台湾国民政府

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国民政府
中華民国の歴史
台湾省
1949年 - 1996年 中華民国
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国の標語: 民族、民権、民生
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中華民国の位置
  実効支配域(台湾地区
  領有権を主張する地域
公用語 中国語国語
首都 台北事実上
南京法令上
総統
1948年 - 1975年 蔣介石
1975年 - 1978年厳家淦
1978年 - 1988年蔣経国
1988年 - 2000年李登輝
行政院長
1948年 - 1948年翁文灝
1993年 - 1997年連戦
面積
1955年36,189.505km²
変遷
台湾光復 1945年10月25日
中国大陸中華人民共和国成立1949年10月1日
台北遷都1949年12月7日
大陸失陥1949年12月10日
戒厳令解除1987年7月15日
蔣経国死去、本省人初の総統・李登輝が総統に就任1988年1月13日
動員戡乱時期臨時条款の廃止と憲法増修条文の公布1991年5月1日
初の総統直接選挙1996年3月23日
通貨旧台湾ドル新台湾ドル
金門馬祖大陳専用紙幣
現在中華民国の旗 中華民国(台湾)
中華人民共和国の旗 中華人民共和国領有権主張
台湾の歴史
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(1624-1662)
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台湾国民政府(たいわんこくみんせいふ)は、国共内戦によって、1949年に南京市から台湾台北市に移転した中華民国政府(旧南京国民政府)のことである[注釈 1]

この記事では、1945年10月25日から1996年3月23日までの、台湾における中国国民党政権について述べる。

国民政府の前史[編集]

国民政府(こくみんせいふ)とは、中華民国の憲政移行前の大陸統治時代における中国国民党による政府のことである。略称は国府(こくふ)。元首主席(しゅせき)。

1925年に中国国民党によって、汪兆銘主席とする広州国民政府が樹立された。当時は第一次国共合作を行っており、1926年に蔣介石が国民革命軍総司令官となり、北伐を行い、軍閥政権との戦いを続けた。だが、反共的な蔣介石は中国共産党への抑圧を行ったため、蔣介石と汪兆銘、反蔣介石派との対立が激化した。

1927年1月、反蔣介石派が武漢への遷都を強行し、武漢国民政府が成立した。一方、蔣介石は同年4月上海クーデターを起こし、南京南京国民政府を樹立した。こうして国民政府は分裂し、国共合作は崩壊し、国共内戦へ突入する。だが、蔣介石は武漢国民政府を倒して国民政府を統一し、また、1928年6月には軍閥政府の根拠地である北京を陥落させ、12月には北伐を完了させた。蔣介石は同年、国民政府主席に就任した。

しかし、反蔣介石派は1931年に広州に独自の国民政府を樹立したため、再び国民政府は分裂する。だが、満州事変を契機に和解の機運が高まり、1932年に南京国民政府に再統一される。蔣介石は主席の地位を林森に譲って自らは軍事委員長に転じ、汪兆銘を行政院長に擁立するが、実権は蔣介石が握っていた。

1937年に日中戦争が始まると、国共内戦を休戦し、第二次国共合作を行い、日本を相手に戦った。12月に南京は陥落し、南京国民政府は武漢を経て重慶に遷都した。

1945年の終戦後、南京国民政府は1946年に召集した制憲国民大会中華民国憲法を制定し、翌1947年に公布・施行した。これにより、孫文の国民政府建国大綱における訓政期間を終了し、憲政に移行したことを示すため、1948年の政府組織再編後の南京国民政府のことを中国では、中華民国政府と呼称している。[注釈 2]

しかし、憲政実施後まもなく国共内戦が激化したため、動員戡乱時期臨時条款の制定によって長期にわたる戒厳時期に突入、立法機関の国民大会立法院改選も止まり、中国国民党による党と政府が一体化した事実上の一党独裁制を敷いて戦時体制に移行したものの、国共内戦は中国人民解放軍(中国共産党軍)の攻勢によって中華民国政府は大陸の支配権を喪失して台湾に移転し、中国大陸では中国共産党による中華人民共和国が成立した。

変遷[編集]

大戦の終結と台湾の返還[編集]

1945年7月26日に調印されたポツダム宣言を、同年8月15日日本受諾して第二次世界大戦が終結すると、同年9月2日に日本政府は降伏文書に調印した。

それを受けて、1945年9月9日に中華民国南京国民政府南京日本の現地軍岡村寧次総司令官による降伏文書を受領した[1]。そして、10月25日台湾省行政長官に任命された陳儀連合国の代表者として台北市台北公会堂(現在の台北中山堂)にて日本領台湾安藤利吉総督台湾軍司令官兼第10方面軍総司令官による降伏文書を受領した。同日、国民政府台湾澎湖諸島に対する領土の主権が回復されたことを宣布した[1]

しかし、国民政府は台湾地元民の政治参加を拒否したため、政治参加を拒否されたことに不満を持った民衆が国民政府と衝突した事件が1947年二・二八事件である。

国共内戦と国連代表権問題[編集]

二・二八事件が起こった1947年には、中国大陸で国共内戦が起こっていた。1949年になると、毛沢東率いる中国人民解放軍が中華民国の首都・南京を制圧し、中華民国政府は崩壊状態に陥った。しかし、その際に中華民国政府の前総統蔣介石が崩壊状態にある中華民国政府を指揮し、政府は、広州重慶成都を経た上で台湾台北市移転した。

