国鉄60系客車

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オハユニ61 107(碓氷峠鉄道文化むらに保存)
オハフ61 182(1985年)
オハフ61 791(1984年)

国鉄60系客車(こくてつ60けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が1949年(昭和24年)から木造客車を改造して鋼製客車とした客車の形式群である。このグループを総称する形で鋼体化改造車(こうたいかかいぞうしゃ)とも呼ばれる。

製造の背景[編集]

太平洋戦争後の1947年昭和22年)2月25日八高線東飯能 - 高麗川間で客車列車が脱線転覆し、184人が死亡する事故が発生した(詳しくは八高線列車脱線転覆事故を参照)。この事故は現代に至るまで、日本の鉄道史上における死者数第2位の大事故として記録されている。事故列車は木造客車で編成されており、構造脆弱な木造車体が転覆によって大破したことが、死者数を増大させたと考えられた。

鉄道省(国鉄の前身)が新規製造の客車を鋼製客車に切り替えたのは1927年(昭和2年)であり、八高線事故時点では既に20年以上が経過していた。しかし、この時点でもまだ国鉄保有客車数10,800両の約6割が木造客車[注 1]であり、ローカル線普通列車では木造客車が当たり前、それも古い雑形客車[注 2]さえ珍しくない状況であった[注 3]

これらの木造客車の多くは明治時代末期から大正時代末期にかけて製造されたもので、製造後最低でも20年から40年程度が経過し、全体に老朽化が進行していた。また、戦時中・戦後の酷使や資材難によって内外の荒廃は進み、木造客車の根本的な整備には鋼製客車と比較して莫大な費用がかかると試算された。そして、八高線での事故を契機として早期に木造客車を全廃し、鋼製客車に置き換えることが強く望まれるようになった。

だが当時は戦後の混乱期インフレーションが進行しており、短期間のうちに鋼製客車を大量に新製して木造客車を全て取り替えることはコスト的に困難とされた。また当時の鉄道運営を管轄していた進駐軍は、車両新造許可には消極的で、度重なる車両増備の要望にも容易に応じなかった。

これらの課題の対策として、木造車の改造名目で安価に鋼製客車を製造する「鋼体化」と呼ばれる手法が取り上げられた。木造客車を構成する部材のうち、もともと鋼鉄製で流用の効く部材の台枠台車連結器などを再利用し、鋼製の車体のみを新製するものである。

国鉄では戦前の鉄道省時代に同様な手法で、車体の老朽化した木造電車を鋼製車体に改造する工事を大量に行った実績[注 4]があり、また少数ではあったが木造客車の鋼製化工事の施工例もあった[注 5]。木造電車は客車よりもドア数(開口部)が多く車体強度が劣り、加減速も頻繁で老朽化が早かったのが、戦前からの早期改造着手の原因である。

戦前の木造電車改造は「鋼製化改造」と呼ばれたが、戦後の木造客車改造についてはそれと区別する目的で「鋼体化改造」と呼ばれた[注 6]。その内容は1949年度から1954年度までの6年間で、約3,300両の木造ボギー客車を鋼製車体に改造するという、日本の鉄道史上例のない規模の壮大な計画であった[注 7]。これにより、安全性の向上、老朽車置き換えと補修費用の節減、総合的な輸送力の増強を同時に実現しようとしたのである。

木造車鋼体化計画の許可を得るため、国鉄では進駐軍で国鉄の運営を管轄していたCTS(Civil Transportation Section=民間輸送局)の担当者をラッシュアワー総武本線両国駅に案内し、窓や羽目板の破損した老朽木造車に、すし詰めとなった乗客が窓から乗降している危険な現状を実見させた[注 8][注 9]。更に、過去の事故における木造車と鋼製車の被災状況記録なども比較提示し、木造車の老朽化対策が喫緊の課題であることを懸命にアピールしたという。この結果、国鉄は1949年(昭和24年)から鋼体化改造に着手できることになった[注 10]

鋼体化改造の場合、客車の製造費用を従来の半分程度[注 11]に抑えることができるとともに、安全対策を主眼とした既存車両改造名目のため、車両新造に関わる制約を受けずに済んだ。

これらの鋼体化客車は他の制式鋼製客車などとの区別のために60番台の形式を付されており、このことから後年になって便宜上、60系客車と呼ばれるようになった。

構造上の特徴[編集]

オハユニ61の客室端座席。窓の日除けは鎧戸、客室端部肘掛けは通路幅確保の都合で省略、各座席に背ずりクッションは無く、端部ではニス塗りの壁板をそのまま背ずりとする徹底窮乏仕様。座席間ピッチも通常型客車より狭い。壁面に便所使用知らせ灯が付いているが、この壁面の先に便所と洗面所、更に郵便室が続いている

普通列車用木造車の置き換えが主目的であることから、そのほとんどは三等車もしくは荷物車・合造車として製造された[注 12]

台枠[編集]

最大の流用部材である台枠には、1919年(大正8年)から1927年にかけて製造された2,800 mm幅の広幅車体を備える「鉄道省大形客車」[注 13]のUF12・15などが、主に再利用されている[注 14]

これらの木造2軸ボギー客車は車体長が17 mであったが、1929年(昭和4年)以降国鉄客車の車体長は20 m級が標準となっていたことから、鋼体化改造車も20 mの車体長とする必要があった。そこで補充車と称して、1910年(明治43年)から1919年(大正8年)ごろにかけて製造された2,500 - 2,600 mm幅の車体を備える「鉄道院基本形客車[注 15]の木造車体を解体し、残った幅狭台枠(UF11など)を4等分に切断、台枠延長用部材に加工した。こうして得られた部材を、前述の「大形客車」4両の台枠[注 16]の切断面にそれぞれ挿入して継ぎ足した。更に車端部は鋼製客車並みの構造に改装、台車心皿位置を木造2軸ボギー車よりも若干車体中央寄りに変更してオーバーハングを拡大し[注 17]、鋼製車用の20 m級台枠[注 18]に延長改造したのである。台枠の幅こそ新旧で差はあったが、主たる部材の溝形鋼材(チャンネル材)は中形客車・大形客車とも8インチ級の同一断面で互換性があったため、挿入部材への流用が可能となった[注 19]

この結果、17m級の大形客車4両と基本形客車1両の計5両から、20m級の鋼体化改造車4両ができることになった。実際に鋼体化客車の床下から台枠を観察すると、延長改造時の切断・接合の痕跡[注 20]を確認できる。

しかし、書類上はともかく実際には種車に関わる事情は複雑で、極力輸送力に影響を与えないように工事を進める必要があった。そのため、車種を問わず状態不良で休車となっている車両から優先的に工事を実施した結果、実際の種車と車籍が一致しないケースが少なからず生じた[注 21][注 22]。また、17 m級大形客車用台枠に長形台枠 (UF12) と魚腹形台枠 (UF15またはUF16) の両方が混在していた[注 23][注 24]ことや、工事を担当した各国鉄工が用いた工法の相違などから、台枠は同一形式であっても同一形状であるとは限らなかった[注 25][注 26]。更に一部では、もともと20 m級のサイズがあった28400系木造3軸ボギー客車(大形3AB車:優等列車用)などの台枠(UF41・42など)を改造して流用したケースも見られた。

木造車の台枠はねじ式連結器が標準の時代[注 27]に製造されたものがほとんどであるため、鋼体化の後も、台枠端部にはねじ式連結器時代のバッファー取り付け穴の痕跡が残っていた[注 28]

その他の流用部品[編集]

TR13形台車。TR11形に準ずる基本構造を持つが、荷物車用のため、大荷重に備え強化されている
オハユニ61の客室網棚。棚受は木造車の流用品らしい
オハユニ61の座席脚台。これまた木造車の流用品と見られる。座席の背もたれはモケットもクッションもない板張り

木造車からは台枠だけではなく、TR11形台車[注 29]や自動連結器[注 30]自動空気ブレーキ機器[注 31]などの主要機器もオーバーホール・調整のうえ再利用された。

暖房すらなかった70系戦災復旧客車とは異なり、まともな旅客サービスが可能なよう蒸気暖房装置が装備されたが、これも鋼製車で標準の低圧式でなく、種車の木造車から配管を流用した旧式な高圧式で、これは特別二等車のスロ60形も同様であった。鋼体化初年度は、暖房管の長さも17 m木造車時代そのままで、20 m化された結果、車端部には暖房がないという体たらくであったが、さすがに1950(昭和25)年度以降は車体全長に延長された[注 32]

更には、取り壊される車体部分からも、座席の土台となる金属製の枠や、荷棚の金具など、再利用可能な部品が極力流用された[注 33]

最低限の接客設備[編集]

