千葉茂 (野球)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索に移動
千葉 茂
Chiba photo 1.jpg
千葉茂
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛媛県西条市
生年月日 (1919-05-10) 1919年5月10日
没年月日 (2002-12-09) 2002年12月9日(83歳没)
身長
体重
167 cm
64 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手
プロ入り 1938年
初出場 1938年5月1日
最終出場 1956年7月17日
1959年2月28日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1980年
選出方法 特別表彰

千葉 茂(ちば しげる、1919年5月10日 - 2002年12月9日)は、愛媛県西条市出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督解説者評論家。愛称は「猛牛」。

日本プロ野球における戦前から両リーグ分立後にかけての代表的な二塁手で、1947年から7年連続でベストナインを受賞、通算7回の受賞は高木守道と並んで二塁手として史上最多。戦後中日選手を経てセ・リーグ審判となった千葉英二は実弟。

経歴[編集]

プロ入りまで[編集]

愛媛県西条市生まれ。小学5年生の時に松山市の東雲尋常小学校に転校すると、の強さを見込まれて投手となり、愛媛県大会で優勝して、京都で開催された全国小学校大会に出場した。

松山商業に進学すると、千葉は真面目な性格で下積みの仕事を黙々とこなしていたが、自ら積極的に飾り立てない性格であったためか、生意気なヤツだと一部の上級生から理不尽ないじめを受けることもあったという[1]。2年生の秋から八番・左翼手の定位置を掴むと、3年生になった1935年春の甲子園に出場すると、準々決勝まで進むが愛知商業に敗れる。夏の甲子園では準々決勝で嘉義農林台湾)との延長10回の死闘を勝ち抜き、決勝で育英商兵庫)を6-1で下して夏の初優勝を成し遂げた[2]。4年生になると三番・三塁手となり、5年生では主将を務める一方で投手も兼ねて[3]林義一徳島商)・楠安夫高松商)と並ぶ「四国のビッグ3」と称された。

卒業にあたって、甲子園優勝時の監督で松山商業の先輩でもあった森茂雄が監督を務めていたイーグルスへ入団する予定で仮契約まで済ませるが、その後に東京巨人軍の監督で森のさらに先輩に当たる藤本定義松山に来て、学校や町の有力者などに根回しを行い、結局千葉は東京巨人軍へ入団することになった。こうした経緯もあり、千葉は日本プロ野球における二重契約第1号選手とされる[4]

現役時代[編集]

1938年4月29日に東京巨人軍へ投手として入団、月給は130円、背番号は「30」であった[5]。同期の川上哲治らと共に「花の13年組」と呼ばれる。入団後は打撃を買われて野手に転向し、1年目の1938年春季リーグから6番・二塁手の定位置を掴みいきなり打率.295でベスト10入りするなど入団早々主力として活躍[2]。同年の秋季リーグからは、1番・三原脩、2番・水原茂の後の3番・中堅手として巨人のクリーンナップを務めた。花の早慶スターコンビを活かすために、出塁した2人を進塁させる芸術的な右打ちのチームバッティングを身に付ける。2年目の1939年からは背番号を「22」に変更し、三原の退団に伴って正二塁手の座を得て上位打線を務め、打率.305(リーグ4位)で3割打者の仲間入りを果たす(首位打者は打率.338を打った川上)。その後も、1940年は打率.281(リーグ4位)、1941年は打率.234(リーグ9位)と、常に個人打撃成績上位に顔を出したほか、1939年・1940年と2年連続でリーグ最高の出塁率を記録。同期入団の川上や中島治康と共にクリーンナップを組んで、第1期黄金時代を築き上げた。

1941年のシーズン終了後に兵役のために巨人を離れ、四国の連隊に入隊する。軍隊でも、鈴木惣太郎手紙を書いて鈴木の著書である『近代野球戦術』を取り寄せ、自らの打撃の研究をするなど、野球のことばかり考えていた。また、陸軍伍長として新兵の教育係を務めたが、一度も部下を殴ったことはなかったという。終戦は、高知県朝倉西郊の屯営で迎えた[6]

