古関裕而

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古関 裕而
古関裕而.jpg
基本情報
出生名 古關 勇治
生誕 (1909-08-11) 1909年8月11日
日本の旗 日本 福島県福島市
死没 (1989-08-18) 1989年8月18日(80歳没)
日本の旗 日本 神奈川県川崎市宮前区菅生聖マリアンナ医科大学病院
学歴 旧制福島商業学校(現福島商業高等学校
ジャンル 応援歌行進曲戦時歌謡歌謡曲
職業 作曲家
活動期間 1931年 - 1986年

古関 裕而(こせき ゆうじ、 1909年明治42年〉8月11日 - 1989年平成元年〉8月18日)は、日本作曲家。本名は古關 勇治(読み同じ)。妻は声楽家詩人古関金子

気品ある格式高い曲風で知られ、現在でも数多くの作品が愛されている。生涯で5千に及ぶ曲を作曲したとされ、また、楽器を一切使わずに頭の中だけで作曲を行ったといわれる。

概要[編集]

福島に生まれ、幼少期より音楽と作曲活動に親しんだ。青年期には金須嘉之進への師事を経て、1929年にチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて、最年少で国際的コンクールの入選を果たした。それを機会に山田耕筰の推挙で東京の楽壇に進出し、クラシック畑からポピュラー畑に転身、数多くの流行歌歌謡曲映画音楽軍歌の作曲を手掛け、音丸の「船頭可愛や」、「露営の歌」、伊藤久男の「暁に祈る」、霧島昇波平暁男の「若鷲の歌」などを発表した。戦後は、「とんがり帽子」や、二葉あき子の「フランチェスカの鐘」、藤山一郎の「長崎の鐘」、伊藤久男の「イヨマンテの夜」、織井茂子の「君の名は」、岡本敦郎の「高原列車は行く」ほか、数多くの大ヒット曲を生み出した。

他方で、早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」、東京農業大学応援歌「カレッジソング」、名城大学応援歌「真澄の空に」、三重県立四日市高等学校応援歌「希望の門」、 全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの球団歌「大阪(阪神)タイガースの歌(六甲おろし)」、読売ジャイアンツの球団歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」、中日ドラゴンズの初代球団歌「ドラゴンズの歌(青雲たかく)」、東京五輪の「オリンピック・マーチ」、NHKスポーツ中継テーマ「スポーツショー行進曲」など、応援歌、行進曲の分野でも数多の作曲を手掛け、和製スーザと呼ばれた。巨人、阪神は試合が伝統の一戦と呼ばれる間柄だが、古関はスポーツにはあまり興味はなく球団関係を気にすることなく作曲を引き受けた[1]

また母校である福島商業高等学校の校歌“若きこころ”を作曲している。

生涯[編集]

幼少期[編集]

福島県福島市大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に長男として誕生。父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていた。古関は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道を志していく。同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年がおり、のちに野村俊夫(作詞家)となって古関とともに数々の曲を世に送り出すこととなる。

1916年(大正5年)、古関は7歳のときに福島県師範学校附属小学校(現福島大学附属小学校)へ入学した[2]。担任の遠藤喜美治が音楽好きで、音楽の指導に力を入れていた。古関は10歳の頃には楽譜が読めるようになり、授業だけでは物足りなくなり、市販の妹尾楽譜などを買い求めるようになった。ますます作曲に夢中になり、次第にクラスメイトが詩を持って古関に作曲を依頼してくるようになる。こうして子供の頃から作曲に親しむこととなった。

青少年期[編集]

1922年(大正11年)、旧制福島商業学校(現福島商業高等学校)に入学した。同校に進学したのは家業を継ぐためであったが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中だったという。妹尾楽譜や山田耕筰著の「作曲法」等を買い集め、独学での作曲法の勉強を続けていた、年に2回行われていた校内弁論大会にハーモニカで音楽をつけることになり、古関が書き溜めていた曲を合奏用に編曲して大勢で演奏することになった。初めて自分の作品が披露された出来事であった[3]。しかし、在学中には家業の呉服店が倒産する事態にも遭った。