専ら普通列車での運用が前提であったことから、接客設備等は木造車並みの部分も多く、安全対策のために車体構体を鋼製に改造しただけで、同時期の完全新製車(スハ43など)と比べると、乗り心地や居住性の面では劣った。

車内はベニヤ板内装ニス塗り及びペンキ塗り[注 34]、窓の日よけは既に客車・電車用として巻き上げカーテン(ロールスクリーン)が出現していた時代にもかかわらず、二重窓となる北海道向け車以外では旧式な木製の鎧戸が用いられた[注 35]。しかも戦前形の車両のような2段分割鎧戸でなく、1段式、明り取りの隙間を最下部に残す構造として、工数を軽減していた[注 36]。なお、初期のオハ60・オハフ60は木造車並みの狭幅窓(700 mm)であった[注 37]が、木造客車は落とし込み式の下降窓であるのに対し、鋼製客車は上昇式の窓構造であり、一部の私鉄鋼体化電車に見られた窓ガラス・窓枠に至るまでの再利用[注 38]はなされていない。

臨時急行「いよ52号」機関車次位にオハフ61が入った編成(1985年)。標準客車に比べ客室側窓が1ボックス分多いことで鋼体化客車と識別できる

座席は木造車並みの木製背ずりで、スハ32形以降の20 m 級制式三等客車が定員88人であるのに対し、鋼体化車では快適性・居住性よりも輸送力を重視したため、木造車並みの狭いピッチ (1,335 mm 間隔)[注 39] とされ、ボックスが左右1組ずつ増えて定員96人(緩急車では制式定員80人のところ88人)となった。当初は専らローカル線の短距離運用向けと想定されていたため、極限まで定員を増やす目的で洗面所を省いて便所のみ設置とすることも考えられていたが(それだけでも4人定員が増える)、車体の新しい車両は長距離運用にも充当したいという意見もあって、洗面所スペースが一般客車同様に設置された[注 40]

また、鋼体化改造車の標準台車として用いられたTR11は、明治時代に鉄道作業局で設計された台車に由来する旧式の釣り合い梁(イコライザー)式台車であり、軽量な17 m 級木造車での使用を前提とする設計[注 41]であった。それゆえ、大形化された20 m 級鋼製車体とのマッチングが悪く、高速走行時の動揺が酷かった[注 42][注 43]

しかし1960年代までは、客車そのものが極端に不足していた当時の事情から、結局、本来オハ35系またはスハ43系を充当すべき急行列車にも、これらの代わりに60系が連結されているケースも少なくなく、遜色急行等と揶揄された。特に、予備車や普通列車用車両まで動員せねばならなかった臨時急行列車や団体専用列車には、このような例が頻々と見られた[注 44][注 45]

優等列車向け車両[編集]

オハニ63に関しては、製造当初から急行列車特別急行列車に使用することを考慮されていたため、当時標準の急行列車用新製車であるスハ43系に合わせた客室構造になっていた。背ずりはモケット張りで頭もたれを備え、座席間隔も標準サイズのゆとりが確保された。[注 46]

さらに、リクライニングシート装備の特別二等車2系列(スロ50、スロ60)も鋼体化名義で製造されているが、これらは実質台枠のみ木造車流用で、台車は乗り心地の良い、鋳鋼製で軸バネをウィングバネとした新設計のもの (TR40・47) を新造している。スロ60形は資材手当の関係上鋼体化客車となった他、スロ61→スロ50形は新製車の予算で作られた経緯がある。

製造とその過程[編集]

1949年(昭和24年)から1956年(昭和31年)の間に、全国の国鉄工場および主要な民間車両メーカーのほとんど、さらに戦後、鉄道車輛業界に新規参入したメーカーまで、文字通り総動員して製作された。関与した工場・メーカーは以下のごとく膨大である。

同時に鋼製客車の新製も進められ、台枠流用の対象から外れた基本・中形客車の約半数[注 47]と、雑形客車[注 48]の淘汰による不足分を補った。1949年(昭和24年)に登場したオハ60系は小さな窓が並ぶタイプ(2ボックスに対し700 mm幅の窓が3枚)であったが、翌1950年(昭和25年)からはオハ35系と同様、窓を1ボックス毎の大窓(1,000 mm幅)としたオハ61系に移行した。さらにこれの側窓を2重窓化した北海道向けのオハ62系も製造された。

このグループは年度ごとの設計変更が少なく、形態の変化があまりない。それまでの客車と比較して外観上のバラエティーには乏しいが,たとえば苗穂工場施工車の妻構に補強用のリブが取り付けられるなど、各担当メーカー・工場ごとに細部に相違が存在した。

当時、木造車鋼体化に重点が置かれたことで、鋼体化優先順位を後回しにされた木造客車の老朽は一時、より一層深刻化した。1951年(昭和26年)5月には総武本線四街道駅にて、木造客車の側溝が乗車率300 %に及ぶ乗客の圧力で外側に脹れ出して破損、運転不能となる、現在ではあり得ない事故まで発生している[注 49]。このため、国鉄では使用に耐えられない木造客車を緊急廃車にした[注 50]が、影響で木造合造車の多かった郵便車が不足し、穴埋めにオハユニ61形が大増備されるという一幕もあった。

戦後に残存していた木造車の多くは三等座席車、荷物車、ないしそれらの合造車であった。だが木造の荷物車・合造車には鉄道院基本型客車を格下げ改造した個体も多く含まれ、鋼体化種車にできないものが多かったこと、魚腹台枠車の鋼体化方針が17mのままか20m延長か決まらず、20m延長での工事着手が1953年以降にずれ込んだことなどで、工事当初の改造種車は大型木造客車の三等座席車に集中した。結果、普通列車用の旅客車が不足、また老朽のひどい木造車の早期廃車を強いられたことで荷物・郵便等の合造車も不足し、一方で純新車の増備は進駐軍側の厳しい監督と国鉄の予算不足で自由にならなかった。最も需要の大きい三等車・荷物車が恒常的に払底し、鋼体化事業取り組みの期間、国鉄全体の深刻な輸送力不足の原因となった。国鉄の三等客車(ハ、ハフ)は1948年度に8,269両あったが、鋼体化着手の1949年度には7,914両、1950年度7,631両、1951年度7,437両[1]と目に見えて減少しており、使用に耐えない老朽車の廃車進行、年々の旅客・荷物輸送需要増大に、鋼体化改造と新車増備とが追いついていなかったことがわかる[注 51]

鋼体化改装進行途上の1952年(昭和27年)6月の部内会議では、国鉄車両局から鋼体化客車の内装・材質について、安全に支障のない範囲での工数削減や仕上げ簡易化、実用に支障ない範囲でのメーカー手持ち部品の使用、材質のランクダウン許容(標準より軟質のラワン材の部分使用を認める)などの仕様変更が提示されている。これは、コスト問題などで木造車鋼体化が計画より遅れ、客車需給が窮迫していた当時の輸送状況や、既に鋼体化工事に参加していた民間メーカー以外にも新規参入するメーカーが生じたことが背景にあった[注 52][2]。このあたりにも、多少仕上がりのを落としても、鋼体化全体の促進を優先し、鋼体化改造を急がせた当時の事情がうかがわれよう。

国鉄の客車鋼体化改造は、これらの紆余曲折を経て、1955年度(1956年)までに計画を若干超過しながらも完了、国鉄では営業運行に使用される木造車全廃を達成した。ただしその後も、救援車など旅客用途以外の事業用車については、1965年ごろまで少なからず木造客車が残っており、電車では伊那電気鉄道買収車改造の木造付随救援車・サエ9320が1979年まで残存した。

なお、1,067mm軌間の私鉄については1970年代前半まで加悦鉄道大分交通など一部の事業者で木造車が営業運転に使用されており、762mm軌間の尾小屋鉄道では外板に鋼板を打ち付けてあったが、木造車が1977年(昭和52年)の廃線まで現役で使用されていた。1,067mm軌間の別府鉄道土山線では1984年の廃止時点まで、木造2軸客車のハフ7(元神中鉄道ハフ20形)を営業運行に使用、名古屋鉄道では木造ボギー電車モ520形に外板鋼板打ち付け工事を施しつつ、1988年まで営業運行に供用していた。保存用を除くとこれらが日本における木造車による旅客営業の最後となる。

各形式車号の新旧対照および改造所については国鉄60系客車の新旧番号対照を参照のこと。

系列[編集]

狭窓形三等車(オハ60系)[編集]

鋼体化改造が始まった初期に改造されたグループ。窓幅は700 mmで、座席2区画で窓が3枚という、木造車時代の窓割を継承[注 53]している。 鋼体化改造が安全対策のための工事であることを強調し、進駐軍から改造の許可を得やすくするために、あえて木造車時代の古い様式で設計されたという。

