加登川幸太郎

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加登川 幸太郎(かとがわ こうたろう、1909年明治42年)7月7日[1][2] - 1997年平成9年)2月12日[2])は、日本の陸軍軍人、戦史研究家。最終階級は陸軍中佐[2]

経歴[編集]

北海道出身[2][3]屯田兵・農業、加登川春吉の長男として生まれる[2]。旭川中学校(現北海道旭川東高等学校)を経て、1930年(昭和5年)7月、陸軍士官学校(42期)を卒業し、同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第25連隊付となる[2][3]。1938年(昭和13年)5月、陸軍大学校(50期)卒業後、戦車学校教官に就任した[2][3]

その後、北支那方面軍参謀を務め、太平洋戦争時には陸軍省軍務局軍事課員、第2方面軍第35軍第13軍参謀としてニューギニアの戦いレイテ島インドシナ、中国を転戦し中佐で敗戦をむかえる[2][3]。1946年(昭和21年)7月に復員した[2]

1947年から1950年までGHQ戦史課に勤務し、その後1952年から1967年まで日本テレビに勤務し編成局長[2]。並行して戦史研究家として著作に取り組む。主な著作に帝国陸軍機甲部隊、戦車、三八式歩兵銃やサンケイの二次大戦シリーズやドイツ装甲師団とグーデリアンなど特に機甲部隊に関係する著書や訳書を数多く遺した。日本戦車の父原乙未生や海上護衛戦の海上護衛総司令部の大井篤とも交友があり、日本の戦車の運用方法に疑問を持っていたとされている。

脚注[編集]

  1. ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 2 (学術・文芸・芸術篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、304頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本陸海軍総合事典』第2版、43頁。
  3. ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』493頁。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。