内田喜久

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内田 喜久
うちだ よしひさ
Yoshihisa-Uchida-Mayor.jpg
生年月日 (1925-01-05) 1925年1月5日(94歳)
出生地 愛知県岩津村井ノ口
出身校 明治大学政治経済学部[1]
所属政党自由民主党→)
無所属

Flag of Okazaki, Aichi.svg 第16-18代 岡崎市長
当選回数 3回
在任期間 1971年5月2日 - 1980年6月30日

選挙区 岡崎市選挙区
当選回数 2回
在任期間 1963年4月30日 - 1971年
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内田 喜久(うちだ よしひさ、1925年1月5日 - )は、日本政治家新聞記者愛知県岡崎市長(3期)、愛知県議会議員(2期)を歴任した。「喜久」を音読みして「きく」と読まれることも多い[2]

経歴[編集]

愛知県岩津村井ノ口(現・岡崎市井ノ口町字楼)に、農業を営む父:内田松太郎、母:かまの三男として生まれる。ただし長兄は夭逝したため、男5人、女3人のきょうだいの中で次男として育てられた[3][4]岩津町立大樹寺尋常小学校卒業[5]1939年岡崎市三島尋常高等小学校高等科を卒業後[6]、新三河新聞社に記者見習いとして採用される[7]。日刊新聞『新三河』は1940年11月1日竹内京治の『岡崎朝報』に統合され『三河新聞』と改称する[8]

1941年5月1日、岡崎市立商業学校(現・愛知県立岡崎商業高等学校)に定時制の第二商業学校が併設されると、竹内社長のすすめで入学。働きつつ学ぶ勤労学徒の生活が続く[2]。一県一紙の国策により1942年7月30日に廃刊となる日まで『三河新聞』の記者を務めた。

1944年10月、召集により満州に送られた。牡丹江省東寧の満州第929部隊に入隊。輓馬の野戦重砲隊に配属される。1945年3月、連合軍本土上陸に備えるため、九十九里浜へ移動。8月、群馬県の駐屯地で終戦を迎えた[9]

1946年明治大学に入学(1952年に同大学政治経済学部卒業)[6][10]1947年4月25日第23回衆議院議員総選挙において岡崎市出身の千賀康治が初当選。「内田には中央のことを勉強させておいた方がいい」という竹内京治のはからいにより千賀の秘書となった。そのかたわら、西三河青年同盟をおこし政治運動ならびに青年運動に情熱を傾ける[11]。西三河青年同盟のメンバーの一人と結婚[12]

愛知新聞を創刊[編集]

内田が27歳のときに創刊した『愛知新聞
内田喜久と妻の美惠子(1958年)
県議会議員時代の内田(1967年頃)

終戦直後の1945年12月25日、黒柳章、榊原金之助らが中心となって『東海新聞』が創刊された。1947年、戦前の新聞記者たちはさらなる地元新聞の発刊を目論み、元新三河新聞社の工場長の自宅に集まった。たまたま居合わせた内田は請われるままに代表者にさせられ[7]、同年8月、市内板屋町の仕舞屋で週刊新聞『三河タイムス』を創刊した。1951年初頭、日刊紙への移行を計画し、一般から新紙名を募集。1952年5月10日、株式会社愛知新聞社を市内旧康生町に設立[注 1][注 2]。同年11月1日、『愛知新聞』第1号を発行した[13]。続いて東海放送株式会社を設立し[11]1961年には中部日本都市広告協会を設立した[3]

政治家に転身する前、内田は岡崎市長選挙に二度、選対の参謀として関わっている。1955年の市長選ではかつて秘書として仕えた千賀康治を支援した[17]。千賀は現職の竹内京治に敗れ、翌1956年都電にはねられ死亡した[18]。それを境に旧幡豆郡を地盤にした中垣國男が岡崎に勢力をのばし、中垣に連なる県議の太田光二1959年の市長選に出馬の構えを見せると、竹内の推薦母体である愛市連盟が結成された。愛市連盟の事務局は愛知新聞社本社に置かれた。竹内は「岡崎が中垣に乗っ取られていいのですか」と内田に詰め寄られ、4選出馬を決断した[19][20]。どちらの選挙でも敗北を喫したが、細かな情報を駆使した内田の選挙手腕は注目を集めた。

