十文字貴信

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十文字 貴信
Takanobu Jūmonji
Cycling (road) pictogram.svg
個人情報
本名 十文字 貴信
じゅうもんじ たかのぶ
生年月日 (1975-11-10) 1975年11月10日(43歳)
国籍 日本の旗 日本
身長 177㎝
体重 83㎏
チーム情報
所属 日本競輪選手会茨城支部
期別 日本競輪学校第75期生
分野 競輪 & トラックレース
役割 選手
特徴 先行・捲り → 追込
アマ所属チーム
茨城県立取手第一高等学校
プロ所属チーム
1995 - 2019
日本競輪選手会茨城支部
グランツール最高成績
 
獲得メダル
男子 自転車競技トラック
1996 1kmタイムトライアル
最終更新日
2019年1月16日

十文字 貴信(じゅうもんじ たかのぶ、1975年11月10日 - )は、元競輪選手自転車競技選手。現在の千葉県野田市出身。現役時代は日本競輪選手会茨城県支部所属[1]。師匠は川村恵三[1]日本競輪学校第75期[1] 卒業。初出走は1995年4月8日宇都宮競輪場[1]。初勝利は同年4月24日の小倉競輪場[1]

来歴[編集]

小学生時代にレスリングを始め、小・中学校時代に3回全国大会で優勝した。しかし「レスリングは金にならない」という親戚から助言を受け、茨城県立取手第一高等学校入学後は自転車競技に転向した[2]。取手第一高等学校自転車部では部員の9割が競輪選手を目指すといわれ、十文字自身も「"就職試験"に向けての練習」だと思い自転車競技に取り組んだ[3]。3年時に高校総体で優勝[4] するなどの実績を上げ、日本競輪学校には技能試験免除で入学した。高校時代は30kmの道のり[† 1]を自転車で通学していた[3]日本競輪学校での成績は75人中66番目であったが、先行にこだわっての結果であり、「デビューしちゃえば、すぐに追いつける自信はあった」と十文字は振り返っている[4]

選手としてデビュー後、8か月でS級に特進を果たした[4] 十文字に転機が訪れたのは、1996年に行なわれた全日本プロ選手権自転車競技大会(1000mのタイムトライアル)であった。自転車競技にプロ選手の参加が認められることになった1996年アトランタオリンピックに向け、夏季オリンピックの代表選考会を兼ねたこの大会において、「自転車のセッティングがピッタリ合った」という[6] 十文字は、当時の大会記録を1秒以上更新するタイムで走破し、有力視されていた神山雄一郎吉岡稔真[† 2]を抑えてオリンピック出場権を獲得した[7]。十文字自身は当時、自転車競技で世界に通用する力を得られるのは数年先と認識しており[8]、「行くしかないのか」「タイム的には5位か6位にはなれるだろう」、「とりあえず自己ベストを出して帰ってきたいな」という程度の気持ちでオリンピックに臨んだ[6] が、結果はプロの競輪選手として初の銅メダル獲得というものであった(なお坂本勉がアマチュア時代にロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得している)。

銅メダル獲得により、当時としては中野浩一に匹敵するほど競輪の知名度上昇への貢献を果たしたことから、これ以降、日本自転車振興会および日本競輪選手会は競輪選手を国際大会へ派遣させることに積極的になった。また十文字は、日本自転車振興会など各種関係団体から国内の競輪に出場した場合以上の賞金に値する5千万円の報奨金を贈呈された事でも話題となった。さらにはオリンピックメダリストとなったことで、特例により同年末のKEIRINグランプリにも出場している(ただし接触事故で落車棄権)。ただ、十文字自身は銅メダル獲得後に受けたインタビューにおいて、「競輪と1000mのタイムトライアルは、全く違うもの」、「本職の競輪を辞めてまで、タイムトライアルに打ち込むわけにはいかない」、「仕事を辞めたら、収入がなくなっちゃうじゃないですか」と、自転車競技に対し冷静なスタンスを見せた[9]

帰国後も特別競輪などに出場し、共にオリンピックへ出場した神山雄一郎との連携は「アトランタライン」[10] と名付けられ話題となった。しかし後に持病の腰痛が悪化し、2001年頃にはヘルニアによる神経圧迫で自転車に乗れない状態にまで追い込まれ、1年間も競走から離れてしまうことになり、この症状は後々尾を引いてしまった。

2017年10月2日、富山競輪場でのレースで落車した際にヒザと股関節を骨折する大怪我を負い[11]、それ以降は1年以上にも及ぶ長期欠場が続いていた(2018年は出走なし)。関係者によると、落車による骨折や持病の腰痛の悪化で引退を決意したという[12]。ただ、事前の報道は一切なく、マスコミで報道されたのは既に引退したことが判明してからであった[11][12][13]

2019年1月15日、選手登録消除。通算1512戦186勝、優勝22回。通算獲得賞金5億4305万1400円[12]。引退後は柏市ラーメン屋を営んでいる。

競走スタイル[編集]

タイム記録で国内最高だったことから、先行や捲りのスピードは格別なものがあり、その実力は特別競輪で優勝してもおかしくないほどであった。

しかし腰痛からの復帰後は、身体の負担を軽くするため、実力も戦法もごく一般的な追込とした。

余談[編集]

オリンピックのメダル獲得時、映画の『ジュマンジ』が公開された直後だったことから、外国人プレスから「ジュマンジー、WHO?」などと呼ばれた事があった。また、この時に谷亮子へ声をかけた事から一時期マスコミを中心に噂話が巻き起こった事もあった。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 当時の東葛飾郡関宿町(現:野田市)より常総ふれあい道路を経由し、高校のある取手市台宿まで[5]
  2. ^ 吉岡は十文字の記録について「すごすぎるタイム。力不足でした」とコメントを残した[6]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 『競輪打鐘読本 バンクの"鬼"たちが叫びまくる!』宝島社〈別冊宝島343〉、1997年。ISBN 978-4-7966-9343-1。