京王電気軌道110形電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
122(1937年撮影、省線新宿駅前駅

京王電気軌道110形電車(けいおうでんききどう110がたでんしゃ)は、現在の京王電鉄京王線に相当する路線を運営していた京王電気軌道が1928年(昭和3年)に投入した電車である。

概要[編集]

1928年(昭和3年)に雨宮製作所で111 - 122の12両が製造された。京王電軌では初の半鋼製車体となったが、玉南電気鉄道から継承した木造車体の1形に準じた明かり取り窓と水雷形通風器を交互に配した二重屋根、片側2扉である。側面の窓配置は1D (1) 122221 (1) D1(D:客用扉、(1):戸袋窓、数字:窓数)で、側窓は一段下降式である。台車は111が雨宮製作所製の板台枠リベット組立てによる釣り合い梁式台車A-1を装着するが、112以降の車両は1形が装着していたJ.G.ブリル製Brill77 E1を1,372mm軌間に対応する改造を施工した上で装着している。集電装置は東洋電機製造製TDK-D空気圧上昇式菱形パンタグラフを1基搭載する。落成時点では117 - 122の6両は簡易手荷物室が設置され、座席が折り畳み式となっていた。

1940年(昭和15年)に側面中扉が増設され3扉となり、窓配置は1D (1)121D (1) 21 (1) D1となった。1943年(昭和18年)に一部の車両が片運転台化された。1944年(昭和19年)に京王電気軌道が東京急行電鉄大東急)に合併される際、デハ2110形(2111 - 2122)となった。

2117 - 2119・2121は1945年(昭和20年)5月25日の空襲(山の手大空襲)で、2122が1946年(昭和21年)1月16日に桜上水工場の火災で被災した。2118・2119は1946年(昭和21年)に、2117・2121・2122は1947年(昭和22年)に復旧工事が施工された。内容は焼失鋼体を利用しつつ鋼板張り一重屋根、2段窓でパンタ側の客用扉を車体中心に寄せ左側半室式の運転室と乗務員扉新設等であり、屋根を二重屋根の高い側に合わせたため、極端な厚みを持つ屋根であり、なおかつ施工時期や外注業者により屋根曲線が異なっていた。

1950年(昭和25年)から1951年(昭和26年)にかけてブレーキシステムSME直通ブレーキからAMM自動空気ブレーキへ変更、制御連動式ドアエンジンを設置するなどの3両編成対応工事(三編工)が施工された。

2119は復旧工事施工後に脱線することが多く、調査したところ車体のメインフレームが捩れていることが判明したため1953年(昭和28年)に廃車され、翌1954年(昭和29年)に日本鉄道自動車で改修・両運転台構造に復旧の上庄内交通に譲渡され、同社湯野浜線モハ7となり、1975年(昭和50年)の同線廃線まで使用された。

2112 - 2118・2120 - 2122は1955年(昭和30年)に、2111は1957年(昭和32年)にそれぞれ付随車化されサハ2110形となり、さらに1961年(昭和36年)に2111 - 2115が2000系・2010系の付随車「スモールマルティー」(t) に改造され、サハ2531・2505・2532・2506・2507となる。翌1962年(昭和37年)に2117・2118・2121・2122の車体更新名義で2700系のサハ2754・2755、2010系の付随車「ラージマルティー」(T) サハ2575・2576が代替新製されている。2116・2120は広幅貫通路が設置され、デハ2400形(デハ2401・2409・2410)およびデハ2125形(デハ2130)と共に3両固定編成となり、1963年(昭和38年)の京王線架線電圧1,500V昇圧まで使用し、廃車されている。

サハ2507(元2115)は廃車後に妻面の広幅貫通路を埋めて非貫通三枚窓前面に復元、車両番号を2115とし、同時期に廃車となった貨車より流用した前照灯尾灯を設置の上京王遊園静態保存されていた。しかし、庄内交通モハ7を含め本形式の車両は全て解体されており、現存しない。

参考文献[編集]

  • 鉄道ピクトリアル』1993年7月臨時増刊号(通巻578号)「特集・京王帝都電鉄」(電気車研究会
    • 合葉博治・永井信弘「イラストで見る京王電車:1950」。
  • 『鉄道ピクトリアル』2003年7月臨時増刊号(通巻734号)「特集・京王電鉄」(電気車研究会)
    • 出崎宏「京王電鉄 過去の車両」。
    • 合葉清治「京王中型車の思い出」。
    • 藤田吾郎「京王電鉄 主要車歴表」。