前橋飛行場

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前橋飛行場 (まえばしひこうじょう) は、現在の群馬県高崎市に1944年から1945年まであった大日本帝国陸軍軍用飛行場である。正式な名称は前橋飛行場であるが、周辺住民には地名から堤ヶ岡飛行場と呼ばれていた[1]。敷地面積は約160町歩に及び、堤ヶ岡村を中心に国府村中川村(いずれも現在は高崎市)にまたがって存在していた。2000年から2003年にかけて西毛広域幹線道路建設に伴い発掘調査が行われ、縄文時代から、飛行場施設を含む近代までの遺跡が発見されている。

建設[編集]

太平洋戦争大東亜戦争)の開戦により、既存の飛行場に加えて、航空要員の急速な養成を目的とした教育用飛行場の建設が陸軍航空本部で計画された。前橋飛行場は、そうした教育用の「面飛行場」のひとつとして計画された。1943年5月19日に陸軍の担当者が国府村を訪れ、翌20日に地主への説明会、さらに翌21日には強制買収への承諾捺印が行なわれ、次の翌5月22日には村民も動員して測量を開始するという急ピッチで用地買収が行なわれた[2]。。9月には工事が始まった。建設工事は神崎組が請け負い、他に複数の会社が携わった。地元住民や国民学校生徒、群馬県内の青年団在郷軍人会が勤労奉仕に動員され、前橋刑務所の囚人も働かされた[3]。朝鮮人も入って働いたが、彼らの雇用形態などは不明である[4]

1944年2月15日には、金網を敷いた仮設滑走路に初めての飛行機が着陸した[5]。1944年8月1日に飛行場が完成し、宇都宮陸軍飛行学校前橋教育隊が創設された[5]。古河飛行場から約80名の少年飛行兵が転属し、特別操縦見習い士官が約150名が入隊。練習機とグライダーによる飛行訓練が始まった[5]。しかし、同年10月9日には前橋教育隊は閉鎖され熊谷陸軍飛行学校前橋分教場となった[6]九三式中間練習機による飛行訓練が行なわれるようになった。だが、翌1945年2月9日には熊谷分教場も閉鎖された[6]。また、同月15日から前橋飛行場の敷地に中島飛行機の分工場が移転され、疾風の製造を行うようになった[6]

1945年2月からは防空戦闘機・爆撃機が配備された。また、3月5日に第8飛行師団の第36・37・38飛行隊に所属する九八式直接協同偵察機36機が到着し、前橋飛行場で訓練を受けた[7]。第37飛行隊隊長と第36飛行隊隊員の日誌が残されており、訓練は飛行練習や照準練習が中心であったが、燃料節約のためか進捗しなかったことが日記からも判明している[8]。これら3隊は、約20日間の訓練の後、3月24日(第36、第38飛行隊)と26日(第37飛行隊)に前橋飛行場を離陸して九州に向かった[9]。3隊は4月6日新田原飛行場から沖縄へ出撃した。隊員36名中、出撃前の事故で3名、同年4月の3度の攻撃で26名、合計29名が戦死した[10]。事故で死亡した隊員の遺骨も、戦友の胸に抱かれて沖縄へと出撃した。

その後戦局の悪化に伴って、1945年3月までに約30箇所の土盛り式の掩体壕や対空機関銃座の設置など3度の拡張が行われた。米軍の本土空襲が本格化すると、訓練より現有戦力の確保が優先されるようになる。偽装した掩体に機体を分散秘匿したが、滑走路までの運搬時間に最低4時間もかかり、夜明け前の出撃以外が不可能になった結果、大戦末期には飛行場としての機能はほぼ失われていた[11]。米軍艦載機の空襲を受けた1945年7月10日時点で、常陸教導飛行師団第2教導飛行隊の戦闘機29機(九七式戦闘機15機・一式戦闘機9機・二式複座戦闘機3機)、操縦士67名と、航空輸送部第9飛行隊前橋派遣隊が配置されていた[12]。しかし、米軍艦載機の空襲時には戦闘機による迎撃は無く、対空射撃もほとんど無い状態であり、艦載機による爆弾・ロケット弾による攻撃で航空機や掩体壕は破壊され、飛行場周辺を中心に民間人にも死傷者が出た[13]

終戦後、8月17日には軍属の帰郷、建物の破壊が始まり、27日は資材の搬出も始まった[14]。前橋飛行場は米軍に接収されたが、使用されることはなく、プロペラが外された四式戦闘機が並んだままの荒地と化していた[14]。米軍撤退後に、復員者の救済策として飛行場の農地転用が行われ、1951年11月までに全耕地が売却された[15]。現在は一部施設のコンクリート基礎や仮設滑走路用の金網が住宅地に残されているだけである[16]

施設[編集]

