上祐史浩

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オウム真理教徒
上祐 史浩
誕生 (1962-12-17) 1962年12月17日(58歳)
福岡県三潴郡城島町
(現・久留米市
出身校 早稲田大学大学院理工学研究科修士課程
ホーリーネーム マイトレーヤ
ステージ 正大師
教団での役職 外報部長
緊急対策本部長
アーレフ代表
入信 1986年8月
関係した事件 亀戸異臭事件
国土利用計画法違反事件
判決 懲役3年
現在の活動 ひかりの輪代表
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上祐 史浩(じょうゆう ふみひろ、1962年12月17日 - )は、日本宗教家で、ひかりの輪代表。アーレフ(現Aleph・旧オウム真理教)元代表。オウム信者としての名前(ホーリーネーム)は、マイトレーヤだった。

概要[編集]

福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)で福岡銀行に勤める父と、福岡学芸大学(現:福岡教育大学)出身で教員の母の間に生まれる。父親は最初弁護士を目指していたがかなわずに銀行員となった[1][2]。同じ年代で同じ久留米市の生まれでは松田聖子がいると発言(他に藤井フミヤがいる)[1]。福岡には4歳まで生活し、父親が東京勤務となったため一家で上京[1]、その後、父親が東京のライターを売る貿易会社に転職するが、父親の女性問題によって両親が別居し、母子2人暮らしとなる(両親が正式に離婚したのは上祐が出家した頃[3])。父親は、その後脱サラしライター分野で起業[1]。小学校から高校まで成績は良かった。「上祐」という苗字は、福岡県を中心に20名ほどいるとしている[1]

早稲田大学高等学院(早大学院)を経て受験なしで、早稲田大学理工学部に入学。理工学部の中の今でいうIT(情報通信学科)に4年在学し、その後1987年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程(2年)を修了。英語会のサークルの所属していた。修士課程の2年目にオウム真理教の前身団体で当時ヨガ団体だった「オウム神仙の会」に出会い、通う。きっかけは『月刊ムー』(学研)での麻原の紹介記事であった。当時、超能力健康、神秘的な事柄に関心があっが、ヨガには興味はなかった。参加した泊りがけでの丹沢セミナーでの、1日10時間にも及ぶ厳しい行法やヨガの呼吸法のストイックで過激な修行の印象が強く、数回それを繰返したところで神秘体験を経験。瞑想しながら体の感覚がなくなるような不思議な感覚や不思議な色や光を見る。最終的にはクンダリニーまで体験。このことで、麻原をヨガの正しい指導者として認識するに至る[1]

同年4月に特殊法人宇宙開発事業団(現:独立行政法人宇宙航空研究開発機構)に入る。宇宙開発事業団に入った理由は、当時の宇宙開発事業団会長がNHK教育テレビジョンで「これからの地球を救うのは宇宙である」と話しているのを聞き、感銘を受けたためである[3]。また、アポロの月着陸を見た世代であり、宇宙が子供時代からの憧れであったためである。宇宙開発事業団への就職は、早稲田大学理工学部には毎年1,2名の推薦の枠があり、学部長推薦にて応募して入ったため面接だけで採用され、試験などはなかったため、狭き門をくぐり抜けたようなものではなかった。しかし、大学の最終学年から同時進行で始めていた、オウム真理教が面白くなり出家するため、1か月で退職。上祐が宇宙開発事業団を退職したのは5月だが、オウム真理教は7月から出家制度を基本とする宗教団体に衣替えしていた。父親と話したのは高校生ころまでで、大学時代には父親は浮気をして両親は別居状態であり、退職や出家に関しての父親への相談などはなかった。母親には反対されたが押し切った。中学時代からはほぼ母子家庭に近く、小学3年生頃から父親の影は薄くなっていた。父親は離婚後も養育費はきちんと払っていたことを上祐は後に確認している[1]

