単于都護府

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単于都護府(ぜんうとごふ)は、中国唐代の六都護府の一つ。内蒙古突厥などの諸部族を統治するために置かれた。650年に設置。664年に雲中都護府から改称された。

沿革[編集]

背景[編集]

テュルク系の部族の薛延陀(せつえんだ)が滅亡した時、唐は外モンゴル鉄勒諸部族には六都護府・七刺史州を置き、オルドスの北辺に燕然都護府を設けた。これらの都護府・刺史らによって、長年中国王朝にとって脅威であった北方遊牧民族に対して備えたのであった。

設置[編集]

また、突厥の部族には、649年に雲中都督府・定襄都督府を設置し、これ等の都督府によってこれらの地域を統治させた。663年に燕然都護府を瀚海都護府と改名し、その統治を外モンゴル地域に移した。また、雲中都護府を東受降城(現在の内モンゴル自治区フフホト市トクト県)付近に置き、専ら突厥の部族を管轄させたが、翌664年に雲中都護府を単于都護府と改称し、単于都護府が誕生した。679年680年の二度にわたり、単于都護府支配下の突厥が反乱して唐軍に討たれたが、ついに682年東突厥の可汗阿史那骨咄禄(クトゥルグ、イルティリシュ・カガン)が独立して単于都護府を攻め、支配下に入れた。こうして、単于都護府の北方地域の支配は、幕を閉じたのであった。

統治[編集]

突厥の勢力範囲

この都護府は、主に内モンゴル地域を支配し、東受降城(現在の内モンゴル自治区フフホト市トクト県)付近にあったという。単于都護府は、テュルク系民族の諸部を統轄し、長年の敵である遊牧民族に備えたのであった。東受降城付近にあった。高宗の時期に設置された六都護府の一つであり、この都護府は突厥などのテュルク系民族の諸部を統べた。

関連項目[編集]