裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
裁判

裁判(さいばん、英:trial)とは、社会関係における利害の衝突や紛争を解決・調整するために、一定の権威を持つ第三者が下す拘束力のある判定をいう。

どの国家機関によるどのような行為が「裁判」と呼ばれるかは、必ずしも一様ではない[1]が、現代の三権分立が成立した法治国家においては、「裁判」と言うと一般的には(日常的には)、国家司法権を背景に、裁判所(訴訟法上の裁判所)が訴訟その他の事件に関して行うもの、を指していることが多い。だが、裁判と言っても国家機関が行うものとも限られておらず、国家間の紛争について当事国とは別の第三者的裁判所(国際裁判所)が国際法に基づいて法的拘束力のある判決を下し解決する手続である国際裁判というものもある。

日常用語としては、裁判所で行われる手続自体を「裁判」ということが多いが、法律用語としては、裁判所が、法定の形式に従い、当事者に対して示す判断(又はその判断を表示する手続上の行為)をいう。

概説[編集]

裁判というものは、理論的に概観すると2種類ある。そのひとつは、事件の紛争解決し当事者の権利を保護するために、ある「訴訟の目的」(訴訟物)についてなされる実体裁判であり、(その手続的な面については訴訟法の規定に従ってはいるが)この実体裁判というものの内容は実体法の適用によって定まっている。もうひとつは、訴訟手続上のことがらについてなされる裁判であって[2]、この種の裁判は訴訟法だけに依拠しており、実体法とは直接の関連はない[3]。 裁判にはこれら2種がありはするが、裁判制度の肝心な部分は前者の実体裁判である[3]

現代法学では、裁判というのは「事実認定」と「法律の適用」の2段階に分けて論じられている[3]

裁判の場で言う「事実」、判決の基本となる「事実」には、不要証事実と要証事実がある。不要証事実は、裁判所の認定権が排除されているのに対し、要証事実の認定(つまり、主張されていることが本当に起きたのか起きていないのかの真偽を判断すること)は、証拠に基づいて裁判所の自由な心証判断によってなされる[3]

事実認定が行われたら、次に、この「事実」に対して法律を適用することになる。この「法律の適用」は裁判所の専権である[3]

なお、判決の基本となる事実認定とは、単なる客観的事実の認定だけではなく、そこにはしばしば法的な価値判断が加わる。また、法律の適用には、抽象的な法律解釈が問題となってくる。このようにして、個々の裁判の過程は、事実認定と法律の解釈・適用が相互に影響しあって組み立てられており、その内容を構成しているのである[3]

裁判数[編集]

日本[編集]

日本弁護士連合会によれば、2006年の日本での年間の民事裁判・行政裁判の数は合わせて、10万人あたり約116件であった[4]

ドイツ、フランス[編集]

2003年の日本弁護士連合会の報告書によればドイツにおける訴訟事件数は日本の5倍、フランスは7倍[5]

英国[編集]

2007年のイングランドとウェールズにおける民事裁判は、年間10万人あたり約3600件で日本の約31倍(なお裁判官総人口は10万人あたり2.22人であり、日本よりも少ない)[6]。裁判制度の利用が容易であること、また法が整備されていることを示している。

日本における裁判[編集]

形式的意義の裁判[編集]

日本の法令上の用語では、裁判とは、裁判所又は裁判官がその権限行使として法定の形式で行う判断を「裁判」とよび、これを形式的意義の裁判[7]という。民事訴訟事件・刑事訴訟事件に限らず、民事執行民事保全破産等の非訟事件においても、裁判所の判断は裁判という形式で表示される。

形式的意義の裁判は、裁判所の権限で行う判断を全て含むため、非訟事件における裁判のように実質上は行政処分に当たるようなものもある。

裁判の形式[編集]

裁判の形式には、「判決」「決定」「命令」の3種類がある。ある内容の裁判について、どの主体がどのような形式で行わなければならないかは、民事訴訟法刑事訴訟法などの各手続法で決められている。

判決は、民事訴訟事件や刑事訴訟事件において、裁判所が口頭弁論という厳重な手続保障を経た上で判断を示すものである。ここにいう裁判所とは、官署としての裁判所ではなく、裁判機関としての裁判所をいい、複数(地方裁判所では原則として3人)の裁判官で構成される合議制の場合はその合議体、1人の裁判官で行う単独制の場合はその裁判官である。

決定と命令は、訴訟手続上の付随的な事項について判断を示す場合や、民事執行、民事保全、破産等の厳重な事前の手続保障よりも迅速性が求められる手続において判断を示す場合に行われる[8]。そのうち「決定」は裁判所が行うもの、「命令」は裁判官(裁判長や受命裁判官、受託裁判官)が行うものである。判事補が単独ですることもできる(民事訴訟法123条)。

