内地

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日本における内地(ないち)とは、大日本帝国憲法下の日本大日本帝国)において、行政及び法律共通法第1条)上日本の本土(本国)とされた地域ことである。内地に対義する地域は一般に外地と称されたが、「内地」が共通法に基づく法的用語だったのに対し、「外地」は法的に定められた用語では無かった[1]

共通法による扱い[編集]

「内地」という地域概念は、日本の領土が拡大する過程で生み出された。

1885年、日本は台湾領土に編入したが、その際に台湾の統治機構として台湾総督府を設置した。その為、日本の領土は施行される法令の形式・内容が台湾とその他日本政府の直轄地域とで異なる事態となった。その後、適用法令の異なる地域が更に増えたことで統一的に法令を運用するための法規範が必要となり、法令の適用範囲・適用関係の確定及び各地域間の連絡統一を目的として、1918年共通法大正7年法律第39号)が制定(同年4月17日施行)された。

その際、日本の統治権が及ぶ地域は同法第1条によって下記の通りに分類され、初めて法的に内地の定義が為された。

  • 大正7年法律第39号版[2]
本法ニ於テ地域ト稱スルハ内地、朝鮮、臺灣又ハ關東州ヲ謂フ
前項ノ内地ニハ樺太ヲ包含ス
  • 大正12年法律第25号版[3]
本法ニ於テ地域ト稱スルハ内地、朝鮮、臺灣、關東州又ハ南洋群島ヲ謂フ
前項ノ内地ニハ樺太ヲ包含ス

なお、共通法は2019年現在に至るまで廃止の措置を採られていないが、日本国との平和条約1952年4月28日発効)で日本は外地における全ての権利権原及び請求権を放棄したため、事実上失効していると解されている。

内地の範囲[編集]

共通法による範囲[編集]

共通法上の内地に該当する範囲は、法律が施行された1918年4月17日時点で下記の通りである。この範囲は、日本国との平和条約発効によって日本から外地が正式に消失した1952年4月28日まで一度も変更されることが無かった。

GHQによる範囲[編集]

1945年日本が連合国に降伏すると、GHQポツダム宣言に基づいて1946年SCAPIN(SCAPIN-677)を発令し、日本政府行政権が及ぶ範囲を制限した。その際、共通法上の内地は基本的に「日本の範囲に含まれる地域」か「日本の範囲から除かれる地域」のいずれかに分類されたが、下記の点が共通法と異なっていた。

共通法による内地の特徴[編集]

共通法上の内地には以下の特徴が見られる。

内地の戦後[編集]

内地とされていた地域は、戦後も基本的に日本の国土を構成し続けている。だが、日本が降伏した影響から日本の主権が一部の島々から全て消失した他、別の島々では日本政府行政権が一時期制限されていた。

内地における日本政府統治権は、日本本土の戦い連合国軍占領された硫黄島沖縄県全域樺太千島列島色丹島及び歯舞群島を除いて引き続き維持されていた。だが、占領統治を担うGHQ1946年から幾つかのSCAPINを発令したことで、日本政府の行政権が及ぶ地域は下記の範囲に制限された。

内地のうち連合国が日本政府から行政権を剥奪した地域は、日本国との平和条約(平和条約)が発効した1952年4月28日以降に下記の通りの変遷を辿った。

これら地域のうち、千島列島ではその範囲に北方地域を含むか否か[4]北方領土問題が発生している。また、竹島は平和条約上日本政府が主権を放棄すべき領土とされなかったが、条約発効直前の1952年4月20日韓国軍事占領し、そのまま領土として占有し続けている(詳細は竹島問題参照)。竹島は連合国軍以外の勢力が武力で日本の主権を侵害した唯一の島である。

法律以外の用法[編集]

日本国との平和条約発効(1952年4月28日)によって外地を喪失したため、日本は全ての国土が共通法上の内地となり、法的な意味での「内地」・「外地」区分は無意味なものとなった。だが、「内地」という用語は共通法とは異なる意味合いで戦後も使われ続けた。

引き揚げ[編集]

ポツダム宣言により、日本の主権本州北海道九州四国ならびに連合国の決定する諸小島に限定され、それ以外の地域に居る在留邦人は引き揚げされることになった。その際に、日本の主権が及ばなくなった樺太千島列島朝鮮琉球北緯29度以南の南西諸島)、台湾等の地域との対比で、引き続き日本の主権が及ぶ地域を指して「内地」または「本土」と称した[5]

北海道・沖縄[編集]

