佐ノ山部屋

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佐ノ山部屋(さのやまべや)は、かつて存在した相撲部屋

沿革

初代佐野山條助が幕内宮城野丈助を育てた。引退後2代目となった宮城野は、関脇御所車今右エ門、関脇宮城野錦之助らを育て死去。3代栗谷川治良吉が跡を継いだ。

出羽海部屋の幕内鴻ヶ峰庄兵衞は文化元年(1806年)3月に二枚鑑札で襲名し部屋を興すも文化10年(1815年)頃死去か?。所属力士は秀ノ山部屋へ移った。その中に後の幕内越戸濱之助がいた。

弘化3年(1846年)11月から宮城野部屋の元幕下総ヶ関荒五郎が襲名して部屋を興すが、弟子の大成を見ずに死去した。所属力士は桐山部屋へ移籍した。その中に後の幕内佐野山幸吉がいた。

桐山部屋に移籍していた佐野山は安政6年(1859年)1月より二枚鑑札で襲名。引退後幕内音羽山市平を育てた。明治33年(1900年)9月の死去前に谷ノ川安藏が入幕を果たしたが、死去後桐山部屋へ移籍した。

その後高砂部屋の大関朝汐太郎が襲名し、高砂部屋から連れてきた幕内朝嵐(後の大関2代朝汐太郎)や十両朝見冨士(後の幕内朝響信親)を育てた。大正9年(1920年)8月に死去。朝見冨士らは高砂部屋に移籍した。

高砂部屋の元幕内朝響信親は昭和4年(1929年)9月限りで引退して10代目を襲名。昭和30年(1955年)3月部屋を再興した。しかし、昭和35年(1960年)2月に親方は死去し、弟子たちは高砂部屋に引き取られた。

その後、11代目を襲名した高砂部屋の元小結・國登國生が、十両に昇進したばかりの先代弟子だった栗家山恵三をつれて昭和36年(1961年)7月に部屋を再興。その後栗家山は幕内に昇進したが僅か3場所で陥落し、幕下中位まで下がった昭和39年(1964年)1月限りで廃業。彼の廃業とともに3月を最後に部屋を閉じ、親方は高砂部屋に戻った。

執筆の途中です この「佐ノ山部屋」は、相撲に関連した書きかけ項目です。記事を加筆・訂正してくださる協力者を求めています(PJ相撲)。

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