1961年2月頃、東海新聞社社長の榊原金之助が次期県議選への出馬表明を行う[21]。それに伴い内田を県議会に送らんとする空気が強まり、若い商店主らによって後援会「八日会」が設立された。名前は永田安太郎の後援会「十五日会」にちなんで付けられた[22]

1962年10月に岡崎市は六ツ美町を編入。これに伴い、1963年愛知県議会議員選挙・岡崎市選挙区は定数が3から4に増える。同年4月17日に行われた県議選に浦野幸男派(宏池会)からは内田のほか、現職の柴田彦四郎[23][24]、浦野の書生で繊維会社社長の鈴木正雄[注 3]の3人が立候補。また、中垣國男派(水曜会)からは現職の近藤春次のほか、前述の榊原金之助が立候補[28][29]。7人の候補者が争う中、初出馬ながら1万8千票余りを得てトップ当選を果たした。1967年、再選。

市長選に出馬[編集]

1970年春頃には「翌年の市長選は現職の太田光二と内田喜久の一騎打ちの公算が大きい」と報ずる新聞記事がすでに出始めていた[30]。3期勇退を公約に掲げていた太田は、義弟の浅岡齋が県議選出馬の準備をすすめていたこともあり[31]、当初引退の決意が固かったが、後援会幹部らに口説き落とされた。一説には、内田によって配布されたおびただしい中傷ビラの内容に激怒し出馬に踏み切ったとも言われている[32]。4月、前回の市長選で落選した元衆議院議員秘書の原嶋亮二が出馬の意向を表明し[33][注 4]、6月には太田・内田・原嶋の出馬は公然の事実となった[38][39]10月3日岡崎市議会議長と岡崎商工会議所会頭が発起人として名を連ねた太田の支援者の集会が岡崎市民会館で開かれる。国会議員や大臣代理、近隣市長らが多数招かれた同集会において、次期市長選挙候補に太田を推薦することが採択される[40][41]。太田は12月10日、定例市議会の冒頭で正式に出馬を表明[42][43]12月18日、岡崎市地区総代会長連絡協議会は太田の推薦を決定[44]

当時、岡崎市の北部地域で、岡崎 - 多治見間の国鉄岡多線(現・愛知環状鉄道)の新設の工法をめぐって、高架か矢作川土手か、国鉄と地元住民が対立していた。建設促進委員長だった市長の太田は国鉄の意を受けて安価な土手方式の採用に傾いていた。衆議院議員の中野四郎1969年衆院選で太田一派の支持を秘密裡にとりつけ得票数2位で勝利を収めていたが、その後大門地区の住民から岡多線に関する陳情を受けていた。岡崎の票を落としたくない中野は内田に「君は高架をやるか」と尋ね、内田が「やります」と答えたことから、1971年1月20日、内田支持を表明した[45][46]

1971年4月25日に投票が行われ、4期目を狙う太田、原嶋亮二との保守三つどもえの戦いを制し初当選した。同年5月2日、市長就任[47]7月1日、愛知県住宅供給公社専務理事の鈴木弥一郎を助役に選任[48]。太田派職員を部長から引きずり下ろすため、同日、部制を廃止して課長に降格[47][49]。市役所内部の実権を確立すると、1973年4月に部制を復活させた[50]

1975年4月、日本共産党推薦の新人らを破り再選。

1975年4月中旬より助役の鈴木弥一郎が病気のため欠勤。鈴木は6月30日の任期満了とともに退任する意志を固めた[51]。後任選びで、鈴村正弘教育長[注 5]を推す内田と大郷恒夫総務部長を推す議会各派のあいだで意見が対立したが、内田の後援会幹部の根回しにより7月1日、大郷が助役に就任した。内田は対抗策として7月22日に臨時議会を開き、機構改革を断行。理財部を新設してここに財政部門を集中させ、次いで規制を改正して助役から予算の査定権を奪い去った[57][58]。また、大郷ははっきりものを言う性格から次第に内田に疎まれ、1期4年で助役を退任した[59]

