与田剛

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与田 剛
中日ドラゴンズ 監督 #92
Yoda tsuyoshi.jpg
楽天コーチ時代
(2016年5月17日 こまちスタジアムにて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県君津郡君津町(現:君津市
生年月日 (1965-12-04) 1965年12月4日(55歳)
身長
体重
182 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1989年 ドラフト1位
初出場 1990年4月7日[1]
最終出場 1999年10月2日[注 1][2]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

与田 剛(よだ つよし、1965年12月4日 - )は、千葉県君津郡君津町(現:君津市[3][4][5]の元プロ野球選手投手、右投右打)・コーチ。現在は中日ドラゴンズ監督[6]1999年から2000年までの登録名は「与田 剛士」(読み同じ)。妻は元TBSアナウンサー木場弘子

現役時代は中日ドラゴンズで新人年(1990年)に最高球速157 km/hを記録するなど、抑え投手として活躍[1]。その剛速球は「名前通りの剛球」と呼ばれた[7]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

亜細亜大学時代は阿波野秀幸が1年上にいた他に故障が多く、登板機会はほとんどなかった。4年秋になって漸くリーグ戦に登板し、通算1勝。大学時代に右腕の血行障害を患い大学3年のときに手術を受けたが、これは高校時代から投げすぎたために人さし指と中指の手のひら側のつけ根に筋肉がついて手のひらの血管を圧迫していたのが原因という珍しい症例だった[7]。在学中に父を病気で亡くしており[8]、実績がないなかで監督らの推薦で入ったNTT東京時代に球速150 km/hを超える剛速球が注目され、野茂英雄潮崎哲也らと全日本代表メンバーに抜擢。1989年の都市対抗野球では佐々岡真司三菱重工広島補強)と投げ合って先発完投も1-2で惜敗[9]

1989年度ドラフト会議にて中日ドラゴンズが1位指名し、単独指名で交渉権を獲得[10]。与田本人は当初、在京球団(特に西武ライオンズ)を希望していたが[10]、後に契約金7,500万円・年俸720万円(金額は推定)で合意し、入団[11]

プロ入り後[編集]

初登板は1990年4月7日の横浜大洋ホエールズとの開幕戦[1]。同点で迎えた延長の11回表無死1、3塁のピンチでリリーフ登板し、2つの三振を含む無失点に抑えた[注 2][10]。その後も星野仙一監督から信頼を受け、抑えとして活躍し[1]、6月1日にセ・リーグ新人選手初の二桁セーブを記録した[10]オールスターゲームにもファン投票で選出[10]され、与田の投球を見るため、車で九州からナゴヤ球場(当時の中日の本拠地)に駆けつけるファンも現れたほどだった[1]。新人では当時最多となる31セーブを挙げ[注 3][12]最優秀救援投手のタイトルを獲得し、新人王に選出された。8月15日の広島戦(広島市民球場)では球速157 km/hを計時して当時の日本人プロ最高球速を記録している[10]

しかし、翌1991年は過度な登板[注 4]により背筋痛に悩まされ、3敗2セーブに終わった[1]。球団及び首脳陣もリリーフでの酷使を懸念し、アマチュア時代に務めていた先発投手としての適性を毎年のように試みていたが、通算9試合に先発し0勝7敗防御率8.76と結果を残せなかった。3年目(1992年)に2勝5敗23セーブと復活を果たしたが、4年目(1993年)に両足首を故障し極度の不振に陥ると、その後も右肘痛のため思うような成績を残せなかった[1]1995年シーズンオフには武田一浩日本ハムファイターズ)との交換トレードが検討されたが、このトレードは中日が与田の放出を躊躇したため、不成立に終わっている[注 5][14]

