反ユダヤ主義

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反ユダヤ主義(はんユダヤしゅぎ)とは、ユダヤ人およびユダヤ教[* 1]に対する敵意、憎悪、迫害、偏見を意味する[2]。 旧約聖書エステル記に離散したユダヤ人(ディアスポラ)に対する反ユダヤ的態度がすでに記述されており、 19世紀以降に人種説に基づく立場は反セム主義(はんセムしゅぎ)またはアンティセミティズム英語: Antisemitism)とも呼ばれる[2][3]


目次

名称[編集]

反セム主義(Antisemitism)という名称は、ヴィルヘルム・マル(Wilhelm Marr)による1879年の使用が最初とされる[4][3][5]

セム族とアーリア族を人類の決定的区分としたのはエルネスト・ルナンのHistoire Générale et Systèmes Comparés des Langues Sémitiques. (初版1855、第三版1863)であり、またP.M.Massingは「反セム主義」を最初に用いたのもルナンであると主張している[3]

近代の反セム主義については、近代以前のユダヤ人憎悪とは区別して、人種論的反セム主義ともいう[6]

古代から中世前期までの反ユダヤ主義[編集]

以下では、反ユダヤ主義の歴史だけでなく、反ユダヤ主義が生まれた背景として、ユダヤ人をとりまく時代ごとの状況、各国各社会のなかでのユダヤ人取扱いや、またユダヤ側の反応などの歴史を述べる。

古代ローマ帝国[編集]

  • 66年ローマ帝国ユダヤ属州総督のユダヤ迫害に対して、ユダヤ教過激派が反乱を起こしてユダヤ戦争が始まった[7]70年にローマ軍はこれを鎮圧し、ヨセフスもローマ軍に投降し、サドカイ派エッセネ派のクムラン教団はこの戦争で消滅した[7][8]。戦後、ユダヤ教は存在を許されたが、エルサレムの神殿体制は崩壊し、ファリサイ派はヤブネの土地を拠点とした[8]。ユダヤ戦争の際にキリスト教徒は反乱に加わることはなく、ユダヤ教徒はキリスト教徒を敵視した[7]
  • 313年、ローマ帝国皇帝リキニウスコンスタンティヌス1世は「キリスト者およびすべての者らに、何であれその望む宗教に従う自由な権限を与える」とのミラノ勅令を出した[9]
  • 380年ローマ帝国がキリスト教を国教とする。
  • 392年 - ローマ帝国がキリスト教以外の宗教、ローマ伝統の多神教を禁止[10]。ユダヤ教は多神教でなく一神教なのでこの時に迫害は受けていない。

西ゴート王国[編集]

西ゴート王国(415年 - 711年)
  • 589年、カトリックに改宗した西ゴート王国は、第3回トレド公会議でユダヤ人がキリスト教徒の奴隷や妻を持つことが禁止された[11]
  • 612年西ゴート王国のシセブート王がユダヤ人にキリスト教の洗礼を強制し、また第4回トレド公会議では改宗したユダヤ人に訴訟を禁止した[11]
  • 639年西ゴート王国の第6回トレド公会議でユダヤ教の宗教儀礼を禁止する誓約書を提出されるキンティラ王の政策を追認した[11]
  • 653年、第8回トレド公会議で西ゴート法典でユダヤ教の宗教儀礼を禁止した[11]
  • 680年、第12回トレド公会議でエルウィック王の反ユダヤ法が承認され、ユダヤ人の強制改宗が法的に定められ、違反者は追放、奴隷や財産の没収が課せられた[11]
  • 693年西ゴート王国のエギカ王が前王の勢力の陰謀に対して、第16回トレド公会議で、陰謀に加担した大司教や貴族の財産没収を命じるとともに、キリスト教に改宗しないユダヤ人の財産没収を命じ、西ゴート法典に同文が追加された[11]
  • 694年、第17回トレド公会議で、エギカ王はユダヤ人による王国転覆計画が発覚したので、「ヒスパニアのユダヤ人を全員奴隷とする」と司教たちは議決した[11]

8世紀〜11世紀[編集]

中世の反ユダヤ主義[編集]

フランス王国[編集]

イスラムに破壊された後、再建された聖墳墓教会
  • 1009年イスラム王朝ファーティマ朝聖墳墓教会を破壊したが、これをユダヤ人がそそのかしたという噂がフランス王国では流布し、局地的に強制改宗や追放がなされた[12]。これ以降、イスラム教徒とユダヤ教徒がキリスト教世界の覆滅を共謀しているという見方が一般的なものとなり、復活祭にはユダヤ共同体の長が平手打ちを受けるという慣習がはじまった[12]
  • 1096年 - 十字軍の始まり。十字軍は反ユダヤ主義を強化して、民衆十字軍からの攻撃に対してユダヤ教徒は買収によってまぬがれた[12]
  • 12世紀に、教会はユダヤ人の土地取得にともなう十分の一税の補填を要求したため、ユダヤ人は土地を手放すようになり、また都市同業組織はキリスト教兄弟団の性格もあり、手工業はユダヤ共同体内部にとどまった[12]。こうしたことを背景に、ユダヤ人は金融に特化していった[12]。利子つきの金融をカトリックでは禁止しており、またユダヤ教でも「あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。」(出エジプト記22-25)や戒律で禁止されていたが、ユダヤ教の場合は異教徒への金融は許されていた[12]。ユダヤ金融の利子は3から4割にも及んだので、多くの債務者は担保物件を失った[12]。こうしてユダヤ人金融業への敵意が増大していった[12]ルイ9世フィリップ4世のユダヤ金融を規制した[12]
  • 1171年ブロワでユダヤ人がキリスト教徒の子供を誘拐して儀式的殺人を行ったとして、ユダヤ人30人が処刑された[12]
  • 1182年フィリップ2世はユダヤ人を追放した[12]。1196年に呼び戻した[12]12世紀末から13世紀初めには、フランス領主が、ユダヤ人を相互に返還する取り決めをしていた[12]
  • ルイ9世(在位:1226年 - 1270年)がユダヤ人の改宗政策[12]
  • 1215年、それまでカトリック教会はユダヤ人への暴力による改宗を禁じていたが、第4ラテラノ会議でユダヤ人がキリスト教徒と性的関係を持てないように衣服に識別徴章をつけさせ、またユダヤ金融業を規制した[12]
  • 1240年、教皇命でパリでタルムードが押収された[12]
  • 1290年、パリでユダヤ人がキリスト教徒の子供を誘拐して儀式的殺人を行ったとして、ユダヤ人が告発された[12]
  • 1306年 - カペー朝フランス王国フィリップ4世は財政窮乏に苦しんだため、ユダヤ人とロンバルド人(イタリア)商人の財産を没収し、国外追放し、一部は南フランスへ移住した[13][12]
  • 1315年ルイ10世が高額賦課と引き換えにユダヤ人に2年の帰還を許可した[12]
  • 1320年、フランス南西で牧童十字軍が大規模なポグロム
  • 1322年、フランス王国で再びユダヤ追放令[12]

ペストの時代[編集]

ペストを描いた絵画

1348年から1349年にかけての黒死病(ペスト)大流行のスケープゴートとしてユダヤ人迫害が各地で発生した[14][12]。フランス王国ではユダヤ人による毒散布の噂が広まり、最大規模のポグロムが起きて、フランス王国内のユダヤ人共同体はほぼ消滅した[12]

  • 1348年 - ジュネーヴにてペストの原因としてユダヤ人迫害[14]
  • 1349年 - ベルンにてペストの原因としてユダヤ人迫害[14]
  • 1359年 - フランス王国はユダヤ人呼び戻しをして、多少のユダヤ人が戻った[12]
  • 1380年代には、フランスのパリで再びユダヤ襲撃が起こった。
  • 1394年には、フランス王国で最終的なユダヤ追放令がだされた[12]。フランス王国以外の教皇領やプロヴァンス伯領ではユダヤ共同体が存続した[12]。しかし、プロヴァンス伯領でも1420年代からポグロムが発生した[12]。ルネ・ダンジュ−プロヴァンス伯はユダヤ財力を利用するためにユダヤ人を保護したが、1473年以降教会と民衆のユダヤへの反感ははげしくなった[12]。ダンジュ−死後1481年にプロヴァンス伯領はフランス王国へ合併されたため、ユダヤ人は離散した[12]

カスティーリャ王国(スペイン)[編集]

エンリケ2世
  • 1366年以降、スペイントラスタマラ朝カスティーリャ王国)のエンリケ2世が武装蜂起すると、エンリケ2世は、ユダヤ人を登用した前王ペドロ1世に対してユダヤ人と王妃との不義の子である、キリスト教徒の犠牲の上にユダヤ人を保護する残忍王であるとの反ユダヤのプロパガンダを行った[15]。のちのエンリケ2世首席国璽尚書官ロペス・デ・アヤラは『ペドロ一世年代記』でも、ペドロ1世はユダヤ人やムスリムなどの敵と同盟して教会を冒涜したとされた[15]
  • 1370年以降、エシハの聖堂助祭フェラント・マルティネスが激しい反ユダヤ演説を繰り返した[16]
  • 1391年スペインカスティーリャ王国)のセビーリャで反ユダヤ運動が起こった[16]ペストの原因はユダヤ人とする反ユダヤ運動はコルドバ、トレド、バレンシア、バルセロナ、ブルゴスに飛び火し、各地で虐殺(ポグロム)を引き起こして、ユダヤ人共同体は潰滅的な打撃をうけて、キリスト教への改宗を強制された[16]
  • 15世紀初頭、バレンシアのドミニコ会士ビセンテ・フェレール(ビセン・ファレ−)がスペイン各地で反ユダヤ説教を繰り返し、多くのユダヤ人の改宗に成功した[16]。しかし、ユダヤ人の改宗者であるコンベルソもまた大きな問題となった[16]
  • 1413年-1414年 - ベネディクトクス13世がカタルーニャトゥルトーザで69回に亘る会議を開催、ナザレのイエスメシアであることをユダヤ教徒に説得しようとしたが、失敗。のち公開勅書により、キリスト教徒がタルムードを研究することを禁止。
  • 1476年のマドリガル、1480年のトレドの議会で、ユダヤ人の居住制限、公職追放、ユダヤ人標識の表示、キリスト教召使の雇用禁止、農地購入などが制限されたが、これは伝統的政策の踏襲であって、あくまでも国王隷属民としてのユダヤ人を保護するためのものだった[17]
  • 1480年以降、スペイン異端審問裁判所がスペイン各地で作られ、2000人のユダヤ人の改宗者コンベルソが処刑され、1万5000人が悔罪した[17]
  • 1492年、スペインでユダヤ人追放令[18][17]。これによって8万から15万のユダヤ人がスペインを退去した[17]。一部はオスマン帝国に逃れた[18]オスマン帝国1453年コンスタンティノポリスを占領し、東ローマ帝国を滅ぼした。多くのユダヤ人は新都市イスタンブールに移住した。ここでは、ムスリムが絶対的な優位を占め、キリスト教徒、ユダヤ教徒は差別を受けたものの、概ね共存が維持された。
  • 1497年 - ポルトガルからユダヤ追放[18]
  • 1499年、トレドで、ユダヤ人の改宗者コンベルソの商人が課税をフアン2世に献策すると、キリスト教民衆が激昂して、コンベルソ商人の自宅を焼き討ちした[16]

近世の反ユダヤ主義[編集]

宗教改革を代表するルターは論文『ユダヤ人と彼らの嘘について』でユダヤ人を攻撃する反ユダヤ主義者でもあった[19]

近代の反ユダヤ主義[編集]

イギリス理神論[編集]

理神論哲学者ジョン・トーランド(1670 – 1722) は当時イギリスで唯一ユダヤ人を擁護した[23][24]

宗教改革と宗教戦争を経て、16世紀ソッツィーニ派聖書権威を批判し、三位一体説予定説、キリストの神性を否定し、教会国家の分離(政教分離)を主張し、神だけの神性を主張し,イエスの神性を否定するユニテリアンに影響を与えた[25]。やがて、この潮流はハーバート卿やトーランドなどイギリスの自由思想家によって理神論(自然宗教)という理性に基づく合理主義的な有神論となった。

1624年、チャーベリーのハーバート卿は『真理について』を公刊し、デカルトなどに影響を与えた[26][27]

オランダのユダヤ系哲学者スピノザは匿名で1670年に『神学・政治論』を書き、聖書批判を行った。ピエール・ベールは『歴史批評辞典』 (1696年)でスピノザの聖書批判を紹介し、イギリスでも知られるようになった[23]

