上田次朗

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上田 次朗
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県田辺市
生年月日 (1947-07-06) 1947年7月6日(73歳)
身長
体重
176 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1969年 ドラフト1位
初出場 1970年4月16日
最終出場 1982年7月31日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 阪神タイガース (1983 - 1987, 1989 - 1994)

上田 次朗 (うえだ じろう、1947年7月6日 - )は、和歌山県田辺市[1]出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者評論家

縁起を担いで3回にわたって登録名を変更したことでも知られている[2]1970年上田 二郎1971年から1976年上田 二朗1977年から1978年上田 次郎登録名とした。

経歴[編集]

プロ入りまで[編集]

田辺の海岸近くで育った子供の頃は悪童で、一つ間違うと命に関わるような失敗が結構あった。小学5年生の頃に田辺湾へ釣りに行った時、岸壁にとめてあった小さな船に飛び乗って遊んでいると、いつの間にか結んであったロープがほどけてしまう。よく船で遊んでいたので櫓を漕ぐことはできたが、潮の流れが速く、湾の外まで流された。夕暮れになり、2歳上の姉が夕飯の用意ができたことを知らせに来ると、私の姿はなく、釣り道具だけが残されていたので大騒ぎになった。その頃、私は船上で泣き疲れて眠っていて、運良く通りかかった漁船に救助された。上田は姉3人、兄と妹各1人の6人兄弟の5番目で、父はサンケイ新聞田辺通信部に長く勤め、当時は県内の橋本通信部に単身赴任中であった。家に帰ると4歳上の兄に蹴られ、殴られた。海での失敗はこれだけではなく、飛び込んだ時に、丁度流れてきた丸太で額を切ったり、底に沈んでいた一升瓶の破片が右太ももの付け根に刺さったりしたこともあった[3]。陸でも土手の上からゴザをソリ代わりにして滑り降りたとき、ポーンと弾んで肥溜に胸のあたりまではまってしまった。「助けて!」と叫んでも友達は近寄らず、農作業をしていたおじさんやおばさんに引っ張り上げてもらい、川で体を洗って裸のまま家に帰りました。それだけでは終わらず、友達に学校で言いふらされて、1週間くらいは「臭い、臭い」とからかわれました[3]。子供の頃の遊び場は自然がたっぷりの海と山で、野球はクラブ活動でやっていましたが、プロ野球に興味は無かった。小学6年時の1959年には天覧試合が行われるが、「そんな事があったのか」と後になって知りました。当時は野球より、月光仮面透明人間力道山プロレスに熱中していた。本格的に野球を始めたのは中学に入学した1960年で、3年次の1962年に同級生の室井勝が大洋のテストに合格。上田にとって初めてのライバルであったので、「頑張ればプロ野球選手になれるんだ」と意識し、流石に悪さはしなくなった[3]

中学卒業後の1963年南部高校へ進学し、エースとして活躍。2年次の1964年には秋季近畿大会県予選で準決勝に進むが、市和歌山商の岡本喜平(住友金属)に完封を喫する。市和歌山商は春の選抜で準優勝。3年次の1965年夏の紀和大会では準々決勝で因縁の市和歌山商を下して勝ち進むが、県和歌山商に敗退して甲子園出場を逸する[1]。高校卒業後の1966年東海大学へ進学し、首都大学リーグでは在学中7度の優勝を経験。1年上の渡辺孝博との二本柱で活躍し、1年次の1966年春季で開幕投手を務め完投勝利[1]。3年次の1968年明治維新百年記念明治神宮野球大会では首都大学選抜のエースとして出場し、準決勝では渡辺をリリーフして、大橋穣内田順三らのいた東都大学選抜を4-3で降す。決勝では東京六大学選抜の星野仙一・橘谷健(東大川崎重工)両投手と投げ合い、田淵幸一谷沢健一らの強力打線を抑えて1-0で完封勝利。この優勝によって首都大学リーグの存在感が高まり、上田個人も各球団の注目の的となる。4年次の1969年には春季で成城大から完全試合を達成し、大学全日本選手権では初優勝に貢献[1]。この大会では2回戦で明大を降し、決勝では日大佐藤道郎と互いに無失点で投げ合い、9回表には後に住金の4番打者となる谷口剛一塁手の決勝本塁打により3-0で快勝。同年には第8回アジア野球選手権大会日本代表にも選出された。リーグ通算51試合登板、37勝5敗、防御率1.27、393奪三振。最高殊勲選手4回、最優秀投手4回、ベストナイン1回受賞。1試合17奪三振を2度記録[2][4]同年のドラフト1位で阪神タイガースに入団[1]。上田が即戦力となることを期待し、ドラフト会議で注目されていた三沢高太田幸司を回避した上での指名であった[2][5]

