児玉源太郎

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児玉 源太郎
こだま げんたろう
Gentaro Kodama 2.jpg
生年月日 嘉永5年2月25日1852年4月14日
出生地 日本の旗 日本 周防国都濃郡徳山横本町
(現:山口県周南市児玉町)
没年月日 (1906-07-23) 1906年7月23日(54歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府
前職 第3師団団長
称号 帝國陸軍の階級―肩章―大将.svg 陸軍大将
正二位
勲一等旭日桐花大綬章
功一級金鵄勲章
子爵
配偶者 児玉松子
子女
親族

日本の旗 第17代 文部大臣
内閣 第1次桂内閣
在任期間 1903年7月17日 - 1903年9月22日

日本の旗 第17代 内務大臣
内閣 第1次桂内閣
在任期間 1903年7月15日 - 1903年10月12日

日本の旗 第6代 陸軍大臣
内閣 第4次伊藤内閣
第1次桂内閣
在任期間 1900年12月23日 - 1902年3月27日

日本の旗 第4代 台湾総督
在任期間 1898年2月26日 - 1906年4月11日
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児玉[注釈 1] 源太郎(こだま げんたろう、嘉永5年閏2月25日1852年4月14日) - 明治39年(1906年7月23日)は、日本陸軍軍人政治家階級位階勲等功級爵位陸軍大将正二位勲一等功一級子爵日露戦争において満州軍総参謀長を勤め、勝利に貢献した。

生涯・人物[編集]

児玉源太郎の墓

嘉永5年(1852年2月25日周防国都濃郡徳山の本丁[注釈 2]で、長州藩の支藩・徳山藩の中級武士(禄100石)児玉半九郎忠硯の長男として生まれる。当時、児玉家には長女の久子と次女の信子がいるのみで、源太郎が初めての男子であった。そのため、源太郎の誕生に児玉家は大いに喜んだ。源太郎が生まれた時に父・半九郎は向かいの家に住む友人で漢学者の島田蕃根の家に赴き、四、五人で詩文に興じていたが、児玉家の家人が慌ただしくやって来て男子誕生を告げたため、半九郎は歓喜して直ちに島田家から帰宅し、祝杯を挙げた[1]幼名百合若と名付けられ、長じて源太郎と改めた[2]

しかし、嘉永6年(1853年)6月の黒船来航により、徳山藩でも開国か攘夷かで政論が盛んに行われるようになると、父・半九郎は早くから尊王攘夷を唱えていたが、それが藩内の対立派閥に疎まれて蟄居閉門を命じられ、安政3年(1856年10月19日に憂悶の内に死去。この時の源太郎はまだ5歳と幼かったため、浅見栄三郎の次男で半九郎の養子となっていた児玉次郎彦が源太郎の姉・久子と婚姻し、婿養子として児玉家の家督を相続した。源太郎は義兄の次郎彦に養育されることとなり、万延元年(1860年)に藩校の興譲館に入学し、文学を桜井魁園本城清に、撃剣神道無念流の小田劫右衛門と一刀流浅見栄三郎に、槍術大島流浅見安之丞に学んだ。その他に父の友人の漢学者で教学院主を務めた島田蕃根にも師事している[2]

しかし、元治元年(1864年8月12日、義兄・次郎彦が対幕恭順派によって暗殺され、児玉家は一人半扶持に格下げされる。更に同年12月には横本町の邸宅も没収され、家名断絶となった[3]。児玉家には13歳の源太郎、母・元子、姉の久子と信子、次郎彦と久子の間の子・文太郎が残され、生活は困窮した。しかし、源太郎の母は家名を辱めないように努めつつ、源太郎らの教育を怠らず、事あるごとに『曾我物語』を読み聞かせた。やがて藩論が倒幕派に傾き、家名断絶の翌年の慶応元年(1865年)に藩主・毛利元蕃から家名再興を許され、源太郎は中小姓として25石の禄を与えられた[4]。また、さらにその3ヶ月後には元々の馬廻役、禄100石へ戻されている[5]

明治元年(1868年)に徳山藩の献功隊に入隊。同年10月に半隊司令(小隊長)として秋田に出陣した後、明治2年(1869年)の箱館戦争に参加し初陣を飾る。同年5月18日品川に凱旋し、8月には兵部省御雇として仕官し、陸軍に入隊する[6]。明治7年(1874年)の佐賀の乱には大尉として従軍し、戦傷を受けている。