1946年プロ野球公式戦が再開されると、背番号「3」を着けて主将を務める。シーズン前には地元で食糧調達に都合の良かった松山で春のキャンプを張る。千葉の母校である松山商業の応援会長であった渡辺藤三郎の世話で、宿舎として道後温泉の今治屋を確保した[7]。食事は一汁一菜で、時々薄い刺身が付く程度であったが、他球団が食糧調達に苦労し練習どころではなかったところ、巨人は食事の心配をせず練習に打ち込めたという[8]。戦後は主に1番や2番の上位を打ち、戦前は外野手三塁手などチーム事情に応じて守備位置を代えていたが、二塁手として固定された[2]。ただし、この年の7月25日の対阪神タイガース戦では、打者一巡の猛攻でノックアウトされた中尾輝三に代わって、千葉が6回から登板し、4回を投げて被安打8、失点4を記録。これが、プロ野球生活を通じて唯一の登板となっている[9]。同年はシーズンでは、打率.288(リーグ15位)を記録し、山本一人藤村富美男と共に最高殊勲選手の有力候補に挙げられるが[10]打点王(95打点)を獲得してグレートリングの優勝に貢献した山本が選ばれている。

1947年は打率.299(リーグ5位)、1948年は打率.285(リーグ9位)と、戦後も個人打撃成績の常連で、芸術品と言われた右打ちは健在であった。この間の、1948年10月16日大陽戦(大須)では6打数5安打、3本塁打、7打点、1試合6得点を記録。この日は1回に安打を放った後に平山菊二の二塁打で生還すると、2回には3点本塁打を放って2得点目。3回にも3点本塁打を放つと、5回には二塁打を放った後、青田の二塁打で生還して4得点目となった。さらにこの回の2度目の打席は、四球で出塁。その後に川上の満塁本塁打が出て1試合5得点目を記録。6回にもこの日3本目の本塁打となるソロ本塁打を放って、1試合6得点目となるホームを踏んだ。日本記録となる1試合6得点を達成した試合は、当然のように大味な展開となり、スコアは26-5という一方的な結果になっている。この1試合6得点という記録は、1949年塚本博睦が並んでいるが、その記録は2020年現在も未だに破られていない[11]

1949年にはフル出場で.307と久々の打率3割(リーグ9位)を打ったほか、リーグ2位の121得点を挙げ、抜群の働きで巨人の戦後初優勝に貢献[2][12]。同年の最高殊勲選手は「優勝チームの選手を優先する」という当時の傾向から千葉の受賞が有力視されていたが、この年は従来の選考制からプロ野球記者による5名連記の投票制に変わり、藤村142点、千葉129点の13点差で、46本塁打、142打点の新記録で二冠王を獲った藤村富美男がチーム順位は6位ながら千葉を抑えて選出された。「やはり藤村が年長者だから、千葉は若いからまだチャンスがあるだろう」との理由もあったとされる[13]。なお、この投票には当時プロ野球再編問題の中心であった毎日新聞系の記者が藤村に集中的に票を投じたというがあり、千葉は「僕が(リーグ)分裂の一番の被害者だ」とこぼしていたという[14]

1950年には121試合の出場で打率.290(リーグ19位)に終わるが、105四球を選ぶ。これは、1963年王貞治が123四球を積み上げて破られるまで日本記録であった[11]。また、1950年から1952年まで3年連続でリーグ最多四球を記録。1950年11月5日中日戦(後楽園)で杉下茂から1000本安打を達成。1951年5月にハワイから与那嶺要が入団すると与那嶺と1・2番コンビを組み、シーズン後半からは与那嶺と球界屈指の1・2番を形成するようになった[2]。与那嶺が出塁すると、千葉は犠牲バントを命じられることが多くなり[15]、1952年にはリーグ最多の24犠打を記録している。1952年は打率.312(リーグ6位)、62打点、1953年にはリーグ4位の打率.320、リーグ3位の80打点を挙げて34歳にてキャリアハイを記録するなど、巨人の第2期黄金時代を支えた。