現役時代[編集]

1年目の1970年から先発ローテーションに定着し、4月16日中日戦(ナゴヤ)で初登板。7回までマウンドに立つが、試合は1-1の引き分けに終わった[6]。初勝利は同23日の大洋戦(甲子園)で9回までに15三振を奪うものの味方からの援護がなく1-1のまま延長戦に突入し、延長10回ながら16奪三振でエースの平松政次に2-1と投げ勝った[7]。9回15奪三振は当時の新人の最多奪三振記録であり、後の1980年日本ハム木田勇に更新されるまで記録を保持した[8]。1年目の前半戦に7勝をマークし、監督推薦で選ばれたオールスターではブルペンで巨人森昌彦や中日・木俣達彦が球を受けて「いい球だ」と乗せられて一生懸命に投げたが、後半戦はシーズンを通して投げるスタミナがなかったことと球の軌道などをしっかりとチェックされていたこともあり10月に2勝しただけであった。最終的には9勝8敗で、新人王は谷沢健一に譲った[9]。上田の阪神入りに大きく関わった村山実選手兼任監督は2人きりの時はとても可愛がってくれたが、人前では最も多く叱った。2年目の1971年オフには村山が所有するマンションに引っ越し、2階が村山の住居で、上田は3階になった。甲子園での試合の時はいつも車に同乗したが、良い投球をすると褒めてもらえたが、負けたときは何も話してもらえず、車中での15分から20分の間が2時間くらいに感じられた。村山は自らに厳しく、他人に優しい人物であったが、上田に対しては両方であった。村山が完投勝利を挙げて一緒に帰宅した後に「ちょっと来い」と呼び出されたことがあり、体中から汗が吹き出しているので「どうしたんですか?」と尋ねると、村山は「シャドーピッチング。これが大事なんや」と言った[9]。3年目の1972年5月9日の大洋戦(甲子園)で、先発の若生智男が1回無死一・三塁の場面で負傷したため、上田が代わって登板。そのまま点を与えず、救援投手ながら完封が記録された[10][11]。これは公認野球規則に定められた「1回無死無失点の時に代わって出場した投手が無失点のまま試合を終わったときに限って、完投勝利ではないが完封勝利の記録が与えられる」という条項によるもので[10]、プロ野球では上田が初で2020年終了時点では唯一の適用例であった。後年、上田はこの「リリーフ登板完封試合」を選手生活の中で最高の試合だと述懐している[12]

