名古屋市女子大生誘拐殺人事件

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名古屋市女子大生誘拐殺人事件
場所 日本の旗 日本
愛知県名古屋市
日付 1980年昭和55年)12月2日
概要 男が愛人との生活費・ギャンブルで多額の借金を抱えたことから、身代金目的で女子大生を誘拐し、首を絞めて殺害、遺体を木曽川に遺棄した。
攻撃側人数 1人
死亡者 女子大生(当時22歳、金城学院大学3年生)
犯人 木村修治(きむら しゅうじ)
犯行当時30歳の元寿司店員、1950年2月5日生まれ[書籍 1]、1995年12月21日死刑執行、45歳没[書籍 1][報道 1]
対処 逮捕・起訴
刑事訴訟 死刑執行済み
管轄 愛知県警察
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名古屋市女子大生誘拐殺人事件(なごやし じょしだいせい ゆうかいさつじんじけん)は、1980年昭和55年)12月2日夕方、愛知県名古屋市在住の女子大学生(当時22歳、金城学院大学3年生)が、元寿司店員の男・木村修治(きむら しゅうじ)に誘拐され[報道 2]、殺害された身代金誘拐殺人事件である[報道 3][報道 4][報道 5][報道 1]

死刑囚(木村修治)[編集]

誕生から結婚まで[編集]

本事件の犯人で、刑事裁判死刑確定、執行された元死刑囚・木村修治は、1950年(昭和25年)2月5日[書籍 1]、名古屋市内で次男として生まれた[判決文 1]。1995年12月21日、法務省法務大臣宮澤弘)の死刑執行命令により、収監先の名古屋拘置所で死刑が執行された(45歳没)[書籍 1][報道 1]

出生後まもなくして父が病死したため、食肉の行商や生命保険の外交員、病院の事務長などとして働く母親に養育され、名古屋市内の小中学校を卒業した[判決文 1]

1965年(昭和40年)4月、同市内の定時制高校に入学し、昼間はビール会社や出版会社などに勤務しながら通学し、クラブ活動野球に打ち込んでいたが、たまたま盲腸を手術して試合に出られなかったり、親友が退学することになったことなどから、翌1966年(昭和41年)9月限りで中退した[判決文 1]

その後、鮮魚の行商を営んでいた大叔父(祖父の弟)を通じ、就職先を探していたところ、大叔父の同業者の口利きで、翌1967年(昭和42年)2月頃から、愛知県一宮市内の寿司屋に住み込みで就職することとなり、同店で働くうちに、調理師の免許も取得するようになったが、1972年(昭和47年)4月頃に窃盗事件を起こして退職した[判決文 1]。その後、各地の寿司屋で修業していたところ、同年12月頃、愛知県海部郡蟹江町の冨吉温泉内に寿司屋を開店することとなった、前述の大叔父の同業者に誘われ、同店に勤めるようになった[判決文 1]。その後、名古屋市内の母の下から同店に通い、その経営にあたる店主(大叔父の同業者)の妻や、それを手伝う長女とともに、店の中心となって働くうち、長女と相思相愛の関係になり、1974年(昭和49年)10月に結婚した[判決文 1]。その後妻とともに、同町内の借家に新居を構え、寿司屋は従来通り、義母・妻とともに3人で続け、妻との間には2人の子どもにも恵まれた[判決文 1]

生活の崩壊[編集]

しかし、木村は一宮市内の寿司屋に勤め始めたのち、一宮競輪場が近くにあったことから、習い覚えた競輪などに凝り、1978年(昭和53年)3月頃には約200万円の借金を抱えた[判決文 1]。母親に立替えてもらった金で借金を清算した後は、ギャンブルも控えて安定した生活を送っていたが、妻は実家が近い上、毎日母親と顔を合わせる生活から、自然と実家を頼る傾向にあった[判決文 1]。木村は次第にこれに不満を抱くようになり、同年末には名古屋市内に自ら寿司店を開業し、妻の実家から独立しようと計画し、そのことを妻の了承を得た上で準備を進めていたが、これを知った義父から「現実性のない計画だ」と反対され、やがて妻も反対に転じたことから、木村の妻に対する愛情は「自分の気持ちを理解しようとしない」ことから、急速に冷えていった[判決文 1]

木村はその後、義父から寿司屋の経営一切を任され、仕事に励むようになった[判決文 1]。また、その頃銀行でローンを組み、蟹江町内に土地を購入し、その返済のため、1979年(昭和54年)2月頃から、大叔父の鮮魚の行商の手伝いも始めるようになった[判決文 1]。その間、木村は早朝4時に出勤し、名古屋市内にある柳橋中央市場から鮮魚類を仕入れ、これを各地に配達した後、寿司屋に出て午後10時頃まで働くという、勤勉な生活をするようになり、寿司屋の月収約15万円のほか、鮮魚行商の副業からも月20万円近い収入を得るようになり、不自由のない生活を送っていた[判決文 1]。しかし同年8月、妻に対する愛情が薄らいでいたことから、たまたま出席した中学校のクラス会で再会した、夫との関係が思わしくなかった同級生の女性と不倫関係となった[判決文 1]。これを知った女性の夫らから、同年末頃妻の面前で、別れるよう求められて承諾したが、やがて女性は子供を連れて夫と別居し、翌1980年1月頃、名古屋市名東区猪高町内のアパートに移住した[判決文 1]。これに対し木村は、蟹江町の土地を担保に、金融業者から200万円の借金をするなどして、愛人となった女性のアパートの入居費用を負担し、新しい家財道具などを買い揃えた上、妻には「仕事の都合」などと嘘をついては、頻繁に愛人宅に泊まり込むようになった[判決文 1]。その後、毎月約20万円の生活費を愛人に渡し、蟹江町と猪高町の二重生活を続けるようになってから、木村は次第に金銭に窮するようになった[判決文 1]

