吐蕃王朝

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吐蕃
シャンシュン王国 633年 - 877年 グゲ王国
吐蕃の位置
800年ごろの吐蕃の版図
公用語 チベット語
首都 ラサ
元首等
630年 - 650年 ソンツェン・ガンポ
742年 - 797年 ティソン・デツェン
変遷
建国 633年
西域覇権の確立 696年
長安占領 763年
仏教の国教化 779年
滅亡 877年

吐蕃王朝(とばんおうちょう、拼音:Tŭbō)は7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。では吐蕃と呼び、この名が14世紀中ごろまでチベットの呼び名として用いられた。吐蕃の王は自称としては姓をもたず、王家・王族の呼称も持たなかったため、日本では中国名である、「吐蕃」をもってこの王朝の名称とするのが一般的である。

日本の東洋史研究者たちの間では、この王朝、政権に対し、「吐蕃」のほか、「吐蕃王国」、「吐蕃帝国」などの呼称が用いられており、一致共有される呼称は定まっていない。

目次

概要

7世紀初めのソンツェン・ガンポによる統一以後[1]、唐とは北東部では吐谷渾(とよくこん)、南東部では南詔、北方では西域の東西通商路の支配権を巡ってはげしく争った。唐王室より公主(皇族の女性)を迎え和平を結ぶことがあったが[2]、唐とはたびたび和平と抗争を繰り返した。安史の乱以降は唐に対して軍事的優位を保ち、河西、隴右地区とシルクロードの大部分を支配するに至った[1]。9世紀になるとティソン・デツェン王が仏教国教とする方針をたて(791年)、やがて仏教指導者が国政を行うようになり、大蔵経の訳出などが実施された。[3]822年には唐との間で、対等、平等の形式で国境画定と和平を定めた条約を締結した。[4]その後ほどなく、国内で仏教をめぐって対立が起こり、また王位継承問題から南北に分裂、やがて滅亡した。

チベット高原の統一と建国

チベットの伝説ではインドの王族が、中国の史書では中国遼東地方より移住した鮮卑拓抜部出身の王家が、吐蕃王室の起源とされ、ラサ南東のヤルルン部(チョンギェ地方)を起点として近隣諸部族を吸収し勢力を伸ばした。630年、ナムリ・ソンツェン王が毒殺され、子のソンツェン・ガンポ王(在位:630年 - 650年)が即位する。633年、ソンツェン・ガンポ王はスピ族を平定し、都をラサに定め、吐蕃王朝を開いた。

ソンツェン・ガンポ王と唐

ソンツェン・ガンポ王の像

634年、ソンツェン・ガンポ王は唐へ相互に使臣を遣わし、礼物を贈りあう。さらに王国の南に位置するリッチャヴィ朝ネパールに使者を遣わし、ティツィン王女(赤尊公主、ペルサ)を妃に迎える。さらに636年、唐の太宗のもとへ妃を迎えるため使者を遣わすが、太宗に拒絶される。同年、王は20万の兵を率いて唐の強い影響下にあった青海の吐谷渾に出兵、白蘭などの族の部落を攻め落とし、松州(現四川省松潘県)に迫るが、唐に敗れた。その後、再び太宗のもとへ求婚の使者を送り、さらに大臣ガル・トンツェン(在任:652年 - 667年)を遣わし、金五千両を結納として贈る。これらの外交が実り、641年に唐王室の娘である文成公主を妃として迎える。

王は文成公主が赭面(しゃめん:顔に赤土を塗る)の風習を嫌がったためこれを禁じるなど公主を丁重に扱った。文成公主は唐から連れてきた工匠たちに小昭寺(ラモチェ)を建立させ、釈迦牟尼像を祀り、ティツィン王女(赤尊公主)の大昭寺(ジョカン寺、トゥルナン寺)建立を手伝った。このように文成公主との結婚(唐では降嫁と呼んだ)により唐との結びつきを強めた。さらに王は貴族の子弟を唐の都、長安へ留学させ、唐を参考にして吐蕃の軍事・行政制度を整えた。

646年、王は太宗の高句麗遠征(麗唐戦争)勝利の祝賀に大臣ガル・トンツェンを遣わした。647年ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)が亡くなり混乱したヴァルダナ朝へ派兵し、政権を簒奪したアルジュナを捕らえ、唐の使者王玄策を保護した。649年、唐の太宗が逝去し高宗が即位すると、王は馬都尉(公主の夫が受ける官位)、西海郡王の官位、多数の礼物を受ける。さらに太宗の霊前に十五種の金銀珠玉を供え、さらに賓王の位と礼物を贈られた。 また唐の優れた工芸技術(蚕種、酒造、製紙、製墨)を取り入れるため唐から工匠の派遣を得た。こうしてソンツェン・ガンポ王は吐蕃を発展させたが、649年末、病のため逝去した。

