丹羽光重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
丹羽光重
丹羽光重.jpg
大隣寺所蔵
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 元和7年12月28日1622年2月8日
死没 元禄14年4月11日1701年5月18日
改名 宮松丸、長栄、光重
別名 半古庵、玉峰
戒名 慈明院殿従四位下前拾遺補闕玉峰大居士
墓所 大隣寺
官位 従五位下左京亮、従四位下左京大夫侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱
陸奥国白河藩主→陸奥国二本松藩
氏族 丹羽氏
父母 父:丹羽長重、母:竜光院
正室安藤重長の娘
継室櫛笥隆胤の娘
長次長之、娘(池田綱政室)、娘(松平義昌室)、娘(西尾忠成室)

丹羽 光重(にわ みつしげ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名陸奥白河藩主、後に陸奥二本松藩主。茶人としての号は半古庵(はんこあん)、画家としての号は玉峰(ぎょくほう)。

生涯[編集]

元和7年12月28日(1622年2月8日)、丹羽長重の三男として生まれる。幼名は宮松丸。2人の兄が共に夭逝したため、寛永5年(1628年)に嫡子となる。寛永11年(1634年)12月19日、江戸幕府将軍徳川家光より偏諱を賜って光重と名乗る。また、従五位下左京亮に叙任する。寛永14年(1637年)4月、父・長重の死去により白河藩主となる。寛永19年12月晦日、従四位下に昇進する。

寛永20年(1643年)7月4日、陸奥伊達郡、安積郡へ移封されて、二本松に居城を構え、二本松藩の初代藩主となる。また、陸奥国田村郡の幕領1万5360石を預けられる。正保元年(1644年)4月10日、初めて二本松へお国入りする許可を得る。国替えにともない、藩の諸制度を定め、城郭や道路・城下町の大規模な整備事業を行った。光重は文化人としても知られ、茶道石州流片桐貞昌に学んで奥義を極めたり、絵画を狩野益信狩野常信に学んで狩野派画風の作品を描いたり、また華道や書道にも造詣が深かった。他にも高野山萬福寺の僧侶を招請し、後者に「烈祖図」や「十六羅漢図」を寄進する(共に現存)など、仏教や学問の普及に努めた。

万治元年(1658年)閏12月27日、侍従に任官する。延宝6年(1678年)8月6日、預かっていた陸奥国田村郡の幕領を返還する。延宝7年4月7日、嫡子の長次に家督を譲って隠居した。隠居後は玉峰と称した。元禄14年(1701年)4月11日に死去した。享年80(満79歳没)。

逸話[編集]

  • 土芥寇讎記』の息子長次の項目に拠れば、「父親(光重)は美童を甚だしく愛して問題が多かったが、息子(長次)にはその気配はない」「父は文武禅学の教養があったが息子にはない」とされている。実際、光重の小姓、おそらく寵童を狩野益信が描いた「西村志摩之助画像」が、二本松市の台雲寺に残っている[1]
  • 浅野長矩松の廊下高家旗本吉良義央を切りつけた際(浅野長矩#殿中刀傷)、その報を聞いて「何故切りつけたのか?突きさえすれば殺せたものを!」(丹羽氏の刀術は突きが基本)と立腹し、煙管キセル)で煙草盆の灰入れを叩き、凹ませたという。この時叩いた灰入れは丹羽氏18代当主・丹羽長聰が家財を二本松市に寄付する際に偶然発見した[2]。なお、丹羽長重の娘が赤穂藩初代藩主浅野長直の正室であり、丹羽光重は浅野長矩の大叔父に当たる。

脚注[編集]

  1. ^ 榊原悟狩野探幽 御用絵師の肖像』 臨川書店、2014年6月、pp.705-706、ISBN 978-4-653-04085-9
  2. ^ http://dot.asahi.com/wa/2014092600055.html