仏教美術

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仏教美術
ガンダーラ地方、ギリシャ人仏教徒によって制作された仏像 1世紀 東京国立博物館

この項目では、仏教美術(視覚芸術応用美術)について解説する。

仏教美術(ぶっきょうびじゅつ)とは、仏教に基づいた美術的実践であり、仏教思想・信仰に基づいた礼拝対象、あるいはそれら活動のための造形美術の総称。これらの芸術には、仏陀菩薩、実在・伝説上の尊格や尊者、祖師、または彼らの生涯(仏伝図)や伝説を描いたもの、曼荼羅や修行のための図像、さらには修行のための場である、ストゥーパや塔門、寺院などの建築や、金剛杵厨子香合などの仏具が挙げられる[1]

仏教美術は、紀元前6世紀から5世紀にかけて、釈迦の足跡と生涯に引き続いてインド亜大陸で始まった。その後、他の文化との接触によって発展し、アジアやそのほかの世界に広がっていった。

仏教芸術は、信者と仏法(ダルマ)が拡がるのと同様、仏教が伝来した先々で受け入れられ発展していた。インド北部から中央アジアを経由して北へと広まり、東アジアへと至って北伝仏教の美術が成立した一方、東南アジアでは主に南伝仏教の美術が成立した。インドでは、仏教美術はヒンドゥー教ジャイナ教とともに洞窟寺院を建設した例に見られるように、芸術面でも相互に影響を及ぼしながら発展した[2]

仏教美術の分野[編集]

歴史[編集]

仏足石 クシャーナ朝 2世紀頃 コネチカット州イェール大学美術館英語版

無仏像時代(紀元前5世紀 - 紀元前1世紀[編集]

なぜ仏像は作られなかったのか?[編集]

最初期の仏教においては、釈迦は人間の形で表されることはなかった(不表現、英:aniconism)。理由については諸説あるが、主なものしては以下のようなものが挙げられる[3]

  1. 仏教以前に主流であったバラモン教が偶像を必要としなかったので[注釈 1]、造像の発想自体が無かった[4]
  2. 反偶像主義英語版 - 釈迦入滅後数百年間は、「眼に見えるもの、手に触れるものは本質と異なる」という考えが主流であったので、釈迦を表現すること自体が忌避された。
  3. 涅槃に至った仏陀は超人的な存在と考えられたので、象徴的に表現せざるをえなかった[注釈 2][5]
  4. 三十二相八十種好に特徴を全て再現するのが困難、あるいは再現するとグロテスクなものになるため[注釈 3]

当時、すでにインドでは彫刻の長い伝統と豊かな聖像美術が存在していたが、仏陀は人間の形で表現されることはなく、仏教のシンボル英語版によってのみ描写されていた。仏陀の可視的な人体表現が忌避されたことで、暗示的な象徴表現はより一段と洗練されていった(説話のシーンにおいて他の人物は人間として描かれていたにも関わらずである)。インド南部で活動していたアマラーヴァティー派の芸術においては、この傾向は紀元2世紀まで続いた(下図参照)。

人間の姿で表された仏陀の初期の作例は、木で制作されたので朽ちて残らなかったとする説も唱えられている。しかしながら、それを裏付ける考古学的証拠は今のところ発見されていない。

スジャータの乳粥供養(左)と降魔成道(右) サーンチー第1塔北門欄楯 釈迦は左端に彫られている菩提樹によって暗示されている。

仏像以前の仏教美術[編集]

初期仏教の時代には仏像がまだ作られなかった一方、建築や装飾美術においては、早い段階で後代の造像につながる様式が確立された。円墳に起源をもつストゥーパは、釈迦の墓であり、ダルマの象徴であり、涅槃へ達した釈迦そのものであり、したがって出家者・在家信者にとっては礼拝対象(チャイティヤ)であった[8]。紀元前5世紀から4世紀頃、釈迦入滅後の北インドには、アレクサンドロス大王に率いられたギリシャ人勢力の侵入を発端として、マウリヤ朝のアショーカ王が覇を唱えた。インド統一を成し遂げたアショーカ王は仏教に傾倒し、自ら八大聖地を巡礼した。彼はこれらの聖地に新しくストゥーパ石柱を建立し、インドの、そして仏教彫刻そのものの始まりを作り上げた。また、釈迦の彫刻は作られなかったものの、ヤクシャ、ヤクシーといった夜叉・善神像はこの時代に既に制作されていた[9]

紀元前2世紀、マウリヤ朝はシュンガ朝によって滅ぼされ、北インドはふたたび混乱に陥った。地域的な安定は1世紀にクシャーナ朝がこの地を統一するまで待たねばならなかったが、一方で、この混乱の時代にあっても仏教の波及と仏教建築(ストゥーパ)の発展は進んだ。また、彫刻の分野においても新しい動きが起こっていた。紀元前1世紀にかけて仏教彫刻の描写はより具象的になり、釈迦の人生と説法を描いた仏伝図や、釈迦の前世を描いた本生譚(ジャータカ)を象徴した作品が作られるようになる。奉納を目的として石板やフリーズに彫られたこれらの図は、多くの場合ストゥーパの装飾の欄楯として用いられた。この頃の重要な作例としてはサーンチー第1塔塔門浮彫サータヴァーハナ朝)とバールフットの欄楯英語版が挙げられる。

インドにおける仏教美術の最初期の作品は、紀元前1世紀にさかのぼる。ブッダガヤマハーボディー寺院は、ビルマインドネシアで同様の構造の寺院が建造された。スリランカシギリヤのフレスコ画は、制作年代においてアジャンタ洞窟のものよりも遡るとされている [10]

仏像時代(紀元1世紀 – 現在)[編集]

カニシカ王金貨 2世紀 裏面には仏陀の肖像とギリシャ語で"ΒΟΔΔΟ"(ボッド、すなわち仏陀)と刻印されている。

2020年の段階で確認されている最古の仏陀の偶像表現はガンダーラ地方、現代のジャラーラーバード近郊で1世紀に作られたビマラン棺英語版(後述、仏教美術 § アフガニスタン)であるが、仏像が制作されたのもまたガンダーラ地方であった。厳密な年代特定は、作品に制作年代が記されていないことや、学術的な調査や現地政府による保護管理体制を経ずに発掘が行われた経緯から困難ではあるものの[11]イラン系の王朝、クシャーナ朝カニシカ王(在位144年-171年頃)の治世には既に大量の仏像が制作されていたようである。カラチ博物館所蔵の『祇園布施図』は、正確な出土地が不明であることと、その様式からパルティア時代のガンダーラのものと判別できる点で、その典型的な例と言えよう[12]。また、ガンダーラ地方とほぼ同時期に、北インドマトゥラー南東インドアマラーヴァティーでも仏像の制作が始められた。

『仏陀苦行像』 カイバル・パクトゥンクワ州シクリ(Sikri)出土 ラホール博物館英語版[13]

ヘレニズム文化は、紀元前4世紀アレクサンドロス大王の征服によってガンダーラにもたらされた。 マウリヤ帝国の建国者であるチャンドラグプタ(在位紀元前321298年)は、4世紀末のセレウコス・マウリヤ戦争英語版でインド北西部のマケドニア領(サトラップ)を征服した。そのチャンドラプタの孫であるアショーカ王(在位紀元前268-232年)はインド亜大陸に覇を唱えたが、カリンガ戦争の後に仏教に深く帰依するようになった。以降対外拡張戦争に消極的となったアショーカは、法勅として石碑に刻ませた碑文に見られるようにマウリヤ帝国全体へ「法(ダルマ)の政治」の普及を目指しはじめた。アショーカ王は、法勅のなかでマウリヤ帝国領内のギリシャ人たちを仏教徒へと改宗させたと主張している:

……同様にして、ここ王の領土において、〔すなわち〕 ヨーナカギリシャ人)、 カンボージャ、ナーバカ、ナーバパンティ、ボージャ、 ピティニカ、アンドラ、パーリンダにおいて、到る処で、〔人びとは〕天愛のの教誡に従っている。[14]

ガンダーラ(クシャーナ朝以前)[編集]

紀元前2世紀ごろにマウリヤ朝がシュンガ朝によって滅ぼされると、この混乱に乗じて、ヘレニズム国家であったグレコ・バクトリア王国やそれに続くインド・グリーク朝の諸王国が紀元前2世紀から1世紀にかけてインド北西部を支配する。 彼らの征服活動により、ギリシャ式仏教美術英語版がインド亜大陸の他の地域へと広まることとなった。前2世紀中頃のインド・グリーク朝の王、メナンドロス1世(ミリンダ王)は、仏教の偉大な庇護者として知られ、のちには出家して阿羅漢果を得たという[15][注釈 4]

また、この時代、紀元前1世紀には、上座部から分裂し教勢を増しつつあった説一切有部が、「心に感じられる一切のものは実在する」という、仏陀の偶像表現を許容しうる主張を行っていた。しかしながら、実際に人間の姿をとった釈迦像が確認できるのは1世紀末のことである。

紀元1世紀、北インドを統一したクシャーナ朝は、ガンダーラ地方のプルシャプラ(現代のパキスタン、ペシャワール)を都と定め、第3回仏典結集を主催し、この頃すでに盛んになっていた大乗仏教菩薩信仰を保護した。

初期のガンダーラの仏教美術には、その人体表現や装飾表現においてヘレニズムがインド美術に及ぼした影響英語版をうかがうことができる。これらの仏像は、それまでインドで作られていた像よりも遥かに大きく作られ、写実的な表現が試みられた。波打つ髪やコントラポスト、通肩[注釈 5]、靴、サンダルアカンサスによる装飾などは、ヘレニズム下のギリシャや古代オリエント由来のものである。

2世紀頃までのガンダーラでは、信仰対象というよりも修行の励みとするため仏伝図や釈迦の独尊像が作られていた。ところが、3世紀に入りアヴァローキテーシュヴァラ(観音)信仰やマイトレーヤ(弥勒)が始まると、現世利益のため、崇拝の対象としての仏像が作られるようになる。

マトゥラー様式英語版の仏像 北クシャトラパ英語版インド・スキタイ王国) 1世紀末頃[16]

マトゥラー[編集]

紀元前から紀元後1世紀のマトゥラーは、宗教都市であると同時に、ガンジス川の支流ヤムナー川に面していたことから交易都市としても栄え、商業的に発展していた。紀元前2世紀にはシュンガ朝プシュヤミトラの支配が及び、この間仏教は迫害された。おそらくはマウリヤ朝の影響を消し去ることが目的であったようだが [17]、 これによってマトゥラ東部の仏教美術は一度衰退した。1世紀後半、クシャーナ朝の支配がこの地へ及ぶと、マトゥラーは副都と定められ、多文化の交流する文化発信地の役割も果たすようになる。こういった状況のもとで、マトゥラーでは仏教美術がふたたび盛んになったのみならず、インド大陸の他地方にさきがけて最初期の仏像が制作された。北西インド、ガンダーラの影響を受けて造像が始まったという可能性も否定できないが、図像や造形、様式についてはヘレニズム由来ではなく、同地におけるマウリヤ朝以来の他宗派の芸術(ヤクシャ像ヤクシー像[バラモン教]・ジナ像[ジャイナ教])からの流れが色濃く、インド土着の表現がなされている[18]。例として、頂髻相(頭頂部に巻き貝型の肉髻)、口髭があまり付けられないことなどが挙げられる。その一方、形式上の共通点も見られないわけではない。白毫相(白い毛房)、耳朶の垂下、手足の千輻輪相、頭光(神聖さを表す光の円盤)(これらは三十二相八十種好で挙げられる仏陀の身体的特徴である)などは、いずれもクシャーナ朝の都であったガンダーラ、マトゥラー両都市で、これらの要素を意識しながら制作が行われていたようである[注釈 6]