1696年に自由思想家で合理主義(理神論)哲学者ジョン・トーランドは『キリスト教は秘蹟的ならず』を著し、教父たちは真のキリスト教を堕落させてきたとして、「理に適った」(合理的な)教説を説き、キリスト教はもとはユダヤ教徒であったと論じた[23][28]。1718年の『ナザレ人』では、「ユダヤ教徒が奉じる真のキリスト教」はローマ帝国の異教徒たちによって圧殺され、また教皇制度はキリスト教を歪める一方で、ユダヤ教の儀式を非難してきたが、こうしたことの根拠は聖書には書かれていないと論じた[29][23]。トーランドにおいては、これまでのキリスト教世界が批判される一方で、ユダヤ人が擁護された[23]

トマス・ウールストンは1705年の著作『ユダヤ人と復活した異邦人に対するキリスト教の真実のための古い弁明』以来の著作やパンフレットで、ユダヤ人は「騒音と悪臭の根本」であり、「世界はユダヤ人の毒に満ちている」と論じた[30][23]。ウールストンの著作は何万部も刷られ、ヴォルテールはウールストンの著作を典拠にした[23]

トーランドは1714年に、『ユダヤ人帰化論、および全ての偏見に対してのユダヤ人の擁護』を刊行し、ヨーロッパ大陸からユダヤ人を受け入れるよう主張した[31][23]

ニュートンの推薦でルーカス教授職に就いたウィリアム・ホイストン1722年の『旧約聖書再現試論』でユダヤ人は旧約聖書の写本を歪め、故意に改悪したと論じた[32][23]

1724年、アンソニー・コリンズは『キリスト教基礎論』でユダヤ教は民族宗教にすぎないと主張した[33][23]ドルバック伯爵はコリンズから影響を受けた[23]

1730年、マシュー・ティンダルは『天地創造と同じ古さを持つキリスト教、あるいは自然宗教の福音』を刊行し、これは理神論のバイブルといわれたが、ユダヤ人の悪しき影響力を論じたものでもあった[34][23][35][23]

1737年、トマス・モーガンは『キリスト教徒の理神論者フィレラテスとキリスト教徒ユダヤ人テオファネスとの対話のなかの道徳哲学者』では、スピノザの神学を引き写して、イスラエルの神は戦の神であり、その土地の民族の神にすぎないとして、理神論者がキリスト教徒ユダヤ人に打ち勝つ[36][23]

1737年から1741年にかけてのウィリアム・ウォーバートンの『モーセの聖使節』では、神が最も粗野で卑しい民族を選んだということが啓示の根拠であると論じた[37] [23]

ボーリングブルックはユダヤ人とキリスト教教父たちはキリスト教を悪質なものへと変えたと非難した[23]

こうしたイギリス理神論は、ユダヤ人に取り憑かれたように非難していたわけではなかった[24]。しかし、ジョン・トーランドだけを唯一の例外としてほとんどの者が伝統的なキリスト教的な反ユダヤ主義を保持し続けた[24]。イギリスでの理神論は、ユダヤ=キリスト教の窮屈さ、旧約聖書排他主義を批判し、文明や人類の起源をエジプトやインドに求めていくようになり、これが後年の「アーリア神話」そして、ヒトラーの人種主義に行き着くことになった[24]

イギリス理神論は、フランスのヴォルテールジュネーヴルソーなど百科全書派や啓蒙主義者をはじめとして、ヨーロッパの思想に大きな影響を与えた[38][23]

啓蒙思想と反ユダヤ主義[編集]

啓蒙思想家ヴォルテールは反ユダヤ主義者でもあった[39][40]

ヴォルテール、カント、フィヒテなど啓蒙思想家のなかでも反ユダヤ主義は多くみられた[39]。また、それはドイツの啓蒙思想、ドイツ観念論でも同様であった。

1762年ジャン=ジャック・ルソーは『エミール』で、ユダヤ人を「もっとも卑屈な民」と称し、ユダヤの神は怒り、嫉妬、復讐、不公平、憎悪、戦争、闘争、破壊、威嚇の神であり、「はじめにただ一つの国民だけを選んで、そのほかの人類を追放するような神は、人間共通の父ではない」とした[41]

同じ1762年、ヴォルテールはユダヤ人のイザーク・ピントへの批判に対して「シボレットを発音できなかったからといって4万2千人の人間を殺したり、ミディアン人の女と寝たからといって2万4千人の人間を殺したり、といったことだけはなさらないでください」と「キリスト者ヴォルテール」と署名して答えた[42][* 2]1764年の『哲学辞典』ではヴォルテールは、ユダヤ人は「地上で最も憎むべき民」「もっとも忌まわしい迷信にもっとも悪辣な吝嗇を混ぜ合せた民」等と非難した[44]。しかし、ヴォルテールは啓蒙主義の進展に寄与したため、当時のユダヤ人側から厳しい評価が寄せられなかった[45]

1768年 - ポーランド支配下のウクライナでハイダマク(ハイダマキ運動)によるポグロムが発生した[21]

1770年、ユダヤ人哲学者モーゼス・メンデルスゾーンは街路を歩くと罵声を浴びせかけられるのが日常であったため、外出しないようにしていた[46]

モンテスキューはオランダ人の一部の人以上にユダヤ的なユダヤ人はいないと旅行記で述べた[47]

  • 1776年自由主義神学者のヨーハン・ゼムラーは「無能にして不信心なユダヤ人」は「誠実なるギリシア人やローマ人とは比較の対象にすらならない」として、旧約聖書、とりわけエズラ書ネヘミヤ書にはキリスト教的精神が欠如しており、聖書として永遠に必要不可欠なものであるのかと問いかけた[48][49]
  • 1781年、 ヴィルヘルム・コンラート・フォン・ド−ムの「ユダヤ人市民権の改良」[50]に対して、ヘブライ語やモーセ律法の研究で高名なルター派神学者ヨハン・ダーフィト・ミヒャエーリス(1717 – 1791)は、悪徳で不誠実な人間であるユダヤ人は背が低く、兵士としても役立たずで、その信仰は誤った宗教であり、ユダヤ人解放を拒否した[51][52][53]

フランス革命戦争・ナポレオン戦争以後のドイツ[編集]

フランス革命戦争ナポレオン戦争で、オーストリア帝国プロイセン王国がフランスに敗れ、神聖ローマ帝国が崩壊するなか、ドイツではドイツ至上主義・ゲルマン主義が台頭すると同時に、反フランス主義と反ユダヤ主義が高まっていった。

ドイツ観念論と反ユダヤ主義[編集]

  • 1793年、メンデルスゾーンなどユダヤ人哲学者と交流していたドイツの哲学者カントは、『単なる理性の限界内での宗教』 で「ユダヤ教は全人類をその共同体から締め出し、自分たちだけがイェホヴァ−に選ばれた民だとして、他のすべての民を敵視したし、その見返りに他のいかなる民からも敵視されたのである」[56]と述べ、また晩年の『実用的見地における人間学』(1798年)でも、「パレスティナ人(ユダヤ人)は、追放以来身につけた高利貸し精神のせいで、彼らのほとんど大部分がそうなのだが、欺瞞的だという、根拠がなくもない世評を被ってきた」と書いている[57]
  • 1793年 - ドイツの哲学者フィヒテは、「フランス革命覚書」でユダヤ人がドイツにもたらす害について述べた[58]。また、「ユダヤ人から身を守るには、彼等のために約束の地を手に入れてやり、全員をそこに送り込むしかない」[59]「ユダヤ人がこんなに恐ろしいのは、一つの孤立し固く結束した国家を形作っているからではなくて、この国家が人類全体への憎しみを担って作られているからだ」とし、ユダヤ人に市民権を与えるにしても彼らの頭を切り取り、ユダヤ的観念の入ってない別の頭を付け替えることを唯一絶対の条件とした[60]
  • 1795年ネーデルラント連邦共和国崩壊後にフランスの姉妹共和国としてバタヴィア共和国がオランダに成立した。バタヴィア共和国ではユダヤ人にも公民権を授与した[54]
  • 1796年 - フランスナポレオン・ボナパルトとオーストリアはカンポ・フォルミオ条約。この条約後、ゲットーが解体された。ナポレオンはイタリア、ローマ教皇領のユダヤ人の市民権を認めて解放し、ライン地方のユダヤ人も市民権を授与され解放された[54]。しかし、アムステルダムのセファルディはそれ以前の身分制度に満足していたため、市民権を不必要であるとしてユダヤ共同体も分裂状態となった[54]。こうしてナポレオンとフランスはユダヤ人解放者としての名声を確立した[54]。しかし、そのナポレオンもユダヤ人の非ユダヤ教化を望んでおり、またユダヤ人に対してはイナゴの大群のような臆病で卑屈な民族であるとして、ユダヤ人の「解放」は、これ以上他人に害悪を広めることができない状態に置いてやりたいだけであると述べ、ユダヤ人とフランス人との婚姻を進めれば、ユダヤ人の血も特殊な性質を失うはずだと、ユダヤ人種の抹消を目標としていた[54]
  • 1799年自由主義神学者のヨーハン・ゼムラーの弟子フリードリヒ・シュライアマハーは宗教論第5講話で、ユダヤ教は聖典が簡潔し、エホバとその民との対話が終わったときに、死んだと述べた[61][62]
  • ヘーゲルは『宗教哲学講義』でユダヤ人の奴隷的意識と排他性について論じ[63]、『精神現象学』(1807年)でユダヤ人は「見さげられつくした民族であり、またそういう民族であった」[64]1821年の『法の哲学』ではイスラエル民族は自己内へ押し込められ無限の苦痛にあるのに対して、ゲルマン民族は客観的真理と自由を宥和させるとした[65][66]。『キリスト教の精神とその運命』ではユダヤ人は「自分の神々によって遂には見捨てられ、自分の信仰において粉々に砕かれなければならなかったのである」、「無限な精神は牢獄に等しいユダヤ人の心の中には住めない」と批判した[67][68]

ナポレオン戦争と神聖ローマ帝国の崩壊[編集]

1800年、ナポレオンがマレンゴの戦いでオーストリア軍を撃破し、1801年リュネヴィルの和約神聖ローマ帝国はライン川西岸のラインラントを喪失した。1803年イギリスとフランスは再び開戦。イギリスは、オーストリア帝国、ロシアなどと第三次対仏大同盟を結成したが、ウルム戦役でオーストリアはナポレオン軍に降伏した。

1804年、ナポレオンがフランス皇帝を称したのに対してフランツ2世はオーストリア皇帝を称し、オーストリア帝国が成立した。同じ1804年、オーストリア帝国外相メッテルニヒの秘書官を務めたフリードリヒ・フォン・ゲンツ(Friedrich von Gentz,1764-1832)は、ユダヤ人サロンの常連であったが、「近代世界のすべての害悪が最終的にすべてユダヤ人に起因している」と書簡で本音を述べた[69]

1805年からの第三次対仏大同盟戦争でフランス軍はアウステルリッツの戦いでオーストリア=ロシア連合軍に勝利した。バイエルンヴュルテンベルクなどの領邦諸国家はナポレオンを支持し、1806年ライン同盟の16領邦が帝国脱退を宣言し、フランツ2世は神聖ローマ帝国の解散を宣言した[70]。ナポレオンのユダヤ政策の作成過程では、「ユダヤ人」は好ましくない偏見があるので、公文書からこの名称を一掃することが提案された[47]。ドイツ諸邦では行政の場では「モーゼ人(Mosaiste)」が奨励されたが定着しなかった[47]

1806年ナポレオン戦争プロイセン王国はイギリス、ロシア、ザクセン王国スウェーデン第四次対仏大同盟を結成するが、イエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍は完全に壊滅して、プロイセン全土がフランス軍に制圧された。1807年ティルジットの和約でプロイセンはエルベ川以西の領土とポーランドを失い、人口は半分以下となり、さらに巨額の賠償金を課せられた。プロイセン旧領にはナポレオンの弟ジェロームを王とするヴェストファーレン王国が置かれた。

ドイツロマン派とゲルマン主義[編集]

