中村重和

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中村 重和 Football pictogram.svg
名前
愛称 シゲさん
カタカナ ナカムラ シゲカズ
ラテン文字 NAKAMURA Shigekazu
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1958-07-30) 1958年7月30日(59歳)
出身地 長崎県島原市
身長 175cm[1]
体重 73kg[1]
選手情報
ポジション DF
ユース
長崎県立島原商業高等学校
大阪商業大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1981-1991 東洋工業/マツダ
監督歴
1991-1992 マツダSCコーチ
1992-1996 広島コーチ兼スカウト
1997-2000 広島ジュニアユース監督
2001-2002 広島ユース監督
2002 福岡監督
2003-2005 福岡管理強化部長
2006-2007 福岡チーム統括グループ副長
2008 長崎育成強化部長
2012- 徳山大学サッカー部監督
1. 国内リーグ戦に限る。2007年10月15日現在。
■テンプレート(■ノート ■解説■サッカー選手pj

中村 重和(なかむら しげかず、1958年7月30日 - )は、長崎県島原市出身の元サッカー選手(DF)、指導者(JFA 公認S級コーチ[2]

徳山大学サッカー部監督。

来歴[編集]

マツダ/広島時代[編集]

島原商業高校では小嶺忠敏から指導を受け、大阪商業大学では上田亮三郎から指導を受けた[2]。どちらもミッドフィルダーとしてプレーした。

1981年大学卒業後、マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部(マツダSC、現在のサンフレッチェ広島)に入団した[2]。ディフェンダー(サイドバック)として信藤克義(信藤健仁)や松田浩らとDFラインを形成、高校・大学の後輩にあたる小林伸二や、高橋真一郎猿沢茂木村孝洋ら地元広島出身者、ディド・ハーフナーら外国人らとプレーした。1982年にはJSL選抜[2]。1987年にはハンス・オフト監督のもと、天皇杯決勝進出に貢献した。

引退後はマツダ・広島で、トップチームコーチやスカウトなど裏方として活躍後、育成組織の指導者として活躍した[2]。スカウト時代、久保竜彦広島入団に導いた。ジュニアユース監督時代には沖本尚之田坂祐介田村祐基高柳一誠らを育て、ユース監督時代には田森大己・宮本卓也や沖本・木村龍朗寄井憲などを育て、トップチームでは消化できなかった4-3-3システムを構築・機能させ後に森山佳郎により日本有数の強豪チームとなった広島ユースの基盤を作っている[3]

アビスパ福岡[編集]

2002年8月、広島ユース監督時代にアビスパ福岡よりオファーが届いたことから、福岡監督に就任する[3]。この年の福岡は、前年のJ2降格を受けシーズン前に実績のあるベテラン選手を大量に補強、1年でのJ1復帰を目指した。しかし開幕から成績不振に陥り、それによる観客動員低下と嵩む人件費はチーム経営を圧迫、選手もモチベーション低下とどん底の状態に陥っていた[4]。その状況に対し福岡フロントは、監督としての仕事より「ゼネラルマネージャー(GM)」的な役割を期待していた[3]。監督就任後、限られた予算内でチームを回すため、それまでのベテラン中心のレギュラー陣を若手中心に切り替える[3]。当然さらに負けが込み、指揮を執った20試合(2002年第25節-44節)ではわずか2勝しかできなかった[4]

翌2003年、監督から管理強化部長(GM職)に転任しベテラン勢の解雇を決行、若手を中心としたチーム編成をし、次の監督に旧知の仲である松田浩を招聘した[3][4]。その中で千代反田充中村北斗城後寿長野聡など地元九州の有望選手を次々に獲得し、福岡を当時Jリーグ中でも平均年齢の低いチームの1つに生まれ変わらせ、徹底した「育成型チーム」への転換を行った[2][3]。なお先発メンバーの平均年齢は、2002年開幕戦で28.9歳だったものが2004年には24.0歳までになっている[3]。一方で有光亮太山形恭平などの練習生とも契約し戦力強化に努めた[2]