『守門神(蓮華手菩薩)』アジャンター石窟第1窟 5世紀 アジャンターの石窟に描かれた壁画は、総体としてはこのような尊像よりも、説話図や装飾画の方が割合としては大きい。

後期石窟寺院美術[編集]

インドにおける初期仏教絵画の作例はほとんど遺されていない。だが、アジャンター石窟の後期の壁画は、480年頃までの比較的短い期間に残された作品群として、この時代の希少な仏教絵画の大部分を成している[要出典]。これら作品の極めて洗練された描写は、明らかによく発達した伝統に基づいている。また、宗教的な主題だけでなく、宮廷内の華やかな様子や王と王妃が交歓している官能的な場面は、アジャンター石窟そのものが持っていた世俗性と、バラモン教からの民衆化・世俗化が進展しつつあったヒンドゥー教の美術と仏教美術の接近・融合を示唆している。

インドでは仏教美術がさらに数世紀にわたって発展し続けたがピンク色のマトゥラの砂岩彫刻は グプタ時代(西暦4世紀から6世紀)に進化し、非常に高い技術の細かさのモデリングと繊細さを実現している。この時期にはサールナートで白い砂岩が用いられた仏像が盛んに作られた一方、マトゥラーでも引き続き造像が続けられた。

インドでは仏教美術はその後も数世紀にわたり発展し続けた。グプタ時代(4世紀から6世紀)には、マトゥラーの赤色砂岩彫刻はさらに進化し、仏教美術の造形は優美さと繊細さにおいて極致に達した。グプタ様式は、アジアのほとんどの地域に強い影響を及ぼした。12世紀末には、仏教は南アジアのなかではヒマラヤ地域でのみ栄えていた。が、これらの地域はその場所に助けられてチベットや中国とより密接に接触していた。例えば、ラダックの芸術と伝統はチベットと中国の影響を受けている。

密教の登場[編集]

聖観音(アヴァローキテーシュヴァラ)像 9世紀 パーラ朝 北東インド、ビハール州ナーランダ出土

6世紀、ヒンドゥー教を国教としたグプタ朝の北インド統一と[注釈 7]ローマ帝国の混乱に端を発する東西交易の退潮が起こる。これによって、インドの仏教は庇護者・檀家層の両者からの援護を以前ほどは受けられなくなった。また、商業・交易の衰退は、バラモンと農村地帯に基盤を置くヒンドゥー教の影響力を相対的に増させることとなった[19]。劣勢に立たされた仏教教団は、打開策として既存のヒンドゥー教やベンガル地方で勃興しつつあったタントラ、その他の民間信仰といった、他宗の儀式や習俗を取り込んでいく。インドにおける密教美術は、7世紀から13世紀初頭まで続いた[20]

密教が体系化されていくにあたって、儀礼主義の復活(護摩)、シンボルの重視(真言曼荼羅印契)などが図られた。その中で、いわば密教美術と呼べるものとして登場したものが、儀式用の法具やマンダラであった。

当然ながら、仏教彫刻においても密教化は進んだ。世紀中頃に造営が始まったアウランガーバード石窟英語版では、建築構造や女尊表現、官能的な身体表現といったアジャンター以前には見られなかった特徴が確認でき、ヒンドゥー美術の影響の大きさと密教美術の萌芽を見ることができる[21]。これは、彫刻史的な視点においても変化を意味していた。動的な所作や豊かな肢体が表現されるようになったことは、すなわち、仏教彫刻古典的なグプタ朝美術からバロック的な中世インド美術への移行であった。

11世紀末から始まったセーナ朝の時代は、インド亜大陸において仏教美術が盛んに作られた最後の期間であった。1203年ゴール朝の軍勢によってヴィクラマシーラ大学が破壊されると、同地における仏教の中心地を失った僧侶たちは他国へと移住・亡命し、インドにおける仏教美術もまた終焉を迎えた。

11世紀に始まるイスラーム王朝のインド侵入以降、北インドの密教含む仏教は大きく衰退するが、密教とそれに付随する密教美術はカンボジアや大スンダ列島、チベットといった、インドの周辺地域へと軸足を移していた。特にチベット由来の密教とその美術は、モンゴル系民族や中国へと数世紀に渡って多大な影響を残すこととなる。

アジア全体での仏教の拡大。黒の矢印は初期仏教の展開を示す。また、赤が大乗仏教の、緑が上座部仏教の、青が密教の伝来経路を示している。

1世紀以降、仏教がインド国外へと広まっていくと、本来的な一連の仏教美術が他の芸術の要素と混ざり合い、仏教受容国間で仏教美術の発展的差異が生じさせていった。


北伝仏教美術[編集]

『阿弥陀仏極楽浄土図』18世紀 チベット メトロポリタン美術館

中央アジア、中国、そして最終的には朝鮮半島と日本にまで至る仏教シルクロードを介した伝播は、後漢明帝 によって西方へと派遣された甘英ら使節たちが残した半伝説的な説明によって、紀元1世紀まで遡ることができる。しかしながら、より広範な伝播は2世紀ごろ、クシャーナ朝(仏教の庇護者であった)の西域への拡大と、中央アジア出身の僧侶たちの漢訳活動と熱心な中原への布教とによって始まったといえる。支婁迦讖のような中国への最初期の仏教伝播を担った僧侶たちは、パルティア人、月氏ソグド人またはトハラ人とされる。

シルクロードに通じた仏教の布教活動には、芸術方面での影響を伴っていた。それらは、現代の新疆ウイグル自治区にあたるタリム盆地で2世紀から11世紀にかけて栄えた東トルキスタンの美術に見ることができる。シルクロード美術は、多くの場合ガンダーラ地方で、インドやギリシャ、ローマの影響を受けつつ成立したギリシャ式仏教美術に起源をもつ。シルクロードのヘレニズム仏教美術の影響は遠くは今日の日本にまで及んでいる。それらは、建築の紋様(宝相華文や連珠文)や仏画神道水天鬼子母神)に見ることができる。

北伝仏教の美術は、大乗仏教の発展に強い影響を受けていた。この教派はより包括的であり、伝統的な阿含経に加えて新しい経典を採用し、仏教の理解自体を変化させていたことにその特徴があった。大乗仏教は、初期仏教が修行の到達点としていた阿羅漢[注釈 10]ではなく、そこからさらに菩薩の境地をめざすことを重要視していた。般若経(大乗仏教の経典群)において、仏陀は超越的な存在へと押し上げられ、主軸は菩提六波羅蜜、知恵の完成(般若波羅蜜多、Prajñāpāramitā)、悟り、衆生の苦しみからの救済に専念する菩薩たちに置かれた。それゆえ、北伝仏教芸術は、様々な成仏(過去七仏)や如来、菩薩や天部(韋駄天帝釈天)に関する作品に見られるように、多種多様で混淆的である。また、大乗仏教が広まったそれぞれの土地において、土着の宗教や信仰と結びつくことで新たな信仰とそれに伴う芸術様式が生まれることも少なからずあった[注釈 11]

アフガニスタン(クシャーナ朝以後のガンダーラ)[編集]

バクトリア地方(現在のアフガニスタン)の仏教美術は、7世紀イスラーム勢力がこの地に拡大するまで数世紀にわたって存続した。また、この地では、紀元1世紀頃に人の姿をした仏陀(仏像)が初めて制作された。また、それに続いて釈迦菩薩や弥勒菩薩などの菩薩像や、仏伝図[注釈 12]を物語る、仏塔や寺院の内部を装飾するための浮彫が作られるようになる[23]。この時代の空気をうかがえる代表的な例としては、カニシカ王の舎利容器が挙げられる。

3世紀前半、クシャーナ朝はゾロアスター教を奉じるサーサーン朝によって滅ぼされた。しかし、ガンダーラ美術の命脈は途絶えなかったどころか、ペルシャや北インドの意匠を取り込みながら発展していったのである。バーミヤンでは、4世紀から6世紀にかけて、2体の大仏をはじめとする多くの石仏や、石窟壁画が作られた[注釈 13]。他にも、スタッコ片岩または粘土でも仏教美術が制作された。これらの作品は、インドのグプタ朝以降の様式主義ギリシャ美術ヘレニズム美術英語版、ことによってはそれに引き続いたローマ美術をも要素として取り入れながら、非常に強く融合させている。

イスラムの支配は、他の「啓典」の宗教にはいくぶんか寛容だったが、「偶像崇拝」に依っていると見做された仏教にはほとんど寛容さを示さなかった。したがって、その芸術形態もイスラム教の支配下においては禁止された。8世紀以降も、アッバース朝の支配やそれに伴う戦乱で多くの寺院や石仏が破壊された。近代以降も仏教美術はたびたび被害に遭い、体系的な破壊はタリバン政権時代に頂点に達した。バーミヤンの仏像、ハッダの彫刻、アフガニスタン国立博物館英語版に残っている多くの遺物が破壊・流出させられた。

1980年代以降、長く続いたアフガニスタン紛争による混乱は、仏教に関連する文化財の流出と、国際市場への転売を狙った組織的な遺跡への略奪を引き起こした。しかし、2000年代に入ってから、国外に流失した仏教美術の作品を含む多くの文化財がアフガニスタンへと返還された。日本からは、平山郁夫らの主導による返還事業が行われた[24]

トルキスタン(中央アジア)[編集]

『シャンカチャルヤ・アヴァダーナ』ジャータカ、瞑想する仏陀に両脇にアプサラスが控える。仏陀の螺髪の上には鳥が巣を作っている[25]。現在の新疆ウイグル自治区トムシュク市出土 6~7世紀 ギメ美術館蔵。

中央アジアは長い間、ペルシャ、中国、インド、それぞれの文化が出会う三叉路であった。紀元前2世紀ごろ、前漢による西域への影響力の拡大は、中国文明へ西アジアのヘレニズム国家、特にグレコ・バクトリア王国とのさらなる接触をもたらした。その後、仏教はガンダーラ地方からさらに北へと拡大し、トルキスタンまで到達した。交易路沿いの諸都市には少なくとも紀元前1世紀頃までには仏教が伝わっていた。しかし、この地における仏教美術が本格的に始まったのは、イラン系クシャーナ朝の王、カニシカ1世による支配と、ガンダーラ美術の隆盛を経てからであった。

これらの動きは、タクラマカン砂漠の周縁に栄えたオアシス諸都市に、仏教徒のコミュニティ、さらには仏教王国の形成を促した。シルクロードの一部の都市は仏塔と寺院を完備していた。都市の住民達の狙いはおそらく、シルクロードの東西からの(仏教徒の)旅行者たちを歓迎し、彼らに必要なものを提供することであったと考えられる。

西トルキスタンパミール高原以西、現在のカザフスタンキルギスタジキスタントルクメニスタンウズベキスタン

6世紀、玄奘がソグディアナを訪れた際には、この地に住んでいたソグド人は主にゾロアスター教を信仰していた。しかし、のちにソ連によって行われた発掘調査で、この時代ではまだ仏像や仏具が製作されていたことが判明している[26]。8世紀に入ると、アッバース朝による征服によってこの地の仏教美術は絶えた。

良質な石材に乏しかった中央アジアでは、粘土は仏像制作にとって欠かすことのできない素材であった[27]

東トルキスタン (特に( タリム盆地新疆ウイグル自治区 ))

以降千年ほど、エフタル西突厥東突厥ウイグルと支配勢力は目まぐるしく移り変りはしたが、仏教美術は周囲の文化や宗派の影響を受けながらも西域様式(西域美術とも)を展開させていき、10世紀カラハン朝の時代に、この地で多数派であったウイグル人がイスラム教へと改宗するまで続いた[28]

