千日デパート火災

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千日デパート火災
Sennichi Department Store Building aerial photograph.jpg
火災焼失後の千日デパートビル(1975年3月4日撮影)
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
現場 大阪府大阪市南区難波新地三番町1番地および四番町1番地[1][2][注釈 1]
発生日 1972年(昭和47年)5月13日[3]
22時27分(大阪市消防局推定)[4] (JST)
類焼面積 8763 m2[5]
原因 不明(大阪地方裁判所および大阪高等裁判所判断)[6][7][注釈 2][注釈 3]
死者 118人[8][9][10][11]
負傷者 81人[10][注釈 4]
最高裁判所判例
事件名 業務上過失致死傷事件
事件番号 昭和62(あ)1480
1990年(平成2年)11月29日
判例集 刑集第44巻8号871頁
裁判要旨
  • デパート閉店後に電気工事が行われていたデパートビルの3階から火災が発生し、それによる大量の煙が7階で営業中のキャバレー(アルバイトサロン[注釈 5])の店内に流入したことにより、多数の死傷者が生じた火災において、デパートの管理課長には防火管理者として、3階の防火区画シャッター等を可能な範囲で閉鎖し、保安係員等を工事に立ちあわせ、出火が発生した際には、すぐさまキャバレー側に火災発生を連絡させる等の体制を採るべき注意義務を怠った過失がある[8]
  • キャバレーの支配人には、防火管理者として階下において火災が発生した際に適切に客等を避難誘導できるように普段から避難誘導訓練を実施しておくべき注意義務を怠った過失がある[8]
  • キャバレーを経営する会社の代表取締役には、管理権原者として、防火管理者が防火管理業務を適切に実施しているかどうかを具体的に監督すべき注意義務を怠った過失がある[12]
  • それぞれ業務上過失致死傷罪が成立する[13][14]
第一小法廷
裁判長 大堀誠一[15]
陪席裁判官 角田禮次郎[15]大内恒夫[15]四ッ谷巌[15]橋元四郎平[15]
意見
多数意見 全員一致[15]
意見 なし[15]
反対意見 なし[15]
参照法条
刑法211条
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千日デパート火災(せんにちデパートかさい)は、1972年(昭和47年)5月13日[3]大阪府大阪市南区(現・中央区千日前[16]千日デパート日本ドリーム観光経営、鉄骨鉄筋コンクリート造、建築面積3,770.21平方メートル、延床面積2万7,514.64平方メートル、地下1階、地上7階建て、屋上塔屋3階建て[17][16])で起きたビル火災である[18]。死者118人・負傷者81人[8][9][10][11][19][20]にのぼる日本のビル火災史上最悪の惨事となった[注釈 6]。本件は「千日デパートビル火災[注釈 7]という呼称も使われる[21]。また、地名から「千日前ビル火災[22][23]、「千日前惨事」とも呼ばれた[24][25]

概要[編集]

1972年(昭和47年)5月13日、千日デパートの閉店時刻21時から1時間半ほど経った22時27分ごろ[4]、同デパート3階ニチイ千日前店北東側フロアの布団売場付近より出火した[18][26][27]。火は防火シャッターが閉まっていなかったエスカレーター開口部や階段出入口から上下階に燃え広がり、フラッシュオーバーを起こしながら2階から4階までの範囲に延焼した[18][28]。一方、火災で燃焼した建材や内装材、化繊商品から発生した一酸化炭素と有毒ガスを含んだ多量の煙がエレベーターシャフトや階段、空調ダクトを通じて上層階へ上昇し[29][30]、火災発生当時、7階で営業していたアルバイトサロン[注釈 5]「チャイナサロン・プレイタウン(千土地観光経営)」に流れ込んだ[31][32]。同店内に滞在していた181人[注釈 8]の客やホステス、従業員らは、火災の通報を受けられずに逃げ遅れ、煙に巻かれて7階に取り残された[33]。その結果、一酸化炭素中毒や窓からの飛び降り、救助袋の誤った使用方法によって脱出途中に地上へ落下するなどして死者118人、負傷者81人(プレイタウン関係者47人、消防士27人、警察官6人、通行人1人)を出す被害を出すに至った[8][33][34]。本件火災は、日本のビル火災史上最悪の惨事である[35]

7階からの生還者は、消防隊のはしご車やサルベージシート(救助幕)で救助された者が53人(はしご車50人、サルベージシート3人)[36][37]、階段またはエレベーターを使用するなどして自力で7階から脱出した者が8人(救助袋の上を馬乗りになって降下して助かった5人を含む)[33][37]、7階窓からデパートビル東側の商店街アーケード屋根へ飛び降りて助かった者が2人の合計63人である[37]。大阪市消防局は、管内の全消防車両の3分の1にあたる85台(救急車12台を含む)を消火防御および救助作業に投入した[5][38]。はしご車は、管内保有8台のうち7台が出場した[5][39]。消火作業にあたった消防士は596人にのぼった[5]。火災は翌朝14日5時43分に鎮圧[5]。そして火災発生から9時間14分後の同日7時41分に鎮火と一旦は発表された。しかし、15日未明に6階で再び小火が発生したことから消火および防御活動が再開されたため、最終的に鎮火が確認されたのは15日17時30分であった。延焼範囲は2階から4階までで、床面積合計8,763平方メートルが焼失した[5]

火災の原因は、3階で電気工事を行っていた工事関係者によるタバコの不始末であると推定されたことから[40][41]、火災発生翌日の14日夜、電気工事監督の男が現住建造物重過失失火などの容疑で大阪府警南署に逮捕された[42]。しかしながら、失火の明確な証拠はなく、火災発生時の容疑者の行動が特定できないことや、警察での取り調べに対して供述を二転三転させるなど信用性が疑われたために、電気工事監督の男は不起訴処分となった[43]。のちの防火責任者などに対する刑事裁判の判決理由において、出火原因は不明とされた[7][6]。また日本ドリーム観光・千日デパート管理部の管理部次長と同管理課長[44]、プレイタウンの支配人[44]、プレイタウンの経営会社代表取締役[44]の計4名が防火管理責任と注意義務を怠ったとして業務上過失致死傷罪で起訴された[42]。公判中に死亡したデパート管理部次長(公訴棄却)を除く3名の被告が、それぞれ一審で無罪となった[45]。その後、検察側が控訴し、控訴審で原判決破棄により有罪となり[46]、判決を不服として被告側が上告した。上告審では上告棄却により被告3名の有罪が決定した[47]

本件火災の犠牲者遺族会および千日デパートに入店していたテナント業者団体によって、日本ドリーム観光やニチイなどに対して損害賠償訴訟が提起された[48][49]。また日本ドリーム観光とニチイの双方間でも損害賠償訴訟が起こった(提訴と反訴。最終的に双方の間で和解が成立)[50]。遺族会は、日本ドリーム観光などの被告4社が91遺族に対して総額18億5,000万円の賠償金を支払うことで合意したことを受け、和解に応じた[51]。テナント訴訟は、テナント側が日本ドリーム観光に対して保安管理契約の不履行による損害、休業損失とその補償、商品や資産損失に対する賠償、火災以前と同じ条件で再出店できる保証を求めて争った[52]。その結果、中間判決を経て、求めていた賠償金と保証が一部を除いて認められ[52][53]、新ビルオープンの際には以前と同じ条件で再出店できる保証を日本ドリーム観光に認めさせ、双方の間で即決和解が成立した[54]。テナント側とニチイ間の損害賠償訴訟も双方が和解し、ニチイがテナント側に慰謝料を支払うことで決着した[55]

千日デパートは、大阪でも有数な高地価の千日前交差点の角地にあり[16][56]、家主の日本ドリーム観光は、この地価に見合う賃料収入を確保すべく、多くのテナントを入店させていた[57]。この結果、雑多な店舗の集まりで専門店街を構成する雑居ビルの状態になっており、全館の防火管理責任体制が複雑かつ不明確なものとなっていた。また日本ドリーム観光は、各テナントから付加使用料名目の共同管理費を徴収し[58]、原則として夜間の宿直を認めなかった[59]。これは同社がテナントに対する夜間の保安管理を一括しておこなうことを意味したが[60]、火災発生当日の3階ニチイ千日前店で夜間店内工事がおこなわれた際に、デパート保安係員が工事に立ち会わなかったことから火災発生時に初期消火ができず、防火区画シャッターを閉鎖することもできずに火災を延焼させるなどの防火管理体制に手抜かりがあった。消防署への通報は火災発見から約6分(外部リンク欄の「特異火災事例・千日デパート」参照)と比較的速やかに行われたものの[28]、7階プレイタウンには火災発生の通報と情報がまったく伝わっていなかった[27][39]。火災通報の不手際は、プレイタウン滞在者らの避難行動に大幅な遅れを生じさせ、多数の死傷者を出す根本原因となった[8]。また千日デパートと7階プレイタウンの間で非常時の避難計画を話し合う連絡協議会の設置を行ったことはなく[61]、共同で避難訓練を実施したこともなかった[61]。さらには非常時の連絡体制すら話し合っていなかった[61][62]。千日デパートの防火管理責任組織および自衛消防隊組織に7階プレイタウンを含めておらず、共同防火管理や共同避難の意識は完全に欠落していた[62][63]。7階プレイタウンについては、火災時に防火管理責任者または従業員らによる避難誘導らしきものはほとんど行われなかった[64]。平素からの避難計画や避難訓練はおざなりで、防火管理責任者(支配人)が下層階で火災が発生した場合を想定して避難経路をあらかじめ決めておくこともしていなかった[27]

さらに千日デパートビル自体は、1932年(昭和7年)に劇場として竣工した大阪歌舞伎座を1958年(昭和33年)に大改装し、商業施設に用途変更した古い建物であるが[16]、1950年(昭和25年)制定の建築基準法の基準に従い、法律の遡及適用の対象になったことから改築の際に法令の基準を満たす改良が施された[65][注釈 9]。それにより1958年開業当初の千日デパートビルは、建築基準法令に適合していた建物であったが[65][66][注釈 9]、法律の改正が第二次(1959年4月)から第四次(1963年7月)へと段階的に実施されていくたびに既存不適格な部分が増えていった[67]。さらに、1970年(昭和45年)6月の建築基準法改正(第五次改正)および同年12月の建築基準法施行令の一部改正によって、従来よりも既存不適格な状態が多く生じることになった[67]。また消防法および消防法施行令においても既存不適格な状態を多く抱えていた[67]。それらの結果、売場内の防火区画シャッターは自動で作動するものではなく[66]、火元の3階で保安係員が防火区画シャッターを手動で降下できなかったことや[68]スプリンクラー設備が未設置であったことで火災の延焼や煙の拡散を防ぐことができず[69]、火災被害が拡大する要因となった。本件火災と翌年起きた大洋デパート火災の出火建物が建築基準法と消防関連法規に対し既存不適格であったことにより、建築基準法および消防法、消防法施行令、消防法施行規則の大幅な改正が行われる契機となった[70][71]

当記事では、冒頭で千日デパートおよび千日デパートビルについて、火災によって多くの犠牲者を出した7階プレイタウンについて説明を加える。

千日デパートについて[編集]

千日デパートは、1958年(昭和33年)12月1日に大阪ミナミの繁華街千日前の千日前交差点・南西角に建っていた初代大阪歌舞伎座を改築し、新装開業した複合商業施設である[16]。経営者は日本ドリーム観光(1958年12月当時の社名は千土地興行。1963年に改称)で[16]、個人店舗が数多く出店して専門店街を形成し、そのほかに劇場、オフィス、催事場、飲食店、遊技場、キャバレーなどがテナントとして入居していた[16]。なおデパートと名乗っているが、旧百貨店法の百貨店業を営む者または百貨店業者には該当しない[16][72]。火災焼失の1972年(昭和47年)5月14日から全館休業状態になった[73]。その後、一度も営業を再開することなく、1980年(昭和55年)1月14日に千日デパートビルの取り壊しが決まり[74]、千日デパートは、13年5か月あまりの歴史に幕を降ろすこととなった[74]

千日デパートの開業[編集]

1954年(昭和29年)に千土地興行(日本ドリーム観光の前身)の社長に就任した松尾國三は、その当時において不採算に陥っていた大阪歌舞伎座大阪楽天地[75]の跡地に1932年(昭和7年)9月28日竣工)を閉鎖して新たに新歌舞伎座を難波駅近くの難波新地5番町に建設し[76]、空いた旧大阪歌舞伎座の建物を改造して商業施設に改装する構想を立てた[76]アシベ名店街の成功によって自信を持った松尾は、新装開業させる商業施設を心斎橋の既存百貨店に匹敵する小売店舗の集合ビルにするべく計画をスタートさせた[76]。新しい商業施設は、新歌舞伎座開業予定の1958年(昭和33年)10月に続き、同年12月の開業を目指すこととなった[76]。これが千日デパート誕生のきっかけである。開業前は日本初の大規模ショッピングセンターと銘打ち[77]、当初テナントから賃料と保証金および付加使用料(共同管理費)を徴収する賃貸方式で経営を予定していたため、小売店舗の集合ビルという意味で千日センターと呼ばれるはずだった[78]。ところがテナントの募集に対して応募が低調だったことから、商業施設側が売場を直接経営し、入店するテナントに売場の営業権を与え、商品を納入させて売り上げ金の一定割合をテナントから徴収する納入方式に変更することにした[79]。このことにより名称を千日デパートへ変更して営業する運びとなった[79]。1958年12月の開業当初より千日デパート管理株式会社が営業と管理を担当した。1964年(昭和39年)5月以降は、日本ドリーム観光の本社組織内に千日デパート管理部を創設し、以降の経営を担っていた。開店当初の営業形態は、地下1階から地上5階までを商業施設、6階を演芸場千日劇場と食堂、7階を大食堂、屋上は遊戯施設としていた[要出典]。営業時間は10時から22時までだった[80]。千日デパートは「まいにちせんにち、千日デパート」のコマーシャルソングで知られ[要出典]、また屋上に1960年(昭和35年)から設置された観覧車は大阪の名物となっていた。ビル正面には丸にS(Sen-nichiから)の緑色のマークが掲げられ、千日デパートのシンボルとなっていた[81]

ニチイ入店[編集]

千日デパートは、日本初の大型ショッピングセンターとして話題を呼び[82]、開店当初は売り上げが好調だった。年中無休で元日から営業するなど買物客から人気を集めた[82]。だが、しばらくすると開店景気も落ち、全体の売り上げは下降線を辿った[82]。そこへ1967年(昭和42年)3月、大手衣料品スーパーニチイ[注釈 10]が4階にテナントとして出店することになった[82]。1958年の開業以来、初の大型テナントの入店である。ニチイ入店の3か月前、すべてのテナントに対する契約が納入方式から賃貸方式に変更された[83]。既存の4階各テナントは、賃料と保証金および付加使用料の新たな支払い契約に応じず、4階フロアから撤退し、4階売場のすべてをニチイが独占してニチイ千日前店として営業を始めた[83]。その後にニチイは、同年10月に3階にも出店して大成功を収め、その売り上げは全国のニチイの中で一番になり、千日デパート全体の売り上げも相乗効果で上昇した[82]。なお、3階既存テナントの一部は、開業当初からの賃貸契約業者だったためにデパート側からの立ち退き要請に応じず裁判となったが、のちにデパート側との間で和解が成立し、同階から立ち退かずに引き続き同じ場所での営業が認められた[84]

火災発生当日の千日デパート[編集]

1972年(昭和47年)5月13日(土曜日)の火災発生当日における千日デパートのおもな営業状況は、地下1階は食品館、飲食店、直営催事場(人形館)、お化け屋敷と喫茶店を組み合わせた「サタン」(千土地観光経営)[要出典]、1階と2階は計126店舗が出店する専門店街[85]、3階と4階はニチイ千日前店[85]、5階は千日デパート直営の100円・200円均一スーパー[86]、6階は遊技場千日劇場跡)[85]、7階はアルバイトサロン[注釈 5]プレイタウン(千土地観光経営)[85]、屋上は観覧車とモノレールを据えた遊園地、売店、ペットショップ、園芸店などとなっていて、その他に歯科医院や美容室、企業事務所が数社入居していた[86]。以上のように同デパートには雑多なテナントが入居し、同じ商業施設内でも各売場ごとに営業者が異なる雑居ビル寄合百貨店)の状態となっていた[87][88]。テナントの総数は176店舗だった(企業事務所を含む)[89]。この出店営業形態は、1958年に同デパートが開業して以来、変わらずに続いていたものであり、1967年(昭和42年)9月には火災当日の使用状態において貸店舗としての建築確認を済ませていた[67]。営業時間は10時から21時までで、定休日は水曜日だった[90]。7階「プレイタウン」は、デパート閉店時刻以降も館内で唯一営業しているテナントであり、23時まで営業していた。なお「プレイタウン」は年中無休であった[91]

火災発生当日は、母の日の前日ということで、デパート正面にはニチイ千日前店の「母の日」商戦の宣伝用垂れ幕「5月14日は母の日です」と「お母様に感謝のプレゼント」が1本ずつ掲げられていた[92]。ほかに「竹雀の帯・和装品2階」と「南太平洋博・奈良ドリームランド」の宣伝用垂れ幕も掲げられていた[92]。ニチイ千日前店は、同デパートのキーテナントということで、ビルの壁面に大掛かりな看板(ビル北側および西側)とネオンサイン(ビル南側)が掲げられていた[93]。また7階「プレイタウン」も主要なテナントの一つであったことから1階専用出入口上部に宣伝用看板とネオンサインが掲げられていた[94]。そのほかに6階および屋上で遊技場と遊園地を営業する「レジャープラザ」のネオンサインも北東正面と北側西寄の2ヵ所に掲げられていた[95]。1階の主要な各テナントは、外周部のシャッターや日除け幕に店舗名を入れていた[96]

館内のイベントとしては、地下1階直営催事場で「恐怖の地下室」と題するスリラー人形展(お化け屋敷)が開催されていた。この催し物は、火災発生当時においては同デパートの目玉企画だったと考えられ、各出入口の上部には宣伝用の看板が掲げられ、人形を使ったディスプレイも用いて大々的に宣伝されていた[93][97][98]。館内にも宣伝用ポスターが主要な場所に貼られ、同イベントに提携して営業されていた「お化け喫茶サタン」の看板も地下出入口上部に掲げられていた[92]。その他のイベントとしては、5階の直営均一スーパーで化粧品メーカーの「100円均一フェア」が開催されており、「スリラー人形展」と同じく正面入口上部に宣伝用の看板が掲げられていた[92][96]

火災発生当日は、館内で2件の工事が行われていた。1件は、ニチイ千日前店の3階と4階の売場改装に伴う電気配線増設工事である。5月22日から一週間かけての本格的な工事を前に5月6日から準備工事が開始されていたもので、火災当日はデパートの開店と同時に3階で工事が始まった。当該工事はデパート営業中にも実施された。進捗状況の関係から閉店後の夜間も工事を行う手筈となっていて、翌朝4時までを予定していた。もう1件は、6階の旧千日劇場跡をボウリング場に改装する工事が4月28日から行われていた。火災当日は22時30分までの予定で工事が進められていた[99][100][101][102]#火災発生当日の館内工事

千日デパートビルについて[編集]

大阪歌舞伎座ビル(後の千日デパートビル)

千日デパートビルは、1932年(昭和7年)9月に竣工した大阪歌舞伎座ビルを1958年(昭和33年)に改築した複合商業ビルである。ビルの構造は鉄骨鉄筋コンクリート屋根構造、地下1階を含む地上7階建てで、屋上に塔屋3階建てを備えていた[103]。建物の所有者は日本ドリーム観光である。床面積は3,796.64平方メートル、延床面積は2万7,514.64平方メートルである[103][86][注釈 11]。ビルの高さは、地上(GL)から屋上フロア側壁上端までが30.1メートル[104]、屋上塔屋3階までを含めると40.3メートルである[104]。5階から屋上までのビル中央部から西側にかけてのフロアは、その大部分が劇場のエリアで[105]、そのエリアの6階と7階部分は、舞台と客席につき吹き抜け構造になっていた[104]。また劇場エリアの5階部分は客席の床下ピット[104]、屋上部分は舞台と客席の屋根であった[104][106]。ビルの2階から6階までの北西フロアは、D階段とE階段の間に囲まれたL字型のエリアが中二階構造になっており、独立した別フロアを形成していた[107]。本ビルは、火災発生当時(1972年5月)における消防法施行令防火対象物区分では特定防火対象物4項に分類されていた[注釈 12][注釈 13][108]。火災焼失後は約8年の期間、営業再開もされずに外壁には金網が張りめぐらされ野晒し状態のまま放置されていたが[109]、1980年(昭和55年)1月14日に千日デパートビルの取り壊しが決まり、翌2月から解体工事が始まった[74]。翌年4月には解体工事が完了し、千日デパートビルは消滅した。1982年(昭和57年)6月20日、跡地に日本ドリーム観光が新たにエスカールビル(地下2階、地上9階建)を建設する運びとなり、その起工式が執り行われた[110]。そして1984年(昭和59年)1月13日に新しいビルはオープンし、その翌日にプランタンなんばの営業が始まった[111]


千日デパートビルのフロア構成[編集]

火災発生当時のフロア構成を以下のとおりである。太字は本件火災に関係するテナントまたは設備を表す。

火災発生当時・1972年(昭和47年)5月13日の千日デパートフロア構成[112][88][113][注釈 11]
フロア 床面積(平方メートル) テナント・設備など
塔屋3階 134.00 企業事務所 電気室 クーリングタワーなど
塔屋2階 156.00 企業事務所 エレベーター機械室など
塔屋1階 200.00 売店 園芸店 ペットショップなど計5店舗
屋上 1,290.00 屋上遊園地など
7階 1,780.00 プレイタウン 空き事務所(元メキシコ領事館) 文書保管庫 空調機械室など
6階 3,350.00 遊技場(ゲームセンター) 千土地観光事務所 千日劇場跡(ボウリング場へ改装中) 従業員食堂など
5階 2,049.00 直営均一スーパー(9店舗) 全国の物産と観光センター 美容室 ニチイ商品管理室 ニチイ店員食堂など
4階 3,520.00 ニチイ千日前店 ニチイ事務所 ニチイ商品倉庫 電話交換室 空調機械室など
3階 3,665.00 ニチイ千日前店 店舗(4店舗) 歯科医院 ニチイ従業員更衣室 ニチイ寝具呉服倉庫 空調機械室など
2階 3,714.00 店舗(44店舗) 千日デパート事務所 店舗事務所 テナント店員更衣室など
1階 3,796.64 店舗(63店舗) 外周店舗(19店舗) 出入口(7か所) 保安室 商品荷捌き場など
地下1階 3,860.00 ニチイ地下食品街 食料品店・飲食店(25店舗) 直営催事場(人形館) プレイタウン専用エレベーターホール 出入口(1か所) 電気室 機械室 重油タンクなど
合計 27,514.64 入居テナント数=176店舗(千日デパート直営店舗と企業事務所を含む)


特筆すべき点は以下のとおりである。

  • 7階プレイタウンを含む各テナントは、千日デパートからフロアを賃借して賃料と保証金を納めて営業していた「賃貸業者」であるが、地下1階の催事場(人形館)と5階均一スーパーは千日デパートの直営である[103]
  • 千日デパートの管理権原者は、同デパートの店長である[114]。店長は日本ドリーム観光本社の常務取締役の地位にあり、本社総務部長、本社営業企画課長も兼務していた[114]。普段は本社で勤務しており、千日デパート2階に置かれたデパート管理部には週1回程度、短時間顔を出す程度だった[114]。実質的に千日デパートビルの維持管理を統括し、防火管理や設備維持などの業務を担当していたのはデパート管理部次長である[115]。また同デパートビルの防火管理者に選任されていたのはデパート管理部管理課長である[116]。同管理課長は、1967年(昭和42年)3月1日から1968年(昭和43年)10月ごろまでと、1969年(昭和44年)4月30日から本件火災当日まで防火管理者の地位に就き、店長および管理部次長の指揮監督を受け、同ビルの防火管理にあたっていた[114]
  • 千日デパートでは、大阪市消防局南消防署提出の消防計画書に記載されている防火管理責任組織表に従い、防火管理者を7階を除く各階売場の27管理区域に置き、各設備を9つに区分して防火管理を行うことになっていた[117]。また千日デパートの防火管理規定では、デパートビルに出入りする業者にも当該規定を適用することになっていた[62]
  • 7階プレイタウンは、千日デパートのオーナー会社である日本ドリーム観光が全額出資(資本金100万円)して1963年(昭和38年)6月に設立した千土地観光が経営するアルバイトサロンである[注釈 5][1]。千土地観光は、日本ドリーム観光の風俗営業部門の経営を担っていた[1]。プレイタウンは、千土地観光が経営する風俗店10店舗のうちのひとつであり、親会社(日本ドリーム観光)が経営する千日デパート7階フロアの一部を賃借して営業していた[1]。またそれらの10店舗は、すべて親会社の日本ドリーム観光の資産であり、子会社の千土地観光が各店舗を親会社から賃借して営業していた[1]。つまり7階プレイタウンは、千日デパートにとって「身内のテナント」であるわけだが、なぜかプレイタウンは千日デパートの自衛消防組織および防火管理責任組織からは切り離されており、それらの組織表には組み込まれていなかった[注釈 14][62][63]。千日デパートの防火管理上において7階プレイタウンは、テナントのひとつであるにもかかわらず放置されたも同然の状態に置かれていた。
  • 火災当日1972年(昭和47年)5月13日の時点で、千日デパートは以下の工事を行っていた。
    • ニチイ千日前店の3階と4階の売場では、同月22日から1週間かけて売場改装に伴う大がかりな電気配線増設工事が計画されており、火災発生1週間前の5月6日から準備工事が始まっていた。火災当日も準備工事は行われる予定になっており、数回に分けて工事が進められていた[118][119]。デパート閉店後の夜間も工事を予定しており、21時から翌朝4時まで作業する手筈になっていた[120]。この電気工事は、ニチイ千日前店が千日デパートから賃借している3階と4階の売場改装工事を計画したことから、1972年(昭和47年)3月に日本ドリーム観光から工事の承認を受けた。しかしニチイ千日前店は、実際の工事に際して日時や内容、人員などに関する届をデパート側に提出していなかった。一方で工事を請け負った元請会社の工事監督は、5月6日から同月26日までは夜間工事になることから配慮を願う旨の「入店願い」を書面で提出していた。またこの一連の電気工事に先がけて千日デパート管理部次長からニチイ千日前店店長に対し、防火の要望書が渡されていた[121]。さらに火災前日の12日には、千日デパート側がニチイと工事業者を集めて工事の要望に関して再度話し合っている[121]。特に喫煙については、所定の場所に水を入れた容器を置き、そこで喫煙すること、また吸殻はその容器に捨てるように申し渡していた。[1][118]。また消防設備(消火器)の確保も指示していた。この措置は、自治省消防局長通達「百貨店等における工事現場の防火指導について(1970年消予第985号)」に基づき、南消防署長が千日デパートに対して指導していたことで実施されたものである[122]
    • 6階では千日劇場跡をボウリング場に改装する工事中だった。この工事は1972年4月28日から開始されていたもので、7階で営業する「プレイタウン」の6階拡張営業エリアを4月17日に廃止してうえで実施されていた。日本ドリーム観光・千日デパート管理部は、ボウリング場改装工事を実施するにあたり、同年3月23日に南消防署に相談を行ったうえで4月15日に工事届を提出した。ところが書類の記載に不備があり、消防署から再提出を指示され、その準備をしていたところに本件火災が発生した。なおニチイ千日前店の工事も同様に南消防署から工事届を提出するように指示されていて、その準備中であった。火災当日は鉄骨の切断や廃材の積み下ろし作業を中心に22時30分までの予定で工事が進められていた。作業現場には鉄骨の溶断に使用するためのアセチレンガスボンベ1本と酸素ボンベ2本(いずれも重量40キログラム)が置かれていた[123][86][124]


千日デパートビルの設備[編集]

千日デパートビルの出入口、階段、エレベーター、エスカレーター、空調設備の設置状況は以下のとおりである。

出入口
  • 千日デパートビルの出入口は、1階に合計7か所設けられていた[125]
  • 南東出入口をA、その西隣の出入口をB、南西出入口をC、西側出入口をD、北西出入口をE、北東出入口をFと名付けていた[86]。北東正面入口(Sマークの直下)にはアルファベット名称はない[86]。それぞれの出入口のアルファベット名称は、各階段の呼称に対応している[86]。B出入口はプレイタウン専用、D出入口はデパート従業員通用口である[86]。なお、地下1階には、E階段東側に隣接した位置に「ミナミ地下街・虹のまち」(現・なんばウォーク)に直結した出入口が1か所設けられていた[126]
階段
  • 千日デパートビルのおもな階段は、全部で6か所設けられていた[86]
  • それぞれの階段はA、B、C、D、E、Fと名付けられており、階段AとFは、それぞれ1階から屋上まで、階段B、D、Eが地下1階から屋上まで、C階段が1階から4階まで通じていたところ、7階プレイタウンに直接通じている階段はA、B、E、Fの4階段である[86]。なお各階段のアルファベット名称は、各出入口の呼称に対応している[86]
  • B階段はプレイタウン専用階段となっており、プレイタウン従業員(ホステス)の退勤時と、1階プレイタウン専用出入口(B出入口)と地下1階プレイタウン専用エレベーターホールの間を利用する客と従業員が利用していた。B階段の7階出入口は、エレベーターホールに面したクロークの奥に設けられていた[127]。B階段は防火扉(鉄扉)が二重に設けられたバルコニーつきの特別避難階段である。
  • B階段は、各フロアに出入りするための防火扉が1階を除いて各階に設けられていたが[86]、事実上プレイタウン専用階段になっていたことから7階を除く各階の出入口(2枚ある防火扉の両方)は、常時施錠されていた[128][129]。また階段A、E、Fの7階プレイタウンの各出入口も常時施錠されていた。この措置は、千日デパート側がプレイタウンの客や従業員らがデパートの売り場を通り抜けて店(プレイタウン)に出入りすることを普段から認めていなかったことによって取り決めがなされていた[62]。また同措置は、基本的に法令および行政の指導によってなされていたものである[130][131]
  • 7階プレイタウンに出入りするには、まず1階プレイタウン専用出入口(B出入口)からB階段を使って地下1階へ降り、プレイタウン専用エレベーターホールから、2基の専用エレベーターを使って7階まで昇る必要があった[132]。そのために1階のB階段には、1階デパート売場に繋がる防火扉は設けていなかった[注釈 15]
エレベーター
  • 千日デパートビルのエレベーターは、全部で8基が設置されていた[133]
  • ビル南東部分の塔屋直下のA階段周辺に4基が設置されていた[127]。A階段の西隣南側に単独で1基(A南)、A階段の北側正面に3基(A1、A2、A3)が横一列に設置されていた。そのうちの2基(ビル南側と北側東寄り)は、地下1階から7階を直通で結ぶ「プレイタウン」専用である[133]。南側エレベーター(以降A南エレベーターと呼ぶ)と北側東寄りエレベーター(以降A1エレベーターと呼ぶ)は「プレイタウン」専用につき、地下1階「プレイタウン」エレベーターホールと7階「プレイタウン」エレベーターホール以外に各フロアの出入口を設けていない[133]
  • そのほか2基の北側中央エレベーター(A2)と北側西寄りエレベーター(A3)は、地下1階から屋上まで通じるデパート専用エレベーターである。こちらは7階だけに出入口を設けていない[133]
  • ビル西部分のC階段周辺に3基のエレベーター(B1、B2、B3)が設置され(以降、3基まとめてBエレベーターと呼ぶ)、地下1階から4階まで通じていた[133]。それらの3基はデパート専用であるが、4階止まりで7階には通じていない[134]
  • ビル北西部分のD階段周辺に地下1階から屋上を結ぶデパート専用エレベーター(従業員用)が1基設置されていた(以降Cエレベーターと呼ぶ)[133]。このエレベーターは7階にも出入口があるものの、プレイタウン関係者が利用できる場所に設置されていなかった。
エスカレーター
  • エスカレーターは、ビルのほぼ中央付近に1階から6階までの間に合計8基が設置されていた[133]。地下1階と7階には設置されていなかった[104][135]。1階から4階までの間には、上下方向にエスカレーターが設置されていたが、4階から6階までは上り一方向のみで下り方向の設置はなかった[136]。1階南側の上りエスカレーターを1号、1階北側の下りエスカレーターを2号というように、上り方向を奇数、下り方向を偶数で呼んでいた。5階から6階を結ぶ上りエスカレーター1基については、上り方向のみの単独設置のため「8号」と呼ばれていた[136]
空調設備
  • 千日デパートビルの空調設備は、地下1階と7階に中央方式(単一ダクト調和方式)による空気調和機(以降「空調機」と記す)が各1台ずつ設置され、計2台で全館(塔屋および一部階の特定エリアを除く)の給気と排気が行われていた[137]
  • 地下1階の空調機Aは、地下1階から3階までの給排気を(3階は排気のみ)、また7階の空調機Bは、3階から7階までの給排気を行っていた。なお4階の給気系統および5階の排気系統は設置されていなかった[137]。2台の空調機の稼働は、デパート閉店10分前の20時50分までだった。したがって同ビル7階で23時まで営業していたプレイタウンには、20時50分以降の中央方式による給排気は行われていなかった[138]
  • 7階設置の空調機Bについては、おもなダクト系統は4つあり、デパートビル南西側を空調する系統、以下同様に北西側、南東側、北東側とに別れていた[139]。なお地下1階の空調機Aのダクト系統については、7階の空調とは関係ないので詳細は省略する。
  • 7階プレイタウンの空調に関係しているダクト系統は、「空調機B・給排気系の北東系統」で、特に同系統の排気系ダクト(リターンダクト)がデパートビルの北側3階、同4階、同6階、同7階に1か所ずつ設置された排気吸入口を垂直につないでいた。7階の排気吸入口は、プレイタウン事務所前に設置され、店内の空気を吸入して4階を経由し7階別フロア(E階段西側の空調機械室)に設置された空調機Bへ戻していた[137]
  • 7階に通じている北東系統の給気ダクトは、7階の空調機Bから配管される際に一旦4階を経由し、5階から7階の各フロアへ空気を送るようになっていた。同様に同系統の排気ダクトも4階を経由してから7階の空調機Bへ戻っていた[137]
  • 北東系排気ダクト内部の3か所には防火ダンパーが備えられており、4階排気吸入口の上部および5階と6階のスラブ付近に設置されていた。それらの防火ダンパーは、火災の際には摂氏74度で2か所のヒューズが溶断することでダンパーが作動し、ダクト内部を遮蔽する仕組みになっていた[137]
  • 3階および4階のニチイ千日前店では、独自の空調パッケージによる給気が行われており、3階の北側と南側に各1台ずつ、4階の南側に1台が設置されていた。4階に関してはデパートビルからの給気はなく(排気系統はあり)、ニチイ専用の空調パッケージのみで給気が行われていた。また7階プレイタウンにも独自の空調パッケージが1台設置され、ホール内の給気を行っていた。ニチイ千日前店とプレイタウンの空調は、デパートビル館内のものと独自設置のものとが混在していた[137]。このように同ビルの空調設備の設置状況は、建物の規模が大きく古いこと、また改築や用途変更などの影響で非常に複雑なものになっていた[140]


消防用設備の設置状況[編集]

千日デパートビルの消防用設備(消火器、消火栓、火災報知機、熱式感知器、スプリンクラー、避難器具、放送スピーカー)の設置状況は、以下のとおりである(表中の「-」は設置なしを表す。また「消火栓」括弧内の数値は消防隊専用栓の数を表す)。

千日デパートの消防用設備設置状況(塔屋2階と塔屋3階を除く)[133][141]
フロア 消火器 消火栓 火災報知機 熱式感知器 スプリンクラー 避難器具 放送スピーカー
屋上(塔屋1階) 9 1(1) 1 5 救助袋1
7階 13 3(2) 1 8 救助袋1 (15)
6階 5 5(3) 2 17 あり 救助袋2 2
5階 13 3(2) 2 3 救助袋1 2
4階 18 6(3) 4 救助袋2 4
3階 24 7(4) 5 救助袋、縄はしご各1 4
2階 23 6(3) 4 縄はしご1 5
1階 23 6(3) 4 1 あり 6
地下1階 38 7(4) 3 18 あり 3
  • スプリンクラー(散水器)の設置については、全館に設置されていなかったが、地下1階と1階のF階段周辺、6階旧千日劇場跡の舞台、楽屋、映写室には例外的に設置されていた。これは1958年(昭和33年)のデパートビル改築の際に、当時の消防法施行条例の基準に従って設置されたものである。また地下1階と1階のF階段出入口周辺に設置されていることについては、右階の階段室に防火区画がないことに対する予防的措置による[142][注釈 16][注釈 17]
  • 避難口誘導灯、通路誘導灯、誘導標識については、全館各階フロアの必要な個所に設置されていた[141]
  • 警報ベルは、地下1階電気室の主受信機に1台、1階デパート保安室の副受信機に1台が設置されていた。全館に鳴動する警報ベルの設置はなかった[141]
  • 非常放送用の防災アンプは、1階保安室に設置されていた。しかし、7階プレイタウンだけは非常放送システムの対象から外されており、もし全館一斉の非常放送があったとしてもプレイタウンでは聞くことができない状態だった。また、そのシステムの一部は工事中だった[141]
  • 表中のプレイタウン「放送スピーカー(15)」というのは、プレイタウン店内限定の放送設備である[143]
  • 消防隊送水口と採水口が1階にそれぞれ3ずつ備わっていた[62]


防火建築設備の設置状況[編集]

千日デパートビルの防火建築設備(防火区画、防火区画シャッター、売場防火扉、避難階段、階段室防火区画)の設置状況は以下のとおりである。

千日デパートの防火区画および売場防火扉(塔屋2階と塔屋3階を除く)[133][141]
フロア 防火区画 防火区画シャッター 売場防火扉 避難階段 階段室防火区画
屋上(塔屋1階) 4 3
7階 1区画 5 5
6階 2区画 5 5
5階 2区画 5 5
4階 3区画 8 3 6 6
3階 4区画 15 2 6 6
2階 3区画 19 6 6
1階 3区画 19 9 8
地下1階 2区画 7 7 6
  • 千日デパートビルには排煙設備、非常用照明装置、非常用進入口、非常用エレベーターの設置はなかった。
防火シャッターおよび防火扉
  • 1階の各出入口と各外周部には防火シャッターが、また各階段の各フロアに通じる出入口には、一部を除いて防火シャッターまたは防火扉(鉄扉)が備えつけられていた(1階F階段出入口を除く)[128]
  • A階段は、地下1階から6階までの各階フロア出入口に防火シャッターが、7階のみに防火扉(鉄扉)がつけられていた(屋上出入口はガラス戸)。B階段は、1階プレイタウン専用出入口(B出入口)のみが防火シャッターで、その他の各階フロア出入口はすべて防火扉(鉄扉2枚)だった。C階段はすべてのフロア出入口が防火シャッター、D階段はすべてのフロア出入口が防火扉(鉄扉)だった。E階段は、基本的に各階フロア出入口に防火シャッターと防火扉の両方を備えていたが、5階から屋上までの各階フロア出入口に防火シャッターは設置されておらず、それらの階の出入口は防火扉(鉄扉)のみの設置だった。またF階段は、1階には防火シャッターも防火扉もなく(完全開放状態)、2階以上の各階フロア出入口に防火シャッターと防火扉(鉄扉)が設けられていた(屋上出入口は鉄扉のみ)[128]
  • 1階各出入口および外周部の防火シャッター、各階段の各階フロア出入口の防火シャッターと防火扉の閉鎖(施錠)は、基本的に千日デパート管理部(保安係)が担当していたが、一部に例外があり、3階と4階についてはニチイ千日前店が階段A、C、E、Fの出入口の閉鎖を退社時に担当していた[144]。また6階については千土地観光(プレイタウンの経営会社)がE階段の出入口を退社時に閉鎖し、そして7階のE階段出入口の閉鎖(デパート閉店時)をプレイタウンが担当することになっており[注釈 18]、主要な管理権原者らは、自社が営業しているフロアの防火シャッターと防火扉の閉鎖管理をデパート側から任されていた[144]
  • エスカレーター開口部については、3階から4階を結ぶ2基(4階部分)、4階と5階を結ぶ1基(5階部分)、5階と6階を結ぶ1基(6階部分)には、防火カバーシャッターが設置されていた[128]。また1階から3階までのエスカレーター開口部には防火カバーシャッターの設置がなかった。
  • エスカレーター開口部の防火カバーシャッターの閉鎖は、カバーシャッターが備えつけられている4階から6階のエスカレーターについて、4階部分の閉鎖をニチイ千日前店が、5階から6階までの閉鎖を千日デパート管理部(保安係)が閉店時に行う取り決めになっていた[128]
防火区画シャッター(売場内)
  • 地下1階から4階までは、売場内を防火区画基準1,500平方メートルごとに閉鎖できる防火区画シャッターと防火扉(3階と4階)が設置されていた[145]
  • 1階から3階までのエスカレーター周りには、エスカレーター開口部の四方を防火シャッターにより閉鎖できる防火区画が設定されていた[146]
  • 売場内の防火区画シャッターは、一部を除いて手動巻き上げ式ということもあり、普段から閉店後においても閉鎖されていなかった[66]
  • 3階北側の東西方向に設置されていた4枚の防火区画シャッターは、ヒューズ式自動降下シャッター(摂氏80度以上の熱で自動降下)であった[147]
  • 2階F階段の横引きシャッター(階段吹き抜け閉鎖用)は、1965年(昭和40年)に故障したまま修理をせずに放置されており、平素から戸袋に収納されたままでデパート閉店時に使用していなかった[133]
  • 表中の7階「避難階段5」とは、A、B、D、E、F階段のことであり、プレイタウン関係者が直接使うことができる階段はA、B、E、Fの4階段で、D階段は使うことができない位置に設置されていた[148]


千日デパートビルの保安管理[編集]

千日デパートの保安管理は、デパート管理部に属する保安係が担当していた。保安係は、21時のデパート閉店後から1階出入口および外周部のドアと防火シャッターを閉め、約2時間かけて全館(7階プレイタウンを除く)の客の絞り出しと巡回(7階プレイタウンを除く)、防火シャッターや各扉の閉鎖確認(プレイタウン専用のB階段部分を除く)、火気の点検を行っていた[62][149]。夜間の巡回は、23時30分から翌午前1時30分までと、5時30分から7時30分まで、それぞれ2時間にわたってデパートビル全館を巡回(この時間帯は7階プレイタウンも巡回対象)していた[62]。また午前2時30分に地下1階から2階までを対象にした1時間の巡回も行っていた。すなわち保安係による夜間巡回は、一晩に合計4回行われていたことになる[62]

保安係の勤務体系は、基本的に24時間勤務で14人の人員で業務を担っていた。そのうちの2人は日勤勤務者で、残りの12人を2班6人に分け、各班が24時間交代(勤務時間は9時30分から翌朝9時30分まで)で隔日勤務に就いていた[62]。火災当日の5月13日は、勤務予定5人の保安係員のうち1人が欠勤しており4人体制で勤務を行っていた[注釈 19]。火災当日のデパートビル当直者は、保安係4人のほかに電気係と気罐係の2人も勤務に就いており、地下1階に待機していた[62][149]。なお、各テナントの宿直は、日本ドリーム観光との間で交わしている賃貸借契約の約定ならびに千日デパート管理部の規則により、基本的には認められていなかった。デパート閉店後の残業は、デパート管理部への届け出制になっていたが、ニチイ千日前店だけは例外で、23時までの残業は届け出なしに行うことが認められていた[149]。また7階プレイタウンも宿直に関しては例外扱いで、閉店後のプレイタウン店内に独自の宿直員を置くことが認められていた[62]

プレイタウンについて[編集]

チャイナサロン「プレイタウン」は、1967年(昭和42年)5月16日に千日デパート7階で営業を始めたアルバイトサロン[注釈 5]である。1969年(昭和44年)5月には、千日デパート6階千日劇場跡の一部を使って店舗を拡張した。火災発生のほぼ1か月前、1972年(昭和47年)4月17日に6階の元千日劇場跡でボウリング場改装工事が開始されるのに合わせて、プレイタウンは6階での営業を廃止した。同月28日に6階・元プレイタウン営業エリアと7階プレイタウンのホールをつないでいた階段状の通路部分をベニヤ板で仮閉鎖し、ボウリング場改装工事が始まった[86]

プレイタウンの管理権原者は、同店を経営する千土地観光の代表取締役業務部長である[150]。右同人は1964年(昭和39年)6月に日本ドリーム観光から同社に出向しており、1970年(昭和45年)5月から代表取締役業務部長になり、本件火災当日もその地位に就いていた[151]。また千土地観光の代表取締役にはもう1人、日本ドリーム観光の代表取締役社長である松尾國三も名を連ねており、松尾氏が同社の社長も兼任していた[1]。プレイタウンの防火管理者は同店の支配人(店長)である[150]。右同人は1970年(昭和45年)9月1日から同店支配人に就任し、本件火災当日もその地位に就いていた[3]。プレイタウン支配人は、1971年(昭和46年)5月に2日間の防火管理者講習を受講し、同月29日に同店の防火管理者に選任された[3]。プレイタウンは消防法令が定める防火対象物の区分では「特定防火対象物・第2項(イ)」に分類されていた[152]

営業形態[編集]

営業時間は平日が17時から23時まで、土日・祝祭日が1時間前倒しの16時から23時までで、年中無休だった[91]。主婦などの素人の女性がホステスを務め、ワンセット200円の低料金で気軽に楽しめるとあって人気があり、大阪ミナミでは中クラスの大衆サロンだった[153]。当時のアルバイトサロンは、キャバレーのようにバンドマンの演奏や歌を聴きながら、またはショーを観ながら飲酒やホステスの接待を受ける形式が一般的だった。プレイタウンもその流れに乗り、毎夜ステージでバンドマンの演奏やダンサーのショーが演じられていた。生演奏に合わせて客とホステスがダンスを踊ることも行われていた[154]。プレイタウンはチャイナサロンと銘打っていたため[93]、ホステスはチャイナドレスを身に着けて接客していた人が多く、店内の装飾も中華風の灯籠やモール、つる草模様の衝立て、深紅の幕で飾られていた[155]。客の収容人数は150人で、ホステスは約100人が在籍し、支配人やボーイなどの従業員は約40人が勤務していた[91]。火災当日のプレイタウンの集客状況は、おおむね7割程度の客の入りであったが、7階プレイタウンへ火災による煙が大量に流入してきた22時40分から43分ごろに在店していたのは客57人、ホステス78人、従業員ら46人(バンドマン10人とダンサー1人の計11人を含む[156])の合計181人[注釈 8]である[153]。火災発生当日は土曜日夜で、いわゆる半ドンであった。1970年代前半は、まだ週休二日制は一般的ではなかったために、日曜前日にあたったことから、営業時間全体を通して店内には客が多かった。プレイタウンのホステスは子持ちの母親が多く、奇しくも火災が発生したのは母の日の前日でもあった[157]

店内の構成[編集]

7階プレイタウン店内の構成は、中央ホールが東西32メートル、南北17メートル[158]の広さがあり、ホールの平面は台形のような形をしていた[159][160][161]。ホールにはテーブル117個、ボックスシート141個、衝立37枚[158]が置かれていた。ホール内の北西角部分には扇形のバンド演奏用ステージが設置され、その前面と客席エリアの間がショースペースとなっていた。ステージ裏には、北西側の外窓に面したベニヤ板で間仕切りされた3室の小部屋(ボーイ控室、バンドマン控室、タレント控室)が設けられていた[162]。またステージ西隣にF階段出入口が2ヵ所あり、一つはホールに面したF階段直結部分に電動防火シャッターが設置されており、その部分は常にカーテンで覆い隠されていた。もう一つはF階段西隣の調理場配膳室に直結した防火扉(観音開き鉄扉2枚)が設置されていた[162]。F階段出入口の電動防火シャッターは常時閉鎖され、防火扉も常時施錠されていた。

アーチ状のホール出入口(エントランス)はホールの南側にあり、ホール出入口の西側にレジとトイレが、またレジの北隣にベニヤ板で間仕切りされた物置があった。これは6階へ通じていた階段状の旧通路部分で火災発生当時は資材置場として利用されていた[162]。ホール出入口正面(ホール外側)にクロークと電気室があり[162]、クロークの奥にカーテンで覆い隠された[163]特別避難階段・B階段の出入口(鉄扉2枚)があった。B階段の出入口はバルコニーが併設され、プレイタウン営業中は常時解錠されていて、従業員は使用することができた[162]。B階段を使用するためにクロークの中に入るには、クロークのカウンター西端の天板(高さ90センチに設置された幅50センチの板[164])を跳ね上げたあと、幅65センチの戸板を押し開く必要があった[165][166]。クロークの東側にエレベーターホールがあり、エレベーターホール南側(クロークの東隣)にA南エレベーターが、エレベーターホールのもっとも東側にA1エレベーターが設置されていた[162]。これら2基のエレベーターは、プレイタウン専用である[133]。A南エレベーターの東隣に防火扉(鉄扉1枚)を備えたA階段出入口があった[162]。この防火扉は常時施錠されており、出入口前は普段から看板を貼り付け、扉の全面を覆い隠して、その存在が誰の目にも判らないようになっていた[167]

ホールの西方に調理場(F階段の西隣)、空調機械室、事務所、宿直室、衣装室、ホステス更衣室などがあり[162]、それらはいずれも北側の外窓に面していて[168]、幅1.23メートルから1.8メートルの狭く入り組んだクランク状の廊下で各部屋が結ばれ[169]、廊下の東端でホールにつながっていた[162]。事務所前の廊下には、3階から7階の各階を垂直に竪穴でつなぐ空調ダクト(リターンダクト)の吸入口があり[170]、ダクト内の3か所(4階の天井付近および6階と7階のスラブ付近)に防煙ダンパーが備えつけられていた[171][172]。プレイタウンのもっとも西側に位置しているホステス更衣室は、北側に面した外窓2か所のうちの1か所がロッカーで完全に塞がれており[162]、窓に直接アクセスすることができない状態となっていた。なおプレイタウンのホールに面した各外窓は、酔客による転落防止や物品投下などを防止するため、安全上の観点から取っ手に針金を巻き付けた上で内側に金網窓を填め込んで窓が開かないように二重の対策を施していた。それは救助袋が設置してある窓においても同様の状態となっていた。またホステス更衣室にはE階段に直結した出入口(鉄扉1枚)があり[162]、普段は基本的に施錠されていたが、ホステスたちは扉を任意に解錠してデパート内に出入りしていた[173]。この7階E階段出入口の施錠についてはプレイタウンの担当とされており、デパート管理部から管理を任されていた[174]

店内の避難設備と消防防災関係設備[編集]

プレイタウン店内の避難設備としては、ホール北東角の窓下に救助袋(斜降式、内径は縦62センチメートル、横57センチメートル)が1つ備えられていた[162][163]。1958年(昭和33年)12月に千日デパートビルが新装開業した際、移動式救助袋が4階から屋上までの各階に設置されたが[69]、プレイタウンの救助袋はそのうちのひとつである。1963年(昭和38年)8月、固定金具を取りつけるための改修が施され、固定式となった[174][175]。救助袋の全長は30.21メートル[175]。開口部は[176]、一辺が85センチメートルの支持棒に上下で取りつけられており(縦枠は78センチメートル)[177]、平時には倒して収納している上枠支持棒を180度上方へ引き上げることで袋の入口が完全に開く仕組みになっていた[177]。プレイタウン店内の防災関係設備は、消火器14、報知器3、屋内消火栓3、店内放送スピーカー15、誘導灯7、標識版2、防火隊専用栓2、防火区画1、懐中電灯10などが装備されていた[163]。プレイタウンの外窓開口部の大きさは、北側、北東側、東側の各窓共通の寸法で縦102センチメートル、横180センチメートル、床から78センチメートルの位置に設置されていた。窓は救助袋が設置してある北東角の窓に関しては観音開きで窓2枚で構成されていた。そのほかの窓は外突き出し1枚窓で各窓共通である。厨房窓は例外的に特殊な構造をしており、横幅が少し狭く、換気扇が2つ填め込まれている関係で固定式だった。地上(GL)から7階プレイタウン外窓下枠までの高さは、約25.5メートルである。

プレイタウンに通じていた階段は全部で4階段A、B、E、Fがあったものの、それらの出入口は店の営業中においても常時施錠されていた[3][163][173]。ただし特別避難階段のB階段7階出入口は、プレイタウンの営業中は常時解錠されており、従業員は自由に出入りすることができた[3]。7階B階段出入口については、施錠ならびに解錠の両方をプレイタウンが管理していた。B階段は、普段からプレイタウン専用階段になっており[3]、おもにプレイタウン従業員(ホステス)の退勤時に利用されていた[91][3]。とりわけ23時過ぎの退勤時にエレベーターが混雑する理由から店側は客にエレベーターを優先して使ってもらうために、従業員に対してはB階段を使うように推奨していた[3][91]

7階各階段出入口の鍵の保管状況[編集]

7階プレイタウンに通じている各階段出入口A、B、E、Fの鍵の保管状況は、いずれの出入口の鍵もプレイタウン事務所内に保管されていた。B階段出入口については、鉄扉2枚で構成されているため、それぞれに1本ずつ鍵が存在した。つまりプレイタウン従業員が直接使用できる階段出入口の鍵は合計5本である[178][179]。これらの鍵は、プレイタウンが1967年(昭和42年)5月から千日デパート7階で営業を始めたときに、千日デパート保安室に対し、借用書を提出して借り入れていたものである[180]。一方、千日デパート保安室は、基本的にマスターキーを保有しているため、それらの鍵を使ってプレイタウン各階段出入口をいつでも解錠できる状態にあった。ただし、7階A階段出入口については、デパート保安室にマスターキーは存在せず、プレイタウン事務所内に保管してある単一キーが唯一の鍵だった。また、プレイタウン関係者が屋上へ避難する場合に使用できる屋上出入口の鍵の保管状況については、「B、E」階段の屋上出入口の鍵だけがそれぞれ1本ずつ合計2本がプレイタウン事務所内に保管されていた。それらのマスターキーは、デパート保安室に保管されていた。残りの「A、F」階段の鍵は、プレイタウン事務所内に保管されておらず、千日デパート保安室にのみ単一キーが保管されていた。これらのことから、プレイタウン関係者の手によって直接開錠可能な屋上の出入口は、B階段E階段だけだったということになる[178][179]

7階各階段出入口の施錠[編集]

前記のとおり、プレイタウンに出入り可能な7階の各階段出入口は、B階段とE階段出入口以外はプレイタウン営業中においても常時施錠されていた。またF階段電動シャッターについても常時電源は切られており、開閉することはできなかった[181]。この措置の理由は、千日デパート側からすれば、風俗営業店に出入りする客がデパートの売場内に入ったり通り抜けたりすることが保安上において、また風紀面においても好ましくなく、常時施錠することが不可欠であったという[62]。また、プレイタウン側からしてみれば、平常時の営業において、従業員専用スペースに面していない階段出入口(A、F階段出入口)を常時施錠しておくことは、客の無銭飲食防止や防犯上の観点からも都合が良かったのである[62]。またこれらの措置は、大阪府公安委員会からの指導にも基づいて取られていた[130][131]。プレイタウンに風俗営業の許可を与える際に、風俗営業等取締法第二条または大阪府施行条例第四条の規定に従って「善良な風俗を害する行為を防止する」という観点から、「7階に出入りできる階段出入口の防火扉と防火シャッターは、非常時以外に解放してはならない」という条件がつけられていた[131]

千日デパート側との連絡体制[編集]

