国司就正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
国司就正
時代 江戸時代前期
生誕 天正19年(1589年
死没 寛文8年11月7日[1]1668年12月10日
別名 助太郎[1]、備後
墓所 山口県宇部市奥万倉142の天竜寺
官位 右京亮[1]備後[1]
主君 毛利輝元秀就綱元
長州藩
氏族 高階姓高氏庶流国司氏
父母 父:国司元蔵[1]、母:赤川元秀[1]
兄弟 女子(粟屋元武室)[1]就正[1]
女子(桂元忠室)[1]、左門[1]
女子(神村元忠室)[1]
児玉景唯娘[1]
就長[1]、就貞[1]、就勝[1]、就旨[1]
長蔵[1]、弁之助[1]
女子(志道就徳室)[1]、女子[1]

国司 就正(くにし なりまさ)は、江戸時代前期の長州藩

生涯[編集]

天正19年(1589年)、毛利氏家臣である国司元蔵の子として生まれる。慶長13年(1608年)に父が死去し、その後を継いだ。

寛永2年(1625年)、伊賀地から領地替えされて万倉の領主となった。同時に行われた知行改によって、家緑は2,089石から1,900石に減らされた。万倉の領主となった就正は、まず伊佐地に居館を構築し、宗吽寺(現・天竜寺)を建てて菩提寺とした。

慶安4年(1651年)に毛利秀就が死去すると、引続き毛利綱広に仕え、当役の児玉元恒、当職の児玉元征らとともに藩政を補佐した。しかし、翌年には堅田就政に当職を譲り、寛文8年(1668年)に死去した[1]。享年80[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 田村哲夫編修 1980, p. 117.

参考文献[編集]

関連項目[編集]

先代:
国司元蔵
長州藩士国司氏歴代当主
? - ?
次代: