公爵

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公爵(こうしゃく、: Duke: Dux: Herzog)は、爵位(五爵)の第1位である。侯爵の上位に相当する[1]ヨーロッパ貴族称号の訳語、古代中国の諸侯の称号、また明治以降から戦前まで使われた日本華族の称号として用いられる。

概要[編集]

日本ではこの「」によって(英語の場合であれば)princedukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられた。

日本語では侯爵と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。

中国の公爵[編集]

西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「公」は五つある爵の最上位に位置づけている[2]。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、公の表記はない[3]。『礼記』・『孟子』とともに侯は公とともに百里四方の領地をもつものと定義している[3]。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている[4]。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった[5]。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている[6]

代においては二十等爵制が敷かれ、「公」の爵位は存在しなかったが、特に身分の高い三つの官職は三公と呼ばれた。咸熙元年(264年)、爵制が改革され、公の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる[7]食邑は郡公なら一万戸で諸侯王に並び、県公なら千八百戸、七十五里四方の土地が与えられることとなっている[7]。その後西晋でも爵位制度は存続し[8]恵帝期以降には公・侯の濫授が行われた[8]。このため東晋では恵帝期の爵位を格下げすることも行われている[9]

南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた[10]

主要な中国の公爵[編集]

咸熙元年の五等爵制発足時には、公となったのは司馬氏の長老である司馬孚であり、晋王朝成立後は諸侯王となった[11]。その他では魏皇帝の外戚二名が公となっており、発足時点では公は3名のみであった[12]三公であった王祥・鄭沖、そのほかの重臣賈充石苞衛瓘裴秀何曾たちが侯となったが、晋王朝成立後はいずれも公となっている[13]。またこの際には魏の諸侯王たちが公に格下げされている[14]

から降伏した孫秀歩璿も公に叙せられている[14]太康の役の論功行賞としては、王渾が公となっている[15]

以降西晋期には宰相であった張華[16]前涼の基盤を作った張軌[17]などが公となっている。東晋では建国に功のあった王導と、後に反乱を起こした王敦[18]前秦からの防衛に成功した謝安[19]、武将の陶侃[20]。そして東晋を滅ぼしを建国した劉裕[21]などがいる。

唐においては太宗即位後に長孫無忌高士廉(義興郡公)などの功臣が公となっている[10]。 また宋代以降、孔子の直系である当主は衍聖公の爵位を受け、清末まで続いた。

日本の公爵[編集]

律令制下の公爵[編集]

日本では、律令制下において、太政大臣経験者に対して令制国を与えて公爵とする国封という制度があった。

華族の公爵[編集]

1869年(明治2年)6月17日の行政官達543号において公家と武家の大名家を統合した華族身分が誕生した[22]。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された。中国の古典籍になじんでいる者が多かった当時の人々に違和感がないものだったと考えられる[23]

1884年(明治17年)5月頃に五爵制に基づく叙爵内規が定められた。従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり[24]、同年7月7日に発せられた華族令により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された[25]

公爵は華族の中でも最上位の階級であり、全爵位の中でも最も少数だった。公爵家の数は1884年時点では11家(華族家の総数509家)、1907年には15家(同903家)、1926年時には19家(952家)、1947年時には17家(889家)である[26]

1889年(明治22年)の貴族院令(勅令第11号)により貴族院議員の種別として華族議員が設けられ(ほかに皇族議員勅任議員がある)[27]、公侯爵は30歳に達すれば自動的に終身で華族議員に列することとなった。これに対して伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年の華族議員となった[28]。また公侯爵議員が無給だったのに対し、伯爵以下の議員は有給であるという違いがあった[29]。公侯爵議員は伯爵以下の議員たちほど貴族院活動に熱心ではない傾向があり、本会議出席率さえ十分ではなかった[29][28]。特に現役軍人である公侯爵議員は皇族議員に準じて貴族院に出席しないのが慣例になっていた[30]。貴族院内には爵位ごとに会派が形成されており、公侯爵議員たちは「火曜会」という院内会派を形成した[29]

1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより公爵位を含めた華族制度は廃止された。

叙爵内規[編集]