学校を卒業する頃、当時の日本では有数のハーモニカバンドであった福島ハーモニカーソサエティーに入団する。古関は作曲・編曲・指揮を担当し、地元の音楽仲間が主宰していた「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いていた。ここで初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い、衝撃を受ける。傾倒したのは、リムスキー=コルサコフの『シェエラザード』とストラヴィンスキーの『火の鳥』、ドビュッシームソルグスキーなどである。このレコードコンサートには頻繁に通っていたという[3]

1928年、福島商業学校を卒業後、母方の伯父に誘われ、伯父が頭取を務める川俣銀行(現東邦銀行川俣支店)に勤務した。町内の寄宿先である、母の生家(いとこの実家)から通勤する一方で、作曲の勉強を続けていた[4]。この頃、学生時代から憧れていた山田耕筰の事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りを行っている[3]。古関は、当時発行される山田の楽譜はほとんど空で覚えていたという。福島ハーモニカーソサエティーとともに仙台中央放送局(現NHK仙台放送局)の記念番組に出演する。この頃、リムスキー=コルサコフの弟子で仙台に在住していた金須嘉之進に師事することになった。金須は正教徒で、正教の聖歌を学ぶため革命前のペテルブルクの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフから管弦楽法を学んでいた。

コロムビア専属へ[編集]

1929年(昭和4年)、管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募し、二等入賞を果たす。これは日本人初の国際的作曲コンクールにおける入賞であり、1930年(昭和5年)1月23日の福島民報新聞で大々的に報道されている[4]。ただし、これは国際現代音楽協会コンペへのイギリス支部推薦を、古関が入賞と勘違いしたという説もある[5]。日本人の国際作曲コンクールあるいは公募において、現在も日本初であることが記録されているのは外山道子の「やまとの声[6]」である。

『竹取物語』は、色彩的で斬新なオーケストレーションがなされており、また、打楽器のみで演奏される楽章なども含まれていたといわれる。

この入賞の報道を読んだ、声楽家志望で愛知県豊橋市在住[7]内山金子(きんこ)が古関にファンレターを送り、その後も約100通に及ぶ熱烈な文通を経て1930年6月、古関20歳、金子18歳で結婚[4]。古関はたいへんな愛妻家で、晩年までおしどり夫婦であったという。

この頃、古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩『ダイナミック・モーター』、弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させていたが、それらの楽譜は現在ほとんど行方不明になっている。『竹取物語』の所在も知れないという。

同年9月、コロムビアの顧問山田耕筰の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京した[4]。東京では菅原明朗に師事した。菅原は『竹取物語』のスコアを読んで驚き、古関には深井史郎よりも才能があったと、後年まで称賛している。師と仰いだ菅原明朗のほかに、橋本國彦とも親交が厚かった。

しかし、古関は実家が経済的に破綻してからは一族を養わなくてはならず、次第にクラシックの作曲から離れざるをえなくなった。コロムビア入社も主に生活費のためであったと考えられる。古関本人は作曲の勉強のための洋行を希望していたが、それは叶わなかった。東京に移ってからのオーケストラ作品には、関東大震災を描いた交響詩『大地の反逆』がある。これはストラヴィンスキー的な音楽であるといわれている。また、無調的な歌曲『海を呼ぶ』なども作曲している。

1935年(昭和10年)、古関が26歳の頃、新民謡調の「船頭可愛や」(詩:高橋掬太郎、唄:音丸)が大ヒットし、人気作曲家の仲間入りを果たす[8]。この歌は世界の舞台でも活躍したオペラ歌手三浦環もレコードに吹き込んだ。

この頃、声楽家志望だった妻の金子は帝国音楽学校へ進んでいた。金子は後に声楽家のベルトラメリ能子(よしこ)及びその師のノタル・ジャコモの教えを受けた[9]。また同時期に古関は同郷の伊藤久男と交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。

戦中から戦後[編集]

1955年

戦時中の古関は数々の名作戦時歌謡を発表した。古関メロディーのベースであったクラシックと融合した作品は、哀愁をおびたせつない旋律のもの(「愛国の花」「暁に祈る」など)が多かったが、それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。戦時歌謡を作るかたわら、ヴァイオリン協奏曲のスケッチを重ねていたが、完成に至らぬうちに譜面が散逸したという。古関自身、前線での悲惨な体験や目撃が「暁に祈る」や「露営の歌」に結びついたと証言している。また自らの作品で戦地に送られ、戦死した人への自責の念を持ち続けていた。

戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注いだ。長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌「長崎の鐘」。戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌「とんがり帽子」。戦後日本の発展の象徴でもある1964年開催の東京オリンピックの開会式に鳴り響いた「オリンピック・マーチ」。現在も毎年夏の甲子園に流れている高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」。その他にも「フランチェスカの鐘」「君の名は」「高原列車は行く」などの格調高い曲を数多く創作した。また、クラシックの香り溢れる流行歌や、勇壮で清潔感のあるスポーツ音楽が大衆の心をとらえた。

テノールの美しい音色と格調のあるドイツ歌曲の唱法を基礎にした「クルーン唱法」で歌唱する藤山一郎、叙情溢れるリリックなバリトンで熱唱する伊藤久男などの歌手にも恵まれた。

劇作家菊田一夫と名コンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルのヒット作品を世に送り出した。1961年に菊田と手がけた森光子主演の『放浪記』は長期公演舞台となった。また、戦後の古関は、クラシック音楽の作曲を完全に諦めていたわけではなく、菊田と共同したミュージカル『敦煌』から交響組曲『敦煌』を編んでいる。

また、NHKテレビラジオを通じて各音楽番組に出演。ラジオドラマ『君の名は』では放送中に、スタジオにオルガンを持ち込み、生演奏をして劇中伴奏を務め、他の番組でも時折生演奏を行った。

晩年と死後[編集]

フジテレビ系の音楽番組『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員を、1972年10月の放送開始から初代司会者の萩本欽一とともに1984年6月24日に降板するまで務めていた。

1977年、「栄冠は君に輝く」制定30周年を記念して夏の甲子園の開会式に招待された。大会旗掲揚に当たり、大会歌の大合唱が起こりその光景に感激したという。また、この大会では古関の母校である福島商業高校が甲子園初勝利を挙げ、自らが作曲した校歌を聴くことが出来た。

1979年には最初の福島市名誉市民に選ばれ[10]、同地には1988年11月12日に「福島市古関裕而記念館」も建てられている。しかし古関はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。

傘寿の誕生日を迎えて1週間足らずの1989年(平成元年)8月18日午後9時30分、古関は脳梗塞のため聖マリアンナ医科大学病院で没した(享年80歳)[11]。古関の没後、国民栄誉賞の授与が遺族に打診されるも古関の遺族はこれを辞退した。その理由について、古関の長男は「元気に活動しているときならともかく、亡くなったあとに授与することに意味があるのか」と没後追贈に疑問を持ったためとしている[12]

2009年4月11日に生誕100年を記念し、JR福島駅の発車メロディーに古関の作品が採用されることになった。在来線ホームに「高原列車は行く」、新幹線ホームに「栄冠は君に輝く」が採用され、発車メロディー用に30秒間にアレンジされた曲が流れている[13]

同年8月11日、同じく生誕100年を記念しモニュメントが古関の地元・福島市の福島駅東口駅前広場に設置された[14]。制作・施工費は約1500万円。30歳代後半の古関が愛用したオルガンを奏でる姿をかたどったデザインで、午前8時から午後8時までの1時間おきに、「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」などの古関が作曲したメロディーが流れる仕組みになっている。

2017年夏以降、出生地などで「野球殿堂」入りを応援する動きが活発になっている[15]

2020年春から、NHK連続テレビ小説として、古関をモデルとした「古山裕一」を主人公とする『エール』が、窪田正孝の主演で放送されている[16]

家族[編集]

  • 妻・金子との間に2女1男
  • 娘2人は戦前の生まれ。終戦間際に娘2人を福島県飯坂町に疎開させ、裕而も一時同居している[17]
  • 長男・正裕は戦後生まれ。アマチュア時代のヴィレッジ・シンガーズのキーボード担当だったが脱退。会社員を退職後、祖父の屋号に因んだ女性2人との音楽ユニット「喜多三」を主宰して、伴奏を担当[18]。父母を回想する新聞雑誌や音楽番組にも協力している。

