優生保護法

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優生保護法(ゆうせいほごほう)とは、1948年昭和23年)から1996年平成8年)まで存在した、優生学的断種手術、中絶避妊を合法化した法律である。

法律制定の背景、経緯[編集]

19世紀後半にフランシス・ゴルトンが提唱した優生学は、20世紀に入って世界的に国民の保護や子孫のためとして大きな支持を集めるようになった。その教義の一環は断種法の制定であり、早くも1907年にアメリカ合衆国のインディアナ州で世界初の優生思想に基づく堕胎・断種法が制定された。それ以降、1923年までに全米32州で制定された。カリフォルニア州などでは梅毒患者、性犯罪者なども対象となったこともあった。1930年代はドイツ、北欧諸国など世界的に断種法が制定されていった。日本でも1940年(昭和15年)の国民優生法が制定され、戦後、1948年(昭和23年)に優生保護法に改められた。

戦後の優生保護法の背景になったのは、戦後の治安組織の喪失・混乱や復員による過剰人口問題、強姦による望まぬ妊娠の問題であった。戦前から産児調節運動家として活動してきた加藤シヅエ太田典礼は、1946年(昭和21年)4月10日に行われた第22回衆議院議員総選挙で当選した後、日本社会党の代議士となり、1947年8月に優生保護法案を提出した。母胎保護の観点から多産による女性への負担や母胎の死の危険もある流産の恐れがあると判断された時点での堕胎の選択肢の合法化を求めた。彼らは死ぬ危険のある出産は女性の負担だとして人工中絶の必要性と合法化を主張した。これに加えて、国民優生法では不充分とされた断種手術の徹底も求めた。しかし、この社会党案はGHQとの折衝に手間取ったこともあり、国会では十分な議論がされず、審議未了となった。谷口弥三郎(のちに日本医師会長)ら超党派議員の議員立法で、1948年6月12日に提出され、参議院で先議された後、衆議院で6月30日に全会一致[1]で可決され、7月13日に法律として発布された。1949年、52年に優生保護法は改正され、国家的に避妊を奨励し、中絶規制を緩和する内容となっていった。1952年に「経済的理由」を目的とした中絶が認められた。遺伝性以外の精神障害や知的障害のある人に対象が拡大した。

改正案を巡る議論[編集]

1949年(昭和24年)の法改正により、経済的な理由による中絶の道が開かれ、1952年(昭和27年)には中絶について地区優生保護審査会の認定を不要とした。

その後、高度成長により、経済団体の日本経営者団体連盟(日経連)などからは、将来の優れた労働力の確保という観点から中絶の抑制が主張されるようになった。また、宗教団体からは、生長の家カトリック教会が優生保護法改廃期成同盟を組織して、中絶反対を訴えた。

一方、羊水診断の発展により、障害を持つ胎児が早期に発見されるようになり、日本医師会や日本母性保護医協会は、生長の家などの主張には反対しつつ、障害を持つ胎児の中絶を合法化するように提言した。

1972年時の優生保護法改正案には、下記の2に示される胎児条項が記載されたが、これは同時代の出生前診断技術の勃興を受けて、日本母性保護医協会が導入を主張した結果であった。これに対して、全国青い芝の会などの障害者団体は優生学的理由を前面に出した中絶の正当化に対して、中ピ連やリブ新宿センターなどの女性団体からはそれに加え、経済的な理由に基づく中絶の禁止に対する反発が広がるようになった。

1970年代から1980年代にかけて、中絶規制緩和をめぐって激しい議論がなされた。それを受け、1972年5月26日、政府(第3次佐藤改造内閣)提案で優生保護法の一部改正案が提出された。改正案は宗教団体などの意向を反映したもので、以下の3つの内容であった。

  1. 母体の経済的理由による中絶を禁止し、「母体の精神又は身体の健康を著しく害するおそれ」がある場合に限る。
  2. 「重度の精神又は身体の障害の原因となる疾病又は欠陥を有しているおそれが著しいと認められる」胎児の中絶を合法化する。
  3. 高齢出産を避けるため、優生保護相談所の業務に初回分娩時期の指導を追加する。

障害者団体からは主に2が、女性団体からは主に1と3が反対の理由となった。法案は一度廃案になったが、1973年に再提出され、継続審議となった。1974年、政府は障害者の反発に譲歩し、2の条項を削除した修正案を提出し、衆議院を通過させた。しかし、1974年6月に同修正案に反対する日本母性保護医協会の推した候補、丸茂重貞が選挙で圧勝したことで、参議院では審議未了で廃案となったとの意見がある。

生長の家などによる、経済的理由による中絶禁止運動はその後も続いた。中絶を容認しないカトリック教徒のマザー・テレサは、1981年1982年と二度の来日で、中絶が認められることへの反対を訴えている。一方で日本母性保護医協会、日本家族計画連盟などが中絶を禁止するべきでは無いと主張し、地方議会でも優生保護法改正反対の請願が相次いで採択された。

その結果、1981年(鈴木善幸内閣)から再度の改正案提出が検討されていた。1983年5月(第1次中曽根内閣)には、自民党政務調査会優生保護法等小委員会で「時期尚早」との結論を出した。1983年6月26日投票の参議院議員選挙では、自民党内の生長の家系、日母系の陣営のいずれが勝利するかが、改正案の帰趨を制すると見なされたが、勝利したのは日母の側であった。結果、生長の家政治連合は解散した。以後の優生保護法改正案の国会提出は断念された。

強制不妊手術の実施数は、1950年代末に年1000件以上に達したが次第に減少し、1980年代にはほとんど行われなくなった[2]

1996年(平成8年)の法改正により、不良な子孫の出生防止にかかわる条項が削除され、法律名称が母体保護法になった。なお、優生保護法、母体保護法ともに、議員立法によって制定・改正が行われてきている。ただし、行政実務上の主務官庁は厚生労働省(雇用均等・児童家庭局母子保健課)となっている。

1996年法改正後の動向[編集]

1998年(平成10年)、国際連合人権委員会は、母体保護法による強制不妊手術を強いられた被害者への補償を日本国政府に勧告した。

2018年(平成30年)、強制不妊手術の宮城県の被害者女性が国家賠償請求訴訟を提起した[3]

2019年(令和元年)、強制不妊手術の被害者に一時金を支払う救済法(旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する一時金の支給等に関する法律)が成立し[4][5]安倍晋三首相がおわびの談話を発表した[5]

2020年(令和2年)、国会が立法経緯や被害実態の調査を開始した[6]

訴訟[編集]

1977年(昭和52年)、白内障と診断されていた女性が次女を出産後、入院先の看護婦長(当時の名称)から「3人目は(目の疾患が)遺伝しないとは限らない」と言われ、不妊手術を強いられたとして2020年7月3日、国に損害賠償を求める訴えを静岡地方裁判所浜松支部に起こした[7]

脚注[編集]