公爵は以下の基準(「叙爵内規」)によって授けられた。

  1. 皇族 - 親王から臣位に列した者。このような内規はあったが、実際に臣籍降下によって公爵を与えられた例はなく、侯伯爵だった[31]
  2. 公家 - 旧摂関家。公家社会でも最高位に属するとされ、摂政関白に昇る資格を持っていた家柄である。近衛家九条家二条家一条家鷹司家の計5家。
  3. 武家 - 徳川宗家(徳川将軍家)徳川家達家がこれにあたる。1家のみ。
  4. 勲功者 - 国家に偉勲ある者。これは3種に大別できる。
    1. 「偉勲」がなくとも華族たる資格を持っていた家のうち、功績が加味されて本来よりも高い爵位を与えられたグループ。三条家三条実美の功績)、岩倉家岩倉具視の功績)、島津家(旧薩摩鹿児島藩主家)、毛利家(旧長門萩藩主家)の4家がこれにあたる。また、後年侯爵から陞爵した西園寺家西園寺公望の功績)、徳大寺家徳大寺実則の功績)、水戸徳川家(『大日本史』編纂の功績)の3家もこれに含めて考えられる。
    2. 本家がすでに公爵となっているにも関わらず、その人物の特別な功績が認められて別に家を立てることを許され、さらに公爵位を授けられたグループがある。具体的には、藩主ではなかったがその後見人として幕末薩摩藩に大きな影響を与えた島津久光とその子孫(玉里島津家)、大政奉還後に養子の徳川家達に家督を譲って隠棲した江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜とその子孫(徳川慶喜家)の2家である。
    3. 家系によらず、初代の勲功によって公爵となったグループ。伊藤博文の伊藤家、大山巌の大山家、山縣有朋の山縣家、松方正義の松方家、桂太郎の桂家の五家である。いずれも子爵ないし伯爵の爵位を受け、その後、更に勲功により陞爵したものである。

有爵者一覧[編集]

家名(通称等) 受爵者
襲爵者
旧家格
出自
叙爵年
所在
その他備考
近衛家 近衛篤麿
近衛文麿
旧摂関家
藤原北家嫡流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
1945年(昭和20年)12月16日、返上。
東京市淀橋区下落合
鷹司家 鷹司熙通
鷹司信輔
旧摂関家
藤原北家嫡流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市麹町区上二番町
九条家 九条道孝
九条道実
九条道秀
旧摂関家
藤原北家嫡流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市赤坂区赤坂福吉町
一条家 一条実輝
一条実孝
旧摂関家
藤原北家嫡流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市赤坂区福吉町
二条家 二条基弘
二条厚基
二条弼基
旧摂関家
藤原北家嫡流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市牛込区津久戸前町
三条家(転法輪家) 三条実美
三条公美
三条実憲
三条公輝
三条実春
清華家
藤原北家閑院流嫡流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市麻布区麻布鳥居坂町
徳川家(徳川宗家) 徳川家達
徳川家正
旧将軍家
清和源氏と称する。
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市渋谷区千駄ヶ谷
毛利家 毛利元徳
毛利元昭
毛利元道
萩藩
大江氏
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市芝区高輪南町
島津家(島津宗家) 島津忠義
島津忠重
鹿児島藩
清和源氏と称する(本来は惟宗氏)。
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市麹町区三年町
島津家(玉里家) 島津久光
島津忠済
島津忠承
島津宗家分家
清和源氏と称する(本来は惟宗氏)。
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
岩倉家 岩倉具定
岩倉具張
岩倉具栄
羽林家
村上源氏
1884年(明治17年)7月8日、叙爵。
東京市麹町区裏霞ヶ関
徳川家(徳川慶喜家) 徳川慶喜
徳川慶久
徳川慶光
徳川宗家別家
清和源氏と称する。
1902年(明治35年)6月3日、叙爵。
東京市小石川区小日向第六天町
伊藤家 伊藤博文
伊藤博邦
伊藤博精
旧萩藩出身
越智氏と称する。
1907年(明治40年)9月21日侯爵より陞爵。
山縣家 山縣有朋
山縣伊三郎
山縣有道
山縣有信
旧萩藩出身。
清和源氏と称する。
1907年(明治40年)9月21日、侯爵より陞爵
大山家 大山巌
大山柏
旧鹿児島藩出身
近江源氏
1907年(明治40年)9月21日、侯爵より陞爵。
徳大寺家 徳大寺実則
徳大寺公弘
徳大寺実厚
旧清華家
藤原北家閑院流
1911年(明治44年)4月21日、侯爵より陞爵。
桂家 桂太郎
桂広太郎
旧萩藩出身
大江氏
1911年(明治44年)4月21日、侯爵より陞爵。
西園寺家 西園寺公望
西園寺八郎
旧清華家
藤原北家閑院流
1920年大正9年)9月7日、侯爵より陞爵。
1946年昭和21年)7月1日 返上。
松方家 松方正義
松方巖
旧鹿児島藩出身 1922年(大正11年)9月18日、侯爵より陞爵。
1927年(昭和2年)12月19日、返上。
徳川家(水戸家) 徳川圀順 水戸藩
清和源氏と称する。
1929年(昭和4年)11月18日 、侯爵より陞爵。

イギリスの公爵[編集]

イギリスの公爵の紋章上の冠

イングランドに確固たる貴族制度を最初に築いた王は征服王ウィリアム1世在位:1066年-1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったが、エドワード懺悔王在位:1042年-1066年)の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれることになった[32]