このように、木村は毎月妻には内緒で愛人の生活費という多額の出費を抱えるようになり、前述のローンの利息だけでも月10万円近くになる一方、寿司屋の利益・鮮魚行商による売り上げ収入は妻に渡していたため、手っ取り早くまとまった金を得る必要に迫られた[判決文 1]。やがて木村は、しばらく遠ざかっていた競輪・競馬などのギャンブルに再び手を出すようになり、これに負けては更に各地の金融業者や親類、知人から借金をしては、再びギャンブルに注ぎ込むという、典型的なギャンブル依存症となった上、競輪・競馬のノミ屋にも多額の申し込みをして借金を作り、挙句の果てには大叔父に支払うべき鮮魚行商の売上金にも手を付ける有様となった[判決文 1]。同年11月頃、これら借金の総額は約2800万円の多額に達し、その利息だけでも月約80万円にのぼり、その返済を迫られるようになったが、金のあてもない上に、もともと不倫関係を発端とする借金だけに、誰にも相談することができず、一時は自殺を考えるほど追い詰められていた[判決文 1]

事件直前[編集]

1980年11月25日、多額の借金を抱えて追い詰められていた木村は、愛人宅で読んだ『中日新聞』の告知欄に、金城学院大学の大学生が家庭教師の働き口を求める記事が掲載されているのを見て、同学に通う学生は資産家の娘であることを知っていたことや、まとまった金が欲しいと常に考えていたことから、同学の大学生を誘拐し、その親から身代金を奪い取り、借金の返済に充てることを思いついた[判決文 1]。木村はその記事を掲載した女子大生宅の電話番号を調べ、同月28日朝、名古屋市内の公衆電話から同宅に電話し、応対に出た女子大生を誘拐しようと考えつつ、家庭教師の依頼を装って女子大生を呼び出そうとしたが、その女子大生からは「距離が遠すぎる」という理由で断られた[判決文 1]。そのため木村は、家庭教師の依頼に応じてくる別の同学生を誘拐すべく、直後に愛人宅から、同様の告知板欄が掲載されている『中日新聞』数日分とともに、電話帳・名古屋市区分地図を借り、自宅の寿司屋に持ち帰った[判決文 1]

木村は翌11月29日夕方、寿司屋で仕事をしていたところ、競輪・競馬のノミ行為を申し込んで約240万円負け、借金した相手である、ノミ行為の胴元の男から、電話で借金の返済を催促された[判決文 1]。さらに同日午後9時頃には、男が多数の仲間を連れて寿司屋に押しかけ、木村に支払いを強く要求したため、木村はその場で、当てもないまま「12月3日までには支払う」と約束することを余儀なくされた[判決文 1]。また、木村はこの他にも、別のノミ行為の胴元、大口の借金先からも、12月初めには借金を返済するよう約束しており、早急に約500万円ほどの金を工面する必要に迫られていたことから、改めて「金城学院大学の女子大生を誘拐して、その身内から身代金を奪おう」と決意した[判決文 1]

以前のターゲットに電話した際、闇雲に電話をしたことから断られていたため、木村は誘拐方法・その後の処置などを考えた[判決文 1]。その結果、以前観たことのある映画『天国と地獄』や、高速道路を利用して身代金を奪った事件があることなどを思い出した木村は、それらを参考にしつつ、「同学の学生に『家庭教師を依頼したい』と嘘の電話をかけ、適当な待ち合わせ場所を決め、自分はその付近に住んでいることにして誘い出し、自宅に案内する名目で自動車に乗せる」、「その後はすぐに脅迫電話をかける必要がある」、「後日の逮捕を免れるため、直ちに被害者の首を絞めて殺害し、遺体は発見されないように川に沈める」、「身代金は高速道路の高架上から下に投下させ、安全に奪い取る」などの犯行手口を考えた[判決文 1]

事件の概要[編集]

そして12月1日午後、寿司屋店内にいた木村は、以前持ち帰った『中日新聞』告知板欄から、英語の家庭教師の働き口を求めていた、名古屋市港区在住の金城学院大学文学部英文科3年生の被害者A子(事件当時22歳)を選び出し、誘拐・殺害の標的に決めた上、電話帳などでA子の父親(同市内の小学校教諭)宅の電話番号を捜し出し、午後6時頃、A子方に電話した[判決文 1]。その際、木村はA子宅の電話番号を調べようと、A子一家の親類・A子宅の大家に電話したほか、東名阪自動車道から現金投下の手段を用意するなど、周到な犯行計画を立てていた[報道 2]

電話の応対に出たA子に対し、木村は「堀江」という偽名を使いつつ、自己の身分を「A子宅近くに住む中学1年生の父親」と偽った上で、「子どもの英語の家庭教師を依頼したい」と嘘を言い、これを承諾したA子と、翌2日午後6時15分ごろ、A子宅近くの中川区近鉄名古屋線戸田駅前の公衆電話ボックスで会う約束を取り付けた[判決文 1]

翌2日、木村は寿司店を休業し、愛人宅近くの名東区内にある雑貨屋で、A子を絞殺するのに使用するロープ2本を購入したが、一方で殺人への恐怖から迷いも生じ、「A子を殺害せずに金を作りたい」とも考えた[判決文 1]。同日午後3時過ぎごろ、木村は同市中村区名古屋競輪場に出掛け、手持ちの金約20万円をつぎ込み、最後の賭けを試みたものの、すべて負けた。このため、木村は「計画通りA子を誘拐して身代金を得るしかない」と改めて決意し、競輪場を出た後、自分の車である日産・バネットを運転し、戸田駅前の公衆電話ボックス付近の下見をした[判決文 1]。さらに、その付近の農道を走り回り、付近に民家がないことを確かめた木村は、殺害場所をこの農道上に決め、その後は中川区内のカー用品店スーパーマーケットで、遺体の梱包用のレジャーシートロープなどを購入し、あらかじめ雑貨屋で購入していたロープを、車の運転席ドアにあるドアポケットに入れるなどして、犯行の準備を整えた[判決文 1]。その後、待ち合わせ時間まで付近のパチンコ店で時間を潰した木村は、午後6時15分頃、自車を運転して、戸田駅駅舎脇に設置されている公衆電話ボックス前に、約束通りA子が来ているのを確認した上で、同駅から南に約50mの駐車場入り口付近に車を駐車し、助手席側ドアをロックし、車内からドアを開けられないように細工をした[判決文 1]