天山北道の西域様式は三段階に分けられる。グプタ様式とガンダーラ美術後期の様式が入り混じった第1様式、第1様式の各要素が融合しつつ成熟していった第2様式、漢民族の強い影響を受けた第3様式である[29]

中国[編集]

文殊菩薩と問答する維摩居士 8世紀 唐代 敦煌第103窟

1世紀、仏教は中国へと至り、この国の美術、とりわけ塑像の分野に新風を吹きこんだ。遥か遠方で成立した仏教を受け入れていくなかで、仏教美術は中国文化の審美眼と道徳を反映しながら変化していった[30]

中国における仏教の受容において、漢訳仏典教相判釈が大きな役割を果たした。漢訳によって、本来サンスクリットパーリ語で記された経典が漢字文化圏へ普及した一方、その過程で偽経と呼ばれる、原典にはない経典[注釈 14]も成立した。また、教相判釈によって、伝来した多種多様な経典の解釈・体系化が行われた。結果、中国伝来以降の仏教では中国化と大乗仏教の主流化が進み、のちの仏教美術もそれらを反映したものになった。また、征服王朝である14世紀の元と17世紀以降の清の時代には特に、チベット仏教とその美術とも相互に影響を与え合うこととなった。

後漢三国時代[編集]

中国における最初期の仏像[注釈 15]や仏教彫刻[34][35]は後漢まで遡ることができる。また、三国時代、曹植梵唄を学んだようである。しかしながら、皇族や豪族層への本格的な普及は西晋に至るまで限定的であり、ゆえにこの時代に確認できる仏教美術は少ない。

北魏、 太平真君4年(443年) 弥勒菩薩
北魏、 永平5年、延昌元年(512年) 弥勒菩薩坐像

魏晋南北朝時代[編集]

五胡十六国時代には、西域と中原を結ぶ交易路として栄えていた河西(現在の甘粛省)で、敦煌莫高窟をはじめとする石窟寺院が建設され始める。この時代の仏像の様式と造形には、交脚したポーズや右肩を露出する「偏袒右肩」と呼ばれるスタイルなど、インド的な要素が強く遺されている[36]5世紀に入ると、仏像は明確ではっきりとした輪郭線で表現されるようになる。造形も、こと如来像においては左右対称、厚手の衣装、より柔和な表情など中国風の表現が施されるようになっていく。

北魏による華北統一によって五胡十六国時代は終止符を打たれ、南北朝時代と呼ばれる時代に移っていく。これ以降、異民族系の北朝と漢民族の南朝が、隋によって統一がなされるまでの160年近くに渡って対峙を続けた。これらの政治的・文化的対立を背景に、仏教美術もそれぞれの地域で異なった展開をしていった。

雲崗石窟第20窟の如来坐像(曇曜五窟のうちの一つ) 北魏 5世紀後半 涼州の僧侶曇曜が造営。この石窟に建てられた仏像は、北魏の歴代皇帝をモデルにしたと考えられている(「皇帝即如来」)。 

北魏は建国当初から仏教保護政策を行っていた。晋の滅亡後、長く続いていた戦乱と経済的・社会的混乱は、五胡と呼ばれた非漢族系の異民族による華北への流入によって既に決定的なものとなっていた。このような状況において、それまで支配的であった儒教に変わって急速に拡がったのが仏教であった。仏教への改宗者は五胡の支配層にも多く、また彼らも仏教を民衆教化のため、政治的・文化的な動機で利用した。以降、仏教が国教化した北朝では、仏教教団と支配層の結びつきが強まっていく。それらの状況を色濃く反映したものとして、雲崗石窟寺院の石仏が挙げられる[注釈 16]。また、同時期の生活様式を映す仏像の様式として小金銅仏がある。小金銅仏とは、4世紀に多く作られた小型で金属製の仏像である。移動の多い騎馬民族や、戦乱と隣り合わせであった漢族にとっても持ち運びやすいことから重用された。

毘盧遮那仏 - 石仏の表面には、仏生図と六道がレリーフとして刻まれている。北斉(550年-577年) ワシントンD.C.フリーア美術館

政策としての石窟寺院の建立は、仏教彫刻の中国化を促した。前述した雲崗石窟寺院に作られた仏像は、漢民族の好みに合わせて肌の露出が抑えられた表現になっている。

6世紀北周北斉の両王朝の成立以降、仏像の様式にふたたび西方からの影響を受けたものが見られるようになる。伝来経路そのものは中央アジア経由か東南アジア経由か、あるいは複合的なものだったかは定かではないが、変化の直接的な原因は北魏皇統の断絶(すなわち「皇帝即如来」というイデオロギーの喪失)と鮮卑復古主義(漢化政策の否定)だったようである[37]

一方、華南、特に沿岸部において仏教が東南アジア経由で広まりつつあった。東晋法顕は、海路で師子国(現在のスリランカ)に渡り、かの地で見たジャータカ(本生説話)を「変」と記録している(『仏国記』)。これをもって、中国における仏教説話画が始まったとされている。

この時代の仏教彫刻が遺されている代表的な遺跡は、以下のような場所が挙げられる:

隋唐[編集]

識盛光如来並五星図中国語版』 張淮興筆 晩唐、乾寧4年(897年) 大英博物館蔵 莫高窟で発見。擬人化された5つの惑星が熾盛光仏頂を囲んでいる。

はおよそ40年ほどで滅亡したものの、中国における仏教美術の発展に残した影響は大きかった。300年ぶりに中国全土を統一した文帝(楊堅)は、各地方に僧院と仏舎利塔を建てた。また、中国そのもの政治的統合によって、地域性を保っていた各地の仏像芸術も隋の首都であった大興城(長安)を中心としながら徐々に融合をすすめていく[38]。この時代から、仏像は銅製のものだけではなく、白檀青銅を用いたものが作られ始める。

隋の時代の伝統をふまえて経て、唐代の仏像はより生き生きとした表現がされるようになる。この頃の仏教彫刻は、グプタ時代のインド芸術に触発された、どちらかといえば古典風な様式を帯びている。それは、唐という国そのものがもっていた外来文化に対する開放性と、玄奘三蔵義浄らの活動に代表されるインドとの往来によるものであった[39]。結果、唐の首都長安 (今日の西安)は仏教の重要な中心地になり、そこから仏教は朝鮮、そして遣唐使を通じて日本へと拡がっていくことなった。

大雁塔 唐、永徽3年(652年)建立 インドから帰還した玄奘三蔵法師が、時の皇帝高宗に申し出て建設された。北宋明代、そして中華人民共和国時代に改装・修復が行われている。

しかしながら、晩唐の頃になると外来の宗教や文化は否定的に捉えられるようになった。845年武宗は、在来思想であった道教を支援するためにすべての「外国の」宗教(キリスト教のネストリア主義ゾロアスター教マニ教仏教を含む)を禁止する(「会昌の廃仏」)。この弾圧の結果、仏教教団は寺院や荘園を没収され、国家の擁護から離れて存続せざるを得なくなった[注釈 17]。そのため、中国における仏教はしばらく衰退するが、それは時代において花開く、禅宗と浄土教のふたつの宗派が民衆へと根ざしていく発端ともなった。

唐は歴代の王朝のなかでも最も仏教が盛んに信仰された時代の一つであり、かつ総じてみれば政治的にも概ね安定していたので、当時の作品も数多く遺されている。

初唐(7世紀)には、太宗の甥、李泰による龍門石窟の復興を皮切りに、北魏の滅亡以降衰微していた華北平原での石窟造営が盛んになる。武宗武則天の時代には龍門石窟は最盛期を迎え、奉先寺の大仏が建立された。これらの仏像は、雲崗石窟のものに比べるとより繊細で写実的な人物表現がなされている。

盛唐から中唐(8世紀ごろ)にかけて、石窟美術は安史の乱による混乱を経てその中心を華北から四川に移していく。皇沢寺石窟大足石刻は、玄宗皇帝時代の磨崖仏の白眉であると同時に、国際色と土俗性を兼ね揃えていく過程を窺える遺跡であるといえよう[40]

五代・宋[編集]

『降魔図』。五代十国時代10世紀)。甘粛省敦煌出土。仏教壁画は当時の美的感覚ではなく、生活や軍事技術について知る資料ともなりうる。この作品では、仏陀の右上に描かれたマーラ火槍擲弾で攻め立てている。

先に述べた「会昌の廃仏」と五代十国時代顕徳年間に行われた仏教弾圧、また唐滅亡後の戦乱によってこの時代は仏教彫刻の衰退期と見做されることが多いが、実際には各地で名品と呼びうる作品が多く制作された[42]。特に華南は戦争による混乱も少なく、後蜀南唐呉越のように仏教を保護する国も多かった[43]

の成立すると、初代皇帝趙匡胤大蔵経』を成都で印刷させるなど仏教への支援が盛んにななり、そのなかでも発展が著しかったのが禅宗浄土教であった[注釈 18]。また、この時代には文人である士大夫層が武人に変わって政治の中心となるが、彼らは儒教を栄達のために修めていたものの、哲学・信仰の対象としては仏教、こと禅宗に帰依するものが多かった。このような状況から、墨跡禅画頂相といった、仏教美術の新たな流れが生まれていく。

中国禅を巡る芸術は、その担い手の多様性から、制作姿勢や美術の傾向にも異なった様式を生み出した。禅僧たちが修行や儀式のために頂相を制作した一方、在家居士であった士大夫文人たちは(それが信仰心によるものであったにせよ)余技として禅故事を主題とした水墨画を描くことが多かった。さらに、南宋の梁楷のように、院体画家(宮廷画家)が仏画を描くこともあった。

禅僧たちの描いた禅画は、その教義ゆえに信仰の対象というよりも内面的な探求の手助けとするために描かれた。したがって、悟りの助けとなるならば画題に囚われずに描くようになり,絵の主題も、それまでの仏像や仏画が扱ったもの(菩薩や如来など)に留まらず、自然物や図形、神仙道教)など多岐に渡るようになった。また、絵画表現においても新潮流が起こった。五代の道釈画家・石恪は、当時一般的であった細密な画風ではなく粗いタッチで仏画を描いたが、この画風は宋代の禅僧たちに受け継がれた。彼らは、モノクロームで活き活きとした筆致で悟りの衝撃を表現しようと試みた[44][注釈 19]

他方、石窟造営も盛んに行われた。宋の前半期、北宋のおける時代の造像の傾向としては、異民族との最前線であった北辺線地域(現在の河北省山西省陝西省)で造営が盛んであった。制作された彫刻も、外敵の排除と現世・来世の安寧を祈願したものが多い。北方から侵攻してきた金によって、南遷した宋王朝が南宋として成立した後も造像は続き、大足の石窟群に多くの仏像が遺された。人体表現においては北宋時代のものを概ね踏襲しながらも、顔つきはやや面長で肉付きが増し、体型も流麗さを残しながらもボリュームを湛えている点で以前のものと異なっている[45]

12世紀、南宋の朱熹が主動した宋明理学の台頭によって、禅僧の画家は多くの批判に晒された。くわえて、後代の中国では文人画が尊ばれ、仏教絵画や院体画は相対的に低く見られるようになる。結果として、禅画の作品の一部は「水墨画」として鎌倉時代の日本に渡ったが、南宋以降の中国では次第に衰退していく[46]

遼・西夏・金[編集]

唐の衰退後、影響下にあった周辺民族は自立し、中国の諸王朝と対立しながら漢族とは異なった独自の文化を形成した。その一方で、遼や西夏、さらには遼から独立した金といった、宋と対立関係にあった王国は、唐代に広まった仏教を信仰していた。