決定と命令は、判決と異なり、口頭弁論を経るかは裁量に委ねられており(民事訴訟法87条1項ただし書参照)、相当と認める方法で告知すれば足り(民事訴訟法119条参照)、書面による必要もない(民事訴訟規則67条1項7号参照)。上訴は、抗告再抗告準抗告といった簡易な方法によるが、必ずしも独立の上訴ができるとは限らない。刑事訴訟法上は、上訴を許さない決定や命令には、理由をつけないでもよいとされている(刑事訴訟法44条2項)。

なお、個々の裁判の法律上の名称は、その内容に基づいて定められていることがあり、裁判形式と一致しないことがある。例えば、差押命令、転付命令、仮処分命令などは、「命令」という名がついているが、形式としては「決定」である[9]

その他、家事審判手続においては、家庭裁判所がする裁判は「審判」という形式でなされる。ただし、家事事件手続法(かつては家事審判法)に規定された、裁判所の行為としての「審判」には、裁判としての性質を有しないもの(例えば、限定承認の申述の受理等)も含まれている[10]

裁判の分類[編集]

刑事訴訟において、事件の実体そのものの判断、すなわち有罪または無罪の判決を、実体的裁判といい、管轄違いや公訴棄却、免訴等のように、実体を判断しないで手続きを打ち切る裁判を形式的裁判という[11]

裁判の内容では、「確認的裁判」「形成的裁判」「命令的裁判」に分類することができる。確認的裁判は、現存を確認するものであり、民事の確認判決や、刑事の無罪判決などがこれに当たる[12]。形成的裁判は、既存の権利関係を変更したり、新たな法律状態を作り出す裁判であり、民事の離婚判決や刑事の有罪判決などがこれに当たる[12]。命令的判決は、一定の行為を命じるものであり、民事における給付判決がこれに当たる[12]

実質的意義の裁判[編集]

「社会紛争を解決する拘束力ある第三者の判断」という実質的な定義と、司法機関と行政機関(あるいは立法機関)の権限区分とは必ずしも一致しないため、この実質的な裁判の定義に該当する判断を裁判所以外が行うこともある。

日本国憲法は、「行政機関は、終審として裁判を行ふことができない」(憲法76条2項)と規定するが、これは逆に終審でなければ行政機関も「裁判」を行うことができることを意味する。このような、行政機関が準司法的手続に基づいて行う「裁判」を、行政審判という。

また、日本国憲法は、国会の両議院が行う「議員資格争訟の裁判」と、国会議員で構成される裁判官弾劾裁判所が行う「弾劾裁判」のように、立法府が裁判を行う場合も存在する。

なお、裁判官弾劾裁判にて、過去に7度の訴追例があり、5人が罷免されている。

裁判の歴史[編集]

日本[編集]

古代[編集]

古墳時代当時は、地震日食月食などの気象現象が起こった時、人々は、「罪を犯した人に対する神の怒り」として恐れられ、その原因を作った、とされる人物を探し出し、盟神探湯(くがたち…熱湯に入っている石を素手で取り、皮膚の火傷具合で有罪か無罪を判断する道具)などを使用して罪人を暴いていた。一例として、『日本書紀神功皇后元年の記事として、「突然、数日ほど太陽が登らなくなった(日食になった)ため、原因を調査させたところ、一つの墓穴に男が2人入っており、同性愛の罪が原因と判断され、墓穴を別して再葬した」(古神道では同性愛は太陽の再生産の否定につながるため、罪と記される)とあり、気象現象と罪が密接につながっていた(この場合、罪人はすでに死亡している)。「神が犯罪を見つけ、神が裁く」この時代は「神」の存在が絶対であった。このような方法は一部の地域では室町時代まで行われていた。