木村は徒歩で同駅前に赴き、A子に「A子さんですか、堀江です。車で来ていますから車に乗ってください。終わったらまたここまで送ってきますから」と嘘をつき、その言葉を信じたA子を駐車場まで誘い出し、助手席に乗車させた[判決文 1]。A子が車外に脱出することを困難な支配下に置いた上で、木村は車を蟹江町方面に走行させ、A子の安否を憂慮する近親者らから身代金を得る目的での誘拐を遂げた(身の代金目的拐取罪[判決文 1]

木村は誘拐したA子を、その意図に気付かせることなく、あらかじめ決めておいた殺害場所に連れて行くため「こちらからでも行けるのですか」などと不審に思うA子に対し、「国道に出ていけますよ」と騙して安心させ、午後6時25分頃、誘拐現場の駐車場から南西約800m離れた中川区富田町内の、民家のない農道上で停車した[判決文 1]。木村はそのまま、「ちょっと待ってくださいよ」などとA子に声をかけつつ、運転席のドアポケットに隠していたロープを引っ張り出して両手に握り、いきなり助手席に座っていたA子の首を絞め、窒息死させた(殺人罪[判決文 1]

木村はその後、A子の遺体を助手席床上に降ろし、自分のジャンパーをかぶせて隠蔽工作した上で車を走らせ、遺体を包むのに適当な場所を探して走り回った[判決文 1]。午後7時40分ごろ、木村は海部郡立田村(現・愛西市)内で、A子の遺体を海老型に折り曲げてレジャーシートで包み、準備したロープの残りで十文字に縛って梱包した遺体を、車の後部トランクに積み込み、積み荷の発泡スチロールの魚箱で隠し、翌3日はそのままその車を運転し、鮮魚の配達の仕事をしつつ、A子の親に電話をかけて身代金を要求した[判決文 1]。殺害当日の2日午後8時15分、木村はA子宅に最初の電話をかけ、電話に出たA子の弟・父親らに対し「あんたのところの娘を誘拐した。明日までに3,000万円用意しろ。警察に連絡したら娘を殺す」と脅した[判決文 1][報道 2]。翌3日夕方、木村はA子宅に「西尾張中央道を一宮方面に向かうと『X』という喫茶店があるから、そこで待っていろ。そこに電話する」と電話し、A子の家族を蟹江町内の喫茶店Xに向かわせた[判決文 1][報道 2]。さらに、木村はA子の父親に身代金を持たせ、連絡場所に指定して呼び出した喫茶店Xにも電話し、「今からそこを出て、東名阪自動車道に入り、大阪方面(下り線)を走行すると、2つ目の公衆電話ボックスがある、その中に紙を書いておいてある。その通りにせよ」と、身代金の受け渡し日時、場所、方法などを指示した(拐取者身の代金要求罪[判決文 1][報道 2]。A子の父親は、預金先の銀行数か所を回って集めた3000万円のうち、1000万円をカバンに詰め、義理の兄を装って捜査に当たっていた愛知県警察警部とともに、喫茶店Xを出て、東名阪道下り線(大阪方面)を走行するが、いったんは非常電話ボックスを誤って見過ごした[報道 2]。その後、2人は再び道を戻って非常電話ボックスを発見し、その中のメモに「ココカラカネヲシタヘオトセ ゴザイショサービスエリア マデイケ A子(被害者の実名)イク」などとあったが、後述のように捜査を開始していた特別捜査本部は金の投下をためらったため、犯人との接触の機会を失った[判決文 1][報道 2]。またこれにより、高速道路から身代金を投下させ、入手しようと試みた木村の計画は失敗に終わった[判決文 1]。2回目の指示は同夜にあり、今度はA子の弟(当時18歳の予備校生)を持参人に指名した木村は「A子宅近くの喫茶店Y前にタクシーを回すので、それに乗って中川区内のレストランZ前に来い」と要求した[報道 2]。途中から電話交渉を担当した義兄役の警部はこれを拒否し、会話を引き延ばしていた間、特別捜査本部は電話の逆探知に成功し、その後の電話が中川区内の、国道1号沿いの公衆電話ボックスからかかったことを特定したが、捜査員らが駆け付けた際には既に犯人の姿はなく、わずかの差で取り逃がすこととなった[報道 2]。木村からの電話はそれ以降、発信先は同県津島市内の公衆電話など計9か所から、翌3日午後11時16分頃までに計18回に上っており[判決文 1]、また木村は警察からの逆探知を恐れ、電話を最長でも4分前後で切るという用心深さも見せた[報道 2]