イングランドの公爵(Duke)は、伯爵(Earl)と男爵(Baron)に続いて創設された爵位だった。1337年エドワード3世在位:1327年-1377年)が皇太子エドワード黒太子コーンウォール公爵(Duke of Cornwall)位を与えたのが公爵の最初である。続いて1351年に同じくエドワード3世がヘンリー3世在位:1216年-1272年)の曾孫であるヘンリーランカスター公爵(Duke of Lancaster)位を与えたことで公爵位が貴族の最上位で王位に次ぐ称号であることが明確化した[33]

臣民に公爵位が与えられた最初の事例は、1483年リチャード3世在位:1483年-1485年)よりノーフォーク公爵(Duke of Norfolk)を与えられたジョン・ハワードである(もっとも彼も先祖を遡れば王族にたどり着く)[34][35]

その後、臣民の公爵位はステュアート朝期(特に王政復古後の最初の国王チャールズ2世時代)に急増した。ハノーファー朝期にも公爵位の授与が行われ、最も多い時期には40家の公爵家が存在した。しかし家系の断絶でその数は減少していった[36]。2021年現在臣民の公爵家は24家にまで減っている。

またジャコバイト王位請求者たちが創設したジャコバイト貴族英語版の爵位にも17の公爵位がある。

公爵内の序列はまず王族公爵が別格で先頭である。その下におかれる臣民公爵たちはイングランド貴族公爵、スコットランド貴族公爵、グレートブリテン貴族公爵、アイルランド貴族公爵、連合王国貴族公爵の順番で序列付けられる[37]。宮中席次における臣民公爵の序列は、国王(女王)、王妃(王配)、皇太子、王子、カンタベリー大主教大法官ヨーク大主教英語版首相枢密院議長庶民院議長、国璽尚書、英連邦高等弁務官及び外国大使に次ぐ13番目である[38]

侯爵から男爵までの貴族が「卿(My Lord)」と呼び掛けられるのに対し、公爵のみは「閣下(Your Grace)」と呼び掛けられる[39]。また公爵・侯爵・伯爵は従属爵位を持っているのが一般的であり、その嫡男は父の持つ爵位のうち二番目の爵位を儀礼称号として称する[39](父と混同されないよう主たる爵位と同じ名前や等級の爵位は避ける)。公爵と侯爵の息子は全員がLord(、ロード)を、娘はLady(レディ)が敬称として付けられる。

英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、1963年貴族法制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった[40]

現在の公爵位はランカスター公爵(英国王が保持)とコーンウォール公爵(皇太子が保持)以外は領地が付随するわけでもなく、貴族称号を保持することの唯一の具体的な効果は貴族院議員になりえることである。かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年までスコットランド貴族アイルランド貴族貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。なお公爵のうちノーフォーク公爵家の当主は軍務伯を世襲で務める関係上必ず貴族院議員になる。公爵だからと貴族院で特別に重んじられるような制度はなく、貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない[41]

現存する公爵位[編集]

王族公爵位[編集]

紋章 爵位名
(爵位の創設年と分類)
現公爵の肖像 現公爵の名前 備考
Arms of the Duchy of Cornwall (Variant 1).svg コーンウォール公爵
1337年創設イングランド貴族
Duchess of Cornwall, Prince of Wales - NIH-crop.jpg プリンス・オブ・ウェールズ
チャールズ
(1948 - )
エリザベス女王の長男、皇太子
Shield of Arms of the Duke of Rothesay.svg ロスシー公爵
1398年創設スコットランド貴族
Arms of Charles, Prince of Wales.svg エディンバラ公爵
1947年創設連合王国貴族
Arms of Richard, Duke of Gloucester.svg グロスター公爵
1928年創設連合王国貴族
The Duke of Gloucester in 2008 cropped2.jpg 第2代グロスター公爵
リチャード
(1944 - )
女王の従姉弟
Arms of Edward, Duke of Kent.svg ケント公爵
1934年創設連合王国貴族
Duke of Kent2013,6.jpg 第2代ケント公爵
エドワード
(1935 - )
女王の従姉弟
Arms of Andrew, Duke of York.svg ヨーク公爵
1986年創設連合王国貴族
Príncipe André do Reino Unido.jpg 初代ヨーク公爵
アンドルー
(1960 - )
女王の次男
Arms of William, Duke of Cambridge.svg ケンブリッジ公爵
2011年創設連合王国貴族
Duke Cambridge2013,6.jpg 初代ケンブリッジ公爵
ウィリアム
(1982 - )
チャールズ皇太子の長男
Arms of Harry, Duke of Sussex.svg サセックス公爵
2018年創設連合王国貴族
Prince Harry Trooping the Colour cropped.JPG 初代サセックス公爵
ヘンリー
(1984 - )
チャールズ皇太子の次男

臣民公爵位[編集]