非常時における千日デパートとプレイタウン間の連絡体制は、規約や規則などで決められていたものは何もなく、火災の通報についても平時からの申し合わせは何もなかった。また、デパートビル閉店時の保安係による巡回においてもプレイタウン営業中は7階の巡回は行われておらず、プレイタウン閉店時の深夜と早朝帯だけデパート保安係による巡回の対象になっていた[62]

宿直[編集]

千日デパートでは、各テナントの夜間の宿直を認めていなかったところ、例外的にプレイタウンだけは独自に宿直員を置くことが認められていた[62]。宿直の人員は計2人で、プレイタウン男子従業員の1人が宿直員として、またプレイタウン専属の男性保安員が1人、プレイタウン閉店後の店内に宿直し、保安業務にあたっていた。勤務時間は21時30分から翌午前10時30分まで。その間に3回の店内巡回(0時、2時、7時)を行うことになっていた[62]

火災の経過[編集]

閉店後に3階で電気工事実施[編集]

1972年(昭和47年)5月13日、千日デパート3階・ニチイ千日前店の売場改装にともない、電気配線用の配管取り付けなどの電気設備工事が行われることになった[182]。ニチイから工事を請け負ったのは「O電機商会」で、工事監督者の設計監理課長1人(以下、工事監督者の設計監理課長のことを工事監督と記す)および工事施工業者「F電工社」の工事作業者5人の合計6人が工事に携わることになった[3]。9時ごろ、工事監督と工事施工会社社長(以下、工事施工会社社長のことをF電工社長と記す)の2人を除く工事作業者4人が千日デパートへ入館した[183]。3階の電気設備工事は、デパートの10時開店と同時に始まり、昼休憩1時間を挟んで午後も引き続き行われた[182]

14時ごろ、F電工社長が千日デパートへ入館した。15時30分ごろ、工事監督も同デパートへ入館した。これで3階の工事作業者6人が全員揃った[183]

16時、7階チャイナサロン「プレイタウン」が開店した[153]。土曜日ということで通常よりも1時間早い開店であった[3]

17時ごろ、客足が増えて店内が混雑してきたために工事作業者らは作業を一時中断し、デパート閉店後の21時過ぎから工事を再開すべく、全員がいったん作業現場を離れた[182]

17時30分ごろから21時前まで、工事作業者ら4人は食事に出かけ[182]、工事監督とF電工社長の2人は、難波駅(南海)に併設されている老舗百貨店の屋上ビアガーデンを訪れ食事をとった[182]。そのときに2人は、ビール大ジョッキ2本を飲んだ[182]。その後、工事監督はF電工社長と別れ、難波周辺をぶらつき、御堂筋や千日前通などで行われていた「過激派デモ」を見物していた[注釈 20][184][185]。F電工社長と工事作業者4人は、21時前に一般客用の出入口から、また工事監督は21時30分ごろに従業員通用口からデパートビルにそれぞれ再入館し、3階の工事現場に戻った[182][186][187]

21時、千日デパートは閉店時刻を迎えた。各店舗で閉店準備が行われたり、保安係員によって出入口やシャッターの閉鎖が行われたりするなかで、この日(13日当日)3回目の電気設備工事が3階で再開された[119][182]。場所は3階・上り南5号エスカレーターの南西側に隣接した婦人用肌着売場と子供用肌着売場に挟まれた通路付近である[3][188]。工事の手順は、工事再開場所を起点に南側フロアに沿って東方向へ順次工事を進め、南側機械室までの電気配管を行い、北側機械室の分電盤工事、そして北東隅の寝具・呉服倉庫内の配管工事を翌14日・朝4時までの予定で行うことになっていた[188]。引き続き工事監督1人と工事作業者5人の計6人が工事に携わることになっていた[119][182]。ニチイ千日前店の社員4人(うち1人は店長)も3階に2人、4階に2人がデパート閉店後も店内に残り、残業していた。3階のニチイ社員2人は、工事作業者らと同じく3階・西側売場で商品整理などの残務を行っていた[189][190]。6階千日劇場跡では、22時30分までの予定でボウリング場改装工事が行われており、6人の工事作業者が滞在していた。千日デパートの21時閉店以降、デパートビル内で営業していたのは7階「プレイタウン」だけであった[191]

21時15分、千日デパート保安係員2人による全館を対象にした保安巡回が開始された[62][192]。約1時間半かけて屋上塔屋および6階から地下1階までの各フロアを巡回し、客の居残り確認、各出入口やシャッターの閉鎖確認、火気の点検を中心に実施された[62][192]。この閉店時の巡回において、7階プレイタウンは常に巡回の対象から外されていた[62][192]。なお、この火災発生当日の閉店時巡回には、千日デパート管理部管理課長が参加する予定になっていたが、なぜか巡回に参加していなかった[193]

21時30分ごろ、3階の照明が一斉に消えた[182]。地下1階・電気室にいた当直のデパート電気係が、3階で電気工事が行われていることを知らずに同階の照明電源を落としたためである[119]。この停電が発生したときに、工事監督がデパートビル3階の工事現場に戻ってきた[182]。作業に支障が出ることから工事監督はすぐに6階へ行き、電話で地下1階の電気室に対し、3階の照明を点灯してくれるように連絡した[4]。数分後、3階西半分の照明が復旧し、再び作業が再開された[119][182]。このころ、千日デパート保安係員2人が3階を巡回しているときに作業中の工事作業者らを目撃し[154]、工事作業者らに工事届が提出されているかどうかを尋ねた[194]。2人の保安係員によって3階の売り場を北側と南側の二手に分かれて保安巡回した際には、同階で電気工事やニチイ社員による残業が行われている以外に特異な状況は見受けられず、異常も確認されなかった[195]

3階で火災発生[編集]

22時ごろ、3階と4階で残業していたニチイ社員4人が退館した[196]。3階では配管の折り曲げやネジ切などの工事作業が粛々と進められるなか[3]、工事監督は作業現場を離れ、タバコを吸いながら照明が消えている暗がりの3階東側フロア周辺をうろつき始めた[4][197]。工事監督は残りの工事個所を一通り確認したあと、しばらくして西側のD階段付近に向かい、その場に佇んでいた[197][4]

22時30分ごろ、工事作業者の1人が3階東側の寝具・呉服売場の方向から「パリパリ」というガラスの割れるような音がするのを聞いた[197][4]。ふとその方向に目をやると、30メートルほど離れた場所で高さ70センチメートル、幅40センチメートルくらいの赤黒い炎が揺らめき、黒煙が天井いっぱいに立ち込めているのを発見した[4][197]。発見者は、すぐさま火災であることを仲間に知らせると同時に、西側D階段付近に佇んでいた工事監督に向かって大声で火災が発生したことを知らせた[4][41]。工事作業者らは消火器を探し回ったり、火災報知機を押そうとしたりするなど初期消火活動に奔走した[41][198]。工事監督は1階のデパート保安室に向かって「3階が火事や!」と数回叫びながら西側D階段を駆け降りた[197][198]

3階での火災発見とほぼ同時刻の22時30分ごろ、閉店後の店内巡回を終えた千日デパート保安係員2人が1階保安室に戻ってきた[199][192]。その直後の22時34分、保安室の火災受信機(警報ベル)が3階の火災を検知した[159][192]。工事作業者の1人が3階西側設置の火災報知機を押したのである[41]。それとほぼ同じくして3階から工事監督の火災発見を知らせる大声が保安室にも届いた[41]。保安係員2人がすぐさまD階段を駆け昇り、3階へ確認に行くと、すでにフロアいっぱいに黒煙が立ち込め、火元へ容易に近づけない状態になっていた[159]。消火器を持って右往左往する工事作業者らに対して保安係員は消火器の使い方を教えたが[5]、すでに初期消火を行える段階ではなく[159]、火災はフラッシュオーバーを起こす寸前にまで達していた[159]。しかし保安係員は、床上50センチメートル付近に煙が充満していないことを確認すると、工事作業者ら2人を引き連れて床を這いながら、なんとか消火栓がある場所の3、4メートル手前(上りエスカレーター東側)まで行って消火を試みようとした[5]。工事作業者は持っていた消火器の安全ピンを外して消火を試みたが薬剤が噴射されなかった。そのうちに火勢と煙はますます強くなり、周囲が赤黒く澱んできてD階段にも煙が迫ってきた。火元に向かおうとした保安係員らは、火元の確認や防火区画シャッターの閉鎖はおろか消火の一つもできずに活動を断念し[5]、元の経路を這って戻った。工事作業者ら5人[注釈 21]と保安係員2人はD階段で1階へ避難した[200][199]

火災受信機(警報ベル)は地下1階の電気室にも設置されていたため[141]、デパート電気係は火災検知と同時に3階と4階の主電源をすべて遮断する措置をとった。そのあと電気係と気罐係の2人は消火器を持ち、Bエレベーターで4階まで昇った。そして消火作業を行おうとしたが、エレベーターのドアが開いたと同時に猛煙に襲われた。結局2人は手も足も出せず、そのまま同エレベーターで1階へ降りた[201]。またこのとき、6階の千日劇場跡でボウリング場改装工事に携わっていた工事作業者ら6人が煙の流入で火災に気付き、6階窓からビルの外に出て、資材吊り上げ用ワイヤー(ウインチ)や配管、避雷針ケーブルを伝って全員無事に地上へ脱出した[124]。デパート電気係と気罐係の計2人も消火活動断念の後にビル外へ無事に脱出した[201]

22時39分、火災は急速に拡大し、防火カバーシャッターが閉鎖されていなかった4階エスカレーター開口部から4階へ延焼が始まった[202]。保安係員2人は、ただちにデパート保安室に待機していた保安係長に3階が本格的な火災である旨を報告した[203]

22時40分、保安係長は千日デパート保安室の外線電話で119番通報を行った[41][204][205]

7階プレイタウンを襲った黒煙[編集]

22時35分ごろ、7階で営業中のチャイナサロン「プレイタウン」では、23時の閉店に向けて「お決まり」の様々な動きが始まっていた[154]。ステージ前のショースペースで15分間演じられた「ヌードショー」が終了し、照明が復活した直後のホール[155]とあって人々の動きは忙しくなっていた[154]。客とホステスはグラスを傾けながら談笑し、バンドの生演奏に合わせてダンスを踊っていた[154][206]。帰宅する客を見送るホステスらがエレベーターで1階入口へ向かっていた[154]。調理場では後片付けが行われ[207]、すでに接客を終えたホステスらは更衣室で寛ぎ[154][207]、店内事務所ではプレイタウン支配人(店長のこと。以下、支配人と記す)らが集客を増やすための対策を話し合っているなど[154][207]、プレイタウンはいつもの土曜夜と何ら変わらない閉店前の様子だった[154]。このころプレイタウンには客57人、ホステス78人、従業員35人、バンドマン10人、ダンサー1人の合計181人が滞在していた[208]

22時36分から22時39分ごろ、この間にプレイタウン関係者が最初の異変を感じた。ボーイの1人がプレイタウン専用A南エレベーターで地下1階から7階へ昇る途中、エレベータードア下部の隙間から煙が流れ込んでくるのを目撃した[154][209]。また客の1人がトイレに行こうとしてホール出入口の方を見たとき、A南エレベータードアの隙間から白煙が噴き出しているのを目撃した[154]。ホステスの1人もホール出入口の方向から白煙がホール内へ流れ込んでくるのを目撃し[154]、ステージでのショーが終わってから3曲目の演奏に入っていたバンドマンの1人も天井を流れる白煙の筋を確認し、バンドリーダーへ「火災ではないか」と報告した[注釈 22][210]。バンドマンたちは、バンドリーダーの指示で演奏を中止し楽屋(ステージ裏の小部屋)に待機することになった[211]。その後、バンドリーダーは詳しい状況を確認するためにエレベーターホールへと向かった[7][212]。一方、プレイタウン事務所前に設置してある換気ダクト(リターンダクト)の吸入口からも煙が噴き出しているのを調理場にいた従業員が発見した[161]。調理場にいた従業員やボーイらによって、ダクト吸入口に向かってバケツで水をかけるなどの消火作業が行われたが何の効果もなく[213]、煙の量はさらに増すばかりであった[214]

22時39分、事務所内にいた支配人は、ホールや事務所前の通路がやけに騒がしいことに気付いて事務所の外に出たところ、換気ダクトから噴き出す激しい煙に襲われた[213]。調理場担当の従業員数人とともに西側のホステス更衣室の方へ行こうとしたが、その方面の通路にはすでに煙が充満しており、支配人らはすぐに事務所前へ引き返した[215]。空調ダクトから絶え間なく噴き出す煙を目の当たりにして、支配人は「階下が火災だ」と、このとき認識したという[215]。その後、支配人は詳しい状況を確認するためにホールへ向かった[216]。西側ホステス更衣室にいたホステスら11人は、換気ダクトから噴き出す煙によって、この段階で逃げ場を失い更衣室内で孤立状態になってしまった[217]。換気ダクトからの煙は、次第に黒煙へと変わり、異様な臭気と熱気を大量に噴き出すようになっていた[213]

22時40分、デパート保安係員が119番通報したころの7階プレイタウンでは、ボーイらがA南エレベータードアから噴き出る白煙をエレベーターの故障だと考え、同エレベーターを止めて点検を始めようとしていた[215][218]。またある者は同エレベーターのどこかが燃えていると判断し、消火器を持ちだすためにホールを奔走するなど、店内がにわかに騒がしくなってきた[211]。エレベーターホールの状況を確認にきたバンドリーダーは、エレベータードアから噴出する煙の状態を見て、以前に地下1階のプレイタウン・エレベーターロビーで起こった小火のことを思い出していた[注釈 23][215]。煙はまだ白く、さほど量も多くは無かった。以前も小火はすぐに収まったので今回も当時と同じ状況だろうと考え、バンドマン室へ引き返していった[215]。男性客の1人は、何か焦げ臭く感じると異常事態にいち早く気づき[7]、レジに行って女性従業員に異臭について尋ねていたところ、白煙が漂っているのを直に確認した[7]。男性客は「これは火災だ」と直感し、避難するためにエレベーターホールへ向かった[7]。また別の男性客も異常に気付きレジに来て「火事と違うか!」と叫び[7]、ホステスから階段の場所を尋ね、その案内に従ってエレベーターホールへ向かった[7]。しかしこの男性客2人は、このあとA南エレベーターから噴出する煙に阻まれ、ホールへと引き返すことになる[215]。このころ、支配人がホール出入口とクロークの中間付近に現れ、エレベーターホール前の様子を見ていた[219]。エレベーター前には7、8人がエレベーターを待っており、そこにいた客やホステスらに変わった様子はなかった[219]。支配人は、クローク付近がいつもより少し薄暗く感じたが、煙の状態も店内に少し立ち込めた程度だったので特別に異常を感じず、大したことにはならないと思った[219]。この煙の状態であれば火災は階下で発生していることもあり、客にはいつものように勘定を済ませて帰ってもらえると思い一安心し、しばらくその場に留まって様子を見ることにした[219]

22時41分、クローク係の女性従業員は、タイムカードの時計を合わせるために時報(117番)に電話を掛け終えたとき[220]、A南エレベーターの方向から二筋の白煙がホールへ流れて行くのを見た[220]。そこで隣の電気室にいる電気係に「エレベーターが故障しているのでは」と告げたところ、電気係は状況を報告するためにホール内へ歩いていった[220]。この直後、火災の急速な拡大にともない、A南エレベータードアの隙間から噴き出す煙は、急激にその量を増すと同時に白煙から黒煙へと変わっていった[215]。クローク係は、煙を排出しようと電気室の窓を開けたところ、窓の外からも黒煙が流入してきて生命の危険を感じ、ホール内へ避難しようとしたが、すでにそれすらもできないほどエレベーターホールが煙で汚染された状態になっていた[215]

22時42分、A南エレベーターからの猛煙でエレベーターホールが汚染されるなか、クローク係の女性従業員がクローク後ろにあるB階段出入口からB階段を使用して地上へ脱出した[215][221]。クローク係は、自分の持ち場のすぐ後ろに使用可能な避難階段があることを平素から知っており、容易にB階段を使用して脱出に成功した[221]。このころにはプレイタウン店内に滞在していたすべての人たちが異様な臭気とホールに流れ込む煙に気付き、火災を覚知した[215]。客やホステスらは地上へ避難するために、プレイタウンへ出入りするための移動手段として唯一知っている2基の専用エレベーターに殺到し、エレベーターホール前は混乱した状況へと陥っていった[211]。しかし、A南エレベーターから激しく噴き出す煙によって専用エレベーターが使用できなくなったことで、避難者らはホール内へ引き返さざるを得なくなった[222]。唯一知っている「地上への逃げ道」が絶たれたことで、人々のあいだにパニックが起こり始めた[223]。この時刻ころにプレイタウン店内に最初の放送があり、男性従業員が「火事です。落ち着いて行動してください」とプレイタウン滞在者に呼びかけた。しかしながら防火責任者や従業員による具体的な避難誘導は行われなかった[224]

22時43分、消防隊の第一陣が千日デパートに到着した。すぐさま消防隊による放水準備作業が開始された[225]。このころ火災は3階エスカレーター開口部から2階へ延焼し始めた[226]。一方プレイタウンでは、A1エレベーター(北東側)で7階に昇ってきたホステス1人と男性客1人がプレイタウンのエレベーターホールに充満している煙に驚き、エレベーターホールにいたホステス1人とともに同エレベーターで地上へ脱出した[7][218][227]。支配人は、エレベーターホールが煙で汚染され視界が利かなくなってきたことから[215]、電気室内にある懐中電灯を取ってくるよう従業員に命じたが、発見することができなかった[215]。その後、エレベーターホールにいた人たちをレジ付近に退避させた[215]。このとき支配人がレジ係に対し「ホステスの皆さんは落ち着いてください」と店内放送で呼びかけるよう指示した[注釈 24][228]。エレベーターホールから退避しようとする人たちと、エレベーターホールへ向かおうとする人たちとの流れが出入口付近でぶつかり合い、混沌とした状況に陥ってきた[229]。地上への避難を求める人たちの混乱に拍車がかかってきたことから、支配人はA南エレベーター東隣のA階段から客らを避難させようと考え[215]、ボーイにA階段出入口の鍵を取ってくるように指示した[215]。しかし、ボーイがA南エレベーター西隣に位置するクロークの中に入ろうとしたものの、猛煙に阻まれクローク内に入ることができずに鍵は見つけることができなかった[注釈 25][215][230]。プレイタウンの避難者らは、エレベータードアから噴き出す大量の黒煙によって行動の自由が妨げられたため、ボーイらの指示で再びホールへと退避した[215][230]

逃げ場のない暗闇のガス室[編集]

22時44分、消防隊はデパート保安係に対し、デパートビル1階の北東正面出入口と北西E出入口のシャッターを開けるよう命じた[231]。これは消防隊がビル内に進入して消火活動するために開けさせたものだが、この直後に7階への煙の流入量がより一層増すことになった[231]。消防隊を正面入口へ誘導した保安係員2名は、1階売り場の屋内消火栓から消防ホースを引っ張り出してエスカレーターを駆け上り、2階に向けて放水したが効果は限定的で火災を消火することはできなかった[232][233]。一方プレイタウンでホール内へ押し戻された人々は、エレベーターにも乗れず、非常階段も使えず、7階から完全に逃げ場を失い孤立状態になってしまった[223]。またどこへ逃げていいのかもわからないまま、避難行動は自主性のないものになってしまい、パニック状態に拍車がかかっていった[234]。ホール内に押し戻された人の中で窓際やステージ裏の小部屋(ボーイ室、バンドマン控室、タレント控室の計3室)に移動できた人が窓ガラスを割り、救助を求め出したのはこのころである[235]。またホステス更衣室にいた人たちは、この時点ですでに孤立状態となっていたが、なんとか事務所からE階段出入口の鍵を取り出し、ドアを解錠して脱出を図ろうとした[34]。しかし、E階段はすでに多量の黒煙で汚染されており、鉄扉を解放したことで多量の煙を更衣室に流入させることになった[34]。このころには事務所前の換気ダクトから噴き出す猛煙と熱気により事務所のほうへ近づくどころか、更衣室に繋がる廊下に出ることもできない状態になっていた[231][37]

22時45分、3階がフラッシュオーバーを起こし、火災は同フロア全体に燃え広がった[226]。このころプレイタウン内を逃げ惑っていたある集団は、ボーイの案内でホール西側の物置の中に入り込んだ[236]。そこは、つい1か月ほど前までプレイタウンが6階でも営業していたときの連絡通路があった場所で、ボウリング場改装工事が始まるのをきっかけに6階旧店舗と旧連絡通路が同時に廃止され、資材置場として使われていた[237][238]。その旧通路部分を仮閉鎖するためにベニヤ板で仕切りを作っていたため、その事情を知っていた者は板を破るか物置の中に入りさえすれば簡単に6階へ避難できるはずだと考え、避難者を資材置場へ誘導した。確かに数日前まではベニヤ板による仮閉鎖の状態で、一部の従業員はそのことを確認していた[注釈 26][239]。ところが工事が予想外に進捗していて、遮る物が何もなかったベニヤ板の仕切りの内側に厚さ27センチメートルのコンクリートブロックが積み上げられ、知らない間に頑丈な壁が築かれていた[236][240]。照明もない暗がりの袋小路に入り込み、行き場を失った人たちは、コンクリートブロック製の壁を壊そうと塀を足で蹴ったり、床に落ちていたコンクリートの破片を手に持って叩いたりした。極限のパニック状態で冷静さを失った人たちは煙を大量に吸いこみ、物置の内部とその周辺で力尽きていった[241][242][236][243]

22時46分、延焼階に対して消防隊による放水が開始された[244]。そして4階がフラッシュオーバーを起こした[226]。プレイタウンでは、窓際に移動した従業員の1人によって北東側の金網窓(観音開き)が開けられ[245]、窓下に設置してあった救助袋が地上に投下された[245][246][247]。しかし救助袋の先端には「地上誘導用の砂袋(おもり)」が括りつけられておらず[245][247]、救助袋は2階のネオンサインに引っ掛かってしまった[246][248]。消防隊員の手により救助袋は地上へ降ろされ(22時47分)[245][248]、救助袋先端の把持を通行人らに頼んで7階からの脱出準備が整ったかのように見えたが(22時49分)[245][248]、救助袋の正しい使用方法「上枠を180度上方へ引き起こし、袋の入口を開いて、袋の中に入って滑り降りる」ということを7階で知っている者が誰もいなかった[34][248]。救助袋の入口を開けなかったばかりに、救助袋は平たく帯状に垂れ下がり、本来の救助器具としての役目を果たすには程遠い状態となっていた[34]

22時47分、支配人らはステージ西隣のF階段(らせん状階段)を使って屋上へ脱出しようとした[249]。調理場東隣のF階段出入口の鉄扉を開けるには、事務所の中に保管してある鍵を取りにいく必要があったが[250]、事務所前の換気ダクトから絶え間なく噴き出す猛煙と熱気で事務所に近づけそうになかった。そこで支配人は、扉に体当たりしたり、テーブルの脚をドアノブに叩きつけたりするなどして鉄扉をこじ開けようと試みたが、結局失敗に終わった[注釈 27][249]

22時48分、次に支配人は、ホールに直接面したF階段の電動シャッターを開けようとした[251]。普段はビロードのカーテンで覆われ、その存在が誰の目にも留まらない電動シャッターは、ボーイが作動スイッチを入れると徐々に巻き上がり開いていった[245]。ところがシャッターを開けた瞬間、階段室に溜まった猛煙と熱気は、そのはけ口を7階プレイタウン店内に求めて一気に流入し、脱出しようとした人々をホール内へ押し戻した[252][253]。ほかの階段と同じようにF階段にも既に大量の煙が充満していたのだった[252]。これで7階から自力避難することがほぼ不可能になり、地上へ逃れる道は絶たれてしまった[254]。窓際に移動した人の中で最初に地上へ飛び降りた人が出たのはこのころであった[245]

22時49分、プレイタウンで停電が発生し、店内の照明が一斉に消えた[252]。猛煙と暗闇の中で何も見えないまま、プレイタウンの店内を逃げまどう人々は誰かにぶつかっては倒れ、何かに躓いて転ぶうちに一酸化炭素による中毒の影響で、次第に動く者は誰一人いなくなっていった[252]

地上への脱出、救助、そして終局へ[編集]

22時50分、ホール内で猛煙と熱気の中をかろうじて凌いでいたホステスの1人は、ハンカチで口を押さえながら壁伝いに移動して男性用トイレに入り、嘔吐しながらハンカチを水で濡らして口に当てた。その後に女性用トイレに入り、意識が朦朧となりながらもエレベーターホールへ出て、クローク奥にあるB階段の出入口まで辿り着き、地上への脱出に成功した[255][256]。このころには猛煙と熱気、有毒ガス、停電による暗闇により、室内での行動はほとんど不可能になっており[257]、窓際に移動できずにホール中央やF階段近辺、空調ダクト周辺を逃げ回った人たち、または物置の内側に避難路を求めた人たちは、全員が息絶えてしまった[258]

22時50分から22時55分にかけて、窓際にいた人々もF階段から大量に噴き出す猛煙と熱気による息苦しさで7階窓から地上へ飛び降りる人が続出し始めた[257]。消防隊のはしご車による救助を待ち切れずに、まだ伸長している最中のはしごに縋ろうとして地面に落下する人もいた[259]。東側の商店街アーケードの屋根を目掛けて飛び降りた人たちは、薄いプラスチック板で作られた屋根を突き破り、無残にも地面に叩きつけられていった[260]。また唯一の避難器具「救助袋」の外側に掴まりながら袋の上を馬乗りになって滑り降りた人たちは、摩擦熱に耐えられずに地上へ落下したり、また滑り降りる途中で力尽きて墜落したりする者が続出した[261]。脱出者の1人は、救助袋にしがみついてゆっくりと降下していたところ、上から他の人が勢いよく滑り落ちてきて、その巻き添えを食って2人一緒に地上へ墜落した[262]。またステージ裏の小部屋に逃げ込んだ人々も、多少なりとも猛煙から逃れていたが、F階段シャッターの開放によって小部屋にも猛煙が侵入してきて呼吸が困難になってきたために、一部には息絶える者も出始めていた[257]

22時55分から23時1分にかけて、救助袋から落下してくる人を消防隊が市民の協力を得て設置したサルベージシート(救助幕)で3人を救助することに成功した[263]。このころ消防隊のはしご車による救出活動も本格化し、23時23分までの間に7階プレイタウン窓から50人を救助した[264]

23時10分、デパート電気係によってデパートビル全館の電源供給をすべて遮断した[182]

23時15分、消防隊は、東側商店街アーケード屋根の上に飛び降りた2人を救助した[265]

23時23分、消防隊は、はしご車による救助活動を終了した[182]

23時30分、消防隊は、この時点で7階からの要救助者が存在しないと判断し、はしご車による救出活動をすべて打ち切った[266]

14日(日曜日)0時ごろ、火勢が衰えだす[244]。消防隊は、救出活動優先から消火活動優先に切り替えた。火災鎮圧までの間、ビル外側と内部から延焼階に放水を継続した[267]

1時30分ごろ、7階から飛び降りや転落などで23人が死亡したと市消防局が発表した[244]

2時、この時刻までに7階プレイタウン内部で7名の遺体が確認された[268]

5時、消防隊および大阪府警機動隊による7階プレイタウンの内部探索が始まった[268]

5時8分から20分にかけて、消防隊および大阪府警機動隊が7階プレイタウンフロアにて多数の遺体を確認した[244]

5時43分、火災鎮圧[269]

7時41分、一旦は「火災鎮火」と発表された[269]。内部探索の結果、7階プレイタウンフロア内で96人の遺体が確認された。また7階からの飛び降りや転落で21人の死亡者を確認し、犠牲者は合計117人となった[270]。大阪府警は、プレイタウン店内の現場検証を開始した。

9時30分から15時過ぎにかけて、現場検証が終了した7階プレイタウンから5時間半を費やして遺体搬出作業がおこなわれた。大阪市消防局は、遺体搬出に救急隊7隊を投入し、遺体安置所の南区難波・精華小学校および北区梅田・大融寺に搬送した[271]

13時20分、火災現場を渡海元三郎自治大臣が視察した。同視察には黒田了一大阪府知事、大島靖大阪市長、消防庁幹部、大阪府警関係者も同行した。視察後、渡海自治大臣は遺体安置所へ赴き、遺族と面会した。その後に南消防署南阪町出張所内で記者会見を行い、「救命器具が完全に活用されておらず、管理者や防火責任者が日頃から訓練を心掛けていれば被害は少なくて済んだ。雑居ビルについては、法的な規制も考えなければならない」と述べた[272]

23時45分、大阪府警南署は、火災当日夜に千日デパートビル3階・ニチイ千日前店で電気工事を行っていた工事監督を現住建造物重過失失火および重過失致傷の容疑で緊急逮捕した[273]

15日(月曜日)0時15分ごろ、千日デパートビル5階および6階中央部などから白煙が噴き出しているのを通行人が発見し119番通報した。大阪市消防局は、はしご車など4台を出場させ、6階と7階窓から消火作業をおこなった。同日2時ごろ鎮火状態になり、小火程度で消し止めた[274]。6階でのボヤ騒ぎを受けて市消防局は、消火困難個所および内在物品などの燻りがまだデパートビル内に残っていると判断し、消火および防御活動を再開することにした[275]。15日17時30分、正式に「火災鎮火」と発表された[275]

火災発生から4日後の17日10時15分、7階プレイタウンの窓から地上へ飛び降りて重傷を負い、大阪市内の病院に収容されていたホステス1人が死亡した。これで千日デパートビル火災の犠牲者は118人となった[276]。また負傷者は計81人にのぼり、プレイタウン関係者47人、消防隊員27人、警察官6人、通行人1人となった[277][278]

火災焼失後の出来事[編集]

5月18日、18時30分より火災現場の正面出入口前で初七日法要が執り行われた。火災関係各社の代表、プレイタウン従業員ら約150人が参列した[279]

5月25日、14時から大阪市東区の東本願寺難波別院(南御堂)において、千日デパートビル火災犠牲者合同葬儀が執り行われた。火災関係各社、遺族など約600人が参列した[280][281]

6月4日、大阪府警は、現住建造物重過失失火および重過失致傷の容疑で逮捕勾留中だった電気工事監督を処分保留で釈放した[282]

6月22日、火災発生場所と推定される3階ニチイ千日前店の東側売場において、大阪府警捜査一課および南署捜査本部によって燃焼実験が行われた。その結果、5月13日夜にビル3階で電気工事を行っていた工事監督が現場に捨てたマッチの擦り軸が火災原因であると断定した[283][284]

6月27日、同日9時以降に焼失した千日デパートビル内の立入禁止措置が解除された。大阪府警南署特別捜査本部の証拠保全によって為されていた措置だが、現場検証と燃焼実験が終了したこと、テナントの要望があったことから立入禁止を解除した。しかしながら大阪市建築局は、建物が火害によって著しく損傷していて危険であることからデパートビルの使用禁止命令または勧告を出す方針となった[285]

1973年(昭和48年)5月29日、大阪府警南署特別捜査本部は、日本ドリーム観光ほか火災関係3社の管理権原者および防火管理者ら計6名を業務上過失致死傷容疑で大阪地方検察庁に書類送検した[286]

1973年8月10日、大阪地方検察庁刑事部は、書類送検されていた日本ドリーム観光・千日デパート管理部次長、同管理部管理課長、千土地観光・代表取締役、プレイタウン支配人の計4名を業務上過失致死傷罪で起訴した[287]。失火の原因を作ったとされていた工事監督は、嫌疑および証拠不十分により不起訴処分となった[286]

1975年(昭和50年)1月16日、不起訴処分となった工事監督に対し、日本ドリーム観光と一部の遺族が検察審査会に「工事監督の不起訴処分は不当」だとして審査申し立てを行っていたが、「不起訴相当である」と結論が出され、工事監督の不起訴処分が確定した[288]

1975年12月26日、遺族会統一訴訟において、原告(遺族会)と被告(日本ドリーム観光)の双方が合意に達し、91遺族に対して日本ドリーム観光が損害補償金総額18億5千万円を支払うことで和解が成立するに至った[289]

1980年(昭和55年)1月14日、千日デパートビルの取り壊しが決定した。翌年4月に解体工事が完了し、千日デパートビルは消滅した[290]

1984年(昭和59年)1月13日、新ビル「エスカールビル」が開業した。また翌日の14日には同ビルで「プランタンなんば」が営業を開始した[291]

1984年5月16日、業務上過失致死傷罪に問われた3被告に対し、大阪地方裁判所で判決が出され、3被告全員に「無罪」が言い渡された。検察は「判決には事実誤認がある」として控訴した[176]

1987年(昭和62年)9月28日、大阪高等裁判所で控訴審判決が出され、原判決破棄で一転して「被告3名全員に逆転有罪判決」が出された。被告弁護側は、判決を不服として上告した[292]

1989年(平成元年)7月13日、テナント団体「松和会」と日本ドリーム観光との間で最終覚書が交わされ、テナント訴訟は終結した。日本ドリーム観光がテナント団体に支払う賠償額は合計8億6万4,050円と決まった[293]

1990年(平成2年)11月29日、最高裁判所第一小法廷で開かれた上告審において、業務上過失致死傷罪に問われた被告人3名に対して裁判官全員一致の意見で判決が言い渡された。主文は「本件上告を棄却する」とされ、千日デパート管理部管理課長に禁固2年、6月執行猶予3年、千土地観光の2名にそれぞれ禁固1年6月、執行猶予2年の刑が決定した[14]

消火活動および救出活動[編集]

消防隊による消火救出活動および警察による警備活動の経過[編集]

22時40分、大阪市消防局警防部警備課指令第1係が千日デパート保安係から119番通報を以下の内容で受信した[204][205]

消防局 「こちら119番です」
通報者 「千日デパートビル火事です」
消防局 「何階が燃えているのか」
通報者 「3階が火事です」
消防局 「電話は何番ですか」
通報者 「××××(電話番号)、保安係(氏名も名乗ったが不明確で確認できず)[注釈 28]
消防局 「わかりました」[232][204]

大阪市消防局は火災通報をただちに受理した[204]
なお火災通報時の気象状況は、天候=曇り(雲量10)、風向=東北東、風速=5.5メートル、気温=摂氏17.9度、湿度=69パーセント、実効湿度=63パーセントであった[294]

22時41分、「ミナミ千日デパート3階出火」の一報を指令室より管内全署に発報。第1次出場が指令された[244]

22時42分、南消防署本署[注釈 29]および南消防署各出張所より第一陣が出場した。千日デパートからもっとも近い東側200メートルに位置していた南署南阪町無線付き普通ポンプ車分隊(PR)と同救出車分隊(R)の2個分隊と、北側200メートルに位置していた南署道頓堀PR分隊が、それぞれ現場に急行し、デパートビル50メートル手前まで差しかかったところで同ビル北側の窓から黒煙が噴き出しているのを確認し、南阪町分隊は「煙気あり」を即報。走行中に「第2次出場」を要請した[225]

22時43分、南署南阪町および同道頓堀分隊が火災現場に到着。放水準備作業が開始された[225]

22時44分、南署本署はしご車分隊(L)、同無線付きポンプ車分隊(PR)、同水槽付きポンプ車分隊(T)、同スノーケル車分隊(S)の各隊が現場に到着した[295]。消防指揮者は千日デパート保安係員に対し、消火活動のためにデパート北東正面出入口とE北西出入口のシャッターを開けるよう命じた[204]。さらに消防指揮者は、デパートビル北側に特殊車両を配置するよう指示した[244]。出入口シャッターが開放されたと同時に7階プレイタウンの窓から要救助者50人から60人が身を乗り出した[225]

22時45分、南署はしご車分隊は、はしごの伸長を開始した[296]。南署上町PR分隊が現場に到着した[297]。同時刻に大阪府警は110番通報を受信した[284]

22時46分、南署各隊により延焼階に対して放水が開始された[244]。南署救急隊は、7階に10人以上の要救助者を認めたことから、大阪市消防局管内すべてのはしご車の出動を要請した[244]

22時47分、指令室より特別出動態勢が発令された[244]。南署はしご車分隊は、7階ホステス更衣室窓で救出活動を開始した。同窓から女性2人を救助した[296]。その後、13分間にわたり救出活動を行った[296]。南阪町PR分隊は、7階北東角の窓から投下された救助袋が2階ネオンサインに引っかかったため、はしごを立てかけて登上し、地上へ降ろす作業を行った[204]

22時48分、南署南阪町PR分隊が「第3次出場」を要請した[244]。大阪府警は、火災現場に警察官を派遣し、現場付近一帯の交通規制を開始した[284]

22時49分、南署南阪町PR分隊は、20人程度の通行人に地上に降ろされた救助袋先端部分(出口)の把持の協力を要請した[204]

22時50分、「第3次出場」が発令された[244]。第2次出場の東消防署本町PR分隊、南署恵美須TR分隊(無線付きTポンプ車)および同立葉T分隊(無線なしTポンプ車)、西消防署本署T分隊、特別出場の天王寺消防署本署S分隊が現場に相次いで到着した(47分から50分の間)[295]

22時51分、西署はしご車分隊が現場に到着した[296]。方面隊は、約5分間にわたって7階プレイタウンからの脱出者に対し、ハンドマイクで「飛び降り制止」と「救助袋の正しい使用方法」を呼びかけた[204]

22時52分、西方面隊より「7階で20人から30人の要救助者を確認した」と報告が入る[244]。東消防署本署[注釈 30]はしご車分隊が現場に到着した[296]。特別出場の西署九条PR分隊が現場に到着した。

22時53分、西署はしご車分隊は、はしごの伸長を開始した[296]

22時54分、西方面隊より「7階で50人から60人の要救助者を確認した」と報告が入る[244]。西署はしご車分隊は、7階北東中央窓から救出を開始した。13分間に10人を救出した[296]。阿倍野消防署本署はしご車分隊が現場に到着した[296]

22時55分、南方面隊から「7階窓から飛び降りた者が10人」と報告が入る。東署はしご車分隊は、はしごの伸長を開始した[296]。阿倍野署はしご車分隊は、はしごの伸長を開始した[296]。北消防署本署はしご車分隊が現場に到着した[296]。北署本署R分隊が現場に到着した。
南署道頓堀PR分隊は、デパートビル6階のボウリング場工事現場にアセチレンガスボンベ40キログラム1本と酸素ボンベ同2本が放置されていると報告した[244]
南阪町PR分隊は、15人程度の通行人の協力を得てサルベージシート(救助幕)を設置し、救助袋から落下してくる者の救助を開始し、3人を救助した[204]。その後に同分隊は、はしご車からの落下に備えて23時15分まで救出活動を行った[204]

22時56分、西成消防署本署PR分隊と同屈折放水塔車分隊(W)が現場に到着した[298]。南方面隊は、大阪府警に対し雑踏警備や交通整理などのために機動隊の出動を要請した[284]。阿倍野署はしご車分隊がバンドマン室窓で救出活動を開始し、18分間に20人を救出した[296]

22時57分、北署はしご車分隊は、はしごの伸長を開始した[296]。天王寺署本署排煙車分隊(SE)が現場に到着した[298]

22時58分、南方面隊から「ビル7階北東部窓より12人が飛び降りた」と報告が入る。北署はしご車分隊は、タレント室窓および厨房窓で救出活動を開始し、10分間に10人を救出した[296]

22時59分、第3次出場の西成消防署津守PR分隊、天王寺本署T分隊、南署本署[注釈 30]浪速PR分隊、北署南森町PR分隊[注釈 31]、東署東雲P分隊(無線なし普通ポンプ車)、大正消防署泉尾TR分隊が相次いで現場に到着した(53分から59分までの間)[299]

23時、住吉消防署本署はしご車分隊が現場に到着し、ビル南側に部署し2階ないし4階の消火作業をおこなった[300]

23時1分、西方面隊から「7階に要救助者が20人から30人いる」と報告が入る[244]。東署はしご車分隊は、ビル東側2か所および北東角(救助袋投下窓)の計3個所の窓で救出活動を開始し、23分間に10人を救出した[296]。大阪府警機動隊1個中隊が火災現場に到着した[284]

23時3分、東署本署S分隊および東署東雲PR分隊が現場に到着した[300][注釈 32]

23時4分、東成消防署本署R分隊が現場に到着した[300]

23時5分、港消防署本署S分隊が現場に到着した。大阪市消防局は、デパートビル北側の千日前通路上に現地指揮本部を設置した[284]。消防局長、警防部長、警備課長、各消防署長(計8消防署署長)が出場して方面指揮にあたった[284]。また4方面隊で情報収集を行い、人命救助、防御活動、広報活動を行った[284]

23時7分、天王寺署本署PR分隊および港署田中PR分隊が現場に到着した[300]

23時8分、北署本署S分隊が現場に到着した。西方面隊より「デパートビル3,000平方メートルが延焼中」と報告が入る[244]

23時9分、東署今橋TR分隊が現場に到着した[300]

23時10分、東署本署TR分隊および北署浮田PR分隊が現場に到着した[300]。南方面隊から「40人程度をはしご車で救出中」と報告が入る[244]

23時13分、東淀川署本署はしご車分隊が現場に到着し、ビル北側西寄りに部署して3階ないし5階の消火作業、5階および6階で人命探索活動をおこなった[300]

23時15分、港署田中P分隊が現場に到着した[300]。南署はしご車分隊は、救出活動を終了した[296]

23時17分、阿倍野署本署PR分隊が現場に到着した[301]

23時19分、都島消防署東野田PR分隊が現場に到着した[301][注釈 33]

23時20分、北署はしご車分隊の隊員2人がビル屋上に進入し、探索活動をおこなった[302]

23時22分、西成消防署海道TR分隊が現場に到着した[301]

23時23分、生野消防署勝山PR分隊が現場に到着した[301]。東署はしご車分隊は、救出活動を終了した[296]

23時25分、東成署本署PR分隊、都島署高倉PR分隊[注釈 34]、阿倍野署晴明通PR分隊、東住吉消防署股ヶ池PR分隊が現場に到着した[301]。西署はしご車分隊は、救出活動を終了した[296]

23時29分、阿倍野署はしご車分隊は、救出活動を終了した[296]

23時30分、北署はしご車分隊は、救出活動を終了した。消防隊は、右時刻を以ってすべての人命救出活動を終了した[244]

23時32分、大阪市消防局は、管内の全消防車両の3分の1にあたる85台(はしご車7台、救急車12台を含む)を投入した[38][303]

23時35分、大阪府警は、機動隊1個中隊第2陣を火災現場に配備した[284]

23時58分、阿倍野署本署サルベージ車分隊(SA)が現場に到着し、ビル2階で照明灯火作業をおこなった[301]

14日0時過ぎ、火勢が衰え出す[244]。消防隊は火災鎮圧までの間、延焼階に対する消火活動と火災防御活動を継続した。
大阪府警は負傷者の搬送、捜査活動、警備隊などを現地指揮するための府警本部長を長とする現地警備本部を設置した[284]
南署道頓堀PR分隊から「デパートビル6階のボウリング場工事現場にガスボンベ3本が放置されている」との一報を受け[244]、大阪府警警備本部は千日前通からの避難命令を出した[284]。警察官の出動は総数1,008人にのぼり、負傷者の救護搬送、交通規制、雑踏警備にあたった[302][284]

0時28分、城東消防署本署PR分隊が現場に到着し、地下街の浸水調査をおこない、その後にビル2階へ進入し消火作業をおこなった[301]

1時12分、福島消防署本署P分隊が現場に到着し、各隊に対して燃料補給を実施した[301]

3時、北署梅田PR分隊が現場に到着し、放水砲を輸送して南署救助隊に渡した[301]

4時1分、福島署本署SA分隊が現場に到着し、地階への浸水阻止作業を実施した[301]

5時、南署はしご車分隊、南署本署TR分隊および東淀川署はしご車分隊は、はしご車を使って7階窓からプレイタウン店内へ、または5、6階窓からビル内に進入し、内部探索を開始した[304]

5時15分、大阪府警機動隊1個小隊30人が7階プレイタウンへ内部探索に入った[305]

5時20分、消防隊から「7階で31人の遺体確認。死者は更に増える見込み」と無線連絡が入る[306]

5時43分、火災鎮圧[244]

6時15分、7階探索中の消防隊から「96遺体を確認。遺体に付ける番号札(エフ)が足りない」と無線連絡が入る[306]

7時41分、火災は鎮火したと一旦は発表された。延焼範囲は、2階から4階までの8,763平方メートルだった[307]。大阪府警は、7階プレイタウンの現場検証を実施した。大阪市消防局救急隊7隊は、現場検証終了後(9時30分)に7階から遺体搬出活動を行った[284]

9時、大阪府警鑑識課、科捜研、大阪市消防局が合同で現場検証を開始した。検証の結果、3階中央東寄りの売場の床が最も激しく燃えていたことから同場所を火元と断定した[305]

15日0時15分ごろ、デパートビル6階中央部から白煙が噴き出しているのを通行人が目撃し119番通報した。消防隊は6階窓と7階窓から放水し、小火程度で消し止めた[308]。大阪市消防局は、消火困難箇所および内在物品などの燻りがまだデパートビル内に残っていると判断し、消火および火災防御活動を再開した[275]

15日17時30分、正式に火災鎮火と発表された[275][309]

消防隊および救急隊の人命救出活動[編集]

はしご車は、大阪市消防局保有の8台のうちの7台が出場し、そのうち南署はしご車分隊、西署はしご車分隊、東署はしご車分隊、阿倍野署はしご車分隊、北署はしご車分隊の5台が人命救出活動にあたった[296]。なおデパートビル南側に配置した住吉署はしご車分隊および北西に配置した東淀川署はしご車分隊は、消火防御活動に投入された[310]

南署はしご車分隊の活動[編集]

南署はしご車分隊は、22時42分に出場、44分に現場に到着した。デパートビル北側西寄りに配置。45分、デパートビル7階ホステス更衣室窓にはしごを伸長。47分、救出活動開始。22時47分から23時までの13分間に、ホステス更衣室窓から女性2人を救助した。救助の際、窓がロッカーで半分塞がれており、斧でガラスを叩き割って失神している2人を引っ張り出して救助した。その後、同窓で15分間にわたり救助作業をおこなったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は3階窓および4階窓から放水し火災防御にあたった。ホステス更衣室窓際で死亡者7人を取り残す結果になった[311]

西署はしご車分隊の活動[編集]

西署はしご車分隊は、22時44分に出場、51分に現場に到着した。デパートビル北東側正面に配置。53分、デパートビル7階北東側正面のプレイタウン中央部窓にはしごを伸長。54分、救出活動開始。22時54分から23時7分までの13分間に、失神状態の1人を含む要救助者3人をリフターで救助。さらに、はしご伝いに自力で降りてきた7人を救出。計10人(男性6人、女性4人)を救出した。その後、18分間にわたり内部探索を行ったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は3階窓および4階窓から放水し火災防御にあたった。救出窓で死亡者はいなかった[302][312]

東署はしご車分隊の活動[編集]

東署はしご車分隊は、22時44分に出場、52分に現場に到着した。デパートビル北東側正面東寄りに配置(アーケード入口前)。23時1分、北東側窓1か所(救助袋が設置された窓)にはしごを伸長、救出活動を開始した。順次、東側の窓2か所(商店街アーケードの真上)にはしごを移動し、23時1分から23時23分までの22分間に、合計3か所の窓から計8人(男性5人、女性3人)を救出した。そのうちの5人は、はしごに自力で乗って降下したが、2人は窓際で失神している状態のところを消防隊員に引っ張り出され救助に成功、1人はリフターで救助した。なお、はしごが伸長している最中に2人がはしごに落下してきて地面に墜落し死亡した。救出窓3か所で死亡者9人を取り残す結果となった。なお東署はしご車分隊は、救出活動終了後に2階、3階、7階に対して照明灯火作業を実施した。また2階窓および3階窓から放水し火災防御にあたった。この分隊は内部探索を行っていない[312]

阿倍野署はしご車分隊の活動[編集]

阿倍野署はしご車分隊は、22時44分に出場、54分に現場に到着した。デパートビル北東側西寄りに配置。55分、デパートビル7階北東側西寄り窓(バンドマン室)にはしごを伸長、56分に救出活動を開始した。22時56分から23時14分までの18分間に救出活動をおこなった。まず最初にリフターで2人を救出し、次にはしご伝いに自力で降りてきた18人を救出。計20人(男性18人、女性2人)を救出した。その後、15分間にわたり内部探索を行ったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は3階窓ないし5階窓から放水し火災防御にあたった。バンドマン室窓で死亡者3人を取り残す結果となった[302][312]

北署はしご車分隊の活動[編集]

北署はしご車分隊は、22時42分に出場、55分に現場に到着した。デパートビル北側東寄りに配置。57分、デパートビル7階の北側東寄り窓(タレント室)にはしごを伸長、58分に救出活動を開始した。22時58分から23時8分までの10分間に、計10人(男性10人)を救出した。うち8人はタレント室窓からはしご伝いに自力で降下し、うち2人は厨房の窓際で失神しているところを消防隊に引き出されリフターで救助された。その後、22分間にわたり内部探索をおこなった。23時20分から10分間、消防隊員2人が屋上へ進入し探索活動をおこなった。延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は3階窓ないし5階窓から放水し火災防御にあたった。厨房窓で死亡者5人を取り残す結果となった[302][312]

南阪町分隊の活動[編集]

南署南阪町分隊は、砂袋(おもり)なしで地上に投下された救助袋が2階のネオンサインに引っかかったところを、消防隊員が二連はしごを立てかけて登り、袋の先端を地上に降ろした。その後、通行人に救助袋先端の把持を頼んだ。さらに消防車に積んでいたサルベージシートを救助幕として活用。通行人の協力を得てシートを広げ、22時55分から23時1分の7分間、7階窓から救助袋で脱出する途中に墜落してきた者3人(男性2人、女性1人)を救助することに成功した[263]

そのほかの人命救出活動としては、出場第一陣(南本署四分隊、南阪町分隊、道頓堀分隊)を中心にビル内部の探索を行い、7階はもちろんのこと、延焼階も含めて要救助者の捜索にあたった。消防隊の初期活動は、消火活動よりも人命救助優先で進められた。しかし、濃煙と暗闇により視界が利かず、また熱気により呼吸困難と熱傷に晒されたことからビル内部の探索を断念した。人命救助優先は、23時30分の救出活動終了が宣言されるまで継続されていた[296]

救急隊の活動[編集]

救急隊の活動は、大阪市消防局の救急隊12隊(救急車17台)により[注釈 35]、負傷者を病院へ搬送した[284]。7階からの飛び降りや墜落者が出始めたころから救急搬送が活発化し、はしご車で救出された人たちが50人に達したころにピークを迎えた。搬送は合計25回で、56人の負傷者(即死同然の者も含む)を大阪市内13か所の病院へ救急搬送した[284]。担架隊は10隊が投入された[38]。遺体搬送には救急隊7隊が投入され[注釈 36]、搬送は合計33回に達し、96人の遺体を火災現場から遺体安置所の北区梅田・大融寺または南区・精華小学校まで搬送した[313]

各消防隊の火災消火および火災防御活動[編集]

南署各隊の出場第一陣が22時43分に火災現場に到着し、22時46分から放水が開始された。その後に特別出場体制が発令され、第三出場に加えて特別出場まで行われた。千日前通には現地指揮本部が設置され、7時41分の火災鎮火[注釈 37]までの間に出場した消防隊は16隊(計16消防署)で、投入された消防車両(分隊)は合計85台(はしご車7台と救急車17台を含む)、出場した消防士は596人にのぼった(非番出場の100人を含む)[38]。投入された消防車両の内訳は、普通ポンプ車(PR)25台、普通ポンプ車(P)3台、水槽つきポンプ車(TR)7台、水槽つきポンプ車(T)4台、はしご車(L)7台、スノーケル車(S)5台、屈折放水塔車(W)1台、救出車(R)3台、排煙車(SE)1台、サルベージ車(SA)2台、方面隊車両4台、敏動隊車両(バイク隊)6台、救急車(A)17台である[314]。消火および防御活動に使用した水量は、消火栓25ヵ所から総量1,055万1,671リットルに達した[315][注釈 38]。消火および防御活動などに使用した燃料は、揮発油(ガソリン)で4,820リットル、補給量は2,980リットルだった。軽油で1,132リットル、補給量は440リットルだった[316]。消火および防御活動に夜通し尽力する消防隊員に対して食料が提供された。内訳は、パン1,100個、牛乳835本、折詰寿司355個であった[317]

おもな分隊の活動[編集]

  • 南署南阪町R分隊[注釈 39]
    • 第一出場。デパートビル北側で7階から転落してくる者の救助活動、駐車違反車両の移動作業、照明灯火作業および酸素ボンベ充填作業を行った[295][318]
  • 南署道頓堀PR分隊[注釈 39]
    • 第一出場。デパートビル西側出入口から内部進入し、人命探索活動をおこなった。延長ホース5本連結でビル西側の連結送水管へ給水した。デパートビル西側出入口から内部進入し、延長ホース2系統を1階屋内消火栓に連結して3階および4階へ延ばして消火活動を行った(泉尾PR分隊相掛)。5階でも同階の屋内消火栓を使用して消火活動をおこなった。放水量は44万4,625リットルだった[295][318]
  • 南署本署PR分隊[注釈 40]
    • 第一出場。デパートビル西側から北側で放水する西成本署W分隊の屈折放水塔車に延長ホース7本連結で給水し、南側で放水する北署本署スノーケル分隊に延長ホース9本連結で給水をおこなった。放水量は58万5,525リットルだった[295][318]
  • 南署本署TR分隊[注釈 40]
    • 第一出場。南署はしご車分隊の救助作業補助をおこなった。デパートビル西側出入口からビル内部に進入し、延長ホース5本連結(2系統)で給水、3階と4階で消火活動をおこなった。給水量は75万7,200リットルだった[295][318]
  • 南署上町PR分隊[注釈 39]
    • 第一出場。デパートビル南東側からビル南側で放水する住吉署はしご分隊に延長ホース4本連結で給水、ビル北側で放水する南署本署スノーケル分隊に延長ホース4本連結で給水を行った。給水量は66万2,903リットルだった[295][319]
  • 南署恵美須TR分隊[注釈 41]
    • 第二出場。デパートビル南東側より北側出入口と南側東出入口からビル内部に進入し、延長ホース4本連結(2系統)を使用して2階および3階で消火活動を行った。またビル南側で消火活動をする東署本署S分隊に延長ホース3本連結で給水をおこなった。給水量は72万0,684リットルだった[295][319]
  • 南署立葉T分隊[注釈 41]
    • 第二出場。デパートビル東側から住吉署はしご車分隊へ延長ホース8本連結で中継送水した。ビル南側の路上から3階および4階窓へ放水した。立葉PR分隊に相掛してビル南側からビル内部に進入し、5階で消火活動を行った。放水量は35万3,610リットルだった[295][319]
  • 南署立葉PR分隊[注釈 41]
    • 第二出場。デパートビル南側から屋内階段でビル内部に進入し、延長ホース7本連結で給水、4階で消火活動を行った。また隊員1人は酸素ボンベの充填作業をおこなった。放水量は38万0,780リットルだった[295][319]
  • 南署本署S分隊[注釈 40]
    • 第一出場。南阪町PR分隊および上町PR分隊から中継給水を受け、デパートビル北側から3階窓および4階窓を破壊して、それらの窓へ向けて放水をおこなった。その後にビル3階へ内部進入し、延長ホース2本連結で消火作業をおこなった[295][319]
  • 西成署海道TR分隊
    • 特別出場。 勝山PR分隊から中継給水を受け、延長ホース2本連結(2系統)で東署はしご車分隊に中継送水した。またデパートビル東南角のアーケード上から3階屋内に対して延長ホース4本連結で消火活動をおこなった[301][319]
  • 東署本署TR分隊[注釈 42]
    • 特別出場。阿倍野署本署PR分隊から中継給水を受け、デパートビル北東正面出入口からビル内部に進入し、延長ホース5本連結を使用して2階で消火活動をおこなった。また晴明通PR分隊が相掛で延長ホース4本連結で同様の消火活動をおこなった[320][319]
  • 西成署津守PR分隊
    • 第三出場。デパートビル南側出入口より屋内階段で4階バルコニーに進入し、延長ホース8本連結で消火活動をおこなった。その後に4階屋内で消火活動をおこなった。南署本署PR分隊も相掛で延長ホース3本連結で同様の消火作業をおこなった。放水量は30万6,600リットルだった[298][319]
  • 大正署泉尾TR分隊
    • 第三出場。3階ないし6階に内部進入して要救助者の探索をおこなった。ビル南側の連結送水管に接続し、東署本署S分隊に延長ホース3本連結で給水した。天王寺署本署PR分隊が相掛でデパートビル南西側のアーケード上から延長ホース3本連結で消火活動をおこなった。なお泉尾TR分隊の隊員は、道頓堀PR隊に相掛してビル西側出入口から内部に侵入し、3階および4階で消火活動を行った[304][319]