フィヒテの思想的影響を受けた作家エルンスト・モーリツ・アルント農奴制廃絶運動を行った後、1806年の著書『時代の精神』や1813年の歌「ドイツの祖国とは何か」などで、ナポレオンのドイツ支配を批判した。アルントはナポレオン批判のなかで、ゲルマン人種が選民であると論じ、自由で誠実なゲルマン人の血の純粋さの根拠として、タキトゥス創世記を引き合いに出して、主の怒りである大洪水は雑種化に対するものであったとする[71]。ただし、アルントはドイツ人種への脅威としては主に「フランス人種」を見ており、ユダヤ人に対しては、ユダヤ系ポーランド人のドイツ受け入れには反対したものの、ユダヤ人は改宗すれば消滅すると考えていた[71]。アルントの「ゲルマン人の血」の思想は、ハインリヒ・フォン・クライスト、ケルナー、愛国詩人のマックス・フォン・シェンケンドルフ(Max von Schenkendorf)と並んでドイツ国民に武器を取るよう促したが、他方のフランスでも革命後の国歌ラ・マルセイエーズ」の歌詞では「汚れた血」についてあるなど、民族の血を優劣でみることに両国で違いはなかった[71]ナポレオン戦争での敗北がドイツ人にとって屈辱的であったことから、ゲルマン性への狂信が教科書でも載せられるようになっていった[71]。 教育家コールラウシュ(Heinrich Friedrich Theodor Kohlrausch 1780-1867)の教科書「ドイツ史」(1816年)ではドイツ人の純潔性が、ユダヤ人、ギリシア人、ラテン人とは好対照をなすと諭されている[71]

ドイツ・ロマン主義ではフランスの啓蒙主義に対抗して、ドイツ固有の国民文学の創造が主張された[72]。1799年の『キリスト教世界あるいはヨーロッパ』でフランス革命は神聖なるものを根こそぎにしたと考えたノヴァーリス[73]ヘルダーリンにも「選民としてのドイツ人」という概念が見られた[71]。政治経済学者のアダム・ミュラーは「いつの日か、ヨーロッパ諸民族からなる一大連邦が築かれるであろうが、その色調はなおドイツ的なものとなるであろう」と予言して、ヨーロッパの政体の偉大なものはすべてドイツに由来すると主張した[71]。アダム・ミュラーはナポレオン支配に対してドイツ民衆の抵抗運動(ヘルマンの戦い)を呼びかけた[74]

1810年、ヨハン・フォン・ゲレスは『ドイツの没落とその再生の条件』で、かつてのユダヤ王国のようにドイツは現在の聖なる土地であるとした[75][71]

ヤーンと学生結社ブルシェンシャフトのゲルマン主義[編集]

1810年、フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンは『ドイツの国民性』で「混血の民は国民再生産の力を失う」として、フランスの影響力を排除する国民革命を目指して、ドイツ語からの外国起源の人名の抹消、民族衣装の着用などの民族浄化を訴え、ドイツ人と古代ギリシア人だけが聖なる民であると論じた[76][77]ドイツ解放戦争(ナポレオン戦争)でヤーンは1813年、リュッツォウ少佐と抗仏組織リュツォー義勇団を創設し、体操など体育教育を普及させ、「体操の父」としてドイツの国民的英雄となった[76]。ヤーンの傘下には学生結社ブルシェンシャフトもあった[76]。ただし、リュツォー義勇団にはユダヤ人の参加者もおり、ユダヤ人を排斥していたわけではない[76]

1814年にメットラーカンプと共同してハンブルク市民軍を創設したフリードリヒ・クリストフ・ペルテス(Friedrich Christoph Perthes) はゲレスへの手紙で「ドイツ人は選ばれた民、人類を代表する民である」と述べた[71]

ナポレオンの敗北以降のウィーン体制により、1815年オーストリア帝国主導のドイツ連邦が成立したが、オーストリアとプロイセンは対立した。

ヴァルハラ神殿(1807ー1842)
ヴァルハラ神殿の広間にはドイツの著名人130体の胸像が飾られている。

1817年10月18日ルター新約聖書をドイツ語に翻訳したアイゼナハヴァルトブルク城で、宗教改革300周年のヴァルトブルク祭が学生結社ブルシェンシャフトによって開催された[78]。ヤーンは、反ユダヤ主義者の新カント派哲学者ヤーコプ・フリースとともにこのヴァルトブルク祭の立役者であった[76]。祭典にはヤーコプ・フリース、医学者キーザー、科学者オーケン、法学者シュバイツァーが来賓として参列した[78]。フリースの門下生レーディガーは「祖国のために血を流すことのできる者は,どうすれば最もよく平和のときに祖国に尽くすかについても語ることができるのだ。こうして我々は自由な空のもとに立ち,真理と正義を声高に口にする。何となればもはやドイツ人が狡猜な密偵や暴君の首切り斧をおそれることなく,またドイツ人が聖なるものと真理を語るときに誰も気兼ねする必要のない、そんな時代が有難いことにやって来たのだ。......我々はすべての学問が祖国に仕えるべきであり,同時にまた人類の生活に仕えるべきであるということを決して忘れまい」と演説し、この演説は国務大臣で文豪のゲーテも称賛した[78]。この祭典では、反ドイツ的とされた書物が焚書され、ユダヤ系作家ザウル・アシャーの『ゲルマン狂』も焼かれ、後年のナチス・ドイツの焚書の先駆けともなった[76][78]。こうしてドイツの大学を温床として、人種差別的な汎ゲルマン主義が生まれていった[76]

1819年には、ブルシェンシャフトの自由主義と愛国思想を雑誌で揶揄していた作家アウグスト・フォン・コツェブー(August von Kotzebue)が、ロシアのスパイとして、過激派の学生に暗殺された[76][79]。コツェブー暗殺事件によって、政府は学生運動の取締りに乗り出し、アルントは教授職から追放され、ヤーンは大逆罪で幽囚された[76]

1824年バイエルン王国皇太子ルートヴィヒ1世はドイツの偉人を祀ったヴァルハラ神殿を建設した[80]。ヴァルハラ神殿にはドイツ2000年の歴史を示す偉人、例えばローマ帝国によるゲルマニア征服を阻止したアルミニウス)から、西ゴート族の王アラリック1世フランク王国の王クロヴィス1世ベートーヴェンなどの銘板胸像が収められている。

ユダヤ教徒解放令と反ユダヤ暴動[編集]

  • 1812年 - プロイセン王国がユダヤ教徒解放勅令を出す[81]。前年の1811年にはハルデンベルクの改革がユダヤ人の土地所有権を認めると、プロイセン王国の貴族は、国家の敵であるユダヤ人はやがて国の土地を買い占め、プロイセンをユダヤ人国家にしてしまうと抗議した[82]ゲーテはユダヤ人解放はドイツ人の家庭の倫理を台無しにすると批判し、ユダヤ人解放の背後にロスチャイルド家を見ていた[83]
  • 1815年、法学者サヴィニーはユダヤ人解放令を批判して、従来のユダヤ人例外措置を復活さえ、ゲットー再送を主張した[84]
  • 1816年カント主義の哲学者ヤーコプ・フリースは『ユダヤ人を通じてもたらされるドイツ人の富ならびに国民性の危機について』において、「ユダヤ人のカーストを根こそぎ絶滅に追いやること」を訴えた[85][86]
  • 1819年8月、プロイセン以外のヴュルツブルクなど全ドイツの各州、ボヘミア、アルザス、オランダ、デンマークで反ユダヤ暴動が発生し、ユダヤ人が暴行を受け、シナゴーグや住宅は略奪された[87]。暴動では1096年に十字軍兵士が叫んでいたとされる「ヒエロソリマ・エスト・ペルディータ(Hierosolyma Est Perdita)」(エルサレムは滅んだ)という言葉に因んで「Hep! Hep!」という合言葉が使われたため、「ヘップヘップ暴動」もいう[87]。この暴動で、アメリカ合衆国へのユダヤ人移住が活発になった[87]ユダヤ教徒サロン主催者のラーエル・ファルンハーゲン=レーヴィネは暴動の責任は作家アルニムブレンターノ一派にあると見た[87]
  • 1820年、作家アルニムは小説「世襲領主」では、高貴な世襲領主が斜陽になっていくなか、路地から這い出てきた強欲なユダヤ人が描かれた[88]。アルニムは義兄のクレメンス・ブレンターノとともに、ベルリンで「ドイツキリスト教晩餐会」を開催し、ユダヤ人は改宗者であっても入会禁止とした[88]
  • 1823年にはベルリンのユダヤ人の半数がキリスト教に改宗した[89]
  • 1829年、社会思想家シャルル・フーリエはユダヤ人解放政策は金儲け精神の助長であり悪政であるとして、「高利貸しの民族」であるユダヤ人は文明化を遂げていないと論じた[90]。しかし、フーリエは1838年には『偽りの産業』でロスチャイルド家旧約聖書エズラ、セルバベルになぞらえ、ダビデソロモンの王を復活させ、ロトシルト(ロスチャイルド)王朝を創始できると称賛しており、ポリアコフはフーリエはロスチャイルド家の共感をとりつけようとしたのではないかと指摘している[90]。しかし、フーリエの思想に共鳴したフーリエ主義者は第二共和政時にユダヤ人議員クレミューが司法省にいることは脅威であるといったり、ドレフュス事件では反ユダヤ主義を標榜し、またフーリエから影響を受けたロシアの小説家ドストエフスキーもユダヤ嫌いであった[90]
  • 1830年1834年には、ドイツで反ユダヤ暴動が発生した[87]

ドゥーズ事件 (1830)[編集]

1830年フランス7月革命オルレアン家ルイ・フィリップが国王になり、ブルボン家はイギリスへ逃れた。1832年、ブルボン家の元国王シャルル10世の息子の妻ベリー公爵夫人マリー・カロリーヌ・ド・ブルボンが、改宗ユダヤ人シモン・ドゥーズの密告によって、ルイ・フィリップ政府に引き渡された[91]。これに対してフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンヴィクトル・ユゴーはユダヤ人攻撃を開始した[91]。シャトーブリアンは「大いなる裏切り者と、サタンに取り憑かれたイスカリオテのユダの末裔」、ユゴーは「卑しき異教徒、変節漢、世界の恥辱、屑ともいえるような輩」である「さまよえるユダヤ人」と述べ、改宗ユダヤ人シモン・ドゥーズの密告を非難した[91]


青年ドイツ派の発禁処分[編集]

  • 1834年ハインリヒ・ハイネは「キリスト教は、あの残忍なゲルマン的好戦心を幾分和らげたが、しかしけっして打ち砕くことはできなかった」として、カント主義者、フィヒテ主義者などの哲学者に気をつけるように警告して、ゲルマン主義者から大きな憤慨を買った[92]
  • 1835年、フランクフルト議会は、カール・グツコー、ハインリヒ・ラウベ、テオドール・ムント(Theodor Mundt)、ヴィーンバルク(Ludolf Wienbarg)などが中心作家であり、ユダヤ系作家のハイネベルネなども参加していた「青年ドイツ派」の作品を禁書処分にした[93]。ゲルマン主義の文芸批評家ヴォルフガング・メンツェル(Wolfgang Menzel)は「青年ドイツ派」を「青年パレスティナ派」と評して告発した[93]。青年ドイツ派はユダヤ系サロンの主催者ラーエル・ファルンハーゲン=レーヴィネの影響を受けていた[93]
  • 1835年、作家ティークはユダヤ人は国家内異分子であり、ドイツ文芸を独占してしまったと述べた[94]
  • 1836年、作家インマーマンの『エピゴーネン』では、ヤーンが指定した服装を着ていた登場人物が迫害されるが、ドイツ人に化けたユダヤ人の追い剥ぎであった[94]。この作中でユダヤ人は「何かを手に入れようとしてうちは恭しく、きわめて低姿勢だが、いったんそれを手に入れると居丈高になる」と描かれた[94]
  • 1842年プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(在位:1840 - 1861)は忌まわしいユダヤ人はドイツを混沌とした無秩序状態におとしめようとしていると述べた[95]。若い頃にドイツ解放戦争(対ナポレオン戦争)に加わったフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、キリスト教ゲルマン主義を信奉し、王の養育係はユダヤ人をゲットーに再送すべきであると考えていた法学者サヴィニーだった[84]。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はヤーンに鉄十字章を授与し、アルントの大学への復帰など名誉回復を行った[84]。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、ユダヤ人に対して兵役義務を免除すると同時に公職から退け、王の庇護下にある「隔離民族」としたが、ユダヤ人共同体からのドイツへの愛国心をアピールした抗議が相次ぎ、この政策は実現しなかった[84]
  • 1844年、ドイツで反ユダヤ暴動が発生[87]
  • 1847年、プロイセン連合州議会代議士ビスマルクはフランクフルト市議会で、ユダヤ人が国王になると考えただけで深い当惑と屈辱の感情が沸き上がってくると述べるが、フランクフルトのアムシェル・マイアー・フォン・ロートシルトは「正真正銘の悪徳ユダヤ商人(Schacherjude)」であるが気に入ったと好意を寄せることも述べた[96]
  • 同年、青年ドイツグループのハインリヒ・ラウベはそれまでユダヤ人に好意的であったが、ユダヤ系作曲家マイアーベーアから盗作の嫌疑で告訴されてからは、ユダヤ人を嫌うようになった[97]

