入鹿山且朗

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入鹿山 且朗(いるかやま かつろう、1906年(明治39年) - 1977年(昭和52年)9月27日)は、日本の医学者衛生学者。熊本大学名誉教授。専門は気候衛生学、疫学食品衛生[1]水俣病の原因物質特定に貢献した。旧名・入鹿山 勝郎[2]

経歴[編集]

1906年鹿児島県日置郡吉利村に生まれる[1][3][4]。祖父は小松帯刀の侍医で、父も医者[3]鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)静岡高等学校 (旧制)を経て、1932年京都帝国大学医学部を卒業[1][3]。大阪市立衛生研究所に入る[2][5]

1938年厚生省発足と同時に入局[2]太平洋戦争中は、陸軍軍政部付医官[1][3]としてシンガポールスマトラ方面軍政部に赴任(1942年[2][5]。スマトラメダン病理学研究所所長を務め[2]熱帯病研究に取り組んだ[1]復員後、厚生省衛生局・予防局を経て[2]1949年名古屋女子医科大学(翌年の学制改革名古屋市立大学医学部)教授となり、1952年熊本大学医学部教授に就任[1][2][5]1958年の第28回日本衛生学会で会長を務める[1]。熊本大学医学部教授を1971年まで務めて名誉教授[1][2][5]。熊本大学退官後は尚絅短期大学教授も務めた[2]

水俣病研究[編集]

  • 1956年、同大医学部水俣病医学研究班に加わり、喜田村正次と疫学調査を担当。1960年10月、新日窒水俣工場アセトアルデヒド酢酸設備内の水銀スラッジを採取し、1962年8月、アセトアルデヒド酢酸工場の水銀滓と水俣湾のアサリから塩化メチル水銀を抽出と論文で発表。1963年2月16日、熊大研究班の報告会で「新日窒水俣工場アセトアルデヒド酢酸設備内の水銀スラッジから有機水銀塩を検出した」と発表した[6][7]
  • 1964年1月、白木博次東京大学医学部教授が、入鹿山らの研究結果を論拠に、水俣病の原因がメチル水銀であることを確定する論文を発表、これが1968年9月の厚生省による水俣病とメチル水銀化合物との因果関係の公式認定に繋がることとなった。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h 南日本新聞社・編『郷土人系 下』(春苑堂書店、1970年)292-293頁
  2. ^ a b c d e f g h i 『事典 日本の科学者 科学技術を築いた5000人』(日外アソシエーツ、2014年6月)101頁
  3. ^ a b c d 『九州人国記』(熊本日日新聞社、1966年)628頁
  4. ^ 『ブライアン山下物語: 日吉、小さな村の多彩な人物たち』 日吉人物伝刊行会 編集、南方新社
  5. ^ a b c d 『20世紀日本人名事典』(日外アソシエーツ、2004年)「入鹿山且朗」-コトバンク
  6. ^ 熊本大学「新聞見出しによる水俣病関係年表」から1963年2月17日及び22日付熊本日日新聞参照 [1][2][3]
  7. ^ リンク先:「水俣病:民主主義と正義への困難な道のり」[4]P8下段参照)。