オハ60形[編集]

  • 0番台 (1 - 390)
    1949年(昭和24年)から1950年(昭和25年)の間に390両が製作された、定員96名の狭窓タイプの三等車。車体側面の雨どいが省略され、出入台上の屋根に簡易な水切りが設けられた。後に、109両が座席をセミクロスシートとしたオハ60形1000番台に改造されている。座席をオールロングシートに改造された15両は、オハ63形となった。
> 番号新旧対照
  • 1000番台 (1001 - 1109)
    オハ60形のセミクロスシート化改造車で、1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)の間に109両が製作された。洗面所と出入台付近の座席8ボックス分(前後4ボックスずつ)が撤去され、この部分にロングシートが設置された。この改造により、定員が120名(立席を含む)となった。
> 番号新旧対照

オハフ60形[編集]

1950年(昭和25年)より70両が改造された、定員88名の北海道向け狭窓タイプの三等緩急車。雨どいは装備されている。この車両が登場した当時は、既に本州向けとして1 m窓のオハフ61形の改造が開始されていたが、当時は1 m窓の二重窓化が技術的に難しかったため、狭窓として落成した。1974年(昭和49年)には1両が新幹線雪害対策試験車(オヤ90形)に改造されている。

> 番号新旧対照

本州以南向け広窓形三等車(オハ61系)[編集]

このグループ以降から窓幅が1mとなり、近代的な外観となった。便所もスハ43系と同様にタイルでシーリングされた汽車便所スタイルとなり、水タンクも増量(700リットルのものを床下に1個装備に変更)され、長距離運用を可能にした。

オハ61形[編集]

オハ61 2717 会津若松駅(1981年)
  • 0番台 (1 - 1052)
    1951年より1,052両が改造された定員96名の三等車。後に、114両がオロ61形、オロフ61形に改造されたほか、92両が座席をセミクロスシートとしてオハ61形1500番台に、緩急車化した71両はオハフ61形1000番台になり、5両がオハ64形となった。
> 番号新旧対照
  • 1500番台 (1501 - 1592)
    0番台車に、オハ60形1000番台と同様の改造を施したセミクロスシート車で、1965年から1968年(昭和43年)の間に92両が改造された
> 番号新旧対照

オハフ61形[編集]

オハフ61 2751 会津若松駅(1981年)車端にある車掌室の側から見る
  • 0番台 (1 - 795)
    1950年より795両が改造された定員88名の三等緩急車。初めて車掌室を車端に移し、客室との間に出入り台を設けた。この構造は、スハフ42形など以降の緩急車にも継承された。また、客車としては初めて尾灯が妻板に埋め込み式で取付けられた[注 54]。後に、21両が座席をセミクロスシートとしてオハフ61形1500番台に、2両がオハフ64形になった。1965年には、北海道内で運用されていたオハフ61形 (370 - 379) に2重窓化などの改造を施し、オハフ62形 (31 - 40) に編入した。
> 番号新旧対照
  • 1000番台 (1001 - 1071)
オハフ61 3044(1981年)車掌室がデッキの内側
  • オハ61形に緩急車化改造を施し、オハフ61形に編入したもの。1965年から1966年(昭和41年)の間に71両が改造された。定員は0番台車と変わらないが、車掌室が乗降デッキの内側に設置されているため、外観は0番台車と異なる。のちに、2両が1500番台に改造された。
> 番号新旧対照
  • 1500番台 (1501 - 1523)
    0番台車と1000番台車に、セミクロスシート化改造を施したもので、1965年から1968年の間に23両が改造された。種車の内訳として、0番台車を改造したものが21両(1501 - 1519・1522・1523)、1000番台車を改造したものが2両(1520・1521)となっている。改造法は、他のセミクロスシート改造車と変わらないが、車掌室があるため、定員は112名となっている。
> 番号新旧対照

この他、木造二等車の代替用として「オロハ61形」も計画されていたが、戦時中に三軸ボギー優等寝台車を三等客車に格下げ改造したマハ47形を元に、二・三等合造客車のスロハ38形に再改造する方が改造費用が安いために増備策として選択され、鋼体化改造車としての実際の増備には至らなかった(普通列車向けが主の並ロと呼ばれる客車二等車→一等車は、やがて1960年代前期には需要自体が減退して廃車されたので、元の車齢の高かったスロハ38等で場つなぎ→廃車という流れを取ったことは結果として妥当であった)。

北海道向け広窓形三等車(オハ62系)[編集]

オハ61系の北海道向けとして鋼体化改造されたグループ。窓幅は1mで、2重窓と巻き上げ式カーテンを装備している。床下の蓄電池も大型化され、歯車式車軸発電機を装備している。北海道や東北北部で使用された。後天的な改造であるが、一部の車両には、混合列車での使用のためにダルマストーブや独立暖房装置(温気暖房機)が取り付けられていた。

オハ62形[編集]

1951年より130両が改造された北海道向け三等車。後に6両がキハ40(初代)やキサハ45に改造され、1974年には1両が新幹線雪害対策試験車(オヤ90形)に改造されている。

> 番号新旧対照

オハフ62形[編集]

1954年より30両が改造された北海道向け三等緩急車。後に5両がキハ45(初代)に改造された。オハフ61形 (370 - 379) から編入されグループ (31 - 40) は蓄電池箱が在来のオハフ62形よりも小さい。

> 番号新旧対照

通勤形改造車[編集]

オハ63形[編集]

通勤用として、オハ60形の座席を全てロングシートに改造し、吊革を設置したものである。デッキとの仕切り壁は存置され、客室側に灰皿(計4箇所)を備える。仕切扉(通路幅)も拡大されていない。1963年より15両が製作された。一部の車輌は、座席が車端まで設置されていないのが確認されている。

オハ64系[編集]

オハ64ホーム側
オハ64車内

従来使用されていたオハ30・オハフ31形(それぞれ2代目)の老朽化置き換え用として、1969年和田岬線専用車としてオハ61系を後藤工場で改造した車両である。

オハ61形を改造したオハ64形が5両、緩急車のオハフ61形を改造したオハフ64形が2両あった。和田岬線は通勤時間帯の混雑が著しく乗車時間が短いことから便洗面所、全座席が撤去され、申し訳程度のロングシート(座席定員15名)と吊り革が設けられた。ロングシート真上の部分以外は網棚も撤去している。定員はオハ64形が120名、オハフ64形が111名。和田岬線は兵庫駅和田岬駅ともに同一方向にホームがあるため、後年になってからこのホーム側の側面のみ、車体中央部に外吊り式の手動乗降扉が新設された。台車は木造車から流用したTR11を取り外し、他形式からの廃車発生品であるTR23に取り替えた[注 55]。短距離運転のため車軸駆動発電機では十分な電力が得られず、蓄電池を増強している。

イベント用・保存用以外の旧型客車としては唯一JRグループに承継されており、国鉄 (JR) 最後の一般営業用旧型客車として知られたが、1990年キハ35・キクハ35形300番台に置き換えられ廃車となった。形式としては、以下のものがある。

優等車(グリーン車)[編集]

当初から優等車として製造されたスロ60形・スロ50形と、後年オハ61から改造されたもの、および和式客車がある。

スロ60形[編集]

1950年度に、鋼体化改造により大井工場と大宮工場にて計30両が製作された特別二等車。日本の二等車として、初めて自在腰掛 (リクライニングシート)[注 56]が採用され、特別二等車の初形式となった。室内は、列車の進行方向に合わせて回転できる2人掛けのリクライニングシートが22脚設置(定員44名)され、客室窓は1,000mm幅の広窓になっている。便所は洋式のものが前後に1箇所ずつ設置され、水タンクも増量(床下に700リットルのものを2個設置)された[注 57]。台車は乗り心地を改善した鋳鋼枠ウイングバネ式台車のTR40を装着している。計画の段階では特別二等車という等級の設定は考慮されておらず、一等車として落成する予定であったため、床下への冷房装置搭載スペース確保や冷風ダクト設置などの冷房取付準備工事が施されていた[注 58]。後に、6両 (13 - 18) が荷物保管室を車掌室に改造する工事を施工され、100番台(113 - 118、元番号+100)となった。

冷房化工事の対象外になったため、荷物車への改造あるいは廃車により淘汰され、スロ50形共々、グリーン車になった車両は存在しない。

> 番号新旧対照

スロ61形→スロ50形[編集]