主な作品[編集]

戦前 - 戦中期[編集]

  • 1931年「紺碧の空早稲田大学応援歌~」(作詞:住治男)
  • 1931年「福島行進曲」(作詞:野村俊夫、歌:天野喜久代
  • 1934年「宮崎県民歌(初代)」(作詞:桑原節次、歌:中野忠晴伊藤久男[※ 1]
  • 1934年「利根の舟唄」(作詞:高橋掬太郎、歌:松平晃
  • 1935年「船頭可愛や」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸[※ 2]
  • 1935年「東京農業大学応援歌 カレッジソング」(作詞:吉田精一)
  • 1936年「ミス仙台」(作詞:西條八十、歌:二葉あき子[※ 3]
  • 1936年「大阪タイガースの歌(六甲颪)」(作詞:佐藤惣之助、歌:中野忠晴)
  • 1936年「慰問袋を」(作詞:高橋掬太郎、歌:コロムビア合唱団)
  • 1936年「大島くづし」(作詞:西條八十、歌:音丸)
  • 1936年「串本そだち」(作詞:西岡水郎、歌:音丸)
  • 1936年「米山三里」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)
  • 1936年「浜は九十九里」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)
  • 1937年「釜石市民歌」(作詞:広瀬喜志、歌:霧島昇
  • 1937年「田家の雪」(作詞:西條八十、歌:音丸)
  • 1937年「彈雨を衝いて」(作詞:高橋掬太郎、歌:伊藤久男)[※ 4]
  • 1937年「露營の歌」(作詞:薮内喜一郎、歌:中野忠晴、松平晃、伊藤久男、霧島昇、佐々木章)
  • 1938年「愛國の花」(作詞:福田正夫、歌:渡辺はま子
  • 1938年「婦人愛國の歌」(作詞:仁科春子、歌:霧島昇、松原操[※ 5]
  • 1938年「憧れの荒鷲」(作詞:西條八十、歌:ミス・コロムビア、二葉あき子)
  • 1939年「巨人軍の歌(野球の王者)」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男)[※ 6]
  • 1939年「荒鷲慕いて」(作詞:西條八十、歌:不明)
  • 1940年「暁に祈る」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)
  • 1940年「嗚呼北白川宮殿下」(作詞:二荒芳徳、歌:伊藤武雄、二葉あき子)
  • 1941年「海の進軍」(作詞:海老名正男、歌:伊藤久男、藤山一郎、二葉あき子)[※ 7]
  • 1941年「宣戦布告」(作詞:野村俊夫、歌:不明)
  • 1941年「皇軍の戦果輝く」(作詞:野村俊夫、歌:不明)
  • 1941年「英國東洋艦隊潰滅」(作詞:高橋掬太郎、歌:藤山一郎)[※ 8]
  • 1941年「みんな揃って翼賛だ」(作詞:西條八十、歌:不明)
  • 1942年「斷じて勝つぞ」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)[※ 9]
  • 1942年「防空監視の歌」(作詞:相馬御風、歌:藤山一郎、二葉あき子)
  • 1942年「大東亞戰争陸軍の歌」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男、黒田進(楠木繁夫)酒井弘
  • 1942年「シンガポール晴れの入城」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)
  • 1942年「アメリカ爆撃」(作詞:野村俊夫、歌:コロムビア合唱団)
  • 1942年「空の軍神」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)
  • 1943年「みなみのつわもの」(南方軍報道部選定、歌:伊藤久男)
  • 1943年「大南方軍の歌」(南方軍制定歌、歌:霧島昇)
  • 1943年「海を征く歌」(作詞:大木惇夫、歌:伊藤久男)
  • 1943年「戰ふ東條首相」(作詞:小田俊與、歌:伊藤武雄)[※ 10]
  • 1943年「あの旗を撃て」(作詞:大木惇夫、歌:伊藤久男)
  • 1943年「かちどき音頭」(作詞:野村俊夫、歌:佐々木章、松原操、近江俊郎
  • 1943年「決戦の大空へ」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)
  • 1943年「若鷲の歌(予科練の歌)」(作詞:西條八十、歌:霧島昇、波平暁男
  • 1943年「撃ちてし止まん」(作詞:小田俊與、歌:霧島昇)
  • 1944年「ラバウル海軍航空隊」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦[※ 11]
  • 1944年「制空戰士」(作詞:大木惇夫、歌:波平暁男、酒井弘、奈良光枝)
  • 1944年「雷撃隊出動の歌」(作詞:米山忠雄、歌:霧島昇、波平暁男)
  • 1944年「臺灣沖の凱歌」(作詞:サトウハチロー、歌:近江俊郎、朝倉春子)
  • 1944年「フィリピン沖の決戦」(作詞:藤浦洸、歌:伊藤武雄)
  • 1944年「嗚呼神風特別攻撃隊」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤武雄、安西愛子、伊藤久男)[※ 12]
  • 1944年「比島決戦の歌」(作詞:西條八十、歌:酒井弘、朝倉春子)[※ 13]
  • 1944年「アイウエオの歌」(作詞:サトウハチロー、歌:日蓄合唱団、演奏:大東亜交響楽団、松竹軽音楽団)
  • 1945年「特別攻撃隊(斬込隊)」(作詞:勝承夫、歌:藍川由美[※ 14]

