北条時有

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北条 時有(ほうじょう ときあり、生年不明 - 正慶2年/元弘3年(1333年5月))は、鎌倉時代末期の武士。北条氏名越流従五位下左近将監遠江越中守護名越時有とも表記される。父は北条公時の子である公貞。子に時兼。弟に有公、貞昭。

正応3年(1290年)、時有は越中国守護所として放生津城を築城する。正慶2年/元弘3年(1333年)、隠岐から脱出し鎌倉幕府打倒を掲げて後醍醐天皇が挙兵した際、時有は前年に射水郡二塚へ流罪となり気多社へ幽閉されている後醍醐の皇子・恒性皇子が、出羽越後の反幕府勢力に擁立され北陸道から上洛を目指しているという噂を聞きつけた14代執権北条高時から、皇子の殺害を命ぜられる。時有は名越貞持に皇子や近臣であった勧修寺家重・近衛宗康・日野直通らを暗殺させた。

同年、新田義貞足利高氏らの奮闘で反幕府勢力が各地で優勢となり六波羅探題が陥落すると、越後や出羽の反幕府勢力が越中へ押し寄せ、また、井上俊清を初めとする北陸の在地武士も次々と寝返り、時有ら幕府方は追い込まれていく。二塚城での防戦を諦めた時有は弟の有公、甥の貞持と共に放生津城へ撤退するも、脱走する兵が相次いだ。

放生津城の周りは、一万余騎に囲まれ進退が行き詰った。時有は、妻子らを舟に乗せ奈呉の浦(現射水市)で入水させた。それを見届けた後、城に火を放ち自刃している。一連の様子は、後に太平記にて記されている[1]

脚注[編集]

  1. ^ 富山県公文書館 『とやまの歴史』 富山県、1998年、p44-45。

参考文献[編集]

  • 太平記』(巻十一 越中守護自害事付怨霊事)
  • 『国文学作品から見た日本のもみじ観とその成立過程』(歴史文化社会論講座紀要 西尾理恵著)

関連項目[編集]