佐薙毅
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佐薙 毅 | |
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生誕 |
1901年8月8日![]() |
死没 |
1990年3月14日(88歳没)![]() |
所属組織 |
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軍歴 |
1922 - 1945(帝国海軍) 1954 - 1959(空自) |
最終階級 |
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除隊後 | 水交会会長 |
佐薙 毅(さなぎ さだむ、1901年(明治34年)8月8日 - 1990年(平成2年)3月14日)は、日本の海軍軍人及び航空自衛官、第2代航空幕僚長。海兵50期・海大32期。帝国海軍での最終階級は海軍大佐。自衛隊での最終階級は航空幕僚長たる空将。
経歴[編集]
現在の愛媛県新居浜市で出生。父は教員・佐薙喜志太。1919年(大正8年)3月、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。1922年(大正11年)6月、海軍兵学校卒業(50期)。卒業席次は19位[1]。
1923年(大正12年)9月、海軍少尉。1925年(大正14年)12月、海軍中尉。1926年(大正15年)3月、第4期偵察学生。1927年(昭和2年)12月、海軍大尉。1928年(昭和3年)4月、霞ヶ浦海軍航空隊教官。12月、アメリカ大使館付武官補佐官。1931年(昭和6年)5月、霞ヶ浦海軍航空隊教官。12月、重巡洋艦「妙高」乗組。
1932年(昭和7年)12月、海軍大学校甲種第32期入校。1933年(昭和8年)11月、海軍少佐。1934年(昭和9年)7月、海軍大学校甲種第32期卒業。11月、水上機母艦「神威」飛行長。1935年(昭和10年)6月、海軍航空本部総務部員。1936年(昭和11年)9月、第十一航空隊付。12月、海軍省人事局付。1937年(昭和12年)12月、人事局第1課局員。1938年(昭和13年)11月、海軍中佐。12月、第5艦隊参謀。1939年(昭和14年)12月、連合艦隊航空参謀。
1940年(昭和15年)11月、軍令部第1部第1課部員。1941年、太平洋戦争が始まる。1942年(昭和17年)6月、軍令部第1部第1課作戦班長。1943年(昭和18年)5月、海軍大佐。11月、南東方面艦隊参謀兼第十一航空艦隊参謀兼第8方面軍参謀。1945年(昭和20年)南東方面艦隊首席参謀。
1945年8月、終戦。1947年(昭和22年)7月、復員。1954年(昭和29年)7月1日、航空自衛隊発足に伴い航空幕僚副長に就任(空将)。1956年(昭和31年)7月3日、第2代航空幕僚長に就任。1957年、FX次期戦闘機選定が始まる。当初防衛庁は次期戦闘機をロッキードF-104に内定したが、岸信介内閣成立後1958年1月、佐薙は渡米しFX次期戦闘機の選定を実施して帰国後に報告書を提出し、1958年4月、G-98J-11の採用を国防会議が内定した。しかし、G-98の内定に対して「汚職の疑いがある」「設計図だけの幽霊戦闘機(実機はまだ製作されていなかった)」との批判が起こり、佐薙らの事情聴取や証人喚問にまで発展し、白紙化する第1次FX問題が起こる。1959年(昭和34年)7月18日、退官。
1970年(昭和45年)5月、水交会会長(- 1974年5月)。
1990年(平成急性心不全のため東京都多摩市内の病院で逝去(88歳没)[3]、叙・従四位[4]
2年)3月14日、人物[編集]
帝国海軍では、海兵卒業時には恩賜組に入らなかったものの、アメリカ駐在武官補佐官・連合艦隊参謀・軍令部作戦班長などの要職を歴任し、将来を嘱望された「赤レンガ組」であった。航空自衛隊では制服組トップの航空幕僚長まで上り詰めた。
海軍士官・航空自衛官として頂点を極め、日米開戦など歴史の重要場面に立ち会った佐薙であるが、自他共に認める口下手であった[5]。昭和40年代に佐薙にインタビューを行った亀井宏によると、事前に佐薙から貰った手紙に「私は喋ること、書くことがきわめてにが手です」とわざわざ断りが書いてあり、亀井は佐薙と会った印象を「なるほど、失礼ながら掛値なしに口舌の人ではないことを知った」と記している[5]。
栄典[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 戸高一成 『[証言録]海軍反省会』 PHP研究所、2009年8月1日。ISBN 978-4569709703
- 亀井宏 『ミッドウェー戦記(上)』 講談社(講談社文庫)、2014年。
- 秦郁彦 編著 『日本陸海軍総合事典』(第2版) 東京大学出版会、2005年。
関連項目[編集]
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