勇払郡

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北海道勇払郡の位置(1.厚真町 2.安平町 3.むかわ町 4.占冠村 黄:明治期)

勇払郡(ゆうふつぐん)は、北海道胆振国胆振総合振興局上川総合振興局

人口22,287人、面積1,924.54km²、人口密度11.6人/km²。(2018年9月30日、住民基本台帳人口)

以下の3町1村を含む。

胆振管内

上川管内

郡域[編集]

1879年明治12年)に行政区画として発足していた当時の郡域は、上記3町1村に苫小牧市を加えた区域にあたる。

歴史[編集]

郡発足までの沿革[編集]

日本書紀』には斉明天皇5年(659年)3月に阿倍比羅夫が胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷(えみし)を饗応したとあり、後に新井白石は胆振鉏は勇払郡域(ユウフツ場所)に当たるとの説を唱えている[1]#外部リンクも参照)。

江戸時代の勇払郡域は東蝦夷地に属し、松前藩によってユウフツ場所が開かれ、交易の拠点や藩の出先機関の機能もある運上屋では住民の撫育政策であるオムシャも行われた(場所請負制も参照)。また、苫小牧には北前船が寄航することもあった。陸上交通は、渡島国箱館を基点とし道東千島国方面に至る陸路(苫小牧以西は札幌本道国道36号、苫小牧以東は国道235号の前身)が東西に、また文化年間には勇払から北の千歳に至る千歳越が通じていた。

江戸時代後期、国防のため寛政11年(1799年)勇払郡域は公儀御料(幕府直轄領)とされ、翌12年には八王子千人同心原胤敦の弟・新助の一行が移住し、苫小牧市の基礎を築いた。享和元年(1801年)、伊能忠敬が沿岸部を測量。文政4年(1821年)には一旦松前藩領に復した。また、恵比須神社の前身の蛭子神社嘉永3年(1850年)よりも前の創建である。安政2年(1855年)勇払郡域は再び天領となり仙台藩が警固をおこなった。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年8月15日大宝律令国郡里制を踏襲して勇払郡が置かれた。

郡発足以降の沿革[編集]

北海道一・二級町村制施行時の勇払郡の町村(9.苫小牧村 10.厚真村 11.安平村 12.鵡川村 13.似湾村 14.占冠村 赤:むかわ町 青:区域が発足時と同じ町村)

注釈[編集]

  1. ^ 北海道歴史家協議会編「歴史家―第四号」河野廣道 問菟=苫小牧近くの竹浦、胆振鉏=勇払又は江別などの説もある

参考文献[編集]

関連項目[編集]