文学における「さまよえるユダヤ人」[編集]

フランソワ・ジョルジャン(François Georgin)「さまよえるユダヤ人」1830年
さまよえるユダヤ人
ギュスターヴ・ドレ画「さまよえるユダヤ人」1856年
ナチス時代の「さまよえるユダヤ人」1937–1938年。

ヴィクトル・ユーゴーは「クロムウェル」(1827)「マリー・チュードル」(1833)では大量のキリスト教徒の血が流れるのを望むユダヤ人を描き、「嘘と盗み」がユダヤ人のすべてであるというセリフがあった[98]。ユゴーは1882年の「トルケマダ」でイスラエルに謝罪した[98]

「さまよえるユダヤ人」という主題は16世紀以来の伝説で、ゲーテ、シューバルト、シュレーゲル、ブレンターノ、シャミッソー、グツコー、バイロン、シェリー、ワーズワースたちが扱い、1833年には共和党左派の歴史家エドガール・キネが『さまよえるユダヤ人―アースヴェリュス』で労苦にあえぐプロメテウスファウストの象徴を援用した[99]

1844年ウージェーヌ・シューは「さまよえるユダヤ人(Le Juif errant)」を連載した[99]

こうしてユダヤ人への神話的なイメージは、裏切り者であった「イスカリオテのユダ」から、「さまよえるユダヤ人」に変わっていった[99]

ダマスクス事件(1840)[編集]

1840年2月、シリアのダマスクスでカプチン会修道士トマ神父が失踪した[100]。フランス領事は地元のユダヤ教徒たちが事件の黒幕と断定し、ユダヤ教徒たちを儀式殺人の容疑で告訴した[100]。ユダヤ教徒たち2名がオーストリア国籍であったため、オーストリア領事はユダヤ人を救援しようとした[100]。当時エジプト・トルコ戦争(1831年~1840年)でオスマン帝国とエジプトが対立しており、東方問題としてヨーロッパ各国の外交問題ともなっていた。エジプト・トルコ戦争の講和条約ロンドン条約でイギリス、ロシア帝国、オーストリア帝国、プロイセン王国はオスマン帝国を支持し、エジプトのムハンマド・アリーのシリア領有放棄とエジプト総督就任を認めていた。フランスはエジプト総督ムハンマド・アリーを支持し、他のヨーロッパ各国はオスマン帝国を支持し、オーストリア帝国とフランスのティエール政府はダマスクス事件で対立した[100]

ダマスクス事件はフランス国内では、東方ユダヤではいまなお儀式殺人という迷信をユダヤ教徒の義務として定めており、カプチン僧はユダヤ人によって食べられたなど、反ユダヤ主義と愛国主義が流布した[100]

イギリスではフランスへの敵意がユダヤ人擁護の傾向となって出た[100]。イギリス政府は、クレミユ−など特使団を派遣するなどしたが、アドルフ・ティエールが解任されたことで、国際紛争は幕切れとなった[100]。この解任にはロスチャイルド家のジャムが働きかけたという見方もある[100]

このダマスクス事件を出発点として、ユダヤ人側ではアドルフ・クレミューが中心となって、国際組織「世界イスラリエット同盟(AIU, L'Alliance israélite universelle)」が誕生した[100]

1842年クレミュー、セルフベール、フールドの3人のユダヤ人がフランス下院議員となった[100]。ユダヤ新聞「イスラリエット古文書」は、もはや分裂の種も、宗教の差異も、永年の憎悪もなくなった、「ユダヤ民族なるものはもはやフランスの土地には存在しない」と報道した[101]

1845年、ヴィルヘルム・テオドア・フォン・シェジー(Wilhelm Theodor von Chézy)は『敬虔なユダヤ人』でドイツ国民を隷属状態に置くことを目的として解放運動に精を出すユダヤ人を描いた[102][103]

1848年革命とユダヤ人解放[編集]

1848年、イタリア、フランス、オーストリア、ハンガリー、ボヘミア、ドイツ、デンマーク、スイスなどのヨーロッパ各地で1848年革命が起こった。

ドイツでは三月革命でユダヤ人に参政権が認められた[81]。統一的な選挙規則のないままであったが、選出された議員による憲法制定国民議会では四人のユダヤ教徒の議員がいた[81]。そのユダヤ教徒の一人ガブリエル・リーサーは「イスラエル民族」は虚構にすぎないと指摘して、「ユダヤ教徒は公正な法律の下で、ますます熱烈な、そしてますます愛国的なドイツの信奉者となるでしょう」と演説し、満場の拍手で迎えられた[81]。またオットー・フォン・ビスマルク議員(のち宰相)は「私はユダヤ教徒の敵ではない。また、彼らが私の敵であろうとも、私は彼らを許す。どんな場合にも、私は彼らを愛する。私は彼らに対してどんな権利も惜しまない。ただ彼らがキリスト教国家における行政上の官職に就く権利だけは認めるわけにはいかない」と演説した[81]。こうして、自由主義的な統一ドイツ国家を創出した三月革命の大義の下、「ユダヤ教徒の解放」はドイツのナショナリズムと幸福な結合として位置づけられる[81]。しかし、同年9月28日にはバーデン大公国ヴァルデルン市から「ユダヤ教徒の解放は断じて民族の声ではなく、ドイツ民族はドイツカトリック教徒との同権を要求していない」と請願が出された[81]。翌年の1849年には革命勢力がプロイセン軍に敗北し、「ユダヤ教徒解放」は撤回された[81]。しかし、ザクセン、ワイマール、アイゼナハなどではユダヤ教徒の法的平等が実現し、ユダヤ教徒が大学教授や裁判官に就任するなど、ユダヤ教徒の解放は進展した[81]

同じ1848年に、ドイツで反ユダヤ暴動が発生した[87]

イギリスとディズレーリ[編集]

イギリスでは評論家カーライルや教育家トマス・アーノルドによってゲルマン至上主義が広まっていた[104]。これに対してイタリア系セファルディムのユダヤ系イギリス人の政治家・小説家のベンジャミン・ディズレーリは1844年のロバート・ピールを批判した『カニングスビー』、1845年の『シビル(女預言者)』、1847年『タンクレッド』で、ヨーロッパの修道院や大学にはマラーノなどのユダヤ人がひしめき、ヨーロッパではユダヤ的精神が多大な影響力を行使していることを描いて、ゲルマン至上主義の逆を突いた[104]。『タンクレッド』では、「思い上がりではりきれんばかり、叩いてみて響きだけはよい革袋のような鼻のひしゃげたフランク人ゲルマン人)」を揶揄し、セム的精神(ユダヤ精神)を称揚し、セム的精神が光明をもたらすことがなかったらゲルマン民族は共食いで滅亡していたと、いった[104]。同時に、ディズレーリはみずからの人種を恥とみなしていたユダヤ人を批判した[104]

1847年下院での国会演説でディズレーリは、初期のキリスト教徒はユダヤ人であったし、キリスト教を普及させたのはまぎれもなくユダヤ人であった、そのことを忘れて迷信に左右されているのが現在のヨーロッパとイギリスだと演説し、議会では憤怒のさざ波が行き渡った[105]

1848年革命についてディズレーリは、1851年の政治文書『[[ジョージ・ベンティンク|ジョージ・ベンティンク卿』で、この全ヨーロッパ的暴動はユダヤ人指導者によると述べ、「(ユダヤ人という)選民たる人種が、ヨーロッパのありとあらゆる人種もどき、ありとあらゆる下賤の民に手を差し伸べるのである。その狙いは、ほかでもない、恩知らずのキリスト教を破壊し尽くすことである」と論じた[104]

カーライルはディズレーリの「ユダヤ狂」演説に憤慨し、医師ロバート・ノックスは『人間の種』で、ディズレーリが挙げたユダヤ人一覧(カント、ナポレオンなどを含む)には一人もユダヤ的特徴を示している者はいなかったと批判した[106][105]

ディズレーリのユダヤ主義的な歴史観は、フランスの反ユダヤ主義者グジュノー・デ・ムソー(Roger Gougenot des Mousseaux)やエドゥアール・ドリュモンによって好意的に引用され、ユダヤ人が秘密外交を行っていることはイギリスのユダヤ人首相によって見事に明らかにされたと述べるにいたっている[105]。また、ナポレオンを嫌っていた歴史学者のミシュレも、ディズレーリのナポレオンユダヤ人説に梃入れした[105]

汎ゲルマン主義で反ユダヤ主義のヒューストン・ステュアート・チェンバレン1899年の著書『19世紀の基礎』でもディズレーリのユダヤ主義的人種決定論が引かれた[105]。チェンバレンはイギリスからドイツへ渡り、ドイツへ帰化し、リヒャルト・ワーグナーの娘エーファと結婚した。

ロスチャイルド家と反ロスチャイルド、反ユダヤ的感情[編集]

1854年にフランスのジャム・ド・ロチルド分家がセーヌ=エ=マルヌ県に建造した19世紀最大の別荘フェリエール邸
ドイツ・フランクフルトのロスチャイルド分家アムシェルが1845年に建てたGrüneburgschlößchen|グリューネブルク邸

フランクフルト・ゲットー出身の銀行家マイアー・アムシェル・ロートシルト宮廷ユダヤ人となり、ロートシルト家(ロスチャイルド家))の基礎を築くと、ロスチャイルド家は19世紀ヨーロッパの政界と金融界を支配し、栄華を誇り、「ユダヤ人の王にして諸王のなかのユダヤ人」と呼ばれた[91]1807年のベルリンの銀行52のうち30がユダヤ人が経営するようになっていた[84]。その他、ドイツの百貨店、シュレージエン地方鉱床などもユダヤ系事業が大部分を占めた[84]

フランスではマイアーの五男でオーストリア領事でもあったジャム・ド・ロチルドがロスチャイルド家の筆頭格となった[91]。ジャムはフランスに帰化することはなかった[91]。しかし、ロスチャイルド家の栄華は、その後数世代にわたって反ユダヤ主義宣伝活動の餌食となっていった[91]

1848年フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンは『墓の彼方からの回想』(没後出版)で「人類はユダヤ人種を癩病院に隔離した」と述べたり、「今日のキリスト教世界を牛耳っているユダヤ人よ」と述べたり、ロスチャイルド家が原因で自らが政治家として不首尾に終わったとみなしていた[98]

アルフレッド・ド・ヴィニーは、ユダヤ人を金にがめつい唯物的な人種として嫌悪し、1822年の『ヘレナ』では「ユダの息子たちにはすべてが許され、彼らの財宝箱にはすべてが受け入れられる」と書き、1847年にユダヤ人アルフェンがパリ2区区長に任命されると驚くなど、世界が「ユダヤ化」ことを諦念をもって眺めた[107]。1837年には7月革命をユダヤ人は金で購ったと書いている[107]。1837年に書かれた小説『ダフネ』(生前未発表)ではユダヤ人銀行家について「現在、一人のユダヤ人が、教皇の上、キリスト教の上に君臨している。彼は君主に金を渡し、諸国民を買収する」と、ロスチャイルド家について記した[107]。しかし、ヴィニーは改宗ユダヤ人ルイ・ラティスボンヌと友人になると、1856年にはユダヤ人は原初の光、原初の調和に満ちており、芸術の分野で頂点を極め、学業も優秀と述べるにいたった[107]

歴史家ジュール・ミシュレは『フランス史』(1833-1873)において、自分はユダヤ人が好きだが、「汚らわしきユダヤ人」は「いつのまにか世界の王座に就いてしまった」、ユダヤ人は地球上で「最良の奴隷」だったと述べた[108][91]

1900年にはドイツの人口の1%にすぎないユダヤ人が、大企業、金融会社の取締役会の25%を占めており、こうしたユダヤ人の経済界での活躍が、ユダヤ人による侵略や支配という印象を深めることになった[84]。こうした状況は、ロシアでも同様であった[84]

ロスチャイルド家や政界に進出するユダヤ人などが活躍していくにつれて、「ユダヤ人に支配された世界」という見方が広まり、フランスやドイツなどでは、「ユダヤ人からの解放」を訴える主張が多数出されていくようになった。

ワーグナーと反ユダヤ主義[編集]