早稲田大学在学中の1986年(昭和61年)8月に「オウム神仙の会」に入会する[2]。オウムでは、男性の中で佐伯一明(後の岡崎一明・宮前一明)に次いで二番目の成就者であった[4]。上祐が出家当時の麻原は「極限」という言葉を好み、「6つの極限」を提唱していた。「布施や奉仕の極限」「戒律を守る極限」「忍耐の極限」「精進の極限」「瞑想の極限」「知恵を磨く極限」である。オウム真理教では上祐は早くから認められ、1987年時には既に数百人の会員のうち10人ほどしかいなかった「大師」として認められる。新興宗教ブームの仕掛け人として、当時麻原はしばしばマスメディアにも登場した頃であった[1]。1989年にはオウムは坂本弁護士一家殺害事件を起こしているが、その際には共謀の場には招かれなかった。それは、その直前に、サンデー毎日をはじめとするマスメディアによるオウムバッシングが始まり、麻原が「毎日新聞社はけしからん。トラックで突っ込むか」と発言したのに対し上祐は「危険です」と反対したため、石井久子とともに外された。しかし、この話には裏があり、坂本弁護士の事件の前に坂本弁護士を殺害したメンバーが中心となり、2件の内部事件(オウム真理教男性信者殺害事件)がすでに起こされていた。この際のメンバーに新人2人を加え、坂本弁護士一家殺害事件は実行された。上祐は、これら3つの事件の全容を知らずに教団のスポークスマンとしてそれらの事件の「もみ消し役」を麻原に命じられた。その際の発言の数々が、マスメディアで「ああいえば、上祐」と言われるきっかけとなる[1]

1992年12月には、「尊師」に次ぐ位階の「正大師」に昇進。「マイトレーヤ正大師」として1990年の武装化開始後は生物化学兵器開発に関与し、亀戸異臭事件にも参加した。1993年9月にはロシア支部長に就任[4]

1993年秋からロシアに出向。少し前に開設されたロシア支部があったためだが、なぜ上祐が指名されたのかは上祐自身分からないという。メディアでは「左遷説」「擁護説」などが飛び交った。行ってみると刺激的であったため、連日ハイテンションであった。ロシア語は話せないが、片言のロシア語か、英語-ロシア語の通訳がいたため、主に英語で話していたが、少数ではあるが日本語-ロシア語の通訳もいた。その通訳は、ソ連崩壊前には対日本の諜報部で活躍していた人物であった[1]

地下鉄サリン事件後には、麻原にロシアから日本へ呼び戻され、「緊急対策本部長」に就任。外報部長・緊急対策本部長などの役職でスポークスマンの役割を果たす。得意とする話術や堪能な英語力で教団の疑惑や犯罪容疑に反論することから、「ああいえば、上祐」と揶揄された[5]1995年10月6日国土法違反事件有印私文書偽造などの容疑で逮捕され[注釈 1]懲役3年の実刑判決を受ける。上祐は、サリンの製造技術については、当時アメリカの学者がサリンに関する情報をインターネット上に公開しており、それをネット検索で見付けた土谷正実らが探し出し、試行錯誤の末、製造に成功したと証言している[1]

1999年12月に広島刑務所を出所して教団に復帰し、2000年2月に「アレフ」(現Aleph)を設立するが、その後、麻原彰晃の妻松本知子と対立し、また、運営方針について反上祐派の反発を受けたことから、2007年5月、別団体として独立、「ひかりの輪」を設立した。なお、公安調査庁は、上祐が麻原の意思を実現するために“麻原隠し”を徹底し観察処分を免れるための隠蔽工作として別団体を作ったのではないのかという見方をしている[2]

ひかりの輪[編集]

2007年5月7日、麻原の教義を完全排除したとする新団体ひかりの輪を設立、代表に就任。上祐はひかりの輪を「仏教の思想や心理学を学んだり、ヨガの体操や呼吸法を実習したり、聖地巡り(パワースポット、全国各地の神社仏閣、それに付随する自然など)を行っている」と説明している[1]

公安調査庁は、麻原の影響力を払拭したかのように装うオウム真理教の後継団体であり、麻原の死刑が執行された2018年7月以降も依然として麻原の影響下にあるなど、危険な体質との認識を変えていない[6][7]

略歴[編集]

1980年代[編集]