1996年シーズン途中の6月10日、内藤尚行森廣二との2対2の交換トレードで、吉鶴憲治とともに千葉ロッテマリーンズへ移籍[15]。このトレードは、慢性的な先発投手不足・中継ぎ陣の疲弊に悩まされていた中日(星野監督)がロッテに内藤の譲渡を打診したところ、ロッテ球団ゼネラルマネージャー (GM) を務めていた広岡達朗が「(与田を)鍛えてみたい」として、与田を交換相手に指名したことで成立したトレードだった[注 6][15]。1996年はAA級メンフィス・チックス(カンザスシティ・ロイヤルズ傘下のマイナー球団)に野球留学。しかし同年以降は一軍では登板できず[17]1997年シーズンオフにロッテを自由契約となり、同年の日本ハムの秋季キャンプで入団テストを受け合格[18]

日本ハムに移籍した1998年は、「ラストチャンス」として名護キャンプに臨んだが、右肘痛に襲われる[19]。痛み止めを注射してフリー打撃に登板したが、回復の目処が立たず、4月30日に右肘の軟骨を削り取る手術を受けた[19]。同年は一軍だけでなく、二軍イースタン・リーグ)でも登板なしに終わったが、シーズンオフのハイサイリーグで球速145 km/hの直球を投げるなどして首脳陣に復活をアピールした[19]

1999年10月2日、日本ハム球団の同シーズン最終戦(対ロッテ27回戦・千葉マリンスタジアム[20]で4年ぶりの一軍登板[注 1]を果たした[2]が、同月9日に日本ハムから戦力外通告を受け[21]、同年12月2日にNPBコミッショナー事務局から自由契約選手として公示された[22]。一方で戦力外通告後には、同じく日本ハムから戦力外通告を受けた橋上秀樹とともに阪神タイガースの秋季練習に参加して同球団の入団テストを受験。10月22日には同じ5人の入団テスト受験選手と対戦し、最速144 km/hの直球を投げるなどし、高田順弘球団社長から「リリーフとして十分戦力になる」と判断されて合格した[23]

2000年はキャンプ・オープン戦で好投し、当時の監督である野村克也からもストッパー候補として挙げられた。しかしオープン戦終盤、好投した翌朝ベットから起き上がれないくらいの腰痛に襲われる。この腰痛により戦線離脱。結局、同年は一軍に昇格できず、二軍ウエスタン・リーグ)でも右膝痛のためわずか2試合の登板に終わり、同年9月23日に戦力外通告を受けた[24]。同年12月2日にNPBコミッショナー事務局から自由契約選手として公示され[25]、同年限りで現役を引退[26]

引退後[編集]

引退後の2001年からはNHK野球解説者になり[1]2015年まで務めた。またNHKや東京中日スポーツ野球評論家としての仕事の傍ら、社会人野球チーム・サウザンリーフ市原や、全日本女子野球チームの投手コーチも務めた。2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表投手コーチ(ブルペン担当)として、大会2連覇に貢献した。WBCでは、大差のリードがある試合でブルペンで待機していた投手陣にベンチに戻って応援するよう指示した山田久志投手コーチに対し、何があるかわからないからと戻らなくていいと言って、意見が対立した。

2009年4月から2011年3月まで[27]NHK「サンデースポーツ」のメーンキャスターを務めた。引退して解説者の仕事を引き受けた後、元アナウンサーの夫人から話し方や表情の作り方を丁寧に教わったという。

2012年10月10日に、野球日本代表2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表)の投手コーチに就任したことが発表された[28]。11月13日に、背番号が「92」となったことが発表された[29]

2015年10月13日に、東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍投手コーチとして就任したことが発表された。背番号は「92[30]。同年オフには大久保博元の監督辞任に伴って、後継監督候補に立浪和義[31][32][33][34]山崎武司[35]橋上秀樹[36]佐々木主浩斎藤隆[37]らとともに名前が挙がったが、これは実現せず、梨田昌孝が監督に就任。フランク・ハーマンは「与田さんこそが本物のコーチだ。1年目から日本で活躍するのは難しいと思っていた中で、チームに溶け込みやすくしてくれたのは与田さんだ。とても深く尊敬している。いいピッチングのときも悪いピッチングのときも同じ態度で接してくれたし、食事に誘ってもらった。日本になじむ手助けをしてもらったんだ。」[38]と述べている。