916年に成立した契丹族)は、契丹文化と漢文化を同時に保持した二元体制を敷いていたが、12世紀初めに滅亡するまで仏教に対する信仰は篤かった。遼代の仏像美術は、唐の造像文化と華厳と密教をはじめとする五台山信仰の影響に彩られており、特に初期においては北宋とは異なった仏教文化が栄えた。11世紀、澶淵の盟が成ると、徐々に北宋の影響も受けるようになる。遼の仏像は一般的に、唐代に見られる、落ち着いた胴体に対して動きのあるプロポーションというスタイルを受け継いでいる。しかしながら、身体的には平坦な印象を与え、時代を下るにつれて脱力した柔らかい様式になっていった[50]

西夏タングート族)は、初期には中国からの仏教吸収に努めたが、後期にはチベット仏教の力が強まった[51]。また、西夏が河西回廊を掌握して以降は、莫高窟に代わって榆林窟英語版で造営が盛んになる。壁画には、宋代からの山水画の要素や、明代に成立した『西遊記』の原型となったとされる、三蔵法師が孫悟空)や馬を従えているモティーフを見ることができる[52]

は、遼に反旗を翻した女真族によって建国され、宋と結んでこれを滅ぼした。金の仏教美術は、基本的には北宋・遼の文化を継承したものだった。ただ、洪福寺(山西省定襄県)や祟福寺(山西省朔州市)の例にみられるように、元・明・清を経て今に遺る仏教寺院の基盤となった寺院も多い[53]。また、遼との違いとして、金は道教や儒教に対し容認的であったので三教に由来する美術品が同じ工房で制作されることもあり、それゆえに元代以降の仏教美術(天部など)と道教美術双方に影響を残した。


元・明・清[編集]

大威徳明王曼荼羅』。元、天暦(1328年-1330年)年間。メトロポリタン美術館像。

13世紀初頭、モンゴル高原を制しこの地の諸部族をまとめ上げたモンゴル部は、金を滅ぼし中国華北を征服。国号をとし、南宋を平らげここに中国全土を統一した。これにより、中国においてチベット仏教系の美術が制作されるようになった。特筆すべきは、中国本土においてチベット仏教の尊格の金銅仏が作られるようになったことである。この流れは、続く明や清でも続いた。『元代画塑記』(『経世大典』の一部)は、ネパールの仏工阿尼哥(アルニカ)とその弟子の劉元が数多くの仏像制作に携わっていたと言及しており、特に劉元は梵像(チベット系仏像)と道教美術の制作にも携わっていたとしている[57]。このことから、この時代の工房では、漢像と梵像の両形式の制作だけではなく、宗教を超えて道教とも相互に直に影響を与えあう関係にあったことがうかがえる。

14世紀漢族朱元璋はよって興され、元はモンゴル高原へと放逐された。明初期においては、チベット仏教への弾圧が行われたが、のちには仏教保護政策に転換し、チベット仏教と中国仏教の交流も進んだ。この時代の石造美術に名品は少ないが、塑造や銅造といった粘塑素材を扱ったものには優れたものが見られる。現存する遺構は以下のものが挙げられる:

また、この時代以降に現存する作例として、乾漆造、鉄造がある。

『乾隆帝僧形図』。清、乾隆23年(1758年)頃。北京、故宮博物院蔵。

16世紀末、明から自立した満州(現在の中国東北部)の女真族国家、後金は、国号をと改め17世紀にかけて中国統治を完成させた。歴代の皇帝たちは、政治的および個人的な動機で仏教を保護した[注釈 21]順治帝は禅に傾倒したものの、彼の後継者である康熙帝は父祖からの信仰であったチベット仏教を推進し、文殊皇帝を自称した [59]。しかし、仏教に対する清朝の後援が最高潮に達したのは乾隆帝の治世でのことだった。彼は膨大な数のチベット様式の宗教的作品を制作させ、その多くは彼を僧形で描いている [60]。さらに、乾隆帝は造営者でもあった。1744年、彼は自身の生家でもあった雍和宮(北京)をチベット仏教の僧院として改装させ、仏画、仏像、織物、石碑を寄進した [61]。また、須弥福寿之廟(承徳市)とその中に収められた品々は、乾隆帝によって成されたチベット仏教様式の中国における受容のひとつの完成形といえる。

1795年に乾隆帝が退位したのち、宮廷でのチベット仏教の隆盛は陰りを見せる。過去の研究では、清の歴代皇帝によるチベット仏教保護策の背後にあった動機は、主に内政的なものであり、満州、モンゴル、チベットとの結びつきを強化する手段に過ぎなかったと解釈されてきたが、近年の研究ではこの考え方は批判的に検討されている[62]

清代に制作された仏教美術の特徴は、チベット様式と中国様式の特異な融合である。図像や構図つおてはチベット的なアプローチが取られる一方、装飾的な要素(雲や装束)は中国風となっている。 また、碑文は多くの場合、中国語満州語チベット語モンゴル語サンスクリット語など多言語で併記されている。絵画は鮮やかで刺激的な色彩で描かれていることが多い [63]

"Gathering of Buddhas and Bodhisattvas" 河北省邯鄲市響堂山石窟出土 フーリア美術館1920年に、日本の僧侶常磐大定と考古学者の関野貞によって同地の調査が行われたが、すでに遺跡の一部は盗掘の被害に遭っていた[67]。発掘調査の様子は『支那文化史蹟 三』に詳しい。

発掘と研究[編集]

中国での仏教の普及により、この国は世界で最も豊かな仏教コレクションを有している。莫高窟の近く敦煌甘粛永靖県炳霊寺石窟河南洛陽近くの龍門石窟山西大同市雲崗石窟、および重慶市にほど近い大足石刻は、現在でもよく保存されている。唐時代に8世紀に丘の中腹に彫られ、3つの川の合流を見下ろす楽山大仏は、現存する石仏としては世界最大規模を誇っている。

20世紀の始め、清朝末期には「敦煌文献」の発見を契機に敦煌学が始まり、仏教経典、仏像、中国仏教美術史の近代的な研究がヨーロッパ諸国、中国、日本によって始められた。

1996年には、山東省青州市、龍興寺址の窖蔵(穴蔵)から、合計で400体以上に上る石仏が発見された。また、2003年には同省済南市、開元寺址から80体余りの仏像が発見され、龍興寺出土の石仏群との比較・照合が行われた。龍興寺で発見されたこれらの仏像は、大きさや題材も様々であったが[68]、埋蔵に至った過程までの経緯から損傷が激しいものが大半であった[69]。だが、青州市博物館中国語版によって復元作業が行われたことで、制作時期の数世紀以上の幅があったことが判明した。紀年銘によれば、古いものでは永安2年(529年北魏時代)、新しいものでは天聖4年(1026年北宋時代)に制作されたことが分かっている。また、これらの仏像が埋蔵されたのは12世紀初期(北宋末期)以降であると推定されている。龍興寺出土の石仏群、特に北斉時代のものは、当時の中国における肉体表現に対する試行錯誤と、東南アジア南インドに由来する、海のシルクロード伝来の仏像美術・ヒンドゥー教美術の影響をうかがうことができる[70][71]

朝鮮[編集]

朝鮮における仏教美術は一般として、他国の仏教からの影響と朝鮮独自の文化の交流を反映している。くわえて、シベリアスキタイなどの草原文化の美術様式の初期の韓国仏教芸術への影響は、新羅王冠英語版や角帯(ベルト)のバックル、短剣、ゴゴク英語版勾玉の一種)などの工芸品や埋葬品の発掘によって明らかにされている [72][73]。 この土着的な美術様式は、幾何学的かつ抽象的で、 海洋文化や騎馬民族文化、シャーマニズムの伝統で豊かに彩られている。周辺諸国からの影響も強かったが、朝鮮仏教美術は「落ち着いて、抑制が効き、抽象的ではあるが不思議なほど現代的なセンスに合致している」(Pierre Cambon、Arts asiatiques-Guimet ' )などと評されている。

金銅弥勒菩薩半跏像英語版弥勒菩薩半跏思惟像の代表的な作例。大韓民国指定国宝第83号 7世紀頃 新羅 ソウル特別市国立中央博物館蔵。

朝鮮三国時代[編集]

3世紀から4世紀頃にかけて、朝鮮半島各地に散らばっていた多種多様な部族連合が、徐々に国としてまとまりを見せ始める。朝鮮半島北部から東北三省の一部まで版図を拡げた高句麗、南部から西南にかけての百済、東南部の洛東江下流の伽倻諸国、そして東南・慶州盆地英語版の(のちに朝鮮を統一する)新羅が成り、抗争を繰り広げる、いわゆる朝鮮三国時代が始まった。

372年、これらの国のうち高句麗が最初に仏教を受容する [74]。 しかし、中国側の記録と高句麗の壁画に描かれた仏教的なモチーフで確認できるように、この年代よりも早い時期に仏教が伝わっていたようである [75]。 384年、続いて百済に仏教が伝わる [74]535年[注釈 22]、両国に100年以上遅れて新羅王国が仏教を受容する [76][注釈 23]。高句麗と百済では中原から公的に伝来したのに対し、新羅への伝道は民衆への浸透が先行し、おそらく布教に対して迫害が行われていたようである[77]

仏教の導入は、職人には崇敬のための図像制作を、建築家には寺院の建築を、学者には経典を渇望させ、そして朝鮮の文明を一変せしめた。これら朝鮮の諸王国に洗練された美術様式を伝えたのは「夷狄」であった拓跋氏北魏様式であった[注釈 24]。北魏、それに続く北斉の仏教美術は、これら三国に大きな影響を与えた。百済は後に、中国南朝と高句麗、そして百済特有の美意識とともに作り上げられた仏像美術を日本に伝えることとなる[40]

6世紀後半以降、百済では石仏の造立がいち早く始まった[78]印相・持物・装束といったディテールには北魏様式を保っているものの、造形的な印象は、外見的には静謐さがありながらも芯が強い溌剌としているという、百済仏らしさがより顕著になっている。

新羅では、6世紀には高句麗の影響によって金銅仏の制作が、7世紀ごろにはおそらく百済の影響によって石仏や磨崖仏の制作が始まる[79]。この時代の新羅石仏美術は、百済のものに比して体躯の表現にまだ稚拙さがうかがえるものの、重厚さという点ですでに独立した美術様式を芽生えさせていた。朝鮮の仏師たちは、各々の様式を作り上げるために優れた審美眼を発揮し、さまざまな他地域のスタイルを取り入れ融合させた[80][81]

高句麗はおもに、華北由来の仏教の影響下にあった[82]。仏教美術においては、まず五胡十六国時代の古式金銅仏の様式が取り入れられた。7世紀に入ると、北朝の仏教美術と連動するかたちで発展した。2021年現在確認されている朝鮮最古の仏像、延嘉七年」銘金銅仏立像もこの時代に制作された[83]。高句麗の仏像は主に金銅と塑造で、厚い通肩の法衣や火炎紋の光背、微かな笑みが特徴である。

百済の微笑と半跏思惟菩薩像[編集]

このように、6世紀の朝鮮仏教美術は中国とインドの文化的影響を示したが、それ以降は独特の土着的な特徴を見せるようになった [84]。 北朝の影響が強い高句麗の仏像に比べ、などの南朝とも密接に交流していた百済の仏像は、美術史家には百済の微笑英語版と呼ばれている、神秘的で穏やかなアルカイックスマイルを浮かべているものが少なくない[85]。 また、新羅では6世紀後半から7世紀後半にかけて半跏思惟菩薩像が盛んに作られた[86]。これは、中国のものからは独立した形式であった。この様式は、日本の広隆寺伝来の宝冠菩薩にみられるように、奈良時代の日本の仏像様式に大きな影響を与えた[87][88][注釈 25]。これらの朝鮮の文化に根ざした様式は、日本の初期仏教美術にも見ることができるのは、仏教が伝来して間もない、飛鳥時代の仏像制作に(主に百済出身の)渡来人が携わっていたからであると考えられている[89]。上述の半跏思惟像などは、その典型例であろう。多くの歴史家は朝鮮を仏教の単なる伝達者として描写しているが、これら三国、特に百済は、538年または552年に仏教が日本へと受容されるうえで主体的な役割を果たしたのである[90]