北海道沖縄県、及びに鹿児島県奄美群島を始めとする一部地方で、若干の意識の差異が認められるも、「内地」という言葉が民間でかつて使用され、或いは現在でも通常一般に使用されている。これらの用法は、使用される地域が法的な意味の「外地」であったことが無く、本土復帰まで連合国占領されていた一時期を除いて、戦前より行政的にもその他「内地」と同様に扱われていたため、公には用いられない俗語的用法である。

北海道[編集]

東北地方平安時代末期から鎌倉時代までの間に北端の津軽まで平定されたのとは対照的に、北海道は室町時代に漸く和人の入植が始まり、江戸時代には、和人(シサム)の植民者集団(道南十二館)の棟梁に起源をもつ松前藩が、渡島半島南部の和人地(松前地)を拠点に、アイヌの居住地である蝦夷地(和人地以外の北海道・千島列島及び樺太)に収奪的交易を伴う植民地支配的な間接統治を行っていた。江戸時代も後期になって漸く蝦夷地全体が江戸幕府の直接支配下に置かれ(1798年)、明治維新以後、1869年には太政官布告により北海道11国86郡を設置、日本に編入され、和人入植者が本格的に北海道を開拓した。

編入間もない時期には本州以南が「内地」と広く呼ばれていたが、北海道開拓使明治6年(1873年)6月に公文書上で「内地」という用語の使用を禁じ、「府県」の使用を通達し、中央政府の影響力が強い札幌とその周辺部では内地の代わりに「本州」という言い方が普及した[6]。この場合の「本州」については、北海道に隣接する本州島にだけ意識が働き、四国九州や当時の琉球は意識外であったと考えられる。一方、札幌以外の北海道の大部分の地域ではその後も広く「内地」が使われ続けた歴史がある。

なお、公文書やマスコミでは一般的に「道外」と言う表現を使用しているが、市民にはあまり浸透していない。

奄美・沖縄[編集]

沖縄は室町時代前期、奄美は戦国時代の相当期から戦国時代末頃まで琉球王国の統治下にあったが、1609年薩摩藩による琉球侵攻により、琉球王国は薩摩藩の間接支配を受け日本(大和)政権の支配下に入り、奄美は事実上薩摩藩に割譲された。明治時代になると、琉球処分1879年)によって琉球王国は日本へ併合され、沖縄は沖縄県、奄美は鹿児島県の管轄地域となった。戦後、鹿児島県のトカラ列島(下七島)、奄美群島と沖縄県はアメリカの統治地域とされ、日本から施政権が一時的に分離された。だが、日本国との平和条約発効と前後しトカラ列島(1952年)、奄美諸島(1953年)が相次いで本土復帰し、残る沖縄県も1972年に日本へ復帰し今に至っている。

沖縄県では、「内地」の用法は青年層により顕著であり、沖縄方言等の「やまとぅ」と呼ぶ概念にほぼ相当する。より直接的にナイチャーという表現もある(ウチナーヤマトグチの項を参照)。しかし、報道や官公庁などでは「県外」という表現(例:県外移転など)が用いられている。

同様に、奄美群島でも住民は九州島以北を「本土」や「内地」と表現することが多く、また奄美において暗に「鹿児島」と言うと鹿児島県の九州島部分或いは鹿児島市を暗に指す[7]。ただし、奄美群島は九州地方及び鹿児島県に属することから、この場合の「本土」については、離島と本土との対比における「本土」と考えられる[要出典]。なお、奄美や小笠原の返還は、公的にも「本土復帰」である。

その他[編集]

国内留学を「内地留学」と呼ぶ例がある[8]

脚注[編集]

  1. ^ 共通法では、「外地」に当たる地域をそれぞれ朝鮮台湾関東州又は南洋群島」と個別に表記していた。
  2. ^ 共通法”. ウィキソース. 2019年12月23日閲覧。
  3. ^ 共通法中改正 (大正12年法律第25号)”. ウィキソース. 2019年12月23日閲覧。
  4. ^ 条約では千島列島の範囲について言及されておらず、日本樺太・千島交換条約を根拠に得撫島から占守島にかけての千島列島を指すと主張する一方、ロシア大クリル列島国後島から占守島にかけての千島列島)に小クリル列島色丹島及び歯舞群島)を併せた範囲を指すと主張している。
  5. ^ goo辞書「内地」[1]
  6. ^ 明治34年『殖民広報』1号掲載の「内地と云ふ用語」に記述。桑原真人「北海道の経営」『岩波講座日本通史第16巻 近代I』岩波書店、356頁。
  7. ^ 蔵満逸司、「本土、離島、内地、鹿児島……」『奄美まるごと小百科: 奄美をもっと楽しむ146項目』、pp186-187、2003年、鹿児島、南方新社
  8. ^ 平成一四年度特殊教育内地留学生の派遣申請について

関連項目[編集]