1950年度に、鋼体化改造により大宮工場にて10両が製作された特別二等車。当初は完全新製車として計画されたが、価格面でメーカーと折り合わず、国鉄工場製の鋼体化改造車として製作された。そのためスロ61形として出場したが、新製車の予算で鋼体化改造が施行されたため、予算処理上の都合で、すぐにスロ50形に改形式され、鋼体化改造の銘板も新製の銘板に取り換えられた。基本的な構造はスロ60形と変わらないが、座席のピッチが狭くなり、定員が48名となった。これにより窓割りも変更され、700ミリ幅の狭窓が並ぶ形態となった。便所は前後2ヶ所にあるが、和式に変更されている。この設計は、のちに新製されたスロ51形・スロ52形に踏襲された。スロ60形、スロ50形ともに、一等車(二等級制時の)の冷房改造工事の対象から外されたため、大部分の車両が後述の荷物車(マニ36形、マニ37形)に改造された。

> 番号新旧対照

オロ61形→スロ62形・オロフ61形→スロフ62形[編集]

スロ62 2052
スロ62 2056

急行・準急列車に連結されていた、リクライニングシートを装備しない旧形二等車[注 59]をリクライニングシート車に置き換えるため、1959年から1962年にかけてオハ61形を改造し、特別二等車としたもの。増備中、1960年に等級制が3段階から2段階となったため、一等車となる。

設備的には当時の客車特別二等車では最新だったが、同じ鋼体化改造車でも、初めから特別二等車として登場したスロ60・50形とは異なって純然たる改造車であることが災いして格下扱いされ、いわゆる「特ロ」の範疇からははずされることが多い。

既存の便所・洗面所側とは逆側の車端デッキが潰されて便所が増設されている。室内は、内張りがベニヤから樹脂化粧版に張り替えられ、蛍光灯が装備された。座席はリクライニングシート11列・44席に変更されている。改造車のため、窓割(1,335mm)と座席間隔(1,270mm)は一致していないが、室内前後長の余剰から、標準寸法の1,160mmより110mmも大きな座席間隔となっている[注 60]。一方、断熱は不十分だった模様で、冬期の保温性が悪い傾向があったという。

台車は、改造時に乗り心地改善のため、10系客車同様のTR52A形[注 61]に振り替えられている。

重い〝ス〟級車が主流であった一等車の中では、特に台車の軽さもあって自重が比較的軽く、電気暖房を取り付けても〝オ〟級に収まった。このため、碓氷峠越えの区間を抱え重量制限の厳しい信越線系統をはじめ、勾配区間の運行が多い上野発着の客車急行列車は本形式の独擅場であった[注 62][注 63]

  • オロ61形
    オハ61形から改造されたもので、電気暖房付きの2000番台車が96両、電気暖房無しの100番台車が15両改造された。一部は、オロフ61形に改造された。
> 番号新旧対照
  • オロフ61形
    オロ61形の緩急車形で、オハ61形を改造したものと、オロ61形を緩急車化(乗務員室に手ブレーキを取り付け)したものがある。
> 番号新旧対照
  • スロ62・スロフ62形
    オロ61・オロフ61形を冷房改造したもので、低屋根化した上で屋根上に冷房装置を5基搭載し、床下にディーゼル発電機が装備された。これらの改造による重量増のため、別形式となった[注 64]
    改造を担当した工場により、雨樋の設置高さが高低2種類が存在する。(後述のお座敷客車に改造された際、同一編成中に雨樋高さが異なる車両が混在する編成も存在した)
    一部のスロ62形は、北海道向け改造を施され、500番台 (501 - 506) となった。
    スロフ62形の中には、スロ62形から改造されたものもある。
> スロ62形番号新旧対照
> スロフ62形番号新旧対照

オハフ80形→オロフ80形[編集]

国鉄初の団体用和式客車スハ88形(1960年に3軸ボギー式客車を改造)に続いて、1961年にオハ61から改造された和式客車。1両が製作され、主として定期旅客列車に団体用として増結する形で運用された。改造当初は普通車扱いだったが、1972年にグリーン車に改形式された。1975年3月に廃車となった。なおオハフ80形にはこれ以外に35系客車からの改造車もある。

> オハフ80形番号新旧対照
> オロフ80形番号新旧対照

スロ81形・スロフ81形[編集]

スロフ81形(川中島駅)

スロ62・スロフ62形を1972年(昭和47年)から改造して製作された和式客車。それ以前の和式客車が冷房無しで居住性が不十分だったことから、冷房搭載車のスロ62グループをベースに、和式客車のみで組成された(半)固定編成を組む前提で改造された[注 65]。1970年代は急行列車の特急格上げが進み、客車グリーン車が余剰化しつつあった時期で、スロ62グループがまとまった種車とされた形である。車端部の洗面所と洋式便所を撤去して物置に改造し、デッキ横の洗面所と和式便所は残された。固定編成運用されたが、冷房電源エンジンは各車個別搭載、暖房は旧型客車の基本方式である蒸気暖房および電気暖房で、和式客車改造以前と変わらない(改造種車となったスロ62・スロフ62は全車電気暖房併設改造済みの2000番台車)。1983年8月には東京南鉄道管理局品川客車区(現・東京総合車両センター田町センター)配置の和式客車が臨時列車「お座敷踊り子」として運転されたが、これは旧型客車による特急運用の最後の例となった。

大半の車両が国鉄時代に廃車となっている。東京南鉄道管理局所属の6両は1986年に12系改造の「江戸」に置き換えられて水戸客車区(→水戸運転所)に転属し「ふれあい」の愛称を付けられた。この6両は国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継され水戸支社に所属したが、1990年7月に廃車となった。

> スロ81形番号新旧対照
> スロフ81形番号新旧対照

座席郵便荷物合造車[編集]

当初の計画では17m級のままでの鋼体化が計画されたが、結局全形式とも20m級として改造工事が実施された。

  • オハユ61形
    3等座席郵便合造車で、1955年に11両が鋼体化改造により製造された。
    オエ61形に改造された1両を除き、1967年 - 1973年の間に全廃された。 
> 番号新旧対照
  • オハユニ61形
    3等座席郵便荷物合造車で、1952年から1956年までの間に130両が鋼体化改造により製造された。大量に製造された理由としては、当時国鉄では使用に耐えられない木造車を緊急廃車にした[注 66]際、郵便車が不足したため[注 67]である。
    客室デッキ側から見ると、3等座席・郵便室・荷物室の順で3室が配置されている。
    106以降は、郵便室と荷物室の位置が逆転している。
    1960年代から荷物車などへの改造や廃車で減少し、1984年には2両を残すのみになり、最後まで残った106・107の2両は五能線用[注 68]での使用を最後に1987年に除籍されたが、107は高崎での長期留置を経て、碓氷峠鉄道文化むらで静態保存されている。  
    また、2両が1970年に「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーン列車「ポンパ号」用に改造され、全国を巡回した。
> 番号新旧対照
  • スハユニ62形
    オハユニ61の北海道向け車。1952年に20両が鋼体化改造により製造された。構造は、オハユニ61形の前期形(1 - 105)と同じである。
    大部分がマニ60形に改造され、スハユニのままで最後まで残されたのは6両のみである。最後の1両となったスハユニ62 10は当初は苗穂区に配置されたが、最終期には都城区に転属され[注 69]、1984年に廃車された。
> 番号新旧対照
  • オハユニ63形
    3等座席郵便荷物合造車で、オハユニ61形と異なり、郵便室・荷物室が共用構造となっている。1954年に40両が鋼体化改造により製作されたが、1960年から1962年にかけて全車マニ60形に改造された。
> 番号新旧対照
  • オハユニ64形
    オハユニ63の北海道向け車で、1954年に10両が鋼体化改造により製造されたが、1962年・1963年に全車マニ60形(電気暖房付2000番台)に改造され、本州各地に転属した。
> 番号新旧対照
  • スハニ61形→オハニ61形
    1950年 - 1955年に475両が鋼体化改造により製造された3等座席荷物合造車。ただ、ス級ではローカル線での牽引両数確保に問題があるため、1954年に荷物室の荷重変更[注 70]により、全車がオハニ61形に形式変更された。形式変更以降の製造車は当初からオハニ61形。
    この形式のうちの14両(501 - 514) は、北海道向け車として1重窓ながら蓄電池の大型化などの対策を実施の上で製造されたが、1重窓であったことなど耐寒耐雪が徹底されていなかったことが災いし、登場後数年で水戸や秋田などに転属したものが存在した。
> 番号新旧対照
  • スハニ62形
    スハニ61形の北海道向け車で、1952年から1956年の間に45両が鋼体化改造により製造された。
オハニ36 7
> 番号新旧対照
  • オハニ63形→オハニ36・スハニ37形
    優等列車用の三等座席荷物合造車で、三等室はスハ43系に準じた造りである。製造当初は、暫定でTR11を装備しオハニ63形と称していた。1955年から1956年の間に30両が鋼体化改造により製造され、優等列車に充当された[注 71]
    しかしTR11は高速走行時のピッチングが激しく、優等列車用に適さないため[注 72]、1956年から1957年の間に、台車を軽量客車で使用されているTR50系に準じた設計のTR52に交換し、オハニ36形に形式変更された。また、電気暖房装置を取り付けられたオハニ36形は、重量増によりスハニ37形に改形式された。
> オハニ63形番号新旧対照
> オハニ36形番号新旧対照
> スハニ37形番号新旧対照
  • スハニ64形
    オハニ61形の電気暖房取付け改造車。改造による自重増で重量等級が変更されたために、別形式が起こされた。
> 番号新旧対照