岡崎は1955年を最後に、地元選出の保守系の代議士を持たなかった。保守の代議士が中央の権力と地方とを結ぶ利益誘導のパイプ役であると考える内田にとって、残された夢は国政に打って出ることだった[60]1976年12月、衆議院は解散が行われないまま任期満了により総選挙を迎えた。前回(1972年)の落選から再起をはかる中野四郎は、禅譲をにおわせ内田に接近した。系列としては依然として浦野幸男派(宏池会)に属していたが、内田はこれを期に中野派(福田派)に移る[61][62]。中野は岡崎で1万3千票を増やし、トップで返り咲いた。

1977年1月16日朝、浦野幸男が心不全のため急死[63]。先の総選挙で中野支援を強めた内田にとって、浦野の死は誤算だった。同日夜、内田は側近の市議と浅井正三市議の自宅に集まり、浦野の後継者問題について密議を行った。1月20日、浦野後援会による臨時葬儀が豊田勤労福祉会館、岡崎市の六所神社、安城市民会館の三会場で開かれる。浦野後援会員でもあった浅井正三は六所神社で「後継者選びのときは、岡崎にも声をかけてほしい」と申し入れるが、娘婿の浦野烋興擁立を図っていた陣営は「喪が明けるまではその話はしないでほしい」と首尾良くかわした[64]。3月2日、浦野派の服部貞弘市議と、猿投青年団で浦野幸男と活動した間柄の太田進市議の二人は豊田に出向き、豊田市議会の正副議長らと面会。服部と太田は「岡崎は全員一致で内田に決定した」と告げた[65]。しかし時すでに遅く、同日夜、酒井鈴夫県議、西山孝豊田市長、三好町長、足助町長、小原村長、藤岡村長、旭町長、下山村長、豊田商工会議所会頭ら豊田市・東西加茂郡の政財界要人で構成する「浦野幸男後継者問題懇談会世話人会」は浦野烋興の自宅を訪れ、正式に後継受託を要請した[66]。3月14日、浦野幸男後援会の総会で烋興推挙の決議が可決され、内田擁立の計画は頓挫する[67]

三選[編集]

1979年4月、無投票で3選[68]。同年6月、愛知県市長会長、東海市長会副会長に就任。

同年8月10日、日本社会党太田一夫が高血圧悪化を理由に次期衆院選への立候補辞退を党愛知県本部に伝える[69]。9月7日、衆議院解散。岡崎市は地元選出の国会議員を保革ともに失った。中野四郎は、中野後援会岡崎地区連合会長の元市議の柴田信市を遣わし、内田の衆議院転身を断念させ、さらに封じ込める作戦として内田を選対委員長に引き入れた[70]。しかし選挙事務所の雰囲気は低調で、駆けつけた岡崎市議17人の動きも鈍かった。これを「内田の細工」と直感した中野は幹部に非常召集をかけ「岡崎は数に入れずに、15万票取れ」と命じ、「もう内田など来てもらわなくていい」と言い放った[71][注 6]衆院選は10月7日に行われ、中野は11回目の当選を果たす。

1980年1月6日、岡崎商工会議所で中野の新年会が開かれた。中野は来賓の内田を前に、「私は死ぬまで代議士をやめません」と挨拶をした。禅譲を受ける望みを完全に絶たれた内田は1月7日、中野と面会し、「次の衆院選は岡崎から候補者を出したいと思います」と告げる。加えて、4期目の市長選に出馬したい意向を伝えると、中野は「おかしいじゃないか。君は長期政権はいかんと、太田君の4選阻止に立ったんじゃなかったのか」と反駁。両者はついに決裂した[75][注 7]。内田は次の総選挙を1982年頃と読んで、同年3月25日、「岡崎から代議士を」の掛け声のもと政治団体「明日の岡崎をきずく会」を設立した[80][81]

第36回衆議院議員総選挙[編集]

