名取 (軽巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
IJN Natori in 1922 off Nagasaki.jpg
艦歴
発注 1919年1917年度計画)
起工 1920年12月14日三菱造船長崎造船所
進水 1922年2月16日
就役 1922年9月15日
その後 1944年8月18日戦没
除籍 1944年10月10日
性能諸元
排水量 基準:5,170トン
常備:5,570トン
全長 162.15m
全幅 14.17m
吃水 4.80 m
機関 90,000馬力
最大速 36.0ノット
乗員 竣工時定員450名[1]
兵装
新造時 50口径三年式14cm単装砲 7基7門
40口径三年式8cm単装高角砲 2基2門
6.5mm単装機銃 2基2挺
八年式61cm連装魚雷発射管 4基8門
飛行機×1
飛行機滑走台1基
機雷 48個
改装後 50口径三年式14cm単装砲 5基5門
40口径八九式12.7cm連装高角砲 1基2門
九六式25mm三連装機銃 2基6門
同連装機銃 2基4門
同単装機銃 2基2門
13mm連装機銃1基2門
八年式61cm連装魚雷発射管 4基8門
二一号対空用電探1基
水中聴音機1基
110cm探照燈3基

名取(なとり)は、大日本帝国海軍軽巡洋艦長良型の3番艦である。その艦名は、宮城県名取川より名づけられた。

艦歴[編集]

名取は、大正年間に多数建造された5500トン型軽巡洋艦の長良型の一艦として、1922年(大正11年)に三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で完成した。完成時には、高速軽巡洋艦として、水雷戦隊の旗艦に適した優秀な艦であった。

1927年12月に第二艦隊第二水雷戦隊(司令官館明次郎少将)の旗艦となり、1933年5月、第一艦隊第七戦隊に編入された。

1936年12月に第一艦隊第八戦隊(司令官南雲忠一少将)に移り南支方面で行動した。1938年12月、第五艦隊第九戦隊に編入し、馬公を基地として南支作戦に参加した。

1939年9月に予備艦となり舞鶴で旗艦としての改造を行った。

1940年11月、第二遣支艦隊第五水雷戦隊(司令官原顕三郎少将)の旗艦となり、翌年4月、第五水雷戦隊は第三艦隊に編入され、南部仏印進駐作戦に参加。

太平洋戦争[編集]

太平洋戦争緒戦で名取は、第五水雷戦隊(駆逐艦2隻を除く)などからなる比島部隊第一急襲隊(指揮官は第五水雷戦隊司令官原顕三郎少将)の一隻としてフィリピン北部のアパリ攻略に参加した[2]。第一急襲隊は上陸部隊を乗せた船団を護衛して12月7日に馬公から出撃[3]。12月10日に目的地に到着、第一次上陸部隊の上陸に際して抵抗は無く、上陸成功が報じられた[4]。同日、クラーク基地より発進したアメリカ陸軍第14中隊のB-17爆撃機2機が来襲[5]。名取の左舷中央部付近に至近弾があり、搭載機大破、重油タンク破損などの損害を受け、死者7名負傷者15名を出した[6]。名取は修理ため馬公へ向かわされ、原少将は旗艦を駆逐艦長月に変更した[7]

続いて第五水雷戦隊は第十一掃海隊および第三十掃海隊とともに第一護衛隊(指揮官は第五水雷戦隊司令官)を編成し、リンガエン湾上陸に参加した[8]。上陸部隊を運ぶ船団は3つに別れており、第一から第三護衛隊がそれぞれ護衛する計画であった[9]。第一護衛隊は23隻からなる船団を護衛して12月18日に高雄から出撃[10]。別の場所から出撃したほか2つの部隊と途中で合流し、リンガエン湾へむかった[11]。上陸は12月22日に行われ、成功した[12]。12月23日、マニラ湾からアメリカ巡洋艦1隻、駆逐艦2隻、潜水艦2隻が出撃したとの情報があり第五水雷戦隊は南へ向かったものの会敵しなかった[13]。名取は駆逐艦水無月とともに12月24日にリンガエン湾を離れ、12月26日に馬公に着いた[14]

第五水雷戦隊は馬来部隊に編入され第八駆逐隊、練習巡洋艦香椎などとともに第二護衛隊(指揮官は第五水雷戦隊司令官)を編成[15]。12月末からは第二護衛隊は第25軍と第15軍の一部を馬公からシンゴラおよびバンコクへ運ぶ船団の護衛に従事した[16]。12月31日に船団は馬公より出発[17]。航行中、船団の船が1隻爆発事故で沈没した[18]。1942年1月7日に香椎、駆逐艦2隻、海防艦1隻に護衛されてバンコクへ向かう船団が分離され、残りの船団は1月8日にシンゴラに到着した[19]。1月9日零時に第五水雷戦隊(第五駆逐隊を除く)は蘭印部隊に移り、同日シンゴラを離れた[20]。第五駆逐隊も1月12日零時に蘭印部隊に編入された[21]。第五水雷戦隊は台湾で西部ジャワ攻略作戦の準備を行なった[22]

