党生活者

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党生活者』(とうせいかつしゃ)は小林多喜二の小説。作者没後の1933年、『中央公論』の4月号と5月号とに発表された。

あらすじ[編集]

東京にある「倉田工業」では、パラシュートやガスマスクの部品などの軍需品を作っていた。「私」は、そこに臨時工としてつとめながら、工場の中に党組織をつくろうとしていた。ある日「私」は太田という自分のことをよく知っている同志が検挙されたことを知り、工場に出ることができなくなる。そこで「私」は、運動に協力的だった女性、笠原と共同生活をしながら、工場に残った須山や伊藤などの同志とともに、工場の中で戦争反対の動きをつくろうとする。しかし笠原との生活にはきしみが生じるし、倉田工業のなかで戦争反対のビラをまくことに成功はしたが、須山も伊藤も工場を追われてしまう。そんな中でも「私」も含めたみんなはあたらしい運動の場をつくろうと努力を続けていく。

発表までの過程[編集]

1932年3月、プロレタリア文化運動に対しての当局の弾圧を逃れ、多喜二は非公然活動を余儀なくされた。その中で多喜二はこの作品を書き、1932年8月には『中央公論』編集部に作品を届けることができた。しかし、発表は保留されていた。編集者あての手紙[1]によれば当初は「失業者の家」という題名を考えていたが、その後「党生活者」と改めたという。1933年2月20日に多喜二が築地警察署における拷問の結果、死去したことをうけて、編集部と貴司山治立野信之との協議の結果、『転換時代』という題名で発表されることとなった。

このとき、内容的にも伏字が多くなることが明らかであったため、伏字なしのゲラ刷りを複数作成し、保存を依頼することとした。その中の一人の徳永直の家には、『中央公論』編集部から直接自宅に届いたのだという。また、1933年秋には原稿による組版がおこなわれ、その紙型が保存された[2]

発表後の本文確定まで[編集]

雑誌発表後、1935年にナウカ社より刊行された『小林多喜二全集』第3巻にはじめて収録された。このとき、題名は「×生活者」とされたが、「党生活者」のタイトルでの無修正のゲラがつくられ、そのうち1部は貴司山治から中野重治に託された[3]。「党生活者」というタイトルで公表できたのは、1946年5月、新興出版社から刊行されたものが初めてであった。その後、紙型から印刷した版も公開されたが、現在の全集版は徳永直に託された初出誌の校正刷りをもとにしている[4]

未完の作品[編集]

この作品は、(前編おわり)という結びになっている。そのために、作品中で描かれた、主人公と笠原との関係が、その後どのようになっていくかが描かれていない。書かれた部分における笠原との関係をめぐって、平野謙が問題提起をして以来、多くの論考が書かれている。

[編集]

  1. ^ 岩波文庫『小林多喜二の手紙』(2009年)、p416~p419
  2. ^ 『小林多喜二全集 第4巻』(新日本出版社、1982年)の「解題」p524
  3. ^ 『新潮日本文学アルバム小林多喜二』p62
  4. ^ 全集解題p529

参考文献[編集]

  • 『小林多喜二全集 第4巻』「解題」(新日本出版社、1982年)
  • 『小林多喜二の手紙』(岩波文庫、2009年)

関連項目[編集]