郵便・荷物車[編集]

こちらも当初は17m級のままでの鋼体化が計画されていたが、全車20m級として改造されている。

  • オユ60形
    郵政省所有の郵便車で、1950年に2両が鋼体化改造により製作された。1955年に、全車がオユ61形と同構造に改造され、オユ61形に編入された。
> 番号新旧対照
  • オユ61形
    郵政省所有の郵便車で、1952年に2両が鋼体化改造により製作された。1955年にオユ60形改造車が編入された。
> 番号新旧対照
  • スユニ60形
    鋼体化改造により製造された郵便荷物合造車で、1954年から1955年の間に67両が製造された。荷重は、郵便室4t・荷物室6tである。
    20両(212 - 218・301 - 302)は、北海道向け車として製作された。全車が車体強度の点で有利な魚腹台枠を備える車両を種車としている。
    台枠は301 - 302を除き、UF15形を改造したUF219形である。301 - 302は、オハニ25760形から流用した特殊魚腹台枠のUF16形を改造したUF220形である。
> 番号新旧対照
  • スユニ61形
スユニ61 2012
  • 客荷合造車などの改造により製造された郵便荷物合造車で、1965年から1968年間に90両が製造された。荷重は、郵便室5t・荷物室5tである。
    オハニ61から改造された基本番台 (1 - 49) のほか、TR23を装着した100番台(101 - 2120:オハニ61・オハユニ61形改造)、500番台(501 - 516:オハニ61・スハニ62形改造)がある。
    300番台 (301 - 305) は、43系に属するスロフ53形からの改造であるため、鋼体化客車ではない。
> 番号新旧対照
  • マニ36形
マニ36 305
  • 1966年以降、主に元優等車からの改造で237両が製作された荷物車。本系列ではスロ50形から1両 (331) 、スロ60形から11両(302 - 328、欠番あり)が1967年に改造され、台車はTR47からTR23に振り替えられている。303はスエ30 48と振り替えられていた。
> 番号新旧対照
  • マニ37形
マニ37 2014
  • 1967年以降、主に元優等車からの改造で37両が製作されたパレット荷役対応荷物車。他の荷物車との区別のため、車体色は青15号。本系列ではスロ50形から8両(3・4・2005 - 2010)、スロ60形から12両(1・2・2011 - 2020)が改造され、台車はTR47からTR23に振り替えられている。1 - 4は改造当初、出入台が後位1ヶ所のみであった。1 - 4は1974年14系客車への併結改造や出入台の増設を受け、201 - 204となった。
> 番号新旧対照
  • マニ60形
    荷重14トンの荷物車で、565両が製造された。当初から鋼体化改造により全室荷物車として製造されたグループと、1960年以降に鋼体化客荷合造車などから全室荷物室化改造で編入されたグループに大別される。最終的には合造車改造グループの方が多数派となった。
    当初から鋼体化改造により製造されたグループ
    1953年から1955年の間に205両が製造されたもので、狭窓が多用されているのが外観上の特徴である。
    本州向け長形台枠車 (1 - 44) 、青函航送用魚腹台枠車 (201 - 240) 、北海道内用魚腹台枠車 (241 - 245) 、本州向け魚腹台枠車 (301 - 307, 351 - 459) がある。
    スユニ60形同様に魚腹台枠は2種類存在し、301 - 307がUF220形、それ以外がUF219形である。
マニ60 103
  • 合造車改造により編入されたグループ
    1960年から1972年の間に360両が改造されたもので、改造種車の広窓が残っているのが外観上の特徴である。以下のようなものがある。
    オハユニ63形改造車 (2051 - 2090) 、オハユニ64形改造車 (2091 - 2100)
    オハニ61・スハニ62形改造車(2101 - 2200・2501 - 2570・2573 - 2575・2578 - 2585・2587 - 2603・2605 - 2640・2651 - 682・2687・2688・2693 - 2695)
    オハユニ61・スハユニ62形改造車(2571・2572・2576・2577・2586・2604・2641 - 2650・2683 - 2686・2689 - 2692・2696 - 2699・700 - 707)
    スユニ61形改造車 (711 - 713)
> 番号新旧対照
  • マニ61形
マニ61 354
  • マニ60形を急行荷物列車で運用すると、TR11のピッチングの激しさから振動がひどく、荷物によっては荷痛みの原因になった。この問題を解決するため、スハ32、スハフ32形[注 73]と台車振替を行い、振動が若干抑制されるTR23を装着したもので、1964年から1967年の間に41両が改造された。
    従来は上記の説が有力とされたが、昭和30年代後半になってスハ32、スハフ32形が区間列車や支線区での運用が主体になるにあたって、ス級の客車は換算の制約を受けて効率よく運用できなかったために、マニ60と台車交換したというのが真相のようである。
    種車の違いにより、長形台枠車 (1 - 2007) 、客荷合造車改造車 (101) 、北海道運用向け魚腹台枠車 (201 - 212) 、本州向け魚腹台枠車(301 - 303・351 - 2368)がある。
> 番号新旧対照

事業用車[編集]

> 番号新旧対照
  • オヤ60形 (1 - 5)
    職員輸送用の職用車。オハフ61形の改造
> 番号新旧対照
  • オヤ61形 (1, 2, 2021)
    1は門司局の信号機器教習車でオハユニ61形の改造、2は長野局の信号機器教習車でオハフ61形(オハ61形改造)の改造、2021は金沢局のEF81形電気機関車用教習車でスロフ62形の改造
> 番号新旧対照
  • スヤ61形 (2001)
    鉄道労働科学研究所の試験車で、スロフ62形の改造
> 番号新旧対照
  • オヤ62形 (1, 2)
    オハニ61形改造の工事用宿泊車
> 番号新旧対照
  • オヤ90形 (1, 2)
    東北上越新幹線用車両の検討用として改造された雪害対策試験車。1はオハ62、2はオハフ60の改造
> 番号新旧対照
> 番号新旧対照
  • オエ36形 (1 - 3)
    オハニ36形改造の救援車
> 番号新旧対照
  • オエ61 (1 - 39, 41 - 101, 308, 601)
オエ61 67(豊富駅前に保存) オエ61 309
オエ61 67(豊富駅前に保存)
オエ61 309
  • 救援車で、種車はオハフ61、オハユ61、オハニ61、スハニ62、オハユニ61、スユニ61、マニ60、マニ61、オル60、マニ36(スロ60形改造)、マニ37(スロ60形改造)の各形式
> 番号新旧対照
  • 939-202
    新幹線用の工事用宿泊車で、1983年にスロ62から改造。JR東海に引き継がれ1994年に廃車。
> 番号新旧対照

気動車への改造車[編集]

本系列を種車に、床下にエンジンを搭載して気動車(一部は気動付随車)化する改造が少数行われた。

保存車[編集]

本系列では、2両のオハニ36形が動態保存されているほか、各地で静態保存されたり、店舗や倉庫等に利用されたりしているものがある。

動態保存[編集]

動態保存されているオハニ36 11(高崎駅にて)

2011年にC61 20復活にあわせて再整備工事が実施され、同センターに所属する他の旧型客車とともに乗降ドアに鎖錠装置の設置が行われ[3]同時に側面に表示灯が設置された。更に同車の尾灯をLED方式に変更した。

静態保存[編集]

