中田昌宏

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中田 昌宏
Yoshihiro Nakata 1956 Scan10009.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県西宮市
生年月日 (1935-02-22) 1935年2月22日
没年月日 (2009-11-16) 2009年11月16日(74歳没)
身長
体重
177 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1957年
初出場 1957年3月30日
最終出場 1968年10月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 阪急ブレーブス (1969 - 1988)

中田 昌宏(なかた よしひろ、1935年2月22日 - 2009年11月16日)は、兵庫県西宮市鳴尾出身の元プロ野球選手外野手)。

現役時代は阪急ブレーブスに所属し、引退後も阪急のコーチ・代理監督・二軍監督を務めたほか、オリックスの編成部長・取締役等も歴任した。

経歴[編集]

鳴尾高校で投手として甲子園に2度出場。1951年春の選抜高校野球では1年上の野武貞次(法大リッカー)との二本柱で勝ち進み、決勝に進出。決勝の対鳴門高戦で9回を投げ抜くが、1点リードして迎えた9回裏に味方のエラーで同点とされ、さらに自身の三塁牽制悪送球でサヨナラ負けを喫する[1]。甲子園球場から徒歩2分のところにある鳴尾高の初の決勝進出とあって、球場を埋めつくした5万を越える観衆のほとんどが鳴尾高を応援していたが、この敗戦に一瞬で静寂に包まれた。この年の同校からは中田の他に、藤尾茂鈴木武山田清三郎の4人のプロ野球選手を輩出している。翌1952年春の選抜でもエースとして準決勝に進むが、またも鳴門高に敗退した[1]。鳴門高には後に大学同期となる遊撃手日野美澄がいた。

進学した慶應義塾大学で野手に転向。東京六大学リーグでは、1年下のエース林薫、2年生左腕の巽一を擁し1956年秋季リーグで優勝。同季は長嶋茂雄らを抑え首位打者を獲得した。リーグ通算66試合出場、198打数64安打、0本塁打、26打点、打率.323。1955年秋季リーグからベストナイン(一塁手)に3回連続選出されている。1955年第2回アジア野球選手権大会日本代表(東京六大学リーグ選抜チーム)。日野以外の大学同期に、後にプロでチームメートとなる衆樹資宏がいる。大学時代の愛称は「ゴジラ」。当時としては身長が高く、がっちりしていたため、大学在学時に公開されたばかりの怪獣映画からつけられたという。

1957年、鳴り物入りで阪急ブレーブスに入団。一塁手には岡本健一郎が定着していたため、主に外野手として起用される。当時阪急では年間チーム本塁打が40本前後で、本塁打10本さえ打てる打者がいなかった。そのため六大学時代には本塁打を1本も打っていないアベレージヒッターではあったが、身長177センチと当時としては大柄だった中田を球団を挙げて長距離砲へと育成。本人の入団時の目標は首位打者獲得であったが、当時の球団社長と監督に説得されて、しぶしぶ本塁打を狙うバッティングに変えた。1年目から1軍の試合に出場し主軸としておよそ12年間、クリーンナップを任された。入団3年目の1959年には本塁打王大毎山内和弘にあと2本と迫る23本塁打を記録。そして入団5年目の1961年にはチーム本塁打が65本とリーグ最少のチームにあって、29本を放ち本塁打王のタイトルを野村克也と共に分け合った。これは阪急ブレーブスの歴史では2リーグ分裂後初めての本塁打王だった。しかし、元来天性のホームラン打者ではなく、長打を打つには大きなスイングをする必要があったため三振も非常に多かった。そのため、復刻版のベースボールカードなどでのキャッチフレーズは「三振かホームラン」となっていた。1961年に記録したシーズン121三振は、1984年西武ライオンズ秋山幸二に抜かれるまで、日本人の最多三振記録だった。1964年5月31日の近鉄戦では、1イニング2本塁打のプロ野球記録も達成。通算サヨナラ安打12本は、野村克也20、広瀬叔功15、清原和博13に次いで藤井康雄田中幸雄と並びパ・リーグ歴代4位、阪急~オリックスの生え抜き選手では藤井康雄と並び歴代1位と、ここぞという場面では勝負強い一面も持っていた。通算サヨナラ本塁打は4本。

1967年に阪急が西本幸雄監督の下、悲願のパ・リーグ初優勝を果たした時はキャプテンを務める。スタメンと代打(右の切り札という立場だった)での出場を繰り返しながらも、過去最高の.282を打って初優勝に貢献した。チームが2連覇を果たした1968年に現役を引退。選手としての晩年、パワーの衰えを感じもう一度アベレージヒッターへの変貌を目指したが、すでに長距離砲のスイングが身に付いてしまっていて、簡単には変えられなかったという。

