喜びの日々

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喜びの日々(よろこびのひび)とは天理教による利他(ひのきしん)に伴う法悦(功徳、神聖、聖別の日々、さづけの日々)である。唯一の所有物として許された神聖な心で、かりものであるすべてのものを道具として使って、生きる日々のことである。

30年来の清貧(寒さ、神聖、清潔、謙虚な生活、聖を得ようとする強い意欲の土壌)を通して、本席(大工)との出会いなど、たすけあいの人間関係(集団)の土台(甘露台と用木たち)ができ、心と生きる場(陽気の元)が大調和してくると、胸の芯から真実の思案(ひながたの道)と生きる喜びが、聖なる湧水のごとく溢れてくるが、それを味あうとき、喜びの日々と説く。お筆先の知性のもと、30年来(その追体験)の到達点として、自由自在な、そして肥沃なる、利他に伴う潤いある、末代にいたる、喜びの日々(陽気の実)を得る、このような、元の神、実の神に沿った日々をおくることが深い信者には求められる。<水飲めば水の味がする>など浅い信者にはむっとするが、天理教における聖を根幹から深く理解するための、厳しい口記(泥海を水で変容させたことを示す授記すなわち古記の根幹ーーー水のさづけ)として、深い信者には納得するものであると説いている。

現代社会の清貧(貧困)に関する善良な市民による思案の土台として、鳴り物に感謝しつつ、不平をふくらませず、幸せに生きるとはどういうことかを思案する土台として、清貧と富の関係を知る(富を基盤とした聖なる清貧生活の)土台として、富者のあるべき行動規範としても、そして世俗にまみれた邪見を捨て、神聖を得る道の険しさと神人(神通力ある聖人)としてのすがすがしさ、神との一体感の心地よさを示す証人の日々として、宗教的には(だめの教えとしては)位置づけられると言えるだろう。 イスラム教(喜捨)やキリスト教(感謝ーーー聖体の秘跡、聖母マリア、典礼、ルターにおけるキリスト者の自由、聖霊派)、仏教(阿弥陀を尊ぶ龍樹)における聖(神聖)との接点でもある言葉であり、司教権、教導権のむづかしい舵取りが求められる分野を示す人類普遍の課題(典礼問題を一例とする永遠の課題)ーーーだめの本質ーーー神聖なたすけあいによる縁起(末代つづく聖なる守護因縁、相互供養の喜悦の日々)への道を示すことばでもある。

なお、喜びの日々は真柱 中山善衛氏の陽気暮らしの幸福論(書籍)の表題ともなっている。