南海蔭山新監督急死騒動

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南海蔭山新監督急死騒動(なんかいかげやましんかんとくきゅうしそうどう)は、1965年11月13日鶴岡一人の後任として、日本プロ野球球団「南海ホークス」の監督に就任したヘッドコーチの蔭山和夫が、僅か4日後の11月17日に急死したことによって生じた騒動である。

鶴岡の南海退団、蔭山の新監督就任[編集]

読売ジャイアンツとの対戦となった1965年の日本シリーズ11月5日に第5戦が後楽園球場で行われ、南海ホークスが2-3で敗れて日本一を逃した。一夜明けた11月6日、監督の鶴岡一人は大阪市内の旅館「新常盤」で17時から記者会見を行い、「南海を退団したい。明日(7日)に壷田修オーナーへ辞表を提出する」と発表した[1]。鶴岡はその言葉通り、11月7日に高石町(現・高石市)にある壷田の自宅を訪れ、辞表を提出した。その際に球団社長の新山滋も同席し、壷田と新山は鶴岡に思い留まるよう説得したが、鶴岡の意思は固く、退団は決定的となった。

鶴岡の記者会見が行われていた日、ヘッドコーチの蔭山和夫も日本シリーズ敗退の責任をとって、鶴岡より一足先に球団へ辞表を提出していた。蔭山はその直前、自宅へ報道陣を招いて心境を語った際に辞表を提出することを明らかにしていた[2]。蔭山はチームが低迷していた1962年、鶴岡が「指揮官が悪ければ部下は全滅する」と言って休養した際に監督代行を務め、最終的にチームを2位まで引き上げた実績があり、鶴岡の後任として最有力候補だった。その蔭山が辞表を提出したことで、南海ホークスは大揺れとなった。当時、阪急ブレーブス監督の西本幸雄が蔭山をヘッドコーチとして招聘することを目論んでおり、蔭山と親交のあったフロントの矢形勝洋を通じて内諾を取り付けていたという[3]

11月8日、南海ホークスは大阪市内で役員会を開き、鶴岡の辞任を承認すると同時に、蔭山の監督昇格を決定した。役員会終了後、新山はすぐに鶴岡の自宅を訪ねて辞任を了承したこと、蔭山の監督就任を説得するための協力を依頼し、鶴岡は「出来るだけ協力する」と了承した。新山はその足で蔭山の自宅を訪ねて、退団を撤回して監督就任を要請した。蔭山は退団の意志が固いことを強調したが、新山は粘り強く説得を続け、蔭山も「しばらく考えさせてほしい」として態度を保留した。蔭山は翌日、大阪市内の鶴岡の自宅を訪問して球団からの監督就任要請について相談し、そのまま新山の元を訪れて「条件をのんでくれれば(南海の)監督を引き受ける」と回答した[4]

11月11日の午前、新山は蔭山を大阪市内の球団事務所に招き、蔭山が9日に提示した条件を了承すると伝えた。しかし蔭山は「口約束だけでは不安」と述べて、条件を文書化させてほしいと要望した。11月13日午前、南海電鉄本社内で壷田、新山、蔭山、鶴岡の4名が話し合い、球団は蔭山の要望を全面的に認めた。そして同日13時45分から新山が本社内で記者会見を開き、蔭山の南海ホークス監督就任を発表した[5]

鶴岡争奪戦[編集]

南海ホークスを退団した鶴岡に対しては、11月8日に鶴岡の辞任が了承、蔭山の昇格が決定されたことを受け、東京オリオンズオーナーの永田雅一が大映本社で記者会見し、「鶴岡君獲得のため、10日に大阪へ行く予定だ」と話して鶴岡の監督就任を正式に要請することを表明した[6]。永田は当時、パシフィック・リーグの総裁も兼任しており、リーグ繁栄のためには鶴岡をパ・リーグに残留させることが必要だと説いた。東京に続き、サンケイ・スワローズ球団社長の友田信も翌日に本社内で記者会見を開き、鶴岡獲得を目指すことを正式表明した[7]