戦後[編集]

  • 1946年「我ぞ覇者 〜慶應義塾大学応援歌〜」(作詞:藤浦洸)
  • 1946年「竹田病院々歌」(作詞:土井晩翠)
  • 1947年「夢淡き東京」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)
  • 1947年「白鳥の歌」(作詞:若山牧水、歌:藤山一郎)
  • 1947年「雨のオランダ坂」(作詞:菊田一夫、歌:渡辺はま子)
  • 1947年「三日月娘」(作詞:薮田義雄、歌:藤山一郎)
  • 1947年「とんがり帽子」(作詞:菊田一夫、歌:川田正子コロムビアゆりかご会
  • 1947年「夜更けの街」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)
  • 1948年「栄冠は君に輝く」(作詞:加賀大介、歌:伊藤久男)
  • 1948年「フランチェスカの鐘」(作詞:菊田一夫、歌:二葉あき子)
  • 1948年「スポーツ県民歌」(作詞:西條八十)
  • 1948年「若き日のエレジー」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)
  • 1949年「長崎の鐘」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)
  • 1949年「イヨマンテの夜」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、コロムビア合唱団)
  • 1949年「都市対抗を讃える野球の歌」(作詞:青木薫、補作:サトウハチロー)
  • 1950年「別れのワルツ」(スコットランド民謡オールド・ラング・サイン」(日本では蛍の光として知られる)の編曲)
    • なお、レコードに表示されている「ユージン・コスマン(編曲)」「ユージン・コスマン管弦楽団(演奏)」は本名(古関裕而)をもじって命名された[19]
  • 1950年「ドラゴンズの歌(青雲たかく)」(作詞:小島情、歌:伊藤久男)[※ 15]
  • 1950年「薔薇と蜜蜂」(作詞:野村俊夫、歌:二葉あき子)
  • 1950年「われらが愛知」(作詞:若葉清成、補作:西條八十、歌:藤山一郎、安西愛子)
  • 1951年「恋を呼ぶ歌」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)
  • 1951年「さくらんぼ大将」(作詞:菊田一夫、歌:川田孝子
  • 1951年「あこがれの郵便馬車」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎
  • 1951年「ニコライの鐘」(作詞:門田ゆたか、歌:藤山一郎)
  • 1951年「薄紫の山脈(島根県民の歌)」(作詞:米山治、歌:藤山一郎、立川清登
  • 1951年「白いランプの灯る道」(作詞:丘灯至夫、歌:奈良光枝
  • 1951年「長崎の雨」(作詞:丘灯至夫、歌:藤山一郎)
  • 1952年「黒百合の歌」(作詞:菊田一夫、歌:織井茂子
  • 1952年 滋賀県立彦根東高等学校校歌(作詞:吉田精一)
  • 1952年「夜船の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:久保幸江)
  • 1953年「君の名は」(作詞:菊田一夫、歌:織井茂子)
  • 1953年「君いとしき人よ」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)
  • 1953年「ひめゆりの塔」(作詞:西條八十、歌:伊藤久男)
  • 1953年「みどりの馬車」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)
  • 1953年「岬の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)
  • 1954年「高原列車は行く」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)
  • 1954年「サロマ湖の歌」(作詞:中山正男、歌:伊藤久男)