3日午後3時30分頃、木村はA子の遺体を人目に付きにくい場所に隠そうと考え、三重県桑名郡長島町(現・桑名市)の木曽川河川敷の、の茂みの中に遺体を隠した[判決文 1]。しかし翌4日、木村は非常電話の見える場所に向かったところ、捜査用自動車らしき車が2台、東名阪道の方に向かうのを見た[判決文 1]。また、その直後の電話後、身代金受け渡し場所に指定した喫茶店の見える場所にいって様子をうかがっていた際にも、不審な動きをする車がいることに気付き、警察が事件を捜査していることを察知した[判決文 1]。また、自宅に電話したところ、借金先から留守宅に電話をかけられるなどして、多額の借金があることが妻ら親族に発覚した[判決文 1]。また、妻は木村の母親に対し、木村の借金のことを相談したため、木村の母親が自分に会いたがっていることを知った木村は、母と連絡を取り、4日午前10時30分頃に名古屋市内の喫茶店で会ったが、その際に母親から問い詰められ、多額の借金があることを告白せざるを得なくなり、こうなれば妻との離婚の話も出ると考え、直後に蟹江町役場に赴き、離婚届の用紙を手に入れた[判決文 1]

警察が捜査に乗り出したことを察知した上、多額の借金があることが親族に知れた以上、身代金を入手して借金返済に充てれば、金の出処が疑われると考えた木村は、身代金要求をあきらめ、遺体を木曽川に遺棄しようと考えた[判決文 1]。ちょうど翌5日、木村は母方で妻や、定時制高校以来の親友とともに借金の善後策を協議しており、借金取りから逃れようと、知人のいる四国に逃げることなども考えたが、結論の出ないまま自宅に帰り、四国に行くための電車の時刻を調べようと時刻表を読んでいた[判決文 1]。木村はその際、身代金を日本国有鉄道(現・JR東海中央本線春日井駅まで持参するように指示し、警察が捜査をしているならばその注意を春日井方面にそらし、その隙に遺体をまったく別方面の木曽川に遺棄しようと思い付いた[判決文 1]。同日午後、木村は自宅近くの公衆電話から計2回、A子宅に電話をかけ、応対した捜査員に対し「名古屋駅まで来て、中央線の5時34分名古屋発多治見行に乗って春日井で降りろ。プラットホームにいてもらえば、A子を一緒に車に乗せて向かう。身代金と引き換えにA子を解放する」などと嘘をつき、捜査員らを春日井方面に向かわせた[判決文 1][報道 2]。A大野父親は、義兄役の警部とともに同駅に向かったが、被害者・犯人ともに姿を見せなかった[報道 2]。その隙に、木村はA子の遺体を木曽川に遺棄することにし、蟹江町内で再梱包用に大きなブルーシートを購入した[判決文 1]。5日午後6時頃、木村は木曽川河川敷の遺体隠匿現場付近の空き地で、ブルーシートでさらに遺体を包み、ロープで縛って再梱包し、車の後部トランクに積み込んだ[判決文 1]。木村は遺体を遺棄する場所を探して走行していた途中、偶然見つけた工事等点滅灯のコンクリート製土台を拾い、遺体に結びつけて重石とした[判決文 1]。そして、東名阪自動車道下り線を走行して木曽川橋上まで遺体を運搬し、後続車両の途切れた4日午後6時35分頃、橋の上から遺体を投げ捨て、約10.8m下を流れる木曽川(水深約3m)に遺棄した(死体遺棄罪[判決文 1]。その後夜になって、木村は2回A子宅に電話し、自分は春日井駅に行っていなかったにもかかわらず、「なぜ警察に連絡した。刑事が4人もいたぞ」などと詰め寄り、「明日の午前中連絡する」と言い、この日最後の電話を切った[判決文 1]

5日午後10時40分頃、母方に赴いた木村は、集まった兄や叔父の前で、借金のほぼ全貌を告白し、その際に「借金から逃げるな」と諭されたため、借金取りから逃げるのを断念し、この日は妻の家に泊まった[判決文 1]。翌6日午後6時23分ごろ、木村は妻宅近くの公衆電話から、A子宅に最後の電話をかけ、「車が故障して段取りが狂った」などと言い、今後も連絡を取るかのようにほのめかしつつ、以降連絡を絶った[判決文 1]。なお、木村の借金は、5日夜から翌6日朝にかけ、木村の親族、義父の親族が互いに話し合い、分担して返済されることになった[判決文 1]

このように、木村は刑事裁判で認定された計18回の電話とは別に、さらにA子宅に対し、4日午後零時58分頃から、6日午後6時23分頃までの計7回、身代金を要求する電話をしたが、これらはいずれも、木村が身代金入手を断念した後の電話であるため、刑事裁判では「身代金要求の事実は認められない」と認定された[判決文 1]

捜査[編集]

事件当日の2日夜、A子宅に、後に木村と判明する男から「娘を誘拐した。現金3000万円用意しろ。警察に言うと娘は生きて帰れないぞ」との脅迫電話があったことから、愛知県警察捜査一課港警察署は、身代金目的誘拐事件とみて、特別捜査本部を設置し、極秘捜査を開始した[報道 2]。途中からはA子の親族を装った捜査員が電話で交渉に当たるなど、警察はA子の安全を最優先に考えつつ、懸命の捜査を続けた一方、A子の家族も捜査に協力し、失踪現場の近鉄戸田駅付近で、A子の顔写真などを印刷した、目撃者捜しの新聞折り込みチラシを計9000枚余り配布した[報道 2]。しかし、6日夜から犯人からの連絡が途絶え、わずかな遺留品からも手掛かりが得られない上、事件から20日以上経過しても有力な情報提供は得られなかった[報道 2]。そのため、事件発生から25日目の12月26日午前7時、愛知県警はA子の家族の了解を得て、被害者の安否・犯人とも不明のままの誘拐事件としては異例の公開捜査に踏み切った[報道 2]。特捜本部は、犯人が名古屋市内のほか、三重県桑名市周辺からも電話してきていることなどから、隣接する三重岐阜両県警をはじめ、警視庁など10都府県警の応援を求め、広域捜査態勢を取り、被害者の救出、犯人の割り出し・逮捕に全力を挙げた[報道 2]