永田は予定通り、11月10日午後に大阪へ着くとそのまま伊丹空港で記者会見を開き、「(南海の)壷田オーナーに了解を得ることと、(鶴岡が)パ・リーグに残ってくれるよう頼みたい」と語った。11日午前中、永田は南海電鉄本社の壷田を訪ねた後、そのまま鶴岡の自宅を訪ねて、東京オリオンズの監督就任を要請した。鶴岡は会談後に記者団へ対し、「(永田から東京オリオンズの)監督就任を要請された。永田さんの次にサンケイの水野社長と明日会う予定だが、二人とも会うのは一回だけにしたい。今日、永田さんの条件を聞いて、明日水野さんに条件を聞いたうえで、これまで世話になった人とも相談してどちらかに決める」と語った[8]。鶴岡は言葉通り、翌日午前中に大阪市内のホテルで水野と会い、正式に監督就任を要請された。鶴岡は永田、水野両者とも、同じ内容で入団条件や選手の補強方針などを問いただした。

東京、サンケイの両者と会談した鶴岡は、11月13日午前中に南海電鉄本社内で行われた蔭山、壷田、新山との話し合いの後に報道陣へ対し「(東京、サンケイか)どちらを選ぶかは16日か17日までに決める。決まった場合は東京で発表したい」と語った。鶴岡は旅館「新常盤」で有力後援者4名、実兄と相談を重ね、球団を決める期限となった16日も午前中から夕方まで協議を重ね、その間に「新常盤」には多数の報道陣が詰めかけ、鶴岡の動静を見守った。13時頃には鶴岡の代理として友人が姿を見せ、「(鶴岡は)まだ決めかねている」と語ったが[9]、16時を過ぎてから鶴岡本人が姿を見せた。この時の鶴岡には安堵の表情が見られ、球団名は明かさなかったものの、集まった報道陣に「明日(17日)午前に東京へ向かい、16時に旅館『神宮橋』でこれまでの経緯と(就任を決めた)球団を発表する」と語った[10]

だが、17日の当日、思わぬ事態が発生する。

蔭山の突然死[編集]

11月13日に南海ホークスの監督就任が決まった蔭山は、16日に大阪市内で毎日新聞のインタビューに応じた後に高石町の自宅に帰宅、24時過ぎにブランデー精神安定剤を服用して就寝したが、午前3時頃に母・ミキ枝が応接間で倒れている蔭山を発見した。蔭山は近くの高石病院へ救急搬送されたが、その際に妻へ「野村(選手会長兼主将)に連絡してくれ」と言ったのが最後の言葉となった[11]。蔭山はすでに衰弱しており、午前4時頃に心肺停止、心臓マッサージを行ったが蘇生せず、そのまま死去した(享年38)。病院は死因を「急性副腎皮質不全」と診断し、最近のストレスが重なったものだろうと話した。家族の話では、蔭山は日本シリーズ終了後の11月6日から毎日2時間程度しか睡眠できず、精神安定剤を多量服用しており、亡くなる直前の数日は誰が見ても明らかにやつれていたという[12]。蔭山は南海ホークス監督就任から僅か4日で死去、それも鶴岡が監督就任を発表する当日だっただけに、世間に衝撃を与えた[13]。鶴岡は蔭山の訃報を聞き、予定していた上京を延期すると表明した[14]

蔭山の急死によって、南海は鶴岡の後任を再び選ばなくてはならなくなった。新山は同日夕方に本社内で、「蔭山氏の球団葬が終わり次第、後任監督を決める。後任者はチーム内から選定する。鶴岡氏を呼び戻すつもりはいまのところ無い」と語った[15]が、チーム内からは鶴岡の監督復帰を望む声が日に日に高くなった。翌日、選手会長兼主将の野村が鶴岡の自宅を訪ね、監督復帰を直接要請したが、鶴岡は「気持ちはありがたいが、むげに断れないし、かといって『はい、そうですか』とも言えない」と返事を保留した。野村はその足で新山の自宅を訪ね、選手代表としての意志を伝えた。そして、球団も鶴岡の監督復帰を要請する方針を固めた。

鶴岡、南海復帰[編集]

11月19日、蔭山の密葬が14時から高石町の自宅で行われた。密葬後、壷田は16時30分から南海電鉄本社で鶴岡に対して監督復帰を要望した。これに対して鶴岡は「親しい人と相談して明日までに返事を出す」と約束した。20日、蔭山の球団葬と告別式が13時より阿倍野の斎場で執り行われ、鶴岡は参列後にそのまま南海電鉄本社へ向かい、16時40分から行われた記者会見において「故・蔭山監督の遺志を継ぐため、再び南海のユニフォームを着ます」と語り、鶴岡の南海復帰が決定した[16][17][18]