ワーグナー
ワーグナーを庇護したユダヤ人作曲家マイアベーア
ブルーノ・バウアー

1837年から1840年頃までは、リヒャルト・ワーグナーはユダヤ人作曲家ジャコモ・マイアベーアから生活費の工面を受けて、ワーグナーもマイアベーアはグルック、ヘンデル、モーツァルトと同じくドイツ人であり、ドイツの遺産、感情の素朴さ、音楽上の新奇さに対する恥じらい、曇りのない良心を保持していると称賛していた[109]。マイアベーアはパリで 1824年の『エジプトの十字軍』を成功させ、『悪魔のロベール』(1831年)、サン・バルテルミの虐殺に基づくグランド・オペラユグノー教徒』(1836年)の大ヒットなどで名声を博し、1842年にはベルリン宮廷歌劇場音楽監督に就任した。また、マイアベーアは多くのユダヤ人がキリスト教に改宗する時代において、改宗を拒否した唯一の例であった[110]。一方でマイアーベーアは聴衆のほとんどは反ユダヤ主義であるとハイネへの手紙で述べている[109]

この1842年頃には、ワーグナーはシューマンへの手紙でマイアベーアを「計算ずくのペテン師」と呼んでいたが、ワーグナーはマイアベーアから『リエンツィ』や『さまよえるオランダ人』の上演の庇護を受けていた[109]。1843年の自伝スケッチでワーグナーは、イタリア人は「無節操」で、フランス人は「軽佻浮薄」であり、真面目で誠実なドイツ人と対比させて、後年にユダヤ人だけを嫌っただけではなかった[111]。ワーグナーが青年期の不遇でパリで認められなかったことがこうしたことの背景にある[109]。パリで認められなかったワーグナーはザクセン王国に戻り、ドレスデンザクセン国立歌劇場管弦楽団指揮者となる[109]。当時は、青年ヘーゲル派として、フォイエルバッハやロシアの革命家バクーニンとも親交し、1848年革命にも革命家として参加した[109]。革命の失敗後、亡命先のスイスゲルマン神話への考察を深め、1849年には『ヴィーベルンゲン 伝説から導き出された世界史』で伝説は歴史よりも真実に近いとして、フランク族は王者たるにふさわしい人種であると考えた[112][109]

1849年、テーオドーア・ウーリクがマイアベーアの『預言者』を批判した。翌1850年リヒャルト・ワーグナーが変名で『音楽におけるユダヤ性』を発表し、ユダヤ人は模倣しているだけであり、芸術を作り出せないし、芸術はユダヤ人によって嗜好品になって堕落したと主張した[111][113]。ワーグナーは1850年以前はユダヤ人の完全解放を目指す運動に与していた[109]。ワーグナーは『音楽におけるユダヤ性』で、マイアベーアを名指しでは攻撃せずに、ユダヤ系作曲家メンデルスゾーン・バルトルディを攻撃し、またユダヤ解放運動は抽象的な思想に動かされてのもので、それは自由主義が民衆の自由を唱えながら民衆と接することを嫌うようなものであり、ユダヤ化された現代芸術の「ユダヤ主義の重圧からの解放」が急務であると論じた[109]。ただし、ワーグナーはメンデルスゾーンを『ヘブリデス』序曲(1830年)を称賛し、完全な芸術家であるとも評価していた[109]。『音楽におけるユダヤ性』を発表して以降、ワーグナーはマイアーベーアの陰謀で法外な非難を受けたと述べ、1853年にはユダヤ人への罵詈雑言をフランツ・リストの前で述べるようになっていた[109]。 ウクライナのユダヤ人ピアノ奏者ヨーゼフ・ルービンシュタインはワーグナーに『音楽におけるユダヤ性』には一点の疑義もないが、自殺するか、ワーグナーに師事するかしか残されていないと述べて、ワーグナーはルービンシュタインを庇護し、専属奏者とした[114]。同じくカール・タウジヒもユダヤ人でワーグナーの庇護下にあったし、ワーグナーがローエングリンジークフリート役に好んで起用した歌手で後にプラハ新ドイツ劇場監督になるアンゲロ・ノイマンもユダヤ人であった[114]

1853年-56年 フランスのアルテュール・ド・ゴビノー伯爵が『人種不平等論』で、黒人は全人種の最下位にあり、黄色人種は体力は弱く無気力の傾向にあり自分たちで社会を創造できないとして、この二つの人種は「歴史における残骸」であるが、これに対して白人種だけが文明化の能力と思慮を備えたエネルギーを持つ歴史的な人種であるとし[115]、インド・エジプト・アッシリア・中国・ギリシアなど歴史上の文明はすべて白人種のアーリア民族によるイニシアチブによってのみ可能であったとした[116]。なお、18世紀の哲学者ヒュームカントなども白人種を最優秀として非白人種の東洋人や黒人種を劣等としており[117][118]、ゴビノーの主張は特殊な主張ではない。ゴビノーによれば、白人種にはセム人ハム人、ヤペテ(アーリア人)がいるが、このなかでアーリア民族はセムやハムとは違って純血を保ち、金髪、碧眼、白い肌を持っており、卓越している[119]。しかし、古代ギリシャはセム化したため単一化されてしまったし、ローマ帝国もセムの血が流入したため、中背で褐色の肌をした「凡庸で取り柄のない人間」「横柄で、卑屈で、無知で、手癖が悪く、堕落しており、いつでも妹、娘、妻、国、主人を売り飛ばす用意ができていて、貧困、苦痛、疲労、死をむやみに怖がる」退廃的な人間を産出したとする[120]。ただし、このゴビノーの「セム化」はこれまで反ユダヤ主義として嫌疑がかけられてきたが、これは白人の血に黒人の血が混入することを指しており、ユダヤ人による世界支配を批判したわけではなかった[121]。ゴビノーはユダヤ人を自由で強力で知的な民族であると称え、他方で黒人種についても芸術に秀でていると称え、これは歴史家のジュール・ミシュレが「黒人であることは人種というより、病いである」といったのに比べれば抑制がきいたものであった[122]。ワーグナーはゴビノーと固い友情で結ばれていた[114]

1855年、ワーグナーの知り合いでもあった作家グスタフ・フライタークは、自由主義者であり、反セム主義者とはいえないが、フライタークの小説「借方と貸方(Soll und Haben)」はドイツの長編小説の中で最も読まれたといわれ、ドイツ人商人が、浪費癖の強いドイツ人貴族を助けて、ドイツへの憎しみに燃えるユダヤ人商人は没落して、最後には汚い川で溺死するという話で、影響力があった[123]

1861年にはワーグナーが実名で『音楽におけるユダヤ性の解説』を刊行した。1865年、ワーグナーはバイエルン国王ルートヴィヒ2世のために『パルジファル』を書き、「ゲルマン=キリスト教世界の神聖なる舞台作品」と呼んだ[114]。しかし、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1868年)では、ユダヤ性と対比してドイツ国粋主義を表現するが、作中でユダヤ人は出てこない[113]

ワーグナーはヴィルヘルム・マルやオイゲン・デューリングの反ユダヤ主義の著書は評価しなかったが、ユダヤ人の儀式殺人をとりあげたプラハ大学教授のアウグスト・ローリング神父の『タルムードのユダヤ人』(1871年)[124]を愛読した[125]

晩年の1881年、ワーグナーはバイエルン国王ルートヴィヒ2世への手紙でユダヤ人種は「人類ならびになべて高貴なるものに対する生来の敵」であり、ドイツ人がユダヤ人によって滅ぼされるのは確実であると述べている[114]。しかし、同じ年に、ユダヤ人歌手アンゲロ・ノイマンが反ユダヤ主義者に攻撃を受けると、ノイマンを擁護してもいる[114]1882年、ワーグナーは「人類が滅びること自体はそれほど惜しむべきことではない。ただ、人類がユダヤ人によって滅ぶことだけはどうしても受け入れがたい恥辱である」と述べている[114]。この1882年、ワーグナーの崇拝者であったユダヤ人指揮者ヘルマン・レヴィは、『パルジファル』のバイロイト祝祭劇場初演を指揮した[114]。前年には匿名でユダヤ人に指揮させないでほしいという懇願とともに、そのユダヤ人はワーグナーの妻コジマと不義の関係にあるとする手紙がワーグナーのもとに届いた[114]。ワーグナーが手紙をレヴィに見せると、レヴィは指揮の辞退を申し出たが、ワーグナーは指揮をするよう言った[114]。ワーグナーの娘婿であったイギリス人反ユダヤ主義者のヒューストン・ステュアート・チェンバレンは終生ワーグナーに忠実であったヘルマン・レヴィを例外的ユダヤ人として称賛した[114]

このほか、ワーグナーはアーリア人は菜食主義であり、ユダヤ人は肉食主義であるとして、動物を殺すことに罪を見ており、ヒトラーの菜食主義にも影響を与えた[126]。また、ワーグナーは動物実験の禁止を主張した[125]

ワーグナーは1883年に死ぬ直前に「われわれはすべてをユダヤ人から借り出し、荷鞍を乗せて歩くロバのような存在である」と述べている[114]

社会主義と反ユダヤ主義[編集]

社会主義・無政府主義者プルードンは金利に通暁したユダヤ人はサタンであると非難し、その反ユダヤ主義は生涯続いた[127]

1808年、社会思想家シャルル・フーリエは人々を破産に追い込み稼いだユダヤ人についての教訓話を書き、ユダヤ人がフランスに拡散すると、フランスは巨大なシナゴーグになると論じた[90]

1845年、フランスでシャルル・フーリエの弟子アルフォンス・トゥースネルが『ユダヤ人、時代の王 - 金融封建制度の研究』を刊行した[128]。トゥスネルのこの本は、ドリュモンの『ユダヤ人のフランス』(1886)が登場するまでは反ユダヤ主義の古典となった[129]。トゥスネルは「ユダヤ人」を「他人の資材と労働を食い物にしている通貨の取引人すべて、みずから生産に従事しない寄生者のすべて」といい、ここにプロテスタント、神の意思を読み取るのにユダヤ人と同じ書物を読むイギリス人、オランダ人、ジュネーヴ人も指し示しているという[129]

1846年キリスト教社会主義ピエール・ルルーはトゥースネルと同じ題の『ユダヤ人、時代の王』をものし、「ユダヤ人」とは高利貸し、貪欲に金を稼ぐことに熱意を示す人間すべてを意味するが、ユダヤ人の病は人類の病であり、投機売買と資本によってイエスは磔刑に処されていると論じ、敵は「ユダヤ的精神」であり、個々のユダヤ人ではないといった[129]

プロイセンのフェルディナント・ラッサールはユダヤ人の社会主義者・労働運動指導者だったが、奴隷として生まれついたユダヤ人に対して正しい復讐がわかっていない、と自己指弾し、「私はユダヤ人のことをまったく好きになれない」と述べた[130]

ユダヤ系社会主義者モーゼス・ヘスはユダヤ人は魂のないミイラ、さまよい歩く幽霊のような存在であり、「ユダヤ教とキリスト教の神秘が、ユダヤ=キリスト教徒の商店主の世界に開示された」と述べるなどしていたが、後年、人種主義者となり、1862年の『ローマとイェルサレム』などでヨーロッパ社会にユダヤ人は同化できないとして、シオニズムテオドール・ヘルツルに影響を与えた[131]

1847年理神論者のゲオルク・フリードリヒ・ダウマーは『キリスト教古代の秘密』で聖書批判を行い、過去数世紀にわたってキリスト教徒による儀式殺人を列挙した[132][133]。儀式殺人はユダヤ教徒によってなされたとみなされてきたもので、血の中傷ともよばれるが、ダウマーはハーメルンの笛吹き男などの中世の幼児誘拐事件、異端審問魔女裁判サン・バルテルミの虐殺、ユダヤ人の大量虐殺などもキリスト教徒による儀式殺人であったと論じた[133]。これは厳密な証拠ではなく、漠然とした疑いで書かれたものであったが、共産主義秘密結社義人同盟のパリ代表ヘルマン・エーヴァ−ベック(August Hermann Ewerbec)はダウマーの『キリスト教古代の秘密』をフランス語に訳し、1848年にロンドンにいたカール・マルクスはダウマーによってキリスト教儀式で人間の肉や血を食べたことが実証され、これは「キリスト教に加えられた最後の一撃」と評価した[134][133]。ダウマーはキリスト教側から攻撃を受けて、ユダヤ教に近づき、1855年には『ユダヤ人の知恵』を書いて、ユダヤ人共同体への加入を表明したが、ユダヤ共同体側は断っている[133]。ダウマーの弟子フリードリヒ・ウィルヘルム・ギラニ−はダマスクス事件以後、ユダヤ人の食人風習を告発した[133]