被害状況[編集]

人的被害[編集]

千日デパート火災における人的被害は、死者118人、負傷者81人である[208]。負傷者の内訳は、プレイタウン関係者47人、消防隊員27人、警察官6人、通行人1人である[321]。死亡者118人および負傷者47人(消防隊員、警察官、通行人の負傷者を除く)は、すべて火災発生時に7階プレイタウンに滞在していた人たちである。7階プレイタウン滞在者以外のデパートビル滞在者31人に負傷者はおらず、全員無事にビル外へ避難している。

火災発生当時の千日デパートビル滞在者[編集]

火災発生推定時刻(22時27分)に千日デパートビル内に滞在していた人は合計212人である[191][275][注釈 43]。火災発生時に館内で営業していたのは「7階プレイタウン」1件だけである[322][323]。各階滞在者の人数と内訳は以下の表のとおりである。

火災発生当時の千日デパートビル滞在者[133][191][275]
男性 女性 滞在者の内訳
屋上 0 0 0 滞在者なし
7階 94 87 181 プレイタウン関係者181人[注釈 44]=客57人(男性56人、女性1人)、ホステス78人、従業員35人(男性29人、女性6人)、バンドマン10人(男性9人、女性1人)、ダンサー1人(女性1人)
6階 6 0 6 ボウリング場建設作業員[注釈 45]
5階 0 0 0 滞在者なし
4階 2 0 2 ニチイ千日前店店長1人、同従業員1人[注釈 46]
3階 7 0 7 電気工事監督1人、同作業員4人[注釈 21]、ニチイ千日前店従業員2人[注釈 46]
2階 0 0 0 滞在者なし
1階 5 9 14 デパート保安係員4人(男性4人)[注釈 47]、プレイタウン・ボーイ1人[注釈 48]、プレイタウン・ホステス9人[注釈 48]
地下1階 2 0 2 デパート電気係1人、デパート気罐係1人[注釈 49]
合計 116 96 212


7階プレイタウン滞在者および生存状況[編集]

火災発生時の7階プレイタウンの滞在者内訳と死亡者、生存者、負傷者の人数は以下の表のとおりである。

火災発生当時の7階プレイタウン滞在者および人的被害状況(死亡者、生存者、負傷者)[208][133][141]
滞在者内訳 滞在者人数 死亡者 生存者 負傷者
男性 女性 男性 女性 男性 女性 男性 女性
56 1 57 33 1 34 23 0 23 11 0 11
ホステス 78 78 65 65 13 13 12 12
支配人 1 1 1 1
営業係 2 2 2 2
保安係 1 1 1 1
ボーイ 12 12 2 2 10 10 10 10
調理係 6 6 4 4 2 2 2 2
酒場係 2 2 1 1 1 1 1 1
ホール係 1 1 1 1
電気係 1 1 1 1 1 1
リスト係 3 3 2 2 1 1
レジ係 3 3 3 3
クローク係 1 1 1 1
衣装係 1 1 1 1
おしぼり係 1 1 1 1 1 1
バンドマン 9 1 10 2 0 2 7 1 8 7 1 8
ダンサー 1 1 1 1 1 1
合計 94 87 181 48 70 118 46 17 63 32 15 47


死亡者の死亡場所および死因[編集]

死亡者の死亡場所および死因は以下の表のとおりである。区域と場所は「ビル外部(路上)」を除いてすべて7階プレイタウン店内である。

死亡者の死亡場所および死因[324][325][13]
区域 場所 死亡者人数 死因
男性 女性
ホール内 メイン通路および資材置場前 13 12 25 一酸化炭素中毒(右全員)
客席 1 0 1 同上
客席通路 0 1 1 同上
フロント内 1 3 4 同上
フロント付近 1 0 1 同上
トイレ 4 3 7 同上
資材置場内部(6階連絡通路跡) 7 6 13 同上
出入口付近 2 2 4 同上
ホール窓際 ホール窓(東1) 1 2 3 同上
ホール窓(東2) 0 6 6 同上
ホール窓(北東6) 2 1 3 男性1人は胸部腹部圧迫による窒息死、他2人は同上
ステージ裏小部屋 バンドマン室 3 0 3 一酸化炭素中毒(右全員)
従業員スペース 厨房 2 3 5 同上
ホステス更衣室 0 7 7 同上
宿直室 1 1 2 同上
通路東側 3 7 10 女性1人は胸部腹部圧迫による窒息死、他9人は同上
冷暖房機械室 1 0 1 胸部腹部圧迫による窒息死
ビル外部(路上) ホール窓(東1)直下 1 3 4 7階窓からの飛降りまたは転落による墜落死(右全員)[注釈 50]
ホール窓(東2)直下 1 1 2 同上
ホール窓(北東5)直下 1 2 3 同上
ホール窓(北東6)直下 3 10 13 同上、または脱出途中の救助袋から落下による墜落死[注釈 50]
合計 48 70 118 一酸化炭素中毒93人、胸部腹部圧迫による窒息死3人、墜落死22人(即死18人、病院搬送後に死亡4人)[13]


プレイタウン店内の死亡者の状況
プレイタウンホール内の死亡者の状況は、個々人が適度に散らばっていたというよりも特定の数か所に折り重なるように集団で死亡していた。焼けただれた遺体は一体もなかった。姿勢は様々で大の字になり、仰け反り、体を丸めてうつ伏せ、そして他人の体の下に潜り込んでいるなどであった。また壁にもたれ掛かり、ボックス席に座ったままうつ伏せで死亡しているなどの状態も見られた。死亡者はおもにホール西側に集中していてメイン通路周辺が最も多く、次に6階連絡通路跡の資材置場内部とその周辺が多かった。プレイタウン滞在者らは、避難に関して何も情報がない中でパニック状態に陥り、ホール内を当てもなく右往左往していたところに従業員が旧6階通路部分とF階段出入口(シャッター)を避難口だとして誘導をおこなった。それらの場所に人々が集中した結果、行き場を失い、煙に巻かれて折り重なるように死亡したものと考えられる。特異な死因「胸部腹部圧迫による窒息死」は、極限のパニック状況の中で発生したと推測できる。多くの避難者が出入口や窓際を目指したためか、ホール中央部の客席にはほとんど死者はおらず、わずか2人だけだった。窓際に避難を求めて窓付近で死亡していた人も多くいた。一か所の窓に何人もが顔を突き出し、外へ身を乗り出すような状態で死亡していたケースも見られた。外気を吸えたためか、それらの遺体は鼻や口の部分は黒く汚れていなかった。その反面、体は酷く煤けていた。ホール内の死者はその大半が鼻や口が黒く汚れていたが、体の煤けは少なかった。また鼻の穴から黒い鼻水または血が出ていた。表情は一部に歯を剥き出して苦悶の表情を浮かべ、目を見開いたままの遺体もあったが、その大半が総じて穏やかな表情であった。一酸化炭素中毒で死亡した者は、中毒の影響によると思われる赤い斑点が皮膚に浮き出ていた[25][317][326][327][306]


負傷者[編集]

火災発生時のプレイタウン滞在者181人[注釈 8]のうち、7階から自力で脱出できた者が10人(男性5人、女性5人)[328]、消防隊のはしご車で救出された者が50人(男性39人、女性11人)[296]、救助袋から地上へ降下中に転落したところを消防隊のサルベージシートで救助された者が3人(男性2人、女性1人)で[329]、7階からの生還者は合計63人(男性46人、女性17人)である[156]。負傷者81人について、プレイタウン関係者の負傷者は消防隊による救出または自力脱出した63人のうちの47人で[8]、残りの16人は負傷者に計上されていない。おもな負傷内容は、煙を吸い込むなどして負った一酸化炭素中毒[330]、救助袋に手足を擦りつけるなどして負った熱傷[330]、飛び降りによる腰部骨折、大腿部骨折、肘骨折、全身打撲、打撲、挫傷などであり[329]、そのほかショック症状、急性結膜炎による負傷もあった[330]。また消防隊員27人の負傷はおもに一酸化炭素中毒である[331]。警察官と通行人の具体的な負傷状況は不明であるが、警察官6人は軽傷、通行人1人は中傷に分類されている[278]

負傷者(傷病者)の症状分類と受傷程度[332]
症状 重症 中等症 軽症
一酸化炭素中毒 4 10 4 18
ショック症状 0 1 0 1
一酸化炭素中毒およびその他の負傷 5 4 4 13
その他の負傷 5 1 8 14
火傷 0 0 1 1
急性結膜炎 0 0 25 25
急性咽頭炎 0 0 3 3
急性咽頭炎およびその他の負傷 0 0 1 1
急性気管支炎 0 0 1 1
一酸化炭素中毒および急性咽頭炎 0 2 2 4
合計 14 18 49 81


負傷者(傷病者)の受傷程度内訳[277]
重症 中等症 軽症
男性 女性 男性 女性 男性 女性
3 0 2 0 6 0 11
ホステス 7 4 1 12
プレイタウン従業員 4 0 8 1 2 1 16
バンドマン 0 0 1 1 6 0 8
消防隊員 0 0 0 0 27 0 27
警察官 0 0 0 0 6 0 6
通行人(ホステス) 0 1 0 1
合計 7 7 11 7 47 2 81


7階からの生還者[編集]

自力脱出者
7階プレイタウンから生還した者の中で、自力で脱出できた者が10人いる[333][334]。内訳は以下の表のとおりである。
7階プレイタウンからの自力脱出者[334][133][141]
脱出手段 男性 女性 備考
エレベーター 0 1 1 ホステス1人[注釈 51]、A1エレベーター(北東側)で脱出
B階段 0 2 2 クローク係1人、ホステス1人
ホール窓(東2)からの飛降り 2 0 2 客1人はアーケード上のワイヤー目掛けて飛降り、従業員1人は窓から垂直にアーケードへ落下
救助袋 3 2 5 救助袋の外側を馬乗りで降下
合計 5 5 10 全員生存者

プレイタウン滞在者以外の自力脱出者としては、地下1階に宿直で滞在していたデパート電気係と気罐係の計2人、1階に滞在していたデパート保安係員4人、3階で電気工事をおこなっていた工事作業員5人、6階でボウリング場建設工事をおこなっていた工事作業員6人の合計17人がいる。6階滞在者の工事作業員らを除く他の全員は階段または出入口を使用してビル外に避難しており、それらに負傷者はいない[335]。6階滞在者の工事作業員は、全員が6階作業場からデパートビル西側ベランダに移動し、そこからビル外に出て、ビル南西角の鉄骨の足場を利用して5階まで降りた。そのあと避雷針のワイヤーと給水パイプを利用して南西側のアーケード屋根へ降りてアーケード備え付けの梯子で地上へ全員避難した[336][124]


B階段を使って避難した2人の女性
B階段を使って避難できた2人のうち、クローク係の女性は、エレベーターホールに白煙が漂っているのを感じ、隣の電気室にいる電気係にそのことを知らせた。電気係は現状を知らせようとホール内へ向かっていった。その直後にA南エレベーターから噴き出す煙の量が急激に増してきて、数メートル先も見えない状況に陥ったために、クローク係の女性は危険を感じてすぐにB階段から避難した。クローク係の女性は、自分の持ち場のすぐ後ろに避難階段があることをあらかじめ知っており、さらにはクロークがB階段に直結していたことが幸いし自力で脱出できた[328]。またもう1人のB階段を使って避難に成功したホステスは、接客中に煙の流入に気付いて客席からレジに向かったが、店内放送で「落ち着いてください」と流れたため、元の客席に戻ってしばらく座っていたが、煙に巻かれたため避難することにした。猛煙と停電による暗闇の中、手探りでフロアを進み、男性用トイレと女性用トイレに交互に入って嘔吐したり、ハンカチを水に濡らして口に当てたりした。そして壁伝いにエレベーターホールに出て、なんとかB階段にたどり着き、無事に地上へ脱出できたという。この女性が猛煙と熱気、暗闇の恐怖に晒されながらもB階段を目指せたのは、普段から退勤時にエレベーターを使わず「健康のために」という理由でB階段を利用していたからであり、事前に持っていた情報が自力脱出の成功に大きな影響を与えた[329]


7階窓から飛び降りて助かった男性客
7階東側窓からアーケード屋根に飛び降りて助かった男性客1人は、火災覚知の初期にほかのプレイタウン関係者同様、エレベーターホールへ行ったり、ほかの非常口を目指したりしたが、いずれも使えずに避難が不可能になったため、東側窓に移動した。そのときの状況を男性は次のように語っている。
友達と飲んでいたら急に煙が店内にたちこめたので、火事だと思い、エレベーターの乗り場へ飛んで行った。しかしここはすでに人でいっぱいのため、反対側の非常口へかけつけたが、これも使えなかった。火が店内まで回り、キャーッという悲鳴がうずまき、客もホステスもパニック状態だった。最後の逃げ口として窓へ取り付き、ガラスを割ったがものすごい煙と火に攻められた。別の窓から次々に客とホステスが耳をつんざく悲鳴を残しては飛び降りていった。頼みのツナの梯子車は私の窓にはやって来ず、いっしょにいた5、6人は順々に飛び降りた。私は10数年前から趣味でダイビングをしていたので降りる見当はつけやすかった。歩道にある電柱を支えるロープ(アーケード上の補強ワイヤー)をめがけて飛び降りた。ちょうどおなかの部分がロープに当たり、その反動でアーケードの屋根にドスンと降りて助かった。気が付くと腕時計もなく、下着もおなかの部分でちぎれていた〔ママ[337][329] — 男性客N.M.さん、産経新聞 1972-05-14
また一方で次のように語った。
二回目に、エビ飛び見たいな形で飛び降りた。ゆっくり降りている、という意識があって、うまくいったと思った[338] — 男性客N.M.さん、週刊朝日 1972-05-26
アーケード屋根に張られた2本のワイヤーをめがけて飛び降りた際に、腹がワイヤーに当たって助かったという。肋骨骨折、腹部裂傷の重傷を負ったが、19年間続けていた趣味のダイビング経験が活かされ九死に一生を得た形である[339]。それでも飛び降りるのを1度はあきらめ、10分くらいは窓枠にぶら下がって逡巡してから飛び降りたという[340]。もう1人の男性もアーケード屋根に落下して助かった[341]。こちらは、猛煙と熱気から逃れようと窓枠にぶら下がっているうちに力尽きて、垂直にアーケードヘ落下したが左大腿部骨折と左肘骨折の重傷を負いつつも一命を取り留めた[341]


救助袋で脱出に成功した女性
救助袋の上を馬乗りになって降下して助かったホステスの1人は、そのときの状況を次のように語った。
私はボックスでお客さんにビールをついでいました。もうみんなめちゃくちゃ、どこへ逃げていいかわからず、とにかく強そうな男の人にくっついていけばと思った。そばにいた背の高い人の背広のそでを握りしめて、窓のところまでたどりつきました。私は10何人目かに窓わくを乗り越え、布につかまった。下を見てはいけないと考え、両手に満身の力をこめてすべり降りた。私の両手の上に次の男のひとのおしりがのっかり、すべり降りているうち、まさつで手の平が熱くなり、破れて血が出たのがわかった。でも、この手を離したらおしまいだと思って……〔ママ[342][329] — ホステスM.K.さん、読売新聞 1972-05-14
ホステスは、地上まであと3、4メートルのところで手を離し落下、両腕と腿の座創、左足首を捻挫した[329]


消防隊による救助者
消防隊のはしご車(計5台)による7階からの救出者は50人で、救出された全員が生還できた。7階プレイタウンフロアからの避難路を探す際に、あまり右往左往せず、いち早く外窓に取りついた者がはしご車に救われた。体力が残っていた者は窓枠を乗り越え、はしごの先端から自力ではしご伝いに降りてきており、おもに男性が多かった。消防隊の救助でリフターに乗せられて降下した者は、窓際で失神していたか体力が弱っていた者、女性であった。また消防隊は救助袋から脱出途中に転落してきた3人(男性2人、女性1人)をサルベージシート(救助幕)で受け止めて救助した。サルベージシートの設置には通行人20人程度の協力を仰いだ。
消防隊による7階プレイタウンの救助者[343]
救助方法 救助担当 男性 女性 状況
はしご車による救助 南署はしご車分隊(L4) 0 2 2 ホステス更衣室窓から2人をリフターで救助。
北署はしご車分隊(L8) 10 0 10 タレント室窓から8人、厨房窓から2人を梯子伝いに救出。
阿倍野署はしご車分隊(L5) 18 2 20 バンドマン室窓から2人をリフターで救助、18人を梯子伝いに救出。
西署はしご車分隊(L6) 6 4 10 ホール窓(北東4)から女性3人をリフターで救助、他7人を梯子伝いに救出。
東署はしご車分隊(L9) 5 3 8 ホール窓(東1)から男性4人および女性1人、同窓(東2)から男性1人、同窓(北東6)から女性2人を救出。
小計 39 11 50
サルベージシート(救助幕)による救助 南署南阪町PR分隊(PR200) 2 1 3 ホール窓(北東6)設置の救助袋から脱出途中に転落してきた3人をサルベージシートで受け止め救助。
合計 41 12 53 全員生存者。7階プレイタウン滞在者の生存者は、自力脱出者と合わせて合計63人である。


統率の取れた集団
バンドマン10人は、火災覚知の初期段階からバンドリーダーの指示でステージ裏のバンドマン控室に全員が待機していた[344]。ステージ裏の小部屋(ボーイ室、バンドマン控室、タレント室)は、ベニヤ板で間仕切りされた簡易的な部屋であったが、細かく仕切られフロアから隔絶されていたことで煙の汚染が比較的緩かった。だがF階段の電動シャッターを開けたことで7階プレイタウンに大量の猛煙と有毒ガス、熱気が流入するようになり[253]、それ以降は小部屋にも煙が大量に入るようになっていた。バンドマンらはドアの隙間に布や鼻紙を詰めて煙を凌ごうとしたが効果がなかった。そこでバンドリーダーは、部屋に普段から置いてあった野球のバットで窓を叩き割り、一緒に避難している仲間たちに順番に外気を吸わせて救助を待った[235]。バンドマン室の窓に阿倍野署はしご車分隊のはしごが伸びてきて救出が始まったのは22時56分である[345]。はしごの先端についていた消防ホース(ノズル)が邪魔して、はしごと窓枠の間に30センチメートルほどの隙間ができていた[345]。バンドリーダーは自分の体重を掛けてノズル(ホースの先端部分)を押し下げ、すき間を解消した[346]。そのすぐあとに最初の2人がリフターで降下、その後を18人の避難者がはしごを自力で降りていった[346]


物的損害[編集]

建築物および装備品の損害
本件火災によって損害を受けた千日デパートビルの延焼範囲は、同ビル2階から4階までで、床面積合計1万899平方メートルのうち8,763平方メートル(80.4パーセント)が焼損し、延床面積2万7,514.64平方メートルに対する割合では31.8パーセントに及んだ。延焼階ごとの焼損割合は2階が床面積3,714平方メートルのうち3,192平方メートル(86パーセント)、3階が床面積3,665平方メートルのうち3,218平方メートル(88パーセント)、4階が床面積3,520平方メートルのうち2,353平方メートル(66.8パーセント)である[275][309]。延焼階より上の各階は階段、空調ダクト、電気配管、エレベーターシャフトからの煙や熱気の流入によってフロア全体と商品および装備品などに多量の煤煙がかかる損害を受けた[347]。5階の一部フロアでは、空調ダクトの隙間から流入した熱気の影響で、天井板が崩落した[348]。6階と7階ではフロアの一部で限定的な焼損がみられ、5月15日未明に6階ボウリング場改装工事現場(千日劇場跡)で小火が発生し、床の一部が焼損した[349]。また7階プレイタウンでは、事務所前の空調ダクトから熱気を伴った多量の煙が店内に流入し、ダクト吸入口周辺の天井、壁、事務所ドアなどの焦損、または廊下に積み上げられていたビールケースおよびビール瓶などの一部を熔解させる損害を出した[350]。延焼階より下の各階では、消火活動に使われた多量の消防用水が上階から流れ込み、その影響により地下1階と1階で商品や装備品などが冠水し損害を受けた[351]。千日デパートビル以外のおもな損害としては、千日前商店街アーケードのプラスチック製屋根が7階からの飛び降りによって天板に穴が開き、その一部が破損した[352]


損害額
大阪市消防局が公表した罹災者提出の申告書によると、火災焼失による被害額は建物で19億5,000万円、収容物で16億7,937万7,000円、合計36億2,937万7,000円である。収容物の損害額内訳は、商品12億2,395万2,000円、什器備品(装備品)3億695万3,000円、その他1億4,847万2,000円である[353]

出火原因[編集]

出火原因については、出火推定時刻22時27分(大阪市消防局推定)[41]の直前まで3階東側の出火推定場所(寝具・呉服売場付近)をタバコを吸いながら1人で歩き回っていた工事監督の失火であると推定された[41]

工事監督の失火が火災原因とする根拠としては、以下のことが挙げられる。

  1. デパートビルの電気系統には漏電などで出火を起こすような原因は確認されなかった[6][354]。21時30分ごろ(火災発生の1時間前)、ニチイ千日前店の店長が3階売場の点検を行ったところ、出火推定場所に異常は見られなかった[186][187]。また同時刻に保安係員2人によって3階の巡回が行われたが、北側と南側の二手に分かれて同階を点検したところ、出火推定場所に異常はなかった[154][186][187]
  2. 出火推定時刻に3階にいたのは工事監督1人と工事作業者4人[注釈 21]だけである[40][6]
  3. 出火推定時刻の10分ほど前に、工事監督が出火推定場所である東側売場の方へ歩いていくのを工事作業者に目撃されている[288]。また出火推定時刻に作業現場を離れて出火推定場所付近を歩き回っていたのは工事監督1人だけである[6][355]
  4. 工事監督は、歩きながらタバコを2本吸い、火がついたままのマッチを布団の上に捨てたと供述している[6][355]
  5. 工事監督が供述したタバコかマッチを捨てた場所と、出火推定場所が一致する[288]

以上の状況証拠によって工事監督は、1972年5月14日23時45分、現住建造物重過失失火および重過失致傷の容疑で大阪府警南署に緊急逮捕された[273]

警察の取り調べに対し工事監督は以下のように供述した。:

工事終了後の予定であった北側の機械室から東側部分を今後の工事を確かめるため見て回ったり、店内を徘徊していたところ、火災現場に至って煙草が吸いたくなりパイプに煙草をさして口にくわえ、マッチで火をつけたが、その火の消えていないままのマッチをそのまま、布団の上に捨てたか、どこかでパイプに差した煙草に火をつけ、火災現場でパイプを吹いて火のついている煙草を布団の上に飛ばした。〔ママ[273] — 電気工事監督、危険都市の証言 1981

大阪府警捜査一課・南署捜査本部は、1972年6月22日10時から火災現場で工事監督の「タバコかマッチを布団の上に飛ばした(捨てた)」という供述の裏付けを取るため、出火状況を再現する燃焼実験を実施した[356]。その結果、工事監督が布団売場の布団の上に火のついたマッチを捨てたことが火災原因だと断定した[356]。しかしながら、大阪地方検察庁は1973年8月10日、「供述に一貫性がなく起訴するに足る証拠がない」として工事監督を不起訴処分にしている[273]。また防火管理責任者などに対する刑事裁判の判決文においても「工事監督の行動や供述を証拠上確定させることができない」として、公式には火災原因は不明とされた[6][7][355]

「工事監督の供述に一貫性がない」とされるが、最初の供述は引用で記したとおり、あいまいで要領を得ず、はっきりしないものであった。「3階でタバコをふかしながら歩いているうちに、パイプのタバコをふかしたまま捨てた」と供述し、その後「火のついたマッチの軸を捨てた」に変わり、そして「自分がマッチで放火した」と言い出した。さらに追及すると「火のついたタバコを捨てた」「タバコを吸うときにつけたマッチの火が消えているのを確認しないで捨てた」などと言うなど、供述を二転三転させている(第75回国会・衆議院法務委員会政府委員、法務省刑事局長答弁から)[288]。工事監督の供述には客観的な状況と合わない部分も見られた。たとえば「火災報知機のボタンを押してすぐに6階へ119番通報のために走った」との供述をしたが、工事監督からの119番通報を大阪市消防局は受信していない[357]。また「6階で119番通報をしたあと、4階へ降りたが煙に巻かれたので再び6階へ上がり、6階の窓を破ってネオン修理用のタラップに飛び移り、2階へ降りて消防隊に救われた」との証言があるものの[205]、その一方で大阪市消防局の質問調書には「工事人らが避難した後を追って1階へ逃げた」とも答えており[357]、不起訴になった理由は一貫性のなさに加えて信用性のなさも影響している[288]

直接的な証拠がないこと、目撃者がいないことも不起訴の理由となっている[288]。実際のところ、工事監督の自供以外に犯行を裏付ける証拠が存在せず、犯人であると断定するには証拠が乏しく、起訴したとしても公判を維持できないか、もしくは被疑者を有罪にできる可能性がきわめて低いと判断したことから大阪地検は不起訴処分にしたという(同答弁)[288]。仮に火のついたままのマッチを布団の上に捨てた場合、どれくらいの量の布団に火がつけばあのような火災になるのか、前記のとおり警察は火災現場で燃焼実験を行ったが[284][356][288]、その結果は1メートル以上の高さの布団に火がつけば、本件火災のレベルに達することが判明した[288]。たとえ無意識であったとしても、常識的に考えて高さ1メートルの布団の上に火のついたままのマッチを投げ捨てることなどあるだろうか、という疑問と不自然さも不起訴に至った理由として挙げられている(同答弁)[288]

不起訴に至った理由としてもうひとつ挙げられるのは、工事監督以外に失火か放火に関与した者が別にいるのではないかと疑念が持ち上がったからである。火災発生2週間ほど前の4月30日夜、千日デパート4階・ニチイ千日前店の婦人服売り場で、何者かが商品の婦人服にいたずら書きをした事件があった[288]。さらに火災発生当夜、デパート閉店後に3階・E階段出入口の防火シャッターが閉鎖されていたことは保安係員によって確認されているが、なぜか火災発生時に防火シャッターは開いていた。この2つの事実が確認されているため、大阪地検は工事監督を起訴することに慎重にならざるを得なかった背景もある(同答弁)[288]

1974年4月15日に開かれた遺族統一訴訟の口頭弁論で、工事監督は「出火地点には近づいていないし、タバコやマッチを捨てたこともない。脅されて殴られたりして早く釈放されたい一心で調書に署名、押印した」などと述べ、一転して全面否認している[273]

日本ドリーム観光は、1974年(昭和49年)7月9日に被疑者(工事監督)の不起訴処分は不当だとして検察審査会に審査申立を行った[288]。同年12月5日から9日までの間に6回の審査会議が開かれ、議決に向けての流れができあがったところに、1975年(昭和50年)1月14日、遺族3名が被疑者(工事監督)の不起訴処分に納得できないとして検察審査会に申立を行った[288]。遺族3名からの申立については、審査を申し立てたのが被害者本人ではないことから、即日却下された[288]。しかし、検察審査会の職権により、日本ドリーム観光の審査申立に併合する形で審査が進められることになった。その結果、1月16日に「被疑者(工事監督)の不起訴は相当である」と結論が出された(第75回国会・衆議院法務委員会、最高裁判所事務総局刑事局長の答弁から)[288]。これによって一事不再理の原則から工事監督の不起訴処分が確定した。

出火場所[編集]

出火推定場所は、南警察署によると「3階東側の柱12号の南西の布団台」付近、また南消防署長の火災原因決定意見書では「店舗Q」および「ニチイ寝具・呉服売り場」付近と推定された[273]。いずれも第一発見者の工事人が目撃した「赤黒い炎と黒煙」が立ち昇っていた3階東側のエリアである。この付近は、コンクリートの柱、梁、スラブ、金属類以外はすべて燃え尽きていたが、柱やスラブの煤けの程度はほかの場所に比べて少なかったことが根拠となっている[41]

火災および被害が拡大した要因[編集]

1960年代から70年代の高度経済成長期には、商業施設や病院、宿泊施設などで高層建築火災が小火も含めて全国的に頻発していた。その中でもなぜ千日デパートビルの火災だけが未曾有の被害を出すに至ったのか(1972年5月の時点において)。本件火災の現場となった千日デパートビルと甚大な人的被害を出した7階「プレイタウン」には、ハード面およびソフト面の両面で、防火管理上の何らかの個別的な問題があったと考えられた。同ビルおよび同風俗店は、消防当局から防災面や設備面において、いくつかの不備について改善を指導されていた事実はあったが、それでも根本的な法令違反があったわけでも、建物や施設に致命的な欠陥があったわけでもなかった。いずれも当時の建築および消防関連の法令には適合していた。また商業施設が何か如何わしかったわけでも、評判が悪かったわけでもなかった。負の連鎖反応がどこかで断ち切れば大災害は起きなかったはずであるが、その理由も含めて本件火災には一体どのような個別的な問題が隠されていたのか。千日デパートおよび7階プレイタウンの防火管理上の問題点と被害が拡大した様々な要因を以下に記す。

千日デパートの防火管理上の問題点[編集]

既存不適格の建物[編集]

千日デパートビルは、1932年(昭和7年)に建設された建物に度重なる改修を加えて使用しており、火災当時(1972年)の建築基準に適合しない部分がみられた。特に1969年から70年にかけて建築基準法の改正が行われたことによって、建築法令に適合しない部分を多く抱えたまま営業を続けており、いわゆる既存不適格の建物であった[358]。法令不適合の部分に関しては「前法不遡及の原則」に従って改修や設置義務から免れていた。本件ビルが抱えていた建築法令に関する既存不適格の部分とは、例えば、店舗の内装に関する新基準、排煙設備の設置、非常用照明装置の設置、非常進入口の設置、防火戸の熱感知自動閉鎖装置設置、防火区画(面積および竪穴区画)の新基準、階段の幅や構造に関する新基準、特別避難階段の設置などである[358]。また消防法令においても1961年(昭和36年)以前に建てられた建築物かつ防火対象物ということで、こちらも建築法令と同様「前法不遡及の原則」に従って、現行法令の基準を満たす消防用設備などの設置義務の対象からは外され、遡及適用を免れていた。その代表的な例としてはスプリンクラーの設置が挙げられる[359]

共同防火意識の欠落[編集]

千日デパートは、1958年(昭和33年)12月の開業当初から複合用途の商業施設だったが、ビル全館を同一の管理権原者(千日デパート管理会社)が管理する防火対象物として消防計画が提出されていた。ところが1967年(昭和42年)に異なる管理権原者である「プレイタウン」と「ニチイ千日前店」が同ビルに出店したことから防火管理体制が複数に分かれるきっかけになった。特に7階プレイタウンは、独自の防火管理者を選任し、個別に防火管理をおこなう体制になっていた。1969年(昭和44年)に消防法が改正され、管理権原が分かれている複合用途防火対象物は共同防火管理が必要な対象物に改められたが、同デパートは南消防署からの度重なる指導にもかかわらず、火災発生当日に至るまで共同防火管理体制を取ろうとはしなかった。火災発生2か月前の3月に千日デパートとミナミ地下街関連の6つの関係者は、南消防署の指導で会議を開き、4月1日に「ミナミ地下総合共同防火管理協議会」を発足させ、その発会式を同月13日におこなった。組織や機構などを話し合う前に本件火災が発生したが、肝心のデパートビル内における共同防火管理体制は引き続き等閑となっていた[360]

千日デパートを経営管理する日本ドリーム観光と、プレイタウンを経営管理する千土地観光とは「親会社と子会社」の関係にあるが、両社間で共同の消火訓練や避難訓練を実施したことは一度もなかった[361]。また千日デパートとプレイタウンの間で防火管理の責任者同士が火災や災害時の通報体制、避難誘導などについて協議したこともなかった[362]。また、共同で防火管理を行うための協議会を設置する構想すらもなかった。異なる管理権原者同士の共同防火管理意識のなさを象徴する例として、火災発生の10か月前に千日デパート管理部は、6階以下の階すべてに災害時に全館一斉放送できる防災アンプ(非常放送設備)を設置したが、7階プレイタウンだけには設置されず、その事実をプレイタウンに通知していなかった。さらにはプレイタウンから1階保安室へ火災発生を知らせる火災報知機は設置されていたが、全館の火災を知らせるために7階で鳴動する火災報知機(警報ベル)の設置はなかった。また保安室からプレイタウンへ緊急通報する手段は、内線電話と外線電話の両方があったものの、それはデパート営業時間内(21時まで)に限られていた。デパート閉店後の保安室とプレイタウン間の連絡は、同じ建物内に入居していながら「外線電話(一般加入電話)」で行うしか手段がなかった[361]

千日デパートとプレイタウン相互の連絡体制について、平素からの取り決めは実際どのようになっていたのか。大阪市消防局が調査したところによれば、デパート保安係長の説明では「火災があってもプレイタウンに通報することになっていなかった」といい、プレイタウン支配人の説明では「階下で火災があればデパート側が知らせてくれることになっていた」と述べたが、平素からの取り決めについては明確ではなかったとしている。またデパート管理部管理課長の説明によれば「ビル管理上においてデパート側とプレイタウン側との間に規約的なものはなく、取り決めもない。巡回については慣習的にプレイタウンについてもおこなっている。火災時の通報については申し合わせていない」と述べた。南消防署の千日デパートに対する連絡体制についての指導は、同デパートの自衛消防組織を指導した際に、火災時にはプレイタウンに通報するように、と火災発生前から既に指導していた[363]

消防査察の指摘を無視[編集]

本件火災発生の1年前(1971年5月)、千葉市の田畑百貨店で閉店後の深夜に火災があったことをきっかけに、消防当局は商業施設閉店後の防火区画シャッターやエスカレーターの防火カバーシャッターを閉鎖するように指導方針を大きく変更した[364]。それにともない大阪市消防局は、1971年(昭和46年)5月25日と26日に管内の百貨店や商業施設に対して夜間査察を実施した。同時に南消防署も管内の百貨店などに対して特別点検を実施した[365]。大阪市消防局と南消防署は、査察と点検の結果を各施設の関係者を集めて報告し、同時に説明会も行った。そこには千日デパート管理部管理課長も出席していた。同デパートについて市消防局と南消防署が指摘した内容は以下のとおりである[365][366]

  1. 2階F階段・吹き抜け閉鎖用の横引きシャッターが故障していて使えない状態であり、閉鎖できるように修理すること。
  2. 各階フロアの防火区画シャッターのシャッターラインが確保されていない箇所があり、改善すること。
  3. 閉店後に各階フロアの防火区画シャッターおよびエスカレーター開口部と各階段出入口の防火シャッターを閉鎖すること。

消防当局の査察の結果を受けて管理課長は、各テナントの協力を得てシャッターラインの確保は実施したが、2階F階段横引きシャッターの修理と閉店後の防火区画シャッターの閉鎖については実行しようとせず、消防署の指導を無視した。2階F階段シャッターの故障については、消防当局から再三にわたり改善を指導されており、1970年(昭和45年)12月にも管理課長は南消防署から同シャッターの故障について指摘されていたが、そのことを上司に報告するも、何も改善されなかった[367][366]。その後も一向に改善も修理もされず、火災発生日を迎えた[365]。防火設備の設置に関する中途半端な対応の例として、熱式感知器は一部の階を除いて設置されていたが、火災延焼階である2階ないし4階にだけは取りつけられていなかった[368]

脆弱な保安体制[編集]

千日デパートの保安管理は、日本ドリーム観光の千日デパート管理部に所属する保安係がその業務を担当していた[369]#千日デパートビルの保安管理 保安係の主たる任務は、商品や各店舗の保安監視および安全管理、火災などの災害または盗難等の予防監視ならびに警備取り締まりであるから[370]、デパート閉店後の館内巡回は重要な業務であり、防火シャッター等の閉鎖確認も災害発生を未然に抑えるうえで重要である[371]。また店内工事に際して保安係員が立ち会うことも各テナントに対する保安管理面の責務として必要と考えられるところ、同デパートでは、人員の削減などにより十分な保安体制が確立されない状況となっていた[372]。同デパートでは、消防当局からの指導で売場内の防火区画シャッターを閉店後に閉鎖するように指導されていた[147]。同デパートの防火区画シャッターは一部を除き、そのほとんどが手動式で、地下1階から4階までに合計68枚設置されていた。これらを限られた人数の保安係員だけで開店時と閉店時に開閉するのは労力的に厳しく、その実効性はなかった[373]。保安係の職務のひとつに「店内諸工事などの立ち会いならびに監視取り締まり業務」があり、本来ならば店内工事に際して保安係員が工事に立ち会う義務があったところ、昭和40年ころから一部を除いて工事に立ち会っていなかった[374]。保安係員は、開業当初の1958年当時は25、26人の人員がいたものの、1967年(昭和42年)に納入業者制を廃止し賃貸契約制に移行したのを機に人員が削減され、火災発生当時の1972年(昭和47年)には日勤専従者2人を含む14人(2班6人、24時間勤務、隔日交代)で業務を行っていた。また給与面などの待遇はあまり良くなく、退職者が発生してもその補充が容易にはできなかった。したがって保安係員だけで68枚の防火区画シャッターを開閉することは難しく、テナントの協力を得て売場の防火区画シャッターを開店時と閉店時に開閉することも困難な状況であった。またテナントの多くは、デパートビルの防火管理はデパート管理部が行うべきものと考えていて、デパート側とテナント側双方の共同防火意識は希薄だった[375]。のちの防火管理者らに対する刑事裁判やテナント訴訟において、デパート管理部の防火責任者が消防当局からの指導があるにも拘らず、防火区画シャッター閉鎖の体制づくりを怠っていたことが火災被害拡大の要因であると認定されたことから、同シャッター閉鎖の実効性は現にあり、テナントの協力を得ることでも同シャッター閉鎖は実現できたと考えられた[376]

テナントの宿直を認めず[編集]

千日デパート管理部では、各テナントが閉店後の夜間に宿直することを認めていなかった[377]。これは同デパートの保安係員が各テナントの商品や店舗に対する安全管理の責務を担っていることを意味していて、各テナントとの間に保安管理契約が存在することは明らかであった[80]。またその履行も成されなければならないところ、保安係員は火災当日夜の閉店後に3階で電気工事が行われているにも関わらず、その工事に立ち会わなかった[378]。その結果、同階で火災が発生した直後に防火区画シャッターを閉鎖し、消火器や消火栓などを用いて初期消火を行うことができず、さらには7階で営業中のプレイタウンに対して火災発生を知らせずに人的被害を拡大させ、その保安管理体制の杜撰さが露呈した[379]。またテナントに対する保安管理契約の存在が明らかであるのに、工事の立会や喫煙管理などの防火管理をテナント(ニチイ)に丸投げしていたことも問題点として挙げられる[380]。出火元となった3階ニチイ千日前店は、賃貸契約時のデパート管理部との取り決めで、同店が出店している3階と4階の階段C、E、Fの出入口に設置してある防火扉と防火シャッターおよび4階エスカレーターの防火カバーシャッターの閉鎖は、ニチイ社員が閉店時に実施することで合意を結び特約していた[196]。ところが売場内の防火区画シャッターの閉鎖については双方の間で取り決めはなされておらず、普段から閉鎖はされていなかった(他のテナントも同様)[183]。デパート管理部は、各テナントが閉店後の店内で残業する場合は、同管理部に届けを出すことを義務づけていた。ただしニチイ千日前店の残業は例外で、届け出なしに23時まで行うことができた。残業が終わったあとは、売場の防火シャッター(3階と4階の階段出入口および4階エスカレーター2基)を閉鎖し、照明などの電源を切り、客などの居残りを確認し、従業員通路(D階段出入口)を施錠をしたうえで同管理部に引き継ぐことになっていた[196]。このようにニチイは千日デパートの中では特約を持つほどのキーテナントであり、工事の立会いについて一定の責務があると考えられた[381]。しかしながら、テナントが工事に立ち会う場合は工事の進捗状況などを確認するのが主たる任務になるので、火災防止などの防災面を監督するのはビル管理者である日本ドリーム観光の役目である。しかも火元3階にはニチイ以外のテナントが数店舗出店していて、それらに対する保安管理義務が生じることは明らかであり、その意味で同社が火災当日にニチイがおこなった店内工事に保安係員を立ち合わせる義務があった[382]。閉店時に売場内の防火区画シャッターを閉鎖していたなら、火災の発生および拡大を防止できたことは明らかである[383]

7階プレイタウンの防火管理上の問題点[編集]

希薄な防火管理者の当事者意識[編集]

7階プレイタウンは、消防法令で規定される特定防火対象物のひとつであり、区分は「特定防火対象物・第2項(イ)」にあたる[152]。したがって管理権原者の指導監督の下に防火管理者を選任して防火管理にあたる必要がある。プレイタウンの管理権原者は千土地観光の取締役であり、また防火管理者はプレイタウン支配人が選任されていた。通常であれば支配人に就任(1970年9月)したと同時に防火管理者の任にも就くところであるが、前任者からの引き継ぎに9か月間の空白期間があり、防火管理者の変更届がしばらく出されておらず、実際に選任されたのは1971年(昭和46年)5月だった[384]

蚊帳の外に置かれたプレイタウン[編集]

千日デパートを経営する日本ドリーム観光とプレイタウンを経営する千土地観光は、親会社と子会社の関係にありながら、親会社が経営管理するビルにテナントとして入店している子会社の店舗が管理外に置かれていた。防火管理上においても完全に無視され、7階プレイタウンは孤立状態に置かれていた。そして千日デパートとプレイタウン双方の管理権原者と防火管理者が防火管理や避難誘導について協議したことはなかった。また共同で行うべき消防訓練や避難訓練を行ったことは一度もなく、そもそもビル火災を想定した対策や訓練を共同で実施する発想がまったくなかった[385]。平素におけるデパート側との連絡体制の取り決めは何もなく、したがって災害時の連絡体制も何ら考えられていなかった[363]

消防査察、9つの指摘[編集]

プレイタウンは、消防法令が定める特定防火対象物であり、定期的に個別の消防検査を受ける。南消防署が実施した検査では、1970年(昭和45年)12月から1971年(昭和46年)12月までの1年間に合計4回の立ち入り検査(防火査察)を受けていた。そのうちの1971年12月8日の検査では南消防署から以下の9項目の改善指示を勧告された。[386][210][188]

  1. 救助袋の破損している個所を早急に補修するか、新品に交換して使用可能な状態にすること。
  2. B階段出入口前のカーテンを取り除いて非常口であることを明確にしておくこと。
  3. 屋内避難階段には、非常電源を付置した通路誘導灯を設置すること。
  4. 非常警報設備に非常電源を付置するとともに自動式サイレンおよび放送設備を併置すること。
  5. 各防火戸にはドアチェックを取り付けること。
  6. ホール出入口南側の避難用通路の雑品は、避難の支障になるため除去すること。
  7. 舞台、休憩室、更衣室での喫煙管理を徹底すること。
  8. 店内の装飾用品は防炎処理を施したものを使用すること。
  9. 修業点検を確実に励行し、火災予防に万全を期すこと。

また立入検査翌日に発効した指示書に「特記事項」として以下のことが記されていた。指示書の宛名は日本ドリーム観光社長の松尾國三になっていた[387][386]

貴 チャイナサロン「プレイタウン」での避難施設は常に有効を期し、管理を強化して災害発生時に人的被害の絶無を期して下さい[387][386] — 大阪市消防局南消防署、大阪市消防局 千日デパート火災概況 1972-05-21

再三にわたる改善指導を無視し続ける日本ドリーム観光社長とプレイタウン防火管理者に対して、消防当局が業を煮やしている様子がうかがえる文言である。しかも「1ないし5」の改善項目は、本件火災で人的被害拡大を招いた要因と大きな関連があり、プレイタウンの防火管理上の問題点を見事に指摘していた[388]

プレイタウンは1971年12月8日の検査後、同月20日に再検査を受けたが、前回の検査で指摘された事項のうち「1ないし4」の4項目が未だ改善されずに放置状態であると指摘された[210]。特に「救助袋」に関しては以前の検査でも破損について指摘されていて、1970年12月と1971年6月に「救助袋の早急な補修」を指示されていた。また1971年7月には「救助袋の取替えをおこなう間の使用禁止、その旨を張り紙して実行」を指示され、それからわずか5か月後の当検査でも何ら改善されていなかった。支配人は南消防署の検査に2回立ち会っており、立ち会わなかった検査については、立ち会った社員から報告を受けていた[389]。そして消防署からの指摘事項を上司である千土地観光取締役に指示書を見せて報告したが、取締役は万が一にも救助袋を使う状況にはなるまいとの安易な考えと、費用の嵩むことは後回しにしたいとの思いから、業者に見積もりをさせることすら指示せず、曖昧な態度に終始した[390]。その後、支配人は上司に改善を進言することはなかった[389]。救助袋の破損個所を補修をした場合に掛かる費用は1万5,000円程度で、新品に取り換えた場合は20万円程度である[391]。千土地観光では、5万円を超える支出は親会社である日本ドリーム観光の承認を必要としていたことからしても[1]、補修程度であれば独自の予算を使って容易に処理できた[391]。新品に交換するにしても、親会社の規模(資本金76億円[1])や消防当局からの再三にわたる改善指導があることを報告して説得したならば、日本ドリーム観光としても適切に対応したであろうと推認された[391]

「救助袋の破損」とは、ネズミによって齧られたと推定される「大きな穴」が救助袋の入り口上部付近に開いており、1970年12月の検査のとき、すでに指摘されていたものである[391]。本件火災後に警察などが現場検証を行った際に救助袋を調べたところ、件の穴は1971年12月の消防査察の時よりも大きくなっていて、小さなものも含めて穴の数が増えていた[392]。脱出者が救助袋を使用したことによって「穴」が裂けたり、布が破れたりしたと考えられるが、それらのうちで「最も大きな穴(45ないし55センチメートル径で4つの裂け目)[393]」を目の当たりにした脱出者たちの不安感と恐怖感は相当なものがあっただろうと考えられた[392]。さらには救助袋の出口(地上部先端)に地上誘導用のおもり(砂袋)が括り付けられていなかった不備もあり、安全に地上へ脱出できる避難器具とは到底言えない状態だった[391]。本件の救助袋使用において、入り口を引き起こして袋を開かなかったことで多くの墜落者が発生したが、仮に袋の入り口を開こうとした場合、窓枠の室内側に填められていた「金網枠(客の転落防止および物品投下防止用)」の下枠突き出し部分が邪魔になって、入り口が完全に開かない(直立しない)状態だったことが判った。救助袋の長さ(展開状態の長さ)が「30.21メートル」で、7階の高さ約25.5メートルに対して十分な斜度を保つ長さが無かったことも判明した。プレイタウンの救助袋は、保守管理がなされていなかったことによって生じた破損だけではなく、設置や機能面においても問題があった[393]

改善項目「2および3」についても、普段から避難階段の出入口が店内装飾用の幕で隠されていたり(階段B、F)、看板を立て掛けてその存在を消したりしていて(A階段)、非常口の場所が店内の構造に詳しくない客や新規従業員などには判らないようになっていた[167]。唯一安全な避難階段とされた「B階段」の出入口は、エレベーターホールに面したクロークの奥にあり、扉そのものが幕で覆い隠されていることもあって、なおさら人目に付かない状態にあった[91]。B階段の非常口を示す誘導灯はクロークカウンター上部の天井に近い梁に設置されており、天井から垂れ下がっている装飾用の中華風灯篭の影響で誘導灯が見えづらかった。またそれを視認できたとしても、クローク内のどこに非常口があるのか理解できない状態だった。しかもB階段出入口の上部に誘導灯は設置されていなかった[173]

本件火災後に大阪市消防局がプレイタウン従業員の生存者39人(ホステス21人、ボーイ8人、従業員5人、バンドマン5人。1階にいた者も含む)に対して「非常口」について聞き取り調査をおこなったところ[394]、「プレイタウンの非常口(階段A、B、E、Fの各出入口)を知っていたか」との問いに「全部知っていた」と答えたのは28パーセントであり、「一部だけ知っていた」と答えたのは約半数の52パーセントで「全く何も知らなかった」と答えた人が18パーセントいた。「一部だけ」と答えた人のうち「B階段を知っていた」と答えた人が92パーセントいて、「全部知っていた」と答えた人を合わせれば、その認知度は全体で74パーセントである。ホステスについては「B階段を知っていた」と答えた人が約85パーセントと圧倒的に多かった。これは退勤時にエレベーターが混雑するからとB階段を使用するように推奨されていたことが影響していると考えられた。またホステス更衣室に直結した「E階段を知っていた」と答えたホステスは100パーセントだった(ホステス21人中の全員)。普段から使用しているとか、持ち場や休憩所に直結しているなど、自分にとって関心がある階段出入口は認知度が高いのである[395]。従業員の間では認知度が高い「B階段」であったが、結局は実際に同階段から脱出に成功したのはわずか2人だけであり[396]、たとえその存在を知っていたとしても階段の構造を熟知し、そのうえで適切な避難誘導と日頃からの避難訓練が伴わなければ、せっかくの安全な避難階段も役に立たないのである。新規採用が多く、従業員の入れ替わりが激しい風俗店では、店内に詳しくない者が多くいるのは当然であり、ましてや一見客ともなれば何も判らないのであるから、非常口のありかを明確化しておくことは防災管理の基本である。したがってプレイタウンの防火責任者が責務を果たさず、消防当局の指導に従わなかったことが被害を拡大させた一因であると考えられる[395]

火災が延焼した要因[編集]

初期消火に失敗[編集]

3階で電気工事をおこなっていた作業員らは、同階東側で火災を発見したあと、直ちに消火活動をおこなおうとした。しかしながら消火器を見つけるのに手間取った挙句、消火器の使い方も解らなかったために消火活動がおこなえず、その間に火災が延焼拡大した[397]。火災発生を感知して3階に駆けつけた保安係員は、防火区画シャッターを閉鎖する措置を取ることができず、また同階に3か所設置されていた屋内消火栓(いずれも火元から20メートル以内)を使って消火活動をおこなおうとしたが、猛煙と熱気に阻まれ消火栓がある場所まで近づくことができず、初期消火を断念した[398][399]

開けっぱなしのエスカレーター開口部[編集]

1階から3階までのエスカレーター周りに設置されていた防火区画シャッターは、閉店後に1枚も閉鎖されておらず、4階から6階までの各エスカレーター開口部に設置されている防火カバーシャッターのうち4階部分だけが閉鎖されていなかった[400]。さらには3階E階段出入口の防火シャッターも閉店後に閉鎖されていなかった[401]。3階で発生した火災は、それらの開放されていた部分から最初に上下階へ火災が延焼した[402]。特に3階のエスカレーター開口部4か所のうち、上階(4階)に繋がる2か所からは、直接的な炎と熱気によって、また下階(2階)に繋がる2か所からは、燃焼した物品や建材の落下によって延焼が拡大した。4階から5階および5階から6階に通じているエスカレーター開口部の防火カバーシャッターは、火災発生時に閉鎖されており、4階からの火炎を食い止めて5階から上階への延焼を完全に防いでいる[402]。その効果によって5階から7階までは延焼による被害はほとんどなく、煙によって煤を被った程度であった[403]。つまり、もしも3階から4階までのエスカレーター開口部、同階エスカレーター周辺の防火区画シャッター、3階E階段出入口シャッターが火災発生時に閉鎖されていたならば、3階から上下階へ火災が延焼した可能性は低くなったと考えられた[404]。また3階で行われていた電気工事現場周辺の防火区画シャッターは作業中に閉鎖しておらず、火災を限られた区画内に閉じ込めることができなかった。工事をおこなう上で開放を要する防火区画シャッター2枚を除いて、その他の防火区画シャッターをあらかじめ全て閉鎖しておけば、火災を3階のごく狭い範囲に閉じ込めることができたと考えられており、防火区画シャッター閉鎖の必要性と義務は、のちの刑事および民事裁判において重要な争点となった[405]

前法不遡及の原則[編集]

千日デパートビルは、1961年(昭和36年)の消防法施行令制定以前の防火対象物ということで「前法不遡及の原則」に従い、全館のスプリンクラー設置義務から免れており、自動で火災を消火する設備に頼ることができなかった[359][399]。また、そのほかの防火設備、消火設備に関しても設置義務の適用から免れていた。たとえば自動火災報知機、煙感知式自動防火シャッター、排煙設備などは設置されておらず、火災被害拡大の一因となった[359]

大量の可燃性商品[編集]

出火元の3階と4階のニチイ千日前店で取り扱っていたおもな商品は、可燃性の衣料品や繊維商品であり、それらの商品(約5万点)が大量に陳列されていた。また商業施設ということで店内には装飾が多く、そのような状況の売場で火災が発生したため、瞬く間に火災は燃え広がった。その後、フロア全体がフラッシュオーバーを起こしたことで爆発的に延焼するに至った[406]。また2階についてもフロア全体に小売店舗が密集して営業し、商品を大量に陳列していたため、延焼拡大を招きやすい状態だった。千日デパートは、昭和30年代から40年代の多くの百貨店や商業施設と同じように、外窓をベニヤ板などで遮蔽し、外光を取り入れないようにして壁の一部、またはインテリアデザインとして利用しており、それにより消防隊の消火活動に遅れを生じさせた。また内在物品や装飾、新建材の大量燃焼によって発生した濃煙と熱気が消防隊の内部進入および消火活動を阻んだことも火災拡大の一因として挙げられる[407][408]

プレイタウンに大量の煙が流入した要因[編集]

ビル最上階で営業していたプレイタウン[編集]

プレイタウンはビル最上階の7階に位置していた。火災の煙は、建物内の竪穴に到達すると煙突効果で急上昇を始める。その速さは秒速3メートルから5メートルに達し、ビルの最上階から真っ先に溜まっていく[409]。7階が猛煙と有毒ガスに襲われたのは必然だった。もしもプレイタウンが6階に位置していたと仮定した場合、煙の充満が遅くなることから犠牲者の数はいくらか軽減された可能性が高いと考えられた[410]

エレベーターシャフトの隙間[編集]

プレイタウン専用のA南エレベーターは、地下1階と7階を結ぶ直通エレベーターであり、両階のエレベーター出入口を除いてエレベーターシャフト内に開口部は存在しないはずである。ところが2階と3階の天井部分に手抜き工事によってできたと推定される隙間があり、火災延焼階からその隙間を通じて流入した煙が煙突効果により、エレベーターシャフト内を上昇して7階エレベーター出入口から噴き出し、プレイタウンへ大量に流れ込む一因となった[157][5]