紋章 爵位名
(爵位の創設年と分類)
家名
現公爵の肖像 現公爵の名前
Arms of the Duke of Norfolk.svg ノーフォーク公爵
1483年創設イングランド貴族
フィッツアラン=ハワード家
18th Duke of Norfolk 3 Allan Warren.JPG 第18代ノーフォーク公爵
エドワード・フィッツアラン=ハワード
(1956 - )
Coat of Arms of the Duke of Somerset.svg サマセット公爵
1547年創設イングランド貴族
シーモア家
19th Duke of Somerset Allan Warren.jpg 第19代サマセット公爵
ジョン・シーモア英語版
(1952 - )
Duke of richmond.svg リッチモンド公爵
1675年創設イングランド貴族
ゴードン=レノックス家
Lord March.JPG 第11代リッチモンド公爵
第11代レノックス公爵
第6代ゴードン公爵
チャールズ・ゴードン=レノックス英語版
(1955 - )
レノックス公爵
1675年創設スコットランド貴族
ゴードン=レノックス家
ゴードン公爵
1876年創設連合王国貴族
ゴードン=レノックス家
Blason Henri Charles FitzRoy (1663-1690), 1er Duc de Grafton.svg グラフトン公爵
1675年創設イングランド貴族
フィッツロイ家
12th Duke of Grafton 3 Allan Warren.JPG 第12代グラフトン公爵
ヘンリー・フィッツロイ英語版
(1978 - )
Beaufort Arms (France modern).svg ボーフォート公爵
1682年創設イングランド貴族
サマセット家
第12代ボーフォート公爵
ヘンリー・サマセット英語版
(1952 - )
Blason Charles Ier Beauclerk (1670-1726) 1er duc de Saint-Albans.svg セント・オールバンズ公爵
1684年創設イングランド貴族
ボークラーク家
14th Duke of St Albans 3 Allan Warren.jpg 第14代セント・オールバンズ公爵
マレー・ボークラーク英語版
(1939 - )
Russell arms.svg ベッドフォード公爵
1694年創設イングランド貴族
ラッセル家
第15代ベッドフォード公爵
アンドリュー・ラッセル英語版
(1962 - )
Cavendish arms.svg デヴォンシャー公爵
1694年創設イングランド貴族
キャヴェンディッシュ家
第12代デヴォンシャー公爵
ストカー・キャヴェンディッシュ英語版
(1944 - )
Duke of Malborough COA.svg マールバラ公爵
1702年創設イングランド貴族
スペンサー=チャーチル家
Marquess of Blandford Allan Warren.jpg 第12代マールバラ公爵
ジェイミー・スペンサー=チャーチル
(1955 - )
Manners arms.svg ラトランド公爵
1703年創設イングランド貴族
マナーズ家
Belvoir-Hunt-Belvoir-Castle-14Mar15-179.jpg 第11代ラトランド公爵
デイヴィッド・マナーズ英語版
(1959 - )
Douglas hamiltonCoA.png ハミルトン公爵
1643年創設スコットランド貴族
ダグラス=ハミルトン家
The Duke and Duchess of Hamilton cropped.jpg 第16代ハミルトン公爵
第13代ブランドン公爵
アレクサンダー・ダグラス=ハミルトン英語版
(1978 - )
ブランドン公爵
1711年創設グレートブリテン貴族
ダグラス=ハミルトン家
Duke of Buccleuch arms.svg バクルー公爵
1663年創設スコットランド貴族
ダグラス=スコット家英語版
10th Duke of Buccleuch Allan Warren.JPG 第10代バクルー公爵
第12代クイーンズベリー公爵
リチャード・ダグラス=スコット英語版
(1954 - )
クイーンズベリー公爵
1684年創設スコットランド貴族
ダグラス=スコット家
Arms of Campbell, Duke of Argyll.svg アーガイル公爵
1701年創設スコットランド貴族
キャンベル家
13th Duke of Argyll Allan Warren.JPG 第13代アーガイル公爵
第6代アーガイル公爵
トーキル・キャンベル英語版
(1968 - )
アーガイル公爵
1892年創設連合王国貴族
キャンベル家
Duke of Atholl arms.svg アソル公爵
1703年創設スコットランド貴族
マレー家英語版
第12代アソル公爵
ブルース・マレー英語版
(1960 - )
Graham-Montrose arms.svg モントローズ公爵
1707年創設スコットランド貴族
グラハム家英語版
Official portrait of The Duke of Montrose crop 2.jpg 第8代モントローズ公爵
ジェイムズ・グラハム英語版
(1935 - )
Coat of arms of the Duke of Roxburghe.svg ロクスバラ公爵
1707年創設スコットランド貴族
イニス=カー家
第11代ロクスバラ公爵
チャールズ・イニス=カー
(1981 - )
Coat of arms of the Duke of Manchester.svg マンチェスター公爵
1719年創設グレートブリテン貴族
モンタギュー家
第13代マンチェスター公爵
アレクサンダー・モンタギュー英語版
(1962 - )
Coat of Arms of the Duke of Northumberland.svg ノーサンバーランド公爵
1766年創設グレートブリテン貴族
パーシー家
12th Duke of Northumberland 3 Allan Warren.jpg 第12代ノーサンバーランド公爵
レイフ・パーシー英語版
(1956 - )
FitzGerald arms.svg リンスター公爵
1766年創設アイルランド貴族
フィッツジェラルド家英語版
第9代リンスター公爵
モーリス・フィッツジェラルド英語版
(1948 - )
Arms of the Duke of Abercorn.jpg アバコーン公爵
1868年創設アイルランド貴族
ハミルトン家
5th Duke of Abercorn 3 Allan Warren.jpg 第5代アバコーン公爵
ジェイムズ・ハミルトン
(1934 - )
Duke of Wellington Arms.svg ウェリントン公爵
1814年創設連合王国貴族
ウェルズリー家
Lorddouro.jpg 第9代ウェリントン公爵
チャールズ・ウェルズリー英語版
(1945 - )
Egerton family COA (Dukes of Bridgewater, Dukes of Sutherland).svg サザーランド公爵
1833年創設連合王国貴族
エジャートン家
第7代サザーランド公爵
フランシス・エジャートン英語版
(1940 - )
Grosvenor family COA (Dukes of Westminster).svg ウェストミンスター公爵
1874年創設連合王国貴族
グローヴナー家
7th Duke of Westminster.jpg 第7代ウェストミンスター公爵
ヒュー・グローヴナー
(1991 - )
Coat of arms of the Duke of Fife until 2017.svg ファイフ公爵
1900年創設連合王国貴族
カーネギー家
第4代ファイフ公爵
デイヴィッド・カーネギー
(1961 - )