入信以前
宇宙戦艦ヤマト江川卓超能力が好きな少年だった[8]。オウム時代とは対照的に、成人前の上祐はあまり目立たない方であった。父親は事業に失敗し家に帰らず母子家庭状態となり、上祐が駅や公園で呆然としていた姿も目撃されている[8]
早稲田大学在学中、サークルでディベートの技術を学ぶ。ディベートサークルの活動を通じて、苫米地英人と面識があった[9]。ただし苫米地とディベートの試合をしたことはないとのこと[10]
入信
大学時代より超常現象チベット仏教教団活動、ヨーガなどに強い興味を持っていたが、オカルト雑誌『トワイライトゾーン』に掲載されていた麻原彰晃アーサナ解説記事をきっかけに、1986年に、同誌で紹介されていた麻原彰晃主催で後のオウム真理教となるオウム神仙の会に入会する[11]。麻原の空中浮揚写真は長年信じていた[12]
早稲田大学大学院を出た後、特殊法人宇宙開発事業団に就職するも1ヶ月で退職し出家、ニューヨーク支部建設に携わる。出家番号は13。
ニューヨークでは入信者を増やすことができず、定期的に入信状況を伝える都沢からの電話で手厳しい叱咤激励の言葉をかけられ、プライドを傷つけられた。1988年にニューヨーク支部の閉鎖が決まると、麻原から「今後海外支部を担当することはないだろう」と言われる[13]
恋人を捧げる
上祐の恋人の都沢和子も共に出家信者となった。入会後は都沢は麻原に惹かれて上祐から離れている面があったが、尊師のマハームドラー(試練)だと認識し理解することで乗り越えられたという[14]。1995年に岩上安身のインタビューに答えて、「尊師は煩悩を遮断する力が強いので誰とセックスしてもいい」「彼女(都沢)は麻原尊師と融合するならば、それはあの、精神的ステージが高くなるんで、私と融合するよりいいと思うんで、私は恋人を麻原尊師に捧げたいと思います。私はそういうのは負担ですので。」と語っている[15]
坂本弁護士との接点
1989年青山吉伸早川紀代秀らと共に坂本堤弁護士と訴訟回避に向けた交渉を行ったり、TBSに坂本堤弁護士インタビューの放送中止を要求する(TBSビデオ問題)などしていたが、未成年だけでなく上祐のような成人も親元に戻るべきとする坂本と見解の相違が生じて決裂した。
麻原から(坂本の名前は出さずに)教団に批判的な存在をポア(殺害)することについて一度意見を求められた際に強く反対しており、そのため、坂本弁護士の殺害に関しては、同じく反対していた石井久子や上祐を除いて、麻原は殺害を謀議、坂本堤弁護士一家殺害事件を起こす。暴力行為ではなく自らの広報活動によって批判による影響を和らげるべきだと考えていた上祐は、教団が起こした事件だと察した際には不満を感じ麻原に電話するも、逆に事件を正当化するよう説得された。
後年、上祐はテレビ朝日の取材の中で(その当時は自分がまだ知らなかったオウムの犯罪を考慮すると)坂本に先見の明があったと思うと証言している。一方、早川紀代秀は坂本弁護士事件について上祐や石井久子松本知子は知っていたと証言している[16]

1990年代[編集]