A南エレベーターシャフトの2階と3階部分の北壁は、床スラブと天井梁との間をコンクリートブロックを積み重ねて塞ぐ構造になっているが、床から天井梁までの高さが3.18メートルあるにもかかわらず、床から立ち上がっているコンクリートブロック壁が2.39メートルしかなく、天井梁との間に縦79センチメートル、横1.88メートルの隙間が開いていた。またコンクリートブロック壁の内側に厚さ3センチメートルのモルタル壁が天井梁から88センチメートル垂れ下がっていたが、ブロック壁とモルタル壁との間には約33センチメートルの間隔があり(1.2平方メートル相当)、その隙間を埋める役目を果たしていなかった[5][39]。普段は床から2.3メートルの高さに貼られたフロア天井板によって件の隙間は隠されており、誰もその欠陥に気が付くことはなかった[5]。そして火災が発生してフロア天井板が高熱に晒されて崩落したとき、煙が「隙間」からA南エレベーターシャフト内へ大量に流入し、7階へ上昇した[5][39]

また2階のA南エレベーターシャフトにも同じような欠陥があり、コンクリートブロック壁上端に縦約1.1メートル、横約1.83メートルの隙間が開いており、モルタル壁の垂れ下がりは1.15メートルあった。ブロック壁とモルタル壁との隙間は平均して約4センチメートルで3階ほど大きくはなかったが[5][39]、モルタル壁そのものに上下約7センチメートル、横方向約10センチメートル、さらに縦約3から5.5センチメートル、横約10センチメートルの「2つの穴」が開いており、その部分からも煙がエレベーターシャフト内に流入した。その結果、7階A南エレベーター出入口からは火災初期で秒間0.5立方メートル、3階天井板崩落後には秒間2立方メートル、総量4.5トン、3,700立方メートルにおよぶ煙がプレイタウンホール内へ噴出した。煙が大量に噴出したA南エレベーターは、火災の初期に従業員がエレベーターを点検するために運転を止めた際に、扉を開けたままの状態にして放置したため、余計に煙の噴出を誘発した[411][172][7][358]

空調ダクトから噴出した煙と熱気[編集]

火災延焼階である3階と4階、さらには6階と7階を竪穴で垂直につないでいるプレイタウン事務所前の空調ダクト(リターンダクト)吸入口から大量の煙と熱気流が噴出した[31]。千日デパートでは、自主的に空調ダクト内に防火ダンパーを3か所設置していたが、それらはいずれも火災時に作動せず、3階および4階の吸入口から流入した大量の煙と熱気流を噴出させ、プレイタウン内で多くの犠牲者を発生させる一因となった[412][172]。ダクト吸入口から噴出した煙は、火災初期には秒間1.7立方メートル、中期には秒間最大7立方メートル、総量3トン、2,500立方メートルであった[411][172]。空調ダクトから噴き出した煙は特に高温であり、摂氏300度から500度に達したと推定された。その影響で事務所前のダクト吸入口すぐ横に7段8列で積み上げられていたビールケース(ポリエチレン製)の山が縦一列と最上段がすべて溶け落ち、収納されていたビール瓶も破裂し溶解するほどの勢いだった。この熱気によってプレイタウン事務所前の廊下は、発火寸前の状態だったことも判明した[157][413][414]。プレイタウン各所には、天井付近の下り壁に空調ダクトの吹き出し口が設置されていたが、その部分からも煙が噴出した形跡があり、プレイタウン店内を煙で汚染した要因の一つと考えられている。またトイレの天井に設置されていた吹き出し口からも煙が噴き出した形跡があり、その部分からの煙が開放されていた電気室の外窓へ流れ、エレベーターホールを汚染させる一因になったとの見方もある[414]#千日デパートビルの空調設備

階段防火シャッターの故障および開放[編集]

7階プレイタウンに通じていた4つの階段A、B、E、Fのうち、E階段の3階防火シャッターおよび防火戸、同階段6階防火戸と、F階段の2階吹き抜け閉鎖用シャッターが閉鎖されておらず、その部分から大量の煙が流入し7階へ上昇した[415]。E階段3階出入口の防火シャッターは、高さが2.48メートルあるにもかかわらず、火災発生時に65センチメートルしか降ろされていなかった[416][172]。2階F階段の吹き抜け閉鎖用の横引きシャッターに関しては、普段から故障していて閉鎖できない状態にあり、南消防署の査察を受けるたびに修理するようにと改善を指導されていたが、長年放置され火災発生時にもまったく改善されていなかった[416]。ホステス更衣室から避難しようとした従業員が同更衣室西側に直結したE階段非常口を開けたために大量の煙が同更衣室に流入した。更衣室にいた従業員は、E階段の汚染に気付いてすぐに扉を閉めたものの、その間に流入した煙の量は膨大であったと推測され、扉の周囲が激しく煤けていた。E階段から噴出した煙と事務所前の空調ダクトから噴出した煙とが相まってホステス更衣室内にいた人たちには致命的な結果となった [417][414]。また屋上へ避難しようとしたプレイタウン関係者がF階段電動シャッターを開けたことにより、秒間9立方メートル(最大秒間20立方メートル)、総量12トン、9,700立方メートルにおよぶ煙と有毒ガスおよび熱気流が7階フロアへ大量に流入した[411][172]。F階段電動シャッターを開けた直後に停電が発生し、電動シャッターを再び閉鎖することができなくなったことも災いした[252]。プレイタウンを汚染した煙と熱気流は、その主たるものはF階段と事務所前リターンダクト吸入口から噴出したものによると推定された[358]

なぜプレイタウンで多くの犠牲者が出たのか[編集]

火災発生の報知および情報が7階に伝わらず[編集]

7階プレイタウン滞在者に対して、火災発生の報知および正確な情報がまったく伝わらず、異常覚知が大幅に遅れ、初期の避難行動を起こす機会を失った[418]。火災発生直後に電気工事作業者の1人が3階の火災報知機を押したが(22時34分ごろ)[194]、それはデパートビル全館に火災発生を知らせる自動火災報知機ではなく、地下1階電気室と1階保安室に火災を知らせる機能しかなかったため、プレイタウンには火災発生の情報がまったく伝わらなかった。それどころか、火災状況の報告を受けた1階保安室がデパート閉店後のプレイタウンに対して持っている唯一の連絡手段「外線電話(一般加入電話)」で連絡すらしなかった[419][360]。このためプレイタウン滞在者は火災発生の正確な情報を素早く受け取り、7階から迅速に避難する機会を失った。消防隊の第一陣は現場到着の際、デパートビル保安係員に対し「上はやっているのか(=プレイタウンは営業しているのか)」と尋ねたところ、保安係員らは何を聞かれているのか意味が理解できず、答えられなかったという[420]。また保安係員らは、なぜプレイタウンに通報しなかったのかと問われ「当然7階では火災に気付いていると思ったから連絡しなかった」「建物内に進入する消防隊を案内するために正面出入口シャッターなどを開放することが真っ先に頭に浮かんだ。火災や煙のことで気が動転していて7階への通報は全く考えられなかった」「千日デパートで火災が発生してもプレイタウンへ通報することにはなっていなかった」などと答えている[100][421]

プレイタウン関係者らは、7階に流れてきた煙について、ある者はエレベーターの故障が原因だと考えた。またある者は地下1階のプレイタウン専用ロビーで小火があったのだろうと考え、以前にも同じことがあったから今回も大丈夫だと判断した[422]。さらには漂っている煙はプレイタウン電気室が火災を起こしているからだと思い込んだ者もいた[218]。調理場にいた従業員らは空調ダクトから噴き出す煙と熱気に対して、ダクトのどこかが火元だろうと考え、訳も分からずダクト吸入口にバケツで水をかけ続けた[422]。ホールにいた客やホステスらの中には「調理場で魚か干物でも焼いているんだろう」「以前、店の営業中にバンドマン控室で殺虫剤を焚いて、その煙がホールに流れてきて騒動になったことがあり、またそれが起こったか」と考えた者さえいた[212][423]

7階に煙が流入したことを関係者らが最初に覚知したのは22時35分から36分ごろであり、大量の黒煙と有毒ガスが流入するまで約7、8分の時間的余裕があった[421]。この間に何らかの方法で火災の正確な情報がプレイタウンに知らされていれば、まったく意味のない無駄な消火活動をしたり、漫然と煙が漂う状況を見過ごしたりすることなく、すぐさま避難行動に移れたと考えられている[420][421]。その時点でまだ稼働していたエレベーター、もしくはB階段でいくらかの避難は可能だった[421]。火災初期に迅速な避難がなされていれば、ホステス更衣室と宿直室に滞在していた11人を除いて、170人程度のプレイタウン滞在者は無事に地上へ避難できていた可能性が高いとされている[424]#共同防火意識の欠落

防火責任者らによる避難誘導は行われず[編集]

支配人をはじめとする従業員らによる組織的かつ迅速で適切な避難誘導はほとんど行われなかった[418]。従業員らによる避難誘導らしきものは、レジ係が支配人の指示で行った「ホステスの皆さんは落ち着いてください」という店内放送と[425][228]、煙が充満したエレベーターホールに殺到した人たちをホールへ押し戻すためにボーイらが発した「こちらには行けない」「下がって」というような制止の言葉[230]、両手を広げて避難者の流れを押し止める手振りだけである[211]。防火管理者であるプレイタウン支配人は、平素より下層階で火災が発生した場合を想定した避難方法や避難経路をまったく考えておらず、客や従業員らに対する避難誘導ができなかった。プレイタウンでは自衛消防組織なるものを作り、防火に対する気構えは見せていたが、それはあくまでもプレイタウン内の火災発生時に迅速に消火活動を行う目的であって、下層階で発生した火災に際して客や従業員らを避難誘導することを念頭に置いたものではなかった[426]

プレイタウンの防火管理者は、従業員を対象にした避難訓練をほとんど行っていなかった[427]。火災の前年(1971年)に消火器の使用方法と点検に加えて実施してはいたが、参加者はわずか29人で、全従業員の4分の1にも満たず、訓練の効果は認められなかった[427][428]。避難訓練の際にプレイタウンやデパートビルの避難設備などに関する正確な情報を避難誘導を行うべき従業員らに与えなかったことにより、誤った情報による避難誘導で物置の中へ誘導された人がいたり、煙が大量に溜まって煙突化していたF階段に誘導したり、救助袋の正しい使用方法を避難者が理解できずに墜落死を招いたりして人的被害を拡大させた[429]。また防火管理者である支配人は、客や従業員らに対する避難誘導においても最高責任者の立場であるにもかかわらず、避難誘導も行わず、真っ先に消防のはしご車で救出されている[430]

唯一の安全な避難階段、有効に使われず[編集]

7階プレイタウンは地下1階と屋上を連絡する4つの階段A、B、E、Fに繋がっているが、そのうちの階段A、Fについては平時においても非常扉が常時施錠されていて使用不可能な状態にあった[431]。A階段は非常扉の前に看板を貼り付け、施錠するとともに扉を完全に塞いで使用そのものができない状態だった[432][433]。F階段は非常扉1枚(常時施錠)と電動シャッター(常時電源切)で構成されていたが[434]、ホールに直結した電動シャッターは全面がビロードの幕で覆われ、ホール側はベニヤ板で囲いがされていた[435]。その前にはボックス席が置かれていて非常時に使える状態ではなかった。またE階段については、非常扉がホステス更衣室に直結していることから、デパート営業中にはホステスたちがE階段を利用してデパート内へ自由に出入りしていたことが確認されていて[436]、同非常扉の施錠はデパート閉店後(21時)に限られていた。ただし事務所に保管されていた鍵で解錠することは任意でおこなえた[433]。非常時にプレイタウン滞在者が誰でも利用可能な避難階段は、防火扉2枚で遮蔽されたバルコニー付きの特別避難階段である「B階段」(特異火災事例の図面を参照)が唯一安全に使用可能な階段だった[437]。B階段は事実上プレイタウン専用の階段になっており、プレイタウンの営業中は地下1階と7階の扉に鍵は掛けられておらず、関係者が自由に使用することができた[3]。また地下1階と7階を除いては各フロア出入口は常時施錠されており、火災発生時に煙や火炎の流入を抑え、B階段内を煙による汚染から防ぐ機能を備えていた[438]

火災の初期に消防士の1人がB階段を駆け上がって内部探索をおこなった際に、4階まではまったく煙も炎もなく、難なく昇れたという[439]。ところが5階まで来たとき、上階から黒煙が降り注いできて消防士の行く手を遮った。それでもなんとか6階まで行ってみたが、それ以上の進入は不可能だった。それは、B階段からの自力脱出者2人が7階B階段の防火扉を開放したまま脱出したため、7階に流入した猛煙がB階段にも流れ込んだためである。つまり、7階のB階段出入口の鉄扉2枚が完全に閉まっていた状態なら、B階段はすべての階で安全な状態になっていたと考えられ、刑事裁判においても裁判所は「B階段こそが安全確実に地上へ避難できる唯一の避難階段である」と認定した[437]。ところがB階段はクロークの奥にあり、人目に付かないように扉が幕で覆われていた。扉の上に誘導灯も備え付けられていないことから、その存在が判らないようになっていた[440]。防火責任者らによって避難誘導もなされなかったことから、B階段から避難できたのはわずか2人だけであり、本件火災において唯一の安全な避難階段が有効に使われなかったことで人的被害が拡大した[440]

救助袋の誤った使用[編集]

プレイタウン店内に備え付けられていた唯一の避難器具「救助袋」の正しい使用方法による脱出がおこなわれず、脱出途中で転落して死亡する者が続出した[418]。北東角の窓下に救助袋は備え付けられていたが、猛煙がプレイタウン店内に充満してからしばらくして従業員がキャビネット内に収まっていた袋を展張させて地上に投下した[441]。袋の先端が2階のネオンサインに引っ掛かり、それを降ろすのに時間を要したことから煙に追い立てられた7階滞在者らは我先にと救助袋がある窓に殺到し、袋の入り口を開けない状態で「袋の表面を馬乗りになって後ろ向きに滑り降りる」かたちでの避難が始まってしまった[441]。最初に脱出した男性が運良く地上に降りたために、後に続く人が我先にと袋に跨って降りて行った。しかし、次から次へと救助袋に人が跨ったために、袋は振動で揺さぶられ、摩擦熱に耐えかねて途中で手を放し、ほとんどの脱出者が地上へ墜落していった[442]。自力で降下に成功したのはわずか5人で、その他3人が脱出途中で墜落したところを消防隊が設置したサルベージシートで救われた[441]

プレイタウンの防火管理者は、救助袋を使用した避難訓練を一度もおこなわなかった[61]。また救助袋の正しい使用方法を従業員に一度も指導しておらず、実際の火災発生に際して機能を有効に活用できなかった。少なくとも従業員に使用方法を教えておけば、煙が充満した時点ですぐさま救助袋を投下出来ていたはずである。また袋の入り口を開けることも容易にできたと考えられており、正しい使用方法による避難は可能だった[443]。刑事裁判において「救助袋が地上に投下されたのは、窓際へ避難してきた従業員がたまたま救助袋を発見したという偶然の出来事があったからに過ぎない」と裁判所に認定されたことは、避難誘導訓練や消火訓練、従業員に対する適切な指示が為されなかったことの裏付けであるとされた[444]。プレイタウンでは、長年にわたって救助袋の保守管理が為されておらず、破損個所もあることから消防当局から補修するか新品に交換するように勧告されていたが、その指導を無視したことで安全な避難器具とは言えない状態になっていた[391]。平素から保守メンテナンスが為されていて、従業員に対する訓練と指導もおこなわれていれば、救助袋による避難はさらに有効に機能して犠牲者を少なくできたと考えられている[418]

パニックの発生[編集]

プレイタウンの客や従業員らが通常の情報として知っている「唯一の脱出(移動)手段」である2基の専用エレベーターが猛煙の噴出とボーイらの制止によって使用を断念させられ、初期の避難行動が完全に絶たれたことにより、プレイタウンの避難者たちは、火災の正確な情報と避難誘導がほとんどないなかで、どこへ逃げていいのか、どこへ向えばいいのか、誰に従えばいいのかがまったく分からなくなり、ホール内が停電で暗闇になったことも相まって極限のパニック状態に陥っていった[445][446]

冷静に行動できなくなった人たちは、フロア内をあてもなく右往左往し、無駄に体力を消耗した。本件火災でパニックの典型例として挙げられているのは、ホールから6階の旧プレイタウン営業エリアに繋がる旧通路(火災発生時には廃止され資材置場になっていた)に避難路を求めた人たちが、ホール西側の資材置場の中に入り込み、その後に袋小路で20数人の人たちが息絶えたことである[447][448]。旧通路部分は、火災発生の2週間前からボウリング場改装工事に伴いベニヤ板で仮閉鎖していた[149]。ところが工事が予想以上に進み、ベニヤ板の内側に厚さ27センチメートルの頑丈なブロック塀が誰も知らないうちに築かれていた[236]。照明もなく、セメント袋や資材が積まれた幅が1.65メートルしかない狭い空間を「ここは避難路ではない」と直感的に気付いた人もいた[236][449]。だが物置に誘導された多くの人たちは、通れるはずの通路が塞がれていたことによりパニック状態に陥り、コンクリートブロックの欠片を持って壁を叩いたり、足で蹴ったりして破壊しようとした。頑丈な壁が壊れるはずもなく、明らかにパニックによる無駄な行動であった。そして猛煙と密集状態によって行き場を失い、20人弱の人たちが物置の内部とその周辺で力尽きていった[236]。これは従業員の誤った誘導によってもたらされた事態であるが、防火管理者である支配人が工事の進捗状況を把握し、従業員に「壁の情報」を伝えていれば誤った誘導は発生しなかったはずであり[450][449]、責任者らの的確な避難誘導をおこなう統率力の欠如、防災意識の不十分さがパニックを増幅させた側面がある[451][241]

窓際に避難した人たちは、煙と熱気から必死に逃れようと顔を窓から出して救いを求めていた。窒息する寸前の状況下で25メートルの高さに居ながら、あたかも地面がすぐ目の前にあるかのように感じられ、いま飛び降りさえすれば猛煙と熱気から逃れられるという錯覚から、実際に飛び降りてしまった人々が多数いたことは、まさにパニック状態による異常な心理状態がもたらしたものである[241][452]。ビル東側の千日前大劇通に設置されていた千日前商店街アーケードは、屋根の高さが12.3メートルでビル3階付近にあった。地面に比べればアーケードの屋根は近く感じられた。屋根を覆っている半透明のプラスチック板は照明の影響で7階からは白く見え、地面を目立たなくしていたという。その影響で猛煙と熱気に追い立てられた避難者は、アーケード屋根に飛び降りれば何とかなるという期待感で戸惑いを感じなかったのではないかと推測されている[241]。火災に気付いて現場に集まった群衆は、飛び降りる人たちに向かって行動を思いとどまるように呼び掛けていた。消防隊員もハンドマイクで呼び掛けた。しかし7階で必死に救助を待つ避難者たちにその声はまったく届いていなかった。それら善意の呼びかけは、怒号や歓声のように感じた避難者もいて、実に腹立たしかったと証言している[241]。死を目前にしたパニック状態は、正常な判断力を奪うと同時に五感をも狂わせるのである。またプレイタウン内の死亡者の中に、死因が「胸部腹部圧迫による窒息死」という者が3人いた。これはパニック状態になって逃げ惑う群衆に押しつぶされたか、または転んだ時に踏みつけられたかによる状況で死亡したと考えられている。このように極限のパニック状況がゆえに避難者から冷静な判断力が失われた結果、プレイタウンのフロア内または飛び降りなどで多数の死亡者が出ることに繋がった[451][241]

一方で、自力脱出に成功した人たちや消防隊のはしご車に救出された人たちは、比較的冷静に行動しパニックに陥らなかったことで生存することに繋がった。B階段を使って脱出に成功したクローク係とホステスの計2人のように、あらかじめ避難に必要な情報を持っていたことは重要であり、非常事態発生時に生き延びる確率が上がると考えられた[453]。体力や運動神経の機敏さも重要であると考えられ、ダイビングの経験を生かしてアーケードのワイヤー目がけて飛び降りて助かった男性客などはその典型例である[454]。無駄な行動や合理性を欠いた行動を慎むことは特に重要であり、消防隊のはしご車で救出された人たちは、飛び降りや資材置場のブロック塀破壊などの行為に走らず、冷静に我慢して窓際で救助を待ったことで助かる確率が高まった。またバンドマンたちのようにリーダーの指示に従い、無駄な行動を行わず小部屋に待機していたことにより生存につなげられたことは、統率の取れたリーダーの下で行動することの重要性を示すものである[455]。いち早く窓際に移動した人たちは、空間(間取り)を熟知していたことで救出される確率を高めた。これらはボーイなどの従業員に多かった[241][456]

多量の煙と有毒ガスの影響[編集]

7階プレイタウンで死亡していた96人のうち93人の死因は一酸化炭素中毒によるものだった。下層階の火災で発生した多量の煙のうちの約20パーセントが7階に流入した。ビル火災に際して発生した煙は、最上階から先に充満していくことが知られており、同風俗店はビル最上階の7階で営業していたことから本件火災においても同様の現象が起こったと考えられている。煙の拡散は水平方向で秒速1メートル程度だが、垂直方向では秒速5メートルに達することから7階が煙で充満するまでの時間は僅かであった。プレイタウンでは22時49分ごろにフロアが停電したとみられていて、猛煙の充満も加わり視界が全く効かない状態になった。完全な暗闇では、その場を良く知っている人でも1秒あたり70センチメートル、知らない人に至っては30センチメートルしか移動できないという。したがって7階滞在者が火災覚知と避難の遅れ、煙の充満および停電による視界不良とが重なったことにより人的被害が拡大した。

火災によって発生した多量の煙の中に含まれる成分は、一酸化炭素ばかりではなく、有毒ガスも含まれている場合が多い。大阪府警南署の「千日デパート出火事件特別捜査本部」が大阪大学法医学部に依頼して遺体を解剖して調べた結果、犠牲者の血液中の全ヘモグロビン量に対して一酸化炭素と結合した「一酸化炭素ヘモグロビン」の占める割合は50パーセント程度であり、これは一般的なヘモグロビン飽和量の致死量60パーセントを下回る量であった。このため、2階ないし4階で燃えた化繊商品(化学繊維商品)や新建材から発生した大量の有毒ガスも死亡原因に影響したと考えられている。通常の一酸化炭素中毒では、一酸化炭素の致死濃度は空気中で0.1パーセントとされるところ、ビル火災においては一酸化炭素濃度が10パーセントにも達するので、本件火災の致死限界時間は10分以内だったと分析された。猛煙による酸素欠乏、燃焼物から発生した多量の一酸化炭素や有毒ガスが窒息や刺激を伴って複合的に作用した結果による悲劇だった。

ニチイ千日前店の3階および4階で取扱っていた商品は、衣料品を中心に約5万点にのぼり、3階で肌着、くつ下、寝具、呉服などの40パーセント、4階でブラウス、スカート、生地などの41パーセントが化繊もしくは化繊が混合した商品だった。また3階の一部の専門店と2階の専門店街で取り扱っていた商品も化繊やプラスティック、ビニールなどの石油系高分子材料を使った物が多く、有毒ガスの発生源になったと見られている。服飾などの繊維商品に使われていた材料は、ポリアミド系繊維、ポリエステル系繊維、アクリル系繊維、アセテート繊維、レーヨンなどが、また日用品などの商品では、プラスチック、セルロイド、ポリウレタン、塩化ビニールなどがあったとみられ、特にポリアミド系繊維やポリエステル系繊維、プラスチックやビニール類が燃焼した際に発生するシアン化水素(青酸ガス)の毒性が最も強いとされ、多量に吸い込めば数分で死に至ることから、本件火災ではそれらの影響も考えられた。

ビルの内装材に使われる「新建材」も有毒ガスの発生源になったと考えられている。千日デパートビルは商業ビルであることから、燃焼階では装飾などに利用するために新建材を使用していた。新建材とは、合板や木材片をフェノール樹脂(ベークライト)や尿素樹脂(ユリア樹脂)などで固めたもの、あるいはセメントや石粉、ガラス繊維などをプラスチックで固めた建材のことで、建築の内装材として幅広く使われている。これらの材料は高分子材料なので燃焼には大量の酸素を必要とするが、酸素が不足して不完全燃焼を起こすと一酸化炭素、アルデヒド、メタン、炭酸ガス、アセトンなどの有毒ガスを大量に出す。燃焼温度は木材に比べて高くて燃えにくい。摂氏400度から500度に達しないと勢いよく燃えずに燻り続けることから、400度以下の低温では多量の煙と有毒ガスが発生する特徴がある。その量は木材よりも10倍多いといわれている。本件火災当時の新建材は不燃処理や防炎処理が進んでおらず、法律による規制も不十分だったことから、人的被害拡大の一因となった。本件の教訓を活かして火災に強い不燃材の研究開発、防火建材や防火内装材の対する研究開発が進むきっかけとなった。現行の法令では、建物の用途と条件によって防炎性能を必要とする品目を定めている[457][451][458][459]

停電の影響[編集]

前項目「多量の煙と有毒ガスの影響」で記したとおり、7階プレイタウンは下層階で発生した火災の影響によって店内に多量の煙が流入し、同階滞在者の視界を遮って避難行動に支障を来したことも被害拡大の一因であるが、停電によって店内の照明が一斉に消え、プレイタウン滞在者を完全な暗闇の中に置くことになったことも避難行動に致命的な支障を与えたと考えられている。

プレイタウン店内の照明が停電によって消えたのは22時49分である[460][461]。3階で火災を発見した工事作業者が3階西側設置の火災報知機を22時34分に押したことで地下1階電気室と1階保安室が火災発生を覚知した。入浴中だった当直のデパート電気係は、すぐさま電気室内設置の受変電設備(受電電圧2万2,000V、設備容量合計3相4,500KVA)の配電盤開閉器を操作して3階と4階の電源をすべて遮断したが、このときは限定的な電源の遮断であり、7階の照明や同階動力系の電源供給に支障はなかった。このあと、火災が延焼拡大したことから電気係が受電用開閉器を操作してデパートビル全館の電源を遮断したのは23時10分であった[462]

22時49分のプレイタウン店内の一斉停電は、人為的に行われたものではなく、火災の延焼による電気系統の損傷で発生した短絡(ショート)の影響であった。大阪市消防局が火災後にデパートビルの電気系統を調査をしたところ、7階プレイタウンに関係する一般電灯回路は2系統あるところ、地下1階電気室の低圧配電盤内で両系統のヒューズが溶断していた。そのほかにA1エレベーターとF階段電動シャッターの開閉に用いる動力系の1系統が同配電盤内でヒューズが溶断していた。さらには7階に通じる非常灯用の回路系も同じく溶断していた[463]。7階プレイタウンにも電気室があり、その中に電灯用と動力用の配電盤が設置されていたが、それらのヒューズも溶断していた[464]。人為的な電源遮断は確認されず、電灯用と動力系の各電源は通電状態になっていた。なお本件ビルには、非常用照明は備え付けられていなかった[463]。プレイタウンの電灯回路2系統は、4階より上の各階と共通であり、それらの各階に対して電源を供給していたことから、4階の火災拡大に伴い、金属パイプの中に通された電源ケーブルが焼損して短絡(ショート)が発生したことで異常電流が流れ、ヒューズが溶断したことで7階で停電が発生した。そのヒューズが溶断した瞬間がまさに「22時49分」だった[460][461][465]

同様に動力系回路についてもプレイタウンに供給されていた系統は「一般動力No.1系統」と呼ばれ、同ビルの主要な動力源であるエレベーターやエスカレーター、電動シャッターなどの大半に電力を供給していたものであり、それはビル全体を網羅していた。7階F階段電動シャッターも同系統からの電源供給に頼っていたところ、22時48分に屋上へ避難しようとした支配人らがボーイに指示して同シャッターを電動で開けさせたが、結果として猛煙の流入をフロア内に招いてしまった。その後に同シャッターを閉鎖できなくなったことで被害が拡大したものであるが、その根本原因も火災によって「一般動力No.1系統」の電気ケーブルが焼損したことによって短絡が発生し停電した影響によるものである[466][467]。なおA南エレベーターとプレイタウン独自の空調パッケージの電源は「一般動力No.2系統」という別系統からの供給であり、この系統は主に地下1階と1階外周店舗、7階に共通する系統で、このエリアは火災による直接的な延焼被害を受けなかったので、電気ケーブルの焼損はなく、配電盤のヒューズは溶断しなかったことから火災後も通電可能な状態となっていた(水損の影響は考慮しない)[468]

7階に通じていた非常灯回路2系統のヒューズも地下電気室の配電盤内で溶断していた。この電気系統は、平時は専用の変圧器で受電し全館へ給電されているが、非常時などに常用電源が切れると自動的に蓄電池(容量360Ah、電圧104V)からの電源供給に切り替わる仕組みになっていた[462]。プレイタウンには「誘導灯」が7個設置されていたが(そのうちの一つは救助袋用の誘導灯)、6個のうちの一つは蓄電池内蔵のもので、電源供給が切れても一定時間は点灯し続ける機能を持っていた。火災鎮火後に同フロアへ警察や消防当局が現場検証に入ったときには、蓄電池内蔵の誘導灯1つはまだ点灯していた。それは14日昼過ぎまでは点灯していたという[442][469]。残りの5個については、非常灯回路に単独で接続する仕様で、蓄電池は内蔵されていなかった。もしも電気室設置の蓄電池から電源供給が為されていれば、それら5個の誘導灯も現場検証時に点灯しているはずであるが、実際には消えていた。そのことから7階プレイタウンの非常灯回路は、火災の影響によって電灯と動力系のヒューズが配電盤内で溶断したのと同じ時期にケーブルが損傷して短絡した結果、電源の供給が止まったと考えられ、電源供給が途絶えて誘導灯が消えたことでプレイタウン滞在者の避難に悪影響を及ぼした可能性もある。ただし、誘導灯は全てが天井や梁などの高い位置に設置されていたことから、仮に火災時に点灯していても猛煙の影響で避難者には視認できなかったと考えられており、誘導灯を低い位置に設置する必要性が検討されるきっかけになった[470][471]

その他の要因[編集]

そのほかの要因としては、プレイタウンは酒場ということで、客やホステスの中にはアルコールの影響により正常な判断ができなかったり、避難行動が緩慢になったりしたケースもあったと考えられた[472][473]。実際、男性客1人が客席で頬杖をつき、座ったまま死亡していた[317]

プレイタウンのホールや従業員スペースに面していた外窓が、室高に対して上方に位置しておらず、それによって天井に溜まった煙が窓付近へ下降してきたと同時に下方からの給気も得られなかったことから、避難者に致命的なダメージを与えたと考えられた。もしも同外窓が上方に開口部を持ち、大きさが適度であれば、避難や救助活動が有効に行われ、人的被害が軽減された可能性がある[474]

消防隊の救出活動においては、火災現場が大阪でも有数の繁華街であり、しかも土曜夜であったことから群衆の集まり(推計3,000人)や周辺道路の交通渋滞に巻き込まれたこと、さらには千日前通の違法駐車車両の影響により、はしご車の部署選定が困難な状況だったことから、人命救出活動に遅れを生じさせた[475]。東署はしご車分隊は、アーケード直上の東側窓にはしごを伸長したが、伸長途中のはしごに女性2人が断続的に落下してきたために、その度に遺体の収容作業をおこなう必要が生じ、救出活動開始が6分間遅れた[476]。消防隊は人命救出活動をおこなうために7階窓やB階段から内部進入を試みて救助者を探索しようとしたが、延焼階窓から噴出する濃煙と熱気により活動が阻止されたことも影響した[477]。またデパートビル東側の商店街アーケードの存在が、はしご車による円滑な救出活動の妨げとなったことも挙げられる[478][479]

火災の教訓とその後の対策[編集]

千日デパートビル火災は、日本のビル火災史上において最悪の被害を出す火災となった。それは半世紀ほど経過した2020年現在においても変わらずに最悪のままである。本件火災が発生する半年ほど前に大韓民国の首都ソウルで大然閣ホテル火災が起こり、死者163人を出した[480]。そのときに日本の消防当局や宿泊施設関係者の間では「仮に日本で韓国のような火災が起きた場合でも、我が国においては法律や設備が整えられているので、小規模で食い止められる。備えは万全だ。」と言われた。さらには「あれは外国の火災であり、その国の特殊な事情によって被害が拡大した。日本には当てはまらない」「国力も社会的背景も違う。日本では同様の火災は起こらないだろう」という意見があり、危機感などは感じられなかった[481]。しかしながらその一方で消防関係者やマスコミは違った意見を持っていた。日本の建築物にも盲点や死角があるのは確かで、建築上の欠陥や消防設備の不備、自主防火体制の不徹底などにより、消火が遅れれば大然閣と同様の被害が出る恐れはある、と懸念を示す向きもあった。それから僅か半年足らずで安全への自信と期待は脆くも崩れ、懸念のほうが的中する形となり、日本社会全体や消防関係者に大きな衝撃と失望、悲しみが広がった。大阪市消防局にとっては衝撃が特段に大きかった。同消防局は消防設備や消火技能の警防面、査察や指導の予防面、そのいずれにおいても充実度が全国の中でもトップレベルにあることを誇りにしていた。実際に他の消防当局が視察に訪れることが日常化していて、それは名実ともに確かなものであった。だが未曾有の火災は発生し、優れた警防面と予防面を以ってしても甚大な被害を防ぐことはできなかった[482]

大阪市消防局にとっては1970年の天六ガス爆発事故に続き管轄内で発生した都市災害であったことから、なおさら深刻に受け止められた。高度経済成長期は都市の広がりを「上下方向」に伸びることを求め、「雑居ビル」という新語が作り出されるほどビルの営業形態は複雑化していた。ビルや地下街での火災に対する懸念は深刻に捉えられていて、もしも大阪で大きな火災が起きるならば、その最たる場所は「キタ」または「ミナミ」だろうと予測されていたところに本件火災が起きた。場所の予測は的中したが、火災規模と人的被害が全くの想定外だったことの衝撃も大きかった[483]。本件火災の影響は、政府や各省庁、各自治体、消防関係者、さらには一般社会に至るまで人的被害の甚大さによって計り知れない恐怖感と危機感が植え付けられた。再発防止に向けた消防当局によるビル消防設備等の緊急査察、国会審議、法令や制度の改正、民間で避難訓練を実施する傾向が強まるなど、その社会的な影響は多岐にわたった。

千日デパート火災の余波[編集]

消防庁、各都道府県に対し雑居ビルに対する緊急点検実施を通達
  • 千日デパート火災を受けて消防庁は、火災から2日後の1972年(昭和47年)5月15日に全国の都道府県に対し、危険性のあるビルの総点検を早急に行うよう通達した。特に対象とされたのが、劇場、キャバレー、百貨店などビルの高い階に不特定対多数の人々を収容する用途に供される防火対象物で、また商店、事務所、飲食店などがひとつの建物に入居している「雑居ビル」については、避難体制、通報体制、防火消火設備の機能性について重点的に調べることにした[484][485]
  • この通達を受けて大阪市消防局は、5月15日から1週間かけて大阪市内の要注意ビル277か所に対し、総点検を実施した。結果、277か所のうち235か所のビルが「防火管理不適当」と判定された。誘導灯の設置が不適当と判定されたビルは171か所、誘導灯の維持管理が不適当との判定は163か所、非常警報設備の設置および維持に対して改善を指示されたビルは140か所に及んだ。さらに通路および階段に雑品を置いていたために改善を指示されたビルは140か所、消防訓練実施の改善指示が145か所、避難器具の故障や破損の改善指示が121か所に及んだ。営業しながら改装工事を行っていたビル24か所に対しては防火安全性の確保を指示した。避難関連指示は合計1,014件だった。6月3日の時点で指示された事項が改善されていないとして、消防法の規定に基づき改善命令が出されたビルは193件、防火管理面の改善指示が340件、警報関連の改善指示が507件、改善命令が74件だった[486]
  • 東京消防庁においても同通達に基づき、5月15日夜に都内の雑居ビル1,980か所のうち、代表的な7か所の盛り場について抜き打ちで査察した。その結果は、救助袋の破損があったり、従業員が救助袋の正しい使い方を知らなかったりと、「プレイタウン」とまったく同じ状況がみられた。またビル外壁の垂れ幕が救助袋の窓を塞いでいたり、救助袋の収納方法が間違っていたり、避難階段や避難通路が物置状態になっていた店もあった。そもそも救助袋の存在自体を知らない従業員がいるなど、火災時の避難に対する無関心さが浮き彫りになった[487][488]。その後、東京消防庁管内の各消防署が6月10日までの間に雑居ビルや百貨店を中心に火災時の避難と安全性および防火管理について査察を行った。対象は、劇場、キャバレー、百貨店、ホテル、飲食店などの不特定多数を収容する4階建て以上の1,442か所のビルで、消防法における特定防火対象物である。結果は、対象の90パーセントが欠陥ビルと判定され、AからDまでの4ランクに分けた判定では、安全性の高いAランク判定がわずか7パーセントという結果となった[489]
本件火災、国会で議題に
5月16日、第68回国会・参議院地方行政委員会会議において「千日デパート火災に関する件」が「地方行政改革に関する調査」の議題として取り上げられた。火災の教訓として「避難誘導の周知徹底、避難訓練の実施」「複合用途ビルの共同防火管理体制の強化」「避難路を煙から守るための措置」が重要であるとして、建設省や自治省、消防庁などの関係省庁が今後の対策に万全を期すことを確認した。また建築基準法や消防法の「既存不適格建物」および「法律不遡及の原則」の問題についても議論された[67]。そのほかにホステスの労災について、はしご車を中心とした消防救助設備について、なぜ火災で燃えていない7階で多くの犠牲者が出たのか、またなぜ適切な避難誘導がなされなかったのか、などについて、午前の時間を目一杯使って集中議論された[67]。また同日開かれた衆議院地方行政委員会においても、午前および午後の会議で本件火災が議題として取り上げられた。内容は同日の参議院地方行政委員会とほぼ同じであるが、プレイタウンの防火管理者(支配人)について、ある委員は「(プレイタウンで)一番の責任者が救助袋の入口を開け、非常口の鍵を開けるべき人が、一番先に逃げて助かっていて、117人が死亡しているのはどういうことなのか。あとに残された者は何もしようがない」と政府委員に質問した[490]。同日開かれた参議院建設委員会、参議院議員運営委員会、衆議院法務委員会においても本件火災が議題として取り上げられた[491][492][493]。同日の参議院議員運営委員会においては「議員調査団」の派遣が決定され、本件火災現場で現地調査を実施することになった[492]。同様に衆議院においても被害状況調査のための議員調査団の派遣が決められた[131]。現地調査の結果は、参議院では5月26日の議院運営委員会において[494]、また衆議院では5月24日の災害対策特別委員会で報告された[131]。そのほかにも下記の国会各委員会で本件火災が議題として取り上げられた。
  • 5月17日、参議院災害対策特別委員会[65]
  • 5月18日、参議院社会労働委員会[495]
  • 5月23日、参議院運輸委員会[496]
  • 6月8日、6月16日、衆議院地方行政委員会[70][71]
自治大臣、都内盛り場などをパトロール[497][498]
5月17日夜、渡海元三郎自治大臣が消防庁幹部らを伴い、東京都内の地下街や盛り場、屋上ビアガーデンなどを安全パトロールした。地下街については排煙設備、緊急通報体制、防火区画など、最新の設備が整っていて自治大臣も満足したが、その後に訪れたキャバレーと屋上ビアガーデンの避難設備があまりにもお粗末で一転して機嫌が悪くなった。あるキャバレーでは、避難する際に6階からエレベータ室を改造した場所から避難はしごで屋上に出て、隣のビルの7階に移動するというが、隣のビルの窓が避難はしごの代用であり、その窓は普段から鍵が掛かっているところを非常時にボーイがハンマーで叩き割るのが手順である、という実態に渡海自治大臣は「これじゃあ安心して酒も飲めないじゃないか」と呆れかえったという。
全国消防長会総会、再発防止について議論[407][499][500]
5月18日、東京・五反田で第24回全国消防長会総会が開かれ、火災の再発防止に向けて至急取り組むべき課題が議論された。本件火災に基づいて国に要望すべき事項とされたのは以下のとおりである。
  1. 防火管理責任体制の強化
  2. 高層ビルと地下街における業種別の用途制限ならびに可燃物量を階ごとに制限
  3. 内装の不燃化基準強化
  4. 防火区画、排煙設備等の基準強化
  5. 避難経路の安全確保のため屋外階段またはバルコニーやタラップ設置義務の強化
  6. 災害発生時に作動する非常扉の自動閉鎖装置取付
  7. 既存建物に対するスプリンクラー設備や自動火災報知設備の遡及適用
これらについて提案がなされ、関係法令の改正を自治省消防庁を通じて関係省庁に要望することが緊急決議された。
衆議院議員会館で避難訓練実施[501][502][503]
5月19日、衆議院議員運営委員会「院内の警察および秩序に関する小委員会(小渕恵三委員長)」は、永田町の衆議院第二議員会館で消防演習および避難訓練を実施した。避難訓練については「会館7階で出火、館内に煙が充満、逃げ遅れ多数」という想定で実施され、特に救助袋を使った避難に重点が置かれた。小渕恵三委員長(のちの官房長官、首相)も救助袋の中に入って避難を体験した。
行政監察局、本件火災についての行政運用面を調査[504][505]
5月22日、近畿管区行政監察局は、千日デパート火災における行政の運用面を調べ、行政管理庁に報告した。その結果、建築基準法、消防法、労働基準法や防災行政に多くの疑問点があることがわかったことから、翌月中旬から全国15都道府県の大都市で行政監察を始めることになった。対象とされたのは地下街、旅館の防災体制全般であった。
消防審議会、法令改正の検討事項提出[506]
6月2日、消防庁は消防審議会に対して千日デパート火災を教訓にした新しい検討事項を提出し、了承された。消防法に基づき防火管理体制や消防用設備の基準を強化する目的で、防火対象物の管理権原を持つ者の責務、防火管理者の責務、消防計画の提出、避難訓練の届出について具体的な項目が盛り込まれた。また防火管理と消防用設備面で広い範囲にわたって施設側に義務を課す項目が数多く並んだ。これらの検討項目は審議を経て、のちに消防法と建築基準法の施行令改正の形となって具体化することとなった。
火災実験の実施[507][508][509]
1973年(昭和48年)5月9日、東京・霞ヶ関の空きビルとなった「旧厚生省・第一別館(5階建て)」を使って千日デパートビル火災の燃焼状況を調査するための実物火災実験が行われた。実施したのは建設省建築研究所、自治省消防研究所、通産省製品科学研究所で、実験は午前6時40分から開始された。本件火災の完全再現実験ということで東京消防庁から6台の消防車両が出場し警戒にあたった。同館2階フロアの一部分(225平方メートル)に千日デパート火災の3階出火当時と同じ量に相当する合計4トンの可燃物(化繊2トン、木材2トン)を設置し、アルコールを撒いて点火した。実験の時間経過と結果は以下のとおりであった。
  • 点火30秒後 化繊の衣類が燃え上がり、2階フロアの天井に黒煙が立ち込めた。
  • 1分30秒後 赤黒い炎がフロア全体を覆い、窓から黒煙が出始めた。
  • 3分40秒後 破裂音とともに窓ガラスが飛び散り、炎が窓外へ噴き出した。2階の天井全体に炎が走り、フラッシュオーバー現象が確認された。
  • 14分後 黒煙が急激に増え、階段を伝って上階に流れ始めると同時に最上階の5階に充満した。5階には「ハツカネズミ」30匹を置いていたが、煙の流入により激しく暴れて苦しがる様子が計測装置に記録された。
  • 33分後 1階の階段入り口から大型送風機を使い、毎分1,000立方メートルの強制送風を開始したところ、階段部分の煙は薄らいだが、2階出火階はバックドラフト現象を起こして激しい炎に包まれ、室内の温度は摂氏1,200度に達した。上階の煙はより一層濃くなり黒煙で視界が利かなくなった。5階のハツカネズミは3分の1が動かなくなった。
  • 60分後 2階の火勢は衰えず、窓枠が損傷して落下した。5階の一酸化炭素濃度は1立方メートルあたり0.07パーセント、酸素濃度は10パーセントを切り、人間が同階で生存不可能な状態に達した。
87分後に建物裏側(中庭)で輻射熱により隣の建物へ延焼し始めたため消火作業が開始された。火災実験はそこで打ち切りとなった。この実験で各階における煙の流動性、一酸化炭素濃度と強制送風による避難路確保の可能性などについて計測し、今後のビル火災対策上の貴重なデータを得た。特に火災の延焼の速さには専門家から驚きの声が上がった。また煙をビル内から排出する目的で強制送風を行った実験(点火33分後)では、本件火災と全く同じ状況が再現されたことから、外部から大量の空気をビル内に入れることは火勢と煙を増やすことに繋がるので危険性が高いとされた。
一方で旧厚生省ビルでの火災実験から約1か月後の6月3日、東京消防庁は東京千代田区大手町の「旧労働省庁舎ビル(3階建て)」を実際に燃やして火災実験をおこなった。実験の目的は、消防用設備などが実際にどのような働きをするのかを確かめるためであった。各階にスプリンクラー、防煙シャッター、熱感知器、煙感知器、誘導灯などを設置し、1階と3階で同時に点火してその効果を確認した。午前7時15分に点火し実験が開始され、点火6分後に建物全体に煙が充満した。実験の結果では、煙感知器と熱感知器を比較すると、煙感知器のほうが早く反応したため、本件火災においては出火から2分30秒から3分までが避難の限界だったとされ、熱感知器および煙感知器の設置が不可欠だったとされた。だが実際には千日デパートビルの出火階と延焼階(2階ないし4階)に煙感知器はおろか熱感知器すら設置されていなかった。当実験では、階段に1か所「防煙シャッター」が設置され、煙の遮蔽性が調べられたところ、煙の流動が始まってから約10分間は煙を完全に遮断することが確認された。これらの実験結果を受けて東京消防庁は、防煙対策は防火管理上において必要不可欠として、ビルの管理権原者が防煙対策を怠った場合には、厳しく告発するとした。

調査研究[編集]

千日デパート火災調査委員会[編集]

建設省は、千日デパートビル火災について、建築構造的な見地から本件火災事故を調査し、被害が拡大した原因を解明することで今後の防災対策を図るため、臨時に「千日デパート火災調査委員会(委員長・星野昌一)」(以下、調査委員会と記す)を設けた[510]。本件火災事故は、未曾有の被害を出した上に特異な原因や状況が見られたことから徹底した現場検証を行ったうえで調査検討がなされた。調査委員会メンバーは、11人の委員と5人の専門委員で構成され、建築学の権威や関係各省庁などの専門家らが参加した[510]。火災発生の同年8月31日に「中間報告」を発表し、基本的見解をまとめた[511]。火災事故から間もない時期に中間報告を発表した理由は、再発防止策を社会的に実施していくうえで行政の準備と対応が早急に必要であったからである[511]

調査委員会が中間報告でまとめた見解では、火災被害拡大の根本原因として以下の2点が挙げられた[511]

  1. 大量の可燃物が燃焼したことでエスカレーター開口部などの竪穴を通じて上下階に火災が延焼拡大したこと。
  2. 大勢の人々が滞在していた7階プレイタウンに火災の情報伝達が為されず、避難誘導が不適切だったことと相まって避難する機会を失ったこと。

千日デパートビルの建築構造上の欠陥については、空調ダクトやエレベーターシャフトおよび階段区画の防煙措置の不完全、避難階段および避難通路の不備、給排気システムの不備が挙げられた[510]。建築構造上の欠陥には、設計計画上および維持管理上の不備も含まれており、空調リターンダクト内の防火ダンパーが3か所設置されていたにもかかわらず、一つも作動していなかったことはその典型例とされ、ビル設備の常時点検や維持管理の必要性が指摘された。また法令による定期検査の強化も必要とされた[511]。建築構造上の欠陥に対する火災被害防止対策としては、大量の可燃物の取り扱いに対する安全対策、情報伝達の整備、排煙および給気システムの整備、避難路の整備、救助活動と消火活動の検討、上階への煙流入の防止対策などが提言された[512]。また今後の研究対象としては、避難路確保の技術的解明が必要とされた[513]

調査委員会は、火災発生から1年5か月後の1973年12月、最終報告書をまとめた。

民間における調査研究[編集]

本件火災の調査研究は、公的機関以外に民間でも調査研究が行われた。代表的な例として「防災都市計画研究所」および「MANU都市建築研究所」が合同で行った調査研究が挙げられる。その成果は一冊の報告書「千日デパート火災研究調査報告書・防災の計画と管理のあり方を検討する(村上處直高野公男著)」にまとめられた[514]。本件火災は、人的被害および物的被害が甚大で未曾有の大災害であったが、そのなかにおいて63名の生存者がいたことで、公的機関による調書や報道インタビューから多くの証言が得られた。そこを手掛かりに火災の時間的な経過を出火場所、1階保安室、7階プレイタウン、消火救出活動に分け、時系列的に各所における人々の行動や事象をすり合わせて検証することが可能な事例として詳細な調査研究が期待された[515]。従来の日本の火災調査では、原因や死傷者数、損害などについて詳細に述べられるのが定番だったが、延焼中の建物内における人間の動きや煙の充満過程など、実際にどのようなことが起こっていたか、時系列的に検討された報告書は無かったという[515]

本調査研究では、実際に調査員らが鎮火直後の火災現場に赴き、写真撮影を含めてデパートビル内を綿密に調査し、報道や証言などを加味しながら本件火災を多角的に検証した。現地調査は2度にわたり行われた[516][517]。特に重視されたのは、人々が実際に7階プレイタウン内で取った避難行動を解析し、建築構造的にどのような対策を立てれば火災時に避難を円滑にして人的被害を最小にできるのかについての検討である[518]。調査研究の成果から、防災計画についての新たな方策や知見が得られたことから、以降の超高層ビル建設などにその成果が活かされることになった[519]。火災に際して煙の流入と拡散を建物の空間に及ぼさない、または煙の拡散を可能な限り遅らせることが人命を守るうえで重要であることから、本件火災以降の超高層ビルの建設にあたっては、避難階段や廊下を加圧すること、ダクト内の防煙ダンパーを確実に作動させることの概念が普及し、加圧防煙システムが取り入れられるようになった[520]

法令の改正[編集]

千日デパート火災を教訓として、全国消防長会総会、消防審議会などで再発防止に向けた議論および検討がなされた結果、国会審議を経て消防法令、消防規則、建築基準法令が改正されることになった[521][522]

本件火災以降に改正された消防法令および規則は、1972年(昭和47年)12月1日に消防法施行令の一部改正(政令第411号)、1973年(昭和48年)6月1日に消防法施行規則の改正(自治省令第13号)、1974年(昭和49年)6月1日に消防法の一部改正(法律第64号)、1974年6月1日に消防施行令改正(政令第188号)、1974年7月1日に消防法施行令の一部改正(政令第252号)、1974年12月2日に消防法施行規則の一部改正(自治省令第40号)である[521]。また建築基準法令については、1973年(昭和48年)8月23日に建築基準法施行令の一部(政令第242号)が改正された[523]。本節では、改正された法令のうち消防法令の「消防法施行令・政令第411号(1972年)」と「消防法・法律第64号(1973年)」について、また「建築基準法令の建築基準法施行令・政令第242号(1973年)」について記す。また表示制度の端緒となった「消防設備『良』マーク制度」についても併せて記すことにする。

なお、この節の本文で記した法令の内容、用語、条項は、当該法令が改正された当時(1972年から1974年まで)のものである。したがって現行(2020年)の法令とは異なる部分がある。

消防法施行令の一部改正(政令第411号)[編集]

1972年(昭和47年)12月1日、消防法施行令を一部改正する政令が公布された(政令第411号・第17次改正)[524]。施行は1973年(昭和48年)6月1日で、一部は公布日に施行された[525]。本件火災では、火災発生の報知と情報がプレイタウン滞在者に伝わらなかったことで多数の逃げ遅れにつながったこと、管理権原者および防火管理者の責務と役割に不明確な部分があったため、避難誘導や防火管理の不手際につながったこと、また安全な避難口(B階段)の場所がプレイタウン滞在者には分からなかったことなどにより、多大な人的被害を出したことへの教訓を活かすため、これらを重点的に見直す内容となった[526]。改正のおもな内容を以下にまとめた。