1954年頃から衰えが見られ、1955年4月23日の対中日戦(後楽園)で内角ばかり攻めてくる杉下茂の投球を思い切り引っぱって左翼への本塁打を打ち込んだ。千葉はベンチへ帰ってくると加倉井実に「レフトへホームランしか打てないんじゃ、俺もそろそろお終いだな」とポツリと言った。8月25日国鉄戦(後楽園)で古谷法夫から現役最後の本塁打を放つと、正二塁手の座を内藤博文に譲って15試合の出場に終わった1956年限りで現役を引退した。

引退後[編集]

引退後も巨人で背番号「3」を背負ったまま、1956年12月21日に一軍コーチへ就任し、1957年のリーグ3連覇に貢献。同年には近鉄パールスの球団代表である大北弦と銀座の同じ洋服店でスーツを仕立てていたことを知って意気投合し、球団改革に乗り出していた大北に監督就任を打診されるも、千葉は「ポスト水原」として巨人次期監督の座を川上と争っていた頃であったため、全くといっていいほど耳を貸さなかった[16]。しかし、実際に水原は川上の他の一軍選手に対する影響力を評価しており、対立していた品川主計球団社長派とみられていた千葉は疎んじられていた。1958年に背番号「3」を新人の長嶋茂雄に譲り渡して、千葉は二軍監督を務める。当初は二軍監督になるにあたって水原は「将来の巨人軍を担う選手を育ててくれ」と千葉に頼んだが、実際は二軍を重要視しておらず、水原は体よく一軍から千葉を追い払ったというのが関係者の見方であった[16]。同年春のキャンプで水原は酔った勢いから「シゲさん(千葉)、どこかへ行って男を上げたらどうだい」と口走っており、巨人監督の座を夢見ていた千葉の後継者の芽はなくなったと同時に、二軍で指揮を執るうちに別のチームでも構わないから、思い切り手腕を振るってみたいという思いにかられるようになる。それを象徴するかのように当時の千葉は、同じように巨人を追われて西鉄の監督となっている三原に近鉄行きを相談[16]。三原に「球団を持っている関西4私鉄の中で、近鉄は資本力が1番あるチームだ。君のような名の通った人が監督を引き受ければ、親会社も球団に投資するようになる。悪い話じゃない。巨人でくすぶるよりは新天地に希望を持った方がいい」とアドバイスされ、巨人の3連勝、4連敗となった歴史に残る西鉄との日本シリーズ第1戦当日の10月11日、後楽園ではなく球団事務所に姿をみせた千葉は品川に「背番号3も長嶋茂雄という最高の選手が継いでくれたし、巨人で私のやるべき仕事は終わった。誘われている近鉄で自分の力を試してみたい」と想いを伝える[16]。西鉄に3度目の敗北を喫すると、川上も現役引退したことから、水原の去就も危うくなったが、千葉に監督の声がかかることはなかった。

同年オフの11月28日に千葉は近鉄の監督に就任。当時の近鉄は、球団発足以来9シーズンで最下位5度にAクラスは1954年の1回のみで、戦力差の激しさから上位浮上はかなり難しいとされていた。就任の際には内藤博文平井三郎コーチが呼応し、移籍している。千葉の就任にあたり、近鉄沿線の伊勢湾で養殖されている真珠にちなんだ「パールス」の愛称を変更。球団名はスポーツニッポンなどスポーツ新聞4紙が後援して一般からニックネームを募集し、1万8447通にも及ぶファン投票の結果により、千葉のニックネーム「猛牛」に因んで「バファロー」と名付けられた。巨人のスターとして有名だった千葉が監督になる、ということで話題と期待を独占していたため、バファローは3855票も集めて堂々の第1位となった[11]。2位「イーグルス」の1285票をはるかにしのぎ[11]、他には「フェニックス」というのも最終選考に残ったが、「千葉監督を迎えてチーム名もなじみの深いものにしたい」と大北ら首脳が一致した考えで決まり[16]、千葉の愛称が英語になっただけで近鉄の愛称として使用されることになった[11]。千葉は「名は体を現すというが、歩みは遅いが新生近鉄は粘り強い力のあるチームにしたい。バッファローは私が理想とするダイナミックなスケールの大きいという点でも気に入っている」と満面の笑みを浮かべた。後に発表されたシンボルマークの「猛牛マーク」は、千葉と後楽園で草野球をしたのが縁で懇意となった画家・岡本太郎の手によるものであった。千葉が巨人を飛び出し勝負に出ると聞いた岡本は、がほとんど飲めない千葉を酒屋に呼び出し、話をしながら図案を考えた[16]。この猛牛マークは2005年に近鉄がオリックスバファローズに吸収されるまで使用された。