2018年から二軍(イ・リーグ)投手コーチに配置転換されたが、同年10月5日に来季の契約をしないことを通知された[39]。同年10月15日に、2019年より古巣である中日ドラゴンズへの監督就任が決定。背番号は「92[6]。コーチ陣はヘッドコーチに伊東勤、打撃コーチに村上隆行、投手コーチは大学の先輩である阿波野秀幸を招聘した[40]。12月18日に塩竈市内で講演し、楽天からも来季のコーチ契約を打診されていたが、中日からの復帰要請が先にあり、(楽天退団は)「苦渋の決断だった」と明かした[41]

選手としての特徴[編集]

最速157 km/hのストレートを持つ速球派投手[42]

人物[編集]

引退した2000年時点でプロ同期の佐々木主浩野茂英雄メジャーリーグ (MLB) で活躍していたが、本人は「(自分は)1年目で燃え尽きたかな。当時、アメリカへ行けたなら、オレが真っ先に手を上げていただろうな」と述べている[1]

肩幅が広く、現役を引退してからも肩幅について話題になる。「肩幅60 cm」と報じられることもあり[43]、与田よりも10センチ以上身長の高いダルビッシュ有が2009年当時に「どうなってるんですか。その肩幅は」と声をかけるほどである[44]。2020年3月放送のサンデーLIVE!!で実測した際には61cmだった[45]。NHKアナウンサーの廣瀬智美は「私にとっては安心感すらある、この広い肩幅」と形容して紹介したことがある[27]

前述の4月7日の対大洋戦での初登板時にはホームでのクロスプレーをめぐり、捕手の中村武志に激しいタックルをした清水義之に激怒し乱闘寸前の騒ぎになった。また死球を与えてもなかなか頭を下げることはなく、1994年6月22日の対横浜戦ではグレン・ブラッグスの手首に死球を投じた際にも、やはり与田は謝らなかったために、ブラッグスはマウンドまで駆け寄り、与田にパンチを浴びせ両軍入り乱れての大乱闘となった。この時、走者のロバート・ローズがグラウンドに抑えつけたためまともに殴られている。与田も怒りを露わにしてベンチに戻る際、グローブをベンチシートに思い切り叩きつけた。これで全治2週間のケガを負った[注 7]

「努力」や「頑張れ」という言葉が嫌いで代わりに昔から「準備」という言葉を使っている[47]。中日の監督に就任してからも、選手に対して「しっかりと準備ができている選手を使う」と明言し、「(試合に向けての)準備」の大切さを説いている[48]

監督として[編集]

選手との対話を重視し、モチベーターとしての能力に長ける。監督就任後は、加藤匠馬阿部寿樹遠藤一星井領雅貴三ツ俣大樹といった前年に殆ど一軍出場のなかった選手を積極的に起用した。

ドラフト会議の抽選でのくじ運が強く、2018年に4球団が競合した根尾昂2019年には3球団が競合した石川昂弥の交渉権を引き当てた。

2019年オフシーズンには、前任の森繁和が築いたキューバやドミニカ共和国とのパイプを生かし、自らウィンターリーグを視察。モイゼス・シエラルイス・ゴンサレスを獲得した。

