下瀬隆十

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下瀬隆十
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永6年(1629年
死没 宝永2年8月15日1705年10月2日
改名 下瀬千代松(幼名)→下瀬隆十→上領隆十→下瀬隆十
別名 通称:弥五郎、十兵衛
主君 毛利就隆綱広吉就吉広
周防下松藩/徳山藩長州藩
氏族 清和源氏為義吉見氏庶流下瀬氏
父母 父:下瀬隆直、母:木屋隆信の娘
兄弟 隆十、女(山縣九郎右衛門室、後に児玉就書継室)、隆道、隆一
張市郎右衛門の娘
下瀬頼房正室
養子:頼房(楢崎就兼の次男)

下瀬 隆十(しもせ たかとお)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。初めは周防国下松藩(徳山藩)士だったが、後に長州藩士となる。下瀬氏10代当主。

生涯[編集]

下瀬氏は石見国国人吉見氏の庶流。寛永6年(1629年)、下松藩士・下瀬隆直の子として誕生。

寛永15年(1638年8月1日、下松藩主・毛利就隆の加冠を受けて元服し、「隆」の偏諱と「弥五郎」の通称を与えられた。

万治2年(1659年)、父の隆直は毛利就隆に暇乞いを認められて、徳山藩を離れる事となり、隆十も父と共に徳山からへ移り住んだ。牢人となった隆直は「上領五郎左衛門」と名乗り、隆十も同じく「上領」[1]の姓を名乗る。後に長州藩2代藩主・毛利綱広に召し出されて長州藩士となり、以後、綱広、吉就吉広の3代に仕えた。寛文12年(1672年7月27日に父が死去し、その後を継いだ。元禄9年(1696年)には姓を「上領」から「下瀬」へと復している。

宝永2年(1705年8月15日に77歳で死去。楢崎就兼の次男である頼房が婿養子として後を継いだ。

脚注[編集]

  1. ^ 上領氏は下瀬氏と同じく吉見氏の庶流。

出典[編集]