最初の脅迫電話が2日午後8時15分頃にかかってきた直後、家族からの110番通報で捜査を始めた愛知県警は、犯人は「A子宅に多額の預金があるのを知っている」「A子が10月6日、『中日新聞』読者投稿欄を通じて、英語の家庭教師のアルバイトを希望した事実も調べてある」「名古屋市港区・海部郡など、愛知県尾張南西部の地理に明るい」「名古屋弁岐阜弁三重弁関西弁といった方言を交えた言葉遣いをする」などの点を確認した[報道 2]。これらの点から、愛知県警は犯人像を「愛知県尾張周辺出身、A子宅の事情を知る30歳代から40歳代の者」と見た[報道 2]。また、犯人の動き、大掛かりな犯行計画などから、共犯者がいる複数犯の可能性も想定していたため、この段階では木村の単独犯であることは把握できていなかった[報道 2]。それまでの捜査では、2日午後7時10分過ぎ、戸田駅から北約300mの路上に白い乗用車が停車し、体格の良い男が車内に若い女性を引きずり込み、女性が悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、車は同駅方面に走り去ったという光景を、近隣住民の主婦が目撃していた[報道 2]。主婦は車から離れた距離から目撃していたため、この女性がA子とは確認できなかったが、犯人との待ち合わせ時間に近いことから、特捜本部は事件との関連性を調べた[報道 2]。また、戸田駅周辺では事件直前、大学生2,3人の自宅に「英語教材のことで話がある」との不審な電話がかかり、うち1人は同駅に呼び出されたことも判明した[報道 2]。これらの手口は、A子を誘い出した手口と酷似していたため、特捜本部は英語教材業界の聞き込み捜査も進めた[報道 2]。犯人が要求してきた3000万円は、2年前の1978年(昭和53年)5月25日、A子の父親が運転し、A子とその母親(当時44歳、小学校教諭)が同乗していた乗用車が、別の乗用車と衝突し、約1m下の農業用水に転落、A子の母親が水死した交通死亡事故を受け、翌1979年(昭和54年)6月,7月に、自動車賠償責任保険(自賠責保険)などから支払われた保険金と同じ額だった[報道 2]。A子の父親は、同じく小学校の教諭だった愛妻の死という「悲劇のお金」に手を付けようとせず、事件まで銀行に預けたままだった[報道 2]

木村は事件発生から50日目の、翌1981年(昭和56年)1月20日に逮捕され、同年5月に被害者の遺体が発見された[報道 4]

刑事裁判[編集]

第一審(名古屋地裁)[編集]

木村の初公判は1981年5月15日、名古屋地方裁判所刑事第3部(塩見秀則裁判長)で開かれた[報道 6]。注目された罪状認否で、木村は「身代金を取ることは12月4日の時点で断念していた」と供述したが、それ以外は起訴事実を全面的に認めた[報道 6]。冒頭陳述で検察側は、木村が映画『天国と地獄』をヒントにした上で、計画が失敗しないように、初めからA子を殺すつもりで誘拐したことを明らかにした[報道 6]。木村の捜査段階での供述態度や、同月5日にA子の遺体が発見されたことなどから、木村が犯行を認めることは確実視されていたが、法廷で犯行を認めたことから、今後の焦点は、検察側から明らかにされる、犯行の詳しい動機・方法などに移り、審理はかなり早く進む見通しが立った[報道 6]

その後、刑事裁判の争点は情状面での立証に移り、検察側はA子の父親・友人を、弁護側は木村の母親・友人を、それぞれ情状証人に申請した[報道 7]。12月の公判で、木村は「被害者遺族の方の気持ちが少しでも晴れるなら、また、私の母や家族に対する世間の冷たい目が多少とも緩和されるなら、命が惜しいとは思いません。私が死刑になるのが一番いいのではないかと思います」と述べた[報道 8]。第9回公判では、被害者遺族であるA子の父親が、検察側の情状証人として出廷し、「親として絶対許すことはできません。死刑を望みます」と述べた[報道 7]

1981年12月24日、名古屋地裁刑事第3部で第10回公判(論告求刑公判)が開かれた[報道 7]。検察側は「社会全体に戦いを挑んだ、わが国史上まれに見る、大胆、残忍、卑劣な犯行で、天人とも許しがたい。被告人の反社会的性格に改善の余地はない」として、木村に死刑を求刑した[報道 7]。弁護側の最終弁論は翌1982年(昭和57年)2月2日に開かれた[報道 7]

1982年3月23日に判決公判が開かれ、名古屋地裁刑事第3部(塩見秀則裁判長)は検察側の求刑通り、木村に死刑判決を言い渡した[報道 9][報道 3][判決文 1]

木村は判決後も、前述のように死刑を受け入れる意思が固かったが、弁護人らが控訴するように説得した[報道 8]。その後、木村の弁護人は控訴期限前日の4月5日付で、量刑不当を理由に名古屋高等裁判所に控訴した[報道 8]

控訴審(名古屋高裁)[編集]

1982年10月18日、名古屋高等裁判所で控訴審初公判が開かれた[報道 10]。控訴審でも、木村は起訴事実を全面的に認めたため、控訴審はわずか3カ月で結審した[報道 10][報道 11]。第一審も10カ月のスピード審理だったため、事実審はわずか1年弱で結審した[報道 11]

控訴審で弁護側は「木村は逮捕後、率直に犯行を認め、拘置所内でも毎日、被害者の冥福を祈るなど、深く反省している。永山則夫連続射殺事件など、他の重罪事件でも、控訴審で死刑判決が破棄されて無期懲役になった例があり、刑の均衡の上から、死刑判決を破棄して無期懲役を適用するのが相当である」と主張していた[報道 11]

1983年(昭和58年)1月26日、名古屋高裁刑事第2部(村上悦雄裁判長)は、第一審の死刑判決を支持し、木村の控訴を棄却する判決を言い渡した[報道 10]