衆議院選挙オウム出馬
1990年第39回衆議院議員総選挙に、真理党として教団幹部の立候補にも岐部哲也と共に最後まで反対していたと伝えられている[17]。選挙で上祐は東京5区から立候補したが、最下位で落選した。この選挙が惨敗に終わり、麻原が大勢の信者達を前に話した「国家権力によって票のすり替えが行われた」という陰謀論にもただ一人異議を唱え、「自分独自の電話調査では麻原彰晃に投票すると言った有権者は100名中誰もいなかった」と発言。一人で反駁を続けたため、麻原は選挙結果の調査をするが、麻原の考えは変わらなかった[4]
BC兵器開発
オウム真理教の兵器開発にも携わっており、生物兵器風船爆弾開発、ホスゲン爆弾計画、第7サティアンサリンプラント計画、亀戸異臭事件に関わっていた。
特に1993年6月~7月の亀戸異臭事件では炭疽菌培養のまとめ役を担当した。1993年1月(亀戸異臭事件の前)に行われた以後のテロ活動に関する謀議では、参加はしていたものの肯定的でなかったことから麻原に叱責を受けたと語るが[4]野田成人によると、どうせ失敗するのではと考える他の信者をよそに「絶対にこのプロジェクトは成功させるからな!」と張り切っていたという[18]
ロシア支部へ
1992年よりロシア支部に派遣されている[19]早川紀代秀曰くロシアでの上祐は「グルのようで、小麻原みたいになっていた」[20]1994年以降は麻原に「日本にいると身に災いが及ぶ」と言われほとんどをロシア連邦で過ごしていたが、一時的に日本に戻った際に教団による薬物を使ったイニシエーションを受け、麻原への帰依を深めることとなった[4]
地下鉄サリン事件後
1995年地下鉄サリン事件が発生して間もなく、麻原から「広報活動をしてほしい」との電話が届き、日本へ帰国する。
サリン事件後、教団の広報責任者として、青山吉伸村井秀夫らと共に、連日朝から晩までテレビのワイドショーニュース番組やラジオに出演し、オウムに批判的なあらゆる意見に対して徹底的に反論、数々の疑惑事件は創価学会米軍自衛隊を初めとする国家権力の陰謀であり、サリン被害を受けているのはオウムだとの見解を示し続けた。海外メディアに対しても堪能な英語で反論した。[注釈 2]なお、青山も村井も上祐もサリンと関わっていた。
更に、記者会見の場でも才能を発揮。容疑が軽犯罪法、いわゆる微罪逮捕別件逮捕が横行した際は、怒りをあらわにし、机に拳を叩きつけながら警察報道機関を批難した。逮捕容疑の一覧を記したフリップを公表すると「まぁただ私はあまりごちゃごちゃ言いたくないんですよ、これ(フリップ)見たら分かるでしょう? 馬鹿らしいですよこんなの!」と言いながらフリップを投げたり、村井秀夫刺殺事件直後の会見では、記者が今度の事件で麻原彰晃代表が会見を開くのかと質問したところ、「麻原を殺す気ですか今度は? 麻原を殺す気ですか? 今度は!? 尊師を今度は殺すんですか!?」と激昂した[21]
ああいえば上祐
当時、連日メディアに出演し見せた言論パフォーマンスから、ジャーナリストの二木啓孝に「ああ言えばこう言う」を捩った「ああ言えば上祐」と命名され[5]「上祐ギャル」と呼ばれる熱狂的な追っかけの女性ファンも登場、ファンクラブができるなど一躍話題の人となった[22]。上祐ギャルからは「母性本能をくすぐる」「愛人になってもいい」「オウムを出てきちんとした宗教団体をつくったら、誘われて入っちゃう」「(神秘性を保つために)村井さんみたいに殺されたほうがいいのかも」と人気があった[8]
都沢和子とともに早稲田大学英語部(ESA)で教育ディベートの経験者であったことがマスメディアに報じられ、ディベートが相手を言い負かす技術として注目を集めることとなった。また、上祐の女性運転手も美人で話題となった(元六本木ホステス1995年に元信者への逮捕監禁致傷の疑いで逮捕され、懲役2年、執行猶予4年の判決を受けた)[23][24]
懲役3年の実刑判決
熊本県阿蘇郡波野村(現・阿蘇市波野)の土地取得をめぐる国土利用計画法違反事件で、1995年10月6日逮捕偽証有印私文書偽造・同行使の罪で10月28日に起訴される。
麻原の側近と目される教団幹部であったが、一連のオウム真理教事件では1992年以降はロシア支部にいたこともあり、教団本部の共謀や実行の場にいなかったことや、サリンプラント建設事件では建設・警備関係者のみが起訴されたこと[25]亀戸異臭事件などの生物兵器テロでは、有毒な炭疽菌が生成・噴霧されずに被害が出なかったため不能犯とされたことなどで、重要犯罪事件で起訴はされなかった。
法廷では麻原について「麻原尊師はあらゆる意味で導き手であり、救世主であり、私のすべて」「サンキュー・アンド・グッドバイ」と語った[26][27]
その後、懲役3年の実刑判決を受け、広島刑務所収監された。