面飛行場は、一辺1,300 ~ 1,500 mの正方形の芝生地帯を設定し、その全域を離着陸に用いるとしていたが、前橋飛行場は周辺の集落を避けるように造られたため、 東西1,500 m、北西から東南に1,800 mの、不定形の敷地となっていた[17]。建物は飛行場の西側に建設され、本部1棟、兵舎2棟、大格納庫3棟、小格納庫4棟、さらに講堂や修理工場、食堂、炊事場などが建設された[18]。戦況の悪化で兵舎は解体されて半地下式に、飛行機や燃料、弾薬は掩体壕に分散格納され、グライダー庫は未完成のまま解体された[19]

発掘調査[編集]

1988年に飛行場跡地のすぐ北側で西三社免遺跡の調査が行われ、1996年から2000年にかけて跡地の南側で菅谷石塚遺跡の発掘調査が行われた。西三社免遺跡の調査では本調査の実施に先立って、飛行場跡地内での試掘が行われたが、遺物・遺構が出なかったことから、飛行場跡地での調査は行われなかった[20]

2000年4月1日から2003年9月30日までの期間、西毛広域幹線道路建設に伴う発掘調査が実施され、縄文時代から近代にかけての遺跡が確認された[21]。行政上の遺跡名としては棟高辻久保遺跡・引間松葉遺跡にまたがる[21]。細長い調査地35,116平方メートルは飛行場跡地の中央部北端に位置し、敷地の約2.2パーセントにあたる[22]。地域の近代史において飛行場は重要な存在であることから、古代・中世以前の遺構だけでなく、飛行場開設前後の近代遺構も調査が行われた[23]

飛行場の造成土の下からは強制買収される前に存在した田畑や暗渠が検出され、造成時のトロッコの枕木で畑の畝が潰された列が続いている場所や轍もあった[24]。また、戦後に農耕地になる中で埋設された土管も出土した[25]

戦争当時の状況を知ることができる戦争遺跡として貴重なものであるが、飛行場の敷地面積が広大で、多くが私有地であることにより、史跡指定および記念公園などの整備は困難とされている。

映画[編集]

2014年、地元に住む鈴木越夫が戦争体験者の証言を集めた『陸軍前橋(堤ケ岡)飛行場と戦時下に生きた青少年の体験記』が出版された[26]。2018年には残された日記と証言をもとにした記録映画「陸軍前橋飛行場 私たちの村も戦場だった」が、飯塚俊男を監督として制作された[27]

年表[編集]

  • 1943年5月19日 地元に飛行場建設と予定地の強制買収を通知。
  • 1943年8月1日 工事開始の通知。
  • 1944年2月15日 飛行場試験飛行。数機の戦闘機が着陸。
  • 1944年8月1日 飛行場完成。宇都宮飛行学校前橋教育隊開設。
  • 1944年10月9日 教育隊閉鎖。熊谷飛行学校前橋分教場開設。
  • 1944年11月1日 飛行場警備のため、13323部隊堤ヶ岡隊創設。
  • 1945年2月9日 前橋分教場閉鎖。
  • 1945年2月15日 中島飛行機製作所分工場開設。
  • 1945年3月 特攻隊訓練。
  • 1945年7月10日 米軍艦載機空襲。
  • 1945年10月16日 米兵20名が来場。
  • 1949年2月1日 飛行場地区農地売却開始。
  • 1951年11月 農地売却完了。
  • 2000年4月1日 - 2003年9月30日 棟高辻久保遺跡の発掘調査。
  • 2018年 映画「陸軍前橋飛行場 私たちの村も戦場だった」公開。

脚注[編集]

  1. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、4頁。
  2. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、11頁。
  3. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、16 - 22頁。
  4. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、22頁。日本統治時代の朝鮮人徴用に関わる。
  5. ^ a b c 菊池実『戦争遺跡の発掘』、23頁。
  6. ^ a b c 菊池実『戦争遺跡の発掘』、18頁、47頁。
  7. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、18頁、47 - 48頁。
  8. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、49 - 52頁。
  9. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、57頁
  10. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、64頁
  11. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、66 - 67頁
  12. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、68頁。
  13. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、77 - 84頁。
  14. ^ a b 菊池実『戦争遺跡の発掘』、87頁
  15. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、91頁。
  16. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、80頁。
  17. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、13頁、15 - 16頁。
  18. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、23頁。
  19. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、66頁。
  20. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、44 - 45頁。
  21. ^ a b 菊池実『戦争遺跡の発掘』、24頁。
  22. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、25頁。
  23. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、28頁。
  24. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、25 - 36頁。
  25. ^ 菊池実『戦争遺跡の発掘』、90頁。
  26. ^ 『朝日新聞』2018年8月18日ウェブ版「「風化」と闘い証言400人 体験集の出版続ける」。
  27. ^ 『朝日新聞』2018年7月5日付ウェブ版、「「改ざんとか黒塗りとかとは違う映画」完成」。

参考文献[編集]

  • 菊池実『戦争遺跡の発掘 陸軍前橋飛行場』(シリーズ「遺跡を学ぶ」047)、新泉社、2008年、ISBN 978-4-7877-0837-3。
  • 菊池実「陸軍前橋飛行場物語(1) - (4)」、財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団発行『研究紀要』 22 - 25』 2004年 - 2007年、ISSN 0289-7830。