同年5月16日第2次大平内閣に対する内閣不信任決議案を日本社会党が提出。当時の自民党は前年の四十日抗争を経て分裂状態にあり、党内の反主流派の動向が予測できない状況にあった。それでも内田は不信任決議の否決を露ほども疑わず、同日午後の会合で「衆院の解散は82年秋ぐらいじゃないですか」と発言していた[82][83]。不信任決議可決後、大平は即座に解散する旨を表明し、5月19日に衆議院は解散した。同日、「明日の岡崎をきずく会」は内田の長男の内田康宏衆院選への出馬を要請[84][注 8]。翌5月20日、康宏は無所属での立候補を表明した[89]

仲谷義明愛知県知事は3度にわたり内田に長男康宏の擁立を思いとどまるよう助言。当時康宏の雇い主だった安倍晋太郎も本人に「福田派の中で波風を立てるようなことはやめてほしい。見送れないか」と伝え[61]、前知事の桑原幹根も遺憾の意を表した[90]。岡崎市選出の柴田尚道県議は仲谷に接触し、仲谷の力を借りて出馬断念を働きかけようとした[91]。出馬の噂を聞いた清和会事務局長の胡伸哉は「あの子(康宏)はいい子だったのに、親父もとうとう墓穴を掘った」ともらした[92]

康宏が立候補を表明した5月20日、「明日の岡崎をきずく会」代表の浅井正三市議は市議会議長応接室で、会派「自民クラブ」の31人の市議のうち姿を見せなかった加藤清市と自身を除く29人に、それぞれ10万円の入った茶封筒を渡した。同日午後、金を受け取った市議の一人は人を介して岡崎署の巡査部長を呼び出し、買収の事実を明かした[93]。5月24日には「自民クラブ」の河澄亨市議が柴田県議に茶封筒ごと預け、柴田も警察に通報した[94][95]

旧愛知4区(定数4)は全トヨタ労連を支持母体とする民社党渡辺武三が盤石の構えを見せ、自民党の中野四郎、稲垣実男浦野烋興がそれぞれしのぎを削り、社会党も6~7万の基礎票を有するという全国でも指折りの激戦区であった。にもかかわらず陣営は「安城や幸田に協力を頼んでいた以上引っ込みがつかない」「候補者を出さないことにはおさまらない」と述べ[96]、無謀とも言える選挙に突き進んだ。内田派の買収工作は、金額から方法に至るまで警察ばかりでなく反対陣営にも早くから筒抜けであった[60][97][注 9]。開票日の6月23日、朝日新聞朝刊は四段見出しで、この朝の県警による内田派摘発開始を報じた[100]。康宏は次点で落選。同日、衆院選にからみ浅井正三市議が買収容疑で、石川新平市議会議長をはじめとする市議5名が被買収容疑で逮捕される。6月27日に内田も逮捕され、6月30日、市長を辞職した[101]。新聞は太平洋戦争における軍部ならびに政府の精神構造を解き明かした丸山眞男の論文を引き、両者の共通点を記事にした[注 10]

市政[編集]

「緑と太陽の福祉文化都市」[注 11]をスローガンに掲げた内田市政は、社会福祉部門の充実を施策の中心に据え、都市の緑化と保育園の新設・公営化を推し進めたことで知られる[104][105]。また宅地造成にも尽力し、在職中に開始した土地区画整理事業は市施行と組合施行を合わせ計15に及んだ[注 12]。主な業績は次のとおりである。