その後は打撃コーチ・外野守備コーチとして福本豊加藤秀司らを指導。阪急ブレーブス黄金時代を支えた。上田利治監督が率いたV4時代もヘッド兼打撃コーチ、代理監督(1978年途中に4試合のみ)、二軍監督を歴任。阪急ブレーブス一筋で32年に渡ってチームに在籍。2004年までブレーブス・ブルーウェーブOB会会長を務めた。

1989年チームが阪急からオリックスに変わるとフロント入りし編成部長に就任。初年度のドラフトでは野茂英雄を指名するも抽選で外し、佐藤和弘(パンチ佐藤)を獲得。しかし以後は1990年に長谷川滋利野村貴仁、1991年に田口壮イチロー、1992年に小林宏金田政彦、1993年に平井正史三輪隆らの獲得に成功。それらの選手が順調に育ち、1995年・1996年にオリックスが「がんばろうKOBE」をキャッチフレーズに掲げ、パ・リーグ連覇を成し遂げる際の原動力となった。イチローの獲得に際しては、スカウトの三輪田勝利の報告を受けて自ら愛知県まで視察に行き、そのバッティングを高く評価して田口をはずした場合のはずれ1位候補に進言した(最終的に4位での指名となった)[2]。以降、球団取締役等を歴任し2001年に定年退職するまでチームの新人獲得の最高責任者として屋台骨を支えた。退団後は2006年までJ SPORTSの野球解説者としてオリックスをネット裏から温かく見守っていたが、2007年以降は出演していなかった。

2009年11月16日、心不全のため横浜の病院にて死去。74歳没。葬儀は出生地、兵庫県西宮市鳴尾の善教寺にて行われた。

指導者として[編集]

阪急のコーチ時代、キャンプの守備練習でバンザイを繰り返していた新人時代の福本豊を「一人前にしてやってくれ」と監督の西本から依頼された。前年現役を引退したばかりでスイングが強くノックの打球に勢いがあったからだ。肩書きは打撃コーチでありながら福本専用のノッカーとして速くて方向の判断が難しい(途中から伸びたり曲がったりする)打球のノックを毎日200本近く打って、練習をさせた[3][4]。相手チームの打者の打球傾向を知るために相手チームの打撃練習の観察を義務づけたり、「中堅手の頭を越える打球なんてそうあるものじゃないんだから、なるべく前で守れ」と助言したことで、福本は外野守備の名手へと成長していった[3]。もともとは打撃コーチであり、福本専用のノッカーだった中田だが、福本に難しい打球を打つために毎年キャンプイン前に自主トレでノックの練習を積み、数年経ったときには、自分の思った場所の半径1m以内に思い通りのフライを打つことができるようになったという。その後、打撃コーチのまま、阪急の外野手全員にノックを打つようになり、福本だけでなく、大熊忠義ウイリアムス蓑田浩二らの名手を生む原動力になった。

また、若い選手に「オイ悪魔」という訓辞を語っていた[4]。福本豊によると、これは「怒(こ)るな、威張(ば)るな、焦(せ)るな、腐(さ)るな、迷(よ)うな」を並べたものであった[4]

イチローの獲得に際しては、担当スカウトだった三輪田とともにその才能を一目で見抜き、惚れ込んでいた。1991年の夏の終わり、三輪田スカウトから「おもしろい選手がいるから見て欲しい」と報告を受けて、編成部長だった中田がイチローの打撃練習を愛工大名電高のグラウンドで視察。1球たりとも芯を外さない、イチローのフリーバッティングを見て、「あんな選手見たことがない!」とその天才的打撃に惚れ込んだ。当時のスカウトによると「イチローの視察から帰ってきた中田さんは、普段はあんな風に選手を褒めない人が興奮して絶賛していた」と語っている。そのため、その年のドラフト会議では田口壮に次ぐ2位指名を編成会議で求めた。しかし、フロント入りしていた前監督・上田利治らは「線が細すぎる。プロでは無理だ」と萩原淳を推して侃々諤々の議論の末、萩原の2位指名が決まった。3位指名はオリックスが囲っていた本東洋で決まっていたため、ドラフト当日、オリックスのイチロー獲得は絶望的だった。しかし、同じくイチローを高く評価していた日本ハムと、地元中日が、いずれも4位までに指名しなかったため、オリックスはイチローを4位で指名することができた[5]