熊本鎮台准参謀時の明治9年(1876年)には神風連の乱を鎮圧。同鎮台参謀副長(少佐)時の明治10年(1877年)には西南戦争熊本城籠城戦に参加。鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。この経験で衛生問題や兵站問題に苦しんだことが後に日清戦争でに生かされることとなった[7]

台湾総督時代(1898-1906年)には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を台湾総督府民政局長(後に民政長官に改称)に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した[8]。 後藤は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して鎮圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。二人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。

日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、 明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた陸軍参謀本部次長の田村怡与造が急死したため、参謀総長・大山巌から特に請われ、内務大臣を辞して参謀本部次長に就任する。なお、関係者が降格人事とならないように児玉を台湾総督に兼任させていた[9]。日露戦争のために新たに編成された満州軍総参謀長をも引き続いて務めた。

満州軍総参謀長として満州に渡って以降は遼陽会戦沙河会戦黒溝台会戦奉天会戦などで総司令の大山巌元帥を補佐、また12月初頭には旅順攻囲戦中の第三軍を訪れている。

奉天会戦勝利後の明治38年(1905年)3月、児玉は、明治天皇へ奉天会戦の戦況報告を上奏することを名目に東京へ戻り、政府首脳の意見を早期戦争終結の方向にまとめる活動に着手した。この時、外交の進行手段をめぐって、政府(首相・外相)と元老との間で意見が分かれたが、児玉の調整と周旋でアメリカを仲介役として早期講和をはかることで意見がまとまった。さらに、児玉は軍事作戦を手段として講和を促進するために、樺太や満州で攻勢作戦をとることを主張し国家方針として認めさせるなどしている[10]

早期講和を目指す児玉の軍事戦略は、満洲での敵野戦軍撃破や韓国北部からロシア軍を撃退するのみならず、樺太、ウラジオストク方面へ攻勢をかけることで、ロシアに痛撃を与えることで、ロシアを講和のテーブルにつかせるというもので、近年では「政治攻勢の一端としての軍事攻勢」として高く評価されている[11]

ただし、児玉もハルビンやウラジオストク攻略は、①鉄道・道路といった兵站路線整備の困難、②初級将校の不足、③ハルビン攻略には三十七個師団が必要だがこのためには二十四個師団を増設する必要があり国家財政上難しい、ことを理由に事実上不可能と考えており、満洲奥地へ引きずり込まれることを警戒していた[12]

日露戦争後、陸軍参謀総長に就任。また南満洲鉄道創立委員長も兼務するが、委員長就任10日後の明治39年(1906年)7月23日、就寝中に 脳溢血で急逝した。享年55。戒名は大観院殿藤園玄機大居士[13]。墓所は東京都府中市の多磨霊園にある。また神奈川県藤沢市江ノ島および山口県周南市にある児玉神社に祭神として祀られている。

年譜[編集]