バントやエンドランといった小技を駆使した作戦を取る事が多い。ランナー三塁の場面では、セーフティスクイズをするケースも目立った。

2020年シーズンは、怪我人が多く出たことも影響し、8月6日時点で最大借金9と低迷した。しかしシーズン後半以降は復調し、6回終了時にリードしていた場合、37連勝を記録するなど、就任時から取り組んだブルペン整備が功を奏し、勝ちパターンを確立した。10月23日には貯金8を記録。最終的には60勝55敗5分と貯金5でシーズンを終えた。3位に入り、8年ぶりのAクラスを達成。2013年からの連続Bクラスを7年でストップさせ、監督通算成績も5割に戻した[49]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1990 中日 50 2 0 0 0 4 5 31 -- .444 353 88.1 64 10 28 2 5 70 2 0 34 32 3.26 1.04
1991 29 0 0 0 0 0 3 2 -- .000 197 45.1 39 4 26 0 2 38 4 0 17 16 3.18 1.43
1992 41 2 0 0 0 2 5 23 -- .286 315 72.1 60 6 38 5 2 69 3 0 28 28 3.48 1.35
1993 15 1 0 0 0 1 3 3 -- .250 100 19.1 23 5 19 0 1 18 1 0 23 21 9.78 2.17
1994 7 3 0 0 0 0 3 0 -- .000 81 15.0 21 2 15 0 1 12 4 0 21 20 12.00 2.40
1995 5 1 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 38 6.0 10 2 10 0 1 5 0 0 8 8 12.00 3.33
1999 日本ハム 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 1.0 1 0 1 0 0 0 0 0 1 1 9.00 2.00
通算:7年 148 9 0 0 0 8 19 59 -- .296 1089 247.1 218 29 137 7 12 212 14 0 132 126 4.58 1.44
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
  • 初登板:1990年4月7日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(ナゴヤ球場)、11回表に2番手として救援登板・完了、1回無失点
  • 初奪三振:同上、11回表に横谷彰将から
  • 初セーブ:1990年4月12日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、7回裏1死から4番手として救援登板・完了、2回2/3を1失点
  • 初勝利:1990年4月18日、対広島東洋カープ2回戦(ナゴヤ球場)、10回表に5番手として救援登板・完了、2回無失点
  • 初先発:1990年9月12日、対横浜大洋ホエールズ23回戦(ナゴヤ球場)、8回5失点(自責点4)で敗戦投手
その他の記録

背番号[編集]

  • 29 (1990年 - 1996年)
  • 30 (1997年)
  • 34 (1998年 - 1999年)
  • 38 (2000年)
  • 92野球日本代表〈2012年以降〉、2016年 - )

登録名[編集]

  • 与田 剛 (よだ つよし、1990年 - 1998年)
  • 与田 剛士 (よだ つよし、1999年 - 2000年)

年度別監督成績[編集]




























2019 中日 5位 143 68 73 2 .482 9.0 90 .263 3.72 53歳
2020 中日 3位 120 60 55 5 .522 8.5 70 .252 3.84 54歳
通算:2年 263 128 128 7 .500 Aクラス1回、Bクラス1回
※1 2020年は特例で120試合制

関連情報[編集]

著書[編集]

  • 『消えた剛速球:157キロで駆け抜けた直球人生』(2001年8月:ベストセラーズ) ISBN 978-4584159309
  • 『与田剛のメジャーリーグ剛球解説』(2008年3月:NTT出版) ISBN 978-4757150584
  • 『一流力:サムライジャパン勝利の理由』(2009年7月:双葉社) ISBN 978-4575301311
  • 『中継ぎ力:リストラ社会ニッポンの新しい生き方』(2010年2月:ワニブックス) ISBN 978-4847065095
  • 山本昌:レジェンドの秘密』(2015年12月:自由国民社)ISBN 978-4426119836