ガル一族の執権と唐との戦争

ソンツェン・ガンポ王の死に先立って643年に王の子グンソン・グンツェンが23歳で死去していたため、グンソン・グンツェンの子であるマンソン・マンツェン(在位:650年 - 676年)が8歳で即位し、ガル・トンツェンが宰相として国政を執った。 663年吐谷渾の大臣が吐蕃に投降したのを機にガル・トンツェンは兵を率いて吐谷渾を征圧する。さらに唐の制度を参考に吐蕃の行政,軍事,租税登録,徴発制度を改めて整備した。

667年、ガル・トンツェンが死去すると、その子ガル・ティンディン(ガル・ティディン)が宰相の位を継ぎ国政を掌握した。ガル・ティンディンは積極的に唐の西域に軍事行動を行い、670年、唐の安西四鎮(亀茲焉耆于闐疏勒)を攻め落としてシルクロードを支配した。それに対して唐が10万の大軍を率いて攻めてきたが、ガル・ティンディンは40万の大軍を用いて、青海湖南の大非川にて唐に大勝利を収めた。唐はこの戦争で痛手を受けた上、新羅との間に戦争が起こり、この間、吐蕃と唐はしばらく小康状態を迎えた。

676年、マンソン・マンツェン王が逝去し、ティ・ドゥーソン(ティ・デュソン)王が即位する。唐はこの間に新羅を冊封して東方を固め、678年に唐の中書令である李敬玄が18万の兵を率いて青海に攻めた。しかし、吐蕃はこれも撃退する。『旧唐書』によるとこのとき唐軍の前軍の大将が捕虜となっている。この戦争の後、682年には東突厥が復興を行い、また、しばらくの間吐蕃と唐は小康状態を迎えた。

680年、唐と吐番の友好に尽力した文成公主が40年の滞在を経て吐蕃にて逝去。唐より使者が遣わされ弔意を表される。692年、再び唐は軍を起こし、安西四鎮を攻め取られるが、696年には唐に対して勝利を収めた。このようにして唐と吐蕃は西域の覇権をかけて争い続けたが、この結果、両国は疲弊していった。

699年、ティ・ドゥーソン王は国政を一手に掌握していたガル一族を失脚に追い込み、王政を復活させた。ガル・ティンディンは自刃、その弟のガル・ツェンニャ・ドムブは唐に亡命し、ガル(Mgar)一族は失脚した。この頃、吐蕃に茶葉と喫茶の習慣がもたらされ、陶器が造られるようになる。

唐の弱体化と南詔の冊封

Tibetan (Tufan) Enpireが吐蕃の領域

704年、ティ・ドゥーソン王が雲南親征中に戦死すると、生まれたばかりのティデ・ツクツェン王(在位:704年 - 755年、別名:メ・アクツォム)が即位し、祖母(ティマル)方のモル氏が政権を掌握した。吐蕃は唐の則天武后に妃として公主を求めた。唐はこれに応じ、吐蕃は710年中宗の養女である金城公主を迎える。大臣であったシャン・ツェントレ・レージンが公主を迎えに長安へ赴いたとき、宮中で馬球試合が行われたという。713年には唐より、河西九曲の地(現:青海省東南部黄河曲部、同仁県周辺)を金城公主の斎戒沐浴地として贈られる。

722年、吐蕃はギルギット(現:パキスタン)を占領、さらに唐と戦い、安西四鎮を再び攻略する。739年、金城公主は吐蕃にて逝去する。752年、唐に攻められた南詔国王カクラボンが吐蕃に助けを求め、王はカクラボンを王弟として冊封する。754年に唐の四川長官が南詔を攻撃した際には吐蕃が兵を遣わし南詔と連合して唐を破った。

755年、ティデ・ツクツェン王が暗殺によって死ぬと、その子ティソン・デツェン(在位:742年 - 797年)が王位を継ぐが、実権は大臣マシャンチョンバチェらが掌握し、仏教を禁じた。さらに唐での安史の乱に乗じて唐に軍を進め、唐西部の河西、隴右地区(現:青海省東部および甘粛省)を占領し、南詔と連合し四川南部を攻略した。これ以降、吐蕃は西域で唐に対して優勢を保った。

長安占領と仏教の国教化

761年、ティソン・デツェン王は仏教禁令を解き、インドから高僧を招き、仏教を復興させた。763年10月、唐の長安を占領し、金城公主の甥、李承宏を帝位に据えるが、陣中に疫病が流行り、唐の反撃もあったため、半月後に長安から撤退した。774年、王はインドから高僧シャーンタラクシタパドマサンバヴァを招いてさらに仏教を広めた。

