保坂秀樹
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保坂 秀樹 | |
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プロフィール | |
リングネーム |
保坂 秀樹 ミスター・ポーゴ2世 弁慶 |
本名 | 保坂 秀樹 |
身長 | 180cm |
体重 | 61kg[1] |
誕生日 | 1971年8月5日(49歳) |
出身地 | 新潟県糸魚川市 |
所属 | フリー |
スポーツ歴 | レスリング |
デビュー | 1991年8月7日 |
保坂 秀樹(ほさか ひでき、1971年8月5日 - )は、日本のプロレスラー。
経歴[編集]
高校卒業後、1990年5月サブミッション・アーツ・レスリング (SAW) に入門、SAWでは木村浩一郎の後輩にあたる。1年間に渡り修行を積み、同道場から派遣される形で1991年8月7日、W★INGプロモーション後楽園ホール大会での格闘技マッチでプロデビューした。
旧W★ING崩壊後、所属していた選手達の殆どがW★INGプロモーションに移籍する中、保坂はW★INGプロモーションと別れたWMAに所属するものの、WMAは一試合も行うこと無く活動停止してしまう。
その後、保坂はPWCに移籍して弁慶のリングネームで試合を行うものの同団体の経営難から離脱し、一時リングスにも出場するなどしたが、1994年にFMWに活動の場を移し、1995年2月にリッキー・フジを破り第3代インディペンデント・ワールド・ジュニアヘビー級王座を獲得する。2000年4月には佐々木嘉則をパートナーにWEWハードコアタッグ初代王者になり、同タッグ王座には合計3度就くことになった。
保坂はFMW所属時から全日本プロレスに登場していたが、2002年3月23日に正式に全日本プロレスに入団。中堅どころとして活動していたが2003年に当時、対抗戦を行なっていたプロレスリングZERO-ONEに参戦した際に「ZERO-ONE最高」といった旨の発言を行い全日本と敵対し、全日本に籍を残しながらZERO-ONEにレギュラー参戦していた。しかし、ZERO-ONE崩壊後は全日本に所属していない。5月に右膝を骨折し、長期欠場する(時期は不明だがいつの間にか解雇されていた)。
長期欠場の後、2006年9月24日の維新力30周年記念大会で復帰した。当初、保坂は天龍源一郎の付き人として来ただけだったが天龍の一言で復帰することになった。
その後も保坂はWMFでヒールとして継続参戦を続けていたが団体解散となり、セミリタイア状態となった。
2012年、茨城県を本拠とするローカル団体であるごじゃっぺプロレスのGJPヘビー級初代王者となった。
2016年10月、千葉県袖ケ浦市の市議会選挙に立候補したが、落選した。
2017年、ミスター・ポーゴが死去したことに伴い、自らが「ミスター・ポーゴ2世」になることを表明。現時点では大仁田の引退時まで同リングネームで活動することを発表。
2019年8月18日の大日本プロレス大阪大会後に体調が悪化し、9月13日に緊急入院[1]。検査の結果、医師から大腸がんステージ4で、肝臓にもがんが転移していることを告知された[1]。10月15日に手術を受けたが、腹膜炎を発症したため、同24日に再手術した[1]。保坂と親交が深かったプロレスリングA-TEAMは、12月27日に新木場1stRINGにおいて、「がんばれ “弁慶”!負けるな、保坂秀樹!!」のタイトルで、保坂を応援する興行を開催[2]。
得意技[編集]
- ビルディングボム
タイトル歴[編集]
- インディペンデント・ワールド・ジュニアヘビー級王座
- WEWハードコアタッグ王座
- GJPヘビー級王座
- GJPタッグ王座
- G一クライマックス優勝
- 新潟無差別級王座
入場曲[編集]
- 初代 : BALLS TO THE WALL(ACCEPT)
- 2代目 : WILDER
- 3代目 : WALK
- 4代目 : BUILDINGBOMB
脚注[編集]
- ^ a b c d “保坂秀樹ががんと壮絶闘病生活 大腸がんステージ4 肝臓にも転移”. ENCOUNT. (2019年11月13日) 2020年1月26日閲覧。
- ^ “12/28 がん闘病中・保坂秀樹支援大会開催、大仁田ら38選手が熱闘”. プロレス/格闘技DX. (2019年12月28日) 2020年1月26日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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