中野能成

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中野 能成(なかの よしなり、生没年未詳)は、鎌倉時代前期の信濃国の武将。通称は五郎。鎌倉幕府御家人。二代将軍源頼家の近習。本姓は藤原氏

生涯[編集]

建久元年(1190年)11月の源頼朝上洛の際に随兵として名が見られる。頼朝死後に跡を継いだ頼家の近習となり、的始儀の射手や狩の供を務める。頼家が十三人の合議制に反発して選んだ5人の側近にも選ばれている。

鎌倉幕府編纂書『吾妻鏡』によれば、建仁3年(1203年)9月2日に起こった頼家の外戚比企氏北条氏の対立である比企能員の変では、能成は4日に比企氏方として拘禁され、19日に所領を没収されたのち、11月7日に遠流が決定された事になっている。一方、『市河文書』に残された二通の古文書によれば、能成が拘禁されたとされる日と同日の日付で北条時政の署名により「比企能員の非法のため、所領を奪われたそうだが、とくに特別待遇を与える」と書かれており、時政によって本領を安堵され、また本領の信濃国志久見郷(栄村志久見)を免税地とされている。関連は不明だが、時政が比企能員を謀殺するために邸内で待ち伏せを行った際に、「中野四郎」が時政に召し出されている。

この事から能成は北条氏と裏で通じており、頼家近辺の情報を流す間諜をしていたとみられ、この当時の文書と『吾妻鏡』との相違は、北条氏得宗家の立場である吾妻鏡編纂者による作為を象徴するエピソードとなっている。

また能成は『吾妻鏡』が得宗家の聖人君子として賛美する北条泰時蹴鞠に耽る頼家を諫めたというエピソードにも聞き役として登場している。

その後は同族と見られる中野助能が、建保7年(1219年)に源実朝を暗殺した公暁の後見人である勝円阿闍梨を捕らえて北条義時邸へ連行している(『吾妻鏡』)。

参考文献[編集]

関連項目[編集]