防火管理に関する事項
1.防火管理者を定めるべき防火対象物の規定を強化した。
劇場、キャバレー、飲食店、百貨店、ホテル、病院、サウナなどの特定防火対象物の用途に使われる部分が存在する複合用途防火対象物で「収容人員が30人以上」の防火対象物は、防火管理者を定めなければならないとされた[527][528]。従来は「収容人員50人以上」となっており、不特定多数の人を収容する施設と身体的弱者を多く収容する施設について、より規定を厳しくした[529]
2.防火管理者の資格を明確化した。
防火管理者の業務を遂行するには、防火に関する知識を有している必要があり、管理権原者との間で連携が取れていなくてはならない。防火管理者の資格を有しているものは、管理する防火対象物において、適切に業務を行える管理的または監督的地位にあることと定められた[530]。従来は防火管理者の資格が定義されていなかった。
3.管理権原者および防火管理者の責務を強化した[524]
防火管理者は、防火管理上の業務を行うときは、管理権原者の指示や判断を求めなければならないとされた[531][528]。また管理権原者は、防火管理者に対して必要な指導と監督を行い、防火管理者の業務を実施させる責務を負うとされた。従来は防火管理者の責務として「誠実にその職務を遂行しなければならない」としか条文に書かれていなかった[529]。また管理権原者の防火管理者に対する指導監督的役割を明確化した。
また防火管理者は、省令の定めにより消防計画を作成し、それに基づき消火、通報、避難訓練を定期的に実施しなければならないとした[532][529]。従来は「省令の定めに」という部分が抜けていた[529]。この条項は政令公布日(1972年12月1日)に施行された[525]
4.共同防火管理を要する防火対象物の範囲を拡大した。
劇場、キャバレー、飲食店、百貨店、ホテル、病院、サウナなどの特定防火対象物に使われる部分がある複合用途防火対象物は、地下を除いて階数が3以上のものが共同防火管理が必要とされた[533]。従来は「地下を除いて階数が5以上」とされていて、以前よりも範囲を拡大し基準を厳しくした[534][535]。不特定多数の人を収容する施設と身体的弱者を多く収容する施設を対象とした。
防炎防火対象物に関する事項(省略)
消防用設備等に関する事項
1.スプリンクラー設備
(ア)特定防火対象物のうち平屋建て以外の防火対象物で床面積が6,000平方メートル以上のものには、スプリンクラーを設置しなければならないとされた(自治省令で定める部分を除く)[536][537]
従来は、百貨店などの建物で、売場面積の合計が9,000平方メートル以上かつ4階以下、または6,000平方メートル以上の場合は5階以上の建物が対象とされていたが、階数の規定をなくし、より設置基準を厳しくした[538]。また平屋建てについては避難が容易であることから設置対象から外した[538]
(イ)特定防火対象物に使用する部分がある複合用途防火対象物で、特定防火対象物の用途に使われる部分の床面積の合計が3,000平方メートル以上の階のうち、当該部分がある階全体にスプリンクラーの設置が義務づけられた[539][540]
従来は、雑居ビルなどの場合、用途ごとに防火対象物の基準を適用してスプリンクラー設置の有無を決めていたが、複合用途防火対象物は、使用時間が用途によって異なること、防火管理が別々に行われること、また不特定多数の不案内な人たちが多く利用することを考慮し、設置基準をより厳しくした[541]。該当部分だけにスプリンクラーを設置したのでは消火効果が十分に発揮できないこともあり、該当する階全体に設置するよう改められた[542]
(ウ)防火対象物の11階以上の階にはスプリンクラーの設置が義務づけられた[543][544]。従来は、11階以上の階に関して特定防火対象物で防火区画された部分以外の面積が100平方メートルを超える場合に設置義務があったが、高層階は消防活動が困難なことから、防火区画や建築基準の如何にかかわらず、設置を義務づけた[541]。またスプリンクラーヘッドの技術基準も強化された[545][546]
2.自動火災報知設備
(ア)百貨店、飲食店などの特定防火対象物で延べ面積が300平方メートル以上に自動火災報知設備の設置が義務づけられた[547][548]
従来は、500平方メートルで設置の義務があったが、不特定多数の利用者が出入りする建物については、火災の早期発見および早期通報が重要であるとして基準が強化された[549]。千日デパート火災においては、火災の報知と通報、情報伝達が早期になされなかったことで多数の死傷者を出すに至っている。
(イ)複合用途防火対象物で延べ床面積が500平方メートル以上かつ当該部分の床面積が300平方メートル以上のものは、自動火災報知設備の設置を義務づけられた[550][551]
(ウ)防火対象物の11階以上の階に設置を義務づけた[552][553]
自動火災報知設備の基準に関しては、劇場、キャバレー、飲食店、百貨店、病院、社会福祉施設、サウナおよび特定防火対象物の用途に使われる部分がある複合用途防火対象物については、既存の建物においても「遡及適用」の対象とされた[554][522]。この基準は1975年(昭和50年)12月1日から施行するとされ、設置完了までの猶予期間が設けられた[525]
3.漏電火災警報器
特定防火対象物の用途に使われる部分がある複合用途防火対象物について、延床面積が500平方メートル以上かつ当該部分の床面積合計が300平方メートル以上、契約電流50アンペアを超える複合用途防火対象物に漏電火災報知器の設置を義務づけた[555][553]
従来は、複合用途防火対象物については、「それぞれの用途」に対して適用されていたものを用途を問わず50アンペアを超える場合には設置を義務づけていた[556]
4.非常警報設備
不特定多数を収容する施設においては、火災発生時に避難が円滑に行われなければならない観点から、音声による誘導が必要であるとし、放送設備の設置が義務づけられた[553]
対象となったのは複合用途防火対象物で収容人員が500人以上のもの[557][556]。劇場、キャバレー、百貨店、飲食店、サウナ公衆浴場で収容人員300人以上のもの[558][556]。寄宿舎・共同住宅、学校、図書館・美術館で収容人員800人以上のもの[559][556]
5.避難器具
(ア)防火対象物の3階以上の階のうち、避難階または地上に直通する階段が2以上設けられていない階で、収容人員10人のものには避難器具の設置を義務づけた[560][561]。これは、いわゆる「ペンシルビル」の避難対策で新設された。
(イ)避難器具の設置および維持に関する技術基準が強化された(詳細省略)[562][561]
6.誘導灯および誘導標識
(ア)特定防火対象物に使われる部分がある複合用途防火対象物に避難口誘導灯、通路誘導灯、客席誘導灯および誘導標識を設ける場合は、建物全体に誘導灯を設置するように義務づけられた[563][564]。従来は、用途ごとに設置基準が定められていたが、避難を一体的に行う必要があることから改められた。
(イ)「避難口」を明示した表示も認められることになった[565][564]。従来の誘導標識は「避難する方向を明示するもの」と定められていた[564]。本件火災の被害拡大の一因として、唯一の安全な避難階段であるB階段の避難口の場所が分からず、ほとんどのプレイタウン滞在者が脱出できなかったことへの教訓である。
7.適用が除外されない消防用設備[注釈 52]
消防法第十七条の二第1項で定める消防用設備等のうち、自動火災報知設備に関しては、当該規定を適用する防火対象物に特定防火対象物を新たに加えた[566][567]。従来は旅館、ホテル、宿泊所、病院、療養所、文化財だけが適用の対象とされていた[568]
消防法施行令・別表第一に関する事項
従来の複合用途防火対象物「16項」を「16項(イ)」と「16項(ロ)」に区分した[569][570]
千日デパートのような特定防火対象物の用途に使われる部分がある複合用途の建物(いわゆる雑居ビル)は、建物に不慣れな不特定多数の人々が利用するため、火災が発生した場合に避難が困難になるおそれがあり、危険度がきわめて高いことから「16項(イ)」を新たに作り分類し直した。従来の「住居兼店舗」または「住居兼倉庫」を想定した複合用途防火対象物は「16項(ロ)」とした[570]
従来の「16項」の条文は、「前各項(1項から15項)に掲げる防火対象物以外の防火対象物で、その一部が前各項に掲げる防火対象物の用途のいずれかに該当する用途に供されているもの」とだけ書かれており、「16項(イ)」は、新たに「前各項に掲げる防火対象物以外の防火対象物のうち、その一部が前各項に掲げる防火対象物の用途のいずれかに該当する用途に供されているもので、1項から4項まで、5項(イ)、6項または9項(イ)に掲げる防火対象物の用途に供される部分が存するもの」と定義され、「雑居ビル」および「商業ビルなどの大規模な複合用途」という概念が明確化された[570]

消防法の一部改正(法律第64号)[編集]

1974年(昭和49年)6月1日、消防法の一部を改正する法律が公布された(法律第64号)。

千日デパート火災発生から約10か月、未曾有の大災害からの警戒心からだったのか、しばらくは治まっていた大規模なビル火災が再び起こり始めていた[注釈 53]。1973年(昭和48年)3月8日に起きた福岡県北九州市の済生会八幡病院火災(死者13人、負傷者3人)を皮切りに、同年5月28日には東京新宿歌舞伎町の第6ポールスタービル火災(死者1人)、6月18日には北海道釧路市オリエンタルホテル火災(死者2人、負傷者35人)[526]、9月28日には大阪府高槻市の西武高槻ショッピングセンター火災(死者6人、負傷者13人)が相次いで発生した。そのような状況だったことから年末に向けて、火災への警戒がより一層の高まりをみせていた。「秋の火災予防運動」も終わろうとしていた11月29日、熊本県熊本市下通の大洋デパートで白昼に火災が発生し、死者104人[571][572][573][注釈 54]、負傷者124人[574][注釈 55]を出す大惨事が再び起こった。政府や消防関係当局は、千日デパート火災の惨事を教訓に消防および建築関係法令などを改正し、避難訓練の実施を図り、消防設備などの検査や査察を強化するなど、さまざまな対策や再発防止を図ってきた。しかし、その努力が不十分だったことが明らかになり、ついに消防法令において既存不適格の防火対象物に対し「消防用設備等設置の遡及適用」を行うことになった[523][522]

消防法改正のおもな内容
既存の防火対象物に対して消防用設備などの遡及適用を新設した[521][523][522]。特に重要な内容は、特定防火対象物のうち、劇場、キャバレー、百貨店、ホテル、旅館、病院、公衆浴場(サウナ)、複合用途、地階がある建物、地下街については適用除外を除くとしたことである。つまり、それらの用途については、たとえ既存不適格状態であっても、要件を満たした場合には例外なく法令で定められた消防用設備を技術基準に従い設置する義務を負うということである。また用途変更の場合も遡及適用の対象とされた。さらに法施行時に既存不適格の特定防火対象物が大規模な工事(新築、増築、改築、移転、修繕、模様替え)を行っていた場合には、消防用設備などの技術基準を遡及適用するとした。用途によって消防用設備などの設置を完了しなければならない期限を具体的に定めた。百貨店、地下街、複合用途の特定防火対象物については、1977年(昭和52年)3月31日までに(施行日は翌日の4月1日から)、また旅館、病院その他の特定防火対象物は、1979年(昭和54年)3月31日(施行日は翌日の4月1日から)までに消防用設備等の設置を完了することとし、その維持を義務づけた[521]
遡及適用される消防用設備などは、以下の設備が対象とされた。なお、火災等を感知して警報を発する設備や器具、または避難誘導に必要な器具等は、防火対象物の区分や用途に関わらず遡及適用の対象とした[575]
  • 消火設備については、消火器、屋内消火栓、スプリンクラー設備、水噴霧消火設備、屋外消火栓、動力消火ポンプ
  • 警報設備については、自動火災報知機、ガス漏れ火災警報設備、漏電火災警報器、消防機関通報設備、非常警報器具、非常警報設備
  • 避難設備については、避難器具、誘導灯、誘導標識
  • 消火活動に必要な施設については、連結送水管、排煙設備、連結散水設備、非常コンセント設備など。

そのほかには、防火管理に関する事項として、防火管理者の業務が法令や規定、消防計画に従って行われていないときは、防火対象物の管理権原者に対して必要な改善措置を命令することができるようにした。命令は、消防計画を定めていない場合、消防計画を届けていない場合、避難訓練が行われていない場合に発動することができ、違反には罰則が設けられた。また消防用設備などの検査を受けること、また消防用設備などの点検および報告を行うことが義務づけられた[522]。違反には罰則が設けられた。

建築基準法施行令の一部改正(政令第242号)[編集]

1973年(昭和48年)8月23日、建築基準法施行令の一部を改正する政令が公布され(政令第242号・第13次改正)[576]、1974年(昭和49年)1月1日に施行された[577]。ただし第136条の改正規定は公布日から施行とされた[578]

本件千日デパート火災と1973年3月の北九州済生会病院火災においては、煙によって多数の死傷者を出すに至ったことから、本政令改正のおもな要点は、煙対策と避難施設の規定に関して行われ、それらを強化する内容となった[522][576]。改正のおもな内容を以下にまとめた。

防火区画に関する規定強化
常時閉鎖式防火戸の導入を規定し、防火区画における防火戸の常時閉鎖を原則とした(防火区画・第112条)[576][522]

耐火建築物等の防火区画に用いる甲種防火戸[注釈 56]または乙種防火戸[注釈 57]は、面積が3平方メートル以内で常時閉鎖状態を保持する防火戸で、直接手で開くことができ、かつ自動的に閉鎖するもの、またはその他の防火戸は以下の各号の構造にしなければならない、とされた[579]
(ア)随時閉鎖することができること[579]
(イ)居室から地上に通じているおもな廊下、階段、その他の通路に設ける防火戸は、当該戸に近接して当該通路に常時閉鎖式防火戸が設置されている場合には、従来の規定は適用されない、とした[579]
(ウ)当規定による区画に用いる甲種防火戸[注釈 56]および乙種防火戸[注釈 57]にあっては、建設大臣の定める規定に従って、火災により煙が発生した場合または火災により急激に温度が上昇した場合のいずれかに自動的に閉鎖する構造にすること、とした[580][522]。また建築基準法令の規定による区画に用いる甲種防火戸[注釈 56]、または建築基準法令の規定による区画に用いる乙種防火戸[注釈 57]にあっては、避難上および防火上支障のない遮煙性能を有する構造とすること、とした[580]
従来においても防火戸は「随時閉鎖、手動開閉可能、火災による温度急上昇で自動閉鎖」の規定はあったが、煙が発生した場合に自動閉鎖すること、煙を遮蔽する性能を有する構造に関してまでは規定していなかった[581]。本件火災では、プレイタウンに直結していた特別避難階段「B階段」出入口の扉2枚は、ドアチェックが装備されていなかったとみられ(随時閉鎖機能がない扉)、2人の脱出者がB階段を使用して脱出したあと、扉2枚が開け放たれた状態になっていた。その影響で7階フロアから煙がB階段に逆流し、消防隊の内部探査や救出活動に支障をきたした。

防火ダンパーの材質、性能などを具体的に規定した(防火区画・第112条の16)[578][522]
  1. 空調ダクトが耐火構造の防火区画を貫通する場合に設ける防火防煙ダンパーは、以下の場合に自動で閉鎖する構造にすること、とされた[580]
    (ア)火災により煙が発生した場合[582]
    (イ)火災によりダクト内が急激に温度上昇した場合[582]
  2. 防火防煙ダンパーの構造は、前記(ア)(イ)以外に以下の構造にすること、とされた[580]
    (ア)鉄製であること。また鉄板の厚みは1.5ミリ以上であること[580]
    (イ)ダンパーが閉鎖した場合に防火上支障のある隙間が生じないこと[583]
    (ウ)建設大臣がダンパーとしての機能を確保するために必要があると認めて定める基準に適合する構造とすること[583]
    従来も防火防煙ダンパーの設置は規定されていたが、その技術基準があいまいで「防火上有効にダンパーを設けること」としか規定されていなかった[584]。本件火災では、プレイタウン事務所前の廊下に設置していた空調ダクト吸入口から大量の煙が流入したことで多数の死傷者を出すに至った。ダクト内には防火防煙ダンパーが3か所設置されていたにもかかわらず、いずれも作動しなかった。
2以上の直通階段設置を義務付ける用途の範囲を拡大
2方向避難の原則から2以上の直通階段を設ける場合の適用範囲を拡大した(2以上の直通階段を設ける場合・第121条)[578][522]。建築物の避難階以外の階が以下の各号に該当する場合には、避難階または地上に通じる2以上の直通階段を設けなければならない、と定められた[585]
  1. 酒場やキャバレー、ナイトクラブなどの用途に使用する階(新設)[586]。ただし、5階以下の階で居室の床面積が100平方メートルを超えず、避難バルコニーまたは屋外通路などがあり、避難階から地上に通じる規定の直通階段が設けられており、避難階の直上または直下の5階以下の階で床面積が100平方メートルを超えないものは除外される、とした[587]
  2. 病院または診療所に対する規定に対し、新たに児童福祉施設などを加えた[588]。病院または診療所の用途に使われる階で、その階における病室の床面積の合計または児童福祉施設などの用途に使われ、その用途の居室面積の合計が50平方メートルを超えるもの、とした[588]
  3. 6階以上の階に居室がある場合[589]。ただし、1から3に掲げた用途に使用する階以外で、その階の居室床面積の合計が100平方メートルを超えず、その階に有効な避難バルコニーまたは屋外通路などおよび既定の地上へ通じる直通階段が設けられているものは除く、とした[588]。従来は「6階以上の階」とは規定されていなかった[588]
  4. 5階以下の階で居室の床面積の合計が直上階で200平方メートル、その他の階で100平方メートルを超えるもの[590]。従来は「5階以下の階」とは規定されていなかった[588]
避難階段および特別避難階段の構造を強化した(避難階段および特別避難階段の構造・第123条)[578][522]
(ア)屋内に設ける避難階段の階段に通じる出入口には、常時閉鎖式防火戸である甲種防火戸もしくは乙種防火戸、またはこれ以外の法令が規定する甲種または乙種防火戸を設置すること[591]、また直接手で開くことができ、かつ自動的に閉鎖する戸および戸の部分が避難する方向に開くことができるものとすること、と定められた[591]
(イ)特別避難階段の出入口に設ける甲種防火戸または乙種防火戸の構造は、屋内からバルコニーまたは附室に通じる出入口には規定の甲種防火戸を[592]、バルコニーまたは附室から階段に通じる出入口にも同じ甲種防火戸をつけること、と定められた[592]
地下街の区画の規定(地下街・第128条の3)
  1. 地下街の各構造が他の地下街の各構造と接する場合は、耐火構造の床もしくは壁、または法令で規定する常時閉鎖防火戸である甲種防火戸で区画しなければならない、と定めた[593]
  2. 地下道においても前項と同じ構造で区画する、とした[593]
    また新たに防火戸の技術基準を高めた規定を適用した[594]
内装制限の強化
特殊建物に対する内装制限を強化した(特殊建築物等の内装・第129条)[522]
特殊建築物の居室の壁および天井の室内に面する部分の内装仕上げは、3階以上で不燃材料または準不燃材料であること、と定められた[595]。ただし、3階以上に居室を有しない建築物は従来どおり不燃材料、準不燃材料または難燃材にすることができるとした[595]。従来は「3階以上の階」という規定がなかった[594]

なお以下の改正項目について当記事では省略した。木造等の建築物の防火壁(第113条)、共同住宅の住戸の床面積算定等(第123条の2)、非常用の昇降機の設置を必要としない建築物(第129条13の2)、敷地内の空地および敷地面積の規模(第136条)。

消防設備「良」マーク制度の導入[編集]

1972年(昭和47年)11月28日、「予防査察の強化について」と題する消防庁次長通達が出され(消防予第198号)、「消防設備良マーク制度の導入」が決められた。制度の適用対象は特定防火対象物の第一種査察対象物かつ耐火建築物とされた[596]。これは消防用設備などの設置が法令の基準を満たしている特定防火対象物に「良マーク」を与えて入口などに表示させ、防火管理者などの認識を深めて消防用設備などの完全履行を促し、防災意識を高めることを意図した制度である[597]。国の指導による表示制度導入は初めての試みであった。この表示制度は、のちの「特例認定制度(適マーク)」や「優良防火対象物認定表示制度(優マーク・東京消防庁)」などの表示マークや公表制度、認定制度全般につながるきっかけとなった制度である[596]

全国に先駆けて東京消防庁が制度の導入を決めた。1973年(昭和48年)3月から4月にかけて、都内のホテルや旅館など2,735件の特定防火対象物について、東京消防庁全67消防署が一斉に立ち入り検査を実施した。その結果、消防用設備などが完備され、防火管理も適正に行われている「95の施設」に対して「良マーク」が交付されることになった[597]。交付は同年5月19日から開始され、有効期間は1年で、立入検査の結果によって更新されるが、有効期間内であっても法令違反などがあった場合は回収するとした。建物の出入口の見やすい位置に掲示することが義務づけられた。自治省消防庁の通達に基づいて実施される制度であることから、各消防本部の実状に応じて全国的に実施していく予定とされた[598]。本制度の運用が広がりを見せようとした矢先、大洋デパート火災が発生し、再び大きな被害が出てしまった。このあと消防法令の改正が行われたことなどから1974年(昭和49年)12月、東京消防庁は「良マーク」の運用を凍結した[596]

刑事訴訟[編集]

本件火災に関して大阪府警特別捜査本部は、1973年(昭和48年)5月29日に以下の管理権原者および防火管理者らを業務上過失致死傷容疑で大阪地方検察庁に書類送検した[286]。送検されたのは日本ドリーム観光・千日デパート管理部次長、同管理課長、同保安係長の計3名およびチャイナサロン「プレイタウン」を経営する千土地観光・代表取締役とプレイタウン支配人の計2名、ニチイ千日前店店長の合計6名である[286]。大阪地方検察庁刑事部は1973年8月10日、書類送検された6名のうち、日本ドリーム観光・千日デパート管理部次長、同管理課長の2名および「プレイタウン」を経営する千土地観光代表取締役とプレイタウン支配人2名の計4名を業務上過失致死傷罪起訴した[287]。デパート管理部保安係長およびニチイ千日前店店長の計2名は、証拠不十分により不起訴処分となった[599]。右2名の不起訴理由は、保安係長については保安室の火災報知機によって火災を覚知しておきながら7階プレイタウンに連絡せずに同階滞在者の避難を遅らせた容疑によって送検されたところ、保安室で火災を検知したころには7階でも煙の侵入を覚知していたことは明らかで、通報しなかったことに落ち度はないと判断された[600]。またニチイ千日前店店長については、店内工事に際して監視責任を果たさなかった容疑で送検されたところ、工事立会人を置かなかったことは確かに落ち度であるが、火災発生と電気工事を関連させる証拠がないと判断され、いずれも不起訴処分が確定した[599]

刑事訴訟第一審は、大阪地方裁判所で1984年(昭和59年)5月16日に判決が出され、デパート管理部次長を除くその他の3被告全員に無罪を言い渡した[176]。なおデパート管理部次長については、第一審係属中に死亡したため1977年(昭和52年)6月30日に公訴棄却となった[601]。検察は原審判決には事実誤認があるとして控訴した[602]控訴審は、大阪高等裁判所で1987年(昭和62年)9月28日に判決が出され、原判決破棄で一転して被告人全員が有罪とされ[292]、千日デパート管理部管理課長に禁錮2年6月・執行猶予3年、千土地観光の2被告には禁錮1年6月・執行猶予2年の有罪判決が言い渡された[292]。3被告は判決を不服とし、最高裁判所の判断を仰ぐため上告した[603]上告審は、1990年(平成2年)11月29日に最高裁判所第一小法廷で判決が言い渡され、裁判官全員一致の意見で上告は棄却となり、3被告の有罪が決定した[14]。火災事件発生から裁判終結まで、実に18年6か月の歳月が経過していた[603]。なお本件火災発生の翌日に「O電機商会」の電気工事監督が現住建造物重失火および重過失致死傷の容疑で逮捕、送検されていたが、被疑者本人の供述以外に証拠は存在せず、供述の内容も二転三転して一貫性がなく、のちに否認に転じるなど、犯人と断定する証拠がないとして1973年8月10日、大阪地方検察庁刑事部は工事監督の不起訴処分を決定した[286]#出火原因

以降、本節ではデパート管理部管理課長を「被告人A」、千土地観光取締役を「被告人B」、プレイタウン支配人を「被告人C」と記す。なお公判係属中に死亡したことにより公訴棄却になったデパート管理部次長については「被告人D」もしくは「管理部次長」と記す。

第一審[編集]

千日デパートビル火災の刑事裁判は、上記起訴の被告人4名について、業務上過失致死傷罪での責任を問うことになった。高度経済成長に伴う都市の過密化や建物の高層化、深層化が急激に進み、複合用途に使われる「雑居ビル」も激増している状況下で、テナントなどの管理機構が複雑に入り組んだ高層ビルで火災が発生した場合において、失火の当事者ではなく、ビルまたはテナントの防火管理責任者および管理権原者が刑事責任を追及されるのは、日本では異例ということで注目される裁判となった[604]

起訴状の要旨[編集]

大阪地方検察庁の各被告人に対する過失認定によれば、本件火災は、千日デパートの防火管理責任者(被告人Dおよび同A)が3階でおこなわれた閉店後の夜間工事に際して、日頃からの防火区画シャッターの点検整備を怠り、火災発生時に同シャッターを閉鎖せず、保安係員を工事に立ち会わせなかった注意義務違反により、同階東側で発生した火災を売場の一区画だけで食い止めることができず、火災を拡大延焼させ、発生した多量の煙を7階で営業中の「プレイタウン」に流入させた過失を「第一」とし、次に7階プレイタウンの管理権原者および防火管理責任者(被告人Bおよび同C)が階下の火災発生による煙の流入によって客や従業員が避難すべき状況があるにもかかわらず、それらに対する避難誘導を失念し、救助袋の保守点検を怠り、日ごろの避難誘導訓練を実施しなかったことにより、客らに対する適切な避難誘導および救助袋による脱出救助を不能にした過失を「第二」とした。以上の2つの構成による各過失が競合した結果、被害を拡大させ、重大な死傷結果を発生させた、というのが検察の見解である[605]
大阪地方検察庁刑事部の起訴状の要旨は以下のとおりである。(被告人の地位、業務内容は省略)
被告人Dおよび同Aについて(第一) 被告人D及び同A(千日デパート防火管理責任者)の両名は、同ビルが直営あるいは賃貸の店舗で雑多に構成され、3階もニチイのほか、株式会社「M」等4店舗が雑居するいわゆる複合ビルで、6階以下の各売場は、21時に閉店し、その後は、各売り場の責任者等は全く不在であり、7階の「プレイタウン」だけが23時まで営業しているという特異な状況にあり、しかも、火災の拡大を防止するため、6階以下の各売場には、建築基準法令に基づき、床面積1,500平方メートル以内ごとに防火区画シャッターが、それぞれ設置されていたのであるから、平素から右シャッターを点検、整備したうえ、6階以下の各売場の閉店時には、保安係員をして、これらシャッターを完全に閉鎖させ、閉店後に工事等を行わせるような場合でも工事に必要な部分のシャッターだけを開けさせ、保安係員を立ち会わせるなどして、なんどき火災が発生しても、直ちにこれを閉鎖できる措置を講じ、以って火災の拡大による煙が営業中の「プレイタウン」店内に多量に侵入するのを未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、いずれもこれを怠り、右シャッターを全く閉鎖せず、ニチイ店内の工事に際しても、保安係員を立ち会わせることなく、漫然これを放置した過失により、火災を3階東寄り売場の一区画(床面積1,062平方メートル)だけで防止することができず、火災を拡大させて多量の煙をビル7階に通じる換気ダクト、らせん階段等により「プレイタウン」店内に侵入充満させた[43][322][287] — 大阪地方検察庁刑事部、判例時報1985(1133)
被告人Bおよび同Cについて(第二) 被告人Bおよび同C(プレイタウン防火管理責任者)の両名は、閉店後の6階以下で火災が発生した場合、多量の煙が営業中の「プレイタウン」店内に侵入充満することが十分予測されたのであるから、平素から従業員を指揮して客らに対する避難誘導訓練を実施し、煙が侵入した場合、速やかに従業員をして客らを避難階段に誘導し、若しくは救助袋等を利用して避難させ、もって、客らの逃げ遅れによる事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、いずれもこれを怠り、右階段等の状況を把握することなく、また、備付の救助袋(一個)が一部破損し、その使用が困難な状態にあったのに、新品と取替え、あるいは修理することなく、漫然これを放置した過失により、火災で発生した煙が店内に侵入した際、客らに対する適切な避難誘導及び救助袋等による脱出救助を不能にさせた[43][322][287] — 大阪地方検察庁刑事部、判例時報1985(1133)
過失の競合

以上により(第一および第二)、被告人4名らの各過失の競合により、「プレイタウン」店内で遊興中の客及び従業員のうち、Kほか117名を一酸化炭素中毒等により死亡させ、さらにSほか41名に対し一酸化炭素中毒等の重軽傷を負わせたものである[注釈 58]

罪名 業務上過失致死傷罪 罪条 刑法第211条前段[43][322][287] — 大阪地方検察庁刑事部、判例時報1985(1133)


求刑

検察は、被告人Aに対して禁固2年6月、被告人Bに対して禁固1年6月、被告人Cに対して禁固1年6月をそれぞれ求刑した[606]

弁護人らの主張[編集]

公判廷において弁護人らは、被告人Dおよび同Aについて、以下の理由により無罪であると主張した[607][608]
  • デパート閉店後に6階以下の階で火災が発生した場合、公訴事実のような経路で煙が7階プレイタウン店内に流入することは予見できなかった[注釈 59]
  • 防火区画シャッターを夜間閉店後に毎日常時閉鎖する義務はない。このことについて弁護人らは以下の根拠を挙げた。
    • 千日デパートの防火区画シャッター(売場内)は、地下1階から4階までの間に全部で68枚あり、巻き上げは手動式で[注釈 60]、これらをすべて開店時に巻き上げるには多大な労力と時間を要し、数名の保安係員だけでは到底毎日開閉できない[注釈 61]
    • 防火区画シャッターの開閉装置は、同一列にあるものは全て各シャッターに隣接する柱の同一側にあるため、いったん閉鎖すると反対側から開けることが出来ない。
    • 各防火区画シャッターには潜戸(くぐりど)が無いため、売場の防火区画シャッターを全部閉鎖してしまうと閉店後の保安係員の巡回が極めて困難になる。
    • 開閉が困難な手動式防火区画シャッターは、1958年当時の建築基準法施行令においては適合していたものであり、当時の法令では火災発生の際に閉鎖できれば足りると考えられていた。その後、法令の遡及適用が為されなかったのだから、同ビルの防火区画シャッターについては、設置当時の法令基準での使用方法で足りるのであり、夜間常時閉鎖の義務はない。
  • テナントがおこなう工事にデパート管理部の保安係員が立ち会う義務はない。


同様に被告人Bおよび同Cについても、以下の理由で両被告は無罪であると主張した[607][609]
  • プレイタウンでは、消防当局の指導の下に消防訓練をおこなっていた。
  • 同店内に煙が充満し、客らがパニック状態に陥ったために避難誘導ができるような状態ではなかった。
  • ホール出入口からB階段に至る通路に煙が急速に充満したため、B階段へ行けば安全に避難できるとは判断できなかった。
  • 救助袋は破損していたものの使用可能な状態にあり、袋の入口を起こせなかった理由は、従業員が使用方法を知らなかったからではなく、救助袋の投下を知った客らがその場へ殺到したために投下作業中の者らが脇へ追いやられたことが原因である。

第一審判決[編集]

第一審判決は、1984年(昭和59年)5月16日に大阪地方裁判所で言い渡された[354]。主文は「被告人3名はいずれも無罪」であった[610]。検察が主張した被告人らの火災被害の予見可能性および各注意義務については、その存在が概ね認められたが、各注意義務の履行、結果回避の可能性、火災発生と人的被害との因果関係、業務上の過失責任については、その大半が認められなかった。弁護人らの被告人に対する無罪主張がほぼ認められた形の判決となった。大阪地裁が「被告人3名を無罪である」と判断するに至った理由の要約を判決文を引用する形で以下に記す。なお公訴事実、認定事実、火災事件の概略等は、当記事の前各節で記している内容と同様なので省略した。

本件火災原因についての判断[編集]

本件火災は、工事監督が3階東側を歩いている際にタバコを吸い、その煙草若しくはこれに点火する際に用いたマッチの火が原因となって発生した疑いが濃厚であるが、この点を証拠上確定することは出来ず、結局、出火原因は不明と言わざるを得ない[6][40]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)

被告人Aの各注意義務および過失責任の有無[編集]

大阪地裁は被告人Aの過失責任に関して、プレイタウンに煙が流入する予見の可能性、デパート閉店後の防火体制、防火区画シャッター閉鎖の必要性、防火区画シャッター閉鎖の体制づくり、保安係員を工事に立ち会わせる義務、それぞれについて検討をおこない、以下の判断を下した。

被告人Aが防火管理者として為すべき業務
被告人Aは、日本ドリーム観光管理部管理課長として同会社が直営し、あるいは賃貸して営業している千日デパートビルについて、その維持管理の統括者である同管理部次長を補佐するとともに、1969年(昭和44年)4月30日から本件火災同日まで、同ビルの防火管理者として同ビルについての消防計画を作成し、これに基づき消火・通報・避難等の訓練の実施、消防用設備等の点検整備、避難または防火上必要な構造および設備等の防火管理上において必要な業務に従事していた[611]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
煙がプレイタウン店内に流入する予見の可能性
  • 千日デパート閉店後は、6階以下の一部の階には少数の滞在者がいるのみだが、7階プレイタウンには多数の客や従業員が23時まで滞在しているのであり、防火管理者は同デパートの防火体制を考えるうえで、これらのことを念頭に置かねばならない[611]
  • 6階以下で火災が発生した場合、耐火構造の建物ゆえに7階まで燃え広がる恐れは少ないが、同デパートには煙を多量に発生させる可燃物(商品や内装材)が多数存在しているのは明らかであり、その煙が階段や換気ダクトなどを通じて7階まで到達することは充分に考えられる[611]
  • 弁護人らは「被告人AがA南エレベーター、階段(E、F)、換気ダクトを通って煙がプレイタウンに流入することは予見できなかった」と主張したが、同ビルで火災が発生した場合、煙が上層階に流入する具体的な経路までは予見できなくても、プレイタウンに煙が流入する恐れがあることは予見できたと認められる[611]
  • 大阪市消防局および南消防署は、福田屋百貨店火災を教訓に管内の百貨店などに対して防火研究会と説明会をそれぞれ1回ずつ実施した[611][注釈 62]。さらに消防当局は田畑百貨店火災を教訓とした夜間査察[注釈 63]や特別点検[注釈 64]を実施し、その結果を説明する防火指導会[注釈 65]および説明会[注釈 66]をそれぞれ1回ずつ開いた。合計4回開かれた説明会などに被告人Aは3回出席していた[612]。また欠席した1回についてはデパート管理部の保安係長が出席し、その内容の報告を受けていたのであるから、各階段や換気ダクトが煙道になり、多量の煙が同店に流入することがあり得ることは充分に予見できたと認められる[121]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
千日デパート閉店後の防火体制
ニチイ千日前店の売場改装工事に際して、デパート管理部次長はニチイ千日前店店長に対して工事の要望書を交付し、被告人Aと管理部次長がニチイと工事業者らを集めて要望事項を伝えているが、そのなかで喫煙については所定の場所であらかじめ水を入れた大きな容器を置き、そこでタバコを吸うように要望していることが認められるから、火の不始末による火災予防について、いちおうの対策は講じていた。大阪市内の大手百貨店では、閉店後の工事に際して部外者が店内に入るときは、百貨店側が喫煙用のバケツ等の容器を用意し、それを使用させていたことが認められるから、それらの事例に比べて、右のような要望をしただけで喫煙用の容器等をニチイや工事関係者に用意させていた被告人らの措置は、火災予防の措置としては不十分であるが、火災原因が不明である以上、火災予防措置に落度があったとしても、この点をとらえて被告人Aの過失を問うことは出来ない[121]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
閉店後に防火区画シャッターを閉鎖しておくことの必要性
  • 3階東側売場で発生した火災を同エリアだけで食い止めるには、北側と南側に設置されている2か所の空調機械室間を南北に一直線で結ぶ6枚の防火区画シャッターを閉める必要があったが、工事作業者らが3階で火災を発見したあとの火災の拡大と急速な煙の充満した状況によって、ボタン操作で降下可能な6枚の防火区画シャッターのスイッチがある東側には近づけなかった[121]。また保安係員を工事に立ち会わせることの実現性は低く、訓練も受けていない工事作業者らが防火区画シャッターを閉鎖することは出来なかった[121]。結局のところ、工事に際して開けておくべき防火区画シャッターと防火扉以外は、あらかじめすべて閉鎖しておき、火災発生時には開けておいた2枚の防火区画シャッターを直ちに閉鎖する方法しか火災を食い止める手立てはなかった[405]
  • 夜間は保安係員5名と電気・気罐係2名がデパートビルに勤務(宿直)しているが、仮に2階から4階の間で火災が発生した場合、それらの階には熱式感知器が設置されていないことから、速やかに火災を発見し、保安係員などが現場に駆けつけ初期消火や防火区画シャッターを閉鎖できる体制になかったことは明らかである。また地下1階もしくは1階で火災が発生した場合を考えてみても、初期消火に必ずしも成功するとは限らず、保安係員らが19枚もある1階の防火区画シャッターをとっさに閉鎖できるかどうかは疑わしい。保安係員らが、平素から防火区画シャッターを閉鎖する訓練を受けていたとしても、初期消火の傍らで冷静に行動できるとも限らず、潜戸のない同デパートの防火区画シャッターのどこを開けてどこを閉めるのかを判断するのは難しい。この点を考えても防火区画シャッターは閉店後にそのすべてを閉鎖しておく必要がある[613]
  • 大阪市消防局は、田畑百貨店火災の発生を受けて、夜間の防火区画シャッター閉鎖を指導する方針に改めたことから、千日デパートに対しても同シャッターを閉店後に閉鎖するように指導していた。その査察の際に被告人Aと保安係長は、消防局係官に対して「防火区画シャッターを降ろすのは簡単だが、手動式なので巻き上げに時間が掛かり、少ない保安係員で57枚ある同シャッターを巻き上げるのは困難なために閉鎖していない」と答えている。それに対して消防係官は「上司に改善を要求すべきだ」と答えたところ、被告人Aは後日上司に「電動式に替えられないか」と尋ねているのであり、少なくとも同被告人は、夜間の防火区画シャッター閉鎖の必要性は認識していた[613]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
防火区画シャッターを夜間常時閉鎖する義務はない旨の弁護人らの主張に対する判断
  • 同ビルの売場に設置されている防火区画シャッターは、同シャッターを設置した1958年(昭和33年)当時の法令基準には適合していたものであり、その後の法令の改正でも遡及適用はされなかった[373]。その一方で同ビルの各階段出入口の防火シャッターは当初から電動巻き上げ式のものが備わっており、日本ドリーム観光の考えでは階段出入口は常時閉鎖する必要があり、売場の防火区画シャッターは火災発生時だけ閉鎖できれば足りると判断し、それらを設置したと考えられる。しばらくはその取扱いで特に問題が無かったところ、田畑百貨店火災による夜間の防火区画シャッター閉鎖が消防当局から指導され、夜間常時閉鎖の必要性が存在するようになった以上、日本ドリーム観光は、その体制を早急に整えるべきであった[614]
  • 1階から4階までの計61枚の防火区画シャッターのうち、3階の自動降下式4枚を除く57枚の同シャッターを毎日閉店後に閉鎖し、開店前に巻き上げるには、1枚につき3分から5分の時間を要する[注釈 67]。保安係員のうち、シャッターの巻き上げに割ける人員は最大3名に過ぎず、これらが1名平均19枚を巻き上げなければならないことを考えると、作業効率の観点から巻き上げ完了まで1時間35分程度の時間が必要になる。これを実現可能にするためには人員を増員するか電動式に替える体制を整えない限り難しい[614]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
防火区画シャッターを閉店後に閉鎖できる体制づくり
売場内の手動巻き上げ式防火区画シャッターを毎日閉鎖するための体制づくりとしては、以下の3点が考えられる[614]
  1. 保安係員を増員する
  2. デパート管理部の他の従業員にも担当させる
  3. テナント従業員の協力を得る
  • 「1」については、待遇面が良くないことから欠員の補充が困難であった。日本ドリーム観光は保安係員の待遇改善には消極的であり、保安体制強化のために増員することにも消極的であったため、被告人Aが上司に保安係員の増員を働きかけても実現は難しかった[375]
  • 「2」については、火災当日の同管理部の出勤表によれば、9時30分ごろまでに保安係員を含めて54名が出勤していたことが認められ、各々が1枚から2枚の防火区画シャッターを巻き上げれば、それほど時間もかからず可能であった。しかしながら、本来の業務以外の作業を保安係員以外の従業員におこなわせることは、労使間で労働条件を変更する交渉をおこなうことになり、日本ドリーム観光が労働条件の変更に応じるような状況にあったという証拠がない。また被告人Aと管理部次長が従業員側に労働条件の変更を申し入れたとしても火災当日までに実現できたかは断定が難しい。さらには保安係員について、24時間勤務明けの際に交代要員の協力が得れるかどうか検討したところ、結局のところ防火区画シャッター閉鎖に割ける人員は最大3名で、早出の対応も必要になるが、待遇面の悪さから労働加重を強いるような要請に対して従業員の協力が得られたかどうか疑問である[375]
  • 「3」については、そもそもテナント側は防火区画シャッターの存在をあまり重要視しておらず、シャッターライン上に商品や商品台などを置いており、火災当日も地下1階で7枚中2枚、1階で19枚中11枚、2階で19枚中8枚、3階で15枚中11枚、4階で8枚中3枚がシャッターを閉めた場合に下まで完全に降りない状態だった。各テナントは、防火区画シャッター閉鎖に対して非協力的であり、被告人Aの上司に直接交渉して天井裏を倉庫にしたり、1階外周店舗を物置にしたりしていて、デパートビルの防火管理は専らデパート管理部が行うべきものと考えていた[615]。ニチイについては、3階と4階を賃借した際に、売場に面した階段C、E、Fの各出入口の防火シャッターと防火扉の閉鎖ならびにエスカレーター防火カバーシャッターの閉鎖をデパート側との合意に基づき、同店の従業員が閉店時におこなう取り決めがなされていた。しかし売場内の防火区画シャッター閉鎖については、双方の間で何らの取り決めもされていなかった。同シャッター閉鎖の実現については、シャッターラインの確保は他のテナントと同様の問題があったうえ、同シャッターを毎日開閉するとなると、ニチイとしても従業員の労働条件に関係してくることから、同管理部がシャッター閉鎖の協力をニチイに求めたとしても、それを容易く実現できたかは疑問である[375]したがって仮に同被告人が各テナントに協力を要請しても防火区画シャッターの夜間閉鎖や巻き上げ作業の協力を得るのは著しく困難であり、同シャッター閉鎖を実現できたかは甚だ疑問である[615]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
本件火災当日だけでも防火区画シャッターを閉鎖しておくことの可能性および過失責任
  • 3階の工事に際して、火災延焼を防止するために防火区画シャッターを閉鎖する場合、1階から3階までの間にはエスカレーターの防火カバーシャッターが設置されていないので、1階から2階までのエスカレーター周辺の防火区画シャッターを合計32枚閉めなければならず、3階についても工事に必要な個所を除いて9枚の防火区画シャッターを閉めなければならない(ただし3階から4階のエスカレーターには防火カバーシャッターが備わっている)。結局のところ1階から4階までの57枚ある防火区画シャッター全部を閉めるのと大差が無くなることから、デパート閉店後の工事に際して平素から防火区画シャッターを開閉できる体制が整っていなければならない。工事がある日だけ防火区画シャッターを閉鎖するにしても、結局は毎日閉鎖する場合と同じ問題が生じるのであり、本件火災までにこれらの問題が解決できたという証明ができない[616]
  • 被告人Aは「自分がデパート店長や管理部次長に働きかけ、テナントの協力を得られるような方策を講じ、閉店後に防火区画シャッターを閉鎖すべきであった」とか、「平素から防火区画シャッターを閉鎖しておけば、自然とシャッターラインも確保されるようになったと思う」と供述しているが、どのような方策を講じればそれらが実現するのか、具体的なことを何も供述していないのであり、防火区画シャッター閉鎖の実現性は状況的に可能であったとは認められない[616]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
まとめ
したがって本件火災当日、あらかじめ防火区画シャッターを閉鎖していなかったために火災が拡大したことについて、被告人Aと管理部次長の過失責任を問うことは出来ない[617] — 大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
3階工事現場に保安係員を立ち会わせることについての日本ドリーム観光側の義務
  • 千日デパートの職務分掌によると、保安係の職務の一つに「店内諸工事等の立会いならびに監視取締り業務」が挙げられていた。しかしながら昭和40年以降から店内の工事に際して、一部のテナント工事を除き、保安係員が工事の立会いをおこなうことはなかった。日本ドリーム観光と各テナントとの売場賃貸借契約では、デパート閉店後にテナントが宿直することを禁じ、閉店後の残業についてはデパート管理部への届け出を必要とし、売場や施設の改造をおこなう場合は事前にデパート管理部の許可を得る必要があった[374]
さらには各証拠によると各テナントは・・・
  1. 付加使用料名目の共同管理費を賃料と一緒に毎月支払っていて、それは主に保安係員の給与に充てられていたこと[374]
  2. 各テナントの各売場は、デパート閉店後においては宿直員不在のために無防備な状況に置かれており、通常は各テナントが同デパート店内で工事をおこなう場合、テナントの従業員が工事業者を監督するために居残っていたこと
  3. テナントによる店内工事に関して、商品等の管理についてはテナント従業員が現場にいるのであれば他者が管理する必要は認められないこと
  4. テナントが工事を監督する場合、主に工事の進捗確認をおこなうのであるから、目の届く範囲は工事現場とその周辺に限られること

・・・など、以上の諸点を考えると、日本ドリーム観光と各テナントとの間では、閉店後にテナントが不在の間は、その売場の管理を日本ドリーム観光がおこなう管理契約が結ばれていたと認められる[374]

  • テナント従業員が工事のために居残っている場合は、保安係員を立ち会わせる義務はないが、工事に関係ない他の不在テナントとの関係では、防犯と防火、その他の事故防止のために日本ドリーム観光は、保安係員を工事現場に立ち会わせて、その周辺を警備する義務を負っていたと解釈できる[374]
  • 3階売場については、ニチイがフロアの大半を賃借していたものの、その一部に他のテナントが4店舗営業しており、それら4店舗は火災発生当時に従業員は不在であり、ニチイがおこなう工事にニチイの従業員は1人も立ち会っておらず、日本ドリーム観光は保安係員を工事に立ち会わせるべき義務があった[374]
  • 被告人Aは、防火区画シャッター閉鎖の問題、デパート内に燃えやすい商品が大量に置かれていた状況、保安係員などの人員の現状を鑑みれば、万が一の火災発生に備えて3階工事現場に保安係員を立ち会わせるよう管理部次長に要請すべきであった[374]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
保安係員を工事に立ち会わせなかったことについての被告人Aの過失責任
  • 火災当日の保安係員の夜間勤務体制は欠勤者が1名いたために4名であり、そのうちの1名は従業員通用口の受付を担当し、1名は保安室内で監視業務をおこなっており、残りの2名が店内の巡回を担当していた。店内巡回は必ず2名一組で実施されており、1名だけでは安全上問題があることから工事に立ち会うために人員を割くことはできず、巡回担当の2名のうちの1名を工事に立ち会わせることは不可能であった。また非番の保安係員を臨時に宿直させることは24時間勤務体制なので実現は難しかった[374]
  • 日本ドリーム観光の取締役の地位にある千日デパート店長が、テナントが売場でおこなう工事については、大工事の場合を除き、当該テナントが立ち会うべきで、日本ドリーム観光側から立会人を出す必要はないとの見解を取っており、また同社は保安係員の増員については消極的であった[618]
  • 保安係員の増員や、また他の部門の社員を工事の立会いに充当することも新たな経費が必要なことから実現は難しかった。 同社がテナントから徴収していた付加使用料名目の共同管理費は、保安係員の給与に充てられており、本件火災当時にはテナントに対して3度目の値上案を提示し、テナントが検討中という状態だった。このことから被告人Aと管理部次長が上司であるデパート店長に対し、工事に立ち会うための人員確保を進言したとしても容認されて実行されたかどうかは疑問である。また同被告人らにこれらの措置を取る権限があったと認める証拠がない[618]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
まとめ
以上のことから、本件火災当時、千日デパートビル3階の電気工事に保安係員を立ち会わせる必要があったとしても、被告人Aおよび管理部次長がこれを実行できたとの証明はないことから、これらが可能であったことを前提とする同被告人の過失責任を問うことは出来ない[618] — 大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)

被告人Bおよび同Cの避難誘導に関する各注意義務および過失責任の有無[編集]

大阪地方裁判所は、被告人Bおよび同Cの過失責任に関して、消防訓練の実施、両被告の防火意識、B階段の安全性、避難計画を立てた場合の煙流入の予見可能性、B階段へ避難誘導した場合の結果回避、救助袋のメンテナンスの必要性と可能性、救助袋を使用しての避難訓練の必要性、 救助袋を使用した避難誘導の可能性、救助袋による避難誘導が実行できた場合の結果回避の可能性と因果関係、それぞれについて検討をおこない、以下の判断を下した。

防火対象物としてのプレイタウン
プレイタウンは、前記のとおりの規模、利用形態のキャバレー(アルバイトサロン)であるから、消防法令により、その管理について権限を有する者が防火管理者を定めるべき防火対象物であることは明らかである[618]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
被告人Bの管理権原者としての業務
被告人Bは、1970年(昭和45年)5月にプレイタウン等を経営する千土地観光の代表取締役に就任している。千土地観光の運営は人事や経理面で親会社の日本ドリーム観光から大きな制約を受けているものの、千土地観光の日常業務は代表取締役で実権を握る「デパート管理部次長」を除く被告人Bら4名の取締役において処理し、プレイタウンほか2店については被告人Bが各店の支配人を通じてこれらの管理を担当していたのであるから、同被告人はプレイタウンの管理について消防法8条の定める「権原を有する者」に該当する。したがって同被告人は、同条の定めるところに従い、防火管理者を定め、これに消防計画の作成、右計画に基づく消火、避難等の訓練の実施、消防に使用する設備、消火活動上必要な施設等の点検及び整備、避難または防火上必要な構造および設備の維持等、防火管理上必要な業務をおこなわせるべき義務を負い、これらの点について、防火管理者およびその他の従業員を指揮、監督する業務に従事していたものである[618]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
被告人Cの防火管理者としての業務
被告人Cは、1970年(昭和45年)9月1日にプレイタウンの支配人になり、1971年5月29日付で同店の防火管理者に選任されたものであるから、防火管理者に就任後は、消防法8条の定めるところに従い、同店について消防計画を作成し、これに基づく消火、避難等の訓練の実施、消防に使用する設備の点検および整備、避難または防火上必要な構造および設備の維持等、防火管理上必要な業務をおこなう義務を負い、右業務に従事していた。なお、同被告人が支配人に就任後、防火管理者に選任されるまでの間、同店には防火管理者が選任されていなかったが、被告人Cは、被告人Bを補佐して来店した客らの安全確保に万全を期すべき支配人の職責を有していたことに照らして、右期間中も管理権原者である被告人Bの指揮、監督の下に、右同様の防火管理上必要な業務を果たすべき立場にあった[618]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
プレイタウンにおける消防訓練の実施状況及び右両被告の防火意識
  • 被告人Cが支配人に就任後におこなわれた消防訓練は1回だけで、ステージ付近から出火したことを想定して初期消火、通報、避難をおこなうものであった。その時間の大半が南消防署から指導に来た係官から消火器による初期消火の必要性や避難についての説明に費やされた。そのなかでは「B階段が最も安全であるから同階段から避難するように」という指導は為されず、4か所の階段のうち、火や煙が流れてくる方向とは反対方向にある階段へ逃げる指導がおこなわれた。本件火災のような煙だけが店内に流入した場合を想定して煙の中を突っ切って逃げることや、ビル全体としての総合的な訓練の必要性までは指導されなかった。また救助袋についても被告人Cが消防当局から使用方法や説明を口頭で受けたことはなかった[437]
  • 被告人Cは、プレイタウン店内の火元や火災の予防については気を配っていたものの、実際に火災が発生した場合の対策については、6階以下の階で火災が発生した場合はおろか、店内から出火した場合について何も考えていなかった。被告人Bについても同様で、デパートビルの6階以下の階で万が一に火災が発生した場合を念頭に置いて、被告人Cらプレイタウン従業員を指導監督したことはなかった[437]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
B階段の安全性について
  • 階段A、E、Fについては、火災により煙が充満していたことは明らかであり、B階段は、その構造上において同デパートの売場から二重の鉄扉で遮断されている。また火災初期に消防隊員が内部探索のためにB階段を駆け上がったところ、4階付近までは問題なく行けたが、5階より上は黒煙に汚染され侵入が不可能であった。これは7階プレイタウンからの脱出者がB階段出入口ドアを開けっぱなしにした結果であるから、もしドアが閉鎖されていれば煙の流入は無かったことからB階段は通行可能だったと考えられる[437]
  • 被告人Cが、平素からB階段の状況を把握し、6階以下の階で火災が発生した場合に安全な避難路はB階段しかないことを認識して、従業員に対しそのことを教育し、たとえクロークに煙が充満していても、そこを突っ切ってB階段から避難するように指導、訓練するとともに、救助袋の正しい使い方を従業員に徹底させ、少なくとも投下訓練をしておけば、火災の初期においては同店の滞在者を地上まで無事に避難させられた、と一応考えられる[437]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
被告人Cが防火管理者として業務を忠実に遂行した場合、同被告人が立案したであろうと考えられる避難計画および流入する煙についての予見可能性
  • 被告人Cが防火管理者としての業務を忠実におこなうためには、ビル火災の特徴および避難のあり方、各階段の構造を知ったうえで避難経路を決めなければならないが、同被告人がそれを知りうるためには、防火管理者の講習を受けた際にテキストとして使用した「防火管理の知識」と題する冊子を読むと同時に消防訓練等の機会を得て、消防関係者の指導を受けるしか方法がないと思われる。ところが同被告人は、冊子の内容が難しく、面白くもない本だと思って読んでいなかった[619]。しかしながら同被告人は防火管理者として多数の客や従業員を避難させる業務上の責務を負っているのであるから、必要な知識を習得するように努めるべきなのは当然のことである。理解できる部分だけの拾い読みでも、ビル火災に関する最低限の知識は得られたはずである[620]
  • その知識を使えば、プレイタウンに通じている4つの階段のいずれかを使って地上に避難させるべきだと気付き、どの階段が最も安全であるかということに考えが及ぶ。階段A、B、E、Fの各々の構造や状況、6階以下の階で火災が発生したときの煙の侵入経路を検討すれば、B階段が安全確実に地上に避難することができる唯一の階段である、との結論に至ることは十分可能だったと認められる[620]
  • B階段が唯一の安全な避難階段であれば、次にクロークからB階段までの誘導を考えなくてはならない。しかしクロークの中に入るためには幅65センチメートルのカウンター端の出入口を通らねばならず、幅からして1人ずつしか通れないのであるから、避難誘導する際にはホール出入口とクローク付近に従業員を数名配置しなければならない。クロークに殺到する客らの混乱を抑えつつ、円滑にクロークを通りぬけさせなければ、全員を無事にB階段から地上へ避難させるのは困難になる[621]
  • 次に被告人Cは、ホールからクロークにかけての間が煙で充満する場合も検討しなければならない。6階以下の階で火災が発生した場合にクローク付近に煙が流入してきそうな場所は、A階段か2基のプレイタウン専用エレベーターが考えられるが、7階のA階段出入口は鉄扉で常時閉鎖されており、多量の煙が侵入する可能性は少ない。2基の専用エレベーターについても地下1階と7階以外に出入口が存在しないこと、地下1階エレベーターホールと地下1階売場の間は防火扉で遮断されていることを考えれば、この2つが煙の侵入経路になるとは考え難い。しかしながら実際はA南エレベーターの2階と3階部分の天井付近に隙間があり、その部分からエレベーターシャフトに多量の煙が流入した。その隙間については、火災によって天井が崩落するまでは誰にも気づかれなかった欠陥であり、被告人Cがこれに気付いていたとは考え難いから、同被告人が防火管理者として業務を忠実に遂行して避難計画を立てる場合は、ホールとクロークの間にエレベーターシャフトから煙が流入して充満することがない前提に立つものと考えられる[621]
  • 検察官は「建築工事においては手抜き工事がおこなわれることは、社会通念上においては予測できることであるから、エレベーターシャフトから煙が流入する可能性は充分にあった」と主張する。しかしながら、エレベーターシャフトの手抜き工事を予想できるのであれば、B階段についても壁や防火扉の設置部分に欠陥があると予想する余地があり、B階段は煙が侵入しない階段であると考えることも出来なくなる。逆にB階段に手抜き工事がないものと考えるのであれば、エレベーターシャフトに手抜き工事がないものとして考えても不合理はない。B階段は構造が完全で、エレベーターシャフトには隙間がある、と考える特別な事情があることを窺わせる証拠もない本件においては、プレイタウンの防火管理者がその業務を忠実に遂行していれば、避難については前記のようなことを考えて従業員を指導したであろうと考えざるを得ない[621]
  • 6階以下の階で火災が発生した場合、その発生場所によってはプレイタウン専用エレベーターのシャフト内(又はB階段)に煙が流入する可能性が予測できる。それは地下1階のプレイタウンエレベーターロビーまたは1階プレイタウン出入口で火災が発生した場合である。しかしながら、地下1階ロビーにある可燃物は少量であり、防火扉で売場と遮断されていること、また1階プレイタウン出入口についても同様で、多量の煙が7階に流入するとは考えられない[621]消防当局は、火元から遠い方へ避難するという「2方向避難」について指導していたのであり、この場合はB階段よりもF階段から地上へ避難するのが最適である[622]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
まとめ
これらのことを考えると、被告人Cが煙が噴き出す方向に避難するという発想が浮かんだとは考え難く、煙が如何なる方向から来ても、B階段から避難する計画を立てることは出来なかったと言わざるを得ない[623] — 大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
B階段へ避難誘導する方法での結果回避の可能性
  • 被告人Cが前記のような避難計画を立てていた場合、ホール出入口からクロークまでの間に煙が充満していなければ、避難誘導する従業員を適切な場所に配置し、客や従業員らをB階段に誘導して避難させられたと考えられる。しかしながら実際は同被告人がクローク前へ行ったころにはエレベーターシャフトから多量の煙が流入してきていたのであり、従業員を配置して避難誘導させるには困難な状況となっていた。それでも避難誘導をおこない、B階段へ誘導するためには、同被告人が指示を出し、従業員らが先導して客らをその方向へ案内するしかない。だが、それも出来ないほど多量の煙がエレベーターシャフトから流入し、同被告人の予想をはるかに超えるほど頭の中が混乱したであろうと考えられる。したがって同被告人が事態を正確に理解し、B階段が安全な避難路であると判断して対処できたとは考え難い[623]
  • 被告人Cの判断が適切で、従業員らに対して指示を出せたとしても、クローク付近に充満した煙の状況では、避難経路に不案内な客らが猛煙のなかを通り抜ければ安全であると信じて、混乱なく行動できるかどうかは疑問である。仮に何名かが煙の中を突っ切ってB階段へ避難したときに、大勢の避難者があとに続いて殺到し、クロークの中を通り抜けられずに大混乱が起こることは必至であり、同被告人がその混乱を抑えることは困難である[623]
  • 最初にA南エレベーターから噴き出す煙に気付いた従業員らは、事務所前の換気ダクトから噴き出す煙には気付いていないのであり、被告人Cや消防当局からの指導で避難訓練を受けていて、訓練内容を理解したうえで、直ちに避難誘導を実行していたとすれば、煙とは逆の方向、すなわちF階段から避難しようと考えたはずである[623]よって、客や従業員らが出入口からクロークの間へ出て来るものがあれば、ホールへ戻るように押し止めたと考えられる[624]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
B階段へ避難誘導しなかったことによる両被告人の過失責任
被告人Cが6階以下の階で火災が発生した場合を想定して、避難経路等について十分に調査検討したうえで避難訓練を実施していたとしても、同被告が立てたであろうと考えられる避難計画を前提とすれば、エレベーターシャフトから多量の煙が噴き出して、クローク内などの付近一帯に煙が充満しているという予想外の状況に直面して、煙の中を突っ切ってでもホール内にいる者らをB階段へ誘導するほかないとの判断を寸刻の間に成し得て、同階段への誘導を指示することが同被告人と同様の立場にある何人かをその立場に立たせても、果たして避難誘導が可能であったか大いに疑問であり、また、仮に右誘導を指示していたとしても、本件死傷者の全員が無事にB階段から脱出して、本件死傷の結果を回避し得たかは甚だ疑問であると言わざるを得ない[390] 
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
まとめ
以上の次第で、被告人Cが6階以下の階で火災が発生した場合を想定して避難計画を立て、これに従って避難訓練を実施しなかったことは、防火管理者としての義務を果たさなかった重大な落度であると言うべきであるが、B階段から客や従業員らを避難させなかったことについて、同被告人の過失責任を問うことは出来ないものと言わざるを得ず、そうであるならば、被告人Bの指導監督が十分でなかったことの責任を問うことも出来ない[390] — 大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)