60系客車静態保存車一覧
画像 番号 所在地 備考
オエ61 67 北海道天塩郡豊富町豊富西3条7丁目
豊富駅
JNR O HA 62 91.JPG
(2009年8月8日)
オハ62 91 北海道紋別郡湧別町計呂地2620
計呂地交通公園
(旧計呂地駅跡)
C58 139およびスハ45 17と連結され、夏期には簡易宿泊施設として営業する。以前は左写真のように青色に塗装されていたが現在ではぶどう色に塗り直されている。
Caboose and PC at Kamisunagawa Station.jpg スユニ60 218 北海道空知郡上砂川町中央北1条1丁目
上砂川駅跡(悲別駅)
オハフ61 2527 宮城県柴田郡柴田町船岡中央1丁目
船岡駅前緑地
ED71 37と連結されている。
Atsushio Station - DSCN1200.jpg オハフ61 2752 福島県喜多方市熱塩加納町熱塩
日中線記念館
(旧日中線熱塩駅跡)
オハユニ61 107 群馬県安中市松井田町横川
碓氷峠鉄道文化むら
Oha61-930-2018-1-1.jpg オハ61 930 奈良県天理市田井庄町
田井庄池公園
D51 691と連結されている。
マニ60 2387 広島県廿日市市大野387-3
ちゅーピーパーク
敷地内で倉庫として利用
JNR oha611030.jpg オハ61 1030 福岡県北九州市小倉北区金田3丁目1-1
九州旅客鉄道小倉総合車両センター
D51 542と並べられている。当初は塗色を変更し記念資料館として使用されていたが、現在はぶどう色に戻され車内は公開されていない。台車以外の床下機器は撤去されている。
保存後に解体された車両
オハ62 95 北海道釧路市阿寒町
炭鉱と鉄道館
2007年10月解体
オハ62 94 北海道河東郡上士幌町上士幌町鉄道記念館
(旧士幌線上士幌駅
2010年6月頃解体
オエ61 80 北海道旭川市 解体時期不明
オエ61 71
オエ61 59
北海道深川市 解体業者で保管されていたが、2009年頃解体された。
オハフ61 3055 福島県郡山市
JR東日本郡山総合車両センター
2002年解体
JNR Ohafu612542 Takasaki Voiture.jpg オハフ61 2542 群馬県高崎市 高崎駅前に設置され当初は喫茶「ヴォワチュール」、のちに「ジパング倶楽部高崎」として使用された。
オヤ62 11
オヤ62 12
三重県松阪市大津町
レジャー施設ポッポーパルコ
カラオケハウスとして使用された。2004年3月解体。
スロ81 2122 兵庫県加古川市
健康ひろば加古川
敷地内でサシ581とともにレストラン(すし屋→お好み焼き屋)として利用される(2008年解体)
オハ61 1549
オハ61 1570
愛媛県喜多郡五十崎町
吉田ホテルWHEEL
2007年5月解体