出演番組[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ a b 最後に一軍登板した年度は1999年(1試合)で[17]、唯一の一軍登板は同年10月2日[2](対ロッテ27回戦・千葉マリンスタジアム)である[20]
  2. ^ この試合では18球を投げたが、うち13球は球速150 km/h超(最速152 km/h)だった[1]
  3. ^ 31セーブは、2015年山﨑康晃横浜DeNAベイスターズ)が32セーブ目を挙げて更新するまで25年にわたり、NPBの新人最多セーブ記録だった[12]
  4. ^ 本人は「実は1年目から『壊れるんじゃないかな』と思いながら投げていたが、とにかくできるところまでやっていこうと思った」と述べている[1]
  5. ^ 結局、武田は下柳剛安田秀之との2対2の交換トレードで、松田慎司とともに福岡ダイエーホークスへ移籍した[13]
  6. ^ 中日側も「与田は環境を変えたほうが良い」と判断し、両球団とも交換要員に吉鶴・森を加えたことで複数トレードとなった[15]。また妻・木場弘子は(中日在籍時の)与田と結婚して以降、仕事から遠ざかっていたが、与田のロッテ移籍により、1997年には『わいわいティータイム』(TBSテレビ)の司会者役として4年ぶりにテレビ界に復帰した[16]
  7. ^ 尚、ブラッグスは引退後のインタビューで堂々とした与田の態度を認めている[46]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 東京新聞』2000年12月13日朝刊第二運動面20頁「それぞれのゲームセット(2) 与田剛 剛速球ストッパー 記憶の中に 喜び、辛さ、解説に生かす」(中日新聞東京本社 記者:牧田幸夫)
  2. ^ a b c 中日新聞』1999年10月3日朝刊運動1面29頁「パリーグ 第27節 2日 ロッテ4-2日本ハム」(中日新聞社
  3. ^ 92 与田 剛 選手名鑑|東北楽天ゴールデンイーグルス
  4. ^ 与田 剛(よだ つよし) - プロ野球選手名鑑 - 野球 - SANSPO.COM
  5. ^ プロ野球 - 東北楽天ゴールデンイーグルス - 与田 剛 - スポーツナビ
  6. ^ a b ドラゴンズニュース ★来季の監督に与田剛氏” (日本語). 中日ドラゴンズ 公式サイト. 中日ドラゴンズ. 2018年10月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月15日閲覧。
  7. ^ a b 楊順行「与田剛氏が中日の新監督に。現役時代の剛球を生んだ秘密とは」『Yahoo!ニュースヤフー、2018年10月12日。オリジナルの2019年12月25日時点におけるアーカイブ。
  8. ^ 神宮球場ガイドブック2002年秋号「神宮球場から翔び立ったプロ野球のスターたち」越智正典
  9. ^ 都市対抗野球大会60年史 毎日新聞社刊
  10. ^ a b c d e f 日めくりプロ野球 6月 【6月1日】1990年(平2) セ新人初の快挙!与田剛、2ケタセーブでリーグトップ」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2010年6月1日。2020年11月20日閲覧。オリジナルの2020年11月20日時点におけるアーカイブ。
  11. ^ 朝日新聞、1989年12月16日付朝刊 (14版、22面)
  12. ^ a b DeNA・山崎康、新人最多32S…与田の記録25年ぶり塗り替えた!」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2015年8月20日。2020年11月20日閲覧。オリジナルの2020年11月20日時点におけるアーカイブ。
  13. ^ 中日スポーツ』1995年11月17日第5版3頁「武田、念願の中日入りならず 星野監督に励まされた 新天地で頑張れ 機会あったら一緒にやろう」(中日新聞社)
  14. ^ 二宮清純この人と飲みたい » 武田一浩(野球解説者)<後編>「工藤、城島との思い出」」『SPORTS COMMUNICATIONS』(構成・写真:石田洋之)、2015年8月27日。2020年11月16日閲覧。オリジナルの2020年11月16日時点におけるアーカイブ。
  15. ^ a b c 中日新聞』1996年6月11日朝刊運動1面23頁「「鍛えたい」広岡氏指名 ロッテへトレードの与田 中日、内藤らと交換発表」(中日新聞社