無神論哲学者フォイエルバッハはダウマーの親友であり、ダウマーから影響を受けていた[133]。フォイエルバッハは『キリスト教の本質』でユダヤ人の原理は利己主義と述べている[133]

レオン・ポリアコフは、ヴォルテールの反宗教キャンペーンから、ソ連の反宗教政策まで、反キリスト教を掲げる無神論の十字軍は、ダウマーと同種の思考様式が共通して見いだせると指摘している[135]。ハイネは「無神論の狂信的な修道士たち」と述べている[136]

アルノルト・ルーゲはゲルマン主義の学生運動の活動家であったが、青年ヘーゲル派となり、1838年に機関誌『ハレ年報』を創刊した[137]。ルーゲは1839年、『ハレ年報』で「キリスト教世界というチーズのなかに巣くったウジ虫ともいうべきユダヤ人」は無神論的であると論じた[138][137]。ルーゲはマルクスと悶着した際に「恥知らずのユダヤ人」と言い、社会主義運動を「忌まわしきユダヤ魂の寄り合い」と非難している[137]。ルーゲは後年、ビスマルク支持者となった[137]

青年ヘーゲル派ブルーノ・バウアーは1841年、教授職を追われ、『ユダヤ人問題』で、すべての人間が宗教から解放されなけれならないのに、ユダヤ人だけを解放の対象とみなすことに反意を表明して、ユダヤ人解放論へ反論した[139]。ユダヤ人が政治的権利を剥奪されているとされているが、ユダヤ人は金融でも政治でも一大権力をほしいままにしていると反論した[139]。バウアーは1843年の『暴かれたキリスト教』で無神論な立場を表明して、発禁処分となった[139]。同年、社会主義者で無神論者のヴィルヘルム・マルが『暴かれたキリスト教』の縮約版を刊行したが、このマルはのちに「反ユダヤ主義(Antisemitismus)」を創造した[139]。バウアーはその後、十字新聞のメンバーとなり、ビスマルク支持者となった[139]

プルードンと反ユダヤ主義[編集]

フランスの社会主義無政府主義者プルードンはユダヤ人は「でっちあげ、模倣、ごまかしをもって事に当たる」、ユダヤ人は金利の上昇と下降、需要と供給の気まぐれに通称しており、まさに「悪しき原則、サタン、アーリマン」であると非難した[127]

1858年に出版したプルードンの主著『革命の正義と教会の正義』では近代世界の退廃はユダヤ人が原因であると論じた[127]。プルードンは、カトリシズムという有害な迷信の生みの親であるユダヤ人は頑迷で救いようがなく、進歩派の行動指針としては、ユダヤ人のフランスからの追放、シナゴーグの廃止、いかなる職業への従事も認めず、最終的にユダヤ信仰を廃棄させるとしたうえで、「ユダヤ人は人類の敵である。この人種をアジアに追い返すか、さもなくば絶滅にいたらしめなければならない」と手帳に記した[127]。プルードンは、ユダヤ人だけでなく、外国人労働者に対しても憎悪と懸念を抱いており、「彼らは国の住民ではないのだ。彼らは単に利益を手に入れようとして国に入ってくるだけである。こうして政府自体が外国人を優遇することで得をし、外国の人種がわれわれの人種を目に見えないかたちで追い払っているのだ」と見ていた[127]。プルードンは、ベルギー人、ドイツ人、イギリス人、スイス人、スペイン人などの外国人労働者がフランスに侵入して、フランスの労働者に取って代わることを嘆き、フランス革命、人権宣言、1848年革命自由主義も、外国人に利益をもたらすのみであったとし、「私は自分の民族に原初の自然を帰してやりたい」と述べて、フランスの民族はこれまでにギリシア人、ローマ人、バルバロイ、ユダヤ人、イギリス人によって支配されてきたことを嘆いた[127]。プルードンにとって、ユダヤ人作家ハインリヒ・ハイネ、アレクサンドル・ウェイルは密偵であり、ロトシルト、クレミュー、マルクス、フールドは妬み深く刺々しく、フランス人を憎悪している[127]。またプルードンは、女性解放運動に対して激しく攻撃する男性至上主義者でもあった[127]。ポリアコフは、こうしたプルードンには20世紀のファシストの原型として権威主義的人格の先駆けを見て間違いないとしている[127]

マルクスと反ユダヤ主義[編集]

思想家カール・マルクスはユダヤ系であったが、反ユダヤ主義者でもあった[140][141]。マルクスには「ユダヤ的自己嫌悪」があったとキュンツリは指摘している[142]

社会思想家カール・マルクスはラッサールと同じくユダヤ系であったが、ラッサールを嫌ってラッサールは黒人、ユダヤ人、ドイツ人の交配から生まれた「ユダヤ人のニグロ」とエンゲルスへの書簡で述べるなど、反ユダヤ主義的でもあった[130]。1843年、マルクスは『ユダヤ人問題によせて』において、ユダヤ教の基礎は、実際的な欲求と利己主義であるとする[140]。そして、ユダヤ教の世俗的祭祀は商売であり、その世俗的な神は貨幣であるとして、商売とあくどい貨幣からの解放が、現実的なユダヤ教からの解放であり、自己解放となり、「ユダヤ人の解放は、その究極的な意味において、ユダヤ教からの人類の解放である」と論じた[140]。マルクスは「貨幣は世界の支配権力となり、実際的なユダヤ精神がキリスト教的諸国民の実際的精神になった」、「貨幣はイスラエルの妬み深い神」であり、手形はユダヤ人の現実的な神である、ユダヤ人の民族性は金銭的人間の民族性であるなどと論じた[140]。マルクスは生涯を通じてみずからをユダヤ人と認識することを拒み、ユダヤ人による社会主義を快く思わなかった[140]。マルクスは「ユダヤ人」を他人を批判するときに使っており、ユダヤ教学者シュタインタール、ウィーンのジャーナリストフリートレンダー(Max Friedländer)を「呪われたユダヤ人」、銀行家ルートヴィヒ・バンベルガー (Ludwig Bamberger) を「パリの証券シナゴーグ」の一員と呼んだり、また「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」では匿名で金の商人は大部分ユダヤ人であるなどと書いた[140]。マルクスにとってユダヤ主義は資本主義や利己主義の別名であり、ユダヤ人は高利貸しの別名であった[141][142]

1848年にマルクスが編集長となった新ライン新聞の特派員エードゥアルト・テレリングは、1848年革命後、テレリングはプロイセン政府の御用記者となり、1850年に小冊子「来るべきマルクスとエンゲルスによるドイツ独裁制の前兆」でマルクスを批判した[140][143]。テレリングは反ユダヤ主義と反マルクス主義の一大勢力の前兆であった[140]

社会主義者で経済学者のオイゲン・デューリングは1881年の著書『人種、道徳、文化問題としてのユダヤ人問題』で反ユダヤ主義を主張した[144]

「ユダヤ人からの解放」論[編集]

これまでに見てきたように、マルクスの『ユダヤ人問題によせて』(1843)、ワーグナーの『音楽におけるユダヤ性』(1850)やプルードンなどの反ユダヤ思想では、ユダヤ人が一大勢力となっていることを脅威に感じ、支配勢力であるユダヤ人からの解放が論じられてきた。そして、19世紀後半から20世紀にかけて、「ユダヤ人からの解放」はユダヤ陰謀論などともなり、様々に現れていった。

1861年 - 匿名で『ユダヤ人迫害とユダヤ人からの解放』が刊行された。そのなかで「貨幣の権力、すなわち、自らは労働せずに、いわゆる営業の自由の利益を独り占めし」ている権力が批判され、金権支配の物質主義と官僚支配の機械主義が進行しているなか、貨幣権力は大部分ユダヤ教徒の手中にあり、ユダヤ人は近代自由主義のすべてを独占することに成功したと主張された[81]。ここでは「ロートシルト家(ロスチャイルド家)を筆頭としてヨーロッパの証券取引所を支配しているユダヤ人金融家」を論じる一方で、ユダヤ教徒迫害は愚かで退けるべきであるとし、「ユダヤ人からの解放」が主張された[81]

同1861年 - ドイツで『ユダヤ人とドイツ国家』が匿名(H.G.ノルトマンであることが判明している)で発表され、ベストセラーになった[81]。この本は伝統的なキリスト教的なユダヤ教徒への嫌悪(Judenhaß)を復活させ、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』からシャイロックの台詞が何度も引用され、「ユダヤ人であること(das Judenthum)は、極端な分離主義と人種的思い上がりによって特徴づけられ、ユダヤ人の人間としての範囲はアブラハムの 子孫を越えることはない」「ユダヤの血とユダヤの意識は分離できないのであり、 我々は、ユダヤ教(das Judenthum)を宗教や教会としてだけではなく、人種的特性の表現として把握しなければならない。だから、ユダヤ人とドイツ人の宗教的分離が廃止されれば二つの民族のあらゆる本質的区別がなくなるとか、両者の融合がさらに進めばユダヤ的性格がドイツ人に影響を及ぼすことはなくなるとか、思ってはならない」と主張し、ユダヤ人を人種(Race)、種族(Stamm)として論じた[81]

1862年 - ブルーノ・バウアーが「異邦人の中のユダヤ人」で「ユダヤ人支配はキリスト教徒の所業だ。それは我々の責任だ。しかし、まさにそれが我々の責任であるがゆえに、我々はまだ負けてはいない」「人道主義的に軟化した瞬間に我々がユダヤ教徒を同等なもの、仲間として取り扱った」こと、それが「我々の誤り」であったと主張し、「我々がユダヤ人に対して自らを防衛しなければならないことの責任は、我々のみに、とりわけ我々ドイツ人にある。ユダヤ人が一時的に手に入れた勝利は、彼らが闘い取ったものではなく、我々が彼らにプレゼントしたものなのだ。彼らではなく、我々こそが現代にそのユダヤ的性格を刻印したのだ」と述べた[81]

1866年に7週間で終わった普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)プロイセン王国が勝利したことによってドイツ連邦は解体され、翌1867年にオーストリアと南ドイツを除いた北ドイツ連邦が成立した。

1867年 - フェリクス・ダーンの大衆小説「ローマ攻防戦(Ein Kampf um Rom)」[145]は、中世のゴート人によるイタリア遠征が題材で、誠実で情潔なゲルマン人とは対照的に、卑劣で臆病で計算ずくのユダヤ人の非業の最後が描かれる[123]

1869年 - フランスでグージュノ・デ・ムソーが『ユダヤ人、ユダヤ教、そしてキリストの民のユダヤ化』刊[146]

1871年普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)でプロイセンと南北ドイツ諸邦がフランス帝国に勝利し、プロイセン王ヴィルヘルム1世ヴェルサイユ宮殿で皇帝に即位してドイツ帝国が成立した。

世界大不況時代1880年代には、 ドイツ語圏で「ユダヤ教徒の解放」をもじった「ユダヤ人からの解放」というスローガンが流布した[81]

世界大不況の時代 (1873年-1896年) とユダヤ資本主義論[編集]

1873年から1896年まで世界大不況が展開した。ドイツでユダヤ人の解放が実現した19世紀後半は後発の産業革命の時代でもあり、さまざまな商工業分野で成功したユダヤ人が少なくなかった。この時代に勃興した近代の反ユダヤ主義の背景には、このような躍進著しいユダヤ人に対する人々の妬みや反感があった[147]。そうした反感から反ユダヤ主義が拡大していった。

1878年 - 露土戦争の講和条約ベルリン条約がドイツでビスマルクの主催で締結された。ベルリン条約では諸宗教の平等規定を含まれた。

1878年、アドルフ・シュテッカー(Adolf Stoecker)やアドルフ・ワーグナーが創設したキリスト教社会党は反ユダヤ宣伝を行った[6]

1879年、無神論者で社会主義者だったヴィルヘルム・マルが反ユダヤ主義(Antisemitismus)という語を用いた[139][4]。マルは「ゲルマン主義に対するユダヤ主義の勝利への道」というパンフレットを出版し、ドイツの自由主義は、ドイツ財政および産業をユダヤ人が支配することを許していると批判し、さらに反セム主義者連盟を結成して、ドイツ民族によるユダヤ的本質の絶滅を目標にした[148][6]。同年、ハインリヒ・フォン・トライチュケが論文で「ユダヤ人は我々の不幸だ」と述べ、このフレーズはナチス時代にもよく引き合いに出された[149]