かつて存在した公爵位[編集]

フランスの公爵[編集]

アンシャン・レジームの公爵の紋章上の冠

フランスの称号で「公爵」と訳されているのはデュック(duc)である。ラテン語のドゥクス(Dux)に由来する。ドゥクスはフランスやドイツ、イタリアの前身であるフランク王国ローマ帝国から継承した制度であり、都市管区を統治するコメス(comes 伯)たちに対する軍事命令権を持って複数の都市管区を支配する存在だった[42]

フランスの諸侯はカロリング朝のコメスやその下僚のヴィカリウス(副伯)、あるいはカロリング権力から排除されていた地域の土着貴族層に起源が求められる。西フランク(フランス)地域ではドイツよりもカロリング朝官僚貴族に連なる家計が多かったと見られる。9世紀後半のポスト・カロリング期に中央権力の弱体化に乗じて私的支配領域を拡大した彼らは、最初辺境伯(marchio)を名乗っていたが、10世紀前半に公(dux)を名乗るようになった[43]

11世紀、とりわけ王の集会に彼らが参列する機会が激減する1077年を境にして諸侯層(公、伯、司教)の王政からの排除と封臣化が進み、12世紀末までには諸侯領(公領)は王の下から移動した封と見なす観念が一般化していた[44]。そのため中世の諸侯の独立性は強く、諸侯領は事実上独自の統治機構を備えた「独立国家」であり、フランス王といえども一諸侯に過ぎない面もあった[45]

11世紀の著名な公爵には北部のノルマンディー公、西部のブルターニュ公、東部のブルゴーニュ公、南部のアキテーヌ公があった[46]。ノルマンディー公は1066年にイングランドを征服してイングランド王室となり[47]、12世紀には「アンジュー帝国」と呼ばれる英仏海峡をまたぐ巨大勢力圏を築いた[48]カペー朝末には後にブルボン朝となるブルボン公が誕生している。

オルレアン公アンジュー公ベリー公アングレーム公英語版アランソン公トゥーレーヌ公フランス語版などは伝統的に王族の爵位となった。

15世紀から16世紀初頭にかけて諸侯領は様々な形で王領に取り込まれていくようになり、諸侯の独立性は弱まっていった[49]

16世紀の宗教戦争時代にはシャンパーニュブルゴーニュを拠点とするギーズ公と、ラングドックプロヴァンスイル=ド=フランスに勢力を張るモンモランシー公が宗教戦争の党派の中核となり、著名な公爵だった[50]

アンリ3世時代に領地の所有だけでは貴族たることを証しえなくなり、国王発行の証書が必要となった。ブルボン朝のアンリ4世以降、中央集権化が推し進められて絶対王政への移行が始まった。絶対王政下の貴族たちは絶対権力者の国王の恩寵を得ようと宮廷貴族となって「王室の藩屏」化が進んだ[51]。絶対王政のもとで、duc(デュク・公爵)、marquis(マルキ・侯爵)、comte(コント・伯爵)、vicomte(ビコント・子爵)、baron(バロン・男爵)、chevalier(シュヴァリエ/シェヴァリア・騎士)、écuyer(エキュイエ・平貴族)等、旧来の封建領主の称号が段階づけられ、同時に宮廷席次も示された[52]

アンリ4世期の著名な公爵位にはギーズ公とモンモランシー公の他にヴァンドーム公フランス語版ヌヴェール公フランス語版ベルガルド公フランス語版ブイヨン公フランス語版ロアン公フランス語版などがあった[53]ルイ13世の宰相アルマン・ジャン・デュ・プレシーリシュリュー公爵フランス語版に叙位され、リシュリューの名で知られる。またルイ14世の弟の系譜のオルレアン公は、1830年の7月革命後にルイ・フィリップの一代のみだがフランス王位に就いた(オルレアン朝)。