  16. ^ 『東京新聞』1997年7月6日朝刊TV解説面12頁「木場弘子さん復帰 「わいわい〜」司会で TBS」(中日新聞東京本社
  17. ^ a b 与田 剛士(阪神タイガース) 個人年度別成績” (日本語). NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構. 2020年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月19日閲覧。
  18. ^ 『中日新聞』1997年12月4日朝刊第一運動面28頁「プロ野球短信 【日本ハム】与田と契約を交わす」(中日新聞社)
  19. ^ a b c 『東京新聞』1999年2月24日夕刊三面3頁「「力で勝ちたい」直球145キロ 日ハム・与田剛投手 新人王…ひじ痛に悩み“3度目の正直”復活へ」(中日新聞東京本社)
  20. ^ a b 『東京新聞』1999年10月3日朝刊運動2面22頁「パ・リーグ 日ハム5位確定 千葉(最終戦日15勝11敗1分)ロッテ4-2日本ハム」(中日新聞東京本社)
  21. ^ 『中日新聞』1999年10月9日朝刊第一運動面37頁「プロ野球短信 8日 【日本ハム】与田に戦力外通告」(中日新聞社)
  22. ^ 『中日新聞』1999年12月3日朝刊第一運動面35頁「小宮山ら104人自由契約 保留選手名簿など公示」(中日新聞社)
  23. ^ 『東京新聞』1999年10月23日朝刊第一運動面21頁「与田“再生工場”に期す 阪神採用」(中日新聞東京本社)
  24. ^ 『東京新聞』2000年9月24日朝刊第一運動面21頁「セ・リーグ 与田を戦力外 阪神」(中日新聞東京本社)
  25. ^ 『中日新聞』2000年12月3日朝刊第三運動面21頁「ガルベスら自由契約 保留選手名簿を公示」(中日新聞社)
  26. ^ 『中日新聞』2000年11月15日朝刊第一運動面25頁「与田が引退 元中日 最優秀救援で新人王 すごかったヨ…豪速球」(中日新聞社)
  27. ^ a b 廣瀬智美本日」『News Watch 9 ブログ』日本放送協会、2011年6月20日。オリジナルの2011年6月22日時点におけるアーカイブ。
  28. ^ 日本代表ニュース 侍ジャパン 監督、コーチ” (日本語). NPB公式サイト. 日本野球機構 (2012年10月10日). 2020年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月20日閲覧。
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  36. ^ 楽天の後任監督候補に梨田、与田氏ら…就任1年で大久保監督が辞意 - スポーツニッポン(2015年8月30日 05:30)
  37. ^ 楽天不穏 デーブ後任問題「なり手いないだろ」の声 - 東京スポーツ(2015年9月1日 06時00分)
  38. ^ 【龍の背に乗って】楽天・ハーマン証言「与田さんこそ本物のコーチ」」『東京中日スポーツ』中日新聞東京本社、2019年3月25日。2020年11月19日閲覧。オリジナルの2020年11月19日時点におけるアーカイブ。
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  42. ^ 中日ロンドン球団最速タイ157キロ、与田らに並ぶ」『nikkansports.com日刊スポーツ新聞社、2017年6月8日。2020年11月19日閲覧。オリジナルの2020年11月20日時点におけるアーカイブ。
  43. ^ ストレスのはけ口に…WBC投手コーチ与田剛(上) 夕刊フジ2008年11月22日
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  45. ^ 濱田隼 (メ〜テレアナウンサー)(@shun_hamada_nbn) 公式インスタグラム
  46. ^ NHKBS1 ワースポ×MLB 「あの助っ人は今」
  47. ^ 現役最後の1年「感謝の思い出」 燕市教育委員会 与田剛さんスポーツ講演会(上) 越後ジャーナル2011年12月24日
  48. ^ 中日・与田剛(第33代監督) 結束力を高める新指揮官/監督徹底分析” (日本語). 週刊ベースボールONLINE. 2019年9月15日閲覧。
  49. ^ 貯金・順位推移グラフ2020年シーズン

関連項目[編集]