1973年にはキャリアハイ[13]の22勝を挙げ、開幕から好調で、6月までに10勝を挙げて[14]前半戦だけで15勝を記録。デビュー年以来3年ぶりのオールスター出場も果たし、1年目の事があるだけに「真っすぐだけ投げておこう」と思ったが、練習の時に「変化球も投げとかなあかんぞ」と言われた。研究されて後半戦は7勝11敗と負け越してしまったが、江夏豊は「いい球を投げておけば、(研究されても)打たれへんよ」と気にしていなかった[9]。江夏と並んで投手陣の柱として活躍し、9月23日広島戦ダブルヘッダー第1試合(広島市民)に先発、第2試合に先発した江夏と共に同日に20勝目を記録[15]。同年の江夏は最多勝となる24勝を挙げ、これ以降日本のプロ野球では2020年まで同一チームから複数の20勝投手が生まれていない。7月1日の巨人戦(甲子園)では8回まで四球による4人の走者を出しただけでヒットは打たれず、9回も先頭の2番・黒江透修を中飛。続く王貞治に大ファウルを打たれてヒヤリとしたが、最後は遊ゴロに仕留め、4万8000人のファンで満員の球場は異様な雰囲気に包まれた[14]。4点のリードがあり、次打者は長嶋茂雄という場面になった。それまでの3打席はいずれも変化球で二飛、左飛、左飛であった。5番は右打ちの槌田誠で、左打ちの広野功が代打の準備をしていた[14]捕手田淵幸一がマウンドへやってきたが、この時に上田は4打席目は変化球狙いに切り替えるはずと考えていたため「真っすぐでいきます」と言うと、田淵は「長嶋さんはそれでも直球狙いで来る」と意見が対立[12][11][16]。上田と田淵がマウンドで相談している間も、長嶋ら打席の横でスイングをしながらニヤニヤしていた[14]。結局上田の考えを尊重し直球勝負したが、長嶋は田淵の考えどおり直球狙いで、9回2死までノーヒットを続けながら長嶋に見事に狙い打ちされて[12][16][11]三遊間への安打を浴び[17]ノーヒットノーランを逃したものの最終的には1安打完封で11勝目をマーク。上田は際どいコースに投げるつもりが、ストライクを取りたいという思いが出て真ん中低めの球を左前に運ばれた。一塁ベース上の長嶋を見ると腕組みをしたまま、左右どちらかの人さし指を私の方に向けて「二朗!勉強、勉強」と声をかけられた[14]。上田は後に「もちろん悔しい思いもあったが、長嶋さんと真っ向勝負したすがすがしさがある」と語っているが[12][16]、へたりこんでいた田淵も長嶋から声をかけられた[11][13]。20年以上経ってから長嶋に当時の事を確かめる機会があり、長嶋は「何も考えていない。来た球を打つだけだった」と語っている[14]。優勝のかかった10月20日の中日戦(中日)では中日キラーの上田ではなく江夏が先発したが、中日戦の3日前の同17日には柿本実一軍投手コーチから「中日戦でいくぞ」と言われていた[18]。入団以来、中日とは最も相性が良く、この年も8勝1敗で防御率1.43。江夏は3勝2敗で1.91。巨人戦は上田がここまで6勝3敗で3.04、江夏は2勝3敗で5.67。上田はどちらでもいけると思っていたが、後半戦は巨人から1勝しか挙げていなかった[18]。中日戦の2日前の同18日には江夏がパ・リーグプレーオフ南海×阪急を観戦し、新聞に観戦記を書いていた。優勝すれば日本シリーズで当たる相手で、マスコミも阪神が優勝すると思っていた。2日後に先発する投手がそんなことを引き受けるとは思えなかった上田は、自分の中日戦先発を信じて疑わなかった[18]翌19日には柿本から「江夏をいかせることになった」と伝えられ、確認のため金田正泰監督を宿舎の部屋に訪ねると、「江夏をいかそうと思ってんねん」と言われた。上田は理由を聞かずに試合当日はリリーフで待機したが、登板機会はなく、2-4で敗戦。同22日の巨人戦(甲子園)に先発した上田は球が走らず、2回途中33球4失点で降板[5]。試合は0-9の完敗と最後の最後で2連敗し[18]、結果的に阪神が優勝を逃したため、この起用法について疑問が呈された[5][12]。中日戦を迎えた時点の上田の体調が悪く[19]、その前の後楽園の巨人戦でも打ち込まれたため江夏を起用したという談話が残っており、江夏も自叙伝で「この起用法は文句を言うべきものではない」という趣旨のことを記している。

その後も先発として活躍を続けるが、1978年には開幕から低迷、わずか3勝に終わった[2]1979年ドン・ブレイザーが監督に就任すると、小林繁の入団、工藤一彦の台頭もあって先発投手陣の刷新が図られる。この結果、上田は先発から外され、登板機会も極端に減った。1980年に南海ホークスに金銭トレードで移籍、この時は安仁屋宗八谷村智啓といった功労者も他球団に放出されている。同年は南海先発陣の一角として6勝をあげる。ブレイザーが今度は南海の指揮を執ることになった翌1981年も5勝を記録するが、首脳陣との軋轢もあり、再び1982年シーズン途中に阪神に戻る。同年限りで現役引退[1]

現役引退後[編集]

