南小柿州吾

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本来の表記は「南小柿洲吾」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
みながき しゅうご
南小柿 洲吾
Shugo Minagaki.jpg
生誕 (1845-03-12) 1845年3月12日
日本の旗 日本美濃国
死没 (1917-10-27) 1917年10月27日(72歳没)
日本の旗 日本東京都
墓地 東京雑司ヶ谷
国籍 日本の旗 日本
職業 蘭方医牧師

南小柿 州吾(みながき しゅうご 、弘化2年2月5日1845年3月12日) - 1917年10月27日)は、日本医師牧師。南小柿が残した文書は貴重な歴史的資料として横浜開港資料館に展示されている。[1]

生涯[編集]

1883年第三回全国基督信徒大親睦会の幹部の記念写真、南小柿は最後列の右から2人目

美濃国蘭方医南小柿浦祐宗宅の子として生まれ、宗宅の名を継ぎ山城淀藩の藩医になる[注釈 1]

1874年(明治7年)6月、カナダ・メソジスト教会宣教師ジョージ・コクランより洗礼を受ける。その後、長老派に移り、J. C. ヘボンにより形成され、ヘンリー・ルーミスが仮牧師に就任した横浜第一長老教会(住吉教会、横浜指路教会)の初代長老に就任する[2]

1875年(明治8年)、小南柿は石原保太郎原猪作、篠原誾三、角谷省吾らと築地六番神学校を受験する[3]

1876年(明治9年)9月11日に横浜市住吉町2丁目の土地を個人で購入し、その土地に住吉教会の会堂を建設する[4]。 そして住吉教会(現、日本基督教団横浜指路教会)の牧師となる。1883年(明治16年)5月には第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として参加し、植村正久内村鑑三と一緒に写真に写っている[5]

更に、群馬県高崎で伝道をしてから、名古屋教会牧師に就任する。1891年(明治24年)7月20日に南長老教会宣教師のC・K・カミングの招きにより、日本基督教会(現、日本キリスト教会)岐阜教会の初代牧師に就任する[2]

しかし、1898年(明治31年)に日本美普教会に転籍する[注釈 2]静岡江尻、東京目白台の各教会の牧師を歴任した。墓所は東京雑司ヶ谷にある。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 伝承では先祖は斎藤道三の孫・龍興の家老であったと言われる。1564年稲葉山城の戦い稲葉山城が落城した時に小柿に逃げ、その南に隠れ住んだので南小柿になったという。5代前の先祖・斎藤官衛門の時に、南小柿姓への改姓を願い出て許可されたと言われる。石原 2005, pp. 198-199
  2. ^ 南小柿が日本基督教会を脱会したのは、友人の田村直臣が『日本の花嫁』事件で教師を罷免されたことが原因だったと言われる[2]

出典[編集]

  1. ^ 資料よもやま話1『禁酒会のおきて』” (日本語). 横浜開港資料館. 2016年12月29日閲覧。
  2. ^ a b c 水垣 1988, p. 1363
  3. ^ 中島 2003, pp. 70.
  4. ^ 資料よもやま話1『禁酒会のおきて』” (日本語). 横浜開港資料館. 2016年12月29日閲覧。
  5. ^ 土肥 1988, pp. 428.

参考文献[編集]

研究書[編集]

  • 高橋昌郎 『明治のキリスト教』 吉川弘文館、2003年。ISBN 4-642-03752-7。 
  • 守部喜雅 『日本宣教の夜明け』 いのちのことば社、2009年。ISBN 978-4-264-02638-9。 

事典[編集]

  • 『日本キリスト教歴史大事典』 教文館、1988年。ISBN 4-7642-4006-8。 
    • 土肥昭夫、「基督教信徒大親睦会」 『日本キリスト教歴史大事典』、428頁。 
    • 水垣清、「南小柿洲吾」 『日本キリスト教歴史大事典』、1185頁。 
  • 『旧約新約聖書大事典』 新教出版社、2003年。ISBN 4-400-22740-5。 
    • 中島耕二、「カロザース」 『長老・改革教会来日宣教師事典』、59-77頁。 

論文[編集]

  • 石原力 「南小柿寧一とその家系」、『日本医史学雑誌』 第51巻第2号198-199頁、2005年。