被告人Bおよび同Cの救助袋による避難に関する注意義務および過失責任の有無[編集]

救助袋の取替え若しくは補修の必要性とその可能性
  • 前記の各状況(B階段への避難誘導の可能性)により、同店から避難するには、消防隊のはしご車による救助に頼るほかは、救助袋を使用するしか方法が無かった。被告人Bおよび同Cは、救助袋を使用した避難訓練を一度も実施したことがなく、救助袋の破損があったことによって消防当局からの再三にわたる取替えか補修を指示されていたにもかかわらず、それを放置していたことは明らかである[390]
  • プレイタウンは7階の高層階にあり、店内の照明を暗くしたホールに多数のボックス席が所狭しと置かれ、営業中は、200名程度の客と従業員が滞在するなかで店内の状況を把握していない一見客や酔客などが多かったことが認められ、その状況で火災が発生すれば、避難に手間取り、逃げ遅れる者が多数出ることは充分に予測できる。ゆえに同店の支配人であり防火管理者である被告人Cは、救助袋の重要性を認識し、上司である管理権原者の被告人Bに対して救助袋の取替えか補修をするよう働きかけ、その実現に努めると同時に、救助袋を使った避難訓練を実施すべき業務上の注意義務を負っていた[390]
  • 被告人Bも、同店の管理権原者として被告人Cからの報告を受け、消防署の指示を把握したならば、速やかに救助袋の取替えか補修をおこない、火災発生時の客や従業員らの安全確保に万全を期すべき業務務上の注意義務を負っていた。救助袋の破損状況からすれば、維持管理が万全に行われていたとは言い難いから、被告人Bおよび同Cは消防当局の指示に従い、早急に救助袋の取替えか補修を講じるための責務を果たすべきだったのは明らかである[390] 
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
救助袋を使用しての避難訓練の必要性
  • 消防署の指導下でおこなう救助袋を使った降下訓練は、実施されても1年に1回くらいで、被告人Cが降下訓練をおこなうとしても頻度は同程度と考えられる。消防当局は、火災が発生した場合の避難の基本は、避難階段を利用することを優先すべきであると考えていた。そのことから消防署が指導したとしても、救助袋は逃げ遅れた少数の者の避難を想定した補助的な避難方法との考えに立っていたことが窺える。実際に指導があっても、その線での指導内容に止まったであろうと考えられる[625]
  • 被告人Cがおこなった自衛消防訓練でも、消防署は1つの避難階段が使えなくなったときは、反対側の避難階段から逃げるようにという指導をしたのであって、すべての避難階段が使用できなくなる場合の指導はおこなわれなかった。そのことから本件のようにB階段に通じる通路およびその他の避難階段が煙により避難路としては使えず、プレイタウン滞在者が1つの救助袋もしくは消防隊のはしご車に頼って避難せざるを得ない状況を想定した避難訓練をおこなえたとは到底言えない[625]
  • 1回限りの救助袋を使った降下訓練であっても、救助袋の使用方法や入口の開け方くらいは訓練に参加した者なら習得できたと認められる[625]救助袋の収納ボックスには「使用方法」が表示されているので、普段それを読んでおきさえすれば、訓練をおこなわなくても使用できそうだが、やはり緊急事態に直面すれば慌ててしまい、難なくできることも出来なくなることはあり得るので、実際に降下訓練を実施し、救助袋の取り扱いを身に付けておくべきだった[626]
  • 被告人Cは、自衛消防隊構成員について降下訓練に参加させる責務を負っていた。また訓練に不参加であった者に対して、救助袋を降下可能な状態にするまでの一連の操作過程、救助袋の出口を最低6名で把持しなければ安全に降下が出来ないことを日頃から指導しておくべきであった[627] 
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
救助袋を利用しての避難誘導及び結果回避の可能性ないし因果関係

救助袋使用についての被告人Cの状況判断の可能性

被告人Cが救助袋による降下訓練を実施していたとしても、ホール出入口からクローク付近の煙の状況で避難が困難である以上は、救助袋による避難しかあり得ないと判断できたかどうかは疑わしい。実際に救助袋を地上に投下した従業員が、当初から救助袋による避難しか方法が無いと判断して救助袋の設置場所に行ったかは疑わしく、たまたま頭に浮かんだか、煙から逃れようと窓を開けようとした際、偶然に救助袋を見付けたと考えるのが相当である[627]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
救助袋を使用して避難訓練ができていた場合と、地上における出口把持の時期
救助袋を使用しての避難訓練ができていれば、救助袋を投下し、地上で出口を把持することがもう少し早くできていたことも考えられるが、火災時の諸事情を勘案すると、本件よりも投下が早まったとは考えられず、救助袋の先端に誘導用の砂袋が付いていたとしても救助袋を使用して降下可能な状態になったのは、せいぜい1分程度早まったと認められる(22時48分)[627]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
救助袋が設置された窓への避難誘導の可能性
被告人Cが救助袋による避難誘導を決意し、店内の放送設備を使って客らを救助袋が設置してある窓際に誘導するよう指示させたとしても、ホール内には2方向(A南エレベーターと事務所前空調ダクト)から煙が流入していたのであり、酔客が多いなかでは理性的な行動を取る心理状態にあったとは認め難いので[627]統制の取れた避難誘導は極めて困難であったと認められる[628]したがってバンドマン室などの小部屋に避難していた者らを除く150名程度が救助袋が設置された窓際に駆け付けたとしても、収拾のつかない大混乱状態に陥ったであろうことは充分に予測できる。F階段の電動シャッターが開いたことから、右の混乱に拍車が掛かったことは明らかである[629] 
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
更衣室に居たホステスらについての結果回避の可能性
ホステス更衣室にいた11名については、事務所前の換気ダクトから噴き出す猛煙によって更衣室から事務所前に至る通路は、もはや避難路としては使えない状態であり(22時40分の時点で)、E階段にも煙が充満していたことから、救助袋のある窓へ避難誘導することは不可能な状態であったことが認められる。よって11名の結果を回避する可能性はなかった[629] 
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
救助袋を使用しての避難訓練ができていた場合と結果回避の可能性ないし因果関係
仮に救助袋の入口が開いていて降下可能な状態になっていたとしても、降下推定所要時間とホール内における致死限界推定時間等を総合して考察すると、ホール内にいた150名程度とステージ裏の小部屋に居た者ら全員が救助袋を使用して無事に地上へ脱出し得たとは到底考えられない。その一部が脱出に成功したとしても、誰が脱出し得たのかを特定する術が無いから、同被告人が本件被害者らを窓際まで誘導しなかったことと、本件被害者らの死傷の結果との間には、因果関係が存在する証明がないというべきである[629]仮に救助袋の入口が開いていて、使用可能な状態になっていた場合に、救助袋で避難し得た可能性がある67名(認定の検討内容は省略)が全員無事に地上へ脱出できたのか。以下の諸点を考えると、全員が無事に避難脱出できたかどうかは疑わしく、誰が救助袋を使用できたかを特定するのは困難である[630]
  • 救助袋を使用した避難脱出が可能かどうかを判断するうえで考慮すべき諸点[631][176]
    • F階段の電動シャッターが開いてホール内に多量の煙が急速に充満し、ホール内にいた者らの呼吸をより一層困難にした。
    • プレイタウン店内で停電が発生し(22時49分)、避難者らの不安感と恐怖感が強まった。
    • ホールに面した6か所の外窓の寸法からすれば(縦102センチメートル、横165センチメートル)、身を乗り出して外気を吸えた者は、せいぜい67名のうちの半数程度だと推定できる。
    • はしご車による救助が始まっているにも拘らず、それを待ち切れずに窓から飛び降りたり、救助袋の外側を掴まって降下したりする者が続出しており、避難者らは煙と熱気による極限状態に追い込まれていたと推認できる。
    • 救助袋の開口部の設置が不安定な状態で、脱出を補助する者がいなければ、救助袋の中に入るのが困難であった。
    • 救助袋を使用した降下実験の結果によれば、20名程度が降下するのに1分程度かかるという。しかし、実験結果と実際の火災事件とでは諸条件が全く異なり、実験結果は参考にならない。煙と熱気が流入し、混乱した状況では実験結果の3倍から4倍は時間が掛かったであろうと考えられる。
    • 下層階からの煙によってプレイタウン店内が致死限界に達するまでの時間が10分程度であった。
    • 入口が開いていなかった救助袋の上を跨って降下して避難を可能にしたのは、救助袋が使用できない危険な状態だったことで降下を躊躇した者らが、他の窓に移動して救助袋の付近が混雑していなかったとも考えられる。
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
まとめ
以上のことにより、被告人Bおよび同Cが注意義務を果たし、救助袋の取替えまたは補修をおこない、同被告人らが避難訓練をおこなっていたとしても、本件被害者らの死傷の結果を避けられたとの証明はない[176] — 大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
結論
よって、被告人3名については、いずれも犯罪の証明がないものと言わざるを得ないから、刑事訴訟法336条により無罪を言い渡すこととし、主文のとおり判決する[176] — 大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)


「被告人全員無罪」の判決を受けて検察は、第一審判決には事実誤認があるとして、1984年5月25日に大阪高等裁判所に控訴した(検事控訴)[602]

控訴審[編集]

大阪高等検察庁の控訴趣意によれば、原判決(第一審判決)が以下の判断について[2]、いずれも証拠の評価、取捨選択を誤った結果、事実を誤認したものであり、これが原判決に影響を及ぼしたことが明らかである、という[2]

  • 被告人A(千日デパート管理部管理課長)について、その注意義務の存在を肯認しながら、各注意義務を履行することは困難であり、結果回避を認め難いとした点。
  • 被告人B(千土地観光取締役)と同C(プレイタウン支配人)の業務上の関係性。
  • 従業員らがプレイタウン事務所前の換気ダクト開口部から噴き出す煙に気付いた時刻の認定。
  • 被告人Cがホール出入口付近に状況を確認に来た時刻の認定
  • 被告人Bおよび同Cの各注意義務違反の存在を肯定しながら結果回避の可能性を認め難く、因果関係の存在の証明もないとした点。


求刑

検察は原審同様に、被告人Aに対して禁固2年6月、被告人Bに対して禁固1年6月、被告人Cに対して禁固1年6月をそれぞれ求刑した[606]


弁護人らは、被告人Aの注意義務の存在について争うとし、それに対して大阪高裁は、原判決の認定の当否について検討、判断するとした。また、それらの判断は被告人Bおよび同Cの過失責任の有無に関係があるので、両被告の各注意義務についても検討、判断するとした[116]

控訴審判決[編集]

控訴審判決は、1987年(昭和62年)9月28日に大阪高等裁判所で言い渡された[602][632]。主文は「原判決を破棄する。被告人Aを禁錮2年6月に、被告人B、同Cをそれぞれ禁錮1年6月に各処す。この裁判の確定した日から被告人Aに対し3年間、被告人B、同Cに対し2年間、それぞれ刑の執行を猶予する[633](以下略)」とされ、一転して原判決破棄で被告人全員が有罪となった(破棄自判)[2]。大阪高裁は、原判決において被告人A、B、Cそれぞれの職務上の役割、防火管理者としての業務上の注意義務が存在することを詳細に理由を付けて説明しているところは適切で肯認できるとした[116]。また、公訴事実および事実認定において、控訴審では原審と異なる認定をしている点がある。大阪高裁の事実取調べの結果を総合すれば、プレイタウン事務所前の換気ダクト開口部から煙が流入したことに従業員らが気付いた時刻(原審では22時40分認定)と、被告人Cがホール出入口付近に様子を見に来た時刻(原審では22時42分)およびその状況以外は、原審とほぼ同一の事実であると認められた[2]

控訴審が原審の事実認定と異なる判断をした点[634]
  • プレイタウン事務所前の換気ダクト開口部から煙が噴き出していることに被告人Cおよび従業員らが気付いた時刻は、原審認定では22時40分であるが、控訴審では22時39分と認定した。
  • 被告人Cが階下で火災が発生したと覚知した時刻は、原審認定では22時40分であるが、控訴審では22時39分と認定した。
  • 被告人Cがホール出入口付近へ状況を確認に来た時刻は、原審認定では22時42分であるが、控訴審では22時40分と認定した。
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)

大阪高裁の上記の認定は、被告人Cがプレイタウンに滞在する客や従業員に対して「唯一安全な避難路であるB階段」への避難誘導を為し得た可能性、救助袋を使用しての避難誘導および避難脱出の履行、結果回避の有無、それらについて判断するうえで重要な証拠になること、また同被告人の過失責任の判断にも関係してくることから、関係者の供述および証言、証拠に基づき再検討された結果、新たに認定されたものである。それに対して弁護人らは、所論において原審判断の正当性、関係者供述の信用性および矛盾点を主張して反論したが、その大半が所論は採用できないとして認められなかった[634]。なお上記認定について、大阪高裁が原審と異なる認定をした理由、根拠、検討は省略する。

大阪高裁の判断は、不特定多数の利用者が出入りする雑居ビルにおいて、建物の防火管理に従事する者に高い注意義務を課したものであり、たとえ共同防火管理体制に不備があったとしても、防火管理者として従事する者は、危険を予見し、可能な限り結果回避措置を取るべき注意義務があり、それを怠れば、失火の当事者でなくても厳しく刑事責任を問われることを控訴審逆転有罪判決は鮮明にした。テナントが防火管理に非協力であるとか、組織の中で権限が少ない防火管理者が上司に進言しても防火体制が改善されないとか、それを理由にして責任を逃れることは許されず、尽くすべき注意義務を果たせ、という司法判断である[635]。また控訴審の判決は、複合用途防火対象物の共同防火管理体制の確立を推進するうえで、極めて判決の意義が大きく、社会的に要請される防火管理の責任とその内容が明確になったという意味でも一定の方向性が示された[636]

控訴審において大阪高裁が被告人3名に対して、原判決破棄で逆転有罪判決を言い渡した理由、弁護人および検察官の所論の判断、原判決の説示および判断に対する検討、それぞれについて大阪高裁の判決文を引用する形で、その要約を以下に記す。

被告人Aの業務および各注意義務[編集]

被告人Aの防火管理者としての業務および義務
原審認定のとおりである[611][116]#原審・被告人Aが防火管理者として為すべき業務
それに加え、被告人Aは防火管理者としての業務を実行するため、日本ドリーム観光管理部保安係員に対する指導監督権も有していたことが認められる[116]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
予見可能性および結果回避義務について
火災で発生した煙がプレイタウン店内に流入する予見の可能性について、被告人Aは、大阪市消防局や南消防署が主催したビル火災についての研究会や説明会に3回出席しているのであり、ビル火災における煙の上昇経路やその危険性の説明を受けているのであるから、千日デパートビルにおいて6階以下の階で火災が発生した場合は、煙がいずれかの経路を通って7階プレイタウンに流入する恐れがあることをビルの防火管理責任者として理解し得たはずで、したがってプレイタウンに在店する客や従業員の生命身体に危険が及ぶことがあり得ることを十分に予見できたものと言わなければならない[637]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
被告人Aの右注意義務についての弁護人らの所論に対する判断

(ア)防火区画シャッターを閉鎖する義務に関して

  • 弁護人らは「防火区画シャッターを夜間常時閉鎖する義務はない」と主張したが[607]、原審において「千日デパートでは、閉店後に売場の防火区画シャッターを閉鎖すべき状況が現にあり、また消防当局からの指導によって被告人Aが同シャッター閉鎖の必要性を知っていた以上、日本ドリーム観光としては、その体制を早急に整えておくべきであった[373]」と説示したところは肯認できるので、弁護人の所論は採用できない[66]
  • 弁護人は「防火区画シャッターを閉鎖する法令は無く、被告人Aが同シャッター閉鎖を認めなかったのは当然で、火災当日も同シャッターを閉鎖する義務はなかった」と主張した[607]。それに対する大阪高裁の判断は以下のとおりである。
    • 工事作業中に工事監督とF電工社長の間で交わされた会話のなかで、金属カッターから発生する火花が商品に飛ぶ恐れがあるため、両名の間で以下のようなやり取りがなされた。「工事監督が『布か何かを被せて養生しろ』と言ったことに対し、F電工社長は『布を被せても同じだ』と答え、それに対して工事監督は『無いよりかはましだ』」と返答した。また工事監督は、火の付いたタバコを機械に擦り付けたり、床に捨てて足で踏み消したりしており、火災が発生する恐れが無かった工事とはいえないし、火気の管理が厳しくなされていたとはいえず、弁護人らの所論は失当で採用できない[66]

(イ)保安係員を工事に立ち会わせる義務について

  • 弁護人らは「ニチイがおこなった火災当日の工事は、危険性はなく、火気を使用するものでもないので、監督業務はニチイに任されば十分であり、日本ドリーム観光から保安係員を派遣して立ち会わせる事情はない。また工事関係者の喫煙についても、ニチイに対して文書で注意するように要望済みで、被告人Aが工事立会いを不要と判断したのは当然で、火災当日の工事に保安係員を立ち会わせる義務はなかった」と主張した[66]。それに対する大阪高裁の判断は以下のとおりである。
    • 日本ドリーム観光と各テナントの間には、閉店後にテナントが不在の時は売場の管理は日本ドリーム観光がおこなう管理契約が売場賃貸借契約に付随して締結されていた。火災当日は、ニチイの従業員は1人も工事に立ち会っておらず、被告人Aもそのことを確認すらしていない。ニチイは、共同管理費を収めていることから保安管理上の立会いは、デパート管理部が行うものと考えており、そのようなものを置いたことはなかったので、工事元請の工事監督らに一切を任せていた。さらには工事現場には吸い殻入れさえ用意されていなかった。火災当日において、3階の工事現場で工事監督が火の付いたタバコを機械に擦り付けて消しているのであり、工事監督は自己の喫煙管理が出来ていなかったことが認められる。以上のことから、弁護人らが「被告人Aが保安係員の工事立会いを不要だと判断したのは当然だ」などとは到底言える状況にはなく、これらを前提とする弁護人らの所論は認められない[150]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)

被告人Bと同Cの業務および各注意義務[編集]

被告人Bおよび同Cの業務
いずれも原審認定のとおりである[618][150]#原審・被告人Bの管理権原者としての業務 #原審・被告人Cの防火管理者としての業務
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
7階に煙が流入し、客や従業員に危険が及ぶ予見の可能性
被告人Cは、防火管理者の資格を得る講習を受けた際に用いた「防火管理の知識」という冊子を手許に置いていて保管していた。その冊子の中には「ビル火災における特徴、煙の危険性や流動性、煙が上階に走煙する際の経路、防火シャッターなどの遮蔽性」などについて書かれているのであり、同被告人は当然その知識を知り得たはずで、被告人Bについても同様のことが言える。とすれば、両被告は、千日デパートの6階以下の階で火災が発生した場合、火災によって生じた多量の煙と一酸化炭素が階段や換気ダクト等のいずれかの経路を通ってプレイタウン店内に流入することがあり得ることに考えが及ぶ。したがって客や従業員の生命に危険が及ぶ恐れがあることを十分に予見できたと言わなければならない[150]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
結果回避義務(注意義務)
(1)6階以下の階で火災が発生した場合を想定した避難計画を立て、これに従って避難訓練を実施すべき義務
被告人Cが防火管理者の講習や「防火管理の知識」の内容を把握したうえで、千日デパートビルの構造や各階段の状況、出入口や防火シャッターの閉鎖状況を平素より事前に確認しておけば、B階段こそが安全確実に地上に避難することができる唯一の階段である、との結論に達することは充分に可能だった。以上の認識が被告人Cにあるとすれば、防火管理者として次に客や従業員をB階段へ誘導する方法を考えなければならないが、150名程度のプレイタウン滞在者が火災発生を知れば、真っ先にエレベーターホールへ避難してくることが予想されるから、まずはエレベーターのほうに向かうことを制止し、クロークの方へ向わせなければならない。その際に幅が65センチメートルしかない狭いクロークカウンターに客らを誘導するのだが、ホール出入口とクローク付近に従業員を数名配置し、殺到する避難者を円滑に通り抜けられるようクローク内へ誘導しなければならない。したがって6階以下の階で火災が発生した場合は、従業員に対して速やかにB階段から客らを避難するように指導、訓練する義務があったというべきである[638]
(2)救助袋の点検、補修及び使用方法等を周知すべき義務
(ア)救助袋の取替え、補修の必要性とその可能性
被告人Cは、プレイタウンの防火管理に当たる者として、有事における救助袋による避難の重要性を認識し、平素から救助袋を点検し、破損があれば補修するか新品に交換するなどして、有事の際に救助袋を使用できるよう維持管理に努めるべき注意義務があると言わなければならない。1970年(昭和45年)12月の消防当局の立入検査で救助袋の破損や不備を把握し、その後に2回おこなわれた立入検査でも救助袋の速やかな取替えか補修を文書で指示されているのであるから、同被告人は管理権原者である被告人Bに対して、消防当局からの指示を単に報告するだけに留まらず、防火管理上の必要性を訴えて速やかに取替えか補修するように積極的に働きかけ、その実現と維持管理に努め、避難訓練を実施すべき業務上の注意義務があった。被告人Bにおいても、被告人Cからの報告と消防当局からの指示事項を知った以上は、救助袋の取替えまたは補修をおこない、万が一の場合に客や従業員らの安全確保に万全を期すべき業務上の注意義務があった[391]
(イ)救助袋を使用しての避難訓練の必要性
プレイタウンに設置されていた救助袋のキャビネット(金属製の覆い)には、使用方法が貼付されていたが、これを平素から読んで使用方法を理解していたとしても、実際の緊急事態においては、ただ単に知識として頭に入れていただけでは慌ててしまい、日頃は簡単にできることも出来なくなる恐れは十分にあるのだから、実際に救助袋を使用した避難訓練をおこない、取扱いの一連の過程を身に付けておくべきだった。訓練をおこなうとしても、消防署係官が立ち会う年1回程度の訓練は総合訓練にならざるを得ないところ、被告人Cにおいてはプレイタウン従業員全員に訓練を受けさせるべきだが、それが事実上困難でも、同店の自衛消防組織の構成員は訓練に全員参加させる義務を負っていた。被告人Cにおいては、救助袋が降下可能になる一連の過程や操作、地上で救助袋を把持する人数が最低でも6名必要で、それが確認できなければ降下できないなど、最低限の知識は日頃から従業員に指導訓練しておくべきであった[443]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
まとめ
以上のことから、原審が被告人A、B、Cにつき、各注意義務を認定したのは正当である[639] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)

各注意義務の履行可能性ないし結果の回避可能性について[編集]

被告人Aについて[編集]
(1)同被告人の各注意義務の履行可能性
(ア)千日デパート閉店後に防火区画シャッターを閉鎖すべき注意義務の履行可能性
千日デパート閉店後に防火区画シャッターを閉鎖することについては、被告人Aが消防当局から指示指導を受けているのであり、同被告人が上司に上申するなどしてデパート管理部において、その実行方針を立てさえすれば、実現が可能であったと認められる[639]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(イ)宿直保安係員による防火区画シャッターの開閉作業
1階から4階までの売場内に設置されている防火区画シャッターは、手動巻き上げ式で合計57枚あるが、閉鎖についてはボタンを押すことでシャッターの自重により降下するので、容易に閉鎖できる構造である。したがってテナントの協力でシャッターラインの確保さえできていれば、閉店時の巡回に保安係員が閉鎖するのは容易である。また被告人Aらデパート管理部が防災上の重要性をテナント側に説明し、防火区画シャッター閉鎖についてテナントの協力を求めていれば、難なく実行できたと考えられる。しかしながら巻き上げ(開放)については、開閉装置にハンドルを差し込み、手で回して巻き上げねばならないので、ある程度の時間と労力を必要とする。1枚あたりの巻き上げ時間は移動も含めて3分程度であり、当直の保安係員5名のうちの3名が1階から4階までの防火区画シャッターを1人あたり19枚巻き上げるとすれば、所要時間は1時間程度である。5時30分から7時30分までおこなわれる4回目の館内巡回が終了したあと、3名の保安係員で手分けして同シャッターを巻き上げれば、交代時間(午前9時30分)までに作業を完了し得るものと考えられる[639]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(ウ)防火区画シャッターの開閉作業についてのその他の方策
被告人Aが上司(千日デパート店長)に防火区画シャッター閉鎖の必要性を進言していたなら、上司はこれに対応した体制づくりを実行したと考えられる。ニチイや各テナントに対し、消防当局から福田屋百貨店火災や田畑百貨店火災の教訓に鑑みて閉店時の防火区画シャッター閉鎖について指導され、早急にシャッター閉鎖の実行を迫られている事情を説明して協力を求めたならば、テナントとしても商品などの安全性にかかわる事柄であるから、防火区画シャッター閉鎖の協力は得られたと推認できる[640]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(エ)上司に進言しての体制づくり
  • 被告人Aの上司は「もし同被告人から消防署からの指導や申し入れが正式にあったと聞いていれば、会社としては消防当局と相談しながら、前向きに閉店後の防火区画シャッター開閉を検討することになったと思う」と供述しており、同被告人が防火管理者として防火区画シャッター開閉の重要性を認識し、それを実行するための具体的な方策を検討して上司に具申していたならば、テナントとの作業分担についての話し合いもできたので、比較的容易に実現できたと考えられる[641]
  • 日本ドリーム観光は、保安管理体制の強化に関して消極的であったというわけではなく、過去には消防当局からの指導に対しては、誠実にそれを履行していた向きも認められる[641]
例えば・・・
  1. 1966年(昭和41年)ころに消防署からシャッターラインの確保を指導された際には、それに従ったこと。
  2. 1969年(昭和44年)ころに消防署からの指導で非常口への誘導灯の増設がおこなわれたこと。
  3. 本件火災の前年(1971年)に消防署の指導で6階以下の階に非常放送設備を設置したこと。

・・・の各事実である。

以上のことから、被告人Aが防火管理者として職務を誠実に実行し、上司に対して必要な進言をしていれば、同ビルの管理権原者である千日デパート店長としても、防火区画シャッターの夜間閉鎖の必要性を認識し、理解したうえで、これに対応した体制づくりを実行したであろうと推認できる[641]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(オ)テナントの協力
  • 各テナントの協力で夜間の防火区画シャッターを閉鎖することは可能であった。千日デパートビルの3階と4階を賃借していたニチイ千日前店店長の証言によると、「もしデパート管理部から閉店後の防火区画シャッターの閉鎖を消防当局からの指導があったので閉鎖してもらいたい、との要請があった場合、保安係員だけでは手が足りないのであれば、覚書の条項とは関係なしに当面は現状のままで協力しただろう」と述べているので、ニチイの協力を得られたのは明らかである。ニチイ千日前店には、男子店員が毎日約60名出勤していたことが認められ、3階と4階の防火区画シャッターは合計19枚であり、1人が1枚開閉するとして、交代で開閉すれば1人につき3日に1回開閉すればよいのであり、格別の負担とはならない。これが実現したとすれば、保安係員が開閉する防火区画シャッターは1階と2階の合計38枚となり、開閉作業はかなり軽減されることになり、極めて容易なものとなる[642]
  • ニチイ以外のテナントの協力を求めることについては、1966年(昭和41年)ころの消防署の指導でシャッターラインの確保が一時的に実現している。その後に同シャッターの閉鎖は徐々に行われなくなり、シャッターラインに商品台などが置かれ、本件火災では同シャッターを閉鎖しようとしても完全に閉鎖できないものもあった。だが、それらは容易に移動させることが可能な状態にあり、デパート管理部が毎日防火区画シャッターを閉鎖する体制を整えておけば、シャッターラインの確保はできた。さらにはテナント組合の組合長は、デパート管理部に対して防火区画シャッターを毎日閉鎖するよう申し入れをおこなっていたことがあり、テナント側としても防火管理に強い関心を持っていたことが認められる。1階と2階の店舗において、防火区画シャッターが掛かる店舗は、1階が16店舗、2階が14店舗であり、シャッター内部の店舗まで含めると1階が22店舗、2階が17店舗なので、各店舗に1枚か2枚の巻き上げを分担してもらえば足りるので、1階から2階においても防火区画シャッターを巻き上げる作業をおこなう体制を実現し得たと考えられる[643]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
まとめ
以上のことから、被告人Aが福田屋百貨店火災および田畑百貨店火災の教訓によって消防当局からの閉店後の防火区画シャッター閉鎖の指導を受け、早急にその実行を迫られている旨を各テナントに告げて協力を求めたのであれば、商品の安全確保に関わることであるから、各テナントの協力を容易に得られたであろうと推認され、右協力を得るのに特段の支障があったとは考えられない[643] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(2)原判決の説示に対する判断(防火区画シャッター閉鎖について)
  • 原判決では「防火区画シャッターを巻き上げるには、1枚につき3分から5分は掛かるのであり、3名の保安係員で1階から4階までの合計57枚を1人あたり19枚巻き上げたとすると、1時間35分を要するので、時間の掛かる作業を毎日少数の保安係員で行うことが実現可能であったかは極めて疑わしいと言わざるを得ない[614]」と説示したが、1枚当たりの巻き上げ時間は、被告人Aや原審証人の推測に過ぎず、実測や実験に基づくものではないので原審判断は失当である[643]
  • 原判決では「防火区画シャッターの巻き上げ作業は、その体制を整えない限り実現不可能である」とし、体制づくりの方法や可能性を論述し、「いずれの方法も履行の可能性が無い[644]」旨説示し[643]、さらには「被告人Aが防火区画シャッターの閉鎖の重要性を上司に進言したとしても実現可能であったとは認められない[644]」としているが、同被告人が上司に必要な進言をしたのであれば、それに対応した体制づくりを行ったであろうことは前記のとおり推認できる。防火区画シャッターの夜間閉鎖が実現しなかったのは、同被告人が上司にそのことを進言しなかったからであり、原判決の右判断は失当である[645]
  • 原判決では「防火区画シャッターの巻き上げ作業を実行する保安係員の増員は困難である[375]」との理由に「日本ドリーム観光においては、保安係員を減員していて保安管理体制強化に消極的だった[375]」と説示したが[646]、保安係員が減員になったのは、1967年(昭和42年)に千日デパートの営業方式が納入業者制から賃貸契約制に変更されたからであり、従来の保安係員の半数が必要なくなったからである。本件火災当時、保安係員が減員された事実はなく、保安係員の増減が問題になったこともなかった[646]。また日本ドリーム観光が保安管理体制強化に消極的だったという根拠はないので、右判断は失当である[646]
  • 原判決は防火区画シャッターの夜間閉鎖について「各テナントの協力を得るのは困難である」とした[615]。またニチイについて「ニチイの売場で毎日のように防火区画シャッターを夜間に閉鎖するには、ニチイ従業員の労働条件に関係してくるから、デパート管理部がニチイに協力を求めても実現できたかは疑問である[375]」としているが[646]、前記のとおり、ニチイはデパート管理部から要請があれば同シャッターの夜間閉鎖に協力したであろうことが認められるので、右判断は失当である[646]
  • 原判決では、ニチイ以外の各テナントの協力によるシャッターラインの確保やシャッター閉鎖について「各テナントはそれに対して非協力的であり、被告人Aの上司に直接交渉して天井裏を倉庫にしたり、1階外周店舗を物置にしたりしていて、デパートビルの防火管理は専らデパート管理部が行うべきものと考えていて、仮に同被告人が各テナントに協力を要請しても防火区画シャッターの夜間閉鎖や巻き上げ作業の協力を得るのは著しく困難であり、実現できたかは甚だ疑問である[615]」と説示したが[646]、前記のとおり、各テナントも防火管理や商品の安全については高い関心を持っており、同被告人が各テナントに事情を説明すれば協力は容易に得られたと推認できるので、右判断は失当である[646]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(3)右シャッター巻き上げ作業についての弁護人らの所論に対する判断
弁護人らの所論では「保安係員を防火区画シャッターの巻き上げ作業という重労働に従事させることになれば、労働基準法に定める労働時間の制限法規の適用除外を受けることができなくなり、千日デパートビルの保安体制を根本的に改めなくてはならず、右作業に従事させるのは物理的に可能であったとしても、社会的には不可能である」と主張した[646]。しかしながら、各シャッターの開閉はデパート管理部の職務分掌の規定上、保安係員の担当業務であり、実際に1階各出入口のシャッターや階段回りの防火シャッターは宿直の保安係員が毎日巻き上げを行っているのであり、売場内の防火区画シャッターの巻き上げも保安係員の担当職務に含まれると解釈できること、大阪市内の各百貨店では、防火区画シャッターが手動式の時代であっても宿直の保安係員等が閉店後に必ずその閉鎖を行っていたことが確認されているので、以上の点からすれば、防火区画シャッターの巻き上げが労働時間制限法規の適用除外を受けることができなくなるとは容易に断定できず、被告人Aが管轄の労働基準監督署長に対し、防火区画シャッターの巻き上げ作業を行うことを内容とする除外申請を全くおこなったこともないのに、右適用除外を受けられなくなる旨の仮定論を前提とするものであるから、不当であると言わざるを得ず、所論は到底採用できない[646]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(4)工事現場に保安係員を立ち会わせるべき注意義務の履行可能性
原判決の説示に対する判断(原審・保安係員を工事に立ち会わせなかったことについての被告人Aの過失責任)
  • 当直の保安係員または非番の保安係員を臨時に工事に立ち会わせる実現性
火災発生当夜は、5名体制の保安係員のうち1名がたまたま欠勤して4名体制になったに過ぎず、そのような状態でも保安管理体制を維持しなければならない。被告人Aが工事の立会いに何らの指示をせず、保安係員を工事に立ち会わせなかったために管理上の不備が生じたとすれば、被告人Aの責任というべきで、原審の判断は失当である[647]
  • 日本ドリーム観光が工事の立会人を出す必要性
管理権原者である千日デパート店長は、ニチイ売場でO電機商会が施工していた電気配管工事に関して「ニチイが工事の責任を持つべきであり、被告人Aが右工事に立ち会う必要はない」と供述しているが[646]、日本ドリーム観光と各テナントとの間で締結されている管理契約上はテナントの工事に保安係員が立ち会う義務があるのに、これを知らずになされた供述であり、そもそも被告人Aからの進言はなく、夜間に防火区画シャッターを閉鎖しなければならないこと、ならびにその重要性を認識していなかったことが前提となるものである。したがって、千日デパート店長の見解は、被告人Aの責任を左右するものではなく、日本ドリーム観光が保安管理体制の強化に消極的であったとはいえない[647]
  • 保安係員の増員および他部門の社員を工事立会いに充当する実現性
共同管理費の値上げをテナント側が理由もなく拒絶していたものでないことは明らかである。日本ドリーム観光は、テナント側に対し過去に2度値上げを要求したが、そのときの値上げ理由は管理費の不足であったが、その根拠が乏しかったことから、テナント側で調査したところ、むしろ毎月のように余剰金が出る状況であった。これは千日デパート開業当初からの坪2500円という額を据え置きしているところにテナント数が増えて管理費収入が増加する一方、管理部の人員が減少して収支の均衡が取れていたからであった。千日デパート店長は、火災発生の1か月半前に3度目の値上げ要求を出したが、その理由を従業員の昇給や衛生費の増加で210万円不足しているというものであったが、テナント側が調査をおこなったところ、共同管理費の約70パーセントが人件費で占められていて、その対象となる従業員の職務分掌を明らかにするよう要求していたところ、デパート管理部の職務分掌が提出され、それを検討しているところで本件火災が発生した。以上のことからテナント側が理由もなく管理費の値上げに反対していたわけではないと認められる。むしろテナントは、必要な経費であれば値上げもやむを得ないと考えていて、もしも日本ドリーム観光が防火管理上、必要な措置を講ずるために共同管理費の正当な増額を要求したのであれば、テナントがこれを受け入れた可能性は充分にあったと考えられる。したがって共同管理費の値上げ交渉問題があって経費面から保安管理体制の強化が図れない趣旨の原判決の判断は失当である[648]
  • 「デパート管理部から工事に立ち会う人員確保の措置を取る独自権限があったかどうか」についての控訴審判断
原審が「被告人Aや管理部次長が売場の工事をおこなう場合に、千日デパート管理部から工事に立ち会う人員を確保する措置を取る独自の権限があったかどうか認めるに足る証拠がない[618]」としたが、被告人Aは原審公判廷で「店内で行われる工事については、事前に申請がなされた段階で立会いを付けるべきかどうかを自分が判断し、管理課の職員を立ち会いさせることにしていた。テナントの工事であっても、日本ドリーム観光の施設、電気、気罐、空調等に関連のある工事には管理課で立会いを付けていた」「工事に保安係を立ち会わせるどうかの判断は、一応次長と相談したうえではあるが、私がしていた。保安係が次長直轄になった以降も同様である」と供述し、また千日デパート店長も同公判廷で、「工事の立会い等の指示は職務上からいえば管理部次長である」「デパート自体の工事の保安体制もテナントの工事の場合と同じで、工事の立会いは管理課の課長又は課員である」と供述しているので、管理部次長は、管理部の3課(総務課、管理課、営業課)を統括し、同部の職務全般について同部の従業員を指揮監督する権限を有していたのであるから、防火管理者であり、同部管理課長でもある被告人Aから欠勤した保安係員の補充要員またはテナント工事の立会い要員を確保する要請があれば、同部所属の他の従業員立会いのために臨時の当直を命令することができ、またそのような措置を取るべき義務があったのは当然であり、被告人Aとしても自己の指揮監督する管理課の課員のなかから臨時の当直要員を指定して工事に立ち会わせることもできたことは明らかであり、原判決の前記判断は失当と言うべきである[648]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
まとめ
被告人Aは、各注意義務を履行する可能性があったのであるから、前記の各注意義務を尽くしていれば、3階での火災発生直後に工事立会いの保安係員において、煙の発生によって初期消火が不能と判断した時点で、工事のために開けておいた2枚の防火区画シャッターを閉鎖できたと推認できる。3階売場の防火扉や防火区画シャッターが完全に閉鎖されていたならば、本件火災の延焼範囲は同ビル3階東側部分の防火区画内に限定され、防火区画シャッターを通り抜ける煙の量も少なく、7階プレイタウンに侵入する煙はA南エレベーターシャフトのみになり、出火30分近くまではB階段からの避難が可能であることが認められ、被告人Cとプレイタウン従業員らがA南エレベーターから煙の流入に気付き、1階の保安室に電話で問い合わせて火災の発生場所や状況等を知り得る時間的余裕もあり、店内にいた客や従業員ら181名全員は、被告人Cの適切な避難誘導と相まって、B階段または救助袋を併用することによって完全に避難し得たと考えられ、本件火災による死傷の結果を回避し得たことが認められる[404] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
被告人Bおよび同Cについて[編集]
(1)同被告人らの各注意義務の履行可能性ないし結果回避の可能性
  • 被告人Cが22時39分に事務所前の換気ダクトから噴き出す煙に気付き、そのときに階下での火災を覚知し、そのあとクローク付近へ様子を確認に行った22時40分の時点では、A南エレベーターから流入して来る煙は少量であった。この段階で従業員らに火災発生を通報し、直ちに従業員を指揮してB階段への避難誘導を開始するとともに、救助袋による避難準備を進めることが可能であったと認められる。しかも平素からの避難訓練が行き届いていれば、22時39分から40分ごろのプレイタウンに流入した煙の量はさほど多くなかったのだから、同被告人からの指揮を受けた従業員らは比較的冷静かつ沈着に行動することが可能で、B階段への誘導および救助袋の投下に至る一連の作業は、手順どおり迅速におこなえた。遅くともB階段への誘導は22時40分ごろまでに、救助袋の降下準備完了は22時45分までには為し得たと認められる[649]
  • 煙がクローク付近へ多量に充満してきた段階においても、B階段を使って自力脱出したホステスの状況に照らしてみれば、煙の中を突っ切ってもB階段からの避難は可能で[650]、被告人Cが冊子「防火管理の知識」の内容を十分に把握していたのであれば、姿勢を低くし、ハンカチなどで口や鼻を覆い、呼吸を少なくしてクロークを通り抜けB階段へ行くように客らに指示して避難誘導をおこなっていれば、少なくとも停電のころ(22時49分)までにはクロークからB階段への避難誘導は可能だった。またクロークカウンターの65センチメートル幅の出入口についても、自動改札機の通り抜け実験で幅が55センチメートルの改札口において、毎分60名から70名の人数が通過できたと認められたのであるから、本件火災の状況では30名から35名程度は通り抜け可能だというべきであり、被告人Cの適切な避難誘導があればB階段からの避難は可能であったと認められる[651]
  • このことは大阪科学技術センタービル火災において、適切な避難誘導が実施されたことにより、ビル内に滞在する679名全員が無事脱出し得た事例によっても裏付けられる。この火災では、防火管理者が放送設備を用いて「3階で火災です。中央階段を利用せず、東階段から避難してください」と避難放送をおこない、その情報を得てから煙によって全く前が見えない状況下で避難した者が在館者の48パーセントいた。適切な放送と避難誘導がおこなわれたことにより、パニックによる重大な結果は起きなかったと認められる。したがって防火管理者において避難階段を明示し、避難誘導が適切に行われたならば、煙が充満した経路を突っ切ってでも避難し得ることを実証したものと言えるのである[651]
  • 救助袋による避難についても、救助袋を使用しての降下実験では、1分間に20名程度の降下が可能であると認められ、緊急事態に直面した本件火災においては、従業員の指示や介添えがあったとしても、そのとおりに降下できたかは疑問があるが、1分間あたり10名程度は降下可能であったと認められ、数分間あれば客らの相当数を避難させられたと認められる[651]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
まとめ
被告人Bおよび同Cが各注意義務を尽くして、千日デパートビルの6階以下の階で火災が発生した場合には、通常は唯一安全な避難路であるB階段へ客らを速やかに避難誘導させるとともに、適正に維持管理された救助袋を使用するなどの方法により、プレイタウン店内に在店する客らの安全を確保するための消防避難計画を策定し、これによる避難訓練を実施していたならば、本件火災が発生して煙がプレイタウン店内に侵入した際に、同店内にいた被告人Cにおいて、平素の訓練の成果を発揮して、速やかにB階段への避難誘導、救助袋を使用しての避難等、危急に際しての適切な措置を取ることができ、ホステス更衣室にいた11名を除くその他の本件プレイタウン在店者全員は、B階段からの避難誘導に加え、救助袋による避難方法が併用されることによって、安全に避難し得たことが認められるから、右更衣室にいた11名を除くその他の本件被害者(死亡109名、受傷40名)の死傷の結果を回避し得たものと認められるのである[652] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(2)原判決の説示及び弁護人らの所論に対する判断

B階段への避難誘導に関して
(ア)原判決が事実を誤認し、判断を誤った部分

原判決では「本件火災当時に死傷者を出すことなくプレイタウン店内から避難することが可能だったか否かについてみるに、4つの階段のうち、避難に使えるのはB階段のみであり、22時50分ころにホステス1名がクロークを通り抜け、B階段を使って避難出来ているので、クロークさえ通り抜けられればB階段は通行可能だったと認められる。被告人Cが平素からB階段の状況を把握し、6階以下の階で出火した場合の安全な避難路としてはB階段しかないことを十分に認識して、従業員にそのことを教え、たとえクロークに煙が充満していてもそこを突っ切ってB階段から避難誘導するように指導訓練しておけば、22時50分ころまでならB階段と救助袋を使って同店内に滞在していた全員を地上まで無事に避難させられたのではないかと、一応考えられないではないのである[437]。」として幾つか理由を挙げ、「被告人Cが6階以下の階で火災が発生した場合を想定して避難経路等について十分に調査検討のうえ、避難訓練をおこなっていたとしても、エレベーターシャフトからの猛煙でクローク付近が急速に汚染されるという予想外の状況に直面して、B階段への避難誘導が果たして可能だったのか大いに疑問であり、仮に避難誘導が可能だったとしても全員の死傷の結果を回避できたかどうかは甚だ疑問であると言わざるを得ない[390]」としたのは事実を誤認し、その判断を誤ったものであり失当である[652]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(イ)被告人CがB階段からの避難計画を立てることの可能性
原判決が、被告人Bおよび同Cの以下に掲げる各注意義務について・・・
  • 「6階以下の階で火災が発生した場合でも、プレイタウンが他の階から完全に遮断された気密構造になっていない以上、同店内に煙がどこからか流入して来る恐れがあるから、煙の具体的な流入経路や速度については分からないまでも、とにかく速やかに客や従業員を避難させる必要がある」[620][653]
  • 「6階以下の売場で出火した場合、1階売場も火災となっていることは十分考えられるから、F階段を利用して避難することは危険である」[620][653]
  • および「6階以下の売場で出火した場合には、その時刻の如何を問わず、各階段A、E、Fを避難路とするのは危険であり、B階段こそが安全確実に地上に避難できる唯一の階段であるとの結論に被告人C自身が到達することは十分可能であった」[620][653]

・・・との各認定に前記(2)(ア)の原判決説示は矛盾する[653]

  • また「煙が如何なる方向から来ようともB階段から避難するとの避難計画を立てることはできない[623]」との説示についても、「被告人Cとしては、むしろ6階以下の階で火災が発生した場合、プレイタウンが他の階から完全に遮断された気密構造になっていない以上、その煙があらゆる経路を経てプレイタウン内に流入する恐れのあることを予測し、通常は唯一安全な避難路であるB階段への避難誘導計画を策定しておけば足り、またこれ以外にはないのであって、煙が如何なる方向から来ようともB階段から避難するとの避難計画を立てることはできない[623]」とする原判示は相当でない[653]
  • 仮にそれが予想外の事態であったとしても、B階段こそはビルの構造上、各売場とも完全に遮断されていて、通常は唯一安全な避難路であることには何ら変わりはないのであるから、B階段への避難誘導を断念すべき理由は全く見出し難いのである[653]
  • また、消防署の指導上で言われる「2方向避難」というのは、あくまでも基本的に安全性の高い避難経路を常に2方向以上確保したうえで、火災が発生した場合、その状況によって安全確実な方向に避難するような体制を整える必要があることを言うのであって、プレイタウンのように、6階以下の階で火災が発生した場合、「B階段こそが唯一安全な避難階段」であるときには、2方向避難の前提を欠くのであって、たとえB階段の方向に煙が流れていたとしても、同階段から煙が流入し、あるいは同階段自体に煙が充満していたわけではないから、当然B階段に避難誘導すべきであり、この点の原判決には誤りがあると言うべきである[653]
  • しかも、本件火災の場合のように、北側事務所前換気ダクト開口部からの煙のほか、クローク前やエレベーターの前にも煙が流入していたとすれば、むしろ6階以下の階での火災がある程度規模の大きなものであることが十分予想されるので、仮に的確な避難計画を立てていたとすれば、B階段への避難誘導とともに当然救助袋による避難にも全力を注ぐことになるはずで、最も危険度の高い「F階段」に誘導するのが最適の方法である、などというような無謀な発想は起こり得ないものと言わなければならない。原判決の避難計画に関する判断は、被告人Cらにおいて現実には消防避難計画について右のような検討を全く加えておらず、何らの避難計画も立てていなかったのであるから、仮定論を前提とするものである上、その内容自体にも矛盾や誤りがあると言わなければならない[653]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(ウ)本件火災における被告人CのB階段への避難誘導の可能性
原判決の説示は、この点についても、被告人Cが消防計画の策定、避難誘導訓練を全くおこなっていなかったのであるから、原審判示は仮定論を前提とするものであるうえ、原審説示の内容そのものも以下に述べるとおり、誤りがあると言わなければならない[653]
  • 同被告人は、B階段の安全性を全く認識していなかったために、的確な避難誘導の行動を開始し得ないまま、漫然クローク付近に赴き、同所でしばらく様子を見ているうちに、エレベーター昇降路から流入している煙が次第に増量して付近が徐々に暗くなってきたことから、ようやく客や従業員の避難を考えるに至り、近くにいた従業員に電気室から懐中電灯を取って来るよう指示し、右従業員が電気室へ行って戻り、懐中電灯を見付けることができなかった旨報告するのを待って、レジ付近まで戻り、ボーイらに指示してA階段の出入口の扉を開けさせようとしたのであり、同被告人の避難誘導の行動は、方法において誤りがあったのみならず、その着手が著しく遅延したものと言うべきである[654]
  • 被告人Cがクローク付近まで行ったのは、「エレベーターの昇降路から多量の煙が噴き出し始めた直後であった」との誤った事実認定を前提に、B階段への避難誘導を決断することは困難であったとする原判決の判断は明らかに失当であって、右のとおり、被告人Cがクローク付近に至ったときは、B階段への避難誘導に何ら支障のない状態であり、この時点で明確な対処を怠ったことは同被告人の落度であると言うべきである[654]
  • もともとプレイタウンにおいては、6階以下の階で出火した場合の安全な避難路は、通常はB階段しかないのであるから、エレベーター昇降路から煙が流入したとしても、B階段自体からも煙が流入するというような異常な状況にない限り、クロークへ進入する経路が煙により遮断されるまでの間は、万難を排してB階段へ避難誘導すべきであり、もし的確な避難計画を立て、避難訓練をしていたならば、寸刻の間にそのような判断を為し得たはずであり、それができないということは、すなわち右のような避難計画を立て、訓練を行う事を怠っていたことによるものであって、B階段からの避難誘導を決断することが困難であったとする原判決の判断は到底肯認できない[654]
  • 原判決は「客や従業員に対し、B階段に避難するよう指示したとしても、当時の状況では、大きな混乱が起きて避難出来たか否か疑問である」とする[654]。しかし、この点については、「大阪科学技術センタービル火災」の事例において説示したとおり、本件のような危急の事態に遭遇した場合、群衆は、避難誘導指揮者の適切かつ明確な指示があれば、これに従って安全な場所を求めて危険をも省みずに行動することは群衆心理の常識とも言うべきであり、このことは、証人Sの当審公判廷における供述からもうかがわれるところであるから、被告人Cや従業員の明確な指示さえあれば、大きな混乱が起きることなくB階段への避難誘導は可能であったと認められる[655]
  • 本件の場合には、実際にホールからの出入口であるアーチ付近では、ホールへ向かう者とクロークへ向かう者とが衝突し、混乱した状況にあったことが認められるが、しかし、これは被告人Cらが適切な避難誘導を迅速かつ的確に行わず、専用エレベーター前のホールに出て来る客をA階段から避難させようとし、クロークに誘導しようとする者と、逆にこれを押し止める者とがあって、避難誘導に当たるべき従業員の指示が混乱したことによる当然の結果である[655]
  • 結局、被告人Cらは、適切な避難誘導を為し得なかったため、同店が大混乱状態に陥ったものであり、同被告人らによる適切、かつ、明確な避難誘導を受け、すべての客らがB階段に向け1つの流れとなって避難していたとするならば、火災という非常事態のため、多少の混乱が生じたとしても、クロークの出入口付近に殺到して大混乱を来たし、避難誘導を不可能にするという事態に立ち至ったとは考えにくい[655]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(エ)従業員らによるB階段への避難誘導の可能性
原判決では「従業員Mらが被告人Cがエレベーターホールにやって来るまでに換気ダクト開口部からの煙の噴き出しについて知り得ないのだから、仮に6階以下の階で火災が発生した場合の避難訓練を受けていて、直ちに避難誘導に取り掛かったとしても、B階段ではなく、F階段から客らを避難させようと考えたであろうから、本件のようにエレベーターホールに押し寄せる客らを押し止め、ホールへ戻るよう指示したと思料される[624]。」・・・とするが、日頃から避難訓練を徹底していれば、従業員は唯一安全な避難路であるB階段に客らを誘導していたものと認められ、最も危険な「F階段」を避難路と考えたり、ホールからエレベーターホールへ向かう人達を押し留めたりするという行動に出るはずもなく、クローク前の異常な混乱した状態を招くこともなかったことは明らかで、原判決の説示は失当である[655]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(オ)B階段の安全性
弁護人らの所論では「B階段は必ずしも安全ではない」と主張する[655]。それは・・・
  1. 1階のB階段入口が木製扉であること。
  2. 地下1階エレベーターホールと地下飲食店街とは鉄扉1枚で繋がっているので、仮に地階の飲食店で火災が発生した場合にB階段へ火や煙が入り、同階段が使用不能になることが十分想定されること。
  3. 以前に地下1階「プレイタウン」エレベーターホールで小火が発生したことがあること。

・・・以上の点で「B階段は唯一安全な避難階段ではあり得ない」というのである[655]

しかしながら、地下1階から6階までのB階段と千日デパートの売り場間の鉄扉は、常時閉鎖されているのであり、B階段に火や煙が入る可能性は低い。B階段に火や煙が入るとすれば、1階プレイタウン専用出入口(B出入口)で出火し、その火や煙がB階段を通じて7階へ上昇する場合しか考えられない。B階段には、地下1階エレベーターホールに可燃性の装飾があり、1階同専用出入口には木戸や絨毯、ビロードカーテンが、またB階段の階段室には木材や段ボールが置かれていたものの、それらの量はそれほど多くなく、1階同専用出入口は、プレイタウン営業中はその扉が大きく開けられ、道路に面していることが認められているところ、可燃物が燃えたとしてもB階段の安全性を左右するほど火や煙が同階段に入り、充満する可能性は低いと言わざるをえない。以上のことから、B階段が唯一安全な避難階段であるというべきであるから、弁護人らの所論は採用できない[655]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
救助袋による避難行動に関して
原判決は、被告人B、同C両名について、救助袋の整備を怠り、救助袋を使用しての避難訓練をおこなっていなかった注意義務違反を認めながら、救助袋による避難の可能性を否定し、被告人両名の過失責任をも否定したが、原判決の判断は以下のとおり、事実を誤認し、その判断を誤ったものであるから失当である[656]