2000年代[編集]

シガチョフ・チェイス
1999年平成11年)12月29日の広島刑務所出所後も、教団で有力者とみられていた。公安警察から当初は教団再活性化の危険性があるのではないかと危惧されていた。
しかし、2000年(平成12年)に現地で非合法化されたロシアのオウム信者が、日本でのテロによる麻原奪還・ロシア脱出を計画していることを知ると、ロシアの警察と警視庁公安部に通報し、信者も使って、その阻止に動いた。その中で東京入国管理局に該当信者の入国を認めないよう要請するが、東京入管は違法性がないとして入国させたため、自分に近い信者をロシア信者の監視に派遣した(シガチョフ事件)。
軟禁された代表
2002年(平成14年)に、アーレフで代表となるも、「オウム真理教事件を反省し、麻原彰晃の影響を排除する」という改革を打ち出したため主流派(麻原回帰派)の強い反発を受け、翌年にも事実上失脚。「修行」と称して自室に軟禁されるようになる。なお、この期間の間に、オウムの分派のケロヨンクラブで傷害致死事件が発生され、グループ内部から、上祐らアーレフ幹部に告発があったが、その際も、告発した信者に、警視庁に告発するように促している。
上祐派として分裂
2006年(平成18年)4月30日TBSの「報道特集」が、新教団立ち上げ計画を明言していた事を報道。この時期、千葉県習志野市のマンションを「上祐派」の道場として使用しながら活動するも、管理者からは立ち退きを要求されていた。2006年(平成18年)9月、習志野市のマンションからは立ち退き完了し、東京都世田谷区南烏山マンションを拠点とした。
公式サイトも教団から分離して、「脱麻原」(後述)を旨とする新教団として活動、その後も内部分裂が進み、2007年(平成19年)3月8日に、アーレフを正式脱退。翌9日mixiのアカウントを取得したことを、公式サイトブログで公表した。上祐のマイミクシィ(申請含む)は、わずか2日で上限の1,000人に達した。
5月7日に、麻原の教義を完全排除した、とする新団体「ひかりの輪」を設立して、代表の座についた。

2010年代[編集]

