上条定憲

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上条定憲
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文5年4月24日(1536年
別名 憲定、定兼、通称は:弥五郎
戒名 常泰泰林永安
官位 播磨守
主君 上杉定実
氏族 上条上杉家
父母 父:上杉房実[1]
兄弟 上杉定実[2]、定明、
積翠院伊達尚宗正室)、定憲

上条 定憲(じょうじょう さだのり)は、戦国時代武将上条上杉家当主。越後国上条城主。

略歴[編集]

上杉房実の子とされる。

越後守護上杉房能を倒した新守護の上杉定実長尾氏と敵対し、永正6年(1509年)の上杉顕定の越後侵攻に際しても長尾為景に敵対した[3]。以後は守護・上杉定実に一貫して忠誠を尽くし、守護を傀儡化した長尾為景との抗争を続ける。永正10年(1513年)9月に宇佐美房忠[4]が小野城で挙兵し、上杉定実ら守護方と為景の間で抗争が勃発すると定憲も定実に応じて挙兵した。しかし10月下旬には定実は為景によって幽閉されてしまい、翌11年正月の上田荘六日市の合戦でも守護方が大敗。同年5月には房忠も岩手城で自害に追い込まれ、定憲自身は目立った動きに出ることが出来ないまま抗争は終結した。

この後しばらく越後国内の政情は小康状態が続くが、享禄3年(1530年)に定憲と為景の間で抗争が勃発した。為景はこの原因を大熊政秀[5]が定憲と為景の間を色々と「申し妨げた」ためと釈明している。しかし幕府を後楯にしていた為景を前に、揚北衆といった国人や上杉一門にも定憲に加担する勢力は少なく、12代将軍足利義晴の手引もあり翌年には収束した。

しかし、享禄4年(1531年)6月に為景が後楯としていた幕府の有力者細川高国大物崩れで自刃し、天文2年(1533年)9月には両者間で「再乱」が生じる。このとき定憲(定兼)は、上田長尾氏や揚北衆など国内勢力に加え、会津蘆名氏出羽国砂越氏といった国外の勢力も味方につけることに成功し、為景方への攻勢を強める。天文5年(1536年)4月10日には三分一ヶ原合戦で大敗するも、8月に為景を隠居に追い込んだ。その後の動向は不明であるが、一部史料[6]によると、同年のうちに死去した可能性が高い。

諸系図では甥[7]に定明・頼房らの名前がみえる。また、定兼を定憲の弟に置く系図も見られる。また、上条上杉氏は上条政繁が継いだとされる。

脚注[編集]

  1. ^ あるいは孫、上杉顕定の子とする説もある。
  2. ^ 異説有り。
  3. ^ このときはのちに寝返って顕定を敗死に追いやったとされる。
  4. ^ ふさただ、定満の父。
  5. ^ 朝秀の父。なお、片桐昭彦は大熊政秀を寛正年間に高梨氏に追われて没落した信濃国高井郡の国衆・大熊氏の末裔と推定し、高梨氏の縁戚である長尾為景とは不仲であったと推測する(片桐昭彦「房定の一族と家臣」(『上越市史通史編2』第3部第1章第2節(上越市、2004年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第二二巻 関東上杉氏一族』(戒光祥出版、2018年)ISBN 978-4-86403-269-8) 2018年、P249-251参照)。
  6. ^ 高野山清浄心院の「越後国供養帳第一」には天文5年卒とある。
  7. ^ または弟。