(1)救助袋の避難方法としての位置づけ

原判決では避難訓練および訓練指導の内容について「消防当局が火災の場合の避難方法としては、あくまでも避難階段を利用しての避難を優先すべきであって、救助袋は本来の避難路から逃げ遅れた極少数の者を対象とした補充的な避難方法であるにすぎないとの考え方に立っていたことが窺えるので、消防署係官の指導がなされたとしても、その線に沿った内容の指導に止まったであろうと考えられることなどから、本件のようにB階段へ通ずる通路及びその余の避難階段が、いずれも煙のために現実には避難路となり得ず、在店者のほとんどが、1個の救助袋若しくは消防署のはしご車に頼って避難せざるを得ないような場合を想定した避難訓練まで為し得たとは到底言えない[625]」旨説示する[657]。原判決が指摘するように、火災の場合の避難手段としては、避難階段を使用しての避難が優先されるべきであって、救助袋による避難は補完的なものであるのは、そのとおりである。したがって「避難階段が使用不能になった場合の指導」などというものは本来はあり得ない。防火対象物が、そのような状態であるならば、欠陥対象物なので消防署は安全な避難路確保について指導するはずであり、避難路が確保されていないことを前提に救助袋による避難訓練を指導することなどなく、全階段が使用不能になった場合を想定しての訓練指導の有無を論じる原判決は、その前提において誤りがある。要するに救助袋の使用方法について指導と訓練をおこない、有事の場合にこれを使用できるようにしておきさえすれば足りるのである[657]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(2)本件火災時における救助袋による避難行動の可能性
  • 原判決では「被告人Bおよび同Cが、各注意義務を尽くし、救助袋の補修や取替えをして、これを使用して避難訓練をしていたとしても、本件では救助袋による避難の可能性を認めることは困難である」として、その可能性を否定した[657]。しかしながら、前記説示のとおり、右注意義務を尽くしていれば、B階段からの誘導に加え、右救助袋による避難方法が併用されることによって、ホステス更衣室にいた11名を除く、その余の在店者全員が安全に避難し得たというべきであり、これを困難ならしめる特段の事情を否定する根拠として挙げられる諸事情は、次に述べる通り失当である[657]
    • 原判決が救助袋による避難判断を為し得る時間を「22時42分」としたのは誤りで、しかも救助袋の投下を決意することについて、「救助袋による避難しかあり得ないと判断した場合にのみ行われる」との前提自体も誤りである[657]被告人Cが6階以下での火災を覚知してクローク付近に様子を見に来た時点では、エレベーターから噴き出す煙はさほど多くなく、在店者も混乱した状況には陥っていないのであるから、直ちに従業員を指揮して避難階段への誘導とともに、救助袋を投下して避難路を確保すべき注意義務を忠実に履行していたならば、従業員らを救助袋設置の部署につけ、救助袋の投下を実行することは十分に可能だった。避難するための時期を失して混乱状態に陥ったあとの状況を前提として、その可能性を否定する原判決の右判断には重大な誤りがある。従業員にしても、平素から避難訓練を受けていれば、被告人Cの指示を待つまでもなく、煙の流入に気付いた時点で自発的に救助袋の投下作業に取り掛かるはずである。従業員が「たまたま窓際で救助袋を発見した」と供述したのは、まさに被告人Cが消防計画の策定、避難誘導訓練を全く怠っていて、適切な指示が為されなかった事実を裏付けるものである[657]
  • 原判決は「救助袋を使用して降下可能な状態になったのは、本件の場合よりもせいぜい1分程度早い22時48分ごろであった」旨説示するが、これは、たまたま救助袋が設置されている窓際に行った従業員らが救助袋に気付いて投下した時刻が22時46分ごろであったことを前提にしている[444]。もし被告人Cの指示が徹底し、従業員に対する避難訓練ができていれば、それよりももっと早い時間に降下可能な状態にできたことは前述のとおりであるから、その前提が間違っているばかりか、救助袋の投下が遅れたとしても、被告人Cがクローク前からホールへ引き返して来た時点で直ちに救助袋の投下を指示し、救助袋が使用可能な状態に整備され、従業員が取扱い方を知っていれば、遅くとも22時45分から46分ころまでには避難可能であったと認められるので、こうした前提を無視した原判決の判断は誤りである[461]
  • 原判決では、被告人Cが救助袋による避難を決意し、従業員に対し客らを救助袋が設置してある窓際に誘導するように指示した場合を想定し、その後に起こりえる結果を説示して[628]、救助袋が設置された窓際への誘導の可能性を否定している[461]。しかしながら原判決の判断は、被告人Cが22時44分から45分ころに救助袋による避難誘導を決意した場合を想定している時点で重大な誤りがある。被告人Cは22時39分ころには階下で火災が発生したことを覚知しているのであり、同被告人がクローク付近に来た22時40分過ぎころに、直ちに避難誘導の指示などの適切な行動を開始し得たはずであって、これを怠り、避難誘導の時機を逸して混乱状態に陥ったあとの状況下における避難誘導の可否を論じることは、右原判決の内容について、検討を加えるまでもなく失当である[461]
  • 原判決は「以下のような状況下において、仮に救助袋の入口が開き、22時48分ころ、これを使用して降下が可能な状態になっていたとしても、降下所要推定時間およびホール内における致死限界推定時間等を総合して考察すると、ホール内にいた150名と楽団室及びボーイ室にいた者ら全員はもとより、ホール内にいた150名くらいの者全員が右救助袋を利用して無事地上に脱出したとは考えられない[629]」旨説示し[461]、その根拠として、具体的個別事情を挙げて種々検討を加えているが、原判決は 救助袋の使用開始可能時刻を22時48分としている点で誤っている。そもそも救助袋による避難はあくまでも補完的なものであり、本来はB階段を利用して適切な避難誘導が為されるべきで、それは22時49分ころまでは可能であった。B階段への誘導のほか、これを補完するものとして救助袋による避難方法を併用することにより、ホステス更衣室に滞在していた11名を除く在店者全員が安全に避難し得たことは前述のとおりである。したがって救助袋のみによる全員の避難救助の可能性を論じる右原判決は根本的に誤りであり、原判決が挙げる具体的個別事情を検討するまでもなく、原判決の右判断は失当である[461]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(3)救助袋による避難方法の補完性に関して
弁護人らの所論は「消防署の指導においては、救助袋は補助的用具とされ、可能な限り階段から脱出し、それでもなお避難者が残るときに救助袋の使用が考えられているから、火事を覚知すれば、まず階段による避難を考え、それも無理となって次に救助袋を使用することになるのであって、いくら訓練を重ねても、状況を判断せずに直ちに救助袋を投下するなどということにはならない」旨主張する[472]。被告人Cは、事務所前換気ダクトの開口部から煙が噴き出しているのを現認し、階下で火災が発生したことを覚知した時点で、同被告人は煙のためにホステス更衣室に行けず、その後にホール出入口へ向かった。そしてクローク付近へ行った際には、通常の唯一安全な避難階段であるB階段近くのエレベーターホールにも煙が流入する状況に遭遇したのであり、店内の煙の状況のほか、店内の勝手を知らない客、または酔客もいたことから、避難に手間取り、避難階段から逃げ遅れる者もあることが予測できた。したがって遅くとも同被告人がクローク付近に赴いた22時40分過ぎ以降には、B階段からの避難誘導を開始するとともに、救助袋を使用しての避難にも配慮し、従業員らを指導して、その投下作業にも取り掛からせるべきであったと考えられるので、所論は採用できない[472]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
ホステス更衣室にいたホステスら11名について結果回避を否定した理由
本件火災当時、ホステス更衣室にいた11名については、被告人Bおよび同Cが注意義務を尽くしていたとしても、11名の死傷の結果を回避する可能性は無かったというべきである[658]
22時39分から40分ころには、事務所前換気ダクト開口部からの煙のために同更衣室へ通じる通路が遮断され、同通路は避難路としては使うことができず、それ以外の方法を考えてみても、事務所西側の宿直室を通って同更衣室に行くことも、被告人Cが事務所ドアを開けた際に事務所内へ勢いよく煙が流れ込んで充満し、その通路を遮断したであろうと推認されるところであり、被告人Cが22時39分ころに階下での火災を覚知して以降、前記更衣室の滞在者11名がB階段や救助袋のあるホール窓際へ避難誘導させることは不可能であったと認められ、右在室者の死傷の結果を回避できなかったというべきである[658]なお検察官の所論では「被告人Cは、22時44分から45分ころまではB階段に、あるいは救助袋のあるホール窓際に11名を避難誘導することは可能であった」と主張する[658]。しかしながら、右所論は原判決の「ボーイらがE階段から避難しようと考えてホステス更衣室へ向かった22時44分から45分ころの時点における右通路の煙の状況」を根拠にして、ホステス更衣室に在室する11名の避難誘導の可能性を論じているのみであって、右時刻以前は同更衣室からの避難誘導が可能であったとの判断をしているものではないうえ、前述のとおり、22時39分から40分ころには同更衣室に至る通路は避難路としては使えない状態であることは明らかであるから、検察官の所論は採用できない[658]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)

各注意義務の懈怠(過失)と因果関係[編集]

被告人Aについて
前記の各注意義務を尽くしていたなら、被告人Cらの適切な避難誘導と相俟って、プレイタウンに在店していた客や従業員ら181名全員が安全に避難し得たと認められるので、同被告人の過失と本件被害者全員(死者118名、受傷者42名の計160名)の死傷の結果との間に因果関係が存するのは明らかである[659]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
被告人Bおよび同Cについて
前記の各注意義務を尽くしていたなら、ホステス更衣室にいた11名を除くその他のプレイタウンに在店していた客や従業員全員が安全に避難し得たと認められる。死亡者118名のうちホステス更衣室で死亡した9名を除く109名の死亡の結果は、右被告人両名の過失と因果関係があるのは明らかである。また受傷者42名のうちホステス更衣室にいて消防隊のはしご車に救出された2名を除くその他40名については、その受傷の結果は右被告人両名の過失と因果関係があることは明らかである[660]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
被告人Aと被告人Bおよび同Cの各過失の競合
以上の認定説示から明らかなように本件被害者160名(死亡者118名、受傷者42名)のうち、ホステス更衣室にいた11名(死亡者9名、受傷者2名)を除く149名の死傷の結果について、被告人Aの過失と被告人Bおよび被告人Cの過失とが相乗的に作用したことによるものであるから、右被告人3名の過失の競合によるものと認めるのが相当であり、ホステス更衣室にいた11名の死傷の結果については、被告人Bおよび被告人Cには過失はなく、被告人Aのみの過失によるものと認められるから、過失の競合は否定される[13]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
結論
被告人Aについては本件被害者全員に対し、また被告人BおよびCについてはホステス更衣室にいた11名を除くその他の全被害者に対し、それぞれ業務上過失致死傷罪が成立するのは明らかである。原判決が各被告人らの業務上の各注意義務を肯認しながら、これを怠った被告人らに対し、本件結果の回避可能性が無いとして、あるいは因果関係が証明できないとして、被告人らの過失責任を否定して無罪を言い渡したのは事実を誤認したものであって、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである[13] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)

自判[編集]

(罪となるべき事実、証拠の目標、法令の適用は省略)

一部無罪の理由
被告人B、同Cに対する本件公訴事実中、火災発生時にホステス更衣室にいて死傷した11名については、前記のとおり、右両被告人がそれぞれの注意義務を尽くしていたとしても、各人の死傷の結果を回避することはできなかったと認められるから、右11名に係わる業務上過失致死傷の点は、犯罪の証明が無いと言うべきであるが[13]、右11名とその余の有罪となった本件被害者に対する右被告両人の所為は、科刑一罪に関係あるものとして公訴を提起されたことは明らかであるので、主文において無罪の言い渡しをしなかったものである[661] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
量刑の理由
本件千日デパートビル火災による死亡者は118名、負傷者は42名の多数にのぼり(ただし、そのうち死亡者9名、負傷者2名については、被告人B、同Cに過失責任はない)、ビル火災事故としては稀にみる大惨事というべきであるところ、その出火原因は証拠上確定できず不明であるが、このように多数の死傷者を出すに至った原因は、防火管理の業務に携わる被告人らにおいて、複合ビルの最上階で遊ぶ多数の客や従業員らの生命、身体の安全を確保するという最も重要で基本的な心構えに欠けていたところから、右業務上遵守すべき基本的な注意義務を果たさなかったことによるものであり、殊に、被告人Aについては、大阪市消防局の係官から、他の百貨店での火災の教訓に照らして千日デパートの閉店時に売場内の防火区画シャッターを閉鎖するように指導を受け、また被告人B、同Cについても、所轄消防署の係官から破損した救助袋の補修もしくは取替えを再三にわたって指示されていたにもかかわらず、火災が発生することはあるまいとの安易な考えから、それぞれ右指導、指示を軽視して前記注意義務の履行を怠り、かかる重大な結果を招いたものであって、被告人らの過失は重いものがあると言わなければならない。加えるに、本件火災時におけるプレイタウン店内の状況は、先に詳しく認定したように、遊興中の客やホステスら従業員は、被告人Cらの適切な避難誘導もなく、階下から流入する猛煙に追われて避難路を見いだせないまま、同店内を逃げまどい、ある者は7階の窓から飛び降りを余儀なくされ、また、ある者は使用方法についての指示もなく帯状に垂れ下がった救助袋を伝って脱出を図ったが、摩擦熱のため手を放すなどして転落して、その余の大部分の者は、B階段から自力脱出した者および、はしご車で救助されたものを除いて、同店内に充満した一酸化炭素を吸引して死亡するに至ったものであって、被害者らには客はもちろんのこと、従業員にも特段の落度はないうえ、その被害状況は極めて悲惨であり、死亡した被害者の無念はもとよりのこと、受傷者の中には相当の重傷の者もあり、死亡した被害者の遺族や受傷した被害者等の被害感情も、原審公判廷での数人の遺族の証言を待つまでもなく、厳しいものがあること、さらに、本件火災が社会に与えた衝撃は極めて大きいものがあることなどの諸点に照らすと、被告人らの刑責は誠に重いと言う他はない[661] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
情状酌量の理由
しかしながら、他方、本件火災がこのように重大な結果に至った原因として、被告人らの過失以外に、同ビル3階での本件火災を知った宿直保安係員の誰もが、千日デパートとプレイタウン間の共同防火管理体制が整っていなかったこともあって、火災発生及びその状況等をプレイタウンに通報しなかったために、被告人Cらにおいて早期に適切な避難誘導を為し得なかった面があること、また、プレイタウン専用の南側エレベーター昇降路の壁の一部に同デパート開業当時の手抜き工事によると思われる隠れた隙間があったために、これが右昇降路からの煙の進入路となったほか、北側換気ダクト内に設置された3個所の防火ダンパーが同様に欠陥工事により作動したかったため、煙が同ダクト内を上昇して7階の開口部からプレイタウン店内に流入したことを指摘することができ、これらの点について、被告人3名に特段責められるべき点はないこと、日本ドリーム観光、千土地観光等と本件死亡被害者の遺族及び傷害被害者との間に示談がほぼ成立し、損害金の支払いも終わっていること、被告人3名はいずれも前科前歴がなく、これまで真面目な社会生活を送ってきた者であること、さらに、被告人Aについて、当時、売場内の防火区画シャッターの閉鎖を命じる直接の法令上の根拠がなく、消防当局も、本件より1年前の市内百貨店の夜間一斉査察のころまでは、千日デパートに対して右閉鎖を指導したことはなく、同査察の際の指導も口頭でなされただけで、店長らに対する文書による指示は為されていないこと、多数の巻き上げ式シャッターを毎日少数の保安係員に閉鎖させることについては、労務対策等に問題が生じることは避けられないうえ、これを電動巻き上げ式のものに取り替えるについては相当な出費を要するところ、社内的に厳しい経費支出規制が為されていたなどの事情もあり、右シャッター閉鎖義務不履行の責任を防火管理者とはいえ、一課長に過ぎない同被告人にすべて負わせることは、酷に過ぎる嫌いがあること、被告人B、同Cについて、プレイタウンの北側換気ダクト開口部および南側エレベーター昇降路の2方向から噴き出す煙が、被告人Cらをして客等に対する適切な避難誘導を困難にした一面があり、この点は右被告人両名の過失責任を左右するものではないが、量刑上は考慮すべきであること、被告人Cが防火管理者に選任されてから1回だけおこなった消防訓練(プレイタウン店内のステージから出火した想定での訓練)の際、消防署の係官から、階下で出火した場合にはB階段へ避難するようにとの指導は特になされなかったこと、被告人Bはプレイタウンを経営する千土地観光の代表取締役であったが、実質上の経営権を有しておらず、同会社は親会社の日本ドリーム観光から経費支出等につき厳しく規制されていたことなど、被告人3名について、いずれも酌量すべき点があり、以上の諸般の情状を総合的に勘案すると、被告人3名の責任は重大であるが、それぞれにつき刑の執行を猶予するのが相当である。よって、主文のとおり判決する[662] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)


控訴審判決を受けて、被告人3名は判決を不服として1987年10月1日、最高裁判所に上告した[603]

上告審判決[編集]

1990年(平成2年)11月29日、最高裁判所第一小法廷で開かれた上告審において、裁判官全員一致の意見で判決が言い渡され[15]、主文は「本件上告を棄却する」とされ[27]、3被告の有罪が決定した[603]

最高裁判所は、弁護人1名の上告趣意のうち、憲法38条3項違反を主張したことについて、被告人C(プレイタウン支配人)の捜査段階での自白調書のみによって同被告人を有罪にしたものでないことは明らかであるから前提を欠く、とした。また、その他の主張については、意見を言うことを含めて、実質は事実誤認および法令違反の主張であり、さらに弁護人4名の上告趣意についても、事実誤認および単なる法令違反の主張であるから、いずれも適法な上告理由に当たらない、とした。最高裁判所は、判決にあたり被告人A、同B、同Cの過失責任について、職権によって検討を加えた[27]

被告人Aの過失について
  • 原判決では「本件火災の拡大を防止するためには、デパート閉店後に1階から4階までの売場内の防火区画シャッターを全部閉め(3階の自動降下式の4枚を除く)、工事が行われている場合は、工事に関連する防火区画シャッターのみを開け、保安係員を工事に立ち会わせ、あらかじめ開けておいたシャッターについては、いつでも閉鎖できるような体制を整えておくべきであり、被告人Aが右義務を履行できなかったような事情は認められない」として、その注意義務を肯定した[8]
  • 閉店後の千日デパートで火災が発生した場合、従業員が不在になった各売場には多量の商品や可燃物が置かれているのであり、また5名体制の保安係員による防火および防犯等の保安管理は脆弱な状況下にあったので火災が容易に拡大する恐れがあった。したがって日本ドリーム観光としては、火災の拡大を防止するために法令上の有無を問わず、可能な限り様々な措置を講ずるべき注意義務があったことは明らかである。本件火災に限定して考えると、夜間工事が行われていた3階売場の防火区画シャッターを一部を除き全部閉鎖し、保安係員またはこれに代わるものを工事に立ち会わせ、出火に際しては直ちに出火場所側の防火区画シャッターを閉める措置を講じるとともに、プレイタウン側に火災発生を連絡する体制を採っておきさえすれば、煙は防火区画シャッターで区切られた部分に封じ込められ、7階プレイタウンへの煙の流入量を減少させることができたはずであり、保安係員またはそれに代わるものが保安室を経由してプレイタウン側に火災発生の連絡が入ることと相俟って、同店の客及び従業員を避難させることができたと認められる。日本ドリーム観光としては、すくなくとも右の限度において注意義務を負っていたと言うべきであり、原判決においても肯定されていると解される[8]
  • 日本ドリーム観光の千日デパート管理部管理課長であり、千日デパートの防火管理者である被告人Aとしては、自らの権限により、上司である管理部次長の指示を求め、工事が行われる本件ビル3階の防火区画シャッター等を可能な範囲で閉鎖し、保安係員またはこれに代わる者を立ち会わせる措置を採るべき注意義務を履行すべき立場にあったと言うべきであり、右義務に違反し、本件結果を招いた被告人Aには過失責任がある[8]
最高裁、判例時報1991(1368)
被告人Cの過失について
被告人Cは、プレイタウンの防火管理者として、平素から救助袋の維持管理に努め、従業員を指揮して客らに対する避難誘導訓練を実施し、煙が店内に侵入した場合、従業員は速やかに客らをB階段に誘導し、あるいは救助袋を使用して避難させることにより、客らを避難の遅延による事故発生を未然に防止すべき注意義務があった。 被告人Cは、あらかじめ階下からの出火を想定し、避難のための適切な経路の点検をおこなっていれば、B階段が安全確実に地上に避難できることができる唯一の通路であるとの結論に達することは十分可能であったと認められる。被告人Cは、建物の高層部で多数の遊興客を扱うプレイタウンの防火管理者として、本件ビルの階下において火災が発生した場合、適切に客らを避難誘導できるように、平素から避難誘導訓練を実施しておくべき注意義務を負っていたと言うべきである。したがって、保安係員らがいずれもプレイタウンに火災の発生を通報することを全く失念していたという事情を考慮しても、右注意義務を怠った被告人Cの過失は明らかである[8]
最高裁、判例時報1991(1368)
被告人Bの過失について
被告人Bは、プレイタウンの管理権原者として、同店の防火管理者である被告人Cとともに、同被告人が負っていたのと同様の注意義務があった[8]。被告人Bは、救助袋の修理または取替えが放置されていたことなどから、適切な避難誘導訓練が平素から十分に実施されていないことを知っていたにも関わらず、管理権原者として、防火管理者である被告人Cが防火管理業務を適切に実施しているかどうかを具体的に監督すべき注意義務を果たしていなかったのであるから、この点で被告人Bの過失は明らかである[15]
最高裁、判例時報1991(1368)
最終結論
よって、刑事訴訟法414条、386条1項3号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する[15] — 最高裁、判例時報1991(1368)


→冒頭インフォボックス「最高裁判所判例」も参照のこと。

民事訴訟[編集]

千日デパート火災の民事訴訟は、火災被害者遺族や各テナント(テナント団体)が火災関係各社を相手取って損害賠償請求訴訟を提起した。また火災関係各社間においても出火や防火管理の責任を巡って損害賠償請求訴訟が提起された。

本件火災後に提起されたおもな民事訴訟や仮処分申請には以下のものがある。

  • 1972年(昭和47年)11月15日、千日デパート罹災業者復興対策委員会メンバーの一部テナント団体が日本ドリーム観光に対して賃借権確認訴訟を提起[663]
  • 1972年12月11日、ニチイが日本ドリーム観光を相手取って賃借権妨害予防に関する仮処分を申請[663]
  • 1973年1月22日、日本ドリーム観光がニチイに対して損害賠償請求訴訟を提起、反訴でニチイが日本ドリーム観光に対して損害賠償請求訴訟を提起[663]
  • 1973年2月19日、火災被害者遺族が火災関係4社を相手取り損害賠償請求訴訟を提起[48][664]
  • 1973年6月1日、テナント団体「松和会(しょうわかい)」が日本ドリーム観光に対して生活費支払い要求の仮処分を申請[665]
  • 1973年10月11日、松和会が日本ドリーム観光に対して損害賠償請求訴訟を提起[666]
  • 1975年(昭和50年)5月、テナントオーナー2名と業者34名がニチイに対して損害賠償請求と営業再開までの金銭的補償を求めて訴訟を提起[667]
  • 1977年(昭和52年)1月18日、松和会が大阪地裁に千日デパートビル取り壊し禁止を求める仮処分を申請、これに対し日本ドリーム観光は執行停止を申し立て。さらに松和会が現状維持仮処分の執行停止の更正を要求[668]
  • 1980年(昭和55年)9月18日、松和会がニチイに対して損害賠償請求訴訟を提起[669]

各テナントや遺族の個別訴訟または仮処分申請を含め、本件火災では多くの訴訟が提起された。遺族会訴訟は、提起から約3年という短期間で和解により解決した[670]。これはテナント訴訟のうちの一つである「松和会訴訟」の中間判決において、被告の日本ドリーム観光にはテナントに対する保安管理契約の存在と債務履行義務がある、と認められたことにより、同社は火災被害に対しての責任が明確化したことで、被告4社の態度が軟化し、交渉が大きく前進した結果である[671]。火災関係各社間の訴訟は、日本ドリーム観光(提訴)とニチイ(反訴)の間で争われ、お互いが火災発生について、保安管理や債務不履行の責任を認めようとせず、訴訟合戦の様相を呈した[48]。テナント訴訟は、専門店街を形成していた出店業者が150店舗ほどあったことから、日本ドリーム観光とニチイを提訴する業者やテナント団体が多く、被告各社が責任を認める態度を示さなかったために各訴訟や交渉は難航し、解決までに長い年月を要した[672]

本節では「遺族会統一訴訟」について、被災テナント団体の一つである「松和会訴訟」について記すことにする。

遺族会統一訴訟[編集]

本件火災事故の被害者遺族で結成した「千日デパートビル火災遺族の会(以下、遺族会と記す)」は、日本ドリーム観光および千土地観光、ニチイ、O電機商会の右本件火災関係4社と補償交渉をおこなった[670]。火災直後に日本ドリーム観光の千日デパート店長は遺族会に対し「遺族への補償、葬儀料、負傷者への治療費、見舞金は日本ドリーム観光が責任を持って決める」「合同葬儀を行い、責任の所在をはっきりさせたうえで完全な補償を目標に努力したい」などと表明した。火災関係各社間の話し合いでニチイと千土地観光が葬儀料として1遺族あたり20万円を両社で折半して負担することが決められ、合同葬儀もおこなわれたが[25]、それ以降、各社からは誠意ある解決案の提示がなかったことから、遺族会は1973年(昭和48年)2月19日に4社を相手取って大阪地方裁判所に損害賠償請求訴訟を提起した(1次訴訟)[670]。原告団のなかには、大阪市消防局に対しても責任を追及すべきとの意見も出された。大阪市の消防行政が本件ビルに警告を出すだけに終わっていて、火災の未然防止が為されなかった、という理由である。しかしながら訴訟の長期化を避ける意味で大阪市への告訴は見送られた[673]。本件遺族会統一訴訟では、当初の原告は52遺族135名で請求額は13億6,750万円だったが、最終的に犠牲者118名のうち、2次訴訟(同年3月提起)を併せて犠牲者91名の遺族247名が原告となり、総額約27億6千万円を被告4社に対して請求した[670][673]。なお本件火災では、遺族会訴訟の他にも遺族会を脱退した4遺族14名が個別の遺族訴訟を提起し、1億8千万円の損害賠償を被告4社に請求した[674][673]。本件損害賠償訴訟は、日本の災害関連の訴訟の中では最大の集団訴訟となった(当時)[673]

原告側の主張[編集]

原告である遺族会側が主張した被告4社の責任となる原因は以下のとおりである。

日本ドリーム観光(ビル所有者、千日デパート経営者)

右同社は千日デパートビルの所有者であり、同ビル全体に対する管理責任を持つ。したがって、3階の電気工事に伴う防火および初期消火の責任、延焼拡大防止の責任は、ニチイと共同で負う。多量の煙を7階へ流入させた主な原因は、エレベーター昇降路の施工不良によって生じたと推定される隙間があったこと、空調ダクトの防火ダンパーが不作動だったこと、および2階F階段の横引シャッターが故障していて開放状態だったこと、以上によるものである。それらは民法717条に該当する。また同ビルの共同防火管理体制が全く取られていなかったことにより、火災発見後に保安係員が7階プレイタウンへ何らの通報もせずに放置して、被災者らの早期避難を不可能にした責任[671]

千土地観光(プレイタウン経営者)

プレイタウンは、千日デパートビルの7階で風俗営業をおこなっており、避難階段や避難器具の安全確保を図るべきなのに、唯一安全な避難階段である「B階段」の出入口前にクロークを設置して使用困難な状態に置き、唯一の避難器具である救助袋も長年にわたりメンテナンスを怠り、破損箇所を修理せずに放置していた。また日頃からの避難誘導訓練をおこなわず、火災発生後に同店へ煙が流入してきた際に、煙が蔓延するまで数分間の余裕があったにもかかわらず、被災者らに対する適切な避難誘導を怠り、重大な被害結果を招いた責任[671]

ニチイ(工事発注者、出火元の店舗経営者)

工事発注者としてデパートビル3階の電気工事に立ち会い、工事中の出火防止に努めるべき義務を果たさなかったこと、3階防火区画シャッターラインの真下に陳列台を置いて同シャッター閉鎖を妨げ、また4階へ通じるエスカレーターのカバーシャッターを閉店後に閉鎖せず、火災拡大防止を怠った責任[671]

O電機商会(電気工事請負業者)

千日デパートビル3階の可燃物が多い繊維製品売場において火災発生当夜に電気工事をおこなった際、喫煙場所を定めず、水を入れた容器などを用意して火災発生を未然に防止すべき注意義務に違反して、工事監督が3階売場を不用意に歩きながら喫煙し、火が点いたマッチや煙草を3階出火推定場所に捨てたために繊維製品に引火させ、火災を発生させた重過失ならびに初期消火作業の失敗によって火災拡大を招いた責任[671]

これら被告4社の共同不法行為として被告各社は、連帯して賠償の責任があるとした[671]。損害請求額については、当初は死者一人につき最高6377万円、最低783万円、平均すると一人あたり2600万円とした[673]。一律請求方式を採らず、遺失利益および慰謝料の相続分、固有の慰謝料など従前通常の損害賠償請求方式とした[671]。一律請求にしなかった理由は、本件の被害者全員が有職者であったところ、各人の収入に差が見られたため、その状況で一律請求をおこなうと、認定される額が収入の低い者を基準に算定される恐れがあることを考慮せざるを得ず、実質的な公平という観点を重視したからである[675]

被告4社の主張[編集]

原告側の主張に対し被告各社は、いずれも賠償責任を否定した。O電機商会は出火原因を否定し、大阪地検の工事監督に対する不起訴処分決定を援用した。ニチイは工事による出火を否定し、3階の管理責任はすべて日本ドリーム観光にあると主張した。日本ドリーム観光および千土地観光両社は、出火責任はニチイにあり、独自の管理責任ならびに独自の避難誘導責任の有無について争いつつ、不可抗力論を展開する主張をおこなった[671]

訴訟の主な争点に対する原告側の見解[編集]

本件火災によって甚大な人的被害を出した責任と問題点がどこにあるのか、原告団(遺族会)は法律上の観点から見解を示した。複合用途に供される商業ビルにおいて共同防火管理が欠如していた点、防火管理責任の所在の曖昧さ、ビル滞在者に対する安全確保と避難誘導の意識欠如、デパートビルの設備について保守点検を怠っていたことなどを指摘し、被告各社の責任を追及した[676]。原告の見解の要約を以下に引用する。

複合用途ビルにおける共同防火管理体制の欠如
本件ビルは、複合用途の建物であり、複数の管理権原者が売場を管理している。日本ドリーム観光は地下1階から6階までを、ニチイは3階および4階を、千土地観光は7階をそれぞれ別個に防火管理者を選任して防火管理にあたっていた。したがって、消防法令で規定されている共同防火管理体制を取ることが義務付けられている。ところが本件ビルは、その体制が取られていなかったために火災発生や火災状況などが7階プレイタウンに伝達されず、適切かつ迅速な避難誘導がなされなかったことで多数の犠牲者を出すに至っている。その意味で共同防火管理体制が欠如していたことは、防災義務を怠った法令違反として被告人らの懈怠(過失)を為すものといえる[674]
遺族会原告団代理人、ジュリスト1976(609)
管理責任の所在
本件ビルは、建物全体を一つのテナントが賃借して使用する場合とは異なり、売り場を細分化して多くのテナントに賃借して営業しており、日本ドリーム観光は、ビルの所有者として同ビルを防災上の観点から全体を統一的に管理する義務がある。しかしながら、各テナントにおいても防災義務があることは否定されず、売り場の使用形態からして独自の防災義務が発生するとみるべきである。ニチイの場合、3階および4階のフロア2つ分をほぼ独占的に賃借して営業していたのであり、同ビルの外に看板を設置していることからも営業形態は同ビルの中では独立的かつ中心的である。また同社は営業時間中に独自の保安員を置き、閉店後においては23時まではデパート管理部に届け出なしで残業をおこなうことが認められていた[674]。同社が賃借する各フロアに面した階段やエスカレーターの防火シャッターなどを閉店時に閉鎖することも同管理部から任されていたのであり、ニチイにも保安管理義務があったと解釈できる[676]。このことによりニチイにおいても、自社の売場に対して独自の防災義務が発生するといわなければならず、したがって第三者に対する関係においては、被告両社の防災義務は競合する[456]
遺族会原告団代理人、ジュリスト1976(609)

この争点は、日本ドリーム観光とニチイの間で主張が対立した[674]

自衛論および不可抗力について
日本ドリーム観光と千土地観光が主張するところによると、両社には火災発生そのものについては責任がなく、7階プレイタウン滞在者らに対する避難誘導の義務は元々なく、もし仮にその義務があったとしても、客に対する義務があるのみで、従業員は避難誘導の補助履行者であるからその対象ではないという。しかしながら、プレイタウンは高層ビルの7階最上階で風俗店を経営しているのであり、同店に在店する者全員について安全確保義務があるのは当然である。また火災発生と被害発生とを同一視している点で主張が誤っているといえる。すなわち被害の拡大は、新たな要因が加わって起こっているのであり、火災発生の責任とは別の次元で考えるべきである。したがって火災発生の責任が無いからといって被害拡大の要因を作り出した者らの責任が阻却されることはない。従業員に対しては避難誘導義務はないと主張する点についても、日常的な防火管理体制における労働者の安全確保義務という観点を欠落させていることから、そのような主張は非難を免れない[456]
右被告両社は、本件においては煙の回りが非常に早く、有効な避難誘導をおこなう時間的な余裕がなかったとして不可抗力論を主張した。元々、火災発生によって避難する場合は、迅速に行動することが要求されるのであって、そのために日常的に十分な防火管理体制が要求される。本件のような煙によって被害が拡大した火災の場合、日頃から建物の構造を把握し、管理上の問題点を洗い出して、万が一の火災に備えた措置を講じておくべきであった。ところが本件においては、日常的な防災および避難誘導体制が全く欠落していたために甚大な被害が発生したものであるから、十分な体制が取られていれば、避難誘導に対する時間的余裕は当然あったと考えられる。またプレイタウン支配人やリーダー格の従業員などの店内構造を熟知していた者は、その多くが避難に成功して助かっているが、その反面、客やホステスあるいはアルバイト従業員などの店内に詳しくない者は、死亡率が高いことを考えると、不可抗力論は成り立たない[456]
遺族会原告団代理人、ジュリスト1976(609)
失火責任法および民法第717条の適用について
日本ドリーム観光および千土地観光は、失火責任法の適用があると主張した。しかしながら同法は、火災を発生させた者の責任を規定した法律であり、右両被告は防火管理業務を怠ったことによって火災を発生させ、被害を拡大させたことによる責任を追及されているのであるから、同法の適用はあり得ない[456]
遺族会原告団代理人、ジュリスト1976(609)

原告側は、本件火災によって発生した多量の煙が7階プレイタウンに流入し被害を拡大させた主要因について、エレベーターシャフトに欠損部分があったこと、空調ダクト内の防火ダンパーが作動しなかったことなどが挙げられることから、民法第717条による被告の責任を追及した[456]

刑事訴訟およびテナント訴訟への影響[編集]

本件火災の刑事訴訟において、千日デパートビルおよびプレイタウンの防火管理責任者ら計4名が起訴されたが、出火責任よりも管理責任に対して公判が付されたことは、当時としては極めてまれなことであり、本件訴訟にも影響があったと考えられた。一方、テナント訴訟において中間判決が出され、被告となっていた日本ドリーム観光に対して「保安管理契約不履行に基づく責任がある」と認められた。工事立会いおよび防火区画シャッター閉鎖の義務が同社にあり、それをニチイが履行すべきであったとしても、ビル所有者である被告同社がそれを放置していたことは指揮監督上の違反がある、と判断された点は、本件訴訟の判断にも大きな影響があったと考えられた[671]

和解[編集]

本件統一訴訟は、1975年(昭和50年)10月31日の口頭弁論ですべての証拠調べが終了した。同年8月に大阪地裁より当事者双方に和解の打診があり、同年9月以降、裁判と並行して交渉が重ねられた結果、同年12月26日に原告被告双方が合意に達し、和解が成立するに至った[671]

和解内容は以下のとおりである[677][674]

  1. 損害額の総額は、91遺族で18億5,000万円とし、その額から既払金を差し引いた残額を被告は支払う。
  2. 右損害額の被告間の負担は、ニチイ「4」、千土地観光ならびに日本ドリーム観光「6」の割合とする[注釈 68]
  3. 1および2の支払金につき、ニチイについては同年12月27日までに全額を、千土地観光ならびに日本ドリーム観光は、その一部を右同日に、残額を1976年(昭和51年)9月末日までに支払う。
  4. 原告は、その余の請求を放棄し、被告ら相互間でも、本件について互いに求償しない。

原告側が和解に応じた理由は、すでに火災事故から3年余りが経過し(1975年)、遺族の窮状からすれば迅速な救済を実現することが必要であったこと、提示された和解額は、1遺族当たり平均2,040万円弱で、当初の請求額(総額約27億6千万円、平均2,600万円)からすればかなり低い額であったが、被告側からの当初回答額1,000万円からすれば相当な前進であること、判決文または和解条項において、責任問題については触れられなかったが、実質的には被告各社にその責任を認めさせたことなどを評価した結果によるものである[674]

テナント訴訟[編集]

千日デパートに入店していたテナントによる損害賠償請求訴訟は、テナント団体「松和会(しょうわかい)」が日本ドリーム観光に対して、火災被害による損害賠償と賃借権補償を求めて争われた訴訟が最も代表的である[678]。当初大きな争点となったのは、被告(日本ドリーム観光)には各テナントに対して保安管理契約が存在するのか、原告が被った損害について債務不履行に基づく責任があるのか、以上の2点であった[679]。「中間判決」で被告に対して保安管理契約の存在と債務不履行の責任が認められたことにより、各方面で争われていた民事訴訟が大きく進展するきっかけとなった[680]。中間判決後の争点は、具体的な補償額と範囲の決定に移っていったが、もっとも激しく争われたのはデパートビルの営業再開に際して、建物を補修して再利用するのか、それとも取り壊して新しく建て直すのか、この点について原告(松和会)と被告の間で主張が対立した点だった[681]。また被告がデパートビルを建て替える根拠として主張した「建物の物理的滅失および経済的滅失、それに伴うテナントの賃貸借権喪失」についても双方の間で、その存在の有無が争われた[681]。最終的には原告側がビルの建て替えを認め、被告側は原告の賃借権を保証し即決和解が成立した[682]。その後、終局判決で補償額と範囲が確定し最終覚書が締結され、松和会は訴え取り下げ、訴訟は終結した[683]。訴訟提起から15年9か月、火災発生からは17年2か月が経過していた[55]。以下に訴訟の経緯をまとめた。

テナント団体「松和会」は、千日デパート創業時に94業者で結成された[684]。設立の目的はテナントの権利についてデパート側と交渉し、店主同士の親睦を図るためだった[685]。本件訴訟を提起した時点で36業者が加盟していた[686]。団体名称の由来は「デパート側と和する」という意味合いで「和」一文字用い、日本ドリーム観光社長の「松尾國三」氏の「松」とを合わせて団体名とした[687]

仮処分申請までの経緯[編集]

千日デパートは火災発生翌日の14日から全館で休業状態になった[73]。同デパートの罹災した各テナントは、早期の営業再開を実現するために同日「千日デパート罹災業者復興対策委員会(以下「復興対策委員会」と記す)」を結成し、営業再開に向けた準備のために役所や金融機関を回って陳情した[688]。15日の復興対策委員会総会に千日デパートの経営会社である日本ドリーム観光常務取締役を兼務するデパート店長が出席し「デパートビルの復興に全力で取り組み、一日でも早い営業再開を目指す」という意向を表明した[689]。しかし、それからわずか5日後の総会でデパート店長は態度を一変させた。それは火災発生の責任が自社に及ぶことを警戒し始めたからだった。復興対策委員会との交渉において同社は「テナントが火災を起こしたのだから我々こそが被害者である」と主張した[690]。また失火元のニチイ千日前店店長も総会に出席して挨拶したが「火災は工事業者の失火である」ことを強調し、自社の責任を否定した[689]

復興対策委員会は、早期営業再開の度重なる要望を日本ドリーム観光に対しておこなった。しかし同社は、当初表明していた早期営業再開の方針を大きく変えようとしていた[691]。6月下旬、デパートの営業再開に向けて関係省庁などに陳情する復興対策委員会の行動を知った社長の松尾國三氏は「そのような行動があるならデパートの営業再開はしない」と方針を一変させたことをデパート店長が委員会メンバーに告げた。その通告に対して一部の復興対策委員会メンバーは反発し、デパート店長を自宅近くで待ち伏せし、日本刀を片手に店長を脅して拉致した。そして委員会本部で8時間にわたり監禁状態にして営業再開を迫った[692]。この事件で逮捕者が出たことをきっかけに、日本ドリーム観光側の態度が硬化し、復興対策委員会内部の足並みが乱れ始めた[693]

店長監禁事件後の7月中旬に日本ドリーム観光は、罹災テナントに対して話し合いで解決したい旨を申し入れてきた。社長との会談をおこなうにあたり、同社はテナント側の出席者を一方的に指名した[694]。復興対策委員会メンバーは、いくつものテナント団体が集結して結成されていたが、指名されたのは主要な各団体の代表者1名だけだった。ところが「店長監禁事件」を起こしたメンバーが所属するテナント団体と復興対策委員会は指名されなかった。これに激怒した復興対策委員会側は、各テナント団体を解散させ、監禁事件を起こしたメンバーが率いる団体へ一本化するために各会員らを強制加入させようとした[695]。テナント団体の一つである「松和会(しょうわかい)」は解散要求に応じず、テナント団体同士の対立は決定的となった[696]。松和会は、再三にわたる解散要求を突きつけられたことから、この出来事を機に復興対策委員会を正式に脱退し、独自に日本ドリーム観光と交渉することになった[697]

営業再開の交渉が進展しない中で復興対策委員会は、争点を法廷に持ち込む構えを見せはじめた。一方、松和会はあくまでも話し合いによる解決を模索した[698]。火災発生から5か月経った10月下旬、日本ドリーム観光から各テナントの経営者に対して一通の内容証明郵便が送られてきた[699]。その内容を要約すると、おおよそ以下のようなことが書かれていた。

(要約)大阪市建設局の指示に従って千日デパートビルの体力診断を「建設省建築研究所」に依頼したところ、火災の影響によって建物の耐用年数が非常に短縮されたという結果が出た。同ビルを改修または補強するなどして再使用するとなれば、新築するのに等しい工期と資金を要するにもかかわらず、経営面からみれば売場減少による収益の悪化は避けられず、莫大な資本を投下しても資金を回収することは明らかに不可能であり、したがって同ビルは物理的または経済的に滅失したと判断できる。よって同ビルを新しく建て替えることになったので、従来の各テナントの賃貸借契約は火災当日で終了した。契約が終了したので入店時に与った保証金と振興協力金は清算したうえで各テナントに返却する。新ビルが落成した際には、保証金と振興協力金持参で入店申込できる。ただし、建物の設計ができていないので場所や坪数、新賃貸条件をまだ明示できない。このような事態になったのは第三者による重失火の結果である[700]
日本ドリーム観光株式会社 取締役社長 松尾國三、現場に神宿る2006

被災テナントは、突然の一方的な通知によって千日デパートビルの賃借権を失い、早期営業再開の望みが絶たれてしまった[701]

1972年11月15日、デパートビル建て替え計画による賃借権喪失の事態を受けて、旧復興対策委員会の一部テナント団体が日本ドリーム観光を相手取って賃借権確認の訴訟を起こした[702]。一方松和会は、弁護士の中坊公平によって内容証明郵便に対する回答文を作成し、差出人を松和会会員の各個人名にして日本ドリーム観光に返信した[703]。以後、日本ドリーム観光と交渉するにあたり、中坊弁護士が松和会の代理人を務めることになった[704]

松和会は、社長の松尾氏と直接交渉する際、いくつかの要求を提示した[705]

  1. 新ビル建設の場合は、松和会会員に賃借権を保証すること。
  2. 新ビル入店後の賃料は他店と同額で良いが、休業損害分を家賃から控除し、その割合を話し合うこと。
  3. 商品などの損害を即時弁償すること。

しかし日本ドリーム観光側は、保安管理契約の存在および保安管理責任の不履行と損害賠償責任について認めようとせず、交渉は進展しなかった[663]。松和会側が右同社の求めに応じて管理責任の根拠を具体的に示したところ、同社常務取締役のデパート店長は交渉を中断して席を立ってしまい、交渉は決裂した。それ以降、同社の態度は更に硬化した[48]。日本ドリーム観光は何度か和解案を提案してきたものの、松和会側としては、自分たちの要求を無視するかのような内容で到底応じることができないものだった[706]。この頃、日本ドリーム観光に対しては、復興対策委員会の一部会員が提起した賃借権確認訴訟のほかに、ニチイが起こした賃借権妨害予防に関する仮処分申請が出されていた。これに対し、同社はニチイに損害賠償訴訟を提訴した。また火災被害者遺族が日本ドリーム観光を含む4社を相手取って損害賠償訴訟を提起していた[48]

松和会は、本件火災によって店舗が被災し、営業再開の目途が立たない状態で交渉が長引けば、収入も無くなり各会員の生活が困窮するのは明らかであったため、中坊弁護士を団長とする6名の弁護士で構成される弁護団を結成した[707]。そこで松和会は、和解交渉を有利にする切り札として1973年6月1日、日本ドリーム観光に対して会員1人当たり毎月10万円の生活費の支払を要求する仮処分申請を大阪地裁におこなった。毎月合計約360万円の支払い要求だった[708]。ところが仮処分申請は緊急性がないと判断されて認められず、弁護団は同年9月14日に申請を取り下げた。松和会各会員の窮状を救う目的での申請だったが、一部の会員は千日デパート以外の店舗でも営業活動を続けており、そちらの収益があるだろう、と裁判所に判断された結果だった[709]

損害賠償訴訟提起[編集]

松和会と日本ドリーム観光との交渉は一向に進まず、同社の態度が変わる様子もなかった。松和会としては仮処分申請を取り下げざるを得なくなったとなれば、あとは訴訟を起こすしか解決策は残されていなかった。1973年10月11日、松和会会員35名(以下、原告と記す)は、日本ドリーム観光(以下、被告と記す)に対して火災によって被った物損額および弁護士費用の合計2億2,832万5,026円を請求する損害賠償請求訴訟を大阪地裁に提起した[710]

本件訴訟本来の目的は、賃借権の保障と損害賠償請求であったが、とりあえず被告の責任を明確化することに主眼が置かれた[711]。本件訴訟は失火元(ニチイ)に対する訴訟ではなく、被告が自らの責任を否定して「我々こそが火災被害者である」と主張していることに加え、各テナントに対して保安管理契約が存在しないと主張しており、さらには資本金76億円の大手企業相手の訴訟であることなど、原告が勝訴するには厳しい裁判になると予測されたことから、勝てる見込みがあるところから攻める方策がとられた。そのために賠償額と補償範囲の請求を最小限に留めていた。被告と各テナントの間で交わされている賃貸借契約には、商品や店舗に対する保安管理義務を具体的な文言で記した条文や条項は無かった。それを根拠に被告同社は責任を一切認めようとしなかったので、原告は状況証拠を積み上げて被告の原告に対する保安管理契約の存在および保安管理義務と責任の不履行があることを証明しようとした[712]

公判において原告が示した被告の保安管理契約が存在する根拠は以下のとおりである[713][714]

  • 被告は、千日デパートビル内の保安管理業務を被告人らがおこなう前提で各テナントの夜間宿直を禁止していた(店内規定10条四項)。
  • 各テナントは、賃料とは別に毎月「付加使用料」名目の「共同管理費(以下、管理費と記す)」を支払っており、その一部は保安係員の給与に充当されていた。
  • 原告が被告に支払っている管理費は、保安管理業務をおこなうための対価であり、その額は一坪当たり月額2,500円で高額だった。
  • 被告は、保安係長を人員整理しようとして松和会が反対した際に、千日デパート管理会社社長が「商品などの保安面は自分が監督し、何か起きた時は会社が責任を持つ」と発言したことがある。
  • 被告は、店内の夜間工事に際して保安係員を終始立ち会わせ、保安管理業務をおこなわせると約したうえで、1972年3月に人件費高騰を理由に管理費の値上げを各テナントと交渉していた。
  • 管理費の値上げ交渉をした際に被告が示した保安係員の職務規定には「火災等に対する保安上の予防ならびに監視に関する業務」「店内諸工事に対する立会い、ならびに監督業務」と明記されている。
  • デパート閉店後の深夜、デパートビル内に泥棒が入ってテナントの商品が盗難された際に被告は保険で補填された分を差し引いた金額を賃借人に弁償したことがある。
  • 賃貸借契約書には「被告の責任によらない事故等でテナントが被った損害は、その責を負わない」と書かれているが、被告の説明では「契約書に書かれているとおりである。管理上の不手際があり、会社に責任がある場合は全責任を負う」と発言している。
  • ビル管理に不安を感じた各テナントは、管理組合を作って自主的に管理したいと被告に提案したところ、「管理は我社が責任をもってやる」「テナントの行為は奪権行為だ」などと発言し、提案は受け入れられなかった。

また原告が示した「被告には保安管理契約に基づく債務不履行の責任があった」ことの根拠は以下のとおりである[715]

  • 被告には、テナントがおこなう店内工事に際して工事届を提出させ、保安係員が工事業者の出入りを確認する義務がある。ところが火災当日において工事届は提出されておらず、その状況で工事人らを漫然とビル内に入館させ、工事を施工させた。被告は保安係員の閉店時の巡回の際に3階で未届の工事作業を現認しながら、それを中止させる措置を取らず、工事人らの入館確認(氏名、人員等)も怠った。
  • 被告は、防犯防火の保安管理のために保安係員を夜間店内工事に立ち会わせ、工事人らの工事業務を監督すべき業務を負担しているが、火災当日の工事に保安係員を立ち会わせず、工事人らに対する監督業務を尽くさなかった。
  • 被告は、万が一に火災が発生した場合には損害を最小限に抑えるために原告の財産を保全するため、保安係員および工事業者に火災の通報や消火活動に関する教育をおこなう義務を負担しているが、被告は工事人らに防火教育を尽くさなかったことにより火災を初期段階で消火できなかった。
  • 被告は、保安管理業務を遂行するにあたり、一定数以上の保安係員を常に確保する責務を負っているが、当初は8名の人員で夜間業務をおこなっていたところ、被告は原告の承諾も得ずに6名まで人員を削減した。火災当夜においては4名の保安係員で夜間業務をおこなっていたにもかかわらず、欠員の補充を怠った。このため工事の立会いや監督を為し得ず、火災発生に際して初期消火や延焼防止等の十分な保安業務を遂行できなかった。

公判において被告は、原告側の主張に対して以下の答弁をおこなった[716]

  • 以下については、いずれも認める。
    • 火災の発生状況と発生原因について。
    • テナントに夜間宿直を認めなかったこと。
    • テナントが被った盗難被害の損害金の一部を補填したこと。
    • 一坪当たり月2,500円の管理費を各テナントから徴収していたこと。
    • 管理費に保安係員の人件費が含まれていて人件費と管理費との間には対価関係があること。
    • 千日デパートビルにおいて原告が被告から各階の床部分を区分して店舗営業用として賃借していた実態と状況は、坪数と金額を除いて認める。
  • 以下については認めない。
    • 上記について、それらが原告と被告間の保安管理契約に基づくものであるとの主張は認めず、全面的に争う。
    • 保安管理契約については、それを締結したことは否認する。ただし1963年(昭和38年)7月に千日デパート管理会社から日本ドリーム観光が業務を引き継いだことは認める。
  • デパート保安係員は、被告が独自におこなう千日デパートビル全体の維持管理、運営の一環として夜間当直をおこなってビルを警備していたものである。したがって原告と被告の間に有償の保安管理契約があったことにはならない。管理費と保安係員の人件費との対価関係においても、各店舗部分を管理する義務および本件火災の結果責任を問うような管理義務が被告に存在するものではない。
  • 原告に対する債務不履行があったことを否認する。ニチイの工事に際して工事監督から被告に対して事前に工事願いが提出されており、火災当日においては保安係員が工事人らの出入りを確認している。本件火災は被告にとっては不可抗力であり、その損害の責任はニチイが負うべきであるから被告に賠償責任はない。
  • 原告が被った損害について、火災による焼損および冠水があったこと、原告と被告間に商品や什器備品などの損害についての折衝があったことは認める。しかしながら、被告が損害賠償に応じなかったことから原告が訴訟代理人に委任して本訴を提起し、弁護士報酬の支払いが発生し原告らが損害を被った事実は被告としては不知であり、損害賠償金の支払いについては争う。

以上のように保安管理契約の存在と債務不履行による責任の有無に関する原告と被告との見解は真っ向から対立した。本件訴訟についてはビル所有者とテナント間の賃貸借契約に関する法律的な解釈の先例が乏しく、ビルの管理責任に関する裁判も分野的に新しい案件であることから難しい訴訟となった。文言による契約が存在しないことは原告側には圧倒的に不利であり、仮に保安管理契約が存在すると認められたとしても、その契約を日本ドリーム観光が履行しなかったことにより火災が発生し被害が拡大したことを証明できなければ、右被告同社の責任を問えなくなる可能性があると考えられた。失火の責任は工事をおこなったニチイにあるが、工事に立ち会う責任と義務は保安管理契約があるとすれば、それは被告にあると考えられるところだが、それが実際に履行されたのかどうかなど、訴訟に勝つために証明されなければならないことは多かった[717]。1974年(昭和49年)の年末、被告の証人尋問がおこなわれた直後に裁判長から突然の「結審」が宣言され、次回の公判で判決が下されることになった。これは民事訴訟法第184条(現245条)の規定による中間判決であると解釈された。ただし原告が勝訴すれば「中間判決」となるが、敗訴した場合は「終局判決」となり、原告の訴えは棄却されて裁判はそこで終わるのであるから、どのような判決が下されるのか次回の公判が注目された[718]

中間判決[編集]

1975年(昭和50年)3月31日、大阪地方裁判所第20民事部で判決が言い渡された。主文は「本訴請求につき、被告に保安管理契約の債務不履行に基づく責任がある」とされ、被告の日本ドリーム観光には、千日デパートの各テナントとの間に保安管理契約が締結されていたこと、保安管理契約に基づく債務不履行の責任があったことを認めた。つまり判決は「中間判決」であった[719][720]