奈良時代から10世紀にかけて、本格的に大陸の制度である律令制が導入・運用されるが、司法と行政は一体のものであり、行政の一事案として裁判は行われ、全ての官司に裁判権があった(後述書 p.220)。律には、死(斬と絞の2種)・流(遠流・中流・近流)・徒(3 - 1年までの五等の懲役刑)・杖(100 - 60の五等)・笞(50 - 10の五等、杖より細い)の五刑、二十等が規定されている(後述書)。律令の裁判制度は、この罪の等級に応じて判決を下せる官司のレベルが異なる仕組みであり(後述書)、事件が起きた所の官司がまず裁判を直轄し、罪刑を推断する(後述書 p.220)。地方ならば、所管郡司は、最低の笞罪を判決して、刑を執行できたが、杖罪以上に当たれば、国司に送り、この国司は徒罪と杖罪までを執行できた(後述書 p.220)。一方、京にある官司は笞罪と杖罪は判決・執行できるが、徒罪以上に当たれば、刑部省に送り、刑部省は徒罪のみは判決・執行できる(後述書 p.220)。国司も刑部省も、流刑以上または除免官当という有位官人に適用される換刑に当たると判断した場合は、太政官に申上しなければならなかった(後述書 p.220)。太政官は覆審(再審査)して刑部省に審議させた上で、その結果を「論奏」という文書様式で天皇に奏上して、天皇の裁許をへて、死刑・流刑などが確定し、執行されるという手続きである(後述書 pp.220 - 221)。

中国律令では官職中心であったが、日本では位階の意味が大きかったため、律令の継受にあたり、官当の対象を唐の告身(辞令)から位記に改めたが、平安時代にはカバネを受け継いだ位階の意味が薄れたため、特定の要となる官司だけであるが、官職についていることに意味があり、官僚制の秩序が官職中心と成り、官当も唐と同じ職事官解任により刑に変える制度になったといえる(後述書 p.225)。

平安時代に至ると、令外官として検非違使が登場し、警察治安に活躍するも、量刑機能を担っていた刑部省の存在が見えなくなる(後述書 p.221)。その刑部省の代わりとして、9世紀に量刑機能を担ったのが、明法博士であり、明法勘文を提出して、罪名を断じて、太政官の裁判を動かすようになる(後述書 p.221)。摂関政治期では、この「太政官の裁判システム」と「検非違使の裁判システム」の2本立てであったとみられる(後述書 p.221)。この両者の管轄・分割は、太政官では五位以上を有する官人層・大寺社の関係者、公家使や侍臣などが対象となり(陣定も参照)、それ以外は検非違使庁で扱われたとみられる(後述書 p.221)。本来、使庁は、強盗・窃盗・私鋳銭を裁判対象としていたが、やがて非官人層へと管轄を拡大した(後述書 p.221)。ただし摂関・院政期における太政官については、死刑に関しては、天皇が最後に一等減じて遠流とすることが慣例となり、保元平治の乱(武者の世)になるまで執行はされなかった(後述書 p.224)。すなわち平安貴族が実刑を科されたのは流罪だけである(後述書)。これは中国において、流や徒は恥辱であったが、死刑は辱めを受けない名誉だったためであり(後述書)、『礼記』にも、「礼は庶民に下らず、刑は丈夫に上がらず」という理念にもあるように、中国の制度を継承したものといえる(大津透 『日本の歴史06 道長と宮廷社会』 講談社 2001年 ISBN 4-06-268906-5 p.225)。


この時代、人々を縛っていたのは現実の裁判だけでなく、宗教法もある。聖武天皇以降、庶民にも仏教が広まった結果、死後他界には仏教法に背いた罪人の行く地獄があるという認識が広まり、「地獄の沙汰」に関する伝説も生じてくる(例として、小野篁の逸話)。いわば、人の力が及び難い、人外=十王が管轄する裁判(中国仏教に始まる概念)があると信じられるようになる。

中世[編集]

初期の鎌倉幕府は将軍の裁断権が強かったが、十三人の合議制により、一時的に裁断権は奪われるようになる(後述書)。源氏が3代で絶えると、承久の乱後、北条氏による執権政治が開始され、1232年には武家の法典『御成敗式目』が定められ、ここに幕府の判断基準が明示され、将軍個人の裁量から法に則った「裁定」へと変化する(五味文彦 『日本の中世』 財団法人放送大学教育振興会 第2刷1999年(1刷98年) ISBN 4-595-55432-X pp.60 - 61)。

頼朝の死後、建久10年(1199年)4月1日に、問注所が将軍御所の郭外に独立して設けられたことは、裁許が将軍個人の手から離れたことを誰にも見える形で示した第一歩であり、続いて、12日に訴論について頼家の直訴が停止されたことも同様の意味を有していた(後述書 p.240)。しかし政治家としての力量が頼家より優れていた実朝の時代には、こうした法制の非人格化の動きもしばらく休止することになる(後述書 p.240)。問題となったのは、実朝暗殺後、その中継ぎとなった北条政子の後の藤原頼経が幼かったことであり、再び法制課題が浮上してくる(後述書 p.240)。式目はこの状況に対する解答でもあった(後述書 p.240)。

