伊藤八兵衛

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伊藤 八兵衛(いとう はちべい、1813年文化10年) - 1878年明治11年)9月)は、幕末豪商水戸藩の金子御用達などを務めたが、為替投機で失敗し没落した[1]。画家・淡島椿岳は実弟にあたる。渋沢栄一の岳父。

略歴[編集]

武蔵国川越の小ヶ谷村(現埼玉県川越市小ヶ谷)に、豪農・内田善蔵の長男として生まれた。

末弟の米三郎(後の淡島椿岳)と2人で川越を発ち江戸に出て、小石川伝通院前の伊勢屋長兵衛方で奉公する。伊勢屋長兵衛は「伊勢長」(いせちょう)という江戸きっての質商であった。八兵衛はそこで頭角を現わし、伊勢屋の一族であり「京橋十人衆」と謳われた幕府の大御用商人である伊藤家の婿養子となる。これを「天下の大富豪」と仰がれるようにしたのは八兵衛の努力・才覚であった。八兵衛は本所の油堀(現・江東区佐賀[2])に油会所(油仲間寄合所)を建て、水戸藩の名義で金穀その他の運上を扱うなど急成長をし、その成功は幕末に頂巓に達し、江戸一の大富限者として第一に指を折られた。

元治元年(1864年)、水戸藩天狗党が旗上げした際、八兵衛は後楽園に呼び出され、小判5万両の賦金を命ぜられると、小判5万両の才覚は難しいが二分金なら3万両を御用立て申しましょうと答えて、即座に3万両を出したと言われる。明治維新の時にも、三井の献金は3万両だったが、八兵衛は5万両を献上した。また、70万両の古金銀を石の蓋匣に入れて地中に埋蔵したと言われる。明治時代の雑誌「太陽」の創刊号に「伊藤八兵衛伝」という記事が出るほどであった。

1871年頃、横浜居留地のアメリカ商人ウォルシュ・ホール商会とドル為替取引で利益を出す共同事業を始めるため同社に保証金を渡したが、取引失敗により損失を被り、保証金の返還等を求めて民事裁判を起こした[3]。当初は昵懇にしていた商会側の担当者ロバート・W・アーウィンに頼まれ、アーウィンの失敗が社長に発覚しないよう帳簿に記載しないなど損失隠しに手を貸したりもしたが、裁判ではそれを逆手に取られるなどして決裂した[4][5]。横浜の商人・橋本弁蔵もアーウィンから帳簿の不正記載を頼まれたが断ったと証言したが、領事裁判所は日本人同士の口裏合わせを疑った[4]。当時の契約のほとんどが口頭でなされ、不明確な領域を多く伴っていたにもかかわらず、領事裁判所はたったひとつの契約書類を根拠に伊藤側を全面敗訴としたため、判決を不服とした伊藤はカルフォルニアの高等裁判所へ訴えようとしたが、15万円の負債を抱えて裁判費用を調達できず、悶々のうちに1878年に没した[6]

渋沢栄一は八兵衛の元で丁稚奉公し、八兵衛の次女・兼子は渋沢の後妻となった。

脚注[編集]

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  1. ^ 明治美人伝長谷川時雨、「解放 明治文化の研究特別号」1921(大正10)年10月
  2. ^ 江戸の川・掘割ビバ江戸
  3. ^ 『取引制度の経済史』岡崎哲二、東京大学出版局、2001年 「2章 幕末維新期開港場における内外商の取引関係(ユキ・A・ホンジョー)」
  4. ^ a b "Japan's Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports" by Yuki Allyson Honjo, Routledge, 2013/12/19, p159-175
  5. ^ "The American Merchant Experience in Nineteenth Century Japan" by Kevin C. Murphy, Routledge, 2004/08/02, p169
  6. ^ 岡崎哲二編『取引制度の経済史』石井寛治、 ‎2004

参考文献[編集]

  • 内田魯庵『新編 思ひ出す人々』(岩波文庫、1994年)