779年には吐蕃・南詔連合軍は20万の大軍をもって成都占領を目指したが、国力を回復していた唐軍に撃退された。同年、修行寺院である、サムエー寺が落成し、経典解説や説法などの活動が開始され、多くの仏典が翻訳された。王は、等級に応じて僧侶に食物や生活用品を支給、さらに王子,后妃,臣民の前で永遠に仏法を行うことを誓約し、王子たちには仏法を学ぶことが義務づけられ、仏教が厚く保護され、仏教が国教化した。781年、長年にわたる沙州(敦煌)包囲の末、占領に成功する。

782年、王は、中国系仏教である禅宗摩訶衍とインド系仏教のカマラシーラに命じて、サムエー寺で“悟り”について法論を闘わせた(サムエー宗論)。その結果、敗れた摩訶衍の禅宗頓門派の教えが禁じられた。

797年、ティソン・デツェン王が逝去。その子、ムネ・ツェンポ王が即位。王は臣民に仏寺と僧侶への布施を命じ、貧富の平均化を図るが、成功しないまま在位二年足らずで逝去する。これは母妃ツェポン・サによる毒殺とされている。798年、ムネ・ツェンポ王逝去の後、その弟、ティデ・ソンツェン(別名:セナレク)が王位を継いだ。810年頃、ティデ・ソンツェン王は仏教に篤く、王妃,同盟小国の王子,大臣たちを召集し、子々孫々仏法を奉じ、今後、新たに娶る王妃には仏教信仰を誓約させることを規定した。さらに、僧侶の中からタンボという僧官を選び寺院管理を任せ、高僧をボチャンボとして大臣の上に置き、国政を司らせた。814年、ティデ・ソンツェン王は、インド,西域,漢土から仏教の高僧を招いて仏典を翻訳させ、訳語を統一し、チベット語の語句を整理し、声明学に合致すべきこと、仏教経典の意味に合致すべきこと、吐蕃人にとって理解しやすいこと、という仏典翻訳の三大原則を決めた。815年にティデ・ソンツェン王は逝去した。その子、ティツク・デツェン(別名:レルパチェン)王が王位を継いだ。

仏教を巡る対立と民衆の離反

821年、吐蕃は長安に使節を送り、唐の大臣たちと和解の盟約を行う。822年、唐の使節劉元鼎がラサに到り、吐蕃の大臣たちと盟約を行い、翌年、ラサの大昭寺の前に唐蕃会盟碑を建立した。これによって吐藩と唐の間で和解が成立する。

このころ、チベットは仏教を国境とし始め、828年、ティツク・デツェン王の命令により仏教経論をチベット語に翻訳、編纂を始めた。これらの仏教経論の目録はサムイェ、パンタン等に保存されている。これがチベット語での仏教経典の収集整理のはじまりになった。さらに、七戸の民で僧侶一人を養い、僧に不敬を働く者を厳罰に処す命令を下した。しかし、これは民衆の不満を引き起こし、840年には吐蕃の支配層に内紛が発生した。

841年、ティツク・デツェン王は大臣ウェイダナジェンらに絞殺され、その兄弟ランダルマ王が即位する。843年、ランダルマ王は仏教に反対する大臣ウェイダナジェンに扇動され廃仏令を下し、仏寺や仏像を封鎖破壊し僧に還俗を迫り、反抗する高僧を殺害、経典や文物を焼却した。これに対し仏教を信仰する人々は不満を高まらせた。

842846?)年、ランダルマ王は、変装して近づいた仏僧のラルン・ペルギ・ドルジェに胸を矢で射られて暗殺される。その後、王の子ユンテン(ユムテン)とウソン(オスン)による王位継承争いが勃発し国は南北に分裂する。これを見た唐軍はチベットに対し軍を進め安史の乱時に吐蕃が占領した河西隴右各地を唐に奪回される。851年、沙州(敦煌)で張議潮による民衆軍の反乱が起き吐蕃の駐留軍が追い出される。これによって瓜州,沙州,伊州粛州等11州が唐に復帰し、唐は張議潮を帰義軍節度使に封じた。869年、吐蕃の地方貴族と平民たちが、支配層に対する叛乱を起こす。877年には叛乱勢力がロカのヤルルン渓谷を占領、チョンギェ地方の歴代王陵は荒らされ、王家の後裔は四散し、吐蕃王朝は滅亡した。

史跡

  • チョンギェ地方には、ソンツェン・ガムポ王ら歴代吐蕃王の陵墓がのこり、この王家の最初の宮殿ユムブラカンもある。
  • ラサトゥルナン寺(大昭寺)の門前には、822年に中国との間で締結された講和条約と両国の全権代表の名をチベット文、漢文の両言語で記した唐蕃会盟碑がある。

脚注

  1. ^ a b 序章 吐藩王国のチベット統一、人民中国
  2. ^ 木語:昔、CIAの庭だった、(毎日新聞、2010年4月22日)
  3. ^ 仏教文化の需要と発展、人民中国
  4. ^ 古代の歴史、チベット亡命政府

参考文献

関連項目

今日は何の日(7月17日

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