1959年2月28日に千葉の引退試合として巨人での功績を労うとともに近鉄監督としての門出を祝うために「監督就任激励試合」と銘打って、近鉄対巨人のオープン戦が行われる。日生球場始まって以来最多の2万5千人のファンを集め、千葉はコーチボックスに入って指揮を執ったが、1-10と惨敗した[17]。心機一転シーズンがスタートしたが[2]、5月に早くも最下位に落ちると、6月20日には病気のため休養。この年一軍投手コーチに就任したばかりの林が指揮を執ったが、7月には2度の9連敗を喫するなど2勝19敗と大きく負け越し、林監督代行でも最下位から抜け出すことはできなかった[16]。投手陣はこの年入団のグレン・ミケンズと西鉄から移籍2年目の大津守がチームを引っ張ったが、大津は打線の援護なく2桁勝利と2桁敗戦を共に記録。蔦行雄武智文雄が防御率3点台ながらも5勝17敗、2勝11敗と打線の援護に恵まれずチーム防御率もリーグ最下位の3.68を記録。打撃陣は小玉明利関根潤三を除いて不振でチーム打率と本塁打がリーグ最下位に終わり、また守備でもスタメン野手6人が2桁失策を記録するなどリーグ最下位の163失策を記録。2年目の1960年も前年に続き、巨人から大友工ほか選手・コーチが大量入団したのを始め、南海から宅和本司国鉄から杉山悟が移籍し、戦力増強を図る。開幕直後は貯金こそ作れなくとも借金を1桁にとどめ、5月24日には4連勝で借金を1にまで減らすが、その翌25日から7連敗を喫し最下位に転落。6月に入ると、新人の矢ノ浦国満の正遊撃手起用で千葉の構想から外れていた鈴木武が三原の要請もあり大洋に移籍。新天地で正遊撃手となり、チームの初優勝に貢献した鈴木とは対照的に、近鉄は7月に10連敗、9月にも6連敗を喫し最下位脱出は果たせなかった。結局10年ぶり優勝の大毎に39ゲーム差をつけられ、5位の東映にも9ゲーム差を付けられた。打撃陣では小玉が初のベストナインに輝き孤軍奮闘したが、チーム本塁打69本がリーグ5位、盗塁数も5球団が80個以上記録する中でリーグ最下位の51個と低迷。投手陣はミケンズが2年連続チーム最多の13勝で気を吐くもチーム防御率が3点台後半と低迷、さらに千葉が起用した矢ノ浦がリーグ最多の35失策を喫するなど、チーム失策数12球団最多の守備も投手陣の足を引っ張った。カード別成績でも大毎・南海にそれぞれ7勝19敗と負け越し、大毎優勝のアシスト役に回った。3年目の1961年は補強を新人の徳久利明と国鉄を戦力外になった元巨人の岩下守道の入団をにとどめ、シーズンが始まるといきなり開幕4連敗、4月中旬にも8連敗を喫するなどいきなり低迷、5月中旬にも6連敗を喫し最下位に転落すると、その後も6月から8月にかけて10連敗を3度も記録するなど大型連敗を繰り返し、二度と最下位から浮上することはなかった。打線は小玉と関根潤三、2年目のジャック・ブルームフィールド以外はパッとせずチーム打率はリーグ5位、投手陣は徳久が15勝を挙げ新人王を獲得した一方でリーグワーストの24敗を喫し、他に2桁勝利投手はなくチーム防御率も4点台近くという有様でリーグ最下位。10月4日にとうとう100敗の大台に到達し、最終的にプロ野球ワーストとなる103敗を喫した。チームは優勝した南海に同一カード14連敗を喫するなど5勝23敗で実に51.5ゲーム差、5位の阪急にも18ゲーム差と大きく引き離されて1958年から4年連続の最下位となり、この年、巨人から東映の監督になった水原との対戦は9勝19敗と完膚なきまでに叩きのめされた[16]。またこの年は、のちに近鉄の主力打者となる土井正博が入団した年でもあったが、この年は一軍出場はなかった。土井は「一軍の監督だった千葉茂さんは、コツコツ当てるタイプの打者を好むんですよ。「ピストル打線」なんて言われていて、右方向に流して打つことが求められた。でも僕はホームランを打てる打者だと思っていたから、強く振ることにこだわっていたんです。そうしたら、シーズンが終わった後に球団から解雇を通告されました。」[18]と述べている。同年10月30日3年連続最下位と実績を残せないまま監督を解任された。