その後、第五駆逐隊と第二十二駆逐隊は第十六軍主力を運ぶ船団を護衛してカムラン湾へ移動[23]。名取もカムラン湾に進出し、2月3日に到着[23]ジャワ攻略作戦に参加し、3月1日、バタビア沖海戦において米重巡ヒューストン (USS Houston, CA-30) の撃沈に貢献した。 3月12日、名取はマカッサルへ向かった[24]

3月10日の戦時編制改定により第五水雷戦隊は解隊され、名取と長良、鬼怒で第十六戦隊が編成された[25]。名取はその司令官原顕三郎少将の旗艦となった[26]

3月29日から名取は那珂、長良などとともにクリスマス島攻略作戦に参加した[27]。攻略部隊は3月29日にバンタム湾から出撃[27]。3月31日にクリスマス島に到着し、軽巡洋艦3隻の水偵は爆撃を行なった[28]。上陸は成功したが、名取と那珂はアメリカの潜水艦シーウルフの雷撃により那珂が4月1日に被雷損傷[29]、名取は那珂を曳航してバンタム湾へ向かった[30]

以後、名取は1943年1月まで東インド方面の警戒任務に従事した。12月1日、チモール島沖で索敵機により発見されたオーストラリア艦隊(掃海艇アーミデール、キャッスルメーン、特設掃海艇クル)攻撃に鬼怒とともに向かったが捕捉出来ずに終わった[31]。またこの際命中はしなかったがオーストラリア軍機による爆撃を受けている[32]。この後、ホーランディアへ陸戦隊を輸送[32]

1943年1月6日、アンボンへ向かっていた船団が爆撃を受けて水雷艇友鶴が損傷した。名取はその元へ派遣されて警戒にあり、その後単独でアンボンへ向かったが、9日10時43分にアンボン灯台南東18海里でアメリカの潜水艦トートグの雷撃に遭った[33]。後部に魚雷1本が命中して後部が切断され、戦死7名、負傷12名を出した[33]。操舵不能になったが針路変更は機械操作により行うことができ、13時45分にアンボンに到着した[33]。名取はアンボンで陸軍救難船大隈丸の協力により仮修理を行ったが、同月16日と21日にB-24の攻撃を受け21日には至近弾により損傷した[34]。そのため敷設艦蒼鷹の護衛でマカッサルへ後退したが、命中しなかったもののその途中にも再びトートグによる攻撃を受けた[35]。マカッサル到着後はシンガポールへ向かいそこでの応急修理の後に舞鶴に帰投[36]1944年4月まで修理、改造を実施した。名取はこの改造時に7番主砲を撤去して跡に12.7mm連装高角砲を装備、5番主砲の撤去、機銃の多数増備などが行われた。

修理を終えた後、名取は中部太平洋方面艦隊に編入され、内海西部で訓練を実施していたが、1944年5月に第三水雷戦隊に編入、から第126防空隊をダバオまで輸送した。6月のマリアナ沖海戦では機動部隊の補給隊を護衛した後、連合艦隊付属となりフィリピンからパラオに作戦輸送を行っていたものの、8月18日、名取はサマール島東方水域でアメリカの潜水艦ハードヘッド (USS Hardhead, SS-365) の雷撃で沈没した。

久保田智艦長以下550名(便乗者含む)が戦死、名取の生存者183名はカッターボート3隻に分乗し、13日目の朝、ミンダナオ島スリガオに辿り着いた。この時のカッター行を次席将校だった松永市郎が『先任将校ー軍艦名取短艇隊帰投せり』など手記にまとめている。1日当たり10時間以上カッターを漕ぎ、天測航法などを駆使して陸地を目指した。水分はスコールで補給し、食料は士官も水兵も平等に1日当たり乾パン1人2枚と決めた。夜間は乾パン缶の上に寝て盗難を防ぎ、反乱を防いだ。名取の生き残り乗員の生還劇は戦後、アメリカにも伝わった。松永とハードヘッドの艦長は文通するようになり、『米潜水艦ハードヘッドvs軍艦名取短艇隊』『次席将校ー「先任将校」アメリカを行く』の出版に繋がった[37]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』152-155頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 副島慶親 大佐:1922年2月15日[38] -