また、三国時代の朝鮮では寺院の建設も活発に行われた。百済の益山には彌勒寺英語版が、新羅の慶州には皇龍寺が建てられた。百済の建築家はその卓越した技術で後世に知られ、上述の皇龍寺の巨大な九重の仏塔や、奈良法華寺 (飛鳥寺)や法隆寺などの建設を行った [91]

阿閦如来座像 石窟庵 恵恭王の時代、大暦9年(775年)完成 1909年に偶然再発見された。現在、大韓民国国宝第24号されているほか、世界遺産にも登録されている。

統一新羅[編集]

7世紀後半、新羅が百済、高句麗を併呑し、唐の勢力を朝鮮半島から排除することに成功、統一新羅時代が始まった。統一新羅初期の仏教美術は、新羅の様式と百済の様式が融合したものであった。8世紀には、慶州石窟庵の本尊如来坐像に見られるように、人体像の把握が進み、身体の量感や肢体の伸びやかさが巧みに表現された、石仏の名品が多く作られた。また、朝鮮半島の統一後、唐との外交関係が好転し冊封体制に復帰したことで、国際色の色濃い唐の仏教美術の影響も大きく受けることとなった。

また、統一新羅の時代には、数は少ないながらも密教美術の作例を確認することができ、金剛界大日如来十一面観音千手観音明王といった尊格の仏像が作られた[92]


9世紀後半、中央集権政的な体制が崩壊し、地方分権化と貴族層・花郎の台頭が進んだ。こういった社会制度の変化に応じるように、鉄造の金銅仏が作られるようになった。

咸和四年銘仏龕』(834年)時期としては渤海後期様式に属する。倉敷市大原美術館蔵?[96]

渤海[編集]

7世紀、高句麗の遺民や靺鞨人によって渤海が建てられる。この国は、現在の沿海州、黒龍江省、および北朝鮮にあたる地域まで国土を拡げ、唐をして「海東の盛国」と呼ばしめた。新羅と友好関係を結んだ8世紀の末からは、唐・新羅の文化を取り込み、現代にまで伝わる仏教美術を遺した。渤海では多宗派が受け入れられていたが、そのなかでもとりわけ五台山の教え、特に華厳密教が盛んであったようである[97]。しかしながら、被支配層にどれだけ仏教が浸透していたかは明らかではない。

仏教美術に関する主な出土品は五京に限られており、特に上京龍泉府中京顕徳府東京龍原府に偏っている。また、仏像の様式も対新羅外交の変化の結果、高句麗文化のまだ色濃い前期と唐・新羅の様式を取り込んだ後期に分けられる。

高麗[編集]

統一新羅が混乱の末に衰亡し、936年高麗が朝鮮統一を果たす。初代国王の太祖が公布した「訓要十条」に見られるように、仏教は高麗王室によって厚く保護された。こういった状況を背景に、仏教美術も活発に行われた。

高麗仏画は、来世と現世の救済を願う浄土信仰を奉ずる貴族層や豪族たちの求めに応じて発展した。また、華厳思想に基づいた、蒙古撃退と国家安泰を願う「五百羅漢図」のような作品もみられる。

また、宗教的営為としての写経が流行した。統一新羅のころには写経はすでに行われていたが、これらの時代には、写経は修行・研究のためだけでなく、行為そのものが功徳を積む手段であると考えられるようになった[98]。これら写経のうち、豪奢な作りのものは装飾経と呼ばれ、紺紙に金泥・銀泥で描いたものが多く遺されている。 また、木版印刷でも写経は行われた。モンゴルの朝鮮侵入を機に13世紀に彫刻された高麗八萬大蔵経は、その刻字の美しさから美術工芸品としての価値も名高い。

仏像美術おいては、俗に「弥勒仏」と呼ばれる巨大な石仏が各地に作られた。菩薩立像は、その大きさ(10メートル以上)から顔の造形や衣紋の衣装は適度なデフォルメが施されており、また、屋外に安置されることが多く頭部に宝蓋を頂いているのが一般的である。これらの石仏は風水思想土俗信仰とも結びついたものだった。高麗時代末期には、モンゴルの侵攻によって仏像彫刻は大幅に衰退する。特筆すべきものとしては、元代仏像の流れをくむ密教系の金銅仏が挙げられる。

李氏朝鮮[編集]

李氏朝鮮時代は仏教にとって暗黒期であった。最初期こそ仏教が保護されたものの、堕落した教団への反発と儒教の国教化を背景に、1406年太宗の時代に徹底的な排仏政策が推し進められた。これによって、朝鮮の仏教教団と寺院、美術は大きな衰亡をみた。しかしながら、1549年文定王后のもとで仏教が保護されるようになると、仏教美術は再び大々的に作られるようになった。

朝鮮時代の仏像美術に特筆すべき名品は高麗時代のものと比較すると少ないが、その一方で仏像制作に用いられる材料や図像は多様化した。朝鮮時代初期にはすでに、それ以前には用いられなかった木造や塑造による作例が見られ、17世紀にはこれらが主流となった[101]

仏教絵画においては、画題、素材、そして鑑賞方法にも多様化が見られた。当時描かれたものには、発願のための彩色絹本、寺院内部に描かれた堂内壁画、経典の紙本、さらに屋外での大人数による礼拝に用いられた掛仏幀(あるいは掛仏)、施食会に用いられた甘露幀といったジャンルが挙げられる[102]。特に、掛仏幀と甘露幀は、貴族や僧侶のためというよりも衆向けに作られ、李氏朝鮮後期、17世紀以降に作例が多く見られるようになった[103]

日本[編集]

帝釈天半跏像 平安時代前期、承和6年(839年) 京都市、東寺講堂 帝釈天とは、インドの神インドラに由来する、仏法及び仏教徒を護る神、護法善神の一柱。頭部は後補[104]

日本とインドの間で直接的な文化相互交流は行われなかったものの[注釈 26]中国朝鮮林邑ベトナム)、中央アジアを介して仏法とそれに付随する習俗・芸術・政治システムの受容が図られた[105]シルクロードの終着点に位置する日本は、仏教がインドで衰微し、中央アジアと中国で抑圧された時代にあっても、仏教のさまざまな側面を保持することができていた。日本の仏教美術の創造性は奈良時代平安時代、そして鎌倉時代と、8世紀から13世紀にかけて特に豊かであった。仏教と同時に流入したヒンドゥー教の要素や、在地の神道の影響も受けながら融合・発展した。

法隆寺金堂釈迦三尊像 銘推古31年(623年) 鞍作止利作 北魏様式の流れを汲む。造像した鞍作止利は司馬達等の孫で、渡来系であった。

飛鳥時代[編集]

仏教伝来以前の日本では、紀元前14,000年頃から紀元前10世紀まで続いた縄文時代に発達した縄文土器の装飾美術や、それに続く弥生時代3世紀頃まで)・古墳時代7世紀まで)の埴輪や青銅器が日本列島内外の影響を受けながら発達していた。

538年に、百済からの使者によって大和朝廷に対して仏教が紹介される(仏教公伝)。実際にはそれ以前からすでに渡来人やヤマト政権内部の人々にも檀家は存在したようだが、584年に善信尼らによって日本初の尼寺が建てられたことで、日本でも寺院建築の歴史が始まった。また、594年に即位した推古天皇のもとで四天王寺飛鳥寺が建てられるなど、仏教化が推し進められた。その結果、花開いたのが飛鳥文化である。

日本国内で仏像制作が始められたのも飛鳥時代である。敏達六年(566年)には、百済から渡来した仏師によって日本の見習い仏師への伝授が始められた[106]。『日本書紀』は、百済の使者によって初めて日本にもたらされた仏の美しさを「相貌端厳(みかおきらきらし)」と伝えている[107]。この仏像は金銅仏であったが、法隆寺釈迦三尊像飛鳥寺の釈迦如来像といった飛鳥時代を代表する仏像もまた金銅仏が多かった。また、法隆寺夢殿救世観音像百済観音といった、金色に塗られた木造仏も作られた。さらに、塑造や乾漆造の仏像も、未だで主流たりえなかったものの、この時代ではすでに少数の作例が見られる。飛鳥時代の仏像の特徴としては、奥行きが浅く、左右対称であることが挙げられる。これは、正面から鑑賞することを前提としていたためであった。

さらに、塑造や乾漆造の仏像も、未だ主流たりえなかったものの、この時代ではすでに少数の作例が見られる。

興福寺阿修羅像 奈良時代、天平6年(734年) 興福寺

奈良時代[編集]

奈良時代には、朝廷によって唐由来の政治制度、律令体制の整備が進められ、僧侶も官僚組織へと取り込まれていった(官僧)。

710年藤原京から平城京への遷都が行われると、法隆寺の五重塔や金堂、興福寺などに代表される、数多くの寺院や僧院が建てられた。奈良時代は、国家が仏教絵画や仏像の主たる後援者であった。しかしながら、遁世僧であった行基の活躍によって東大寺盧舎那仏像が官民の協力をもって建立されたように、仏教とその芸術が徐々に庶民層へ浸透していった最初の時代でもあった。ヘレニズム、インド、中国、朝鮮の芸術的影響を受けながら、リアリズムと優美さを特徴とする美術様式が確立されていった。


平安時代[編集]

平家納経平安時代後期、長寛2年(1164年)。平清盛一門が厳島神社に奉納した装飾経の群。当時の工芸技術の結晶であり、日本における法華経の受容例であり、大和絵の史料でもある。

平安初期には、唐から日本に真言密教をもたらした空海が、曼荼羅美術、法具書道の発展に野においても多大な貢献をした。また、平安時代を通じて神仏習合が進んだことで、熊野信仰御霊信仰山岳仏教修験道)が展開し、これらの信仰に関連する仏像、絵画が作られた。

11世紀に入ると、摂関政治が陰りを見せ武士が台頭しつつあったことから末法思想が流行し、浄土信仰が広まった。この新たな教えは貴族層にも受け入れられ、終末が訪れるとされた永承7年(1052年)には、ときの関白藤原頼通によって京都、宇治平等院鳳凰堂が建てられる。

浄土教の影響は、当然絵画美術や書道にもおよんだ。来迎図法華経を書写した装飾経が、大寺社や極楽往生を願う貴族によって盛んに制作された。これらの芸術品は鎌倉時代以降も継続して作られた。また、平安時代の終わりには、初期の縁起絵巻かつ絵巻物の名品である『信貴山縁起』が完成した。

平安時代末期には仏像美術に新が起きた。特筆すべきは定朝らによる天平時代へのルネサンスと、奈良仏師による写実性とマッスの追求である。11世紀の定朝は、平安貴族の好みと一致した柔和で優美な仏像を制作し、国風文化形成の一端を担った。一方で、奈良仏師は、定朝の成果を受け継ぎながらも、生気に満ちた躍動的な作風を追求した。

技術的な側面としては、定朝によって寄木造の技法が完成された。これによって、木造でもより大きな仏像を制作可能となり、丈六仏と呼ばれる3メートル程度の高さの仏像が数多く作られた。12世紀の末頃、平安末期から鎌倉時代初期に活躍した慶派運慶は、高さ8.4メートル (28 ft)の東大寺南大門金剛力士を寄木造によって完成させた[110]