在任中は「地上最低の監督」と揶揄されたものの、それまで契約金の安い無名選手ばかり獲得していた近鉄球団に対しては「大金を叩いていい選手を獲れ」と進言し、近鉄の体質改善に努めた。千葉の目に映った当時の近鉄の選手は、技術以前に勝負への執着心や競争心がなく、先制点を許せば今日も負けという雰囲気がベンチに漂い、調子が良ければたまに勝てるといった気持ちで試合に臨んでいた[16]。常勝を求められた巨人の野球が身についていた千葉にとってそれは信じられないと同時に屈辱であり、移動の特急電車の座席をそれまでの三等から二等に、旅館のグレードも上げるなど、プロ野球選手としての誇りを持たせようとしたが、笛吹けど踊らずであった[16]。8人もの巨人出身者を近鉄に入団させ、伝統ある巨人の勝つ野球、厳しい野球を体験してきた血を注入しようとしたが、それでもチームは変わらなかった。逆に「巨人、巨人とうるさい。だったら早く東京に帰れ」と選手に陰口を叩かれる始末で、鈴木など生え抜き選手との軋轢を生じた[16]。ミケンズにはリリーフ時、「グレン、リメンバーパールハーバーや」とハッパをかけていた[19] [20]

近鉄監督勇退後はラジオ関東解説者・東京スポーツ評論家を務め、1980年野球殿堂入り。ユニフォームを着ることはなかったが、著書や週刊ベースボールの連載記事などで、戦前からのプロ野球の生き証人として、数多くのファンを引き付ける文章を書いていた。また、晩年は野球体育博物館の図書室によく通い、『週刊ベースボール』掲載の戦前の野球界を回顧するコラムの材料の取材をしていた。愛憎入り混じった巨人を叱咤激励し続け、近鉄時代のことについては口が重かったが[16]2000年に開催された近鉄創立50周年記念の近鉄対巨人のOB戦では、「わしの故郷は両チーム」と言い両チームのユニフォームが、半々になった珍ユニフォームで登場し、両軍ベンチで旧交を深めていた。また、他に両チームに在籍した関根潤三淡口憲治有田修三太田幸司らは、一方の(関根・有田・太田は近鉄、淡口は巨人)ユニフォームで出場している。2002年12月9日、就寝中に死去。83歳没。

選手としての特徴[編集]

守備[編集]

守備範囲が広く華麗かつ堅実な二塁守備で知られ、送球の際は強い手首を活かしたスナップスローを得意としたほか、捕球から送球に移るまでのスピードも素晴らしく、相手を見ずに投げると言われるなど守備における動作は抜群であった[21]。千葉の守備位置は「二塁寄りに浅く、一塁寄りに深く守る」を基本とした。一塁寄りの打球であれば深い位置で捕球しても一塁送球が間に合うが、二塁寄りの打球は深追いしても間に合わないためだった[22]

