加藤健 (野球)
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読売ジャイアンツ 三軍バッテリーコーチ #105 | |
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![]() 巨人選手時代 | |
基本情報 | |
国籍 |
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出身地 | 新潟県北蒲原郡聖籠町 |
生年月日 | 1981年3月23日(39歳) |
身長 体重 |
186 cm 93 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1998年 ドラフト3位 |
初出場 | 2000年9月27日 |
最終出場 | 2016年7月3日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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加藤 健(かとう けん、1981年3月23日 - )は、新潟県北蒲原郡聖籠町出身の元プロ野球選手(捕手)。
現役時代の愛称は「カトケン」。
現在は読売巨人軍の三軍バッテリーコーチ。
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
新潟県立新発田農業高等学校時代には、対外試合で通算15本塁打を記録。3年生だった1998年の夏には、富樫和大とのバッテリーで、新潟県代表として第80回全国高等学校野球選手権大会に出場した。しかし、初戦に当たる2回戦で、和田毅のいた島根県立浜田高等学校に敗れた。
大会終了後のプロ野球ドラフト会議で、読売ジャイアンツから3位で指名。契約金6,500万円、年俸480万円(金額は推定)という条件で入団した。入団当初の背番号は56。
巨人時代[編集]
入団2年目の2000年に、9月27日の対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)6回裏から、捕手として一軍デビュー。その後も一軍公式戦2試合に出場したが、初安打を記録できずにシーズンを終えた。
2001年のフレッシュオールスターゲームにイースタン・リーグ選抜としてスタメンで出場。当時チームメイトだった上野裕平とバッテリーを組んだ。2002年には2試合に出場するも無安打に終わるなど一軍に定着できず、2005年にはイースタン・リーグで打率.289・5本塁打で二軍の成績を収めた。
2006年は4年ぶりに一軍出場を果たすと、同年6月11日の対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)でようやく一軍初安打を記録した。その後も少ない出場機会ながら打率.294を記録、同年オフにはハワイ・ウィンターリーグへ派遣されることが決まった。
2007年からは正捕手・阿部慎之助に次ぐ2番手として開幕一軍入りを果たす。出場試合の少なさは変わらなかったものの、同年9月21日の対横浜ベイスターズ戦(東京ドーム)では負傷していた阿部に代わって先発出場、寺原隼人からプロ初本塁打を放って勝利に貢献した。
2008年は開幕前に左肩を骨折したことで出遅れるも、開幕から控え捕手として一軍入りを果たした。この年に開催される北京オリンピックに阿部が出場することを見越し、同年6月に横浜ベイスターズから鶴岡一成が加入すると、経験・打撃力などで上回る鶴岡に次ぐ第3の捕手としてチームを支えた。この年は前年に並ぶ28試合に出場し、2008年の日本シリーズにおいても阿部の代わりに5試合に出場するなど、プレーオフでは自身最多の出場機会を得た。同年オフに上原浩治がボルチモア・オリオールズへ、二岡智宏が北海道日本ハムファイターズへそれぞれ移籍したことで、翌年からは1998年ドラフト指名選手で最後の読売ジャイアンツ所属選手となった。
2009年はオープン戦において低迷したことで完全に出遅れ、同年7月3日に昇格した。その後、9月20日に抹消されるまでに13打席において2死球を受け、負傷退場も経験するなど苦難の年となった。特に2009年9月4日の対ヤクルト戦(東京ドーム)においては、延長11回に高木啓充から頭部に死球を受けて交代したが、この時すでに巨人は加藤以外に捕手登録されていた阿部慎之助・鶴岡一成をすでに交代させており、急遽捕手経験のある木村拓也が捕手を務めるという事態も発生した(詳細は木村の項を参照)。
2010年は捕手として1試合の出場、さらに守備機会も無かったが、2011年は開幕前に阿部が負傷離脱したことで、開幕2戦目となった4月13日の対東京ヤクルトスワローズ戦(東京ドーム)では内海哲也とバッテリーを組んで7回途中無失点に抑え、4月15日の東京ヤクルトスワローズ戦(東京ドーム)では澤村拓一の初登板・初先発でバッテリーを組んだ。
2012年は、レギュラーシーズンでの出番は限られたが、11月1日の日本シリーズ第5戦には阿部の負傷もありスタメン出場。この試合の4回表の攻撃時、日本ハムの投手多田野数人が投じたボールに加藤はバントの構えから大きくのけぞり、倒れて頭を押さえた。主審の柳田浩一は当初ファウルボールと判定していたが、その後この投球が加藤の顔に当たったとして「死球」と判断し、多田野は危険球により退場となった。しかし、リプレイの映像では投球は加藤の頭には当たっておらず、評論家からはこの判定を疑問視する声があがっており、加藤が死球を装ったのではないかという疑義も持たれた[1][2]。加藤は後に「ベンチに戻って映像を見たら当たっていなかったです。ボールが顔にめがけてきて、”当たった”と思っているから目もつぶっている」「何が起きたかわからず、その場に倒れてしまいました」「顔にボールが来ていたし、バントの構えからよけようとしたバットがヘルメットに当たったんだと思います」と述べたが、映像ではバットがヘルメットに当たっていない[3]。(詳細は柳田浩一#誤審騒動も参照)2012年のアジアシリーズ制覇にも貢献。
2015年は、阿部の一塁手転向や相川亮二の骨折離脱もあり出番が増加し、2度の猛打賞もマークするなど35試合出場・18安打はプロ17年目にして自己最多を記録した。ジャイアンツ時代は實松一成、矢野謙次、杉内俊哉、村田修一と共に松坂世代を盛り上げた。