帝国貴族フランス語版の公爵の紋章上の冠

フランス革命により貴族制度は廃止されたが[54]ナポレオン第一帝政下の1803年3月に皇帝令で大公(Prince)、公爵(Duc)、伯爵(Comte)、男爵(Baron)、シェヴァリア(Chevalier)の五爵位から成る帝国貴族フランス語版が創設され、警察大臣ジョゼフ・フーシェオトラント公爵フランス語版)やミシェル・ネイ元帥(エルヒンゲン公爵)、オーギュスト・マルモン元帥(ラグーサ公爵)などが公爵に叙された[55]。帝国貴族には免税特権などの封建的特権は不随せず[55]、爵位は個人の功績に与えられるもので世襲のためには「貴族財産」(爵位とともに長男に譲り渡される財産)の設定が必要であるなど旧貴族とは異なったルールがあった[56]

復古王政下ではアンシャン・レジーム下で爵位を得た旧貴族が爵位を回復するとともにナポレオン下で爵位を得た新貴族も爵位を維持した。爵位に義務や負担を免れるなどの特権が不随しない点もナポレオン時代と同じであった[56]。ただし貴族院が設置され、その議員の地位は世襲だった[57]

1848年二月革命1848年憲法第二共和政になると貴族院と貴族の称号は廃止された[58]ナポレオン3世第二帝政では再び貴族称号の授与が行われるようになったが、貴族制度は復活されなかった[59]。ナポレオン3世が創設した公爵位にはマラコフ公爵フランス語版(1856年エイマブル・ペリシエフランス語版)、マジェンタ公爵フランス語版(1859年パトリス・ド・マクマオン)、オーディフレ=パスキエ公爵フランス語版(1862年ガストン・ド・オーディフレ=パスキエフランス語版)、モルニー公爵フランス語版(1862年シャルル・ド・モルニー)、 ペルシニー公爵(1863年ヴィクトール・ド・ペルシニー)、フェルトレ公爵フランス語版(1864年シャルル=マリー=ミシェル・ド・ゴヨンフランス語版)がある。

第二帝政崩壊後、貴族称号の廃止は法律によっては宣言されていないが、1875年にフランス大統領パトリス・ド・マクマオンは貴族の称号の新設は今後は行わず、称号の継承のみ引き続き公式法令の対象となると閣議決定した[60]1955年に裁判所は合憲性ブロックフランス語版の一部である1789年の人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)が出生に付随する法的区別を禁じていることから「貴族はもはや法的効力を持たない」と判示している。現在もフランス政府は貴族の称号の新設を行ってはいないが、様々な君主制のもとで誕生した称号を名前の飾りとして認識し、その保護は行っている。結婚状況や行政文書などで称号が表示される可能性があり、また法務省は後継者に叙任令を発行している[61]

ドイツの公爵[編集]

ドイツの称号で「公爵」と訳されるのはヘルツォーク(Herzog)である。これは初期の10世紀頃には君主に相当する最高位の貴族部族大公(Stammesherzog)のことだった。この時期のヘルツォークは「大公」と訳されるのが一般的である[62]。次のものがある。

13世紀に現れた選帝侯7人の中で公の称号を持つのはザクセン公のみだった[63]三十年戦争後にはバイエルン公もプファルツの選帝侯位が与えられる形で選帝侯に加わった[64]

ナポレオン戦争後、陪臣化などで諸侯の数が減らされ、ナポレオン失脚後のウィーン体制下でもその状態が維持され、ドイツ連邦には公爵が治める公国が以下の10個あった[65]

ナッサウ公国とホルシュタイン公国は普墺戦争後プロイセンに併合されて消滅し、ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公はエルネスティン諸公国再編の中で消滅し、アンハルト諸国はアンハルト公国として統合されたのでドイツ帝国加盟国として残った公国の公爵位はブラウンシュヴァイク公、ザクセン=アルテンブルク公、ザクセン=コーブルク=ゴータ公、ザクセン=マイニンゲン公、アンハルト公の5個だった[66]。これ以外に統治領域がなくなっていた公爵としてロイヒテンベルク公シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公ラチブシュ公ウラッハ公などがある。

ドイツ革命後、ヴァイマル共和政になると貴族は法的根拠を失ったが、爵位を姓名の一部として私的に用いることは認められた[52]

スペインの公爵[編集]

スペインの公爵の紋章上の冠

王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、スペイン貴族の階級には上からDuque(公爵)、Marqués(侯爵)、Conde(伯爵)、Vizconde(子爵)、 Barón(男爵)、Señor(領主)の6階級があり、公爵は最上位である[67][68]。すべての公爵位にはグランデの格式が伴い、グランデ委員会に属する[67]。グランデの格式を伴う爵位保有者は「閣下(Excelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性))」の敬称で呼ばれる[68]