1971年 11月9日広島県福山市と親善都市提携を結ぶ。
1972年 4月1日、寝たきり老人の65歳以上の医療費を無料化[1]7月16日南公園に市民プールが完成。7月19日、第1回岡崎市戦没者及び戦災死者追悼式を開催[109]7月20日、「市政だより子ども版 おかざきっ子」を創刊。
1973年 4月1日、0歳児の医療費を無料化[110]7月1日、市制施行記念日にあわせ「緑化推進都市宣言」を発表。緑化センターが上里町字河原畑(現・上里1丁目)にオープン[111]。7月1日、心身障害者の医療費助成を開始。8月1日、ごみの市内全域収集を開始。8月17日、第1回中学生子ども議会(現・生徒市議会)を開催[112]
1974年 5月、第1回岡崎こどもまつりを開催[113]5月10日、岡崎市総合福祉センター(現・岡崎市福祉の村)を開設。6月2日中央緑道が完工[114]8月18日、岡崎教育文化大学(現・岡崎市民大学)開講[115][注 13]11月17日、第1回岡崎市農業祭を開催[116]
1975年 3月22日、公募により市の鳥「ハクセキレイ」を選定。また市民の花にツツジなど16種を選定。4月3日岡崎市立緑丘小学校が開校。4月22日明大寺町愛知教育大学跡地に分子科学研究所が設立される。8月5日、移動図書館みどり号がスタート[117]
1976年 4月3日岡崎市立大門小学校岡崎市立竜美丘小学校が開校[118]5月24日、施設老朽化のため火葬場を稲熊町字宮下より才栗町に移転。岡崎市斎場が竣工[119][120]7月1日岡崎市体育館がオープン。市民憲章を制定[注 14]9月30日太陽緑道が完工。10月31日、第1回岡崎市身体障害者体育大会を開催。
1977年 4月1日、新編岡崎市史編さん事業が開始される[122]4月4日岡崎市立城南小学校が開校。4月、岡崎市新総合計画を策定[注 15]5月2日、分子科学研究所に続いて基礎生物学研究所生理学研究所が設立される[120]5月10日岡崎市少年自然の家が完工[124]11月8日市立岡崎病院の新館が完工[125]
1978年 4月1日、岡崎市福祉会館・緑の家がオープン[注 16]。8月、岡崎観光夏まつりの催しの一つとして「岡崎五万石おどり」「五万石太鼓」を創設した[127]花火大会においては鉾船「菅生丸」を新造し、古くなった「天王丸」も船体を作り変えた[128]7月9日、美矢井橋公園運動場がオープン[129]9月30日岡崎市消防本部の新庁舎が完工[130][131]11月4日、第1回岡崎まつりを開催[132]
1979年 4月29日、児童福祉施設「太陽の城」が完工。6月、岡崎城家康館建設整備委員会が発足[注 17]11月15日、第1回岡崎市老人クラブゲートボール大会開催[135]
1980年 3月1日岡崎市竜美丘会館がオープン。3月7日、3隻目の花火大会の鉾船を新造することを市議会で発表した[136][注 18]3月21日、市内羽根町森永製菓岡崎工場の跡地につき森永と売買契約を結ぶ[138][注 19][注 20]4月1日、西三河で初の女性校長誕生[143][144]4月28日、「市議会だより」創刊号を発行[145]5月2日南公園に遊園地を設置[146]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 内田は愛知新聞社設立にあたり、千賀康治のおいの千賀次良から経済的支援を受けた[13]。千賀次良は1965年10月2日に病死するまで愛知新聞社の取締役会長を務めた[14]
  2. ^ 1957年11月15日戦後復興事業完成に伴う町名変更が実施された。旧康生町はこのとき康生町康生通東1・2丁目、康生通西1~4丁目、康生通南1~3丁目に分かれた[15][16]
  3. ^ 鈴木正雄は1923年8月22日に生まれた。1961年6月に日本手袋株式会社を設立し社長に就任[25]。1963年の県議選で自民党の公認を得るも次点で落選し、選挙違反で逮捕された。やがて「鈴木雅雄」と名前を変え、1970年、協和染色会社を市内柱町世戸荒子に設立した(のち美合町小豆坂に移転)[26]。1979年、三友ニット協業組合が48億円の負債を抱え倒産[27]。1980年4月28日、同組合の倒産にからみ詐欺容疑で逮捕された。