児玉の書(七言二句「唯覚宦情如水薄 不知人事有山高 藤園」)
臺北市臨濟護國禪寺にある児玉源太郎髪塔

※明治5年までの日付は旧暦

  • 慶応元年(1865年)7月13日 - 周防国徳山藩中小姓となり、源太郎忠精を称す。
  • 明治元年(1868年)9月22日 - 献効隊半隊士令として初陣。
  • 明治2年(1869年)8月1日 - 兵部省御雇として仕官。
  • 明治3年(1870年)
    • 6月2日 - 大隊第六等下士官となる。
    • 12月10日 - 陸軍権曹長に任官。
  • 明治4年(1871年)
    • 4月15日 - 陸軍准少尉に進級し、歩兵第3連隊第2大隊副官となる。
    • 8月6日 - 陸軍少尉に進級。
    • 9月21日 - 陸軍中尉に進級。
  • 明治5年(1872年)
    • 6月17日 - 歩兵第19番大隊副官に異動。
    • 7月25日 - 陸軍大尉に進級。
    • 8月1日 - 大阪鎮台地方司令副官心得に異動。
  • 明治6年(1873年)
    • 3月17日 - 大阪鎮台歩兵第1大隊近衛へ編入異動。
    • 10月9日 - 歩兵科二等となる。
  • 明治7年(1874年)
  • 明治10年(1877年)2月 - 西南戦争熊本城に籠城。
  • 明治11年(1878年)
    • 1月31日 - 勲四等に叙勲。
    • 2月25日 - 熊本鎮台参謀副長から近衛局に異動。
    • 12月9日 - 勲功調査御用掛兼務。
  • 明治13年(1880年)
  • 明治16年(1883年)
    • 2月6日 - 陸軍歩兵大佐に進級。
    • 4月18日 - 従五位に昇叙。
  • 明治18年(1885年)
  • 明治19年(1886年)9月30日 - 陸軍大学校幹事兼任。
  • 明治20年(1887年)
    • 6月3日 - 監事部参謀長に異動。
    • 10月24日 - 陸軍大学校長を兼任。
  • 明治22年(1889年)
  • 明治25年(1892年)8月23日 - 陸軍次官陸軍省軍務局長に異動。
  • 明治26年(1893年)4月12日 - 兼任 理事、叙 高等官一等、陸軍省法官部長に異動。[14]
  • 明治27年(1894年)
  • 明治28年( - 1895年)
    • 3月25日 - 大総督府派遣中大本営陸軍参謀に異動。
    • 4月1日 - 臨時陸軍検疫部長を兼帯。
    • 6月29日 - 臨時台湾電信建設部長兼臨時台湾燈標建設部長に異動。
    • 8月20日 - 男爵を受爵。勲二等旭日重光章を受章。
    • 11月14日 - 臨時広島軍用水道施設部長を兼帯。
  • 明治29年(1896年)10月14日 - 陸軍中将に進級。
  • 明治31年(1898年)
  • 明治32年(1899年)12月27日 - 勲一等瑞宝章を受章。
  • 明治33年(1900年)12月23日 - 台湾総督のまま第4次伊藤内閣陸軍大臣
  • 明治34年(1901年)4月20日 - 正三位に昇叙。
  • 明治35年(1902年)
  • 明治36年(1903年)
  • 明治37年(1904年)
  • 明治38年(1905年)
    • 3月1日 - 奉天会戦(3月10日終結)参加。
    • 9月5日 - 日露戦争終戦。
    • 12月20日 - 参謀本部次長事務取兼帯。
  • 明治39年(1906年)
  • 明治40年(1907年)10月2日 - 家督相続者児玉秀雄が父源太郎の勲功により伯爵に陞爵。

旅順戦に関して[編集]

旅順攻囲戦においては、日本軍が203高地を攻略したのは児玉が旅順に到着した4日後で、児玉の功績によってわずか4日間で攻略されたと『機密日露戦史』で紹介され、司馬遼太郎の小説作品などで世間に広まった。

しかし、複数の資料から以下のように否定的な見解を示す学者や研究者もいる。

  • 児玉らが203高地攻略を支持していたことについて、児玉自身は第三軍の正攻法による望台攻略を終始支持したとされる[注釈 4]。第三軍は第三次総攻撃の成功の見込みが無くなると作戦を変更し203高地攻略を決意する。これに満州軍側の方が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍参謀の白井二郎が説得した程だった[17]
  • 児玉が来訪時に第三軍司令部の参謀に対して激怒し参謀長・伊地知幸介らを論破したことについて、第三軍の参謀はほとんどが児玉と直接会っておらず電話連絡で済ましていた可能性がある[18]
  • 児玉が命じた攻城砲の24時間以内の陣地変更について、実際のところは予備の12センチ榴弾砲15門と9センチ臼砲12門を203高地に近い高崎山に移しただけではないのかと検証されてもいる[18]
  • 味方撃ち覚悟で撃つよう児玉が命じたことについて、児玉ではなく第三軍側の判断で味方撃ち覚悟で発砲していた可能性がある[19][18]

これらは、未だ決定的証拠とまでは至っておらず、今後の研究で解明が待たれている。なお、明治37年11月29日午後に、大山(総司令官)から児玉(総参謀長)へ宛てた訓令が、陸軍省『明治天皇御伝記史料 - 明治軍事史(下)』(原書房〈明治百年史叢書〉、1966年)に次のように収録されている[20]。「総参謀長へ/十一月廿九日午後/総司令官より/訓令」として、「本訓令は之を実施するに至らすして止む、十二月十三日総参謀長帰部の翌日総司令官に返納せらる」と注記し、「総参謀長派遣に関する訓令/一、貴官を第三軍に派遣す/二、余は第三軍の攻撃指導に関し要すれは満洲軍総司令官の名を以て第三軍に命令することを貴官に委す/三、貴官は明治三十七年十一月廿九日煙台を出発すへし/(終り)」(原文は旧字カタカナ)[20]

エピソード[編集]

