国鉄120形蒸気機関車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
加悦鉄道2(旧鉄道院123)

120形は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道院・鉄道省に在籍した蒸気機関車である。

1874年(明治7年)、阪神間の鉄道開業に際してイギリスから輸入された蒸気機関車である。4両が輸入された。1873年(明治6年)、ロバート・スティーブンソン社(Robert Stephenson & Co.)製(製造番号2102 - 2105)である。ロバート・スティーブンソン社製の蒸気機関車は、日本では本形式と台湾総督府鉄道に納入された鉄道作業局A8クラスと同形の2両のみで、希少な存在である。

本項では、1876年(明治9年)に輸入された同仕様のシャープ・スチュアート社(Sharp, Stewart & Co. Ltd.,)製の4両(1875年製、製造番号2480 - 2483。後の130形140形)についても記述する。

構造[編集]

120形[編集]

鉄道作業局8(後の鉄道院121)

動輪直径は1,295mm(4ft3in)、車軸配置2-4-0(1B)で2気筒単式の飽和式タンク機関車である。弁装置はスティーブンソン式、安全弁はサルター式で、蒸気ドームがボイラー上に設けられている。

運転台は、前面のみに風除けが設けられており、屋根は後方にある2本の鋼管で支持され、側方、後方は開放式となっている。側水槽、炭庫などには沈み鋲を多用しており、平滑な表面が特徴的である。

1890年代の終わりごろ、新橋工場で改造が行われ、開放的だった運転室には側方、後方に風除けが設けられ、安全弁もラムズボトム式に変更された。蒸気ドームも前方に移設されている。1両(8)は、側水槽を前方に延長し、砂箱を作り替えている。

120形主要諸元[編集]

1936年度版形式図による諸元を示す。

  • 全長 : 8,179mm(1909年度版では7,702mm)
  • 全高 : 3,531mm
  • 軌間 : 1,067mm
  • 車軸配置 : 2-4-0(1B)
  • 動輪直径 : 1,346mm
  • 弁装置 : スティーブンソン式基本型
  • シリンダー(直径×行程) : 330mm×508mm
  • ボイラー圧力 : 8.0kg/cm2
  • 火格子面積 : 0.93m2
  • 全伝熱面積 : 52.9m2
    • 煙管蒸発伝熱面積 : 47.7m2
    • 火室蒸発伝熱面積 : 5.2m2
  • ボイラー水容量 : 1.6m3
  • 小煙管(直径×長サ×数) : 45mm×2,921mm×130本
  • 機関車運転整備重量 : 23.37t
  • 機関車空車重量 : 18.66t
  • 機関車動輪上重量(運転整備時) : 17.78t
  • 機関車動輪軸重(第1動輪上) : 9.14t
  • 水タンク容量 : 2.3m3
  • 燃料積載量 : 0.85t
  • 機関車性能
    • シリンダ引張力 (0.85P)  : 2,790kg
  • ブレーキ装置 : 手ブレーキ

130形・140形[編集]

鉄道作業局31(後の鉄道院130) 日本鉄道16(後の鉄道院140)
鉄道作業局31(後の鉄道院130)
日本鉄道16(後の鉄道院140)

主要寸法は、スティーブンソン製と同一であるが、通常の鋲(リベット)によって組み立てられているため、側水槽などに鋲頭が目立つのが相違点である。

2両は1882年(明治15年)に日本鉄道に譲渡されたが、官設鉄道に残った2両(後の130形)はスティーブンソン製よりもやや遅く改装が施された。日本鉄道に譲渡された2両(後の140形)は、買収まで原型に近い形態を保っていた。

運転・経歴[編集]

加悦鉄道2号蒸気機関車の銘板

1874年に来着したスティーブンソン製の4両は、西部地区(神戸)に配属された。当初はシャープ・スチュアート製テンダー機関車(後の5000形)の続番である「13 - 16」と付番されたと思われるが、それを証明する資料は未発見である。

1875年には、シャープ・スチュアート製の増備車4両が来着し、「24 - 27」と付番されたと思われる。

1876年(明治9年)には、東部(京浜間)の機関車を奇数に、西部(阪神間)の機関車を偶数とする改番が実施され、13 - 16は「6, 8, 10, 12」に、24 - 27は「34, 36, 38, 40」に改められた。

シャープ・スチュアート製の2両(36, 40)は、前述のように1882年に日本鉄道に譲渡され、同社のSS2/3形16, 17)となった。官設鉄道に残った34, 38は、そのまま西部地区で使用されていたが、後(1890年頃?)に東部地区に転属。スティーブンソン製の4両についても、1884年から1885年にかけて東部地区に転属し、京浜間で使用された。

