元悦

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元 悦(げん えつ、494年 - 532年)は、中国北魏皇族。汝南文宣王。南朝梁の支援を受けて一時は北魏の皇帝を称したが、まもなくその地位を失って殺害された。正史では正式の皇帝の代数には数えられていない。

経歴[編集]

孝文帝と羅夫人の子として生まれた。503年景明4年)6月、汝南王に封じられた。517年熙平2年)4月、中書監・儀同三司となった。7月、殺人に連座して免官され、王のまま邸に帰された。

520年正光元年)、兄の清河王元懌元叉のために殺害されたが、元悦には報復の意志がなく、かえって元叉に媚びへつらった。元叉の引き立てで、元悦は侍中太尉となった。523年(正光4年)12月、太保に上った。526年孝昌2年)1月、太保のまま太尉を兼ねた。

528年建義元年)4月、爾朱栄が洛陽に入り、河陰の変が起こって北魏の皇族の多くが殺害されると、元悦は逃亡して南朝梁に亡命した。

530年(梁の中大通2年)6月、梁の武帝蕭衍は元悦を北魏の皇帝に擁立し、更興と建元した。梁の将軍の王辯に送られて北に向かった。532年(中大通4年)、梁の司州の薛法護に送られて、洛陽に入った。この時、北魏には爾朱世隆に擁せられた元恭(前廃帝・節閔帝)、高歓が擁立した元朗(後廃帝・安定王)が存在していたため、北魏には3人の皇帝が並び立ったことになる。

しかし、同年(北魏の中興2年)4月、高歓が爾朱氏に勝利したことによって梁軍は洛陽から撤退し、元悦は洛陽に取り残され、自動的にその帝位も消失した。北魏の最高実力者となった高歓は洛陽に入り、元朗に替えて元悦を皇帝とすることをも検討したが、元悦の態度が凶暴だったため、支えることができないと判断してそれを取りやめ、元脩(孝武帝)を擁立した。同年(太昌元年)11月に元悦は侍中・大司馬・開府となったものの、12月には殺害された。

人物[編集]

  • 元悦は仏教の経典を読むのを好み、史書を読みこなした。
  • 元悦の性格は道徳を外れており、行動は予測がつかなかった。
  • 道士の崔延夏と交友し、仙薬の類を調合して服用した。薬の原料となる芝を採りに出かけ、城外の零細民のところに宿泊した。酒・肉・粟・米を断ち、麦飯だけを食すようになった。
  • 元悦は房中では男色を好んだ。
  • 元悦はちょっとしたことで妃や妾に怒りちらし、鞭打ちを加えた。元悦が宮中を出ると、妃の閭氏は別居した。霊太后がわけを問いただすと、妃は元悦の暴行のために病床に伏し、傷も癒えていないことが分かった。太后は妃に対する鞭打ちに禁令を下し、諸親王の正妃で百日以上の疾患にある者は、全て報告させることとした。太后はもしさらに鞭打ちを加えれば、封位を削るむね宣告した。
  • 清河王元懌の子の元亶が父の形見を求めると、元悦は元亶を召し出して鞭打った。
  • 元悦はまぐさを切る押し切り(剉碓)の大きなものを州門に置き、盗人がいるとその手を切らせるようにした。

妻子[編集]

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  • 閭氏(東海公の娘)

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閭氏とのあいだに1人の男子あり。南朝梁に早世した。

伝記資料[編集]