中津野用水路

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中津野用水路(なかつのようすいろ)は、鹿児島県姶良市別府川の支流山田川から取水して山田、中津野地区を灌漑(かんがい)している、全長約4kmの用水路である。山田の山下井堰から取水され、9つのトンネルを通り山田の32ヘクタール、中津野の34ヘクタールに水を供給している。

歴史[編集]

水口ゆきえの墓

姶良町の中津野地区(当時は帖佐郷)は、別府川の支流山田川と蒲生川が合流する地点で、地区の両側を川が流れていたが、川より高い位置に土地があるために水を引くことができず、水田がなく稲作陸稲で、他は畑作農業であった。このために貧しく、中津野というだけで嫁が来ないというほどであったという。

中津野に生まれた水口ゆきえ(女性、当初は苗字なし、当時15歳)は、山田川対岸の女生嶽(にょしゅだけ、128.8m)の上から見て、山田から水路を造ると中津野に水を引ける事に気付き、熱心に村の大人に提案して工事が始まることになった。しかし農繁期になると次々に協力者が抜けて、最後にはゆきえが1人で工事を続行した。完成が近づくと再び協力が始まり、1752年宝暦2年)についに完成し、中津野に水田を作ることができるようになった。

しかし、これほど利発な娘は将来何をしでかすか分からないと恐れられ、権力者側により山の中で殺害された。同年12月、有志により水口邸の一角に祠が作られて祀られ、これは現存している。法名は「正孝坂童子位」で、「正しく孝行の子、土地の勾配を見出した」という意味であるが、本来は男子の法名である。

水口家は、この工事の功績により水口の姓を与えられ、代々水守の仕事をしてきた。

1951年(昭和26年)4月15日、水路の取水口に彼女の功績を顕彰する碑が立てられ、1974年(昭和49年)5月に墓が姶良町の文化財に指定され、今なお地元住民から称えられている。

参考文献[編集]

  • 高橋ちえこ「ゆきえ」高城書房 ISBN 4-924752-72-X 1998年
  • 姶良町郷土誌改定編さん委員会「姶良町郷土誌」平成7年10月増補改訂版 1995年