  • 1954年「滋賀県民の歌」(作詞:蓼沢猟(五味道茂)、補作:西條八十、歌:岡本敦郎、奈良光枝、コロムビア合唱団)
  • 1954年「数寄屋橋エレジー」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)
  • 1954年「チャンドラムの夜」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)
  • 1954年「花のいのちを」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、奈良光枝)
  • 1954年「百万石音頭」(作詞:丘十四夫、歌:伊藤久男、永田とよこ
  • 1954年「福島音頭」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男、神楽坂はん子
  • 1954年「郡山市民の歌」福島県郡山市(作詞:内海久二)
  • 1954年「忘れ得ぬ人」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)
  • 1955年「花売馬車」(作詞:西條八十、歌:美空ひばり
  • 1956年「メコンの舟歌」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)[※ 16]
  • 1957年「荷物片手に」(作詞:野口雨情、歌:森繁久彌
  • 1957年「二本松少年隊」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)
  • 1958年「オリンピック賛歌」(作詞:コスティス・パラマス、作曲:スピロ・サマラス。第1回アテネ大会時の紛失ピアノ楽譜を発見、採譜・オーケストラ編曲。古関のオーケストラ譜は現在に至るまで用いられる)
  • 1958年 茨城県大子町立袋田小学校校歌(作詞:野村俊夫)
  • 1959年 名古屋中学校・高等学校校歌 「希望羽ばたく」(作詞:門田ゆたか)
  • 1959年「城南信用金庫の歌」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎、安西愛子)
  • 1960年 陸上自衛隊隊歌「この国は」(作詞:大関民雄、補作:西沢爽)
  • 1960年 陸上自衛隊隊歌「君のその手で」(作詞:西沢爽)
  • 1960年 陸上自衛隊行進歌「聞け堂々の足音を」(作詞:梅津統秋、補作:サトウハチロー)
  • 1960年「スカイラインの歌」(作詞:野村俊夫、歌:守屋浩
  • 1961年「モスラの歌」(作詞:本多猪四郎田中友幸関沢新一、歌:ザ・ピーナッツ
  • 1961年「夕月」(作詞:菊田一夫、歌:島倉千代子[※ 17]
  • 1963年「あの橋の畔で」(作詞:菊田一夫、歌:島倉千代子
  • 1963年「巨人軍の歌(闘魂こめて)」(作詞:椿三平、歌:守屋浩三鷹淳若山彰
  • 1964年「オリンピック・マーチ」(演奏:陸上自衛隊中央音楽隊)[※ 18]
  • 1964年「故郷はいつも瞼に」(作詞:野村俊夫、歌:不明)
  • 1966年「スカーレット・オハラ」(作詞:菊田一夫、歌:那智わたる)
  • 1968年「早慶讃歌 〜花の早慶戦〜」(作詞:藤浦洸)
  • 1968年 青年海外協力隊隊歌「若い力の歌」(作詞:山田哲、補作:藤田まさと、歌:藤山一郎)
  • 1968年「若鷲の歌」(作詞:西條八十、歌:西郷輝彦[※ 19]
  • 1970年「アニメンタリー 決断」テーマソング「決断」(作詞:丘灯至夫、歌:幹和之)
  • 1970年 陸上自衛隊隊歌「栄光の旗の下に」(作詞:赤堀達郎、補作:藤田正人
  • 1971年「純白の大地(札幌冬季オリンピックの歌)」(歌:日本合唱協会)
  • 1977年「ドカベン」挿入歌「ああ甲子園」(作詞:保富康午、編曲:菊池俊輔、歌:日唱)
  • 1979年「若さと英知~日本ビジネスコンサルタント社歌」(原案:社内公募、作詞:丘灯至夫、歌:三鷹淳
  • 1985年「日立物流社歌」(作詞:丘灯至夫、歌:三鷹淳)
  • 海上自衛隊隊歌「海をゆく」(作詞:旧版 - 佐久間正門 現行版 - 松瀬節夫)

