亀田郷

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亀田郷(かめだごう)とは、越後平野を流れる信濃川阿賀野川およびその支流である小阿賀野川に囲まれた地域を指す言葉。かつての大湿地帯が干拓されて美田となり、「疎水百選」に選ばれている。

亀田郷のおおよその範囲

歴史[編集]

湿田地帯[編集]

新潟市中央区東地区・南地区と江南区のほぼ全域にあたる鳥屋野潟を中心とした約11km四方、約10,000haにも及ぶ広大なエリアで、かつては「地図にない湖」とも呼ばれた大湿地帯であった[1]地域である。湿田であったため農民は舟を使って腰まで水に浸かりながらの農作業を強いられ、生産性が低く且つ命懸けの作業環境にさらされていた。しかし、過酷な環境下で造られた米は鳥ですら口にしないことから「鳥跨ぎ」とも呼ばれるなど、著しく品質が低かった。さらには信濃川や阿賀野川で洪水が発生するたびに堤防が切れて大規模な被害を受け、三年に一度しか米が作れないことから「三年一作」とも揶揄されたほどであった[1]。この間、信濃川では大河津分水路の通水によって下流域の水量が減少し、阿賀野川でも大規模な河道改修が実施されたことにより、治水能力は改善された。また鳥屋野潟から信濃川に通じる栗ノ木川の分水路として新栗ノ木川が通水したものの、亀田郷の排水は遅々として進まなかった。

排水と乾田化[編集]

1948年、戦前から進められていた農地整備事業の一環として、鳥屋野潟東端部から栗ノ木川を通じて機械による強制排水を行う「栗ノ木排水機場」が稼働を開始した[2]。合わせて域内には土地改良区が組織され[2]、農地を統一規格に整備することとなり、用排水路など疏水の整備も進められた。こうした策によって亀田郷の排水は急速に進捗し、1955年頃には水田の区画化がほぼ完了。牛や馬、機械による農作業が可能となって舟農業からの脱却を果たし、亀田郷では1957年に乾田化が宣言された。米をはじめとする農産物の生産性が大幅に改善された上に、品質も大きく向上した。これと併せて鳥屋野潟周辺に多数存在した小規模湖沼の干拓と埋立ても進められ、都市開発が急速に進捗した。

脚注[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]