艦長[編集]

  1. 副島慶親 大佐:1922年9月15日 - 1922年12月1日[39]
  2. 森田登 大佐:1922年12月1日[39] - 1923年11月20日
  3. 小倉泰造 大佐:1923年11月20日 - 1924年12月1日
  4. 井上四郎 大佐:1924年12月1日 - 1925年11月20日
  5. 加島次太郎 大佐:1925年11月20日 - 1926年5月20日
  6. 水城圭次 大佐:1926年5月20日 - 1926年11月1日
  7. (兼)市来崎慶一 大佐:1926年11月1日 - 1926年12月1日
  8. 松本忠左 大佐:1926年12月1日 - 1927年8月20日
  9. 津田威彦 大佐:1927年8月20日 - 1927年11月15日
  10. 有地十五郎 大佐:1927年11月15日 - 1928年8月1日
  11. 日暮豊年 大佐:1928年8月1日 - 1928年12月10日
  12. 佐田健一 大佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
  13. 小山与四郎 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
  14. 三木太市 大佐:1930年12月1日 - 1931年4月5日
  15. 星野倉吉 大佐:1931年4月5日 - 1931年12月1日
  16. 坂部省三 大佐:1931年12月1日 - 1932年6月10日
  17. (兼)後藤輝道 大佐:1932年6月10日 - 1932年12月1日[40]
  18. 松木益吉 大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
  19. 松浦永次郎 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
  20. 岸福治 大佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日
  21. 岡村政夫 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1
  22. 中原義正 大佐:1936年12月1日 - 1937年11月10日
  23. 中尾八郎 大佐:1937年11月10日 - 1938年12月5日
  24. 有賀武夫 大佐:1938年12月5日 - 1939年11月15日[41]
  25. 松原寛三 大佐:1939年11月15日 - 1940年11月15日[42]
  26. 山澄貞次郎 大佐:1940年11月15日 - 1941年7月28日
  27. 佐々木静吾 大佐:1941年7月28日 -
  28. 猪口敏平 大佐:1942年7月1日 - 1943年1月20日
  29. 植田弘之介 大佐:1943年1月20日 -
  30. (兼)平井泰次 大佐:1943年7月20日 - 1944年3月18日
  31. 久保田智 大佐:1944年3月18日 - 1944年8月18日戦死

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 大正11年9月15日付 海軍内令 第320号改正、海軍定員令「第50表 二等巡洋艦定員表 其4」。この数字は特修兵を含まない。
  2. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、201-202ページ
  3. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、204ページ
  4. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、204、205ページ
  5. ^ 日本水雷戦史、47ページ
  6. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、205ページ
  7. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、206ページ
  8. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、253ページ
  9. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、254-255ページ
  10. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、260ページ
  11. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、260-261ページ
  12. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、264ページ
  13. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、267ページ
  14. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、268、558ページ
  15. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、539ページ
  16. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、557-558ページ
  17. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、561ページ
  18. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、562ページ
  19. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、563-564ページ
  20. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、564ページ
  21. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、565ページ
  22. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、377ページ
  23. ^ a b 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、380ページ
  24. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、528ページ
  25. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、531ページ
  26. ^ 日本軽巡戦史、220ページ
  27. ^ a b 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、615、617ページ
  28. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、617ページ
  29. ^ 日本軽巡戦史、222ページ
  30. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、619ページ
  31. ^ 日本軽巡戦史、369-371ページ
  32. ^ a b 日本軽巡戦史、371ページ
  33. ^ a b c 日本軽巡戦史、372ページ
  34. ^ 日本軽巡戦史、373ページ
  35. ^ 日本軽巡戦史、373-374ページ
  36. ^ 日本軽巡戦史、374ページ
  37. ^ 【戦後72年】語り継ぐー受け継ぐ/松永真理「生還話せぬ海軍一家 父の想い文章で知った」『読売新聞』朝刊2017年8月13日
  38. ^ 『官報』第2860号、大正11年2月16日。
  39. ^ a b 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
  40. ^ 『官報』第1778号、昭和7年12月2日。
  41. ^ 海軍辞令公報(部内限)第402号 昭和14年11月15日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700 
  42. ^ 海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072079400 

参考文献[編集]

  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集14 軽巡 長良型』光人社、1997年。
  • [歴史群像]太平洋戦史シリーズVol.32『軽巡 球磨・長良・川内型』学習研究社、2001年。
  • [歴史群像]太平洋戦史シリーズVol.51『帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社、2005年。
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社
  • 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社

関連項目[編集]