[報道 11]

木村は判決を不服として、同日午後に最高裁判所に上告した[報道 12]。弁護人は判決後、名古屋拘置所で木村と面会し、「控訴審判決は死刑制度の適否などについて判断しておらず、弁護人としては不服である。量刑について最高裁が同じ判断を示すとは限らず、人生を最後まで大切にする意味でも上告すべきだ」と説得し、木村はこれに同意した[報道 12]

上告審(最高裁)[編集]

1987年(昭和62年)6月26日までに、最高裁判所第一小法廷(大内恒夫裁判長)は、木村への上告審判決公判を7月9日午前10時半から開廷することを指定し、関係者に通知した[報道 13]

7月9日、最高裁第一小法廷(大内恒夫裁判長)は、一・二審の死刑判決を支持し、木村の上告を棄却する判決を言い渡した[報道 4]。これにより、木村の死刑判決が確定することとなった[報道 4]

木村とその弁護団はこの判決を不服として、本来は字句・計算の間違いなどを訂正するのに用いる判決訂正申立書を[注釈 1]、犯行の事実認定のうち、情状に関する事実誤認・死刑制度の是非について、これまでと同じ主張をまとめた上で、最高裁第一小法廷(大内恒夫裁判長)に提出し、死刑判決の破棄を訴えた[報道 5]。しかしこの申し立ては8月6日までに棄却決定がなされたため、木村の死刑判決が確定した[報道 5]。身代金目的誘拐殺人での死刑判決確定は戦後8件目だった[報道 5]

死刑囚のその後[編集]

1993年(平成5年)9月10日、木村は恩赦減刑を求め、収監先の名古屋拘置所長宛てに恩赦を出願した[報道 14]。出願の理由は「本人の性格、犯行後の状況などから、恩赦が相当である」というもので、木村が自ら半生を綴った上申書、また被害者遺族の感情を考慮して投函していなかったが、A子の父親宛ての謝罪の手紙などを添付した、240ページ余りの出願所で、深い反省を強調したものだった[報道 14]。関係者によれば、木村は「なぜ事件を起こしたのかを明らかにしながら、生きて罪を償いたい」と考え、最高裁判決確定直後から、恩赦出願準備を進めてきたという[報道 14]

国家賠償請求訴訟[編集]

木村と月刊誌『創』発行人による国家賠償請求訴訟[編集]

木村は上告中、月刊誌『』の発行人・対馬滋と文通で面会を約束し合い、1987年5月25日から7月6日にかけての計3回、木村の収監先・名古屋拘置所で、対馬が木村への接見を申し込んだ[報道 15]。しかし、拘置所側が求めた内容を公表しない」との誓約書の提出を対馬が拒否したため、接見は許可されなかった[報道 15]。木村・対馬両名はこれを「取材目的の面会を不許可とした拘置所の措置は不当で、憲法14条で保障された『表現の自由』の侵害であり、憲法違反だ」として、国・名古屋拘置所に不許可処分の取り消し、慰謝料150万円の支払いを求めた損害賠償請求訴訟を東京地方裁判所に起こした[報道 16][報道 17]。この訴訟で、木村に対する本人尋問が、1991年(平成3年)5月20日に名古屋拘置所で行われた[報道 16]。尋問で、木村は全国の死刑囚で作る「麦の会」入会への経緯や、自分自身で考えた罪の償い方、死刑廃止への思いなどを約4時間にわたり陳述した[報道 16]。また、木村は事件報道について「記者が自分に面会した上だったら、一方的な書き方にはならなかった」と述べ、取材目的の面会の必要性を訴えた[報道 16]

1992年(平成4年)4月17日、東京地裁民事第2部で、この訴訟の判決公判が開かれた[報道 17]涌井紀夫裁判長は「日本国憲法は、報道機関が拘置者に直接取材する自由までは保証していない。木村との面会が、死刑囚側のプライバシーなどを侵害する恐れがあるとした拘置所長の判断には合理性があり、処分に過失はなかった」として、拘置所側の裁量権を認め、対馬らの訴えをすべて退ける判決を言い渡した[報道 17]。判決理由で涌井は「未決拘置者は原則として、一般市民としての自由が保障され、外部の者との面会も許されるが、拘置者側の利益を不当に侵害する恐れがある場合には、誓約書の提出など、面会に条件を付けることもやむを得ないという、拘置所長側の考え方にも合理性はある」と判断し、その上で「対馬は誓約書に反し、拘置者との面会内容を公表したことがあった。今回の拘置所側の処分が『違法』とは評価できない、という考え方もある以上、過失は問えない」と結論付けた[報道 17]。取材の自由、拘置者の表現の自由など、原告らが問いかけた問題に対しては、正面から答えなかった[報道 17]。原告側は判決を不服として、東京高等裁判所に控訴した。

1995年8月10日、東京高裁で控訴審判決公判が開かれた[報道 15]。時岡泰裁判長は請求を退けた第一審判決を支持し、対馬らの控訴を棄却する判決を言い渡した[報道 15]。判決理由で時岡は「取材・報道の自由が何の制約も受けないというものではない」と述べ、対馬が別の拘置中の人物の接見内容を、雑誌に公表した経歴があることなどを指摘した上で、「接見を認めなかった拘置所長側の判断には合理性があり、適法だ」と述べた[報道 15]。原告側は判決を不服として、最高裁判所に上告した。

最高裁第三小法廷(千種秀夫裁判長)は、木村の死刑執行後の1998年(平成10年)10月27日の判決公判で、「対馬は以前にも別の在監者との面会の際、『内容を記事にしない』との誓約書を出しながら、誓約に反して面会内容を雑誌に公表しており、面会を不許可とした拘置所長側の判断は合理的根拠がある」などとして、訴えを退けた一・二審判決を支持し、対馬らの上告を棄却する判決を言い渡した[報道 18]