1894年(明治27年)には、スティーブンソン製の4両はF形に、シャープ・スチュアート製はG形に類別された。その際、シャープ・スチュアート製は、34は31に、38は32に改番されている。

1898年(明治31年)の鉄道作業局による分類では、両形式を統合してA4形となっている。

1906年(明治39年)に制定された鉄道国有法により、日本鉄道は買収・国有化され、同社に分かれていた2両は、再び官設鉄道に戻った。この買収を受けて1909年(明治42年)に制定された鉄道院の形式称号規程では、スティーブンソン製の4両は120形120 - 123)に、シャープ・スチュアート製のうち官設鉄道にとどまっていた2両は130形130, 131)に、日本鉄道から戻った2両は140形140, 141)に改められている。

その後、数年のうちに本グループは淘汰の対象となり、1912年(明治45年)から1915年(大正4年)にかけて、地方私鉄などに譲渡された。譲渡後も私鉄の間を転々としたものが多く、中にはその私鉄の国有化によって、再度あるいは三度も国有鉄道に籍を移したものがある。移籍の状況については、次のとおりである。

120と122は、1914年(大正3年)5月に三河鉄道(現在の名古屋鉄道三河線)に払下げられ、鉄道院時代の番号のまま使用された。1925年(大正14年)に同鉄道の電化により休車となり、1934年(昭和9年)ごろ解体された。

121と123は、1915年3月に簸上鉄道(現在のJR西日本木次線の一部)に払下げられ、同社の1, 2となった。

そのうちの2は、1926年(大正15年)に加悦鉄道に譲渡されたが、1は1934年(昭和9年)8月の簸上鉄道国有化により、再び国有鉄道(鉄道省)籍に戻り、帳簿上は旧番の121に復したが、翌1935年(昭和10年)には、南総鉄道に再び譲渡され、同社の1となった。しかし、南総鉄道は1939年(昭和14年)に廃止され、その後の消息は不明になっている。

130と140は、1913年(大正2年)に宮崎県営鉄道(現在のJR九州日豊本線及び妻線の一部)に払下げられ、鉄道院時代の番号のまま使用された。1917年(大正6年)9月に宮崎県営鉄道は国有化され、両機は再び国有鉄道籍に戻った。

130は、1919年(大正8年)に防石鉄道に譲渡され、旧番号のまま使用された。同機は1940年(昭和15年)に台湾に売却されたが、その後の消息は不明である。

一方140は、1922年(大正11年)に阿南鉄道(現在のJR四国牟岐線の一部)に譲渡され、旧番号のまま使用された。阿南鉄道も1936年(昭和11年)7月に国有化され、同機は三度国有鉄道籍に戻った。再々買収後の1940年に越中鉄道(後の富山地方鉄道射水線及び現在の万葉線新湊港線[1]に譲渡された。1942年(昭和17年)に東北本線村崎野にあった国際軽銀(東北化学肥料)専用線に売却され、1952年(昭和27年)に解体された[2]

131と141については、1912年3月に内務省土木局に保管転換され、直轄河川の工事用に使用されたが、詳細は不明である。

保存[編集]

加悦鉄道に譲渡された1両(2号蒸気機関車。旧123号)が、京都府与謝郡与謝野町の「加悦SL広場」に静態保存されている。同機は、2005年(平成17年)6月9日、その機関車台帳とともに国の重要文化財に指定された。なお上回り(ボイラー)は製番2105であるが下回りは製番2103のものでありどこかで入れ替わったらしい[3]

脚注[編集]

  1. ^ 越中鉄道は電気鉄道であり蒸気機関車は所有していなかったが1940年新湊駅より伏木港石炭壁間の臨港線計画が免許されることになり140が払い下げられることになったという『古典ロコ 』No7、30頁(復刻アテネ書房)
  2. ^ 瀬古龍雄「東北の古典ロコたち」『鉄道ピクトリアル』No.100
  3. ^ 増田康而「加悦鉄道2号」『RAILFAN』No.182、10-11頁

参考文献[編集]

  • 臼井茂信「日本蒸気機関車形式図集成」1969年、誠文堂新光社
  • 臼井茂信「機関車の系譜図 1」1972年、交友社
  • 金田茂裕「日本最初の機関車群」1990年、機関車史研究会刊
  • 金田茂裕「日本蒸気機関車史 官設鉄道編」1972年、交友社刊
  • 川上幸義「私の蒸気機関車史 上」1978年、交友社刊
  • 高田隆雄監修「万有ガイドシリーズ12 蒸気機関車 日本編」1981年、小学館