まず大阪地裁は、保安管理契約の存否について証拠に基づき検討した。

  • 以下の点については当事者間に争いがない[721]
    • 原告が被告から店舗用床部分を賃借していること。
    • 被告が千日デパートビルの保安管理業務をおこなっていたこと。
    • 被告の保安係員は夜間に原告らの賃借部分を含むデパートビル内の警備をおこない宿直していたこと。
    • 被告は原告から一坪当たり月額2,500円の管理費を徴収していたこと。
    • 管理費の一部は保安係員の給与に充当されていたこと。
    • 夜間の警備をおこなう保安係員と管理費との間には対価関係があること。
    • 被告は閉店後の夜間にデパートビル内で盗難があった際、テナントの損害の一部を金銭で支払い補填したこと。
  • 原告と被告との間で交わされている賃貸借契約書では、被告は建物管理上において緊急の必要性がある場合は原告らの承諾なしに賃借部分に立ち入り、必要な措置を講じることができる(店内規定7条)とされていて、原告は被告の書面による承諾が無ければ設備の変更をおこなってはならず、また賃借部分に居住または宿泊してはならず(店内規定8条)、館内規定を遵守するよう定められていたこと(店内規定2条)が認められる。またそれは千日デパート開店から本件火災に至るまで許容された例がないことも認められる。夜間においては被告の保安係員が宿直をおこなっていたことは当事者間に争いが無く、賃貸借契約書の約定に対応していると推認され、原告らの夜間宿直を禁止していることは、すなわち原告らの賃借部分の夜間管理に被告が責任を約していると解釈できる[721]
  • 被告は、管理費の支払いがあるからといって原告に対する保安管理契約があることにはならないと主張する。しかし、賃貸借契約上において賃貸人(被告)は賃借人(原告)に対してビルの収益を図れるように建物を維持管理しなければならないが、その点からも維持管理費は一般的には必要経費として賃料に含めることができる。賃料に計上される必要諸経費は、ビルの賃貸借を継続するための諸経費であると解釈できるから、その中の「保全管理費(ビルの維持)」「衛生管理費(清掃)」「機能管理費(電気給排水、設備維持など)」「保安管理費(防災防犯警備)」のうち、「保全管理費」は賃貸借を継続するための必要経費だから賃料に組み入れられるが、「衛生、機能、保安」の各管理費はテナントに対するサービス的な意味合いがあり、通常の必要経費であるとは考えられない。それを賃料とは別に管理費として各テナントから毎月徴収しているということは、賃貸借契約とは別の管理契約または賃貸借契約に付随する保安管理契約があると推認できる[722]
  • 管理費は、ビルの持つ機能を適切に発揮させるために必要な経費であるから、賃料に組み入れて徴収することもできる。そうであれば管理契約を独立して認める必要はなくなる。そのように考えれば本件においては、ビルの適切な機能を発揮する内容の一つとして賃貸借契約の債務不履行という構成が成り立つ[370]
  • 保安係員の人件費と原告が支払う管理費との間には対価関係があり、被告が保安係員の職務内容について被告が自己の事業遂行に必要なものとしてその職責を定めているのは当然であるが、同時に共同管理費を支出している賃借人らとの関係においても、防犯防火等の関連においては、少なくとも保安管理に関する契約に基づく債務の履行として職責を定めていると推認できる。したがって保安管理契約が存在したと推認できる[370]
  • 千日デパートは売場が開放型のショッピングセンターであるから、夜間の店内工事に際しては厳格な保安管理が必要とされる。原告ら賃借人は被告との間でデパート開店当初から保安管理に関する交渉を重ね、夜間の保安管理体制に万全を期し、残業および店内工事については許可制を取り、工事には保安係員を立ち会わせることを約していた。1965年(昭和40年)ころまでは密度の高い保安管理が為されていて、夜間工事には保安係員が工事現場に常駐していた。そのために原告らは坪当たり月2,500円の管理費を支払っていて、被告は火災当日に至るまでの間、管理費の値上げ交渉を3度にわたり原告らとおこなっていた。以上の事実は保安管理契約が存在したことを推測できる事情の一つである[370]
  • 閉店後の夜間にデパート内で発生した盗難によってテナントが被害を受けた際に、被告がその損害を金銭で補填した件に関して、その補填は被告の保安係員がデパートビルの保安管理をおこなっている前提で為されたものであり、被告独自のものばかりではなく原告らのための保安管理でもあると推論される。したがって保安管理契約があると推認できる[370]

以上の検討結果により、原告と被告との間には保安管理契約が存在すると認められた。その判断理由を大阪地裁の判決文を要約して以下に記す。

原告と被告の間に保安管理契約があると認められる理由
被告がおこなっている千日デパートビルの保安管理は、被告が独自に自己の建物を管理しているだけではなく、被告は賃借人らの夜間の居住と管理を禁じ、その代わりに原告らに対して夜間の安全管理を約し、保安係員を宿直させて賃借人のために保安管理をすべく、そのため高額の費用を徴収しているのであるから、賃貸借契約と同時に、少なくともこれに付随して被告は原告との間にその主張の保安管理契約を締結したものと認めるのが相当である[80]
大阪地方裁判所第20民事部、判例時報1975(779)
被告が賃借人らに保安上負担すべき責務について
保安係員がおこなう夜間の店内工事の立会いおよび監督は、被告が独自の立場でその保安係員を定時に巡回させ警備する程度のものではなく、賃借人との間で結んだ保安管理契約に基づき、防犯防火の目的を達しうる程度に常駐して立会い、その責任を果たすべきであり、被告が当該店内工事をおこなう賃借人に対して負担する責務であるにとどまらず、他の賃借人らに対しても損害を加えられることを阻止すべきであって、その意味では当該店内工事をおこなう賃借人以外の賃借人に対して保安上負担する責務であると認めるのが相当である[80]
大阪地方裁判所第20民事部、判例時報1975(779)


次に大阪地裁は、原告が主張する「被告の保安管理契約に基づく債務不履行による責任」について、以下の検討を加えた。


  • 工事届出書と工事人の出入店確認について[194]

ニチイがおこなった火災当日の店内工事において、ニチイから被告に「工事届出書」が提出されていなかったが、工事届出の趣旨は手続き上の確認と保安管理上の対策のためであるから、届出書類の未提出という手続きの違反があっても工事監督から事前に「入店願い」と題する書類が被告に提出されている以上、そのことを以って本件火災との間に因果関係があるとはいえない。また工事人の出入店確認については、保安係員の入店確認に甘さがあったことは窺われるが、工事監督の泥酔状態を入店すべき者ではないとして拒否すべきとの資料も無いことから、入店確認の甘さが直接的に本件火災に関係したとはいえない。


  • 夜間工事の立会および監督業務について[723]

被告は原告らとの間の保安管理契約に基づき保安係員を工事に立ち会わせ、保安上において工事人を監督すべき義務がある。その義務は単に巡回時に注意すれば足りるものではなく、常駐の立会い義務であり、その内容は具体的事情に応じて適切な対策を講じるものである。本件火災においてはニチイの店内工事に保安係員を立ち会わせていなかったのは明らかであるが、もしも保安係員が火災当日の工事に立ち会いをしていれば、工事人の喫煙について管理可能であったと認められる。またそのことにより、工事人よりも早く火災を発見することができ、十分な消火知識を持った保安係員が初期消火をおこなえた可能性が高く、大きな惨事に至らなかった蓋然性が濃い。被告は賃借人がおこなう工事には賃借人自らが立ち会うべきだと主張するが、賃借人がおこなう当該工事の立会いは、工事が計画通りに施工されているかなどの進捗状況の確認をすることに主眼が置かれるから、自己の利益のための任意的性質が強く、たとえ賃借人に工事立会い義務があるとしても、それは他の賃借人に対する義務ではない。本件では賃借人の工事立会いは、被告または他の賃借人に対する義務の履行であると認めるべき証拠がない。


  • 被告とニチイの特約について[381]

ニチイ千日前店は千日デパートのキーテナントであり、同デパートの一賃借人としては賃借面積および賃料、資金が他の賃借人と比べて巨大であり、その地位は特別なもので様々な特約を被告と結んでいた。例えば残業は届け出なしに23時までおこなうことができ、営業中は独自の保安係員を配置できた。残業終了後には自社の売場である3階ないし4階の出入口や防火シャッターの閉鎖、消灯、機器類の電源を落とし、店内の居残り確認をしたあと、扉を施錠して被告の保安係員に引き継いでいた。また独自の自衛消防組織を編成して消防訓練を実施さえしていて、ニチイ独自の冷暖房強化工事に際して被告と他の賃借人に損害が出た場合の特約を結んだこともあった。その状況下で火災当日においてニチイは店内工事に立ち会わず、閉店後に閉鎖すべき防火シャッターを閉鎖せず(3階E階段と4階エスカレーター)、そのことを被告に引き継がなかった。また工事の立会は工事監督に委ねれば十分であると考えた。これらのことは被告との間の特約に基づく保安業務の遂行に落ち度があったと認めることができる。しかしながらニチイの特約違反があったとしても被告の債務不履行の責任が否定されるものではない。被告がニチイに3階ないし4階の保安管理をさせていることは、原告らに対する保安管理契約の債務履行につき履行代行者を選任したことにほかならない。1階ないし3階にはエスカレーターにカバーシャッターが設置されておらず、3階にはニチイ以外に他の賃借人が店舗を構えており、ニチイが3階を独占的に賃借しているとはいえず、その状況において被告が直接保安業務に当たらないことを原告らが承認していた事例もある。ニチイの特約に基づく被告の履行代行者としての選任は、原告らに対して債務不履行になるのではなく、ニチイがその責任を果たしたか、被告がニチイに対してどのような指揮監督をしたかの問題である。
ニチイは夜間店内工事に際して自社で立会いをおこなわなかったが、被告はそのことについて何らの監督指導しなかった。ニチイは工事の立会は工事監督に一任すれば十分だと考えた。しかしこれは原告らとの保安管理上の責務の履行について許容されている限度内とは解釈できない。工事発注者と工事請負者は、工事の施工や進捗について利害が対立し、請負者は発注者から監督監視されるのであり、保安管理責務の履行につき当事者またはこれに準ずる者として立会いが許容される範囲にあるとはいえない。したがって工事に立ち会う責務の履行において火災当夜の工事監督をニチイおよび被告の適法な履行代行者と見做すことはでいない。工事監督は単なる履行補助者に過ぎず、工事監督の不始末は被告の不始末であり、結局は被告がニチイに対する監督指導を怠り、適切な工事立会い者を置かなかったことに帰すると考えられる。


  • 防火教育について[724]

ビル内の工事をおこなう作業者に消火器取扱いなどの防火教育をおこなうのは必要なことである。本件において被告が工事人らに防火教育を怠ったことは防火管理上の措置を欠いたといえるが、仮に防火教育を尽くしていたとしても防火義務のない者に火災を消火し得たと断定することはできない。したがって防火教育を欠いたことに関しては、原告の損害についての債務不履行に基づく責任があったとはいえない。また保安係員の消火活動においては防火区画シャッターの閉鎖、消火器や消火栓の使用による消火作業は欠くことのできない行動であるが、保安係員が火災発生直後に3階へ駆けつけた時には既に初期消火をおこなえる状態ではなく、防火教育の不十分さがあったとしても原告主張のような損害に対する債務不履行の責任があったとはいえない。


  • 防火区画シャッターの閉鎖について[382]

デパートビルの1階ないし3階のエスカレーターには防火カバーシャッターが設置されていなかったことから、階段周りのシャッターや鉄扉を閉鎖するだけでは各階の店舗を遮断し得ない状況だった。各階店舗を防火区画シャッターで遮断できてこそ保安管理業務の万全が期されるのであるから、被告は閉店時に同シャッターを閉鎖するか、火災発生時などに直ちに閉鎖できるようにするべきで、火災による被害を最小限に防止する義務があると認められる。被告がそれらの義務を尽くしていれば本件火災においては延焼防止が図られ、また工事監督のタバコの火が火災発生場所で発火する可能性はあり得なかったことになり、結果が回避されたことは明らかである。仮に3階の防火区画シャッターを工事中に閉鎖できなかったとしても、2階の防火区画シャッターを閉鎖するようにしておけば、2階の焼損はエスカレーター周辺の防火区画内に収まったはずで、5階ないし6階のエスカレーター防火カバーシャッターが閉鎖されていたことを考えれば、売場内の防火区画シャッターの閉鎖は労力や経費を要するものとは考えられない。被告は階段周りのシャッターのみを閉鎖すれば事足りると考え、1階ないし3階の防火区画シャッターを閉鎖しなかったのであるから債務不履行の責任を免れない。ニチイが特約に基づき防火シャッター閉鎖を実行しなかったとしても、結局は被告がニチイに対する指揮監督違反を犯した結果であるから、被告は防火区画シャッタを閉鎖しなかった責任を免れない。


  • 保安係員の人員について[383]

被告は原告らに対して夜間は保安係員を最低8名確保することを約していたが、本件火災当日においては実働4名で保安管理にあたらせており、欠員の補充もおこなわれなかったことから、工事立会いや防火区画シャッター閉鎖などを完全に履行するには人員不足の感があるのは確かである。しかしながら仮に被告が火災当夜に8名の保安係員を勤務させていたとしても、被告が主張するところによれば「工事の立会はニチイがすべきで、防火区画シャッターの閉鎖は閉店時には閉鎖する必要がなく、火災時に閉鎖すれば足りる」と考えていたのであるから、人員が十分に確保されていたとしても、それらを実行しなかったであろうことには変わりがないと推測できる。したがって被告が保安係員を十分に確保しなかったことが本件火災の予防と防火に直接的な因果関係があるとはいえない。本件火災を覚知した直後に当直の保安係員2名が火災現場に駆け付けたが、すでに火勢が拡大して多量の煙と有毒ガスにより消防活動が期待できない状態だったことから、保安係員の人員不足と延焼との間に因果関係があるとは認められない。

被告の抗弁に対して、裁判所は以下の判断を下した。

  • 被告の抗弁に対する判断[380]

被告の保安係員が本件火災を覚知したあとの結果回避(火災の消火および延焼を止めること)は不可能であった。本件火災の原因はニチイの店内工事に携わった工事監督の失火によるものと推測されるのであり、ニチイの店内工事はニチイが発注して工事監督の会社が請け負ったものである。被告はニチイおよび工事施工業者に対して店内工事に関する要望書を手渡して保安上の注意事項を与えて保安管理に注意を払っていた。しかしながら被告の保安管理の目的は、自己の建物を管理することを念頭に置いたものであり、原告ら賃借人の契約上の義務に基づいた管理ではなかった。そのことにより、被告は賃借人の工事に立ち会わず、防火区画シャッターを閉鎖する必要はないと考えた。被告がそれらの義務を果たしていれば本件火災の発生またはその拡大を防止できたことは明らかである。したがって本件火災による損害が被告の責任による事由に基づくものではないという抗弁は採用できない。被告は平素から防火対策上の注意は払っていたが、全般的にみると過去にデパートビル内で問題となるような大きな火災事故が発生しなかったことにより、工事に際しての書類提出や出入り確認の甘さ、シャッター故障の放置(2階)、防火教育の不足、保安係員の人員確保の懈怠など、保安対策全般の軽視と弛みの集積が結果的には工事立会い義務違反や防火区画シャッター閉鎖義務違反の原因になったものである。経営の合理化において保安管理の経費は容易に削減しやすいものであり、通常においては無駄金とも思える。しかしながら人件費等の削減などの合理化は、保安管理を充実させる方策を強化してこそ図られるべきである。被告はそのような方策をおこなったとはいえず、本件火災が被告の責任に帰さない事由によるものとは到底いえない。

結論
原告らの本訴請求は本件火災による損害賠償の責任原因が被告の保安管理上の債務不履行にある点において理由があるからこの点についてまず判決することとし、民事訴訟法184条(現245条)を適用して主文のとおり判決する[725] — 大阪地方裁判所第二〇民事部、判例時報1975(779)

本件の中間判決は、係属中の民事訴訟のなかで最初に示された司法判断であり、各訴訟の結果に大きな影響を与えた[726]。特に遺族が日本ドリーム観光など4社を相手取って提起していた損害賠償請求訴訟において、被告各社の強硬な態度が中間判決後に大きく変化し、和解に応じる姿勢へ改まったことにより、解決が早まったことは大きな成果といえる[671]。また旧復興対策委員会グループの賃借権確認訴訟においても、松和会訴訟の中間判決が大きな影響を与えた。同委員会グループは、松和会の訴訟資料をそのまま裁判所に提出したことにより、中間判決を引き継ぐ形で新たな損害賠償請求訴訟を提起し、わずか3週間で和解に至っている[726]。刑事訴訟においても本件「中間判決」が各判断の下敷きになっており、その方面にも大きな影響を与えている。

中間判決後の争点[編集]

中間判決で原告(松和会)に対する被告(日本ドリーム観光)の賠償責任が認められたことにより、以降の争点は賠償額と補償範囲を具体的に決めることに移っていった。原告は、被告の保安管理契約と債務不履行による責任があったことを明確にするため、損害額と損害範囲を最小に抑えていた。被告の賠償責任が明らかになったことで原告は、賠償額と範囲を大幅に増やし、20億円以上に引き上げた[351]。副資材や慰謝料の請求に加え、会員全店の1か月あたりの休業損害合計3,346万6,801円の支払いも求めることにした。原告弁護団は、すべての松和会会員の損害額を立証するために約1年間を費やした[727]。休業損害を被告に請求した意味は、原告の主張では千日デパートの賃借権は消滅しておらず、営業できなくなって休業損害が出ているのは、被告の責任であるから損害を賠償すべきというものであった[728]。争点の中でも最も激しい攻防になったのは、同デパートの賃借権が存在するのか、消滅したのか、以上の点についてである。被告側は内容証明郵便で展開した「滅失論(ビルが火災によって損傷し、経済的および物理的に失われたという論理)」を持ち出して賃借権消滅と新ビル建設の正当性を主張した[729]

被告が主張する「物理的滅失論」は、「建設省建築研究所」に被告同社がデパートビルの耐力診断を委託した際の結果を基にしていた。被告は1972年7月8日にデパートビルの耐久診断を同研究所に委託し、約2か月半で報告書が提出された[730]。建設省建築研究所作成の「千日デパートビル耐力診断受託試験研究報告書(以下、「建研報告書」と記す)」によると、

(要約)デパートビルは5月13日に発生した火災によって2階から6階までが約800度の火災荷重を受け、鉄骨や鉄筋コンクリートが火害を受けた。建物を再使用する場合には、床スラブや梁、柱のコンクリートをはつり落とし、新たにコンクリートを打ち直す、1階ないし4階に耐震壁を増設する、外壁タイルを貼り変えるなどの補強か補修が必要である。当該ビルの改修は可能だが、建物の主要部分は年数が経っており、コンクリートの中性化や鋼材の発錆が進んでいて、改修しても画期的な効果は期待できない[731]
千日デパートビル耐力診断 受託試験報告書(建研報告書)、現場に神宿る2006

という内容だった。「建設省建築研究所」は国立の研究機関として最高の権威を持っており、その報告書の内容もまた絶対的なものであり、これに異を唱えることは難しいとされた。被告の「滅失論」による新ビルへの建て替えと賃貸借権消滅の主張は「建研報告書」を根拠にしていることから、それを覆さない限り原告に勝ち目はなかった[732]

原告側弁護団は、「建研報告書」の難解で専門的な内容を解読するために独自に担当弁護士が勉強したり、建築専門家の協力を仰いだりした[733]。その中で「コンクリート中性化」の問題が「物理的滅失論」の主要な根拠になっていると判断できたことから、弁護団は1976年(昭和51年)2月16日、「建研報告書のデータは誤りで、記載内容は信用し得ないことを立証する」として、コンクリートの中性化と強度を調べるための現場検証を裁判所に申し出た[734]。そして同年3月16日に裁判官3名、裁判所関係者、原告被告双方の証人、代理人の立会のもと、火災現場で検証実験が実施された[735]。柱の鉄筋を露出させたあとにコンクリートに対してフェノールフタレイン液を塗布して「中性化」を調べたところ「赤色」に変化したことからアルカリ性であることが判明し、コンクリートは酸性化または中性化していないことが確認された。この現場検証により、デパートビルの耐用年数は補修すれば以後160年は使用できると結論が導き出され、建研報告書記載のコンクリート中性化関連のデータに誤りがあることが示された[736]

現場検証を終えた原告は、次に「建研報告書」の信憑性を問うために報告書作成に携わった人物に対して証人尋問を要求した[737]。被告側からの資料提出がおこなわれ、証人申請が出されたところで裁判所は被告に対して「経済的滅失」について口頭弁論で立証するように促した[738]。千日デパートビルの「物理的滅失」について当否を争っている最中の「経済的滅失」の立証は、すなわち裁判所が原告側に対して和解を勧告したも同然だと解釈された。この直後に裁判所は「原告は千日デパートビルの改築(解体)に同意し、新ビル入居の条件を被告と話し合え」と和解を勧告した[739]

1976年8月27日、旧復興対策委員会メンバーだったテナント団体と日本ドリーム観光との賃借権確認訴訟で和解が成立した[740]。その和解内容は、「千日デパートビルを取り壊し、その敷地(跡地)に新ビルを建設することに双方が協力する。4年3か月後(1979年12月)を目標に現状打開に努力し、テナントも協力する。新ビルが完成すれば賃貸し、入店権の譲渡を認める。賃料には優遇措置を講じる[741]」とした。これにより訴訟を係属している松和会と、被告との和解に応じたテナント団体との間で対立が起こった。いわば既存の賃借権保証を訴える「旧ビル改装派」と、被告に全面協力する「新ビル新築派」の対立という構図である[742]。新築派は、改装派の松和会に対して趣意書を送付し「千日デパート再建促進協議会」を発足させ、協議会への出席を促した。協議会は「デパートビルの早期再建に賛同せよ」という趣旨だったが、松和会は趣意書への回答で「デパートビル再建の問題に反対するものではなく、あくまでも賃借権の存続とテナントの権利を守ることを考えて被告と争っている」旨を主張した[743]

デパートビル取り壊し禁止の仮処分[編集]

原告である松和会は、「建研報告書」に記載されている数値に関して、計算間違いや仮定の積み重ねによる結論であることを再鑑定などで明らかにし、被告が主張する「経済的滅失」の虚偽を明らかにしたところで立証を終える予定にしていた[744]。ところが突然被告側から「デパートビルの取り壊し計画」が発覚することになった[745]。1977年1月18日、原告は大阪地方裁判所にビル取り壊し禁止を求める仮処分申請をおこなった。翌19日、ビルの取り壊し禁止の仮処分が決定した。供託金は2,500万円だった[746]。賃借権訴訟の提起中であり、建物の権利保全の観点からの申請であった。原告は、仮処分を機に和解交渉への道を模索していたが、被告側が原告の仮処分に対して異議申請をおこない、執行官保管部分の執行取り消しと、取り壊し禁止の執行停止を申し立て、裁判所に認められた。供託金は2億5000万円だった。被告側は、疎明資料として「建研報告書」の抜粋を提出した。さらにはデパートビルの早期再建を望む政治家やミナミ商店街連合会代表らの陳述書を取りまとめて裁判所に提出していた[747]。原告は、この動きを阻止しようと即時抗告を申し立てたが裁判所の結論は直ぐには出なかった[748]

その最中にビルの解体を急ぎたい被告が、デパートビル内に残されているテナントの備品や什器類をビル外へ移動させた[749]。この動きに対して原告は、現状維持仮処分の執行停止の更正を裁判所に求め、再びビルの取り壊しは出来なくなった[750]。仮処分の応酬が激しくなる中でついに1977年3月19日「原告と被告の間でビルの取り壊しを中止し、円満解決を目指す」旨の覚書が締結された。双方が申し立てていた仮処分や即時抗告は取り下げられ、これ以降は弁護士間での和解交渉へ移っていった[751]。しかし、交渉は遅々として進まなかった[752]

即決和解[編集]

1977年3月19日に和解交渉に向けての覚書締結がおこなわれたものの、被告は賠償金を支払うことに応じなかった[751]。理由は、新ビルへ入店する「主要なテナント」を巡っての調整が難航していたことと、被告である日本ドリーム観光が自社の責任を認めた形で原告への賠償金支払いを頑なに拒否していたからだった[753]。覚書締結後の約3年間は、和解交渉が双方の代理人の間でまとまり掛けると、社長の松尾國三氏が和解することを拒否し、交渉が元に戻るという繰り返しだった。被告側の代理人が和解に応じるよう松尾氏を説得したが、態度を軟化させることはなかった[754]

千日デパートビルは、解体も営業再開もされずに外壁を金網で囲われた状態でミナミの繁華街に建ち続けていて、地元商店街を中心にデパートの営業再開を求める声は高まっていた[754]。大阪市会議員やミナミ商店連合会は連名で千日デパート関係者に書面を送り「我欲によって付近一帯に及ぼす迷惑を考え、原告被告双方が早期に和解し、ミナミ再建のために善処するように切望する」と要望した[755]。このように営業再開に対する社会的、経済的な圧力が強まってきたことから、1980年(昭和55年)1月14日、大阪地裁枚方簡易裁判所において、原告被告双方の間で「即決和解」が成立した。ただしこれは原告側が「被告のビル建て替えについては認める」という限定的な合意に過ぎなかった[756]

合意内容は以下のとおりである[757]

  1. 被告は原告に対して2億5000万円の仮払いをおこなう。
  2. 1983年(昭和57年)10月ごろまでにビルを建て替え、営業開始予定とする。
  3. テナントは旧ビルと同じ条件で新ビルに入居でき、入居しない場合は入居権を第三者に譲渡できる。
  4. 新ビルは会社の権利義務を継承する流通業界の大手業者に一括して賃貸することができ、各テナントは一括して賃借人の売り場構成およびその営業に関して最大限協力する。
  5. 新ビルの賃貸借に関する諸条件等については別途協議して定める。

以上、これらの条件で原告はビルの取り壊しに応じる、とした[757]

日本ドリーム観光は、設計が出来上がっていないとしつつも新しいビルの概要を同時に発表した[758]

  • 地上8階または9階建て、地下2階または3階
  • 建築面積 約1,100坪(3,630平方メートル)
  • 建築延べ面積 約1万400坪(3万4,320平方メートル)
  • 駐車場 約110台

一部和解につき、引き続き損害賠償額を巡っての裁判は係属されることになった。翌2月から同ビルの解体作業が開始され、ようやく新ビル建設に向けて動き出した。ここまで火災発生から7年半が経過していた。原告が提起していた損害賠償請求訴訟は、中間判決で被告の責任が確定したあと、損害請求額の合計は14億3,466万9,751円であったが、休業損も請求していたので即決和解成立の時点で、その合計は45億円に達していた。しかしながら原告は「『経済的滅失』および『物理的滅失』を被告と争ってきたが、一部和解が成立したことに鑑み、『社会経済的滅失』を認めることにした」として、損害賠償請求の趣旨を変更した。1980年3月24日、原告は、これまでの訴訟で請求していた物損、休業損、弁護士費用(賃借権部分について)を取り下げ、被告の保安管理義務違反による損害の合計10億1,479万0,439円に請求額を減額した[759]

一審終局判決[編集]

1981年(昭和56年)1月26日、大阪地方裁判所第20民事部は松和会が日本ドリーム観光に対して提起していた損害賠償請求訴訟の一審終局判決を言い渡した[760]。終局判決では、賠償額と賠償範囲が言い渡され、賠償額は合計8億6万4,050円と決まった[761]

大阪地裁は、原告が被った以下の損害を認定した[761]

  1. 商品の価値低下による損害
  2. 賃借店舗滅失による賃借権価格相当額の損害および逸失利益
  3. 弁護士費用

ただし、慰謝料については、以下のものは認められなかった[761]

  1. 暖簾の喪失、諸費用の支出などによる個別の立証が困難な損害を求めるものと解されるもの
  2. 本来の意味の慰謝料請求

終局判決に至るまで、火災発生から8年8か月の歳月が経ち、23回の証人尋問を含め、口頭弁論は67回を数えた[761]。被告である日本ドリーム観光は、判決内容を不服として上訴した[762]

ニチイに対する損害賠償訴訟提起[編集]

1980年(昭和55年)9月18日、松和会は1975年から出火元のニチイと損害補償について話し合いを続けていたが、その調停が不調に終わったことから同社に対して損害賠償請求訴訟を提起した[762]。請求額は4億1,999万2,049円とした[682]。被告(ニチイ)は、日本ドリーム観光との間でも損害賠償請求訴訟を抱えていて、松和会との訴訟に敗訴すれば、もう一方の訴訟で不利になるのは明らかだった[注釈 69]。そこで被告は、原告(松和会)と話し合いに応じる姿勢を見せはじめ、和解に応じることに同意した[763]。1985年(昭和60年)11月29日、被告は慰謝料として2億5000万円を原告に支払うことで和解が成立した[55]

最終覚書[編集]

1989年(平成元年)7月13日、松和会と日本ドリーム観光との間で最終覚書が交わされ 松和会は日本ドリーム観光に対する訴えを取り下げた[293]

覚書締結で合意した主な条項は以下のとおりである[764]

  1. 日本ドリーム観光が松和会会員に対してこれまで支払った金員はすべて有効であって、それらの金員は各支払い時点で本件火災に因る松和会会員の損害賠償に充てられていたものであることを当事者双方は確認し、日本ドリーム観光は、如何なる名義を問わず松和会会員に対してその返還請求をしない。
  2. 松和会会員が既に受領済みの賠償金について、その賠償金を同会員が被った損害のどの項目に充当するかは、同会員もしくは松和会が定めるところとして、日本ドリーム観光は意義を述べない。
  3. 松和会会員は、日本ドリーム観光に対し、既に受領済みの金員以外は、本件火災に因り被った賠償請求はいかなる名義を問わずこれをおこなわない。
  4. 松和会会員は、日本ドリーム観光との間で千日デパートビル火災問題が実質的に解決し、裁判上の訴訟がもはや無意味になり、右事件の担当部裁判長の強い勧告があったことにもより、損害賠償訴訟そのものを取り下げることとし、日本ドリーム観光は右取り下げに同意する。
  5. 本件火災に因る松和会会員に対する損害賠償、新ビル入店に関して松和会会員と日本ドリーム観光との間で交わされた覚書、確認書、その他の取り決め事項は、本覚書締結後もその効力を維持し、何らその効力に消長をきたすものではないことを当事者双方は相互に確認する。
  6. 本件火災に基づく損害賠償請求に関し、松和会会員と日本ドリーム観光は、本覚書に定める以外には何ら債権債務を主張しないことを相互に確認する。

これにより松和会が原告となって争った千日デパート火災をめぐる損害賠償請求訴訟はすべて終結した[293]

その他のテナント訴訟の和解[編集]

原告代表のテナントオーナー2名と業者34名(利害関係者)がニチイに対して約2億円の損害賠償請求と営業再開までの支払金毎月395万円を求めて提訴していた訴訟は、松和会訴訟の最終覚書締結につづいて1989年9月末に和解が成立した。和解内容は、ニチイが原告代表2名に対して441万円ずつと他の業者34名に対して150万円ずつ計約5980万円を紛争解決金として1989年10月末までに支払うとした[667]

新ビル建設[編集]

千日デパート跡地に建設されたエスカールなんばビル

千日デパートのテナント団体「松和会」が提起した損害賠償請求訴訟は、1980年1月14日に原告被告双方の間で即決和解が成立し、千日デパートビルを解体して新しい商業ビルを建設する運びとなった。和解が決まった同日にビルの取り壊しが決まり、翌月の2月から解体工事が始まった。1981年4月には解体工事が完了し、翌年の1982年6月20日に新ビルの起工式が執り行われた。起工式から1年3か月後の1983年(昭和58年)9月、施工主である日本ドリーム観光は、千日デパート跡地に新ビル「エスカールビル(エスカールなんば)」を竣工させた[290][765]

新ビルの概要は以下のとおりである[766][767]

  • ビルの名称 エスカールビル(ESCALE)
  • 施工主 日本ドリーム観光
  • 建築設計監理 大建設計
  • 建築施工 大林組
  • 敷地面積 4,155.90平方メートル
  • 建築面積 3,639.07平方メートル
  • 延床面積 3万7,419.73平方メートル
  • 構造 鉄骨鉄筋コンクリート造(地下3階から地上3階)および鉄骨造(地上4階から9階、屋上塔屋)、 地下3階、地上9階建、屋上塔屋3階建(3か所)、地下駐車場および地下荷捌き場設置
  • 高さ 軒高39.0メートル 最高部51.0メートル 階高4.1メートル
  • 設備 エスカレーター(各階2基)、エレベーター6基(売場内2基)、自動車用リフト2基
  • 工期 2年8か月(1981年5月から1984年1月まで。基礎工事、躯体工事、内装工事)
  • 起工 1982年(昭和57年)5月(起工式は同年6月20日)
  • 竣工 1983年(昭和58年)9月
  • 開業 1984年(昭和59年)1月13日

新ビル「エスカールビル」は、旧ビルに引き続いてビルの用途を複合商業施設として設計建設された。新ビルを建設するにあたって設計上で最も重要視されたのは、当然のことながら防災面であった。千日デパートビル火災の教訓を活かし、二度と当地から悲惨な災害を起こさないために最新の防災対策が盛り込まれた。避難方向の解りやすさ、二方向以上に避難路を確保する概念を重視した。建築基準法で定められた階段幅を持つ階段を集中的に配置することはせずに、屋内階段と屋外階段(避難階段)を各所に分散して配置した。行き止まり部分には避難バルコニーを設け、必ず避難階段に直結する構造にして、どの方向からでも避難路を確保できるようにした。新ビルの1、2階は、売り場面積を多く確保する観点から北側の一部が吹き抜け構造となっているが、万が一の火災発生時に煙の拡散を防ぐためにガラスシャッターで区画する構造を採用している。また地下空間の避難路確保にも重点が置かれ、ビル北側の地下空間には吹き抜け構造の広場が設けられ、避難場所の解りやすさ、地下の閉鎖性を緩和した。地下から地上への避難も2方向から地上へ出ることができる構造とした。防災面の配慮から、駐車場と荷捌き場は地下3階に設置され、電気室や機械室等のビル機械設備は、まとめて屋上塔屋内または塔屋直下の各フロア内に設けられた[766][767]

エスカールビル内には、設備管理、災害および防犯監視を一括管理する防災センターが設置されている。火災面では、ビルで発生する火災(災害)を24時間体制で集中監視し、火災発生時には自動消火装置および自動排煙設備が稼動するシステムを完備した。また火災発生時にエレベーターを階毎に監視し、非常用エレベーターを遠隔操作して避難者を安全な階へ誘導するシステムも設けた。ビルの防災設備の充実と併せて、警備員(保安係員)によってビル利用者を安全な場所へ避難誘導することも防災センターの重要な役割とした。エスカールビルの避難階段は、3階以上の基準階では11ヵ所設けられており(内階段3、避難階段8)、それらは階段室の出入口をガラス扉または附室かバックルームで保護しており、煙による汚染を最小限に抑える対策が取られている。また各避難階段は、各階に5か所設けられた避難バルコニーにすべてが直結している。ビル西面は、全面に4つの避難階段と避難バルコニーが2ヵ所設置されており、過剰とも思えるほどの万全な避難対策が取られている。また避難バルコニーについては、ビルの各面に必ず設置されていて、災害時に逃げ遅れた人が発生した場合でも、避難バルコニーに出さえすれば容易に救出されるか自力で地上へ脱出できるように対策が取られている[110]。いずれの防災避難対策においても、千日デパート火災において被害拡大の問題点として挙げられた諸点を教訓として改善したものである。

エスカールビル竣工の翌年1984年(昭和59年)1月13日に、同ビルは開業した。翌14日にはキーテナント「プランタンなんば」と専門店街の各テナントが同ビルで営業を始めた[291]。 旧千日デパートが火災焼失により休業してから実に11年8か月ぶりの営業再開だった。

報道[編集]

あすへの記録「パニック 災害時の人間行動」

1973年(昭和48年)4月6日22時15分から30分間放送 [768]。7階プレイタウンの滞在者らが火災の発生に気付いたとき、どのように行動し、その如何によってどのように生死を分けたかを生存者の証言や専門家の調査および動物実験などを通じて、人間がパニックに陥ったとき、なぜ冷静に行動できないのかを分析した番組。2000年(平成12年)2月18日には『NHKアーカイブス〜急成長の軋み』内で再放送された。

かんさい情報ネットten.「深層究明 ゲキ追! 死者118人!国内最悪 千日デパート火災から40年・・・いま語られる真実」

2012年(平成24年)5月14日放送 [769][リンク切れ]。火災鎮圧から間もない千日デパートの内部を撮影したカメラマンと照明係の記憶、生還したバンドリーダーとバンドメンバーの証言、犠牲者の遺体が安置された大融寺住職および遺族会弁護士の回想、防災研究の第一人者・室崎益輝教授の話を交え、千日デパート火災に関わった人たちの記憶を辿り、真実に迫った番組。

奇跡体験!アンビリバボー「日本を襲った未曾有の大惨事SP 国内史上最悪と言われたビル火災」

2015年(平成27年)7月9日20時から2時間放送 [770]。本件火災について再現ドラマや生存者へのインタビューを交えながら詳細に紹介された[157]

追悼施設[編集]

千日前光明地蔵尊[編集]

千日前光明地蔵尊

1984年(昭和59年)1月、本件火災現場の千日デパート跡地に新ビル「エスカールビル」が新築された。その際に、同ビル北西側の敷地内の一角に「光明地蔵菩薩」を祀る御堂「光明地蔵尊」が建立された[771]。この地蔵尊は、ミナミ界隈の「六地蔵」のうちの一つに数えられ、御堂の中には御本尊として光明地蔵菩薩が一体安置されている。御堂の建立には、千日デパートの元テナント店主だった方が犠牲者の冥福を祈ろうと私財を投じて尽力された[771]。御堂は17張りの提灯と紫幕で飾られ、夜間には提灯に明かりが灯る。本坪鈴、賽銭箱も備わり、御参りができるようになっている。御本尊の光明地蔵は立像で、蓮華座の上に立ち、剃髪に衲衣と裳を纏い、右手に錫杖、左手には如意宝珠を持ち、背後に頭光(輪光背)が輝く典型的な地蔵菩薩の姿である(高さ、材質、製法は不明)。

千日前の光明地蔵尊については、一般的に千日デパート火災の犠牲者を慰霊するために建立されたと解釈されているが、御本尊として「地蔵菩薩」が祀られていることから犠牲者の冥福を祈る意味合いのほかに、デパート跡地および千日前界隈の繁栄と安寧、商売繁盛、現世の人々の救済を願うなどの様々な祈念を行う意味もある。実際に本件火災事故の犠牲者を慰霊する正式な追悼施設(慰霊碑)は、高野山にあり、供養法要も高野山別格本山明王院でおこなわれていることからも[772]、デパートビル跡地の光明地蔵尊は本来の意味の追悼施設とは若干異なる側面もある。毎年8月に開かれる地蔵盆の時期には、遺族や関係者が集まって供養を行っていたが、年を重ねるごとに参列者が少なくなり、案内状を出してもその多くは遺族から送り返されるだけで関係者の参列だけが目立つようになった[771]。そこへ2011年から毎年8月23、24日の両日に大阪ミナミで「地蔵盆千日供養(主催・地蔵盆千日供養実行委員会)」が開催されるようになった。僧侶や修験道者(山伏)約100名がミナミ界隈の地蔵尊や不動尊などを法螺貝を吹きながら巡り、般若心経を唱えて祈りを捧げるとともに道頓堀の相合橋で護摩法要を行う。巡礼には光明地蔵尊も含まれるようになり、追悼供養と合わせて盛大に祈りが捧げられ、一年のうちで最も賑わう瞬間を迎える。

千日デパート大火災被害者慰霊碑[編集]

千日デパート火災で犠牲になった118人を慰霊する追悼施設は、1976年(昭和51年)11月13日に和歌山県・高野山大霊園に慰霊碑が建立された。同日正午より高野山別格本山明王院住職を始めとする職衆6口や遺族約170人が参列して開眼供養の法要が営まれた。法要は毎年5月におこなわれるが、火災事故から4年目となった同年5月の法要の折に遺族の間から「慰霊碑建立を」と話が持ち上がった。前年の年末に損害賠償請求訴訟において和解が成立していた。被害者遺族には早期に決着が図られたことへの安堵した感情もあったが、一方で中途半端な形で補償がまとまったことや火災関係各社の責任追及が曖昧なまま終わったことへの不満も少なくなかった。それでも遺族の心情に一定の区切りがつき、節目を迎えたことが後押しに繋がった。遺族は火災関係4社や一般の人々に呼びかけをおこない、約1,500人から集めた合計1,200万円の浄財によって慰霊碑は建立される運びとなった。当初は慰霊碑を火災現場に建てるべきだとの意見も出されたが、最終的には高野山の地に建てることで落ち着いた。慰霊碑は、霊園の見晴らしの良い丘の上に建立された。漆黒の御影石で造られた碑には「千日デパート大火災被害者慰霊碑」と刻まれ、その傍らにある碑文には、突然に命を奪われた犠牲者の無念、遺族の怒り、事故を風化させてはならない思い、それらを一つにまとめた文言が刻まれている。「・・・逃げ場を必死に求めてその苦しさに肉親の名を呼びながら終に力尽き・・・(略)」という一節は最も象徴的である。同日の明王院での第5回供養法要では、遺族会代表の挨拶および各関係者からの追悼の辞が捧げられ、その後に読経の中を遺族らの焼香がおこなわれ、二度と惨事を繰り返さないよう念願された[772][773]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 火災当時はデパートの敷地が二つの住所に跨っていて、東寄り4分の3が三番町一番地、西寄り4分の1が四番町一番地であった。
  2. ^ 防火管理者らの業務上過失致死傷罪を裁いた一審判決の判決理由のなかで、大阪地裁は「本件火災は、工事監督が3階東側を歩いている際に煙草を吸い、その煙草若しくはこれに点火する際に用いたマッチの火が原因となって発生した疑いが濃厚であるが、工事監督の行動を証拠上確定することは出来ず、火災の原因は不明と言わざるを得ない」と述べたことによる。また大阪高等裁判所で開かれた控訴審判決の判決理由においても火災原因は不明とされた。
  3. ^ ただし大阪府警察本部の検証結果では、工事監督が火の消えていないマッチの擦り軸を布団の上に投げたことによって発生した(煙草の不始末)と断定したが、被疑者を起訴するには至らなかった。
  4. ^ 内訳は、プレイタウン関係者47人、消防隊員27人、警察官6人、通行人1人である。
  5. ^ a b c d e 素人の女性がアルバイト感覚で客を接待する大衆サロンのこと。キャバクラの元祖。昭和40年代に主に関西で流行った。別名アルサロとも呼ばれる。
  6. ^ ビルに限定しないと1943年に、北海道にあった布袋座でおこった火災で208人が死亡している。
  7. ^ 事件名、公文書、学術書、出版物においては「千日デパートビル火災」と呼ぶのが一般的である。
  8. ^ a b c 7階プレイタウンへ大量の煙が流入してきた22時42分から43分ごろにA1エレベーターで地下1階から7階へ昇ってきた男性客1人とホステス1人は、7階エレベーターホールに充満した煙に驚き、同エレベーターで地下1階へ脱出した状況が確認されているが、この2人についてはプレイタウン滞在者に含めていない。
  9. ^ a b 建築基準法・第三条によれば、原則として既存建築物に対しては法律の遡及適用はおこなわないとしているが、その適用が除外される場合があり、第三条2項によれば既存建築物が「増築、改築、修繕、大規模な模様替え」をおこなった場合は遡及適用の対象になると規定していることから、1958年(昭和33年)に大規模な改築と用途変更をおこなった千日デパートビルは、1950年制定の原法と1957年の一次改正法には適合した建物であった。
  10. ^ 企業としては1996年にマイカルに社名変更、2011年にイオンリテールに吸収されて解散。店舗ブランドとしては1990年にサティに転換し消滅。
  11. ^ a b 千日デパートビルの延べ床面積は、資料によって数値が異なる。例えば大阪地裁では2万7,514.64平方メートル、大阪高裁2万6,227平方メートル、大阪市消防局2万5,923.81平方メートルなどとしている。これは屋上の床面積を含めているか、また1階および2階床面積の解釈上の違いによって生じているものである。当記事では屋上の床面積を含めた大阪地裁の数値を使用している。資料によっては大阪市消防局の数値を四捨五入して2万6,500平方メートルとしているものもある。
  12. ^ 本件火災発生当時(1972年5月)の消防法施行令・別表1に定める防火対象物区分では、いわゆる「雑居ビル」「複合用途」という概念は明確にされておらず、当時の「16項」が規定していた用途とは「前各項(1から15項まで)に掲げる防火対象物以外の防火対象物で、その一部が前各項に掲げる防火対象物の用途のいずれかに該当する用途に供されているもの」であり、これはすなわち「店舗と住居を兼ねた建物」を念頭に置いたものであった。したがって千日デパートビルは、特定防火対象物「4項(=百貨店、マーケットその他の物品販売業を営む店舗又は展示場)」に分類されていた。
  13. ^ 現行(2020年)の消防法令に照らした場合、千日デパートビルは「16項(イ)=複合用途防火対象物のうち、その一部が劇場・集会場等、酒場・風俗店等、飲食店、百貨店・スーパーマーケット、旅館・ホテル、病院・養介護施設・保育園等、サウナにおいて、これらの防火対象物の用途に使われているもの」に相当するが、本件火災発生当時(1972年5月)の16項は「(イ)と(ロ)」に区分されていなかった。区分されたのは1972年12月の消防法施行令の改正からである。(ロ)とは「(イ)で掲げた複合用途防火対象物以外の複合用途防火対象物」のことである。
  14. ^ 南消防署提出の消防計画書による。消防計画書は毎年1回更新されていたが、1971年(昭和46年)5月更新の時点では7階プレイタウンは、千日デパートの自衛消防組織および防火管理責任組織に組み込まれていなかった。
  15. ^ ただし、プレイタウン1階専用出入口(B出入口)に直結したB階段昇り口には、木製扉が設けられていて、プレイタウン閉店時には同店従業員が7階B階段出入口と同時に同扉を施錠していた。
  16. ^ 1958年(昭和33年)当時は、全国共通の消防法施行令は制定されておらず、地方自治体が独自に定めた施行条例の基準で設置されていた。消防法施行令の制定は1961年(昭和36年)からである。
  17. ^ 6階旧千日劇場跡は、ボウリング場改装工事中であり、火災時にスプリンクラーの機能が残っていたかどうかは不明である。ただし大阪市消防局の検証では、スプリンクラーヘッドから水が噴射された形跡はあったとされる。
  18. ^ 実質的には常時閉鎖状態だったが、一部のホステスは、普段からE階段出入口を使ってデパート内に出入りしていたと証言している。
  19. ^ 保安係員1班6人のうちの1人は、年休を取るために必ず休む決まりになっており、通常の夜間勤務は実質5人体制であった。
  20. ^ 中核派、革マル派、約620人によって行われた。「沖縄返還改策粉砕」「沖縄派兵反対」を主張し、集会を開いた後、20時からミナミ周辺をデモ行進した。
  21. ^ a b c 電気工事関係者は合計6人であるが、工事作業者の1人は22時ごろに駐車場へ車を取りに出掛けており、火災発生時および火災発見時にはデパートビルの中にいなかった。
  22. ^ バンドリーダーの証言によれば「3曲目の曲」とは、アイ・ジョージと志摩ちなみのデュエット曲「赤いグラス(1966年・同タイトルの映画主題歌)」であった。同曲の演奏中にプレイタウン店内へ煙が流れてきたという。
  23. ^ 1967年(昭和42年)10月16日1時33分ごろ、地下1階プレイタウン専用エレベーターホールに設置してあったソファーの一部がタバコの不始末により燃焼したものである。損害はソファー1個分のみで大事には至らなかった。
  24. ^ プレイタウン店内で従業員による放送が確認されているのは2回である。
  25. ^ 7階A階段の鍵はプレイタウン事務所内に保管されており、実際のところクローク内には無かった。またA階段の屋上の鍵は、1階保安室に単独キーがあるのみでプレイタウンでは保管していなかった。ただしA階段屋上の扉はガラス扉なので、破ることは可能だった。
  26. ^ 6階の旧千日劇場跡にスロープで繋がる幅約10メートルの連絡通路。プレイタウンが6階でも営業していた時に使用していた。火災の数日前まで壁も無くスロープも存在していた。
  27. ^ F階段の屋上の鍵は、プレイタウン事務所内に保管されておらず、1階保安室に単独キーがあるだけだった。従って仮にF階段が煙で汚染されていなくても避難者らは屋上に脱出することはできなかった。
  28. ^ 通報者は、供述により千日デパート保安係の保安係長だと確認された。
  29. ^ 1989年(平成元年)2月13日、南区と東区が合区され中央区が発足したのを機に南署を廃止し、浪速署を発足させた。
  30. ^ a b 1989年(平成元年)2月13日、南区と東区が合区され中央区が発足したのを機に東署を中央署に改めた。
  31. ^ 火災現場に出場したが、南署本署に残留。消火活動には参加していない。
  32. ^ 東雲PR分隊は、火災現場に出場したが待機命令により活動はせずに引き揚げた。
  33. ^ 火災現場に出場後、活動はせずに東署本署にて残留警備にあたった。
  34. ^ 火災現場に出場後、活動はせずに東署本署にて残留。
  35. ^ 負傷者搬送に投入された救急隊(計12隊)=南、西、天王寺、東、港、福島、西成、阿倍野、生野、大正、都島、浪速
  36. ^ 遺体搬送に投入された救急隊(計7隊)=東、福島、西成、西、大正、港、南
  37. ^ 15日未明にデパートビル6階で発生した再燃火災(小火)により消火活動が再開されたことから、後に鎮火日時は15日17時30分に訂正された。
  38. ^ 14日10時55分までの総放水量。ただし泉尾TR分隊の放水量は不明なので、その分は計算に含めていない。15日未明に発生した6階小火に対する消火および防御に使用した放水量は含まない。
  39. ^ a b c 現中央署管内
  40. ^ a b c 現浪速本署
  41. ^ a b c 現浪速署管内
  42. ^ 現中央本署
  43. ^ 一部の資料ではデパート滞在者を「210人」としているが、警察と消防で情報を照合し、綿密な追跡調査をおこなった結果、客2人を新たに加えたもので「212人」が正しい数値である。
  44. ^ プレイタウンには絶えず客や従業員が出入りしていたので、滞在者の人数にはある程度の変動がある。したがって7階で火災被害に巻き込まれた者を7階滞在者とする。
  45. ^ 6階ボウリング場建設作業員6人のうちの1人は、火災発生時に廃材積み込み作業で路上にいたが、デパートビル北側窓から煙が噴き出しているのを確認したあとCエレベーターで6階へ昇り、その後に仲間と脱出しているのでビル滞在者に含める。
  46. ^ a b 3階ないし4階に残業で滞在していたニチイ千日前店の従業員4人については、22時ころに退館しているが、火災の発火時刻は不明であることからデパートビル滞在者に含めている。
  47. ^ 1階滞在者のうち、保安係員2人は火災発生時刻のころはまだ館内巡回中(事務所関係の巡回)だった。
  48. ^ a b 1階プレイタウン関係者10人については、客の呼び込みや送迎のためにデパート南側路上もしくはプレイタウン入口または地下1階ロビーにいたものであるが、火災発生時刻(22時27分)から7階に煙が充満してきた時刻(22時43分)の間に各々が2基の専用エレベータで7階との間を往復しているので、それらの者はデパートビル滞在者に含める。客については、出入り状況と素性が正確に把握できないことから火災に巻き込まれなかった場合は滞在者に含めない。
  49. ^ 2人とも当夜の宿直員。2人は火災発生時に館内の風呂場で入浴中だった。
  50. ^ a b 7階窓からの飛降りまたは救助袋からの転落による墜落死22人の詳細な死因は、脳挫滅1人(男性)、脳挫傷12人(男性5人、女性7人)、頚椎骨折3人(女性3人)、骨盤骨折2人(女性2人)、胸腔内臓器破裂2人(女性2人)、外傷性ショック2人(女性2人)である。ただし墜落死した者のうち、誰がどの死因に該当するかは不明である。
  51. ^ エレベーターを使って自力脱出に成功した人について、多くの資料はプレイタウン滞在者のホステス1人としている。A1エレベーターで7階へ昇ってきた男性客1人とホステス1人の計2人については、7階へ着いたときに、ちょうど煙が7階エレベーターホールに充満しているのを目の当たりにした。そこへプレイタウン滞在者のホステス1人が慌てて同エレベーターに乗り込んできて、3人はそのまま一緒に地下1階へ避難したものである。なお客1名はビル滞在者に含めていない。
  52. ^ 法令が改正された場合、新しい法令規定の適用を必ず受ける消防用設備、という意味。自動火災報知設備は、そのうちの一つ。
  53. ^ 11月6日に北陸トンネル火災が発生しているが、当該火災は鉄道車両の火災事故なので、ビル火災がテーマの当記事では考慮に加えなかった
  54. ^ 大洋デパート火災の死者数については、火災発生当日で100人、その後48時間経過した時点で3人増え、合計103人となった。ところが火災発生から7年経過した1980年12月16日に火災による一酸化炭素中毒の影響で国立熊本病院に長期入院していた負傷者1人が死亡したことにより、最終的に死者は104人となった。多くの資料はこの「7年後の死者1人」を計上していない。
  55. ^ 負傷者数については、資料によってその数は区々であるが、警察庁発行の「昭和49年度版・警察白書」によれば、最終的な負傷者数は「124人」となっている。なお大洋デパートの防火管理者や火元責任者らに対する刑事裁判においては、裁判所が認定した負傷者数は「67人」であった。これは被告らの過失によって負傷させられた客および従業員の人数なので消防隊員や消防団員などの負傷は含まれておらず、全体の負傷者数とは異なっている。
  56. ^ a b c 現行の法令が規定する「特定防火設備」に該当する防火戸のこと。遮炎性能1時間を有するものをいう。
  57. ^ a b c 現行の法令が規定する「防火設備」に該当する防火戸のこと。遮炎性能20分を有するものをいう。
  58. ^ 検察および裁判所が認定した負傷者42人は、全体の負傷者81人のうち、消防士および警察官などのプレイタウン関係者以外の負傷者34人を含めていない。つまり被告人らの過失によって負傷させられたと認定した負傷者数は42人ということである。プレイタウン関係者の負傷者は合計47人であるが、そのうちの5人については、被告人らの過失による負傷とは認定されなかった。
  59. ^ プレイタウン専用A南エレベーター昇降路の2階および3階の天井付近に、手抜き工事によってできたと推定される隙間が開いており、その部分から煙が流入した。また3階から7階までを竪穴で垂直に繋ぐ空調ダクト内に設置されていた防火ダンパーが火災発生時に機能せず、事務所前ダクト開口部から煙が噴出した。
  60. ^ 閉鎖については、ボタンを押すことでシャッターの自重により降下する仕組みで、作業は容易だった。
  61. ^ ハンドルを10回転させたときのシャッター巻き上げ量は約14センチメートルであるから、防火区画シャッターの高さ(長さ)が2.46メートルであることを考えると、巻き上げ完了までに176回転を要する。ハンドルの重さ、疲労による作業効率の低下を考慮すると最短でも1分半から2分半は掛かる。
  62. ^ 1970年9月29日、南消防署主催・防火研究会(福田屋百貨店火災)。被告人A欠席。代理で保安係長が出席。 1970年10月3日、大阪市消防局・説明会(福田屋百貨店火災)。被告人A出席。
  63. ^ 1971年5月25・26日、大阪市消防局・夜間査察(田畑百貨店火災)。被告人A立会い。
  64. ^ 1971年6月上旬、南消防署・管内百貨店特別点検(田畑百貨店火災)。被告人A立会い。
  65. ^ 1971年6月1日、大阪市消防局・夜間査察の結果説明および防火指導会(田畑百貨店火災)。被告人A出席。
  66. ^ 1971年6月11日、南消防署・特別点検の結果説明会(田畑百貨店火災)。被告人A出席。
  67. ^ 次のシャッターへ移動する時間も含まれる。
  68. ^ 被告4社のうちの1社である「O電機商会(失火の当事者)」については、賠償責任能力(支払い能力)がないとして免責された。
  69. ^ 1988年4月23日に最終的な和解が成立し、ニチイが日本ドリーム観光に対して1988年5月末までに小切手で約16億5千万円を支払うことで決着した。

出典[編集]

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