守備が苦手な一塁手川上哲治の守備範囲の打球まで処理することが多かったことから、千葉が自らを「千葉一、二塁手」と呼んた[23]。一方で、白石敏男と組んだ二遊間は名コンビとの定評があり、ショートゴロで二塁に送球された球を受け取った千葉が一塁を見ずにジャンピングスローで併殺をとった。戦前の名二塁手苅田久徳の系譜を継ぐ選手として名を馳せて、「戦前の苅田、戦後の千葉」あるいは「苅田二世」と言われ、苅田自身も千葉を後継者として高く評価していた[22]。俊敏な動きと堅実なグラブ捌きでファンを魅了し後に名手と呼ばれた広岡達朗も、千葉について「体全体がグラブのようだった、ボールのほうからグラブに飛び込んでいた」と回顧している[24][12]

打撃[編集]

打撃では、右打者でありながらどのコースの球も右翼方向を狙う独特の打法であったが、これは新人の頃に上位を打っていた三原水原といった六大学出身の大先輩が塁上にいる際のダブルプレーを避けるために必死になって編み出したものであった[21]。通算96本塁打のうち、81本を右翼に飛ばし、さらに1950年から1954年まで、39本連続で右翼方向に本塁打を放った記録も持つ[25]。千葉が右翼にばかり打っているため、対戦チームは千葉シフトとして一二塁間を狭くする守備を敷いたが、千葉の打球はその狭い一二塁間をライナーで破って行った。千葉の右打ちは、小柄な打者がバットを短く持って当てるだけのものと異なり、ヘッド部分の重い35インチのバットをグリップエンドいっぱいに長く持って力強く打ち返す点に特徴があった[26]。千葉自身も「体が短小なものほど、長く持つことで、自分の非力をカバーできるし、大きなバッティングができる」と語っている[27]

また、「バットにとりもちが付いている」と呼ばれるほどファウルで粘った末に、四球を選んで出塁する巧打者でもあった。ファウルで粘って、最後はライトへうまく打つ、という技術は、当時のプロ野球界でも高い評価を受けた[11]。最盛期には「相手が変化球投手なら一日中でもファウルしていられる」と豪語していたという[28]

一リーグ時代は犠牲バントをする機会は多くなかったが、両リーグ分立後は監督水原茂からバントを命じられる機会が多くなる。千葉のバントはバットを引く等の小細工はせず、バットの芯よりもボール2個分ほど先の部分に投球を当てることで、芯を外しボールを殺していた。ボールが死ねば打球が投手の前に転がってもバントは成功する。さらに、投手前に転がってもバントは成功できるとの安心感があれば、気持ちのゆとりからファウルライン際の難しいバントも失敗を恐れずにできたという。千葉はグラウンド直径1mほどのをかいてそこにバントでボールを入れる練習や、一度ファウルグラウンドに打球を落とすが転がってくるうちにフェアグラウンドに入るようなバントの練習も行っていた[29]

人物[編集]