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ この事故の約1年半後、鋼体化開始直前の1948年(昭和23年)10月の段階でさえ木造客車は総数11,323両のうち、5,924両を占めていた。
  2. ^ 鉄道国有化前に設計・製造された、官鉄日本鉄道山陽鉄道関西鉄道などから継承された種々雑多な客車群を指す(鉄道国有化後製造であっても、車両標準化以前の旧式構造を継続して1911年頃まで製造された客車も含む)。1910年以降製造の、鉄道院/鉄道省/国鉄制式形式の旧型客車を指して『雑形客車』と呼ぶのは誤り。
  3. ^ 当時の客車は優等列車には常に最新の形式が使用され、普通列車には後継車両の増備や置き換えで捻出した中堅車や経年車が充当されていた。
  4. ^ 50系電車62系電車1934年(昭和9年) - 1944年(昭和19年)改造。
  5. ^ オハ31980・オハフ34180形およびスイテ37050形の計5両。1939(昭和9)・1940年(昭和15年)改造。
  6. ^ 当時、鋼体化改造車の計画に携わった星晃によれば、「鋼体化」という新しい用語を発案したのは、当時の国鉄車両局の次長であった井澤克己であったという。星が1952年(昭和27年)に雑誌記事「鋼体化客車60シリーズ」(鉄道ピクトリアルNo13 1952年8月)で著述したところでは、新語「鋼体化」は1949年(昭和24年)4月4日の車両局での客車鋼製化工事打ち合わせ会議の席上で、在来車補修に関する用語「更新修繕」と共に新たに示された用語であった。井澤本人も、同年の「交通技術」1949年11月号(p15-17)に国鉄木造客車の老朽化対策を訴える自身の署名記事「客車鋼体(體)化」を寄稿している。「鋼体化改造」という用語は、以後、国鉄・私鉄を問わず、木造車の車体を鋼鉄製に改造することを指して一般的に使われる用語となった。
  7. ^ 種車に想定された17m級木造大型客車は、1949年の鋼体化計画当初時点で3,291両(井澤文献では3,292両)に及び、また後述の切り接ぎ補充資材に転用される鉄道院基本型客車は822両が想定された(井澤(1949)および宮島三郎「木製客車鋼体化と客車事情」『国鉄線』1952年7月号 p6-7)。国鉄旅客車両でそれ以前に車体鋼製化改造を行った最多例である前述の50系電車でも、改造数は9年間で延べ400両に満たない。
  8. ^ 当時の総武・房総地区路線は、都心に発着する路線でも特に老朽度合いの酷い木造車が多い路線であり、それらのターミナルであった両国駅は、進駐軍側担当者への「警鐘」にもっとも相応しい案内先であった。
  9. ^ 千葉県在住の鉄道愛好家白土貞夫による「千葉鉄道管理局における天然ガスカーの盛衰」(『鉄道ピクトリアル』177号 1965年11月 p27)の記述によると、1949年3月当時、総武・房総各線を走る客車340両のうち83%の282両がナハ22000形などの木造車で、「雨漏がして久留里線の車中で傘をさしたという乗客の声がNHKラジオの電波に乗るような最悪な状態」であったという。
  10. ^ 1949年当時、車両新製許可はドッジ・ラインなどの経済抑制施策下での制約が引き続き厳しかったが、老朽車を放置したために更なる重大事故が発生すれば、CTSも安全上の監督責任を問われかねないリスクがあり、国鉄はそこを突いて鋼体化改造の許可を勝ち取ったのである。
  11. ^ 部材の大幅流用や、国鉄工場の余剰労働力の活用などで、完全新造車の55%前後の費用に抑えられたと言われる。井澤(1949)による計画時の試算では当時で新造車の54%と見積もられていた。なお、井澤は同じ文中で、木造車の修繕費が鋼製車より3割以上高く、メンテナンスコストの面でも木造車の使用が不経済であることを指摘している。
  12. ^ 流用される台車などの事情から、種車が一等あるいは二等車であっても無関係に、原則的に三等車あるいは荷物車・三等荷物合造車などとして鋼体化された。
  13. ^ ナロネ20100形、ナイロ20500形、ナロ20600形・20850形、ナロハ21300形、ナハ22000形、ナハフ24000形などの一般に22000系(同時期製作の20 m級3軸ボギー車との区分上、大形2AB車とも呼称された)と呼ばれる17 m級2軸ボギー車が種車とされた。
  14. ^ なお鉄道院→鉄道省では大型車の22000系量産に先立ち、1917年大正6年)から車体は中型客車規格のまま、先行して大型車向けのUF12台枠とTR11台車を採用した過渡的なグループの客車を1920年(大正9年)まで製造しており、これらも鋼体化の種車となっている。(瀬古龍雄(新潟県農業試験場職員)「木製客車通観(6)」鉄道ピクトリアル1956年1月号 p23)
  15. ^ ホロハ18230形・18260形、オハ18000形・18430形、スハ18500形、ナロハ11300形・11600形、ナハ10000形、ホハ12000形・13000形などが種車とされた。大型客車との対比で「中型客車」とも呼ばれる。
  16. ^ 補強のトラスバーを撤去し、台枠本体は中途で切断した。
  17. ^ 木造客車は鋼製車に比べて車端オーバーハングが小さく、そのまま台枠を延長すると新製鋼製車より台車間ホイールベースが伸びてしまい、車両限界抵触の問題が生じるため。
  18. ^ 改造後の形式はUF120(一般型)およびUF127(緩急車用)など。
  19. ^ 雑型客車は、台枠・台車ともどもこれらの標準型客車の規格に合致しないことから、鋼体化の種車に充当することができなかった。このため、廃車解体または私鉄払い下げ対象となった。
  20. ^ リベットや溶接で接合してあるが、位置や接合法は必ずしも統一されていない。
  21. ^ 特に、初期に改造されたオハ60 1 - 16では、書類上で指定された基本系客車の台枠は老朽化により使い物にならず、やむなく戦災焼失車から部材を流用したりなどしたという。
  22. ^ 瀬古龍雄「木製客車通観(終)」(鉄道ピクトリアル1956年9月号 p40)によれば、1956年(昭和31年)1月、国鉄長野工場吉田分工場に鋼体化目的で入場した静岡鉄道管理局所属のナエ17127を瀬古が実見したところ、該車は車体上屋こそ大型木造客車の規格だが、中形客車用のUF11台枠・TR10系短軸台車付で鋼体化種車に使えなかった。同車は日本車輛1914年(大正3年)製の中形客車が関東大震災で車体焼失、1924年(大正13年)に鷹取工場で大形車体に復旧したもので、鋼体化が決まり工場入場してみるまで問題に誰も気付かなかった。既にオハフ61 774への鋼体化改造が決まっていたが、誤送した静岡局には適当な代車の大形木造車がなく、長野工場は手当てに追われた挙句、新潟地区から配給車オル27703を回して鋼体化種車としたが、今度は新潟で使う配給車が足りなくなるという車両不足が発生した。当時の現場の混乱と車輛需給逼迫がうかがえる。
  23. ^ 17 m魚腹台枠車は木造客車末期製造の車齢が新しいグループで、1952年(昭和27年)時点の星晃の記述ではこれらのみ全長17 mのまま鋼製化することも考えられていた模様であるが、結局は20 m延長工事が実施された。
  24. ^ 「交通技術」誌増刊第94号(財団法人交通協力会 1954年6月)における特集「鉄道技術の進展 1953」p11で国鉄車両について岩崎清ほかの国鉄関係者が記述した車両項目によれば、昭和28年度にマニ60形の一部の種車として初めて魚腹台枠木造車が使われた。これは台枠構造上(長形台枠車と違って、鋼製車標準の)床下吊り下げ式水タンクを装備できず、鋼体化が後回しにされていたものが、用途から容量の少ない屋根(天井裏)式水タンク採用が可能な鋼体化荷物車の製造開始によって種車に充当できるようになった事情があったという。
  25. ^ 保有する設備類の制約から、有り合わせの工具を使って台枠を組み直した工場もあれば、台枠専用の治具をあつらえて作業効率を上げた工場もあった。また種車自体様々な車両を用いざるを得ず、流用部品の制約によって設計図どおりの加工が困難なことから、現場での臨機応変な現物加工で細部の帳尻を合わせて(現物合わせで)、全体を基本寸法に揃えた事例も多々あったという。
  26. ^ 治具を用いた効率的な台枠改造工程の実態の一例として、国鉄高砂工場での鋼体化改造工事の記録映画「生れかわる客車」(1953年・内外映画)がある(題材となったのはオハ61379)。映画内では、クレーンで種車となる木造客車の車体部分が台枠から丸ごと引き上げられる様子も撮影されているが、このときうまく慎重に釣り上げれば木造車体はそのまま崩れずに原形を留めるため、枕木などを土台に工場内に据え置かれ、詰所や売店に転用された事例もあったという。もっとも極端な例として、昭和20年代後期の旭川電気軌道では、火災焼失した自社木造小形電車3両分の台枠を接合し、その上に国鉄の鋼体化改造で捻出された木造客車の車体を乗せ、付随客車として運用していた事例がある。
  27. ^ 1925年(大正14年)の自動連結器化以前。
  28. ^ 多くは、穴を塞ぐ形で丸い鋼板を溶接してあった。
  29. ^ 心皿荷重の制約や側受位置の相違などから中形以前のTR10など雑多な台車は使用されず、流用品は原則的に大形標準客車用の省制式・長軸台車であるTR11で統一された。なお車種や改造時期により、枕ばね・軸ばねの枚数・本数を変更することで、スプリングレートの調整が適宜行われている。またこの際に流用されなかった中形客車用のTR10形台車が、後期型グループの大正3年基本型を主として相当数私鉄に払い下げられ、私鉄が保有した明治時代の木造ボギー客車や、電車付随車の台車履き替えに利用されている。
  30. ^ 省制式の柴田式だけではなく、1925年(大正14年)の連結器交換時に輸入されたシャロン式やアライアンス式などの海外メーカー製品も混在した。自動連結器相互は互換規格であるため実用には問題ない。60系に属する客車の形式図で、車体長が同一であるにもかかわらず連結面長が2通り(ア・シの添字付きで)記載されているのはこのため。
  31. ^ 鉄道省制式のA弁を用いたAVブレーキ装置。但しこれはAVブレーキが標準化された1929年(昭和4年)以降の改造工事時に換装されたものであり、ほとんどの木造車は、新造時にはPF・PMブレーキ装置、それより更に以前のものでは真空ブレーキを装備していた。
  32. ^ 昭和時代に入ってからの20 m鋼製客車で標準装備された低圧式蒸気暖房装置に対し、それ以前の木造車で使われていた高圧式蒸気暖房装置は、温度向上は早いが熱効率が低く、圧力の高さで安全性に劣り、また長大編成内では機関車に近い車両と遠い車両とで暖房の効きが大差になる問題があった。以上は、坂上茂樹・原田鋼 『機関車ボイラにおける負荷の一要素としての蒸気暖房 : 列車蒸気暖房の端緒から連合軍専用列車の時代まで』(大阪市立大学経済学研究科“Discussion Paper”No.88, 2015年4月1日)pp15-16ほかによる。
  33. ^ 流用品の枠や金具は、明治や大正といった製造時期の流行を反映して装飾的な曲線を有する古風な形態で、鋼体化に際して不足分が製造された簡素な形状の新製部品とは容易に見分けることができた。映画「生れかわる客車」では、種車となる木造客車の老朽化した車内も撮影されているが、荷棚や座席土台に鋼体化客車と同形の金具が用いられているのが見受けられる。
  34. ^ その内張り用ベニヤ板も、標準の12 mm 厚から10 mm 厚にグレードを落としてあった。
  35. ^ 北海道向け車は、通常は鎧戸が収まる窓上の天袋部分を、耐寒用の二重窓の内窓スペースに充てねばならず、日よけには別に巻き上げカーテンが必要であった。