引退後は阪神で一軍投手コーチ補佐(1983年)、二軍投手コーチ(1984年 - 1987年)、一軍投手コーチ(1989年, 1993年 - 1994年)、二軍育成コーチ(1990年 - 1992年)、編成部次長(2001年 - 2004年)、球団本部管理部付部長、球団本部付部長を歴任。コーチ、フロントマンとしても高い評価を得ている[5]。恩人の村山が監督第2期の頃に一軍投手コーチを務めたが、村山が先発を早く代えたがるので、上田は「もっと引っ張ってください」とお願いしてから続投させて打たれると、これみよがしにベンチの椅子を蹴飛ばした[20]。やがて試合開始と同時に、リリーフ要員をブルペンへ向かわせるようになった。甲子園はブルペンが観客席の下にあるので大丈夫であったが、広島市民球場や地方球場はグラウンドの中にあり、先発からは丸見えで気持ちがいいはずがなかった[20]。上田は意を決して「1回からリリーフを準備される気持ちが分かりますか?」と抗議すると、村山は「そりゃあ分かるけど、先発が信用できんからや。とにかく準備させといてくれ」と返ってきた。ある時は「右も左も両方用意させとけ」と言われたため、「それはやめましょう。2番手にロングリリーフができる投手を作っておきますから」と断った[20]中村勝広監督時代の1993年はオープン戦が終わり、開幕に向けて甲子園で練習していた時、ブルペンでは上田の右側で左腕の仲田幸司、左側で左横手投げの田村勤が投げていた。その時に仲田が10球ほどで投球をやめて、小さな声で「上田さんは僕の方を一度も見てくれませんね。気分が乗らないので、今日はもうやめます」と言った[20]。仲田は制球難で伸び悩んでいたが、9年目の1992年に初の2桁勝利となる14勝を挙げ、上田には「もう放っておいても大丈夫かな」という思いがあった。そのため気になる田村の方に体が向いていたが、仲田は私がずっと自分に背中を向けていると感じていた[20]。一軍は戦力になっている選手達のフォームや球のチェックもコーチの重要な仕事の一つであるため、言葉にしなくても、「いいボールだ!」と指でOKサインを作って見せるだけでもよかった。上田は「たとえ主力の選手でも、ちゃんと見てやらないといけない」と仲田に気付かせられた[20]2012年1月1日付で40年以上所属した阪神を退団し、退団後は同年よりスカイ・エー解説者、2013年からサンケイスポーツ(関西版)評論家も務める。その傍ら全国野球振興会常任理事。

プレースタイル[編集]

現役時代の上田は端正なルックス、華麗なアンダースローの投球フォームで人気を博した[13][21]。球速はそれほど速くはなかったものの制球力は高く[5]カーブ[2]シンカー[5]を持ち球にしていた。同時期に活躍した江夏、村山ら速球派で知られた投手とは対照的に、変化球を中心とする上田の投球スタイルは「いぶし銀」とも評される [16]。中日を得意としたことから、「竜キラー」の愛称でも呼ばれていた[2]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1970 阪神 27 19 7 2 0 9 8 -- -- .529 558 141.1 111 20 31 2 6 105 0 0 50 47 2.99 1.00
1971 16 9 2 0 0 1 6 -- -- .143 254 59.1 54 11 25 0 3 39 1 1 35 29 4.40 1.33
1972 35 10 1 1 0 9 7 -- -- .563 497 124.2 107 20 35 3 5 91 0 0 51 49 3.54 1.14
1973 46 35 20 5 3 22 14 -- -- .611 1159 287.1 229 24 76 8 13 169 1 1 80 71 2.22 1.06
1974 36 26 7 0 0 7 13 1 -- .350 771 176.2 197 19 61 6 3 82 1 0 90 79 4.02 1.46
1975 36 27 5 2 2 9 9 1 -- .500 718 170.0 173 20 44 6 7 82 0 0 76 71 3.76 1.28
1976 31 25 5 0 0 12 9 0 -- .571 699 165.0 163 27 48 3 12 105 1 0 76 73 3.98 1.28
1977 30 27 7 2 1 8 9 0 -- .471 641 148.1 147 22 56 2 7 94 0 1 85 82 4.98 1.37
1978 27 16 2 1 2 3 10 0 -- .231 428 96.1 116 18 31 1 5 55 0 0 70 61 5.70 1.53
1979 15 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 88 19.2 22 3 8 0 3 8 0 0 13 9 4.12 1.53
1980 南海 30 11 1 0 0 6 6 1 -- .500 495 113.1 116 25 41 2 12 60 1 0 70 65 5.16 1.39
1981 24 20 4 0 0 5 9 0 -- .357 589 134.1 152 17 48 2 11 52 0 0 82 73 4.89 1.49
1982 阪神 8 1 0 0 0 1 1 0 -- .500 48 10.1 17 5 2 0 0 5 1 0 13 13 11.32 1.84
通算:13年 361 226 61 13 8 92 101 3 -- .477 6945 1646.2 1604 231 506 35 87 947 6 3 791 722 3.95 1.28