  4. ^ 原嶋亮二は1930年、岡崎市籠田町に生まれた。大学卒業後、小林錡旧愛知4区)の秘書となる。小林が1960年に亡くなると藤原あきの後援会事務局長に就任し、飯島清を選挙参謀に登用し、藤原の参院選全国区トップ当選を導いた[34]。その後、藤原あきの従兄弟の藤山愛一郎旧神奈川1区)の秘書などを務めた[35][10]。1985年に中野四郎が倒れた際、旧制岡崎中学校の同級生で前特許庁長官の志賀学の擁立に動くが失敗に終わった[36]。1997年9月25日、心筋梗塞のため死去。67歳没[37]
  5. ^ 鈴村正弘は1917年2月10日、挙母町(現・豊田市下林町)に生まれた[52]愛知県岡崎師範学校を卒業後、訓導となる。1948年7月、31歳の若さで岡崎市立葵中学校長に就任。1955年6月から県教育委員会に入り、1961年4月、岡崎市立城北中学校の初代校長となった[53]。1972年10月、岡崎市教育委員会教育長に就任。以後、管理教育を推し進めた[54]。1981年3月、城北中学校の生徒が教員による集団指導の結果、自殺[55]。死から1年が経ち、原因解明を促す運動が高まる中、鈴村は2年8か月の任期を残して1982年3月23日付で教育長を辞職した。2000年4月4日、心不全のため死去[56]。83歳没。
  6. ^ 激しやすく、党内でも「ケンカ四郎」の異名をとる中野四郎であったが[72]、その性格が徒になることもあった。1979年2月の安城市長選挙に向けて、自民党代議士、保守・中道の市議、商工会、町内会などで構成された「住みよい安城をつくる市民の会」は岩月収二助役を擁立。中野直系の都築義幸市議を対抗馬に推す話が流れ、岩月は無投票で初当選した。同年3月、中野は自派の安城市議6人を碧南市に呼びつけ、「お前たちは一体何をしてたんだ。なぜ(中野派から)候補者を出さなかったのだ。バカもの」と叱責した。さらに代表格の石川修市議を別室に呼び入れ「お前は県議選に出たいと言っているそうだな」とただした。石川がうなずくと「お前などまだ青い。やめておけ」と吐き捨てるように言った。6人の忠誠心はゆらぎ始める。中野が公の場で岩月に冷淡に接することを快く思わない者もいた。内田は安城の不協和音を的確にキャッチし、同年10月末、中野派の市議の長男を岡崎市役所職員に採用決定した。1980年の総選挙で6人はついに内田康宏陣営に寝返った[73][74]
  7. ^ ほどなくして中野四郎は、中根鎭夫、柴田尚道の両県議と額田町(現・岡崎市中金町)の料理屋で密会。このときに中根鎭夫の次期市長当選の布石は打たれた。「君が市長をやれ」 中野は中根に向かって告げた[76]。同年5月に衆議院解散。なお内田はこの年の春先から中野派の柴田を陣営に抱き込もうと画策しており、柴田も一度はそれに応じるそぶりを見せたが、結局動かなかった[77]。中野、稲垣実男浦野烋興の3議員が岡崎市において「三派連合」を組むと、自民党岡崎支部長だった中根は反内田の急先鋒に立った[78][79]。8月17日、内田喜久の辞職に伴う市長選が行われ、自民党公認で出馬した中根が原嶋亮二らを破り初当選した。
  8. ^ 衆議院解散の1980年5月下旬から6月初旬にかけて岡崎市は、岡崎市立羽根小学校六ツ美北部小学校愛宕小学校大門小学校の増改築工事と、三河武士のやかた家康館矢作北中学校第一工区、同第二工区の新築工事の計7件の建設工事の発注を決めた。内田は入札の予定価格を特定の業者に漏らしながら、受注会社を決めていった[85]。予定価格2億6,188万4千円であった矢作北中学校第一工区は6月17日に岡崎市東大友町の業者が2億6,100万円で落札し、予定価格1億4,158万円であった同校第二工区は6月14日に岡崎市八帖北町の業者が1億4,150万円で落札した[86]。この時期に符合する形で、受注会社から「明日の岡崎をきずく会」へ多額の献金が行われた[85][87]公職選挙法199条は、市長選などの場合、地方公共団体と請負契約を結ぶ業者がその地方公共団体の長や議員の選挙に関しての寄付を禁止しているが、「明日の岡崎をきずく会」は内田ではなく、息子のための団体であった。同年6月の衆院選に際して、内田は、指名はずしを怖れる業者から無制限に資金集めをできる立場にあった[88]