1882年にフランスの大手銀行ユニオン・ジェネラル銀行が破綻すると、カトリック系メディアの『クロワ』紙や雑誌「ペルラン(巡礼者)」などで、銀行の倒産はユダヤ系財閥のロスチャイルド家の策謀によるものであるというユダヤ陰謀論が繰り広げられ、財産を失っ たカトリック市民の反ユダヤ感情を醸成させていった[150]。また、シャボティー師による『我らの支配者ユダヤ人』[151]やシラクの『共和国の王』[152]など、ユダヤ資本主義論が登場した[150]

こうしたカトリック勢力による反共和主義・反ユダヤ主義の背景には、フランス革命以来の反キリスト教化運動政教分離の過程があり、第三共和政政府とフランス・カトリック教会との熾烈な対立があった[150]。教会は公教育から分離され、カトリックが家庭を破壊すると反対していた離婚法も、フリーメイソンジュール・フェリーや、ユダヤ系のアルフレッド・ナケによって成立した[150]。1880年には政府無許可の宗教団体が解散され、1886年には公立学校教師を非聖職者に限定する法律も成立した。ナケはユダヤ系であったためカトリック司教たちが差別的な言辞を受けた[150]。一方で、第三共和政は1881年に出版の自由法を成立させて、メディア史上画期的な出来事となった[150]。この出版自由法によってフランス市民は自分たちの政治的な意見を自由に表明することが可能となり、反ユダヤ主義的な意見の公表もその権利を保護されることとなった[150]

1883年、反ユダヤ主義の週刊誌『L'Antisémitique(反セム)』が創刊された[150]

ドリュモンとドレフュス事件[編集]

作家アルフォンス・ドーデ。「最後の授業」で高名な作家ドーデはユダヤ人嫌いでも有名だった[153]
ドレフュス大尉の不名誉な除隊を描いた挿絵

1886年、ジャーナリストのエドゥアール・ドリュモン(1844-1917) が1200ページの大著『ユダヤのフランス (La France juive)』で、セム人のユダヤ人と、キリスト教徒であるヨーロッパ人としてのアーリア人の二項対立によって歴史を説明し、この書物は19世紀フランス最大のベストセラーとなり、フランスの反ユダヤ主義を醸成した[153]。ドリュモンは、従来のキリスト教の反ユダヤ教主義と近代の科学的人種理論とをつなぎ合わせて、新しいタイプの反ユダヤ主義としての反セム主義(antisémitisme)を拡散させた[153]。ドリュモンは、ユダヤ人は敵国ドイツ人のスパイであり、ドイツのユダヤ人であるロスチャイルドの銀行によって、フランス民衆はドイツとユダヤに搾取されていると論じた[154]

ドリュモンは無名で出版社を見つけるのに苦労していたが、流行作家アルフォンス・ドーデが尽力して出版が実現した[153]。ドーデは普仏戦争での敗戦によってプロイセン(ドイツ帝国)領土となったアルザスの学校で、フランス語に基づく愛国心を描いた「最後の授業」で知られる。ドーデのサロンにドリュモンは出入りしており、そこにはバルべー・ドールヴィイ、エレディア、フィガロ編集章フランシス・マニャールが集っていた[153]。ドーデのユダヤ人嫌いは有名であった[153]

ドリュモンの『ユダヤのフランス』が出版されると、ユダヤ系メディアは批判したが、カトリック系『クロワ』 紙は、反ユダヤ主義者のジョルジ ュ・ド・パスカル神父がユダヤ人に対する「戦友」であると支持した[153]。さらに高級日刊紙『フィガロ』1886年4月19日号で編集長フランシス・マニャールが、ドリュモンの主張するユダヤ人財産没収とは、共和主義者がカトリック教会の財産を没収したことと同じであるし、ドリュモンは共和主義者富裕層に対する「カトリック社会主義者」であると紹介すると、当時最大の大衆紙『プチ・ジュルナル』『マタン』『プチ・パリジャン』、 ボナパルティスト、リベラル派カトリック、社会主義急進派など右派と左派を問わずに他のメディアもドリュモンを取り上げた[155]。ただし、『プチ・パリジャン』では「狂信的な憎悪の書」「中傷文書」であると紹介されている[150]。右派オルレアニストの「ゴーロワ」編集長メイエルがドリュモンの本で「ユダヤ人」として中傷されているのに怒り、決闘を申し込んだ[155]。決闘でメイエルが規則違反をすると、ドリュモンは「汚いユダヤ人!ゲットーへ消えろ!」とわめいて決闘が中止になると、メディアのトピックとなり、やがて「善良なアーリア人が卑怯なセム人にやられた」という噂が広まっていった[155]。ドリュモンの『ユダヤのフランス』はドレフェス事件で爆発するフランスの反ユダヤ主義の醸成に多大な影響を与えていっただけでなく、ドイツ、イタリア、ポーランド語へ翻訳された[150]

1892年、ドリュモンが反ユダヤ主義日刊紙『リーブル・パロール』を創刊した[153]

1894年ドレフュス事件が発生。これは、参謀本部に勤めるユダヤ人大尉であったアルフレド・ドレフュスに対する冤罪事件であったが、ドリュモンたちの言論活動も活発になり、フランス民衆の間に反ユダヤ主義の声がことさらに高まった。

反セム主義政党とシオニズム運動[編集]

  • 1894年、反セム主義を標榜した政党が続出するなか、最大の政党であるドイツ社会改革党(Deutschsoziale Reformpartei) が結成され、「ユダヤ人問題は20世紀最大の問題となるであろう、そしてそれはユダヤ人の完全な分離と、最終的にはその絶滅によって解決される」と党の方針に明記した[6]
  • 1896年ドレフュス事件に衝撃を受けたテオドール・ヘルツルは『ユダヤ人国家』を著してシオニズム運動を起こした。
  • 1897年、ヘルツルの主催でバーゼルで第1回シオニスト会議。ヨーロッパのみならず、ロシア、パレスチナ、北アフリカなどから200人以上の代表が集まり、白と青の二色旗が掲げられた。

オーストリア・ハンガリー帝国[編集]

フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年 - 1916年)の治下でオーストリア・ハンガリー帝国が成立(1867年)。しかしプロイセン王国ドイツサルデーニャ王国イタリアに破れ、ドイツから締め出された形となった上にロシアとの深刻な対立を抱えていた。内には、妥協策として成立した二重帝国の複合民族国家としての苦悩があった。ここにおいてオーストリアは、多民族共生・多文化共存の方針を打ち出さざるを得なくなった皇帝フランツ・ヨーゼフは対ユダヤ人融和策をとり、1860年代の自由主義的な風潮の中で、職業・結婚・居住などについてユダヤ人に課せられていた各種制限を撤廃した。これは、前世紀のヨーゼフ2世の「寛容令」の完成であり、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言において唱えられた自由平等の実現でもあった。土地所有が禁じられていたユダヤ人たちに居住の自由が与えられたため、それまで縛り付けられていた土地から簡単に離れることができた。

世紀末ウィーンでは、音楽的に保守的であったブラームス派はバッハ、ベートーヴェンなどのドイツ伝統音楽を模範として、ワーグナー派のブルックナー派はワーグナーやリストなど「未来の音楽」を標榜する進歩派であった[156]。 しかし、ワーグナー派のブルックナー派はドイツ民族主義と反ユダヤ主義と結びついており、他方でブラームスは自由主義者で親ユダヤ的であった[156]。またユダヤ人マーラーはワーグナー派でブルックナー派に属しており、反ユダヤ主義政治家で知られるキリスト教社会党のカール・ルエーガーがウィーン市長になった同じ11897年にマーラーはウィーン宮廷歌劇場監督に就任した[156]

ウィーンで美術を学んでいたアドルフ・ヒトラーは、当時、キリスト教社会党を指導していたカール・ルエーガーの反ユダヤ主義演説に感動し、汎ゲルマン主義と反ユダヤ主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラー(Georg Ritter von Schönerer)からも強い影響を受けていた。

20世紀の反ユダヤ主義[編集]

ロシア・ソ連におけるユダヤ人迫害[編集]

1905年のポグロムで犠牲になったユダヤ人の子どもたち

アメリカにおける関連事件[編集]

フランス[編集]

ドイツ国におけるユダヤ人迫害[編集]

反ユダヤ主義的政策を実行に移したのが、ドイツ国において自由選挙で選ばれた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)であった。ナチ党はその創設当初から強い反ユダヤ主義を掲げたが、ドイツ国民からの多くの支持を受けて得たナチ党の権力掌握後はドイツの国策の一つとなった。1933年にはユダヤ人などを公職から排除する「職業官吏再建法ドイツ語版)」が制定された[162]

1935年にはいわゆる「ニュルンベルク法」によってユダヤ人は公民権を奪い去られた。第二次世界大戦が勃発すると、ヒトラーらはヨーロッパのユダヤ人をマダガスカル島に移送するマダガスカル計画を立てたが、中止された。代わって「ユダヤ人問題の最終的解決」の手段とされたのが絶滅収容所であった。移送された者の多くは大量虐殺の被害にあった。これは「ホロコースト」と呼ばれている。戦後は反ユダヤ主義者による「ホロコースト否認」も登場したが、典型的な反ユダヤ主義として批判されている。

イタリア[編集]

ナチスと連携を深めたイタリアは1938年、イタリア人科学者グループはアーリア人であり、ユダヤ人はアーリア人種に属さないと声明[163]。当時、ファシスト党の属したユダヤ人は約7000人いたが、この声明以降、入党も禁止され、公職追放、財産没収、外国籍ユダヤ人の国外退去などの政策がとられた[164]

現代[編集]

ローマ教皇[編集]

反イスラエル[編集]

イスラエルへの批判が反ユダヤ主義へと直結している事例をここでは述べる。パレスチナ問題をめぐり、学校なども攻撃対象にして、市民を巻き込む作戦も実行するイスラエル[165]に対し、この軍事活動を批判するデモが世界各地で発生しているが、この内の一部に反ユダヤ的言動を唱えるデモがあるとされる[166]

2014年のイスラエル軍によるガザ侵攻では欧米でイスラエルを批判するデモなどが発生した。この行動は、反ユダヤ主義を煽ることに繋がるとする主張がある。例えば、イスラエルの侵攻について、ペネロペ・クルスハビエル・バルデムなどの俳優や映画監督など数十人は、イスラエル軍パレスチナ人大量虐殺を批判、停戦を求める書簡に署名した。この時、ジョン・ヴォイトハリウッド・リポーターのコラムに「今回のような行動は、世界中で反ユダヤ主義をあおりかねません」とコメントを寄せ、中東問題に関して行動を慎むよう警告した。このヴォイトの発言に、署名したハビエル・バルデムは「私たちは悲惨で痛ましい戦争を心から憎むと同じように、反ユダヤ主義を嫌悪しています」と反論している[167]。フランスでは7月13日のデモでイスラエル支持派と反イスラエル派が衝突しており、7月20日のデモではパリのユダヤ人地区で反ユダヤ主義的な主張が起こっている[168]。ドイツでは7月後半にユダヤ人へ軽蔑やシナゴーク批判が発生し、火炎瓶の投げ込みも起こっており、7月末のオランダでも反ユダヤ主義を煽るデモが起こっている[169]

2015年1月9日にはISILに感化された男によるユダヤ食品店人質事件が起きている。犯人は犯行の際に店の客らに向かって「お前たちはユダヤ人だから全て殺す」と発言していた[170]

反ユダヤ主義の地域差[編集]

アラブ世界における反セム主義」「イスラームと反ユダヤ主義」「イスラーム教徒による宗教的迫害

ユダヤ人の迫害についても時代と地域によって大きな差がある。セファルディムエリアス・カネッティは、オスマン帝国領であったブルガリアからドイツ語圏に移住して初めてヨーロッパのユダヤ人差別の実態を知り、「驚いた」と述べている。イスラーム教国でもユダヤ人は二等市民として厳しく差別される存在であったが、ヨーロッパに比べれば比較的自由と権利が保障されていた[171][172]

南フランスでは歴史的にユダヤ教徒追放はあったものの、フランス革命前まで南フランス文化の一部として、数々の美しいシナゴーグが建設され、数多くのラビが誕生した。ヴィシー政権下、村ぐるみでユダヤ人を匿(かくま)った歴史も知られるところである。歴史的に見て、南フランス・ラングドックはある時期までイル・ド・フランスの中央政府の政治とは無縁で、中世にアルビ派ワルドー派が弾圧された地域でもあり、ユダヤ教徒を迫害の標的にする必要などなかった、ということが言われるが、中世には南フランスでもユダヤ人に対する迫害があった。14世紀フランスで井戸や泉に毒が入れられたという噂が流れ、多くのハンセン病者とユダヤ人が犯人とされ、火刑に処されたが、これはカルカソンヌでも発生した事件である[173]