評定衆と式目の制定とは、幕府初期の不安定な法制度が、特定人格に依存する部分を減少させ、安定的なそれへの第一歩を印したものといえる(後述書 p.240)。また当時の御家人ら武家社会に根強い、実力によって紛争を解決しようという志向への対応でもあった(後述書 p.248)。武家の法は、古代律令と比べ、網羅的な法典の編纂や、体系的な法曹制度の展開については緩やかであり、形式的な整合性や手続き上の厳密性にこだわらない傾向があった(後述書 p241)。例として、三問三答において、訴人(原告)と論人(被告)による、それぞれ3回ずつの訴訟書面の提出後に、幕府法廷での奉公人による審理に入ることになっているが、その初期においては、訴人の訴えに対し、論人が反論をしなければ、1回の幕府側の問状=質問書が判決の代わりをするという形がみられた(後述書 p.241)。この際の問状の「事実(ことじち)ならば」という文言は、事態が訴人の言う通りなら、論人はそれに従えという意味を含む(後述書 p.241)。こうした現象は、仁治年間までみられることになる(後述書 p.242)。こうした未完成な法制度の背景には、武家社会に潜在した、煩瑣(はんさ)な訴状手続、訴訟行為そのものに対する嫌悪感があったとみられる(後述書 p.242)。『沙汰未練書』(鎌倉末期成立)には、練達した沙汰人(裁判官)は和解を基本とし、実力の無い沙汰人は判決を下すことを優先させるという趣旨の記載があり、中世武家社会の通念では、争いごとは自然に治まるのが理想で、裁判の場に持ち出す事自体が忌避すべきことであった(後述書 p.242)。これは当時の争いごとの多くは、京都の荘園領主と現地地頭・御家人との争いなどを除けば、兄弟一族・隣人といった小さな社会内部での争いであり、そのような小社会では、自立的な紛争処理機能が健全であれば、裁判に訴えるようなことなしで解決できたためである(後述書 p.242)。武家の式目制定は、律令・公家法の煩瑣に対する不信の念もあって、実用重視・合理性が求められるようになる(山本幸司 『日本の歴史09 頼朝の天下草創』 講談社 2001年 ISBN 4-06-268909-X p.251)。


鎌倉幕府滅亡後、建武の新政、つまり後醍醐天皇政権下では、雑訴決断所が置かれることとなる。続いて、室町時代になり、京都に室町幕府が置かれ、『建武式目』が制定されることとなるが、制定に関わった公家・武家の半数は、共に雑訴決断所に出仕した経歴をもつ(後述書 p.125)。この時期、公武関係の推移の中で、政務処理の実務的な手続き、とりわけ、「訴論之法」が、公武でおおむね共通した作法として成型されつつあり、公家・武家の政道の同質化と実務官人レベルでの交流が進行していた(後述書 p.125)。武家の訴訟処理手続きは実践の積み重ねから析出されたパターンを枠組みとして成型され、公家の訴訟処理手続きは武家のそれを参照しつつ、鎌倉後期(14世紀)以降の数次にわたる整理を経て、やがて『暦応雑訴法(りゃくおうざつそほう)』として集大成される(後述書 p.125)。こうした経緯を経て、公武に大略共通する法式が定められ、政務のあり方に統合の契機が与えられることとなった(新田一郎 『日本の歴史11 太平記の時代』 講談社 2001年 ISBN 4-06-268911-1 p.125)。

室町幕府は鎌倉幕府の訴訟制度を受け継ぐと共に、「遵行(じゅんぎょう)」、つまり裁定内容を執行するシステムを持ち、同時により広い人々の訴訟を受理する権力があり(後述書 p.211)、公武統一政権として、武家・公家のみならず、都市の商人・職人の訴訟まで裁定した(後述書 p.211)。また『建武式目』においては禅律僧女性の裁判への口出しを禁止する条項があり、後の戦国期における分国法内でも引き継がれ、赤松氏奉公人によって書かれた裁判に関する法第三条(『家風条々事(かふうじょうじょうのこと)』所収)には、「女房公事停止事」とある(久留島典子 『日本の歴史13 一揆と戦国大名』 講談社 2001年 ISBN 4-06-268913-8 p.162)。


戦国時代では分国法が形成されたが、一例として、今川氏の『訴訟条目』第13条には、「主人・師匠・父母(目上の存在)を法廷に訴えてはならない」と原則を掲げつつも、「敵方との内通や謀反など国の一大事に関わる場合は例外」として、伝統的な忠孝理論よりも国家の利益優先を表明しており、より国家イデオロギーが強くなる(五味文彦 『日本の中世』 p.151)。