人物[編集]

「中田昌宏」と書いて「なかた よしひろ」と読むが、元来大らかな性格のため、「なかた まさひろ」と言われてもまったく否定もしなかったために、ルビに「まさひろ」と書かれた野球資料も多く存在する。

大学時代、東京六大学野球の花形選手だったため、いつも満員の神宮球場で試合をしていた。新人の年、阪急の公式戦開幕の日、あまりの客の少なさに先輩選手に「まだオープン戦でしたっけ?」と聞いてしまったらしい。先輩選手曰く「これでもいつもよりは入っている」と言われ、初めて阪急の人気のなさに気づいたという。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1957 阪急 111 347 308 27 71 10 3 6 105 33 11 7 0 2 36 0 1 66 7 .231 .313 .341 .654
1958 128 516 488 50 110 25 4 12 179 58 5 3 0 7 21 2 0 108 5 .225 .257 .367 .624
1959 131 514 464 54 118 18 3 23 211 75 2 2 0 7 41 0 2 97 8 .254 .318 .455 .772
1960 117 398 357 38 78 19 1 14 141 41 1 1 1 4 36 6 0 92 7 .218 .290 .395 .685
1961 138 569 513 62 122 25 4 29 242 74 2 5 0 2 53 2 1 121 8 .238 .310 .472 .782
1962 118 333 304 32 71 13 1 12 122 34 6 3 1 2 25 0 1 89 15 .234 .294 .401 .695
1963 147 536 489 57 113 12 2 22 195 61 8 6 2 5 38 2 2 83 11 .231 .289 .399 .688
1964 144 485 435 42 96 19 2 11 152 36 4 3 3 3 43 1 1 80 16 .221 .292 .349 .642
1965 122 324 288 30 64 12 1 11 111 36 1 2 2 3 31 1 0 72 10 .222 .298 .385 .683
1966 113 318 290 28 71 14 1 10 117 38 2 0 4 4 17 0 3 40 4 .245 .294 .403 .697
1967 112 238 216 21 61 5 1 4 80 37 2 3 0 4 18 0 0 31 7 .282 .338 .370 .708
1968 49 56 48 5 10 2 0 0 12 3 1 1 3 0 4 1 1 11 0 .208 .283 .250 .533
通算:12年 1430 4634 4200 446 985 174 23 154 1667 526 45 36 16 43 363 15 12 890 98 .235 .297 .397 .694
  • 各年度の太字はリーグ最高

通算監督成績[編集]

  • 4試合 3勝1敗0分 勝率.750

タイトル[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1963年5月5日、対南海ホークス3回戦(阪急西宮球場)、2回裏に杉浦忠から左越先制ソロ ※史上29人目
  • 1000試合出場:1964年8月12日、対近鉄バファローズ24回戦(阪急西宮球場)、6番・中堅手で先発出場 ※史上89人目
  • 150本塁打:1966年9月13日、対近鉄バファローズ22回戦(日生球場)、8回表に伊藤幸男から左中間へソロ ※史上24人目
その他の記録
  • 1イニング2本塁打:1964年5月31日、対近鉄バファローズ12回戦(阪急西宮球場)、7回裏先頭で山本重政から左越場外ソロ、2死1塁で山本重政から左越2ラン ※史上4人目[6]
  • 通算サヨナラ安打:12本 ※パ・リーグ歴代4位タイ
  • オールスターゲーム出場:1回 (1959年)

背番号[編集]

  • 10 (1957年 - 1968年)
  • 77 (1969年 - 1988年)

脚注[編集]

  1. ^ a b 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 石田雄太 (2013年10月24日). “<イチロー、運命のオリックス入団> ドラフト秘話 「本当は1位指名もあった」”. 文藝春秋Sports Graphic Number836). 2018年2月4日閲覧。
  3. ^ a b “レジェンドに聞け!第18回 福本豊「いまは投手がロクにけん制しない」”. 週刊ベースボールONLINE. (2014年7月7日). http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=069-20140714-01 2018年2月2日閲覧。 
  4. ^ a b c 福本豊『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』ベースボール・マガジン社、2014年、pp.45 - 46
  5. ^ <イチロー、運命のオリックス入団> ドラフト秘話 「本当は1位指名もあった」 - プロ野球”. Number Web (2013年10月24日). 2018年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月24日閲覧。
  6. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」410ページ

関連項目[編集]