木村と菊田幸一による国家賠償請求訴訟[編集]

1995年(平成7年)1月12日、木村と菊田幸一(当時:明治大学教授)は、手記出版の打ち合わせのために求めた面会を拒否されたのは「外部交通権」の侵害で違法だと訴え、国を相手に150万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした[報道 19]。訴状によれば、菊田らは前年(1994年)8月、木村の手記出版準備のため、収監先の名古屋拘置所を訪問したが、拘置所長は「死刑囚の面会は家族・弁護士に限られる」として、菊田らの面会申し込みを拒否した[報道 19]。手記は、編集者が削除した部分などについて、木村の完全な同意を得られないまま、インパクト出版会から、『本当の自分を生きたい』のタイトルで1月に出版された[報道 19]

当初は木村・菊田と他1人の計3人が原告だったが、その後、木村の死刑が執行されたため、原告は菊田ら2人となった[報道 20]。東京地裁(市村陽典裁判長)は2000年(平成12年)1月28日の判決公判で、「死刑確定者の心情安定などの観点から、面会を拒否した拘置所長の判断に違法な点はない」と指摘し、菊田らの請求を棄却する判決を言い渡した[報道 20]

死刑執行[編集]

1995年12月21日午前、木村は収監先の名古屋拘置所にて、法務省法務大臣宮澤弘)の発した死刑執行命令により、死刑を執行された[報道 1]。45歳没[報道 1]。同日には東京拘置所福岡拘置所でも、それぞれ1人ずつ死刑囚に対し、刑が執行された[報道 1]

木村の処刑を知ったA子の父親は、『中日新聞』記者に対し「もっと早く執行すべきだった」「死刑廃止論は出鱈目だ。死刑制度がある以上、死刑は確定から速やかに執行すべきだ」と思いを吐露した[報道 1]。その上で、成人式の時に買った振袖などを処分した以外、娘の部屋は事件当時のまま、趣味の登山用品も大切に保管していることについて触れ「娘が生きていれば、今頃は孫を連れて遊びに来ていただろう」と無念の思いを語った[報道 1]。そして、報道陣に対しては「木村も誰かに相談していれば、娘を殺さずに済んだ。犯罪を犯せば、被害者本人だけでなく、自分や被害者の親兄弟、親類にまで物凄く迷惑がかかる。犯罪に走る前にそれを考えなければいけない。悩みを一人で考えず、誰かに相談すべきだ」と語った[報道 1]

一方、死刑廃止を求める市民団体「死刑廃止フォーラム inなごや」は23日、拘置所近くにある名古屋市東区白壁名古屋聖マルコ教会で会見し、宮澤法相と名古屋拘置所長宛てに、それぞれ抗議文を送付することを明らかにした[報道 21]。抗議文の内容は、木村が獄外との通信を巡る訴訟を継続中だったこと、生きて償うことを願って恩赦出願中だったことを挙げた上で「これらに決着を付けずに処刑したことは、人間の尊厳への冒涜だ」「死刑によって償いの機会を永遠に奪うことがあってはならない」というものだった[報道 21]。教会ではこの日の午後、各地の死刑廃止運動関係者ら約70人が参列し、木村の葬儀が営まれた[報道 21]

参考文献[編集]

刑事裁判の判決文[編集]

  • 名古屋高等裁判所刑事第2部判決 1983年(昭和58年)1月26日 『高等裁判所刑事裁判速報集』昭和58年号268頁、D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:27922273、昭和57年(う)第139号、『身の代金目的拐取、拐取者身の代金要求、殺人、死体遺棄被告事件』。
  • 最高裁判所第一小法廷判決 1987年(昭和62年)7月9日 『最高裁判所裁判集刑事』(集刑)第246号65頁、『判例時報』第1242号131頁、『判例タイムズ』第642号178頁、D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:27917179、昭和58年(あ)第208号、『身の代金目的拐取、拐取者身の代金要求、殺人、死体遺棄被告事件』「死刑事件」。

関連書籍[編集]

  • 木村修治『本当の自分を生きたい 死刑囚・木村修治の手記』インパクト出版会、1995年1月10日。ISBN 978-4755400452。
  • 年報・死刑廃止編集委員会『ポピュリズムと死刑 年報・死刑廃止2017』インパクト出版会、2017年10月15日、188,205。ISBN 978-4755402807。


脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 刑事訴訟法第415条により、最高裁判決に対してのみ認められている[報道 5]。申し立てができるのは検察官、被告人、弁護人の三者で、判決内容に誤りがあるのを発見した場合、最高裁に訂正判決を求めることができる[報道 5]。申し立て期限は判決の日から10日以内で、それまでに申し立てがなされないか、訂正判決または申し立て棄却の決定のあった日に、最高裁判決が確定する[報道 5]。死刑判決に対する訂正申し立てでは、1990年12月14日に最高裁第二小法廷(中島敏次郎裁判長)で言い渡された判決に対し、犯行間隔を1年間違えた誤記があったとして、3日後の12月17日に訂正判決がなされた例があるが、判決内容そのものに対する見直しが認められた例はない。

出典[編集]

判決文の出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm 名古屋地方裁判所判決 1982年(昭和57年)3月23日 事件番号:昭和56年(わ)第144号

新聞・雑誌など報道出典[編集]