  9. ^ 内田父子に直接関係のない事柄であっても、金権政治がらみの情報は他の陣営の耳に届いていた。1980年5月15日に開かれた臨時議会で石川新平が岡崎市議会議長に選ばれたが[98]、1週間後には愛知県庁に出向いた県議同士の間で「岡崎の笑い話がある。15日の市議会議長選で、500万円のゼニが動いた」と噂は流れていた[99]
  10. ^ 丸山眞男は1949年に発表した論文「軍国支配者の精神形態」で次のように述べた。「殆どすべての(注・東京裁判の)被告の答弁に共通していることは、既にきまった政策には従わざるをえなかった、或は既に開始された戦争は支持せざるをえなかった云々という論拠である」「陸軍大臣が閣議御前会議などである処理に反対し、あるいはある処置の採用を迫る根拠はいつもきまって『それでは部内がおさまらないから』とか『それでは軍の統制を保証しえないから』ということであった」「軍部はしばしば右翼や報道機関を使ってこうした層に排外主義や狂熱的天皇主義をあおりながら、かくして燃えひろがった『世論』によって逆に拘束され、事態をずるずると危機にまで押し進めて行かざるをえなかった」[102]
  11. ^ スローガン「緑と太陽の福祉文化都市」を最初に公の場で発表したのは1972年の3月議会(3月7日~3月28日)において[103]
  12. ^ 内田が在職中に開始した土地区画整理事業の内訳は以下のとおり。市施行は岡崎駅西地区、岡崎駅前・駅東の2つ。組合施行は若松、柱、八帖、上地第一特定、上地第二特定、羽根、東阿知和、中島、広田、城南、緑丘、宇頭南、美合の13[106][107][108]
  13. ^ 岡崎教育文化大学は翌年の第2回から「岡崎市民大学」に改称された。1951年に学校教育課が開設した講座「中央公民館活動」を前身とする。
  14. ^ 市民憲章制定委員会の委員長は愛知学芸大学初代学長の内藤卯三郎[121]
  15. ^ 「岡崎市新総合計画」は3年半の歳月をかけて策定された。岡崎市総合計画審議会が中心となり、計7回に及ぶ市民への説明会を経てまとめられた。同審議会の会長は元愛知教育大学長の伊藤郷平[123]
  16. ^ 住所は岡崎市朝日町3丁目17。3階建て、延べ849.88平方メートルの建物に、岡崎市社会福祉協議会事務局と母子福祉センターが置かれた[126]。「岡崎市福祉会館・緑の家」と名付けられたこの建物には現在、一般社団法人岡崎パブリックサービスと岡崎保護区保護司会が入っている。
  17. ^ 内田はかねてより岡崎公園内に博物館を建設する構想を抱いていたが、1977年8月に創立40周年を迎えたトヨタ自動車が記念事業の一環として岡崎市に5,000万円を寄附。これを基金とすることが決まり、1979年度より家康館建設事業が具体化した[133][134]
  18. ^ 3隻目となった鉾船「竹千代丸」は全額市費で860万円かけて製作された。1980年7月29日に進水式が行われ[137]、同年8月2日の花火大会でデビューを飾った。
  19. ^ 森永製菓岡崎工場は、1918年7月に岡崎市旧康生町に設立された東海製菓株式会社を前身とする。東海製菓は一時は市内3工場のほか名古屋工場、小山工場(栃木県)、下関工場、大府練乳工場を持ち日本有数の洋菓子製造会社であったが、1942年10月1日に森永製菓株式会社に合併された[139]。市は岡崎市土地開発公社を通じて、2万3,501平方メートルの工場跡地を、建物解体費を差し引いた18億円で購入した[140]。岡崎工場は売買契約が結ばれてから半年後の1980年9月30日に閉鎖された。
  20. ^ 岡崎市が取得した森永製菓岡崎工場の跡地は1981年7月から市の総合現業事務所、倉庫および資料収納庫として使用された[141][142]。現在は岡崎市シビックセンターが建っている。

出典[編集]

  1. ^ a b 日本の歴代市長 第二巻』 464頁。
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参考文献[編集]

  • 『新編 岡崎市史 現代 5』新編岡崎市史編さん委員会、1985年12月28日。
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  • 『日本の歴代市長 第二巻』歴代知事編纂会、1984年11月10日。
  • 宮川倫山編『全岡崎知名人士録』東海新聞社、1962年6月1日。