映画音楽[編集]

主題歌のみのものは除く。

クラシック音楽[編集]

  • 交響曲(第1番から第3番の3曲)
  • ヴァイオリン・チェロのための協奏曲
  • 五台のピアノのための協奏曲
  • 一茶の句による小品童曲
  • 和歌を主題とせる交響楽短詩
  • 舞踊組曲「竹取物語」
  • 舞踊詩「線香花火」
  • 交響詩「大地の反逆」
  • 管弦楽組曲「戦場の印象」
  • 室内管弦楽曲「亡き愛児に捧ぐる歌」

その他[編集]

福岡県福岡市立高宮小学校校歌(作詞:西條八十)

受賞[編集]

著書[編集]

  • 『鐘よ鳴り響け―古関裕而自伝』、主婦の友社、1980年
    • 『古関裕而―鐘よ鳴り響け』、日本図書センター〈人間の記録〉、1997年、ISBN 4820542575
    • 『鐘よ鳴り響け―古関裕而自伝』、集英社文庫、2019年、ISBN 978-4087440591
  • (長男・古関正裕との共著) 『風景の調べ―古関裕而スケッチ集』、古関裕而(私刊)、1988年

回想本[編集]

ビジュアル本[編集]

  • 古関正裕『古関裕而の生涯 傑作メロディーCD付き』、宝島社、2020年4月 ISBN 978-4-299-00422-2

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 同名の歌が2曲存在する(現行の2代目の歌は作詞:酒井祐春、作曲:飯田信夫)。
  2. ^ 古関本人が書き表した楽譜には「船頭可愛いや」と表記されている。
  3. ^ 「乙女十九」の元歌。
  4. ^ この作品以降、伊藤久男との結びつきが強くなる。
  5. ^ 瀬戸口藤吉による同名異曲がある。
  6. ^ 同名の歌が3曲存在する(2代目の通称「ジャイアンツ・ソング」は米山正夫の作曲)。
  7. ^ 斉藤丑松による同名異曲がある。
  8. ^ 初めてレコード化されたのは1966年のことである。
  9. ^ 英国東洋艦隊潰滅」と同じ曲。
  10. ^ 昭和館で試聴可能である。
  11. ^ 作詞の佐伯、歌の灰田がビクター専属だったので、例外的にビクターから発売された。
  12. ^ 伊藤武雄、安西は当初予定された歌手。レコード番号も用意され1945年3月発売予定と報じられていたが、伊藤久男を迎えて初めてレコード化されたのは戦後のことである。
  13. ^ 「戦後にレコードがすべて破棄された」など、曰く因縁のついている戦時歌謡であるが、この曲に予定されていたレコード番号と、その前後の番号がすべて欠番になっていることから、「初めから作られなかったのではないか」という説もある。楽譜は古関裕而記念館で展示。また、レーベル原稿等も現存している。1995年に、江口浩司の編曲によって、初めて発売された。
  14. ^ 1997年に発売された藍川のアルバム「レクイエム「ああ此の涙をいかにせむ」《古関裕而歌曲集2》 」に収録されているものが唯一の音源と思われる。
  15. ^ 燃えよドラゴンズ!」および「昇竜 -いざゆけ ドラゴンズ-」とは別の曲。
  16. ^ ところによっては「メコンの舟唄」という表記もみられる。
  17. ^ 三木たかしによる同名異曲がある。
  18. ^ 「オリンピック行進曲」と呼ばれることもある。
  19. ^ 1943年発表の同曲を西郷輝彦がカバーしたもの。

出典[編集]