ユダヤ陰謀論[編集]

『シオン賢者の議定書』には多数の類書があるが、たんに相互参照を繰り返して話がふくらんでいるだけで、陰謀の直接的証拠は全くない。しかし陰謀論者たちが秘密結社フリーメイソンとユダヤ人を結びつけたことにより、両者が結託して陰謀をめぐらしているという根も葉もない俗説が広まった。実際には、ドイツのフリーメイソンリーはもとよりユダヤ人の扱いには賛否両論であり、『議定書』の独語版が出版されるとユダヤ人の加入を断るようになった[174]

『シオン賢者の議定書』が作られた当時のロシア宮廷にはパピュスことジェラール・アンコースフランス語版等のオカルティストがコネクションを有しており、後年、パピュスに『議定書』捏造の濡れ衣を着せる記事がポーランドで書かれたこともあった。『議定書』の草稿のロシアへの持ち込みに関与したとされる、ユリアナ・グリンカという女性も神智学に傾倒していた[175]

日本[編集]

ロシアからの『シオン賢者の議定書』紹介[編集]

1918年日本シベリア出兵を行うが、日本軍と接触した白軍兵士には全員『シオン賢者の議定書』が配布されていたことにより、日本軍は反ユダヤ主義の存在を知ることになる。シベリアから帰った久保田栄吉は1919年に初めて日本にこの本を紹介した。最初に一冊の本で『シオン賢者の議定書』を紹介したのが北上梅石(樋口艶之助)の『猶太禍』(1923年)であった。樋口艶之助はロシア語通訳としてシベリア出兵に参加しており、直接白軍将校と接触している。樋口の翻訳を読み酒井勝軍1924年に『猶太人の世界征略運動』など3冊を相次いで出版した。陸軍の将軍であった四王天延孝も『シオン賢者の議定書』を翻訳し、また反ユダヤ協会の会長を務めた。後の大連特務機関長になる安江仙弘はシベリア出兵で武勲を上げたが、日本に帰ってくると1924年に包荒子のペンネームで『世界革命之裏面』という本を著し、その中で初めて全文を日本に紹介した。また、独自に訳本を出版した海軍の犬塚惟重とも接触し、陸海軍のみならず外務省をも巻き込んだ「ユダヤの陰謀」の研究が行われた。しかし、陰謀の発見等の具体的成果を挙げられなかった[176]

『シオン賢者の議定書』が日本に持ち込まれる際に、シベリアから『マッソン結社の陰謀』というわら半紙に謄写版刷りの50枚ばかりの小冊子が持ち込まれた。これが日本では、フリーメイソン陰謀論がユダヤ陰謀論と同時に語られるきっかけになった。『マッソン結社の陰謀』は1923年に「中学教育の資料として適当なものと認む」という推薦文とともに全国の中学校校長会の会員に配布された[177]吉野作造1921年に『所謂世界的秘密結社の正体』という文章を書き、フリーメイソンの弁護を行った[178]。吉野はユダヤ陰謀論者が用いている「マッソン結社」という呼称をまず批判したが、これは逆に酒井勝軍らに再批判されている。また、吉野は『シオン賢者の議定書』に種本があることを指摘した。厨川白村は『改造』誌1923年5月号の『猶太人研究』に「何故の侮蔑ぞや」という文書を著し、ここで「個人主義傾向のユダヤ人に大きな団体的な破壊活動などが出来る筈がない」と主張した。新見吉次は1927年5月の『猶太人問題』で、ユダヤ人の陰謀説が日本に相当根を張っている状況を憂い、歴史的事実を通してその批判を行っている。八太徳三は『想と国と人』誌に『猶太本国の建設』という文書を著し、ここで『シオン賢者の議定書』の捏造状況を記述した。

1924年には「日本民族会」、1936年には「国際政経学会」という組織が結成され、『国際秘密力の研究』や『月刊猶太(ゆだや)研究』という雑誌が発行された。これらの組織の主要メンバーであった赤池濃は貴族院議員であった。1928年9月に、誕生したばかりの思想検事の講習会が司法省主催で開催された。その中で四王天により『ユダヤ人の世界赤化運動』が正科目として講座が開かれた[179]

最も積極的にユダヤ陰謀論を批判したのが、満川亀太郎であった。1919年の『雄叫び』誌に載せた文章をはじめ、継続的にユダヤ陰謀論を批判している。1929年に満川は『ユダヤ禍の迷妄』を、1932年に『猶太禍問題の検討』を著しユダヤ陰謀論を批判している。その他、ユダヤ人陰謀説を批判している人もいるが、妄説を相手にしているのは大人げなく黙殺するという態度を取る人が多く、結果的に陰謀説の方が優勢を示すこととなった[180]オトポール事件河豚計画にも関わった樋口季一郎は、第1回極東ユダヤ人大会に招かれてナチスの反ユダヤ主義政策を批判する演説を行っているが、日本の新聞では大会の存在すら報道されなかった[181]

1934年頃から、安江仙弘犬塚惟重は、満州国経営の困難さを訴えていた人らと接触するうちに、ナチス・ドイツによって迫害されているユダヤ人を助けることによってユダヤ資本を導入し、ユダヤ人を移住させることで、満州国経営の困難さを打開しようと考えるようになった。これが河豚計画である。安江仙弘や犬塚惟重は反ユダヤ主義とは全く正反対の日ユ同祖論を展開、書籍を出版することなどによって一般大衆や軍にユダヤ人受け入れの素地を作ろうとした。結局河豚計画は失敗するが、数千人のユダヤ人が命を救われたりと成果も残すこととなった[182][* 3]

作家山中峯太郎は少年向け雑誌『少年倶楽部』に1932年から1年半『大東の鉄人』という小説を連載する。この小説では、ヒーローが戦う相手は日本滅亡を画策するユダヤ人秘密結社シオン同盟とされた。山中は安江の陸軍士官学校における2年先輩であった。また、海野十三[183]北村小松らもユダヤ人を敵の首領とする子供向け冒険小説を書いている。太宰治もユダヤ陰謀論的に自著が扱われた事実を戦後書いており[184]、戦前ユダヤ人の否定的イメージが子供達でさえ了承することを自明視していたほど反ユダヤ主義的言説が日常的に流通していた[185]

ドイツとの同盟成立後[編集]

日本は1936年日独防共協定、1937年に日独伊防共協定、1940年に日独伊三国同盟を締結し、ナチス・ドイツと同盟関係になった。ナチス・ドイツの成立以前の新聞報道では、反ユダヤ主義はほとんど積極に取り扱われていなかった[186]ナチ党の権力掌握から間もない頃には、東京朝日新聞などでもナチスのユダヤ人迫害に対して批判的な論調が見られた[187]。しかし、ナチスに対する支持が増幅するについて、反ユダヤ主義的な見解が広がり、黒正巌大阪毎日新聞の紙上でナチスの経済政策を激賞し、労働精神を有しないユダヤ人はドイツ国民と断じて相容れず、「国民を利子の奴隷より解放しようとするならば、当然にユダヤ人を排斥せざるを得ないのである」と論じている[188]。1938年のアンシュルス後には大阪朝日新聞ではオーストリアのドイツへの統合問題を述べた「ユダヤ人を清掃すればよい程度」という表現が用いられ[189]、大阪毎日新聞も水晶の夜後にユダヤ人に対して課せられた賠償問題についても「ドイツ人がユダヤ人を煮て食はうが焼いて食はうが米国の口を出すべき問題ではない」と論じている[190]

1938年10月7日、外務省から在外公館長へ『猶太避難民ノ入國ニ關スル件』という極秘の訓令が近衛文麿外務大臣の名で発せられた。リトアニア在カウナス領事館に副領事として務めていた杉原千畝がビザを発給し、多くのユダヤ難民を救った。

1944年1月26日の第84回帝国議会で四王天はユダヤ人問題について政府要人たちに質問をするが、回答した安藤紀三郎内相、岡部長景文相、天羽英二(内閣情報局総裁)いずれも四王天の意を迎え、反ユダヤ主義的回答を行った[191]。大阪毎日新聞は四王天を講師として迎えた企画展「国際思想戦とユダヤ問題講演会」などの、類似の反ユダヤ主義勉強会やイベントをたびたび開催し、主筆の上原虎重も講師として加わっていた[192]。大阪毎日新聞はこのほか、連合軍によるローマ空襲でバチカンが被害を受けたことも「ユダヤ人とユダヤ思想を基礎とするフリー・メーソンリの計画」であると社説に掲載したほか、連合国の指導者を「ユダヤ民族の総帥」であるとするなど、たびたび反ユダヤ主義・陰謀論的な論説を掲載している[193]。このほか白鳥敏夫大串兎代夫、大場彌平、長谷川泰造といった執筆陣によってこの見解を敷衍する連載も行われている[193]

戦後[編集]

戦後1981年五島勉によって出版された『ノストラダムスの大予言III-1999年の破滅を決定する「最後の秘史」』でもユダヤ陰謀説は展開された。

1986年には宇野正美によって『ユダヤが解ると世界が見えてくる』(徳間書店)が出版され、一大ベストセラーとなった。1987年1月17日付の読売新聞は、宇野の説を好意的に取り上げた。自民党保守派は憲法記念日の大会に宇野を招待した。ユダヤ陰謀論は一部のマニアックな言説としてだけではなく、日本のメインストリームにも受け入れられていた[194]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 内田樹は英語であれば "Jew" や "Jewish" の一語で表せるが、日本語ではたんに「ユダヤ」とは呼ばず、その後に「〜人」「〜民族」「〜教徒」とつけて呼び習わしているが、「教徒」では宗教的な意味合いだけで考慮されることが多く、「〜人」「〜民族」という表現から(民族と人種の概念を混同して)「ユダヤ人」がひとつの「人種」であるという誤った印象を受けてしまう人もいるが、実際にはユダヤ人と他の民族集団とを区別しうる有意な人種的特徴はないという[1]
  2. ^ 士師記12-4-6でギレアデ族エフライム族を殺害した一節、民数記25-6-9を指すが、後者については故意の誤解によるものかと訳者は指摘している[43]
  3. ^ ゲーム会社のタイトー創業者であるロシア系ユダヤ人ミハエル・コーガンも安江らの影響で日本で活躍の場を求めるようになった

出典[編集]

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参考文献[編集]

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  • 宮澤正典「昭和戦時下における新聞の親ナチ・反ユダヤへの傾斜」第10巻、同志社大学一神教学際研究センター、2015年
  • 横山茂雄 『聖別された肉体』 書誌風の薔薇、1990年 
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  • カルロ・ギンズブルク 『闇の歴史』、竹山博英 せりか書房、1992年 
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  • レオン・ポリアコフ 『反ユダヤ主義の歴史 第2巻 ムハンマドからマラーノへ』 菅野賢治、筑摩書房、2005年8月10日。ISBN 978-4480861221。
  • レオン・ポリアコフ 『反ユダヤ主義の歴史 第3巻 ヴォルテールからヴァーグナーまで』 菅野賢治、筑摩書房、2005年11月25日。ISBN 978-4480861238。
  • レオン・ポリアコフ 『反ユダヤ主義の歴史 第4巻 自殺に向かうヨーロッパ』 菅野賢治、小幡谷友二 、 宮崎海子、合田 正人、高橋博美、筑摩書房、2006年7月。ISBN 978-4480861245。
  • レオン・ポリアコフ 『反ユダヤ主義の歴史 第5巻 現代の反ユダヤ主義』 菅野賢治、小幡谷友二 、 宮崎海子、合田 正人、高橋博美、筑摩書房、2007年3月1日。ISBN 978-4480861252。

関連文献[編集]

  • 鈴木董 『オスマン帝国』 講談社〈講談社現代新書〉、1992年。ISBN 4-06-149097-4。
  • 立山良司 『揺れるユダヤ人国家』 文藝春秋〈文春新書〉、2000年。ISBN 4166600877。
  • ジョーゼフ・W. ベンダースキー 『ユダヤ人の脅威―アメリカ軍の反ユダヤ主義』 佐野誠・樋上千寿・関根真保・山田皓一訳、風行社、2003年8月。ISBN 4-938662-60-4。
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  • ジョルジュ・ベンスサン 『ショアーの歴史 ユダヤ民族排斥の計画と実行』 吉田恒雄訳、白水社文庫クセジュ〉、2013年8月。ISBN 4-560-50982-1。
  • 藤原和彦『アラブはなぜユダヤを嫌うのか 中東イスラム世界の反ユダヤ主義』ミルトス、2008年6月、ISBN 978-4-89586-030-7

関連項目[編集]


関連人物[編集]