鶴岡の南海復帰が決まったため、獲得を目指していた東京とサンケイは新たに監督を選任しなくてはならなくなった。永田は同日に東京都内で記者会見し、「(鶴岡とは)縁が無かった。諦めきれないが諦めるしかない。だが、(鶴岡が)パ・リーグに残ってくれたのがせめてもの慰め」[19]、サンケイ球団社長の友田も「招聘したかったが、南海の内部事情で実現できず残念。新監督は21日に発表することとしている」と語った[20]。その後、サンケイはヘッドコーチの飯田徳治の監督就任を発表、東京も25日に二軍監督だった田丸仁の就任を発表した。

11月21日、鶴岡は上京して東京の永田、サンケイの水野両オーナーを訪れ、お詫びの挨拶をした。永田は謝罪しようとした鶴岡の言葉を遮り、「プロ野球と日本人の人情は相いれないものがある。人情はもう今回で終わりにして、これからは人格を変えてやれよ」と忠告したという[21]

蔭山の急死によって、「南海を退団した鶴岡の次なるチームはどこだったのか」が疑問として残されたが、鶴岡本人が沈黙を保っていた。しかし、1985年に永田が死去した際に報道陣に対して「あの人(永田)のお世話になるつもりだった」と漏らした[22]

脚注[編集]

  1. ^ 毎日新聞1965年11月7日13面「『南海をやめる』と鶴岡 監督20年、いい区切り プロ野球生活は続ける」
  2. ^ 朝日新聞1965年11月7日15面「鶴岡南海監督が辞意 蔭山コーチも辞表出す」
  3. ^ 福本豊『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』ベースボール・マガジン社、 2014年、pp.60 - 61
  4. ^ 読売新聞1965年11月10日11面「蔭山、条件付き承諾 南海監督『チーム再編など』」
  5. ^ 朝日新聞1965年11月14日12面「肩の荷おろした表情 南海新監督 蔭山が記者会見」
  6. ^ 毎日新聞1965年11月9日13面「鶴岡獲得に全力 東京 永田オーナーが語る」
  7. ^ 朝日新聞1965年11月10日13面「サンケイも動き出す "鶴岡獲得"を正式表明」
  8. ^ 朝日新聞1965年11月12日13面「鶴岡前監督 永田氏とまず会談 今日は水野氏と」
  9. ^ 読売新聞1965年11月17日10面「鶴岡、きょう就任球団を発表 サンケイか東京か すでに態度決める」
  10. ^ 毎日新聞1965年11月17日13面「ハラをきめた鶴岡氏 東京か産経か、きょう発表」
  11. ^ 読売新聞1965年11月17日夕刊9面「蔭山南海監督が急死 過労、眠れなかったここ数日」
  12. ^ 毎日新聞1965年11月17日夕刊7面「プロ球界にショック 蔭山南海監督が急死 就任四日後 重なる気疲れ」
  13. ^ 朝日新聞1965年11月18日天声人語
  14. ^ 毎日新聞1965年11月17日夕刊7面「鶴岡氏、上京とりやめ 去就は20日の葬儀後に」
  15. ^ 毎日新聞1965年11月18日13面「チーム内から選ぶ 蔭山氏死去 南海の後任監督」
  16. ^ 朝日新聞1965年11月21日15面「鶴岡親分 涙のカムバック "蔭山君の霊前で" 選手の願いに復帰決意」
  17. ^ 毎日新聞1965年11月21日15面「『選手らの熱意に動かされ』鶴岡氏、南海復帰を発表」
  18. ^ 読売新聞1965年11月21日15面「鶴さん、南海に帰る『故蔭山監督の遺志つぐ』」
  19. ^ 毎日新聞1965年11月21日13面「恋人よ、さようなら 落胆の永田氏」
  20. ^ 読売新聞1965年11月21日8面「飯田コーチが昇格か サンケイは今日発表」
  21. ^ 毎日新聞1965年11月22日13面「鶴岡氏が東京と産経に謝意」
  22. ^ 高山智明「20年ぶりに得たスクープの裏づけ証言」『Sport Graphic Number』昭和61年5月20日発行,p34,文芸春秋