  • 性格的には情に脆く友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。しかし天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。
  • 神風連の乱鎮圧の直後、東京から現地へ真っ先に送られた電報が「児玉少佐ハ無事ナリヤ」であったという。当時24歳の若い少佐だった児玉にかけられた、当時の日本陸軍の期待を物語る逸話である[21]
  • 日本軍の参謀育成のため、教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校のクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルから才覚を高く評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたという。
  • 乃木希典とは旧知の間柄であった。児玉が東京鎮台第二連隊長時代、千葉県佐倉における演習で乃木(同第一連隊長)の指揮する部隊を児玉の部隊が奇襲によって大いに破った時、部下に「気転の利かぬ野狐を七分小玉で打ち上げた」と歌わせ、乃木をからかったという。「気転」は乃木の名「希典」の音読み、「野狐」は「ノギ(乃木)ツネ」。「七分小玉」は小さな花火のことで、身長の低かった児玉が「一寸に満たないほど小さい小玉(児玉)」と自分自身をもじったものであるとされる。
  • 児玉は乃木希典の軍事的才能の限界を認識しながら、一方で軍人精神と明治人の美意識の体現者として尊敬の念を持っていたともいわれる。己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木に対する尊敬の念を終生抱き続けたと言われ、日露戦争終結後、旅順攻略における人的被害の大きさから陸軍部内でも乃木を非難する声が上がったが、児玉は「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と一貫して乃木を擁護したという。児玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして棺に付き添う乃木の姿が見られたと伝えられる。
  • 晩年、浅草凌雲閣で開催された日露戦争展で、小柄な児玉をナポレオン・ボナパルトに準えて称える二人の陸軍将校の傍にそっと歩み寄り「児玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁きかけながら立ち去り、「何を言うか」と振り向いた彼らが児玉本人だと分かって驚く様を見て楽しむというお茶目な面もあった。
  • 千葉県佐倉市の武家屋敷通り沿いに旧宅跡がある。当時の建物は失われているが、生垣と土塁は現存しており、説明看板が立っている。
  • 台湾の国立台湾博物館には児玉の銅像が展示されている。これは戦前に後藤新平の像と共に正面エントランスに設置されていたものであるが、戦後は国民政府下、学芸員が破壊を恐れ独断で隠し、その後展示されるようになったものである[22]
  • 日本独自の海底ケーブル敷設船で九州 - 台湾間を海底ケーブルで繋ぎ、さらにイギリスのインド・アフリカ回線と結んだ。バルチック艦隊が喜望峰インド洋を周回している情報は、イギリスのインド・アフリカ回線を通じてロシアには秘密で、次々に日本に送られた。さらに、この児玉ケーブルといわれる海底ケーブルは朝鮮半島と日本間など、日本周辺に張り巡らされ、朝鮮半島に停泊していた連合艦隊旗艦「三笠」と東京の大本営とで電信による通信が可能であった。1分間で20数文字と限られた情報量であったが、最前線と大本営の間で、情報や命令のやりとりを短時間で行うことが可能であった。このため、大本営はいつでも、連合艦隊に移動命令を出せるようになったため、持てる戦闘力の全てを日本海海戦だけに集合させることが出来た。

近年の研究動向[編集]

良質な史料に基づいた実証的な児玉研究が相次いで刊行されている。

長南政義は、参謀本部次長・満洲軍総参謀長としての児玉の役割について詳細に検証し、児玉が内務大臣を辞めて参謀本部次長に就任した人事を「降格人事」とする通説を批判し、降格人事ではなかった旨を証明すると共に、軍という個別利益よりも国家の全体利益を重視し、将来の国家像・戦争像を精確に洞察して必要な組織制度改革を断行した「予言的改革者」という組織改革者としての児玉像を実証的に描いている。また、小林道彦は、統帥権を憲法的秩序に適合させようとした「立憲主義的軍人」としての児玉像を提示したが、長南政義は、新史料を使用し小林道彦の児玉理解には史料的誤読が多いことを指摘している[23]

栄典・授章・授賞[編集]

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

系譜[編集]

系図[編集]

  • 児玉氏家紋は二文字に三つ星。
源太郎━━┳秀雄━忠康━━━━━━━┳健
     ┣貞雄━信男━幸子┳純    ┣進
      ┣友雄       ┣健    ┣実
        ┣常雄            ┗博
     ┣国雄
     ┣ヌイ
     ┣ヨシ
     ┣仲子
     ┣八郎
     ┣九一
     ┣モト
     ┗ツル

家族・親族[編集]

  • 父:半九郎(忠碩)(1811年 - 1856年) - 徳山藩士。徳山藩士・河田政直の子。
  • 母:元子(1812年 - ?) - 徳山藩士・児玉忠清の娘。
  • 長姉:久子(1842年 - 1937年) - 児玉次郎彦の妻。
  • 義兄:次郎彦(1842年 - 1864年) - 徳山藩士。徳山七士の一人。
  • 次姉:信子(1847年 - ?)