  36. ^ 鋼体化客車増備中に、国鉄(現JR東海)名古屋工場の木工場で砥石を用いて薄鋼板にて鎧戸羽板の加工を低コストに行う手法が考案され、以後鋼体化客車の窓用鎧戸はプレス鋼板化され名古屋工場で集中生産されている。
  37. ^ オハ35等と同じ幅1 mの広幅にすると目立ちやすく、CTSから「新製車であろう」と余計なクレームをつけられる可能性があったため。また、北海道向け客車の二重窓仕様の場合は、小形の方が開閉しやすい。この2形式の窓框高さ・窓の上下寸法は木造車由来のオハ31系の寸法(下端床面より870mm・高さ660mm)とは全く異なり、オハ35系と同じ下端800mm・高さ740mmである。
  38. ^ 戦前の南海鉄道や、昭和30年頃の近畿日本鉄道などで、簡易な木造車鋼体化工事が実施された際にその種の措置が採られた。この手のやり口は安上がりだが、車体サイズや構造面では、得てして木造車の原設計に引きずられた構造になりがちで、車両体質の改善では中途半端な結果しか得られない。
  39. ^ これでも延長分の端数調整の結果、オハ31系までの1,300mmからは若干拡大している。
  40. ^ 国鉄のほとんどの線区で蒸気機関車牽引が当たり前であった時代、長距離乗客には顔や手のスス汚れを洗い落とす設備提供が必要であった。主要ホーム上にも一度に大人数が利用できる洗面台が設置されていた。
  41. ^ が制式台車として量産されていた時期には、既に20 m 級車体を備えた客車が製造されていたが、それらは例外なくTR71などの3軸ボギー式台車を装着して竣工している。
  42. ^ 戦前の木造車時代にも95 km/h に達する高速運転が行われていたが、この際は特に乗り心地が問題になることは無かった。
  43. ^ 形台車の国鉄鋼体化客車転用時、通常のオーバーホールは実施されたが、台車枠全体と軸箱守まわりについて元来不足気味の剛性を高めるような体質改善措置は施されていない(同時期、電車用にTR10・11・14といった鉄道省式イコライザー台車を払下げ大量導入した西武鉄道では、これらの台車に単なるオーバーホールに留まらない大幅な補強を加えて延命させている)。
  44. ^ 修学旅行用等の団体列車では、一般型客車より座席定員が多く収容力に勝ることから、国鉄・旅行会社側からは運用上好まれてすらいた、という。
  45. ^ 最も遅い例では、1985年(昭和60年)1月初旬、予讃本線の臨時客車急行列車「いよ52号」(伊予西条高松行)に、鋼体化客車のオハフ61形1両が連結されていた、という、時代離れした運用記録例があり、この写真も残されている(『鉄道ピクトリアル』768号(2005年11月号)3頁、記録は55頁。)。DE10形ディーゼル機関車でオハフ61を含む旧形客車3両を牽引するという、ローカル線の普通列車としても最低グレードの陣容で、主要幹線で1985年(昭和60年)に運行された臨時急行列車とはにわかに信じがたい事象であった。もっとも当時の四国では客車急行列車自体、最繁忙期である年末年始の数日間のみの運転となっており、「いよ52号」は普通列車の間合い運用で機関車・客車を用立てて運転されたものであった。編成も固定されていなかったため、オハフ61が入った編成がたまたま運用されたものである。
  46. ^ とりあえずは暫定で種車のTR11をそのまま履かせて出場したが当初よりTR23系への振替を予定していた。最終的にTR23ではなくTR52への交換となったが、乗り心地の優れる台車への交換までの間に合わせの措置であることは変わらない。
  47. ^ 1948年(昭和23年)10月の段階で組み込み先となる大形客車が3,298両あったのに対し、基本・中形客車は1,720両あり、大形客車を全車改造しても半数以上が余剰となった。
  48. ^ 1948年(昭和23年)10月の段階で3軸ボギー式が97両、2軸ボギー式が528両、と第一線を退いたとは言え未だ多数が残存していた。
  49. ^ 事故車は1925年製木造車で戦時中に客室車端部座席を撤去して床面積を広げてあり、車内側板に立ち客の圧力を直に受ける状態であった。成田線から直通の千葉方面行き上り列車で運行中、佐倉駅到着前から客の圧力で腐朽部の破損が広がり出し、事故車が列車から外された四街道駅到着時点で、車体隅柱の開きが180mm、長土台部分破損長さ2メートルに達した。事故車は事故翌月の7月に鋼体化予定で、老朽化進行した木造車体の修繕がおろそかになっていた(I生「客車の盲点」『交通技術』1951年7月号 p28-29による)
  50. ^ これによる緊急修繕車は454両、緊急廃車は258両に及んだ。(『交通年鑑 昭和27年度』財団法人交通協力会 1952年 p151、および前出の宮島「木製客車鋼体化と客車事情」による)
  51. ^ この事態は小荷物輸送量が激増する年末輸送にも影響を与えた。国鉄は1951年の年末輸送で車両不足に窮し、代用荷物車としてボギー式のワキ級高速有蓋車143両と、さらに高速走行できない一般型のワム級有蓋車50両までも動員する緊急措置を講じて切り抜けている。(土井厚「年末の荷物輸送」『国鉄線』1953年12月号 p3)
  52. ^ 新規参入するメーカーが現れた理由としては、改造種車の数が膨大で、国鉄工場や大手民間メーカーのみでは手が足りなくなったためで、専ら貨車を主力製品とするメーカーや、他業種から鉄道車両製造に参入した民間メーカーまでもが製造に携わっている。
  53. ^ 窓幅が700 mmであることから木造車の窓枠を流用したとの説があるが、開閉方向の相違(木造車:下降窓、鋼体化客車:上昇窓)により全て新製している事から誤り。
  54. ^ 戦前まで客車は、車両本体の管理は工作局(現業は検車区)、尾灯・扇風機などの電装品の管理は電気局(現業は車電区)が管理し、尾灯については車両運用とは別に尾灯用の運用が存在し、車電区職員が着脱をおこなっていた。1954年、組織改正により現業部門が客車区・客貨車区に統合されたのを機に、車両管理の簡素化を狙って尾灯の車体一体化が実現することになった。
  55. ^ 定員超過状態での詰め込み乗車が常態であったため、心皿荷重上限の小さいTR11では荷重に耐えられないと判断され交換されたと見られている。
  56. ^ 日本の鉄道車両におけるリクライニングシートは、戦後GHQの指示で開発が始まった。
  57. ^ スロ60運用開始後約1年後の国鉄関係者による座談会で「窓枠のペンキが投入後1年で剥げている」という指摘に対し、参加者の星晃は「設計を始めてから4カ月余り」「最初の1両は実際仕事(工事)を始めてから3カ月」で急造せねばならなかった事情を吐露している(『国鉄線』1951年9月合併号 p22)。
  58. ^ ただし、冷房化は最終的に実現しなかった。冷風ダクトなどは近代化改造工事の際に撤去されている。
  59. ^ 転換クロスシートもしくは固定クロスシート装備車。「並ロ」と呼ばれた。
  60. ^ この時代、特別二等相当なリクライニングシート車の標準座席間隔は1,160mmにほぼ定まっていた。1950年代前半の「特ロ」各車増備過程において、座席間隔設定を試行錯誤した経験でスロ53形において見極められた数値で、以後60年以上に渡って、国鉄・JR各社の新幹線電車を含む優等車両用リクライニングシート車の多数で踏襲されている。
  61. ^ 鋼板プレス溶接組立構造・ペデスタル軸バネ式軽量台車。
  62. ^ これら2形式より軽量かつ新しい一等客車としては、ナロ10形(オロ11形)が当時存在した。しかしそれらは国鉄最大の幹線である東海道・山陽本線系統の急行に1975年の全車廃車まで集中投入されており、上野発着急行に充当する余剰車は存在しなかった。
  63. ^ 登場の背景には、急行・準急の二等車の特ロ化と、北陸及び東北地方の電化進展による電気暖房の客車への取り付けがある。ナロ10以前に登場した各形式(スロ60・50~54)のリクライニングシートは偏心回転機構を備えており、それゆえ当初は電気暖房の設置が困難と見られていた。設置方法の見直しによりオロ61ではナロ10と同等の偏心回転なしの座席を用い、できた回転部の余裕部分に電気暖房器を設置しているが、既存各形式の座席をこれに取り替えた上で電気暖房化しても、金額的にオロ61の格上げ改造と大差ない金額と見積もられていたことも当形式の増備を多くした。
  64. ^ 格上げ改造当初に(乗り心地改善も兼ねて)軽量台車に取り替えているため、スロ54の冷房改造のときのような元より軽い台車への交換で重量増分を帳消しにする手法が採れなかった。
  65. ^ 和式客車による長編成運転は1969年の35系客車改造オハ80・オハフ80形で既に行われていた。
  66. ^ 前述、1951年6月の総武本線四街道駅での木造車破損事故に伴う対策。
  67. ^ 全室式の鋼体化郵便車が4両しか改造されず、オハユニ61が大量に製造された背景は、当時郵便車が郵政省所有だったためといわれている。台枠を延長する際は、他車からの部材を切り継いで改造していたが、郵政省の財産に国鉄所有の部材を取り付けられず、区別のための管理や作業に手間がかかるためだった。
  68. ^ 五能線用の車両は、混合列車の運用のために独立式温風暖房機を装備しており、107の床下にはこれが現在も残されている。
  69. ^ 同車は全般検査の周期が切れるまで余裕があったことと、都城区でハユニが不足していたため、同車の転属が成立した。
  70. ^ から4tに削減。ただし車体は無改造で、運用上の取り扱い変更にとどまる。
  71. ^ アコモデーションが在来車に比して改良された43系客車は、1950年代、急速に各地の優等列車に投入されたが、特急用以外の座席荷物合造車の新製投入がなかったため、その代替として鋼体化車の本形式が充当された。当初予定では手配でき次第国鉄工場にてTR23台車に振替する予定であったため、あらかじめそれに合わせたブレーキ連結棒取り付け穴も開けられていた(『鉄道ピクトリアル』No.700 2001年5月号 p29)
  72. ^ 国鉄社員の匿名筆者による当時のレポート記事・TY生『誌上案内 急行列車の巻(8)』(『鉄道ピクトリアル』No.67 1957年2月号 p16-17)では、当時俊足で知られた上越線急行『越路』の編成紹介で「殿りをつとめるオハニ63はなかなかケッ作で、室内装飾はスハ43並みでスハニ35などより良いが、足廻りはTR11でゲン滅どころか果してこれで90キロも出るのか一寸心配になる」とまで書かれた。
  73. ^ 本改造により台車を振り替えられたスハ32形はオハ56形、スハフ32形はオハフ35形に改形式された。

出典[編集]

  1. ^ 土井厚「ディーゼル・カー増発について」『国鉄線』1953年11月号 p17による
  2. ^ 岡田誠一「鋼体化客車 車両の歩み 前編」『鉄道ピクトリアル』700号(2001年5月)p22-23。
  3. ^ 『鉄道ジャーナル』通巻537号 p116

参考文献[編集]

  • 鉄道ピクトリアル アーカイブス セレクション 10 国鉄客車開発記 1950』(電気車研究会、2006年)
星 晃「生まれ変わる国鉄の三等車」(初出:『鉄道ピクトリアル』1951年8月号 No.2) P.34 - P.37
星 晃「鋼体化客車60シリーズ」(初出:『鉄道ピクトリアル』1952年8月号 No.13) P.40 - P.43
星 晃「とくろものがたり」(初出:『鉄道ピクトリアル』1952年10、11月号 No.15、16) P.44 - P.53
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2001年5、6月号 No.700、702 特集:60系鋼体化客車 I、II
  • 『荷物車・郵便車の世界 昭和50年代のマニ・オユの記録』(クリエイティブ・モア、2004年)
  • 車両史編さん会 国鉄鋼製客車史 第3編下巻 スハ32形の一族(スハ32800)

関連項目[編集]