その後チームは成熟し2005年、J1復帰に漕ぎ着けた[4]。監督としての成績は振るわなかったが、それまでの行き当たりばったりのチームを生まれ変わらせた功労者として、当時は一定の評価をされている[2][3]

J1復帰の2006年、組織改編に伴い長谷川治久が現場の統括責任者に就任し、中村は"チーム統括グループ副長"として主にスカウト業務や育成組織選手の補佐、つまり事実上の人事格下げとなった[5]。なおこの年は1年でJ2降格し、長谷川は責任をとって退団している。

2007年J2降格後、旧知の仲である小林伸二と共にチーム再建に乗り出すもののJ1昇格を果たせず、チームの育成部門の再編から沖野等育成統括とともに契約を打ち切られた。

以降[編集]

2008年、恩師の小嶺忠敏が社長を務め当時九州サッカーリーグ所属のV・ファーレン長崎育成強化部長に就任する[6]。同年末、契約期間満了につき退任[7]

2012年、後藤太郎の後任として山口県の徳山大学サッカー部監督に就任した[8]。同チームを6年ぶりの天皇杯全日本サッカー選手権大会出場へと導いた。山口県代表として臨んだ第92回大会では2回戦に進出し、マツダ時代の後輩である風間八宏監督が率いるJ1の川崎フロンターレに敗れている。

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1981 マツダ JSL1部
1982 マツダ JSL1部
1983 マツダ JSL1部
1984 マツダ JSL2部
1985 マツダ JSL2部
1986-87 マツダ JSL1部
1987-88 マツダ JSL1部
1988-89 マツダ JSL2部
1989-90 マツダ JSL2部 10 0 0 0
1990-91 マツダ 2 JSL2部 0 0 0 0
通算 日本 JSL1部 81 0
日本 JSL2部
総通算

監督成績[編集]

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 ナビスコ杯 天皇杯
2002 J2 福岡 8位 20 2 5 13 - 4回戦
  • 2002年は第25節から最終節まで指揮。順位は最終順位。

脚注[編集]

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  1. ^ a b 『1990-1991JSLイヤーブック』p72
  2. ^ a b c d e f g h 管理強化部長 中村重和の挑戦(2/2)”. スポーツナビ (2005年6月12日). 2013年11月6日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 管理強化部長 中村重和の挑戦(1/2)”. スポーツナビ (2005年6月12日). 2013年11月6日閲覧。
  4. ^ a b c d 【Road to J1~2006 J1新規3クラブの過去・現在・未来~】アビスパ福岡:新たなスタートの始まり(1)”. J's GOAL (2006年1月24日). 2013年11月6日閲覧。
  5. ^ 組織変更ついてのお知らせ”. J's GOAL (2005年11月30日). 2013年11月6日閲覧。
  6. ^ V・ファーレン長崎が新体制を発表”. ニッカンスポーツ (2008年1月20日). 2013年11月6日閲覧。
  7. ^ 「J昇格目指し頑張る」 V・ファーレンの東川監督が契約更新”. 長崎新聞 (2008年12月27日). 2013年11月6日閲覧。
  8. ^ 体力強化で徳山大サッカーV ”. 中国新聞 (2012年11月13日). 2013年11月6日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『1990-1991JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1990 ISBN 4-523-31032-7
  • 『1991-1992JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1991 ISBN 4-523-31033-5
  • 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1992-1993』、小学館、1992 ISBN 4-09-102301-0
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1993・サントリーシリーズ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102303-7
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1993・ニコスシリーズ ヤマザキナビスコカップ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102305-3
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1994・サントリーシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102310-X
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1994・ニコスシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102314-2
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1995・サントリーシリーズ』、小学館、1995 ISBN 4-09-102318-5
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1995・NICOSシリーズ』、小学館、1995 ISBN 4-09-102321-5
  • 『J.LEAGUE YEARBOOK 2003』、NTT出版、2003 ISBN 4-7571-8135-3

関連項目[編集]