オウム時代の回想
2010年12月3日号のFRIDAY誌上にて、麻原彰晃はカリスマ的な能力はあるが、それが人格と一致せず、誇大妄想と被害妄想の精神病理的な人物と考えていると述べた。その麻原の人格の根源は、幼い頃からの親・社会に対する反感・逆恨みではないかと評した。また、ロシアに行く前から、オウム真理教がサリンを研究していた事実を承知していたが、当時反対しきれなかったのは、それは信者にとって、麻原彰晃に一般人と共にポアされることを意味するからだと述べた[28]
「オウム真理教は事件に関わりがあると薄々気づきながら、当時はマスコミに無関係だと嘘をつき続けていた。自分は嘘吐きだった」と告白した。また、サリン事件が教団が起こしたものだと麻原に伝えられたのは帰国して1ヶ月後(村井秀夫刺殺事件の後)で、一連の事件の全貌を知ったのもその頃だったと語っている。
また村井刺殺事件に関しては、後に雑誌『FRIDAY2010年12月3日号誌上の対談にて「覚醒剤取引などで関係の深かった暴力団による口封じ説、村井秀夫氏が生きていることで、第2・第3のサリン事件が起きる可能性があったために、当局が起こした謀略説などがあるが、予言を実現させるためにオウム真理教が行った自作自演の可能性があると感じている」と発言している[28]。『終わらないオウム』で実行犯の徐裕行と対談した2013年以降は「徐氏に会って、あれは単独犯だと感じた。彼の巨悪のオウムを倒すという義憤によるものです。 背景にオウムも暴力団も関係していないと思う」と単独犯説を主張するようになった。『田原総一朗 オフレコ!スペシャル』(2013年6月14日)で上祐と対談した田原総一郎はこの主張に対して「本当かな?」「彼(徐裕行)にとって悪なんかあるのかな」と疑問を投げかけている。
菊地直子による批判に回答
2012年6月19日号の『SPA!』のインタビュー記事で、上祐が「菊地直子サリン生成に関与し、刑事責任を負った」と語ったことに関し、菊地は事実ではないと東京拘置所内から手紙で上祐宛に撤回するよう要請したが、返事はなかった。ただし、上祐のブログの回答によれば、週刊誌の記事は、上祐のインタビューを編集したもののために誤解が生じる文書となっているが、記事の中で「刑事責任を負った」とした主体は、菊池を指したものではないという真意を説明した。
また、菊地がサリン生成に関与したかどうかは、生成に関与した遠藤誠一土谷正実らに聞けば分かるにもかかわらず、それをせず捜査機関の情報(=マスメディアの報道)を鵜呑みにしてに話したり、菊地は上祐ともほとんど話したことがないにもかかわらず、菊地の性格についても触れたりしている態度を2018年4月13日付のブログ中で批判している[29]
麻原の死刑執行
2018年にオウム真理教事件の刑事裁判が終結し、麻原死刑執行間近との噂が流れたが、麻原の死刑執行については賛成を表明した[30]。同年7月6日に麻原の死刑が執行されると、上祐は同日中に会見を開き「私も教団で重大な責任があった。被害者遺族に深くおわびしたい」と述べるとともに、麻原に対しては「かつてのような思いはない」とした[31]
女性幹部信者殺害事件の目撃を認める
2018年7月11日、新潮社週刊新潮で、上祐が女性信者殺害事件(立件なし)の場に同席し、殺害の光景を目撃していたことを報じた。上祐もこれを認めた[32][33]

エピソード[編集]

思想[編集]

人物評[編集]

  • 「ディベートはうまいが、相手を言い負かそうとばかりするので、交渉は下手」 - 元信者[39]
  • 「すごいヤツと聞いていたのに、対決すると存在感、威圧感がまるで感じられない」 - 有田芳生[40]

略歴[編集]

著書[編集]

  • 『覚醒新世紀』東山出版(2002年)ISBN 483440076X
  • 『上祐史浩が語る―苦悩からの解放』東山出版(2002年)ISBN 4834400727
  • 『上祐史浩が語る〈2〉心の解放と神秘の世界』東山出版(2003年)ISBN 4834400786
  • 『オウム事件 17年目の告白』扶桑社(2012年)ISBN 978-4594067496
  • 『終わらないオウム』鹿砦社、上祐史浩, 鈴木邦男,徐裕行の共同著者、田原総一朗監修(2013年)ISBN 978-4846309497
  • 『危険な宗教の見分け方』 ポプラ社、上祐史浩、田原総一郎の共著(2013年)ISBN 978-4591136768
  • 『地下鉄サリン事件20年被害者の僕がききます』 dZERO、上祐史浩、さかはらあつしの共著(2015年)ISBN 978-4-8443-7676-7