2016年には、小林誠司が一軍の正捕手に定着したことなどを背景に、一軍公式戦への出場機会が再び減少。通算では、わずか2試合の出場に終わった。球団では、加藤を翌2017年の戦力構想から外すことを前提に、加藤に対してスタッフへの転身を打診。しかし、加藤自身が現役生活を続けることを希望したため、球団は10月17日に加藤へ正式に戦力外を通告。事実上の退団に至った[4]。1990年代にドラフト会議での指名を経て巨人へ入団してから、同球団で現役生活を続ける選手は、加藤の退団によって1人もいなくなった[5]。加藤自身は、NPB他球団での現役続行を求めて、11月12日に12球団合同トライアウト(阪神甲子園球場)へ参加。捕手として参加した4選手では最年長(35歳)であったが、シートバッティング形式の対戦で、5人の投手に対して5打数1安打2三振という結果を残した[6]。12月中旬まで練習を継続したが、NPB他球団から獲得のオファーを受けるまでには至らず、2017年1月に現役を引退した[7]。
現役引退後[編集]
現役引退を決意した直後に、「18歳でプロに入ってから、故郷の新潟に何も恩返しができていなかったので、(引退を機に)何か恩返しをしたい」という抱負を披露[7]。2017年1月16日には、ベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)の新潟アルビレックス・ベースボール・クラブが、加藤を球団社長補佐として採用することを発表した[8]。採用後の同年2月からは、新潟球団が手掛ける「野球塾」で少年野球を指導するかたわら、チーム編成などのフロント業務にも携わる[9]。
2019年は、非常勤ながら総合コーチを兼務した。2019年シーズン終了後の10月24日に、今シーズンでの退団が発表された[10]。
2020年からは現役時代に所属した巨人に戻り、三軍バッテリーコーチを就める[11]。
選手としての特徴・人物[編集]
巨人時代には、自身の2年後(2001年)に入団した阿部が長らく正捕手に君臨。その影響で、実働18年ながら、一軍公式戦への出場は通算で185試合にとどまった。しかし実際には、「困った時のカトケン」と呼ばれるほど、2番手捕手としてチームに貢献。2016年のイースタン・リーグ最終戦では、球団から事実上の引退勧告を受けていたにもかかわらず、堤辰佳ゼネラルマネジャーの計らいで長男との「親子バッテリー」による始球式が実現した[7]。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2000 | 巨人 | 3 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
2002 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
2006 | 19 | 40 | 34 | 2 | 10 | 0 | 0 | 0 | 10 | 3 | 0 | 0 | 2 | 1 | 2 | 0 | 1 | 9 | 1 | .294 | .342 | .294 | .636 | |
2007 | 28 | 25 | 21 | 2 | 4 | 0 | 0 | 1 | 7 | 7 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | 4 | 3 | .190 | .240 | .333 | .573 | |
2008 | 28 | 38 | 36 | 2 | 7 | 1 | 0 | 1 | 11 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 9 | 1 | .194 | .216 | .306 | .522 | |
2009 | 12 | 13 | 10 | 2 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 3 | 0 | .200 | .385 | .300 | .685 | |
2010 | 4 | 3 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
2011 | 21 | 39 | 33 | 1 | 5 | 1 | 0 | 1 | 9 | 5 | 0 | 0 | 1 | 0 | 5 | 3 | 0 | 10 | 3 | .152 | .263 | .273 | .536 | |
2012 | 13 | 20 | 19 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .158 | .200 | .158 | .358 | |
2013 | 12 | 31 | 28 | 2 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 4 | 2 | .214 | .290 | .250 | .540 | |
2014 | 6 | 12 | 10 | 1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 4 | 0 | .400 | .500 | .400 | .900 | |
2015 | 35 | 83 | 75 | 3 | 18 | 3 | 0 | 0 | 21 | 3 | 0 | 0 | 2 | 2 | 4 | 0 | 0 | 24 | 2 | .240 | .272 | .280 | .552 | |
2016 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:13年 | 185 | 308 | 273 | 17 | 59 | 7 | 0 | 3 | 75 | 24 | 0 | 0 | 6 | 5 | 20 | 3 | 4 | 71 | 12 | .216 | .275 | .275 | .554 |
年度別守備成績[編集]
年 度 |
捕手 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
捕 逸 |
守 備 率 |
企 図 数 |
許 盗 塁 |
盗 塁 刺 |
阻 止 率 | |
2000 | 3 | 7 | 2 | 0 | 1 | 0 | 1.000 | 2 | 2 | 0 | .000 |
