と会って」『労働法律旬報』、旬報社、1956年12月、 16-19 (0009.jp2)、 doi:10.11501/2819483
  10. ^ 竹内景助「おいしいものから食べなさい」『文藝春秋』第35巻2 (205)、1957年2月、 212-224頁、 doi:10.11501/3198099
  11. ^ 『文藝春秋』。
  12. ^ 竹内景助「三鷹事件と私」『文藝春秋』第49巻第12号、1971年9月、 88頁、 doi:10.11501/3198301
  13. ^ 秋元寿恵夫「竹内景助氏の独房における健康と環境衛生の鑑定書」『医学評論』第32号、新日本医師協会、東京、1967年8月、 37-42頁、 doi:10.11501/3383907
  14. ^ 「死刑囚・竹内景助遺族の痛憤--三鷹事件ただ一人の有罪者が突然獄死するまで」『週刊文春』第9巻5 (404)、1967年2月、 26-29頁。
  15. ^ 竹内まさ子「本誌独占〝三鷹事件〟竹内景助未亡人の手記」『新評』、新評社、東京、1967年4月、 46-56 (0025.jp2)、 doi:10.11501/1808054
  16. ^ 松村高夫, p. 49.
  17. ^ 「昭和四三年(し)三四 再審請求事件についてした異議申立棄却の決定に対する特別抗告|申立人(弁護人)小沢茂外一九名 |再審請求人(竹内景助)一一・二九 二 棄却 東京高」『最高裁判所裁判集』刑事 169(昭和43年10月-昭和43年12月)、573 (0295.jp2)。doi:10.11501/1349097
  18. ^ “三鷹事件、44年ぶりに再審請求 元死刑囚長男が東京高裁に申し立て”. MSN産経ニュース. (2011年11月11日). オリジナルの2011年11月12日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111112000505/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111111/trl11111100120000-n1.htm 2013年11月9日閲覧。 
  19. ^ “三鷹事件、再審開始認めず 竹内元死刑囚、東京高裁”. 共同通信. ヤフーニュース. (2019年7月31日). https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190731-00000094-kyodonews-soci 
  20. ^ 小松良郎 1967, p. 10.
  21. ^ a b 松村高夫, p. 14.
  22. ^ a b 松村高夫, p. 15.
  23. ^ 福田玲三『労働研究』第358号、労働運動研究所、1999年8月、 47頁、 doi:10.11501/1817140
  24. ^ 志保田行「本の紹介| 片島紀男著「三鷹事件」」『労働研究』第358号、労働運動研究所、1999年8月、 47 (0025.jp2)、 doi:10.11501/1817140

関連項目[編集]