岩永秀松の娘松子(マツ)と結婚、7男4女を儲けた(養女も1人迎えた)[42]

爵位は嫡男秀雄が継いだが、秀雄と澤子夫妻に息子が生まれなかったため、2人の間に生まれた孫娘貞子(1902年 - ?)の夫忠康(広幡忠朝の子、1898年 - 1990年)が婿養子に迎えられた。曾孫で忠康の息子映画監督テレビ映画監督。

登場作品[編集]

映画

テレビドラマ

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 兒玉の表記もある。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体である。学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書などにおける歴史人物としての表記は「児玉源太郎」、『職員録』など存命中の刊行物における表記は正字体に統一の慣例により「兒玉源太郎」、御署名原本における大臣副書の本人署名は「児玉源太郎」である。
  2. ^ 現在の山口県周南市児玉町。長南政義(2019)、pp11。
  3. ^ 参謀本部のナンバー2は、明治26年10月4日から明治41年12月19日までは「参謀本部次長」であった[15]
  4. ^ 正攻法の途中段階で大本営や海軍にせかされ実施した2回の総攻撃には反対で準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。そのためには港湾部や市街への砲撃も弾薬節約の点から反対しており、当初は203高地攻略も提案していなかった事を示唆[16]

出典[編集]

  1. ^ 小川(2006)、p133。
  2. ^ a b 小川(2006)、p134。
  3. ^ 小林(2012)、p8。
  4. ^ 小川(2006)、p134-137。
  5. ^ 小林(2012)、p11。
  6. ^ 小川(2006)、p138。
  7. ^ 長南(2019)、pp60-61。
  8. ^ 越澤(2011)、72-74頁。
  9. ^ 長南(2019)、pp234-235。
  10. ^ 長南(2019)、pp318-323。
  11. ^ 長南(2019)、pp321-323
  12. ^ 長南(2019)、pp315-318。
  13. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)124頁
  14. ^ 『官報』第2934号「叙任及辞令」1893年4月14日。
  15. ^ 秦 2005, pp. 319-320, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-III 陸軍-2.参謀本部-A.第1期(明22 - 明41)
  16. ^ 学研パブリッシング(2011)、p.59
  17. ^ 学研パブリッシング(2011)、p.69
  18. ^ a b c 学研パブリッシング(2011)、p.70 奈良武次少佐(当時は攻城砲兵司令部所属)の回想
  19. ^ 長南(2011a)、pp.150 f
  20. ^ a b 陸軍省 1966, pp. 1445-1449, 明治三十七年 - 自七月 至十二月 - 十二月七日 旅順総攻撃再興と二〇三高地の占領
  21. ^ 学習研究社刊:歴史群像『日露戦争~陸海軍、進撃と苦闘の五百日』記述より
  22. ^ 國立臺灣博物館
  23. ^ 長南(2011a)、p129。長南(2013)、pp68-69。長南(2019)、pp138-140、215-219。小林(2012)、ppⅴ-ⅵ
  24. ^ 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号240
  25. ^ 『官報』第1878号「叙任及辞令」1889年10月1日。
  26. ^ 『官報』第3401号「叙任及辞令」1894年10月27日]。
  27. ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
  28. ^ 『官報』第5337号「叙任及辞令」1901年4月22日。
  29. ^ 『官報』第6843号「叙任及辞令」1906年4月25日。
  30. ^ 『官報』第6921号「叙任及辞令」1906年7月25日。
  31. ^ 『官報』第548号「賞勲叙任」1885年5月2日。
  32. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  33. ^ 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
  34. ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  35. ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」1899年12月28日。
  36. ^ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。
  37. ^ 『官報』第6920号・付録「叙任及辞令」1906年7月24日。
  38. ^ 『官報』第6832号「授爵・叙任及辞令」1906年4月12日。
  39. ^ a b 『官報』第2767号「叙任及辞令」1892年9月15日。
  40. ^ 『官報』第3691号「叙任及辞令」1895年10月16日。
  41. ^ 『官報』第6919号「叙任及辞令」1906年7月23日。
  42. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年、P596 - P597、小林(2012)、ppxxiv - xxv。