スペインの公爵位は現在155個存在し、有名な物には16世紀の宗教戦争時代に当主が軍人として活躍したアルバ公爵アルマダの海戦の際に当主無敵艦隊の司令官を務めたメディナ=シドニア公爵新大陸発見者とされるクリストファー・コロンブスの子孫が保有するベラグア公爵とラ・ベガ公爵スペイン語版アステカ皇帝モクテスマ2世の子孫が保有するモクテスマ・デ・トゥルテンゴ公爵スペイン語版フェリペ3世寵臣スペイン語版を初代とするレルマ公爵スペイン語版[69]フェリペ4世寵臣を初代とするサンルーカル・ラ・マヨル公爵スペイン語版オリバーレス伯爵の爵位を埋没させたがらず、「オリバーレス伯公爵」を名乗っていた)[70]ナポレオン戦争時代のイギリス軍司令官ウェリントン公に与えられたシウダ・ロドリゴ公爵スペイン内戦を起こしたエミリオ・モラスペイン語版の子孫が保有するモラ公爵スペイン語版フランシスコ・フランコ総統の子孫が保有するフランコ公爵などがある。またオスーナ公爵スペイン語版は、19世紀末の当主スペイン語版が駐ロシア大使を務めていた際に来客のために用意した金食器を川に捨てるという余興を催したことで、浪費を指して「オスーナ家でもあるまいし」という言い回しができたことで有名になった[71]

正式な称号とは認められていないが、カルリスタの王位請求者によって創設された171の称号の中にも4つの公爵位があった[68]

王室の称号プリンシペも公爵と訳されることがあるが(「大公」や「王子[72]」と訳されることもある)、これには皇太子に与えられるアストゥリアス公などがある[68]

公爵を含む伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる[68]。貴族称号の放棄も可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない[68]。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる[68]。爵位の継承には所定の料金がかかる[68]。スペインに貴族院はなく、爵位をもっていても法的な特権は何も得られない。かつてグランデの格式を有する者は外交官パスポートを持つことができたが、これも1984年に廃止されている。だがそれでも爵位を持つことは社会的信頼が大きいことから多くの人が高いお金を出してでも取得を希望する[73]

歴史的にはスペインの前身であるカスティーリャ王国アラゴン連合王国ナバラ王国にそれぞれ爵位貴族制度があり[74]、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使った[75]。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、フェリペ3世時代以降に爵位貴族が急増した[75]

1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが[76]1948年に総統フランシスコ・フランコが貴族制度を復活させ[68][77]、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった[68]。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。

現存する公爵位[編集]

ロシアの公爵[編集]

帝政ロシア貴族ロシア語版17世紀以前のボヤールモスクワ大公国以前からの諸侯)に由来するものと、18世紀以降ロシア帝国初代皇帝ピョートル1世が制定した官等表に基づいて貴族になった官僚貴族のドヴォリャンストヴォに分けられるが、ボヤールも官僚としての勤務で官等表に組み込まれ、ドヴォリャンストヴォ化したので両者は同質化していった[78]

ロシア貴族の称号は当初は公爵(クニャージ、Князь、knyaz)しかなかったが、ピョートル1世はドイツと同じ伯爵位(グラフ、граф, graf)、イギリスと同じ男爵位(バロン、барон、baron)を加えて爵位制度を作った[78][79]。また皇族の称号として大公(ヴェリーキー・クニャージ、Великий князь)があった[80]

帝政ロシア時代の公爵家にはドルゴルーコフ家ゴリツィン家ロシア語版ロプーヒン=デミドフ家カンテミール家ポチョムキン家ロシア語版、オボレンスキー家ロシア語版ゴルチャコフ家ロシア語版ロバノフ=ロストフスキー家ロシア語版ユスポフ家ロシア語版ヴォルコンスキー家ロシア語版などがあった。

帝政ロシアの貴族の特徴はロマノフ朝皇帝権力に強く従属し、勤務義務を負っていることだった。その原因の一つとしてロシア貴族は伝統的に均分相続法によって所領が細分化しやすかったため、官僚として働いて生活費を稼ぐ必要のある者が多かったことがあげられる。またロマノフ皇帝は絶対権力者であるので、その近くで勤務することは自分の権力と財産を拡大させるチャンスであった[81]

しかし18世紀を通じて貴族の勤務義務は徐々に緩和されていき、1762年のピョートル3世の布告で廃止された[81]。貴族の領地と農奴を私有財産として保障した[78]1785年のエカチェリーナ2世の特権認可状は貴族を身分に再編しようというものだったが、実際にロシア貴族に身分意識が生まれたのは19世紀以降だった[81]

ロシア貴族が住む屋敷はウサージバと呼ばれた[82]