一本足でバットを寝かせる千葉の打撃フォーム
  • 人望に優れ、主将を務めた。1947年には、腸チフスで急逝した黒沢俊夫背番号4番を永久欠番にするように、選手を代表して球団に要望した。現役時から多くの選手に次期巨人監督に推されていたが、川上が監督に就任すると自らは巨人を去る。これについて、千葉は「わしが巨人に残っておったら、やはり哲(川上のニックネーム)はやりにくかろう、これはわしの犠牲バントだ」と述べている[30]
  • チームメイトであった青田によると、千葉はユニフォームの着こなしはビシッとしていて美しかったが、普段の服装はお世辞にも良いとは言えず、シャツの裾はだらしなくはみ出し、ドタを履き潰すような格好で、とても一流の野球人とは言えない程酷かったという。しかし、それらの服はどれも一流のブランド品ばかりであり、びっくりしたとのエピソードも自著で紹介している[31]
  • 落語家立川談志が若手の頃、落語家の草野球チームに参加しており、プロ野球選手も試合を見に来る事があった。談志によると、小学生相手にも負けるようなこの下手糞なチームを西本幸雄や広岡は冷たい目で見ていたが、一人千葉茂がひっくり返って大笑いしながら見ていた。談志は「私ゃ千葉さんが大好きだ。(それに対し)広岡というのは愛想の無ぇ面白みの無い男だと思ったね」と著書で述べている。
  • 1948年に銀座の洋食店「グリルスイス」で、千葉がカツレツカレーに乗せて食べたことから、店主が「カツカレー」を新メニューとして発案したことが知られている[32] [11]
  • 1957年、巨人軍の合宿所「多摩川寮」でそれまで盛り切り一杯であった米飯がおかわり自由になった[33]。これは千葉が多摩川寮所管の本社厚生課に話をしたのがきっかけであり、知らせを聞いた巨人の若手選手は十時啓視の音頭で万歳三唱した[33]。十時は千葉に請われて近鉄に移籍しており、現役後は辞典教科書などを印刷製本する「光写真印刷」の社長になると、蒲田駅のそばの本社ビルの社長室に、おかわりが自由になった日の記念写真を飾っていた[33]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1938 巨人 34 143 122 18 36 4 7 0 54 17 2 -- 0 -- 21 -- 0 9 -- .295 .399 .443 .841
1938 40 187 142 29 32 4 1 2 44 18 6 -- 1 -- 43 -- 1 20 -- .225 .409 .310 .718
1939 95 432 354 60 108 7 3 3 130 51 12 -- 4 4 69 -- 1 38 -- .305 .420 .367 .787
1940 90 394 320 51 90 9 4 3 116 38 16 -- 6 2 65 -- 1 39 -- .281 .404 .363 .767
1941 82 371 316 44 74 9 3 1 92 31 15 -- 3 -- 52 -- 0 18 -- .234 .342 .291 .634
1946 93 421 358 60 103 15 6 5 145 60 10 6 4 -- 59 -- 0 15 -- .288 .388 .405 .794
1947 103 447 391 58 117 13 7 4 156 34 9 5 5 -- 51 -- 0 25 -- .299 .380 .399 .779
1948 135 587 522 77 148 23 6 14 225 57 13 9 10 -- 55 -- 0 28 -- .284 .352 .431 .783
1949 134 634 551 121 169 15 2 15 233 59 12 8 6 -- 76 -- 1 48 -- .307 .392 .423 .815
1950 121 550 435 96 126 13 0 8 163 45 16 4 10 -- 105 -- 0 46 10 .290 .428 .375 .802
1951 114 541 451 86 124 9 3 8 163 61 22 7 14 -- 76 -- 0 48 6 .275 .380 .361 .741
1952 120 556 455 87 142 22 4 10 202 62 11 5 24 -- 76 -- 1 43 12 .312 .412 .444 .856
1953 120 537 462 87 148 31 1 12 217 80 3 9 19 -- 55 -- 1 46 15 .320 .394 .470 .864
1954 120 515 433 68 109 13 3 7 149 48 7 4 26 3 53 -- 0 51 14 .252 .333 .344 .677
1955 96 393 321 37 76 6 2 4 98 30 1 2 17 0 55 0 0 36 12 .237 .348 .305 .654
1956 15 14 10 2 3 1 0 0 4 0 0 1 2 0 2 0 0 5 0 .300 .417 .400 .817
通算:15年 1512 6722 5643 981 1605 194 52 96 2191 691 155 60 151 9 913 0 6 515 69 .284 .385 .388 .773
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1946 巨人 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 21 4.0 8 0 0 0 0 2 0 0 4 4 9.00 2.00
通算:1年 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 21 4.0 8 0 0 0 0 2 0 0 4 4 9.00 2.00

年度別監督成績[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1959年 近鉄 6位 51 12 39 0 .235 - - - - 40歳
1960年 6位 131 43 87 1 .331 39.0 69 .236 3.61 41歳
1961年 6位 140 36 103 1 .259 51.5 68 .229 3.96 42歳
通算:3年 322 91 229 2 .284 Bクラス3回
  • 1959年は6月18日まで指揮。残り試合は林義一が代行。(82試合27勝52敗3分)

