吉村 大志郎 (よしむら だいしろう、1947年 8月16日 - 2003年 11月1日 )は、ブラジル ・サンパウロ州 アダマンティナ(英語版 ) 出身のサッカー 選手、サッカー指導者。ブラジル名はネルソン吉村 (ポルトガル語 : Nelson Yoshimura )。愛称のネコ とはボールタッチの柔らかさがネコがボールとじゃれ合う姿に似ていたことに由来している
[1] 。
略歴 [ 編集]
日系 2世としてサンパウロ州アダマンティナ(英語版 ) に生まれる[2] 。16歳の時にサンパウロの中心街に引越し、働きながら夜間高校に通い、休日に日系人のクラブであるグレミオ・レクラチーボ・トウキョウ(Grêmio Recreativo Tokyo)でプレーする日々を送っていた[2] 。しかし1966年のAUSP(日系2世連合会)サッカーリーグで優勝、自身も得点王となったことで転機が訪れ、AUSPの会長の紹介で1967年 6月に日本サッカーリーグ 初の外国籍選手としてヤンマーディーゼルサッカー部 に加入することになった。
吉村はヤンマーディーゼル の現地子会社ヤンマーディーゼル・モトーレス・ド・ブラジル(Yanmar Diesel Motores do Brasil)に旋盤工として勤務していたため、日本のヤンマーディーゼル本社への転勤という形での移籍だった[3] 。一方で吉村は「自分は冷蔵庫の修理会社に勤務していた」と現地子会社に勤務していたという経歴について否定するコメントを残している[2] 。ブラジル時代は俊足FWとして得点を重ねていたが、選手の技術水準が低かったというチーム事情から中盤にポジションを移し[2] 、同年4月に加入していたセンターフォワードの釜本邦茂 とコンビでヤンマーを常勝クラブへと引き上げていった。
後に訪日したセルジオ越後 ほどのキャリアはなかったが、柔らかいボールタッチを生かしたボールテクニックは当時の日本では出色であった[3] 。吉村のプレーは日本サッカーリーグの呼び物となり、その後の日本サッカーがブラジルスタイルの個人技を重視したサッカーに傾倒していく転機となった[2] [4] 。
1970年3月8日のIFKヨーテボリ 戦で日本代表 として初出場[5] 。また、訪日当初は「1年間で帰国するつもり」だったが1970年 12月に日本国籍を取得し、登録名を「吉村大志郎」とした。日本代表としては1976年 まで国際Aマッチ通算45試合出場7得点を記録した。その後、怪我の影響とコーチ就任の要請を受けたこともあり32歳で現役を引退した。日本リーグでの通算成績は189試合出場30得点54アシスト[4] 。
1980年 に現役を引退後は古巣のヤンマーディーゼルのコーチを10年間務め、1990年 に監督に昇格し1993年まで指揮を執った。同年にJリーグ が開幕すると他チームから好条件のオファーを受けたが[3] 、これを固辞してヤンマーディーゼルの社員という身分で[3] 後継であるセレッソ大阪 のスクールコーチや総括部スカウトとして後進の指導に務めた。
2003年 11月1日 、兵庫県尼崎市の病院で脳出血 により死去した[1] [6] 。
2010年 8月17日 、日本サッカー殿堂 入りが発表された[4] [7] 。
所属クラブ [ 編集]
19xx年 - 1966年 グレミオ・レクラチーボ・トウキョウ
1967年 - 1980年 ヤンマーディーゼル
個人成績 [ 編集]
代表歴 [ 編集]
出場大会など [ 編集]
試合数 [ 編集]
国際Aマッチ 46試合 7得点(1970-1976)
日本代表 国際Aマッチ
その他 期間通算
年 出場 得点
出場 得点 出場 得点
1970
4
1
13
2
17
3
1971
6
2
11
0
17
2
1972
8
1
9
1
17
2
1973
3
0
5
0
8
0
1974
7
2
12
0
19
2
1975
6
1
3
0
9
1
1976
12
0
2
0
14
0
通算
46
7
55
3
101
10
得点数 [ 編集]
監督成績 [ 編集]
脚注 [ 編集]
外部リンク [ 編集]
日本サッカー殿堂 投票 委員会推薦 (特別選考) 委員会推薦 (チーム) 委員会推薦 (協会会長)
日本サッカーリーグ1部アシスト王 1960年代 1970年代
70: 宮本輝紀
71: 杉山隆一
72: 吉村大志郎
73: 釜本邦茂 , 田辺暁男
74: 高田一美 , ジョージ小林
75: 釜本邦茂 , 今村博治 , 平沢周策 , ジョージ小林
76: 永井良和
77: セイハン比嘉 , 古前田充 , 安原真一 , 永井良和
78: ジャイロ
79: ラモス , 釜本邦茂 , ジョージ与那城
1980年代 1990年代
得点王 - アシスト王