2002 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 0 | 0 | 0 | - |
2006 | 17 | 77 | 8 | 0 | 1 | 0 | 1.000 | 3 | 2 | 1 | .333 |
2007 | 24 | 49 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 3 | 2 | 1 | .333 |
2008 | 21 | 87 | 6 | 2 | 0 | 0 | .979 | 13 | 10 | 3 | .231 |
2009 | 10 | 27 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 2 | 2 | 0 | .000 |
2010 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 0 | 0 | 0 | - |
2011 | 19 | 72 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 3 | 3 | 0 | .000 |
2012 | 13 | 38 | 11 | 1 | 0 | 0 | .980 | 5 | 3 | 2 | .400 |
2013 | 12 | 59 | 6 | 1 | 1 | 0 | .985 | 6 | 4 | 2 | .333 |
2014 | 6 | 18 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 2 | 2 | 0 | .000 |
2015 | 32 | 139 | 12 | 1 | 4 | 2 | .993 | 22 | 19 | 3 | .136 |
2016 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 0 | 0 | 0 | - |
通算 | 161 | 576 | 54 | 5 | 7 | 2 | .992 | 61 | 49 | 12 | .197 |
記録[編集]
- 初出場:2000年9月27日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場)、6回裏に捕手で出場
- 初打席:同上、8回表に五十嵐亮太の前に空振り三振
- 初先発出場:2000年9月29日、対ヤクルトスワローズ27回戦(明治神宮野球場)、8番・捕手で先発出場
- 初安打:2006年6月11日、対千葉ロッテマリーンズ6回戦(千葉マリンスタジアム)、4回表に渡辺俊介から左前安打
- 初打点:2006年6月20日、対東北楽天ゴールデンイーグルス6回戦(東京ドーム)、2回裏に一場靖弘から中犠飛
- 初本塁打:2007年9月21日、対横浜ベイスターズ21回戦(東京ドーム)、7回裏に寺原隼人から左中間越3ラン
背番号[編集]
- 56 (1999年 - 2008年)
- 40 (2009年 - 2016年)
- 90 (2019年秋季キャンプのみ)
- 105 (2020年 - )
登場曲[編集]
- 「Power To The People」John Lennon( - 2009年、2010年)
- 「The Best Damn Thing」Avril Lavigne(2009年 - 2010年)
- 「Check It Out」Will.i.am & Nicki Minaj(2011年)
- 「Alright!!」Superfly(2011年)
- 「We never give up!」Kis-My-Ft2(2012年 - 2016年)
- 「Everybody Go」Kis-My-Ft2(2012年 - 2016年)
著書[編集]
- 松坂世代の無名捕手が、なぜ巨人軍で18年間も生き残れたのか(2017年11月竹書房)、ISBN 9784801912861
脚注[編集]
- ^ 落合一郎 (2012年11月2日). “日本シリーズで世紀の大誤審! 巨人・加藤が名!?演技”. リアルライブ 2013年1月2日閲覧。
- ^ “張本勲氏「演技はみんなやるんですよ」 球審には「喝!」”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2012年11月4日) 2013年1月2日閲覧。
- ^ “引退した元巨人・加藤健が語る、18年の控え捕手人生と「あの死球」”. web Sportiva (集英社). (2017年2月10日) 2017年2月11日閲覧。
- ^ “加藤健、巨人から戦力外も笑顔絶やさず 19年目の“白球追う日々”心待ち”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2016年10月29日) 2016年11月16日閲覧。
- ^ “【巨人】加藤健に戦力外通告 90年代ドラフト指名の現役選手ゼロに”. スポーツ報知. (2016年10月17日) 2016年11月16日閲覧。
- ^ “65人が参加/12球団合同トライアウト詳細”. 日刊スポーツ. (2016年11月12日) 2016年11月13日閲覧。
- ^ a b c “愛された巨人加藤健引退「阿部さんいたからやれた」”. 日刊スポーツ. (2017年1月5日) 2017年1月5日閲覧。
- ^ “加藤健氏球団社長補佐就任のお知らせ”. 新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ. (2017年1月16日) 2017年1月16日閲覧。
- ^ “元巨人の加藤健氏、BC新潟の社長補佐に就任”. 日刊スポーツ. (2017年1月16日) 2017年1月16日閲覧。
- ^ 加藤健球団社長補佐兼総合コーチ退任のお知らせ - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2019年10月24日)
- ^ “阿部慎之助氏、巨人2軍監督に就任 来季スタッフ発表”. 日本経済新聞. (2019年10月29日) 2020年2月10日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 加藤健 - NPB.jp 日本野球機構
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