国風文化

中世(鎌倉時代・室町時代)[編集]

民衆層にも仏教が広まるとともに、平安時代末に萌芽をみせていた新仏教(鎌倉仏教)が隆盛する。一方、新仏教の拡大に直面した南都六宗真言宗天台宗といった、旧仏教の側でも内部からの改革が進められた。また、政治の実権が東国を拠点とする武家政権に移ったことで、これ以後は仏教美術のパトロンの地位も幕府武家層へと比重が移っていく。鎌倉幕府は全般として、顕密体制と呼ばれる、南都六宗平安二宗を重んじる方針をとった[112]北条時宗の代前後においては禅宗が積極的に保護されたが、元寇を経て顕密は再び隆盛した[注釈 27]。以降、顕密と禅律は並行して保護され、つづく室町幕府もこの路線を継承した。

12世紀から13世紀にかけて、「」が仏教美術の主役となる。続く14世紀室町時代には、南宋印可を受けた栄西道元の功績によって、禅美術は黄金期を迎える。禅の美術は、水墨画枯山水のような視覚芸術と、五山文学や連歌俳句に代表される文学の2つに大別される。禅美術の実践者たちは、印象主義的で虚飾を排した「非二元的」表現を通じ、世界の本質を表そうと努めた。「いま、この瞬間」の悟りへの探求は、仏教と共に日本へと伝わった茶道華道や同時代に成立した能楽など、他の派生的な芸術の発展にもつながった。このような禅芸術の展開は、主に武道をして人間の一挙手一投足を精神的・美的な要素を持つ芸術と見いださせるに至った。また、宋の美術と同様に頂相も制作された。

さて、禅美術が作られたのは禅寺においてであったが、こと室町時代においては、禅寺は中国文化の受け入れ窓口としても機能していた。僧侶たちを通じて宋・元・明由来の禅・世俗美術の受容がおこなわれ、上述の水墨画、枯山水、茶道、華道といった、いわゆる日本文化の代表的な部分が形成された。例えば、京都の相国寺からは、如拙周文雪舟といった画僧が輩出されている。また、禅寺は禅僧、公家、武士が交流するサロンとしての役割を果たし、結果として寺院に付属する書院や庭園美術が発達した。この分野では、臨済宗の僧侶、夢窓疎石が多大な役割を果たしている。

一方、偶像を必要としない禅宗の始めとした新仏教の流行によって室町時代の仏像美は鎌倉以前の様式を踏襲したものとなった。しかし、前述の頂相の一分野としての肖像彫刻は多数つくられた[113]

禅宗や浄土宗といった新たな流れに圧されていた旧仏教の側でも、対抗的に教団の立て直しが行われた。南北朝期の動乱を乗り越え、室町時代を通じ政治的な独立を果たした高野山は、鎌倉時代から室町時代にかけて制作された密教美術・仏具の名品を現在でも数多く遺している。また、鎌倉時代から南北朝時代に活躍した真言律宗の僧侶、叡尊文観も密教美術・仏画制作に携わり、こと文観の作品はこの時代の仏教絵画としては数多く現存している。

平安時代から引き続いて、鎌倉時代には仏の功徳や高僧の人生などを描いた縁起絵巻が数多く作られた。観世音菩薩の功徳を説く『石山寺縁起絵巻』や、新羅の僧、義湘を題材にした『華厳宗祖師絵伝』、良忍上人の事績と念仏の功徳を説く『融通念仏縁起絵巻』などが挙げられる。

江戸時代[編集]

江戸時代を通じ、幕府によって仏教の諸宗派が保護されたことで、仏教は実質的な国教としての地位を得た[117]。教義や宗論の発展は停滞したものの、仏教美術は、こと江戸時代初期においては幕府・皇室・諸藩の援助の受けて盛んに作られた。戦国時代以来の文化的復興期にあたる元禄期には、後述する黄檗宗による黄檗建築や、霊廟建築が発達した。彫刻の分野においては円空、元慶らが活躍した。さらに、江戸期には庶民層へも仏教説話が受容されたことで、これらの物語を下敷きとした葛飾北斎の『東海道五十三次[注釈 28]といった浮世絵や、閻魔信仰を背景とした地獄絵が制作された。さらに、勧進によって大衆からの仏塔や寺社の建設費が賄われることが増えた。他方、これらの寄付を募るために人形浄瑠璃落語講談といった口承文芸が催されたことで、仏教美術は江戸の町人文化へと浸透していった[118]

17世紀、中国での明末清初の混乱に伴い、隠元隆琦逸然性融ら渡来僧によって中国の仏教美術と・江南地方の文化が江戸時代の日本にもたらされる。彼らが紹介した、黄檗美術唐絵唐様(書体)といった仏教美術の新しい表現技術は、仏画・造像に留まらず江戸文化そのものの形成に大きな影響を残した。

絹本著色悲母観音像 重要文化財 狩野芳崖筆 明治21年(1888年) 東京芸術大学蔵 日本最初の重要文化財として登録された。

明治時代以降[編集]

明治維新後、1868年に成立した新政府のもとで行われた廃仏毀釈政策によって、数多くの仏教文化財が破壊、ないしはアメリカなどの国外流出の憂き目にあった。その一方で、ヨーロッパ諸国ならびに中国やインドとの交流・渡航が可能になったことで、ほかの美術同様、仏教建築や仏像美術の分野でも、外来の要素を取り入れながら試行錯誤が図られた。建築の分野においては、伊東忠太が設計した築地本願寺は、外観に古代インドの要素を取り入れる一方で、内装においては和洋折衷が図られた[122]。また、第二次世界大戦以降から21世紀の終わりにかけて、巨大仏と呼ばれる、高さ40メートル (130 ft)以上の仏像が国内各地に建立された。

日本では今日においても仏教が盛んである。2018年現在、日本国内には約80,000の仏教寺院が存在しており、それらの多くは木造で、定期な修復がなされている。

閻魔図 ゲルク派 18世紀前半 チベット 中央に大きく描かれる閻魔の上方に描かれたラマは、向かって左がパンチェン・ラマ、右がアティーシャと推定されている[123]

チベットとブータン[編集]

前述の通り、東インドでは5世紀から6世紀にかけて初期の密教(タントラ仏教とも)が成立した。密教の儀式の多くは、当時競合関係にあったブラフマニズムの流れ(マントラ[真言]、ヨガ[瑜伽]、ホーマ[護摩])を汲んでいる。8世紀以降、吐蕃最盛期の王、ティソン・デツェンの治世下において仏教が国教化され、8世紀末のサムイェー寺の宗論によって、インド系の仏教である密教が中国系仏教を退け、チベットにおける主要な教えとなった。地理的にアジアの中心に位置していたことにより、チベット仏教美術はインド、ネパール、ガンダーラ、そして中国の美術の影響を受けた。

チベット仏教美術の最も特徴的なもの一つがマンダラである。マンダラとは、正方形を囲む円から成る「諸尊諸仏の寺院」を描いた図であり、修行者がこれを用いる目的は、観想によって、中心に描かれている仏への道を辿ることである。芸術的な側面としては、グプタ仏教美術とヒンドゥー美術から大きな影響を受けている。

アヴァローキテーシュヴァラ(観音菩薩)像 11世紀前半 西チベット、グゲ王国(現在のガリ地区) フリーア美術館

841年にティツク・デツェン王が暗殺され、後を継いだラン・ダルマ王もほどなくして暗殺されたことで、吐蕃は内戦状態に陥り、主たる後援者を失った仏教もまた衰えた。しかし、チベット高原西部まで逃れた吐蕃の王族の一部が建国したグゲ王国によって、仏教はふたたび息を吹き返した。グゲ王国はリンチェン・サンポ英語版ら留学僧を(当時仏教先進国であった)カシミール地方へと積極的に派遣し、教学ならびに同地の建築、美術を吸収させた[124]。以降、西チベットでは、カシミール地方の影響がみられる「リンチェンサンポ様式」と呼ばれる仏教美術が栄えた[125]

10世紀から11世紀にかけて、北インドのヒマーチャル・プラデーシュ州タボ僧院英語版 (当時の西チベット王国の一部)は、インドとチベットの文化交流、特に仏教美術と哲学の分野において、仲介者として重要な役割を担っていた。タボにおける特筆すべきチベット仏教芸術には、同寺院に描かれたフレスコ画が挙げられる[126]

13世紀には、チベットはユーラシア大陸全体を席巻したモンゴル帝国と国境を接する。これをうけ、外交官として西涼まで赴いたチベット仏教サキャ派の僧、サキャ・パンディタがモンゴルの貴族たちに布教を行った。さらに、その甥にあたるパクパは元朝初代皇帝クビライと親交が篤かったことにより、帝師として大都に招聘された。結果として、中国においても大都を中心にチベット・ネパール由来の仏教美術と仏教建築が大いに発展した。

14世紀に入ると、ゲルク派の祖、ツォンカパがチベット仏教を改革。17世紀のダライ・ラマ政権樹立への礎を築いた。15世紀には、チベット仏教美術の主たる流派の2つ、メンリ派とキェンツェ派が成立する。メンリ派側はダライ・ラマの宮廷絵師としての地位を得てチベット仏教美術の主流派を形成した一方、圧されたキェンツェ派側はしだいにメンリ派に吸収された[127]。これらの学派では、各尊格ごとに異なった身体比率、様相、着衣、姿態が定められ、厳密なアイコノメトリーが定義された[128]

ヤマーンタカ(大威徳明王)像 19世紀 金銅仏 ホノルル美術館

15世紀から16世紀にかけ、カギュ派内部の一派であったカルマ派が、カルマパと呼ばれる転生ラマ制度をチベット史最初に導入した。カルマパは代々仏教美術を愛好・保護し、カルマ・ガルディ派と呼ばれる画工集団を重用した。17世紀、カルマパ10世チューイン・ドルジェ英語版ダライ・ラマ5世との政争に破れ、チベット東部での漂泊生活を強いられる。その過程で、彼と彼に随行した画工達は中国絵画の要素を吸収し、18世紀に至りカルマ派が東チベットに定着したのちも、カルマ・ガルディ派の絵画様式はこれを下敷きとして発展を続けた[128]

20世紀はチベット仏教美術にとって試練の世紀であったと同時に、海外への大々的な伝播が起こった時代でもあった[129]。1959年のチベット動乱によって、ダライ・ラマ14世を始めとする各宗派の指導者や仏教美術の担い手であった画工・仏師が国外へと流出した。また、1970年代の文化大革命では、多数の文化財やタンガ、仏像が破壊された。しかしながら、これらのできごとの結果としてヨーロッパやアメリカ大陸においてチベット仏教が広まったほか、欧米やインド、ネパールに逃れた芸術家たちが亡命先で移民2世や現地の画家など後進の育成に尽力することなった。さらに、中国領内においても、寺院の復旧や研究調査も21世紀に至るまで続いており、チベット人作家による新しいチベット仏教美術の様式が展開されている。

ベトナム[編集]

ベトナムの文化・芸術は、中国文化圏に属した北部と、インド文化圏に属した中部・南部で異なった展開を見せた。

蓮から立ち上がる少年仏 木像 陳朝 14世紀から15世紀 ベトナム国立歴史博物館英語版

ベトナム北部(トンキン)は1世紀から9世紀のあいだ、中国の文化的・政治的の強い影響下に置かれていた。また、それ以降の時代にあっても、中国由来の儒教と大乗仏教が普及した。全体として、ベトナムの仏教芸術の展開は中国の仏教芸術の影響によるところが大きい。