ロシア革命により貴族身分は廃止され、ソビエト連邦時代を通じて貴族家系の出身者は迫害・抑圧されたが、ソビエト連邦の崩壊後には貴族の子孫たちが自分の先祖の再評価の出版を相次いで行っている[81]

脚注[編集]

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  1. ^ 新村出広辞苑 第六版』(岩波書店2011年)942頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂2006年)849頁参照。
  2. ^ 石黒ひさ子 2006, p. 2-3.
  3. ^ a b 石黒ひさ子 2006, p. 3.
  4. ^ 石黒ひさ子 2006, p. 5.
  5. ^ 石黒ひさ子 2006, p. 4.
  6. ^ 石黒ひさ子 2006, p. 6.
  7. ^ a b 袴田郁一 2014, p. 86-87.
  8. ^ a b 袴田郁一 2014, p. 95.
  9. ^ 袴田郁一 2014, p. 93.
  10. ^ a b 今堀誠二, p. 422-423.
  11. ^ 袴田郁一 2014, p. 100.
  12. ^ 袴田郁一 2014, p. 98.
  13. ^ 袴田郁一 2014, p. 103.
  14. ^ a b 袴田郁一 2014, p. 102-103.
  15. ^ 袴田郁一 2014, p. 106.
  16. ^ 袴田郁一 2014, p. 107.
  17. ^ 袴田郁一 2014, p. 110.
  18. ^ 袴田郁一 2014, p. 112.
  19. ^ 袴田郁一 2014, p. 114.
  20. ^ 袴田郁一 2014, p. 113.
  21. ^ 袴田郁一 2014, p. 115.
  22. ^ 小田部雄次 2006, p. 13.
  23. ^ 小田部雄次 2006, p. 21.
  24. ^ 小田部雄次 2006, p. 26.
  25. ^ 小田部雄次 2006, p. 30.
  26. ^ 小田部雄次 2006, p. 56.
  27. ^ 百瀬孝 1990, p. 37.
  28. ^ a b 百瀬孝, 1990 & p37-38.
  29. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 45.
  30. ^ 百瀬孝, 1990 & p38.
  31. ^ 百瀬孝, 1990 & p242.
  32. ^ 小林(1991) p.16-17
  33. ^ 森(1987) p.5
  34. ^ 森(1987) p.6
  35. ^ 小林(1991) p.18
  36. ^ 森(1987) p.7-8
  37. ^ 森(1987) p.9
  38. ^ 森(1987) p.11-12
  39. ^ a b 森(1987) p.15
  40. ^ 前田英昭 1976, p. 46-58.
  41. ^ 田中嘉彦 2009, p. 279/290.
  42. ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 60.
  43. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1995, p. 290.
  44. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1995, p. 272.
  45. ^ 中野隆生 & 加藤玄 2020, p. 38-39/122.
  46. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1995, p. 187.
  47. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1995, p. 189.
  48. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1995, p. 205.
  49. ^ 中野隆生 & 加藤玄 2020, p. 124.
  50. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1996, pp. 128-129.
  51. ^ 中野隆生 & 加藤玄 2020, p. 166.
  52. ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ). “爵位” (日本語). コトバンク. 2021年3月28日閲覧。
  53. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1996, p. 156.
  54. ^ 上垣豊 1995, p. 129(617).
  55. ^ a b 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1996, p. 419.
  56. ^ a b 上垣豊 1995, p. 130(618).
  57. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1996, p. 458.
  58. ^ 山本浩三 1959, p. 46/49.
  59. ^ Éric Mension-Rigau Enquête sur la noblesse. La permanence aristocratique, éditions Perrin, 2019, page 69.
  60. ^ Marc Guillaume, Directeur des affaires civiles et du Sceau, 2006.
  61. ^ Marc Guillaume, Maître des requêtes au Conseil d’Etat, Directeur des affaires civiles et du Sceau, Le Sceau de France, titre nobiliaire et changement de nom Académie des Sciences Morales et Politiques séance du lundi 3 juillet 2006.
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  68. ^ a b c d e f g h i j Noble Titles in Spain and Spanish Grandees
  69. ^ 関哲行, 中塚次郎 & 立石博高 2008, p. 332.
  70. ^ 関哲行, 中塚次郎 & 立石博高 2008, p. 346.
  71. ^ 坂東省次 2013, p. 69.
  72. ^ 関哲行, 中塚次郎 & 立石博高 2008, p. 419.
  73. ^ 坂東省次 2013, p. 669/71.
  74. ^ 関哲行, 中塚次郎 & 立石博高 2008, p. 315.
  75. ^ a b 関哲行, 中塚次郎 & 立石博高 2008, p. 370.
  76. ^ https://www.boe.es/datos/pdfs/BOE//1931/153/A01122-01123.pdf
  77. ^ https://www.boe.es/buscar/act.php?id=BOE-A-1948-3512
  78. ^ a b c 坂内知子 2012, p. 164.
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  80. ^ 秦郁彦編 2001, p. 426.
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参考文献[編集]

文献資料[編集]

関連項目[編集]