関連項目[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 彼の逮捕は各局が緊急報道特番を編成し全国に伝えられ、超力戦隊オーレンジャーなどが特番の影響受けた。
  2. ^ この際、外国人記者から「You're a liar(あなたは嘘つきだ)」と言われて非難されている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 【前編】元オウム真理教 上祐史浩/早稲田大学院からJAXA内定も麻原と出会い教団幹部に”. 街録ch-あなたの人生、教えてください-. 2021年7月24日閲覧。
  2. ^ a b c オウム真理教について”. 公安調査庁 (2017年5月24日). 2019年1月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月8日閲覧。
  3. ^ a b 田原総一朗 オフレコ!2013年6月14日放送
  4. ^ a b c d e 上祐史浩. “【2】オウムの犯罪と武装化:1988年~1995年”. 上祐史浩個人の総括. ひかりの輪. 2021年1月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月8日閲覧。
  5. ^ a b 西岡千史 (2018年8月6日). “「ああ言えば、上祐」の言葉を作った記者が語る 死刑執行で神格化された麻原彰晃の危険性”. AERA dot.. 2021年5月8日閲覧。
  6. ^ 公安調査庁公式サイト”. 2021年7月24日閲覧。
  7. ^ 【日本語字幕】「あのテロ事件から四半世紀~今も変わらないオウム真理教~」(本編)YouTube 公安調査庁宣伝動画”. 2021年7月24日閲覧。
  8. ^ a b c 有田芳生女性自身「シリーズ人間」取材班『「あの子」がオウムに!』p.76-103
  9. ^ ミランカ『博士も知らないニッポンのウラ』、苫米地英人『洗脳原論』(春秋社、2000年)
  10. ^ 上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p.256
  11. ^ オウム出版『マハームドラー』 p.108
  12. ^ 上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p.62
  13. ^ 島田裕巳『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー、2001年)
  14. ^ オウム出版『マハームドラー』 p.129
  15. ^ a b 上祐インタビュー(1995.6) 岩上安身ウェブサイト(InternetArchive)
  16. ^ 降幡賢一『オウム法廷11』 p.245
  17. ^ 『オウム解体』宮崎学vs上祐史浩(雷韻出版 2000年5月1日
  18. ^ 野田成人ブログ「報道4」 2018/2/12閲覧
  19. ^ 『オウム帝国の正体』 p.81
  20. ^ 江川紹子『魂の虜囚』 p.429
  21. ^ オウム真理教 上祐史浩 外国人記者会見6/8 日本外国特派員協会 (日本外国特派員協会)
  22. ^ 元オウム追っかけギャルたちが語る、幹部たちとの思い出 | ビジネスジャーナル
  23. ^ 毎日新聞 1997年2月5日 夕刊9面
  24. ^ 「オウム麻原」死刑執行 事件で注目された女性信者たちの“その後””. デイリー新潮. 新潮社 (2011年12月8日). 2018年7月15日閲覧。
  25. ^ 「オウム サリン量産計画 上祐被告関与の疑い」 読売新聞 1995年12月13日
  26. ^ 降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち上』 p.205
  27. ^ 江川紹子『魂の虜囚』 2000年 p.86
  28. ^ a b ひかりの輪広報部(2011年01月19日)
  29. ^ 上祐史浩さんのSPA!インタビュー記事について 2018.04.13 Friday 00:17
  30. ^ 麻原の死刑執行はアレフを抑制して再発防止の決め手に | 上祐史浩
  31. ^ “上祐史浩氏が会見 「私も教団で重大な責任があった」”. 朝日新聞. (2018年7月6日). https://www.asahi.com/articles/ASL763HWKL76UTIL00S.html?iref=comtop_8_01 2018年7月6日閲覧。 
  32. ^ TBS NEWS オウム元幹部・上祐氏「松本元死刑囚らが女性信者殺害を目撃」
  33. ^ オウム時代の「女性信者殺害」を隠蔽! 「上祐史浩」に教祖の資格はあるか?”. デイリー新潮. 新潮社 (2018年7月26日). 2018年7月27日閲覧。
  34. ^ 上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p.199
  35. ^ マイトレーヤ正大師のエピソード<代表就任にあたって 神々の祝福が舞い降りた>アレフ公式サイト(InternetArchive)
  36. ^ 新世紀アクエリアスの宗教革命 アーレフ公式サイト(InternetArchive)
  37. ^ 聖者 【菩薩---慈愛の救済者 マイトレーヤ正大師】アーレフ公式サイト(InternetArchive)
  38. ^ Q 植物にメッセージが伝わる?上祐史浩公式サイト(InternetArchive)
  39. ^ 江川紹子『魂の虜囚』p.118
  40. ^ 『中日新聞』1995年5月31日
  41. ^ ひかりの輪公式サイト"宗教と科学の統合"

参考文献[編集]

  • 『オウム法廷―グルのしもべたち〈上〉』(朝日新聞社、1998年)ISBN 9784022612236
  • 一橋文哉『オウム帝国の正体』新潮文庫、2002年11月1日。ISBN 4-10-142623-6。