司馬キン

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本来の表記は「司馬歆」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

司馬 歆(しば きん、? - 303年)は、中国の西晋の皇族である。字は弘舒河内郡温県の出身。扶風武王司馬駿の子で、司馬懿の孫に当たる。

人物[編集]

286年、父がこの世を去って長兄の司馬暢が扶風王を継ぐと、司馬暢は封国を司馬歆に分け与える様朝廷へ請うた。289年11月、武帝司馬炎は詔を下し、司馬歆を新野県公に封じ、食邑1800戸を与え、儀礼は県王と同等のものとした。司馬歆はまだ少年にも関わらず財産があり身分は高かったが、自らを律して道義を履行していた。彼の母である太妃臧夫人がこの世を去った時、喪に服する様は礼制を超えており、その孝行振りで評判となった。後に散騎常侍に任じられた。

301年1月、趙王司馬倫が帝位を簒奪すると、司馬歆は南中郎将に任じられた。3月、斉王司馬冏が司馬倫討伐の兵を挙げると、州郡に檄文を送った。司馬歆はどちらにつけばいいか分からず困惑していたが、司馬歆の側近である王綏は「趙王は公の近親で強盛であり、斉王は疎遠で弱小である事から、趙王に従うべきです」と勧めたが、参軍孫詢は衆人へ向けて大声で「趙王は凶逆であり、天下が共同で討伐しようとしているのです。大義の為には親族の情は顧みないのが、古代からの賢明なる掟です」と述べた。司馬歆はこれに同意し、兵を興して司馬冏の補佐に当たった。また、司馬歆は孫詢を司馬冏の下に派遣すると、司馬冏は彼を迎え入れてその手を取り「我が大節を成し遂げさせるのは、新野公である」と喜んだ。

司馬冏が司馬倫軍を破って洛陽に入ると、司馬歆は自ら甲胄を身に纏って部下を率い、その先導役となった。司馬歆は今回の功績により、新野郡王に進封され、食邑2万戸を与えられた。さらに、使持節・都督荊州諸軍事・鎮南大将軍に任じられ、開府儀同三司の特権を与えられた。

司馬歆は赴任する前に、司馬冏と共に車で陵墓へ拝謁しに行った。その時、機会を見つけて司馬冏へ「成都王(司馬穎)は陛下の弟であり、さらに大功を立てております。洛陽に留まらせて共に輔政するか、それができないなら兵権を奪うべきです」と進言したが、司馬冏は聞き入れなかった。

302年12月、河間王司馬顒は恵帝へ上表し、司馬冏が帝位簒奪を目論んでいるとして、司馬歆・成都王司馬穎・范陽王司馬虓を洛陽に集結させ、また司馬冏を免官して屋敷に戻すよう請うた。長沙王司馬乂が司馬冏を殺害すると、司馬歆は禍を大いに恐れ、積極的に司馬穎と交流を深めた。

司馬歆の治政は厳格で過酷であったので、少数民族はみなこれを恨んだ。303年5月、義陽の蛮人である張昌江夏で反乱を起こすと、司馬歆は騎督靳満に迎撃を命じたが、靳満は敗走した。司馬歆は上表して「妖賊犬羊は万人を数えており、絳頭(赤い頭)と毛面(髭顔)で刀戟を持って動き回り、誰も勢いを止めることができません。願わくば朝廷には三道から討伐の兵を出していただきたく。」と述べて救援を請うた。当時、司馬乂が執政していたが、司馬穎と対立していた事から、司馬歆と司馬穎の企みではないかと疑い、討伐軍を派遣しなかった。張昌の勢力は日に日に強大化したので、従事中郎孫詢は司馬歆へ「古人の言葉には、1日悪に対して寛容であれば、数代にもわたる憂患となるとあります。公は地方の主として王室の防壁となる重任を担っており、朝廷を助ける重要な位置であります。既に上書した以上、実際に行動を起こしても罪になる事がありましょうか。姦凶は日に日に勢いを増しており、既に予測がつかない状況です。よもやこれが王室の妨げにならない事があるとお思いですか!」と述べ、出兵を勧めた。しかし、司馬歆が出兵しようとすると、王綏は「張昌のような小賊を征服するには、偏将・裨将であれば十分です。詔による許可も得ていないのに、どうして自ら矢石の危険に臨むというのですか!」と反対したので、取りやめとなった。

張昌軍が樊城へ襲来すると、司馬歆は自ら出陣して迎撃したが、大敗を喫して軍は崩壊し、張昌により殺害された。朝廷は驃騎将軍を追贈し、荘王と諡した。

参考文献[編集]