李朝から陳朝にかけて(11世紀から13世紀頃)、仏教はなかば国教として保護されていた。陳朝初期の歴代の皇帝は、臨済禅の流れをくむ竹林派を奉じていたが、陳朝後半になるとこれにチベット仏教と道教が混淆されていった。陳朝の時代を通じ、各地にチュア(巴語:ストゥーパから)とトゥ(中国語:寺から)と呼ばれる仏教寺院が建立された[132]14世紀には、この時期に成立したからの影響で儒教が重んじられるようになる。以後、仏教の影響力は相対的に小さいものとなるが、ベトナム戦争を経て現代に至るまで、仏教は同国の人々に信仰され続けている。

一方ベトナム南部では、チャンパが2世紀から19世紀(北部の大南阮朝によって滅ぼされるまで)に栄えた。チャンパは近隣のカンボジア同様、インド的な美術様式をもち、彫像における豊かな身体表現にその特徴がある。また、初期の仏教美術においては、クメール美術からも大きな影響を受けた。チャンパ王国は1471年黎朝によって首都を占領され、1720年代には完全に崩壊した。しかしながら、少数民族となったもののチャム族は現代においてもベトナムを含む東南アジアに広く居住している。

南伝仏教美術[編集]

カンボジアの仏、14世紀
Dhyani仏像大日如来観音菩薩、及び執金剛神内側Mendutの寺院。

南仏教としても知られる正統派の仏教はスリランカ、ミャンマー(ビルマ)、タイ、ラオス、カンボジアでまだ実践され 西暦1世紀、シルクロードの貿易は、ローマ人が非常に裕福になり、アジアの贅沢品に対する需要が高まっていたように、ローマの未敵の敵である中東パルティア帝国の台頭によって制限される傾向があり この需要により 地中海と中国の間の海のつながりが復活しインドが選択の仲介者となる。その時から貿易接続、商業的解決さらには政治的介入を通じてインドは東南アジア諸国に強く影響を与え始め 貿易ルートはインドをビルマ南部、シャム中部および南部、カンボジア南部およびベトナム南部と結び付け、多くの都市化された沿岸集落がそこに設立された。

したがって千年以上にわたりインドの影響は地域のさまざまな国に一定レベルの文化的統一をもたらし パーリサンスクリット語の言語とインドのスクリプトは、一緒になって大乗上座部仏教、バラモン教ヒンドゥー教、直接の接触からとのような神聖なテキストやインドの文学を透過し、ラーマーヤナマハーバーラタ などの拡大はこれらの国々で仏教美術が発展するための芸術的背景を提供しその後、独自の特徴を発展させた。

1世紀から8世紀にかけて、いくつかの王国がこの地域の影響を競い合い(特にカンボジアのフナン、そしてビルマのモン王国)主にインドのグプタスタイルに由来するさまざまな芸術的特徴をもたらし ヒンズー教の影響が広がり仏教の画像、奉納の碑文、サンスクリット語の碑文がこの地域全体に見られる。8世紀から12世紀にかけて パラ王朝の後援の下仏教とヒンドゥー教の芸術と思想が共同開発されますます相互に絡み合うが [133] しかし、インドのイスラム教徒の侵略と修道院の解任によりリチャード・ブラトンは「仏教はインドの主要な勢力として崩壊した」と述べている[133]

8世紀から9世紀までに、シャイレーンドラ朝仏教芸術はインドネシアの中央ジャワメダンマタラム王国で発展し栄え この期間は、カラサン、マンジュスリグラ、メンドゥット、ボロブドゥールの石メンドゥットなど、数多くの絶妙なモニュメントが建設されたため、ジャワの仏教美術の復興を記念するものとなり その伝統は13世紀の東ジャワのシンガサリ仏教芸術まで続いた。

9世紀から13世紀にかけて東南アジアには非常に強力な帝国があり仏教の建築と芸術の創造において非常に活発になる。シュリーヴィジャヤ王国南に帝国とクメール帝国など競って北へ、どちらも大乗仏教の信奉者だったが、彼らの芸術は豊富な菩薩 大乗パンテオン表現で パーリカノンの上座仏教はスリランカから13世紀頃に地域に導入され、新しく設立されたタイ王国スコータイで採用がみられるが 当時の上座部仏教では修道院は通常町の信徒が指導を受ける中心的な場所であり、僧らによって紛争を仲裁されて発展した寺院の複合体建設は東南アジアの芸術的表現において特に重要な役割を果たした。

14世紀以降イスラム教が東南アジアの海域に広がり マレーシアインドネシア南フィリピンに至るまでのほとんどの島々を圧倒したが 大陸地域では上座部仏教はビルマ、ラオス、カンボジアに拡大し続けた。

スリランカ[編集]

スリランカの仏像。

スリランカ島はインド亜大陸から南東数十キロ離れた海上に位置する。パーリ語で書かれた叙事詩マハーワンサ』によれば、紀元前543年釈迦入滅の年)に、この地へと初代国王ウィジャヤが渡ってきたことが始まりとされるが、史実においては更に遡るとされる。また、原史時代にあたる紀元前10世紀から紀元前5世紀には、すでに南インドと技術や文化を相互に影響を与えあっていたようである[134]

伝承によると、紀元前3世紀マウリヤ朝の王アショーカの長男として生まれた長老マヒンダと、彼に率いられたインド僧たちがスリランカへと渡り、この地で仏教を広めたとされる。主にアニミズムを奉じていたスリランカの人々への布教の過程はゆっくりとしたものであったものの、ときの王、デーワー・ナンピヤティッサ英語版が仏教に深く帰依したことで、王都アヌラーダプラからほど近いミヒンタレー英語版にスリランカ最初の精舎が開かれた[135]。また、同時期、紀元前3世紀頃にアヌラーダプラに築かれた僧院マハーヴィハーラ(大寺)は、およそ200年後の紀元前89年ワッタガーマニー・アバヤ王英語版によってアバヤギリ・ヴィハーラ英語版(無畏山寺)が建立されるまで、スリランカにおける上座部仏教の中心地であり続けた。

大乗仏教を受け入れたアバヤギリの僧院は、保守的なマハーヴィーラの僧院と対立しながらも大乗仏教の本拠地となっていた。また、両僧院の激しい対立によって、新しくジェータヴァナヴィハーラ派英語版が分派し、これ派閥を含めた3つの僧院がアヌラーダプラの近くで鼎立することとなった。この対立は千年以上も続いた。1017年、南インドのヒンドゥー教勢力、チョーラ朝がセイロン島へと侵攻し、アヌラーダプラ王国を滅ぼす。チョーラ朝はアヌラーダプラから南東100kmほど離れたポロンナルワへと遷都を行ったことで、いわゆるアヌラーダプラ時代は終焉を迎えた。チョーラ朝による同地の支配は半世紀ほどしか続かず、反旗を翻したウィジャヤバーフ1世によってセイロン島から駆逐された。ポロンナルワ王国の支配のもと、スリランカの仏教、そして仏教美術は、新しい都のポロンナルワで展開することなる。12世紀、大王パラークラマバーフ1世英語版 は、僧団の綱紀粛正を断行、上座部仏教のみを正統とし、大乗仏教の諸派はすべてマハーヴィーラ派へと統合された。

アーナンダ 花崗岩 12世紀 像高約7メートル ガル・ヴィハーラ、ポロンナルワ[136]

パラークラマバーフ1世の治世と、それに続くインド出身の王ニッサンカマッラの時代には、統一されたセイロン島は政治的にも経済的にも活況を迎えた。仏塔や寺院も、アヌラーダプラ時代よりも更に大きく、国際的な様式で多様な展開を見せたているこの時代作にられた重要な仏教彫刻としては、ガル・ヴィハーラ英語版の磨崖仏群が挙げられる[137]

スリランカでは石で作られ青銅合金で鋳造された仏像の彫刻が有名である [138]

ミャンマー[編集]

インドの隣国であるミャンマー (ビルマ)は、当然インド領土の東部の影響を強く受けて ビルマ南部のは約200仏教に変換されたと言われており インドの王の改宗下BCEアショカ時代の分裂前、大乗小乗仏教 が成る。

18世紀のビルマの水彩画における仏の生活のシーン

ミャンマー中部のベイクタノなど1世紀から5世紀にかけての初期の仏教寺院があり モンスの仏教芸術は、特にインドのグプタとグプタ後期の芸術の影響を受け、5世紀から8世紀にかけてのモン帝国の拡大に伴い、そのマニエリスム様式は東南アジアに広く広まった。

後に11世紀から13世紀にかけて首都のバガンに数千の仏教寺院が建てられ約2,000の寺院がまだ立っているが 当時の宝石のような美しい仏像が残っている。1287年にモンゴル人によって都市が押収されたにもかかわらず、なんとか創造は続いていったのである。

[139]

14世紀から16世紀までのAva時代には仏像のAva(Innwa)スタイルが人気となり このスタイルでは、仏には大きな突出した耳、上向きに曲がった誇張された眉毛、半分閉じた目、細い唇、および通常は肩甲骨ムードラに描かれた髪の毛が上部に向けられている。18世紀末のコンバウン王朝の間に仏像のマンダレースタイルが出現したがこのスタイルは今日でも人気があり [140] Innwaスタイルからの著しい逸脱があって仏の顔ははるかに自然で肉厚で、自然に斜めになった眉毛、わずかに斜めの目、より太い唇、上部に丸い髪のバンが特徴で このスタイルの仏像は横たわっているか、立っているか、座っているかがわかり [141] マンダレースタイルの仏は、流れるようなドレープのローブを着ている。
仏像のもう1つの一般的なスタイルはミャンマーの高地に住むシャン族のシャンスタイルで このスタイルでは仏は角のある特徴、大きくて尖った鼻、タイのスタイルと同様に結ばれた髪の束、小さな細い口で描かれている。[142]

マンダレー様式の仏像

カンボジア[編集]

カンボジアフン王国の中心であり、3世紀から6世紀にかけてビルマとマレーシアの南端まで拡大しその影響は本質的に政治的なものであり、文化的影響のほとんどはインドから直接もたらされたようである。 その後、9世紀から13世紀にかけて、大乗仏教とヒンドゥー教のクメール帝国が東南アジア半島の広大な部分を支配し、その影響はこの地域の仏教美術の発展において最も重要で クメールの下でカンボジアと近隣のタイとラオスに900以上の寺院が建てられた。クメール仏教美術の王室の愛顧はアンコールトムドヴァラス (ゲート)とプラサートタワーバイヨンロケシュヴァラの笑顔で飾られた、アンコール・トムの城壁都市を建てた仏教の王ジャヤヴァルマン7世の後援により新たな高みに達したが [143] アンコールはこの開発の中心であり、仏教寺院の複合体と都市組織が約1をサポートでき  百万人の都市居住者がいて カンボジアの仏教彫刻の多くはアンコールに保存されている。しかし、組織的な略奪は、全国の多くのサイトに大きな影響を及ぼしました。多くの場合クメール芸術はその備の特徴と細い線にもかかわらず、神聖に輝く表現を通して強烈な精神性を表現することができているといわれる。

タイ[編集]

タイの仏教芸術はタイの前の文化であるDvaravatiとSrivijayaから、タイの最初の首都である13世紀のスコータイまでタイ王国のアユタヤとラッタナコシンまで数千年以上の期間を網羅している。[144]

1世紀から7世紀にかけて タイの仏教美術はインドの商人との直接的な接触とモン王国の拡大に最初に影響を受けグプタの伝統からインスピレーションを受けたヒンドゥー教と仏教美術の創造につながる。9世紀以降、タイ芸術のさまざまな学校は大乗信仰の両方で北のカンボジアクメール芸術と南のスリヴィジャヤ芸術の影響を強く受け その間に仏教美術は大乗の複数の作品とパンテオン菩薩など表現に明確な主題をもつ特徴があるされているが 13世紀からは 上座部仏教は同時期にスリランカから導入された民族のタイの王国スコータイが設立され [145] 新しい信仰はタイ仏教の非常に様式化されたイメージに影響を与えられた。