記事見出し中に被害者女子大生A子の実名が含まれている場合、その箇所を「A子」に置き換える。死刑囚・木村修治については、実名で著書を出版しているため、原文のまま記載する。
  1. ^ a b c d e f g h i 『中日新聞』1995年12月21日夕刊1面「A子さん誘拐殺人 木村死刑囚の刑執行」
    『中日新聞』1995年12月22日朝刊1面「3人の死刑執行 A子さん誘拐殺人 木村死刑囚ら 村山政権で計8人」
    『中日新聞』1995年12月22日朝刊社会面25面「突然の断罪 思い交錯 木村死刑囚の刑執行 15年前の悲しみよぎる」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 朝日新聞』1980年12月26日東京夕刊1面「女子大生誘かいされる 名古屋 24日ぶり公開捜査 電話で3千万要求 6日から連絡なし 30回近く脅迫続ける」
    『朝日新聞』1980年12月26日東京夕刊10面「身代金支払い渋る 疑問残す強気の捜査 接触機会二度も“放棄”」「悲劇の金狙う? 3000万円母の事故死保険」「A子さんはこんな服装で消息を絶った」
    『朝日新聞』1980年12月26日東京夕刊11面「名古屋の女子大生誘かい 『娘を返せ』父親 涙の訴え 語気は震え 目元赤く 重なる不幸、にじむ疲れ」「犯人よ この悲痛な願いを聞け 『風の音にも、もしや…』切々と父呼びかけ」「母代わりに家事 A子さん」「『一刻も早く解放をせよ』語気強め県警本部長」
  3. ^ a b 『朝日新聞』1982年3月23日東京夕刊1面「A子さん殺し 木村に死刑判決 名古屋地裁『同情の余地なし』」
    『朝日新聞』1982年3月23日東京夕刊14面「死刑…足を踏み直す木村 A子さん誘拐殺人事件判決 『娘もやっと成仏』と父」
    『朝日新聞』1982年3月23日名古屋夕刊1面「木村に死刑判決 名古屋地裁 A子さん事件 同情の余地なし」
    『朝日新聞』1982年3月23日名古屋夕刊8面「善良な葉は思えば忍びないが 極刑のほかない A子さん事件判決要旨」
    『朝日新聞』1982年3月23日名古屋夕刊9面「『極刑』聞く父はため息 A子さん事件判決 望みの裁き、恨み晴れず 木村には残忍な面影消え」
  4. ^ a b c d 『中日新聞』1987年7月9日夕刊1面「木村の死刑確定 最高裁が上告棄却 A子さん誘拐殺人 『冷酷、同情の余地なし』」
    『中日新聞』1987年7月9日夕刊社会面11面「A子さん事件 最高裁で判決 極刑にも悲しみ消えず 『当然の報い…』と父 6年半 いまも夢に娘が」
  5. ^ a b c d e f g 『中日新聞』1987年8月7日朝刊社会面27面「木村の死刑確定 最高裁 訂正申し立て棄却 A子さん事件」
  6. ^ a b c d 朝日新聞』1981年5月15日東京夕刊社会面15面「木村、起訴事実認める A子さん事件初公判」
  7. ^ a b c d e 『朝日新聞』1981年12月24日東京夕刊14面「A子さん誘拐殺人 木村に死刑求刑」
  8. ^ a b c 『朝日新聞』1982年4月5日東京夕刊12面「A子さん誘拐殺人 木村、控訴手続き 『死刑は量刑不当』」
  9. ^ 『中日新聞』1982年3月23日夕刊1面「木村に死刑判決 A子さん誘拐殺人で名地裁 冷酷で反社会的 『情状』の余地認めず」「動機・計画性 厳しく責める」「許せぬ自己本位 改しゅんの情 弁護も通じず」
  10. ^ a b c 『中日新聞』1983年1月26日夕刊1面「A子さん事件 木村、控訴審でも死刑 名高裁、一審判決を支持 『悪質、同情の余地ない』」
    『中日新聞』1983年1月26日夕刊第二社会面10面「A子さん事件控訴審判決 『死刑』にも表情変えず 木村、この日を覚悟?」「『絶対許せぬ』声震わすA子さんの父親」
  11. ^ a b c d 『朝日新聞』1983年1月26日東京夕刊11面「A子さん誘拐控訴審 一審通り死刑判決 減刑の訴え認めず」
  12. ^ a b 『中日新聞』1983年1月27日朝刊第二社会面22面「木村、直ちに上告 A子さん事件 弁護人の説得を了解」
  13. ^ 『中日新聞』1987年6月27日朝刊第二社会面22面「来月9日に最高裁判決 A子さん誘拐殺人」
  14. ^ a b c 『中日新聞』1993年9月11日朝刊第二社会面30面「木村死刑囚 恩赦を出願 女子大生誘拐殺人」
  15. ^ a b c d e 『中日新聞』1995年8月10日夕刊社会面11面「元雑誌編集者らの損害賠償控訴棄却 取材面会拒否」
  16. ^ a b c d 『中日新聞』1991年5月21日朝刊第二社会面30面「『報道一方的だった』 A子さん事件 木村死刑囚が陳述」
  17. ^ a b c d e 『中日新聞』1992年4月17日夕刊社会面15面「取材目的、未決拘置者との面会 所長の拒否を支持 東京地裁判決 編集者らの訴え棄却 A子さん誘拐殺害」
  18. ^ 『中日新聞』1998年10月27日夕刊第二社会面10面「接見取材拒否は適法 最高裁判決 元編集者の敗訴確定」
  19. ^ a b c 『中日新聞』1995年1月13日朝刊第二社会面30面「名古屋の誘拐殺人 木村死刑囚 面会拒否違法と提訴」
  20. ^ a b 『中日新聞』2000年1月29日朝刊第二社会面30面「死刑囚との面会拒否適法と東京地裁判決 拘置所の判断を支持」
  21. ^ a b c 『中日新聞』1995年12月24日朝刊第二社会面26面「『死刑 償いの道断つ』 名古屋の市民団体 法相らに執行抗議文」

書籍出典[編集]

関連項目[編集]

  1. ^ インパクト出版会 2017.