  1. ^ フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 1』講談社、2003年。
  2. ^ 2011.09.23 古関裕而の「私の歴史館」
  3. ^ a b c 古関裕而自伝より。
  4. ^ a b c d 川俣町と古関裕而”. 川俣町. 2020年4月22日閲覧。
  5. ^ 古関裕而1929/30かぐや姫はどこへ行った,を参照のこと”. twitter.com. twitter. 2020年6月7日閲覧。
  6. ^ 外山道子「やまとの声」”. www.jscm.net. JSCM. 2020年6月7日閲覧。
  7. ^ 当時はまだ渥美郡高師村。豊橋への編入は1932年(昭和7年)以降。
  8. ^ NHK映像ファイル あの人に会いたい「古関裕而(作曲家)」 2019年7月20日放送。
  9. ^ 刑部芳則『古関裕而』p140
  10. ^ 古関裕而と福島 - 福島市古関裕而記念館、2020年5月28日閲覧。
  11. ^ 「若鷹の歌」、「君の名は」、「長崎の鐘」 古関裕而さん死去。 読売新聞1989年8月19日夕刊15面
  12. ^ 国民栄誉賞 "ヒーロー"の選ばれ方”. NHK生活情報ブログ. NHK (2017年12月28日). 2019年2月28日閲覧。
  13. ^ [1][リンク切れ]
  14. ^ “作曲家・古関裕而の生誕100周年、JR福島駅前に曲奏でる記念碑”. NIKKEI NET (日本経済新聞社). (2009年8月11日). オリジナルの2009年8月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090815194609/http://www.nikkei.co.jp/news/retto/20090811c3b1104811.html 2019年2月28日閲覧。 
  15. ^ 朝日新聞東京本社版 2018年1月5日夕刊
  16. ^ “窪田正孝が主演 20年朝ドラ前期は「エール」 「栄冠は君に輝く」古関裕而氏モデル”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2019年2月28日). https://www.daily.co.jp/gossip/2019/02/28/0012104131.shtml 2019年2月28日閲覧。 
  17. ^ 【古関裕而生誕110年】戦時下の作曲活動 『望郷の念』...旋律に込める”. 福島民友. 2020年6月2日閲覧。
  18. ^ 自律なきは「易きに流れる」 音楽ユニット「喜多三」主宰・古関正裕さん”. 産経新聞 (2014年2月5日). 2020年6月2日閲覧。
  19. ^ 佐藤剛 (2014年10月11日). “日本人なら誰もが知ってる曲、「別れのワルツ」は知られざるロングセラー”. Extra便. TAP the POP. 2019年2月28日閲覧。
  20. ^ 本多猪四郎監督オフィシャルサイト『鉄腕投手 稲尾物語』
  21. ^ 西武鉄道 会社要覧2017
  22. ^ 『Fujiya Book』不二家、1990年、61頁。
  23. ^ 『AV CREATOR PIONEER 音と光の未来をひらくパイオニア50年史』パイオニア、1988年。
  24. ^ 豊橋市歌
  25. ^ 阿見町立朝日中学校”. http://www.town.ami.lg.jp/0000000400.html. 2020年5月1日閲覧。
  26. ^ 阿見町立朝日中学校校歌音源
  27. ^ 京都市立紫竹小学校”. cms.edu.city.kyoto.jp. 2020年4月13日閲覧。

参考文献[編集]

評伝等[編集]

  • 齋藤秀隆 『古関裕而物語―昭和音楽史上に燦然と輝く作曲家』 歴史春秋出版 2000年8月 ISBN 978-4897574080.
    • 齋藤秀隆『歴春ふくしま文庫67 古関裕而 うた物語』歴史春秋出版 2019年6月 978-4897575940
  • 小林淳 『日本映画音楽の巨星たち 1―早坂文雄・佐藤勝・武満徹・古関裕而』2001年 ISBN 4898301029
  • 菊池清麿 『評伝古関裕而 国民音楽樹立への途』彩流社 2012年 ISBN 978-4779117855
  • 刑部芳則『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和』 中公新書、2019年11月 ISBN 978-4121025692
  • 長尾剛『古関裕而 応援歌の神様 激動の昭和を音楽で勇気づけた男』 PHP文庫 2020年2月 ISBN 978-4569769912
  • 青山誠『古関裕而 日本人を励まし続けた応援歌作曲の神様』 中経の文庫 2020年2月 ISBN 978-4046045577
  • 辻田真佐憲『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』文春新書 2020年3月 ISBN 978-4166612567
  • 菊地秀一『古関裕而・金子 その言葉と人生』(古関正裕 監修)宝島社 2020年3月 ISBN 978-4299002181

関連項目[編集]