アユタヤ時代(14世紀から18世紀)に仏像はよりスタイリッシュな様式で、豪華な衣服と宝石で飾られた装飾品で表されるようになり 以降多くのタイの彫刻や寺院は金メッキされる傾向があり、時にはインレイで豊かになる。

トンブリとラタナコシン王国のその後の期間はタイ仏教美術のさらなる発展を見たが [146] 18世紀までに バンコクサイアム王国の王室の中心地として設立され その後タイの統治者は仏教の尊厳を示し、その権威を示すために、堂々とした仏教のモニュメントで都市を満たした。その中にはエメラルドブッダを主催する有名なワットプラケオがあるが バンコクの他の仏教寺院は ワット・アルンワットポーなどからの有名なイメージと菩提 仏塔風の塔を持つ。

インドネシア[編集]

他の東南アジアと同様に インドネシアは西暦1世紀からインドの影響を最も強く受けていたようで 西インドネシアのスマトラ島ジャワ島は、海の力で東南アジア半島周辺の大部分を支配するようになったスリ・ヴィジャヤ8〜13世紀)の帝国の所在地であり スリランカビジャヤン帝国は支配者シャイレーンドラ朝の下に大乗仏教とVajrayanaを採用。シャイイレンドラは熱心な寺院建築家であり、ジャワの仏教の献身的な後援者で [147] スリ・ヴィジャヤは東南アジア半島への拡大中に大乗仏教美術を広めた。大乗の数多くの仏像菩薩この時期からは非常に強力な洗練と高度な技術によって特徴付けられ、そして各地域で発見されていく。ジャワで最も古い仏教の碑文の1つである778年のカラサンの碑文には、女神タラの寺院の建設について言及されている [147]

ロータスの玉座にある東ジャワのシンハサリのプラニャパーラミターの像。

非常に豊かで洗練された建築遺物はジャワとスマトラにあるが 最も壮大なのは ボロブドゥール寺院(780-850年頃に建てられた世界最大の仏教建造物)で、サイレンドラスによって建てられた [148] この寺院は仏教の宇宙の概念、着座仏の505枚の画像を数えるマンダラおよび仏像を含む独特の鐘形の仏塔をモデルにしており ボロブドゥールには仏教の聖典をナレーションしたレリーフの長いシリーズも飾られている [149]。インドネシアで最も古い仏教建造物はおそらく西ジャワのカラワンにあるバトゥジャヤの仏塔で、4世紀頃とされ この寺院は、漆喰で覆われたレンガの仏塔である。しかしインドネシアの仏教美術は、ジャワ島のサイレンドラ王朝時代に黄金時代に達した。浅浮き彫りや彫像菩薩タラ緊那羅で見つかったKalasan セウ、サリおよびPlaosanの寺らは穏やかな表現と非常に優雅である一方Mendutのボロブドゥール近くの寺院は大日如来観音菩薩及び執金剛神 など巨大な彫像を収容する。 スマトラ島でスリ・ヴィジャヤはおそらくムアラ・タクスの神殿とムアロ・ジャンビを建てたとされるが、ジャワの古典仏教美術の最も美しい例は シンハサリ王国からの超越的な知恵の女神であるプラナパラミタ (国立博物館ジャカルタのコレクション)の穏やかで繊細な像で [150] インドネシアの仏教スリ・ヴィジャヤ帝国はインドのチョーラの支配者との対立により衰退し、その後マジャパヒト帝国が続いた。

現代仏教美術[編集]

本「仏と仏教の福音」(1916年)のイラスト。

20世紀以降、アジアにおける仏教美術は西洋美術との接触・結びつきの中で新しい展開を迎えた。そのなかには、旧来の様式から離れて発展したものもあれば、伝統に軸足をおいたまま発展したものもある。

アジアにおける現代仏教美術としては、大韓民国の王智源による仏像彫刻[151]、ネパール出身でチベット・ニャラム県にルーツを持つツェリン・シェルパによる絵画作品[152]が挙げられる。

また、アメリカ大陸ヨーロッパといった、近代に入ってから教が広まった地域出身の現代アーティストの多くが、仏教をアートの主題として取り扱っている。注目すべき例としては、ビル・ヴィオラによるビデオ・インスタレーション[153]ジョン・コンネル英語版が手掛けた彫刻作品、 アラン・グラハム英語版によるインスタレーション作品、"Time is Memory"などがある[154]

イギリス仏教団体ネットワーク英語版は、アートに携わる仏教実践者を識別することに意欲的である。この組織は、2005年に全国的な仏教芸術祭、「花の蓮」("A Lotus in Flower")を企画[155]したほか、 2009年には2日間に渡る芸術会議「ブッダマインド、クリエイティブマインド」の開催を支援した[156]。「ブッダマインド、クリエイティブ」の閉会後に仏教芸術家の協会が結成され、組織としての努力が実を結ぶこととなった[157]

モチーフ、テーマ、画題[編集]

モチーフ[編集]

仏教美術には、自然物や人型のモチーフが用いられた一方、武器や道具もモチーフとして用いられた。これらの象徴は、本来の使用方法から離れ、煩悩を打ち消す力や衆生への伝道の比喩として扱われていく。例えば、前述のとおり、初期仏教の美術において仏陀は人間ではなく法輪の形で表現された。ここにおいて、法輪は、仏陀や僧侶が仏法を説く様子、あるいは仏陀自身、または彼の伝道そのものの象徴であった。

また、密教においては三昧耶形と呼ばれるシンボルによって、それぞれの仏や天が表される。曼荼羅では、これらの仏は対応する象徴物のみで表現されることがある。

画題[編集]

仏画

仏伝図

曼荼羅

六道絵

変相図

九相図

関連項目[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 儀式と哲学が発達したバラモン教においては、火を通じて神々に供物を捧げることはあっても、偶像に対して崇拝を行うことはなかった。ゆえに、ヴェーダ時代の宗教建築や神像はほぼ遺されていない。なお、「バラモン教」という呼称はヨーロッパ人によって付けられたものである。
  2. ^ 当時の仏教徒は、ブッダが悟りを開いたことで人間を超越した存在(不可視)になったと考えていたようである。
  3. ^ ただし、三十二相八十種好のうちのいくつかはジャイナ教と共有されている[6]一方で、この様式が一揃いのものとして確立したのは4世紀から5世紀にかけてのことである[7]
  4. ^ 阿羅漢果とは、四向四果という仏教における修行の8段階のひとつで、すべての煩悩を断じ終って涅槃に入り、もはや再び生死を繰返すことがなくなった位のこと。
  5. ^ 袈裟を両肩にのせる着衣法。
  6. ^ 三十ニ相の内容は、経典によって差異が認められる。したがって、インド大陸各地方での造像の展開に伴って、段階的に整理されていったと考えられる。
  7. ^ ただし、グプタ朝は仏教を積極的に弾圧したわけではない。
  8. ^ 7世紀から13世紀にかけて、インドでは新興のヒンドゥー教との対立のなかで密教が成立した。唐代の中国へは、善無畏金剛智らによって7世紀には伝わっていた。 9世紀、空海によって日本にも中国から中期密教が取り入れられるが、それ以降は積極的に密教を取り入れる動きはなくなった。 一方、チベットは、8世紀後半に仏教を国教とすると、インドから直接密教を取り入れ続けた。それゆえに、『無上瑜伽タントラ』が実践されるなど後期密教の特徴を強く残している。
  9. ^ ひとことに南伝仏教といっても、インド洋以東には上座部仏教と同時に大乗仏教も広まった。例えば、ボロブドゥール寺院遺跡群を建設したシャイレーンドラ王家は、大乗仏教を信奉していた。
  10. ^ 部派仏教(後代の上座部)においては、阿羅漢とは仏陀以外の修行者の達しうる最高の境地であり、苦しみからの解放された状態であった。
  11. ^ 例えば、インドの中期密教以降ではヒンドゥー教と、南北朝時代以降の中国では道教と、新羅以後の朝鮮半島では巫俗と、飛鳥時代以後の日本では神道怨霊信仰と結びついた。 一方で、その受容の過程にも国によって差異があった。インドではヒンドゥー教への対抗上仏教側が積極的に神格を取り入れたが、朝鮮では仏教側が既存の巫俗信仰を容認する形で取り込んでいった。
  12. ^ 仏伝図とは、釈迦の生涯、つまり出生直前の出来事から涅槃までを描いたもの。
  13. ^ 建設当時、両大仏が建てられたのは交通の要衝であったが、こういった場所に摩崖のレリーフを彫るのはペルシャの伝統であった。また、壁画の色彩感覚や身体表現にササン朝美術の影響を見ることができる。
  14. ^ 儒教の価値観を色濃く反映した『仏説父母恩重難報経』など。
  15. ^ 重慶市で発見された、延光4年(124年)に制作された揺銭樹には仏の姿が確認できる[31][32][33]
  16. ^ その一方で、同時期に作られたほかの仏像にはグプタ様式のもの、肌を見せた官能的な作りのもの、漢風のものがあるなど、様々な表現を見ることができる。
  17. ^ これらの宗教政策は、実際には経済政策の側面の方が大きく、寺院の破壊や僧侶の投獄・処刑を伴ったものではなかった。晩唐・五代十国の時代にあっては財政改善は喫緊の課題であり、「廃仏」も金属接収や課税が主な狙いであった。
  18. ^ 禅宗は主に江南で、浄土教は主に華北に浸透していた。また、自立的な禅宗が都市民・士大夫層に人気だったのに対し、阿弥陀如来の救済を求める浄土教は地方民・庶民層に普及した。
  19. ^ これら禅画における様式の確立には、書道からの影響を無視することはできない。士夫画の提唱者にして詩人・居士であった蘇軾は、なにより書の大家でもあった。
  20. ^ 水月観音とは、法華経で説かれている観音菩薩の33の姿のうちの一つ、辟支仏身に対応するもの。
  21. ^ 清初期の康煕帝は知識人に対する抑圧は積極的に行ったが、仏教・道教に対しては放任主義的に臨んだ。『清朝野史大観』には、康煕帝が「復興できないほどに衰退してしまい、二氏は今では哀れなものである。時代遅れになってしまったものを邪魔物として取り除く 必要もなく、絵や詩の題材として残っている」と詠んだと記されている[58]
  22. ^ 528年とも。
  23. ^ 新羅は立地上、中国大陸への海路・陸路を確立できなかったためであった。5世紀初頭には高句麗の僧侶を通じこの新しい教えの存在を認知していたようである。
  24. ^ 386年鮮卑族の一派であった拓跋氏は、華北に北魏を建てた。
  25. ^ なお、宝冠菩薩の制作地については、百済説、新羅説、日本説、渡来人制作説があり、用材にアカマツクスノキが使われていたことから、結論は出ていない。
  26. ^ なお、752年に行われた東大寺盧舎那仏像開眼法要に参加した菩提僊那が近代以前に渡来した数少ないインド僧の一人として挙げられるように、全くインドとの交流が無かったわけではなかった。
  27. ^ 元軍の撃退に加持祈祷が影響が与えたと考えられたことと、禅を重んじていた南宋が滅亡したことが、情勢に変化をもたらした。
  28. ^ 『東海道五十三次』の53という名数は、『華厳経』の末尾の一経、『入法界品』に登場する善財童子が得る善知識の数に由来するとする説がある。

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参考文献[編集]