中世における裁判権は幕府と守護だけが持っていた訳ではなく(後述書 p.212)、武家内部では、被官は主人の裁定に、荘園内部の百姓は、荘園領主の裁定に従わなければならなかった(後述書 p.212)。この裁判の主体・法の制定主体が複数あることは、戦国期でも同じであり(後述書 p.212)、家長の家族一族に対する制裁権、主人としての被官に対する制裁権、領主の所領内住民に対する領主裁判権など複数あった(後述書 p.212.検断も参照)。また、戦国期では裁判機構に訴えるためには、「奏者」と呼ばれる取次人が原則的には必要だった(後述書 p.215)。この奏者を介さないで直接当主を訴えることは、多くの分国法で禁じられていた(後述書 p.215)。この奏者は奉行人など大名家中の中でしかるべき地位を占めている必要があった(後述書 p.215)。従って、訴訟に際しては奏者となりうる人物とどう人間関係を作るかが問題だった(後述書 p.215)。今川氏の訴訟条目では、奏者を持たない一般民が訴訟するための目安箱の設置が規定されていた(後述書 p.215)。この他、訴訟手続きが細かに記された分国法としては、『大内家壁書』があり、行政会議の日と裁判日さえ区別されていた(久留米典子 『日本の歴史13 一揆と戦国大名』 p.215)。

近世・江戸時代[編集]

江戸時代の裁判制度の訴訟はおおむね、吟味筋(刑事訴訟)と公事出入筋(民事訴訟)にわかれており、天領内・内であれば、その役所、またがる場合は評定所寺社奉行町奉行勘定奉行)がとりしきった。

出入筋としては、村同士の境界の争い(村境争議)、入会(いりあい)権などの用益物権に関する争い(入会争議)、農業用水をめぐる争い(用水争議)、鷹場の負担に関する争い(鷹場争議)、交通負担に関する争い(助郷(すけごう)争議)など多彩な訴えがあった。とくに、村の境界は河川を基本としており、洪水などによる川欠け(流形がかわる)をきっかけに訴えが頻繁に起こされてきた[13]。訴状は目安、調書は口書(くちがき)、判決は裁許(さいきょ)と呼ばれ、判決にあたっては原告と被告とに裁許状が交付された。上訴制度は無かった。また地方から出てきた人を宿泊させる『公事宿』もあった。また、民事訴訟などの手続きを当事者の代わりに行う『公事師』もいた。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 兼子(1959)1頁
  2. ^ たとえば「証人の証言拒絶に対する当否の裁判」(ある証人がこの裁判において証言を拒絶することが妥当か妥当でないか、を判断すること)など
  3. ^ a b c d e f 『日本大百科全書』小学館。「裁判」【裁判の種類】内田武吉、加藤哲夫 執筆担当。
  4. ^ 日本弁護士連合会『2008年版弁護士白書』45頁、2009年。日本弁護士連合会(2014年10月18日アーカイブ)
  5. ^ 日本弁護士連合会『「弁護士報酬敗訴者負担の取扱い」に関する日本弁護士連合会の意見』、2003年。首相官邸(2013年1月29日アーカイブ)。日本の人口当たりの民事一審訴訟件数は「訴訟社会として知られるアメリカとは比べるべくもなく、ドイツの5分の1、フランスの7分の1にすぎない」。
  6. ^ J. Mark Ramseyer & Eric B. Rasmusen, Comparative Litigation Rates, 2010年。5頁、9頁。
  7. ^ 兼子(1959)4頁。なおここでいう「形式的意義の裁判」と、「実体的裁判」の対比である「形式的裁判」とは異なる。
  8. ^ 裁判所職員総合研修所(2010)259頁
  9. ^ 裁判所職員総合研修所(2010)258頁
  10. ^ 梶村・徳田(2007)409頁以下
  11. ^ 裁判所職員総合研修所(2011)458頁
  12. ^ a b c 兼子(1959)220頁
  13. ^ 君津市立久留里城址資料館 平成24年企画展「争いと仲直りの江戸時代」より。河川の流形が変わって自村の耕作地が川の対岸となってしまった場合は、立毛(たちげ)と呼ばれる生育中の農作物の存在が認められれば、飛び地として自村の土地として認定される。

参考文献[編集]

  • 梶村太市、徳田和幸編『家事事件手続法〔第2版〕』有斐閣
  • 兼子一(1959)『法律学全集34 裁判法』有斐閣
  • 裁判所職員総合研修所監修(2010)『民事訴訟法講義案(再訂補訂版)』司法協会
  • 裁判所職員総合研修所監修(2011)『刑事訴訟法講義案(四訂版)』司法協会