記録[編集]

背番号[編集]

  • 16 (1970年 - 1979年)
  • 15 (1980年 - 1982年)
  • 86 (1983年)
  • 73 (1984年 - 1987年)
  • 83 (1989年)
  • 81 (1990年 - 1994年)

登録名[編集]

  • 上田 二郎 (うえだ じろう、1970年)
  • 上田 二朗 (うえだ じろう、1971年 - 1976年)
  • 上田 次郎 (うえだ じろう、1977年 - 1978年)
  • 上田 次朗 (うえだ じろう、1979年 - )

出演番組[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、75ページ
  2. ^ a b c d e f 『実録猛虎伝説』(歴史群像シリーズ, 学習研究社, 2003年10月)、73ページ
  3. ^ a b c 【私の失敗(1)】上田二朗、小船の上で遊んでいたら湾の外へ流され“遭難”
  4. ^ 『猛虎の70年』(ぴあ, 2005年9月)、173ページ
  5. ^ a b c d e f 『猛虎大鑑』(ベースボール・マガジン社, 2002年5月)、104ページ
  6. ^ 阪神タイガース編『阪神タイガース 昭和のあゆみ』(阪神タイガース, 1991年3月)、389ページ
  7. ^ グループ「トラキチ21」企画・制作『阪神タイガースの歩み』(イーストプレス, 2003年9月)、76ページ
  8. ^ 阪神タイガース編『阪神タイガース 昭和のあゆみ』(阪神タイガース, 1991年3月)、390ページ
  9. ^ a b c 【私の失敗(4)】上田二朗、球宴でライバル球団の捕手に研究され…
  10. ^ a b 阪神タイガース編『阪神タイガース 昭和のあゆみ』(阪神タイガース, 1991年3月)、403ページ
  11. ^ a b c d 久保田龍雄編著『プロ野球B級ニュース事件簿 昭和人物伝』(日刊スポーツ出版社, 2013年7月)、18-19ページ
  12. ^ a b c d e 『プロ野球〈猛虎復活〉読本』(別冊宝島437, 宝島社, 1999年5月)、174-177ページ
  13. ^ a b c 『阪神タイガース70年史』(ベースボール・マガジン社, 2010年10月)、59ページ
  14. ^ a b c d e f 【私の失敗(3)】上田二朗、長嶋さんとの直球勝負でノーヒットノーラン逃す
  15. ^ 阪神タイガース編『阪神タイガース 昭和のあゆみ』(阪神タイガース, 1991年3月)、411-412ページ
  16. ^ a b c d 道頓堀野球倶楽部編『阪神タイガース猛虎列伝』(双葉社, 2008年9月)、76-77ページ
  17. ^ 鵜飼克郎『巨人V9 50年目の真実 栄光の時代を築いた名選手、立ち向かったライバル33人の証言』株式会社若林製本工場、2015年、325ページ、ISBN 978-4-09-3798730
  18. ^ a b c d 【私の失敗(2)】上田二朗、監督に逆らえず…巨人にV9許す
  19. ^ 阪神タイガース編『阪神タイガース 昭和のあゆみ』(阪神タイガース, 1991年3月)、414ページ
  20. ^ a b c d e f 【私の失敗(5)】上田二朗、マイク仲田に背を向け、機嫌を損ねてしまった
  21. ^ 『阪神タイガース栄光の75年』(ベースボール・マガジン社, 2010年10月)、60ページ
  22. ^ 同日は春季キャンプ取材で沖縄に行っており不在。

関連項目[編集]