参考文献[編集]

「児玉」「兒玉」の表記は、著者がどちらを用いていたのかに従う。

  • 『歴史群像アーカイブ FILING BOOK volume 22(日露戦争)』学研パブリッシング 編、学研パブリッシング(出版) 学研マーケティング(発売)〈歴史群像シリーズ〉、2011年12月。ISBN 978-4-05-606513-8。
  • 越澤明『後藤新平 大震災と帝都復興』筑摩書房〈ちくま新書933〉、2011年11月。ISBN 978-4-480-06639-8。
  • 長南政義「児玉源太郎は天才作戦家ではなかった」『坂の上の雲5つの疑問』ゲームジャーナル編集部 編著、並木書房、2011年12月。ISBN 978-4-89063-284-8。
    • 長南政義「児玉源太郎は名将だったのか? 〜「参謀本部次長」「満洲軍総参謀長」としての児玉源太郎の手腕〜」『國學院法研論叢』第40号(国学院大学、2013年3月)
  • 長南政義「第三軍参謀が語る旅順戦」『坂の上の雲5つの疑問』ゲームジャーナル編集部 編著、並木書房、2011年12月。ISBN 978-4-89063-284-8。
  • 長南政義『児玉源太郎』作品社、2019年6月。
  • 秦郁彦 編著 『日本陸海軍総合事典』(第2版) 東京大学出版会、2005年。 
  • 別宮暖朗『日露戦争陸戦 「坂の上の雲」では分からない 児玉源太郎は名参謀ではなかった』並木書房、2009年10月。ISBN 978-4-89063-249-7。
  • 小川宣『周南風土記』文芸社、2006年8月。ISBN 978-4-28601-631-3。

関連書籍[編集]

「児玉」「兒玉」の表記は、著者がどちらを用いていたのかに従う。

  • 生出寿『知将児玉源太郎 ある名補佐役の生涯』光人社、1986年7月。ISBN 4-7698-0317-6。
  • 小林道彦『児玉源太郎 そこから旅順港は見えるか』ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選〉、2012年2月。ISBN 978-4-623-06283-6。
  • 杉山茂丸『兒玉大将伝』博文館、1918年。
    • 杉山茂丸『児玉大将伝』中央公論社〈中公文庫〉、1989年8月。ISBN 4-12-201639-8。
  • 中村謙司『史論児玉源太郎 明治日本を背負った男』光人社、2006年8月。ISBN 4-7698-1314-7。
  • 日本博学倶楽部『日露戦争・あの人の「その後」 東郷平八郎、秋山兄弟から敵将ステッセルまで』PHP研究所PHP文庫〉、2004年4月。ISBN 4-569-66169-6。
  • 兵頭二十八『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』光人社、2008年1月。ISBN 978-4-7698-1374-3。 - 著者希望の原題は『兒玉源太郎は正しかったか 奇襲開戦主義と半島防衛』。[1]
  • 古川薫『天辺の椅子 日露戦争と児玉源太郎』毎日新聞社、1992年11月。ISBN 4-620-10464-7。
  • 木立順一『偉人伝:児玉源太郎(前篇)現代人が今一番目指すべき姿』メディアポート 2014年4月 ISBN 978-4865580112 。
  • 木立順一『偉人伝:児玉源太郎(後篇)現代人が今一番目指すべき姿』メディアポート 2014年6月 ISBN 978-4865580129。


公職
先代:
桂太郎
日本の旗 陸軍大臣
第13・14代:1900年12月23日 - 1902年3月27日
次代:
寺内正毅
先代:
内海忠勝
日本の旗 内務大臣
第21代:1903年7月15日 - 同10月12日
次代:
桂太郎
先代:
菊池大麓
日本の旗 文部大臣
第17代:1903年7月17日 - 同9月22日
次代:
久保田譲
先代:
乃木希典
日本の旗 台湾総督
第4代:1898年2月26日 - 1906年4月11日
次代:
佐久間左馬太
軍職
先代:
大山巌
War flag of the Imperial Japanese Army.svg 参謀総長
第7代:1906年4月11日 - 同7月30日
次代:
奥保鞏
日本の爵位
先代:
陞爵
子爵
児玉家初代
1906年
次代:
児玉秀雄
先代:
叙爵
男爵
児玉家初代
1895年 - 1906年
次代:
陞爵