表彰[編集]

  • ベストナイン:7回 (1947年 - 1953年)※1950年は二塁手部門でのセ・リーグ史上初の受賞
  • 野球殿堂特別表彰(1980年)

記録[編集]

節目の記録
その他の記録
  • 1試合最多得点:6、1948年10月16日、対大陽ロビンス戦 ※プロ野球記録[34]
  • 1試合最多塁打:15、1948年10月16日、対大陽ロビンス戦 ※一リーグ時代記録[35]
  • オールスターゲーム出場:5回 (1951年 - 1955年)

背番号[編集]

  • 30 (1938年)
  • 22 (1939年 - 1941年)
  • 3 (1946年 - 1957年)
  • 31 (1958年 - 1961年)

関連情報[編集]

著書[編集]

  • 『嗚呼、我が心の長嶋茂雄』(2001/03 ラインブックス ISBN 4898090710)
  • 『巨人軍の男たち』(1984/01 東京スポーツ新聞社 ISBN 4808400650)
  • 『プロ野球人別帳―プロ野球を支えた個性派選手たち』(1984/01 恒文社 ISBN 4770405669)
  • 『猛牛一代の譜―無冠のセカンド讃歌』(1983/01 ベースボール・マガジン社 ISBN 4583023472)
  • 『猛牛一代』(1977/06 恒文社 ISBN 4770402600)

脚注[編集]

  1. ^ 『後楽園球場のサムライたち』99頁
  2. ^ a b c d e f VICTORYアスリート名鑑 千葉茂
  3. ^ 『後楽園球場のサムライたち』103頁
  4. ^ 『巨人軍の男たち』25頁
  5. ^ 『巨人軍の男たち』65頁
  6. ^ 『後楽園球場のサムライたち』103頁
  7. ^ 『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』217頁
  8. ^ 『巨人軍の男たち』108頁
  9. ^ 『プロ野球記録大鑑』351頁
  10. ^ 『阪神タイガース 昭和のあゆみ』(1991年)P133 - 134
  11. ^ a b c d e f g 千葉茂
  12. ^ a b 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』185頁
  13. ^ 『後楽園球場のサムライたち』118頁
  14. ^ 大井廣介『タイガース史』(ベースボール・マガジン社、1958年)
  15. ^ 『後楽園球場のサムライたち』120頁
  16. ^ a b c d e f g h i j k l 【1月9日】1959年(昭34)近鉄、猛牛監督就任でパールスからバファローへ スポニチアネックス 日めくりプロ野球1月
  17. ^ 『プロ野球記録大鑑』202頁
  18. ^ 「18歳の4番打者」が辿り着いたバッティングの極意【土井正博】
  19. ^ 週刊ベースボールONLINE 変化球こそPLAY BASEBALLの原点! 遊び心で打者をもてあそんだ3つの変化球
  20. ^ クラシックSTATS鑑賞 1959年G.ミケンズ、全登板成績【グレン、リメンバーパールハーバーや】
  21. ^ a b 『ジャイアンツ栄光の70年』42頁
  22. ^ a b 『後楽園球場のサムライたち』109頁
  23. ^ 『巨人軍の男たち』66頁
  24. ^ 週刊ベースボールONLINE 一塁手を見ずに送球、徹底した右打ち 千葉茂の名人芸
  25. ^ 『プロ野球記録大鑑』477頁
  26. ^ 『後楽園球場のサムライたち』106頁
  27. ^ 『猛牛一代の譜』
  28. ^ 『後楽園球場のサムライたち』117頁
  29. ^ 『後楽園球場のサムライたち』120頁
  30. ^ 『サムライ達のプロ野球』128頁
  31. ^ 『サムライ達のプロ野球』123頁
  32. ^ 銀座スイス-千葉茂さんとカツカレー
  33. ^ a b c 森、国松…巨人昭和30年組のささやかなご褒美メシ
  34. ^ 『プロ野球記録大鑑』532頁
  35. ^ 『プロ野球記録大鑑』514頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]