その後、蔣介石は中華民国政府を再組織した上で、翌1950年3月1日総統職に復職し、台湾国民政府の活動を本格的に開始した。この過程で共産党の脅威を抵抗するために台湾は全域が戒厳状態とされ(1948年の「動員戡乱時期臨時条款」)、台湾の住民は政治的抑圧を1987年まで受け続けることとなった。一方、大陸では1949年10月1日中国共産党によって中華人民共和国が成立した。

中華民国政府は中華人民共和国の成立を共産党の「反乱」と定義し、武力による大陸部の領土奪還(大陸反攻)を目指した。そのために蔣介石中華民国政府の統治が及ぶ範囲で戒厳令を敷き、共産主義者や政府・中国国民党に反対する人々を投獄するなどの抑圧政策を行う一方で、国内の計画的な経済建設に着手して国力を蓄積していった。同時に、中華民国政府は「中国を統治する唯一の合法(正統)な国家」としての国際的地位を主張し、中華人民共和国と「中国を統治する国家」という国際的地位を巡って対立し続けた。その際に、中華民国政府と中華人民共和国政府は、「中国を統治する国家」としての観点から、相手国が支配している領土の領有権を互いに主張しあったため、両国の間では台湾海峡を挟んだ軍事的緊張が今なお続いている。

また、中華民国政府は国際社会における「中国を統治する唯一の合法(正統)な国家」としての地位を維持することに腐心しており、大幅に譲歩をした上で日本国と中華民国の平和条約を締結する一方で、中華人民共和国と国交を締結した国とは即座に国交を断絶するという「漢賊不両立中国語版」の政策を採ってきた。

だが、1971年国連総会で決議された2758号決議(アルバニア決議)国府追放・北京政府招請」のアルバニア案が基)によって、国際連合での「中国」の代表権が中華民国から中華人民共和国へと移った。このアルバニア決議に伴い、日本国アメリカ合衆国などは中華民国に対し、「台湾」の名で国連に留まるよう説得したが、例に漏れず「漢賊不両立」の言い分の元に拒否し、中華民国は国連から脱退する事を宣言した。その事から、中華民国は「中国を統治する国家」として国際的に承認されなくなり、1972年9月の日中国交正常化に伴う日華平和条約の破棄によって日本との外交関係を失うなど、国際的な孤立状況に次第に陥ることとなった。

大陸反攻計画[編集]

蔣介石は台湾撤退後、「反攻大陸」とともに「反共」を国是とし、東アジアにおける「反共の砦」としての地位をアメリカに認めてもらうことで、中華民国の「中国を統治する国家」としての存在を持続させようとした。だが、アメリカは「反共の砦」としての存在の重要性を認識して軍事・経済的支援は行っていたものの、東アジアの地域情勢を混乱させる「大陸反攻」の実施には断じて反対していた。そのため、蔣介石は「大陸反攻」を実施する好機をうかがっていたものの、国際環境の影響からそれを実施することができないまま1975年4月5日に死去した。

アジア四小龍[編集]

蔣介石の死後、副総統の厳家淦が総統に昇格した。そして、1978年からの10年間は蔣介石の長男である蔣経国総統の地位を世襲したが、台湾国民政府は1979年のアメリカとの外交関係の喪失によって一層国際的な孤立を深めていた。そのため、台湾国民政府は経済的な実利を得ることで国際的に生存していく道を選択し、日本やアメリカなどとの経済交易をさせることで外貨の獲得に力を入れるようになった。台湾が「アジア四小龍」という新興経済国家に伸し上がった時期が、この蔣経国政権の時期である。

戒厳令の解除[編集]

一方、国内では国民党による一党独裁に対する反発が徐々に強まり、盟邦であるアメリカ合衆国ロナルド・レーガン政権からの有形無形の圧力や、ソビエト連邦ミハイル・ゴルバチョフ政権の「ペレストロイカ」と呼ばれる政治・外交改革の影響などから、1987年7月15日、戒厳令が解除された[2]。それに伴う動員戡乱時期臨時条款(国安法)の成立により、新党結成も解禁された[2]。その結果、国内は言論・結社・言語の自由が保障され、国民党以外の政党が合法的に誕生するようになった。

民主化・正副総統の直接選挙へ[編集]

1988年の蔣経国の死後、副総統であった李登輝(後の中国国民党主席)が総統に就任し、中華民国憲法増修条文制定と動員戡乱時期臨時条款の廃止、万年国会の解散など、台湾国民政府の民主化を本格的に推し進めていった。その帰結が、1996年3月23日に実施された中華民国史上初めての国民の直接選挙による正副総統の選出である。

これにより、中華民国政府が「中国全土を統治する政府」から「実効支配地域(自由地区)を代表する政府」へと事実上変化し、同時に1927年から続いてきた南京国民政府の国民党一党独裁政権が終焉を迎えた。これにより、台湾では選挙による政権交代が確立し、台湾住民の民意に基づいた民主的な政府へと変化することとなる。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 台北遷都前の1947年に中華民国憲法が公布・施行されたため、中国では1948年以降の「南京国民政府」を「中華民国政府」と呼称している。
  2. ^ 日本国内では1948年から1972年の日華断交までの中華民国政府を国府と略称することがある。

出典[編集]

  1. ^ a b 台湾の国際法的な地位に関する説明 (PDF)” (日本語). 中華民国外交部. 2011年4月9日閲覧。
  2. ^ a b 劉文甫. “戒厳令解除と外貨管理自由化”. アジア経済研究所. 2011年4月9日閲覧。

関連項目[編集]